2008年04月27日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(19)

 ●「右翼論」その1/右翼がまもるべきは国体の永遠性 
 右翼といっても、日本と欧米では、根本思想が異なる。
 ヨーロッパの右翼がもとめるのは、現実世界にある政治権力である。
 一方、日本の右翼は、悠久の歴史という時間の経過が刻みこまれている国体の護持を使命とする。
 国体は、天壌無窮の神勅(日本書紀)にもとづいて「神の御子孫たる皇孫が、天地の果てることの無きが如く、統べ治め給う永遠の国土」のことで、政治や政体は、国体の上にのっている一過性の権力機構にすぎない。
 永遠の国土、というのは、易姓革命によって、存亡流転してきた中華王朝にたいする反対概念で、聖徳太子が、隋の皇帝に送った親書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と、万世一系の皇統を太陽にたとえた故事からもわかるとおり、このことばは、日本の国体が永久不変であることをあらわしている。
 国体の永遠性は、神道から生じたもので、論拠を立てて、言挙げすべきことではない。
 どんな民族も、神話をもっており、その神話は、何ものにもかえがたいので、日本の右翼は、身をもって、国体をまもってきたのである。
 特攻隊の遺書に、国体のすがたをいいあてたものがあるので、紹介したい。

 生を享けて、二三年、私には私だけの考え方もありましたが、それは、もう無駄ですから、申しません。特に善良な大多数の国民を欺瞞した政治家たちだけは、今も心にくいような気がします。しかし私は、国体を信じ、愛し、美しいと思うがゆえに、政治家や統帥の輔弼者たちの命を奉じます。
 実に日本の国体は美しいものです。
 古典そのものよりも、神代の有無よりも、私は、それを信じてきた祖先達の純心そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。
 国体とは祖先達の一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国の最善至高なるものが、皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。(後略)
名をも身をも さらに惜しまず もののふは 守り果さむ 大和島根を

 国学院大学の学徒動員で、階級は予備少尉。山口輝夫という二三歳のこの特攻隊員が命を捨てて、まもろうとしたのは、日本の国体であって、東条内閣でも、所属する海軍でもなかった。
 日本の右翼が、政権奪取をめざさず、国体の護持だけに使命感をもちつづけてきたのは、政治権力によって国の根幹をかえてきたユーラシアの国々とは異なり、日本の国柄が、国体という神話や歴史、文化、習俗という永遠の基盤にあって、権力は、一過性の政治機構にすぎなかったからだった。
 国体という観念のない欧米では、右翼という呼称は、ファシスト政党など、政体内の反民主主義グループをさすことが多い。政体内の勢力である以上、政権奪取をめざし、当然、選挙にも出馬する。
 ヒトラーのナチス党も、ワイマール憲政下の民主選挙で、第一党に躍り出て、政権をとった。欧米の右翼は、ナチズムの流れをくむ超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)や民族の優位性を叫ぶ民族主義的な政党活動であって、もとめるのは、あくまでも、政治権力である。
 ヨーロッパで、国体の観念が育たなかったのは、国家がイコール境界線で、古代の神々が、キリスト教に滅ぼされたからである。
 境界線をもたない島国で、太陽を絶対存在(太陽神ではない)とする神道という雄大な宗教観のもとで、異文化・異教を呑みこんできた日本では、力の論理による抗争や政治ではなく、和を土台にした国体運動によって、国が治まってきた。
 これは、日本独自の文化体系で、祖先は、この国体をまもるため、命を投げだしてきた。
 日本の右翼が、街宣と称して、宣伝カーで軍歌を流し、日の丸を振り、政策を訴えるのは、本来、筋がちがう。選挙に出て、議席を確保するという使命がない以上、右翼の活動は、政治活動ではなく、国体運動でなければならないからである。
 国体運動というのは、文化・伝統防衛で、畢竟、天皇をまもることである。
 かつて、火焔瓶闘争をおこない、トラック部隊(資金調達)を組識して、暴力革命を志向した共産党が第六回全国協議会(六全協)の後、議会内革命へ路線変更して「天皇制反対」のスローガンを捨てた。
 日本共産党は、革命という国体変更を諦めて、政権奪取へむかったのである。
 日本の右翼も、政権を狙うのなら、日本共産党と同様、路線変更して、ヨーロッパ型の右翼へモデル・チェンジをしなければならないが、そのとき、右翼の存在価値はなくなる。
 日本の右翼は、権力志向をもたないことで、国体の守護者たりえている。
 権力を志向すれば、権謀術数や利害、損得などの一過性の世界にまきこまれて、俗化される。この現実主義によって、右翼の存在価値がなくなってしまうのは、恐怖というインパクトが消えるからである。
 右翼の恐怖は「歴史からの報復」という側面をもっている。
 この国をつくり、まもってきたのは、いま生きている人間ではない。過去に、多くの人々が流した血の上に国体が築かれている。その国体を、現在を生きているにすぎない者たちが、じぶんたちの都合や理屈によって危うくしたとき、歴史から報復をうけるのは、当然である。
 歴史に消えていった死者は、何もできない。
 だが、右翼は、過去の人々の意思を継いで、現在を生きる国体の守護者である。
 だから、権力者や国体破壊者は、右翼がこわいのである。
 現在という一過性を生きているにすぎない人間が、じぶんの信条にしたがって、歴史や伝統、文化を破壊し、死者たちの魂をふみにじって恥じないのは、この国から、国体をまもるという右翼思想が、根こそぎ、消えてしまったからである。
 万世一系という2000年の伝統を破壊しようとした有識者会議のロボット学者が「歴史や伝統などは勘案に値しない」と言い放った。その六十年前、「万世一系の美しい国体をまもるため」といって、三千人に近い若者が、特攻機にのりこんで散華したことを思うと、ゆるされるべきことばではない。
 国体は、政治や権力、利害や打算どころか、現実からも切り離されて、過去から現在へつながる線上にただよっている。蒙古軍とたたかった武者も、203高地で戦死した兵も、特攻隊も、すべて、この国体のために、散っていった。
 国体は永遠なので、一過性の政治や法どころか、生死までをのりこえる。
 かつて、右翼がこわかったのは、国に殉じた愛国者の代理人という立場に立ったからで、かれらのなかで、燃えたぎっていたのは、ことばや理屈ではなく、情であり、祈りであった。
 情も祈りも、死を超越しているので、生にしがみついている者たちは、かれらの言動に震えあがったのである。
 その右翼が、政治論争や政権奪取に目の色をかえたら、国体を忘れたただの政治屋にすぎないものになり、こわいどころか、滑稽である。
 右翼のこわさは、生死をのりこえた思想を、身をもって体現させるところにある。
 本物の右翼にとって、テロリズムは、タブーではない。
 といっても、このテロリズムは、政争による暴力とは、まったくの別物である。
 政争によるテロは、気狂いに刃物であって、戦前の三月事件や十月事件、永田鉄山を斬殺した相沢事件は、議会を無力化して、軍の独走をまねいた愚行で、あれがなかったら、日本の戦争は、まったく、ちがったかたちになっていたであろう。
 右翼は、徹頭徹尾、国体守護の立場に立つ。
 かつて、大東塾という右翼団体は、景山正治塾頭以下、十四名が、天皇陛下に敗戦を詫びて、集団で、割腹自殺をとげた。自死をもって、国体の守護神にならんとしたのである。
 右翼は、天皇に還るほかない。天皇の防人となる。天皇の権威をまもることが、国体護持の王道であることを自覚するほかに、右翼は、右翼たりえない。
 右翼論について、次回は、極右と極左、戦後右翼と順を追ってにのべてゆきたい。

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2008年04月21日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(18)

 ●楠木正成と西郷隆盛がめざしたもの
 右翼という名称は、フランス革命時、議長席の右方に、王政派やファシスト党が席を占めたことに由来する。
 革命派や改革派が左翼とよばれるのも同様で、議席が、議長席の左方に位置していたからである。
 ヨーロッパの場合、イデオロギーによって、右と左が分かたれる。
 だが、日本では、事情が異なる。左が社会主義やマルクス主義でも、右は、かならずしも、イデオロギーに縛られているわけではないからである。
 戦前や戦中、右翼といえば、国家主義のことで、その国家主義にも、北一輝や大川周明の国家社会主義から、頭山満が率いる玄洋社などの大アジア主義、それに、国粋主義という三つの流れがあり、それぞれ、別個に活動をおこなっていた。
 なかでも、異色だったのが、天皇を戴いた革命運動の国家社会主義で、イデオロギーとしては、右翼より、むしろ、左翼に近かった。
 国家社会主義は、2・26事件で壊滅するが、東条英機の「統制経済」や「国家総動員法」も、一種の官僚社会主義で、戦後、この全体主義が、そっくり、ひきつがれて、現在の永田町・霞ヶ関体制になったことに、多くのひとは、気がついていない。
 頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの大アジア主義は、孫文らとむすんで、アジア解放という大戦略を立てた。だが、政府の協力がえられず、結局、これも、途中で挫折を余儀なくされた。
 残ったのが、国粋主義で、これが、現在の右翼へ、細い糸で、つながっている。
 国粋主義にたいして、マスコミは、「狂信的」という形容詞をつけたがるが、国の歴史や文化、習俗、伝統を保守しようとする考えは、本来、自然にして、常識的なもので、どこの国も、国家の中心に"国粋"というスピリットをすえている。
 孝明天皇は、国粋主義者であらせられ、尊皇攘夷も、もとをただせば、国粋主義である。
 幕末から明治維新にかけての闘争は、佐幕と勤皇、開国と攘夷、公武合体と倒幕、文明開化と士族の反抗と、すべて、国粋主義をめぐって生じたといってよいが、結局、勝ったのは、開明派だった。
 西洋文明の移植という方法で、近代化をめざした明治政府にとって、国粋主義は、国策を妨害する邪魔者で、是が非でも、取り除かなければならない目の上のコブだった。
 だが、国粋主義がめざすところは、「歴史の連続性」にあり、この国粋主義が排除されると、歴史が断絶して、やがて、国家は、求心力を失って、ばらばらになる。
 日本は、戦後、アメリカ民主主義とソ連のマルクス主義をうけいれて、事実上の文化的植民地となった。明治維新につづき、ふたたび、歴史の断絶をおこなったわけだが、その結果、日本は、国家中枢を官僚と反日勢力が握る、外国のような国になってしまった。
 皇室典範を改悪しようという有識者会議の議長が、伝統や歴史などカンケーないと言い放って、どこからも批判が出ないような国が、はたして、本来の日本のすがたといえるであろうか。
 さて。歴史上、「歴史の連続性」という思想に殉じた大人物が、二人、いる。
 楠木正成と西郷隆盛である。
 この二人には、いくつか、共通点がある。
 一つは、二人が旗印に掲げた銘に、いずれも「天」の文字があることである。
「敬天愛人(あいしん)」(西郷隆盛)
「非理法権天」(楠木正成)
 儒教における天も、高天原の天も、一過性の地上の価値や出来事をこえている。
 天は、永遠という「歴史の連続性」を暗示しているのである。
 そういう観点に立つと、二人の行動の謎が、徐々にとけてくる。
 二つ目の共通点は、敢えて、決戦と敗死をえらんだことである。
 歴史という長いスパンで見ると、妥協して、いっとき、生きながらえるより、大義(歴史の連続性・国体護持)ために散るほうが、はるかに大きな価値がある。
 たとえ、国が方向を誤っても、それを正そうとしたじぶんが、どのような思想に立って、戦場で散ったか。それが、後世につたわれば、日本は、ふたたび、天道へもどれる、という希望と確信が二人を死地へむかわせたのではないか、というふうに、わたしは、考えている。
 正成は、後醍醐天皇へ、足利尊氏との和睦を進言している。天皇が尊氏を許して、尊氏を征夷大将軍に任じれば、天皇親政・律令体制の復古はならなくとも、歴史の連続性は、まもられる。
 だが、正成の真意を理解できない後醍醐天皇のとりまきの公卿らは、正成を嘲っただけだった。
 そのあと、正成は、わずか7百騎を率いて、湊川で、数十万の尊氏大軍勢とたたかって散るが、このとき、「七生報国」ということばを残している。
 七回生まれかわる七生は、個人や地上の出来事をこえた、歴史のことにほかならない。
 そして、国というのは、政権を手にした幕府=権力ではなく、天皇=国体である。
 正成の天皇に対する忠は、個人崇拝ではなく、国体護持という歴史の連続性へのつよい意思のあらわれで、それが、国粋主義の本質といってよい。
 西郷隆盛も、西南戦争のさなか、山県有朋の自刃勧告にたいして、堂々たる決起の大義を書き送り、味方には――
「一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候也」
 と檄をとばした。
 安堵というのは、歴史が、われわれの正しさを証明するであろうから、安心しろという意味である。
 江戸城の無血開城、朝鮮の平和外交(武力による征韓論は板垣退助の意見で、西郷は、みずから使者に立つという外交路線を主張した)など、徹頭徹尾、流血を避けてきた西郷が、西南の役で、徹底抗戦をえらんだ理由が、これである。
 政府が、日本の西洋化というまちがったみちをえらび、その誤りに気づかぬまま滅びるより、われわれが、ここで政府軍とたたかって、歴史に敢闘の足跡を残せば、いつか日本は、その過ちに気づくであろうというのである。
 西郷の心根をもっともよく知る勝海舟は「西郷さんは、じぶんの思想を歴史にゆだねた」と評したが、江藤淳も、『南洲残影』にこう書いている。
 明治維新の目的は、無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。
 ところが天子をいただく明治政府は、何をなしたか。
 みずからすすんで、西洋を真似て、無道の国への道を歩みはじめているではないか。
 国家をまもらんとした西郷が、なぜ、国家を代表する政府に叛旗を翻したか。
 国家とは――その時代に存在している政府や国民だけのものではないからである。
 過去、現在、未来と連綿とつづく垂直的なるもの(歴史の連続性)、それこそが、西郷のまもらんとした国家であった。
 明治政府は、垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。
 歴史を切断する勢力とは、断固として、たたかわねばならない。
 これが、西郷の思いではなかったろうか。(大意)
 日本の右翼が、政治闘争を志向せず、政権をめざさないのは、もとめ、まもるべきものが、国体=歴史の連続性にあるからで、そこが、政権をめぐって、権力闘争へ走るヨーロッパの右翼と異なる。
 わたしは、右翼と称する人々が、政治問題を語るのをにがにがしく思っている。右翼が目をむけるべきは、歴史の連続性であって、政治という一過性の問題は、政治家と選挙民に、まかせておき、政治家が、国を売るような誤りを犯したら、そのときは黙って、その過ちを贖わせればよいのである。
 次回は、右翼の在り方について、思うところをのべよう。
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2008年04月16日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(17)

 ●権威と権力を合体させた維新政府の過ちとその呪縛(続)
 革命やクーデター、倒幕(反政府)闘争がめざすのは、すべて、権力の奪取である。
 したがって、そこに大義がなければ、叛乱とみなされる。
 大義というのは国体のことで、国体護持の意思がはたらいていなければ、どんな理由があろうと、政治闘争は、私利や権力欲にとりつかれた亡者の私闘、叛乱にすぎないものとなる。
 そこに、歴史上の覇者が、朝廷に、錦の御旗や詔勅、官位をもとめた根拠がある。
 いくさや政治権力の行使は、私利や権力欲のためではなく、国体のためである――。
 したがって、詔勅や官位を戴きたいと。
 歴代の覇者は、国体の護持を天皇に誓って、いくさをおこない、幕府をひらいたのである。
 国体は、歴史や文化、国の繁栄や民の幸までを包含している。
 天皇は、その国体の象徴である
 だから、権威なのであって、私闘や権力欲と皮一枚で接する権力とは、無縁である。
 一神教のもとにあるのは、権力だけである。ローマ法王庁も、権力を絶対化する役割を担っただけで、権威たりえなかった。歴史や文化、民の幸までをふくむ国体という観念がなければ、権威はどこからもうまれず、権威の裏づけをもたない権力は、暴力装置でみずからを絶対化するしかない。
 したがって、ヨーロッパ(ユーラシア)では、権力闘争がはてしなくつづく。
 現在の戦争なき状態――バランス・オブ・パワーは、一神教世界の平和なのである。
 国体というのは、この世は神の国(高天原)の延長という、神道の世界観である。
 キリスト教やマホメット教では、真実が神の国にある。仏教は来世、儒教は天に真実がある。いずれも、この世を仮の世界とみるニヒリズム(虚無主義)であって、現世に神をみいだす国体という観念は、一神教からは、けっして、でてこない。
 日本人が、古代から、国体意識をもちえたのは、神道の国だったからで、日本の文化や習俗、心のありかたまで、すべて神道的価値観に根ざしている。
 西洋文明と日本文化は、根本がちがうので、すりあわせることができない。
 西洋の学問をした者は「日本人は権利意識が乏しい」という。だが、ヨーロッパでたたかいとらなければならなかった生きる権利は、日本では、和の心や相身互いの精神で手にはいった。
 権利意識など必要がなく、そんなことをいいだせば、かえって、和の心がそこなわれることになる。
 明治維新は革命だった――というのは、その変革が、神道文化へのキリスト教文明の接ぎ木だったからである。
 じじつ、明治維新は、日本史では例がない、ヨーロッパ型の権力闘争だった。
 神道的価値観から一神教的価値観への大転換をもたらしたのが、権威と権力の一体化である。
 孝明天皇は、討幕派に転向した岩倉具視に毒殺されたという説が根強い。
 最近、発見された主治医(伊良子光順)の日記にも「急性薬物中毒」と記されている。
 一介の公卿にすぎなかった岩倉具視が、孝明天皇が崩御された翌年、若き明治天皇を立てて王政復古(大政奉還)を実現させ、一躍、維新政府の中枢にのしあがってゆくことができたのは、天皇(権威)を政府(権力)のトップにつけるという、大革命をやってのけたからである。
 そこで、日本の伝統的な政治システム=権威と権力の二元体制は、終わりを告げた。
 大久保利通や岩倉具視ら、明治政府の首脳がめざしたのは、明らかに、ヨーロッパ型の政体で、このとき、国体も、事実上、崩壊した。
 明治政府は、日本文化の廃棄と西洋文明の導入を宣言して、文明開化を国是とした。
 森有礼文部大臣は、国語を英語に代えるように主張し、葛飾北斎ら日本の美術品はタダ同然で海外に売り払われた。武士は野蛮で、鹿鳴館文化というヨーロッパの猿真似が上流ということになり、このとき、皇室の正装や正餐も、洋式となった。
 当時、日本で、近代化が可能だったのは、文明開化の号令があったからではなく、日本の国体が磐石で、とりわけ、江戸時代の知的水準が、西洋文明を理解して、再生産できるほどに高度だったせいである。
 遣唐使の廃止によって、国風文化が栄えたように、日本には、他国の文化や文明を吸収して、さらに発展させる潜在能力をもっている。
 科学の利器である文明は、文化革命をおこさずとも、知的水準が高ければ、うけいれることができる。
 知的水準が高い文化の受け皿も、また、国体である。明治政府が、政体や文化、文明をヨーロッパ化する方法をとっていなければ、近代日本で、江戸の文化と西洋の文明が調和した第二の国風文化がうまれていただろう。
 ところが、明治政府は、それに気づかず、鹿鳴館文化や武士の廃絶というヨーロッパの模倣に走ったばかりではなく、このとき、皇室の王室化という、国体の変更をおこなった。
 そして、使節団を率いて、欧米を視察した岩倉具視や大久保利通は、文化や国体の担い手だった武士の廃絶に反対した西郷隆盛を西南の役で討ち、日本文化の否定、日本のヨーロッパ化を国是に、世界へのりだしてゆく。
 明治維新後、富国強兵をスローガンした国造りは、一応の成功を収め、日本は、世界の烈強と肩を並べるまでになった。だが、これは、西欧化が成功したのではなく、前述したとおり、江戸の文化レベルや髷を切って軍人や官僚となった武士の精神性が高かったからである。
 日清・日露戦争に勝利できたのも、たたかったのが、戊辰戦争を体験した幕末の武士だったからで、当時は、まだ、江戸時代の遺風が十分に残っていた。
 その後、第一次大戦における勝利やシベリア派兵などをとおして、日本は、国際社会で大国に列されるまでになった。
 だが、当時の日本は、維新政府の犯した大きな間違いに、まだ気づいていない。
 権威としての「現人神」と統治者としての「大元帥」の合体というヨーロッパの王制的権力が、どんなに危険性をひめているかついて、何も――。
 大正デモクラシーをへて、昭和にはいると、国体を変更したツケが、徐々に、まわってくる。
 権力が暴走するのである。朝廷のもとで自粛していた歴代幕府とはちがい、畏れるべき天皇をわがものにした政府、とりわけ、軍部は、自己制御の能力を失って、怪物的権力を増殖させてゆく。
 そして、日本は、戦争のための戦争という、西洋型の戦争へふみこんでゆく。
 大東亜戦争は、ヨーロッパ型の帝国主義にのったもので、日本は、蒋介石の中華民国やアメリカとたたかう必要など、みじんもなかった。
 政府(権力)が、天皇(権威)から政治をあずかるという二元的な政治システムが機能していたら、冷静な判断がはたらいて、戦線は、満州国の建設と南方の資源を握っているヨーロッパ列強との対決にとどまり、支那やアメリカとの開戦には、ブレーキがかかったはずである。
 支那戦線の拡大や真珠湾攻撃には、常識で考えて、何一つ、合理的根拠がなかった。
 だが、天皇が、大元帥として、権力の側におかれていたため、政府と軍部が天皇をとりあうという事態が生じ、結局、天皇をとりこんだ軍部がファッショ体制を敷いて、日本は不合理きわまりない、対支・対米戦争へつきすすんでゆく。
 幕末の争乱期、討幕派の志士らは、天皇を"玉(ぎょく)"とよび、「玉をとったほうが勝ち」と公言してはばからなかった。
 先の大戦でも、同じ論理のもとで、軍部が天皇をとりこんだ。
 天皇に主権(政治権力)があると定めた統帥権をタテに、天皇を大元帥に戴いた軍部が政党や議会をおさえ、その一方で、現人神として奉った天皇の威を借りて、国家総動員法を敷き、陸・海軍の兵士を不合理なたたかいに駆りたて、無計画に戦線を拡大させるのである。
 天皇が、権力にとりこまれたため、政治を監視する権威が不在となって、国家が危殆に瀕した。
 それが、前回、冒頭でのべた、天皇の戦犯問題と国体(皇室)の危機の真相である。
 一五〇年前、明治政府が犯した過ちは、払拭されたのであろうか。
 否である。それどころか、日本は、その禍根をいまもなおひきずっている。
 それが、保守精神の欠如である。
 じぶんの頭で、国益や国是、国の誇りについて、自主的にモノを考えられない政治家や官僚が、アメリカや中国という"玉"をとりあい、いわば、大国の虎の威を借りて、親米や反米、親中などの旗をふりまわしている。
 かつて、天皇の権威を借りて、国内で権力を奪い合った陸軍統制派・海軍英米派とすこしもかわらない。
 保守は、国体の基盤に立つ、ということである。
 政治家は、国益と国是のためにはたらき、国民やマスコミは、愛国心や公徳心を大事にする。それが、しぜんなすがたで、何ものからも支配されていないことが、保守精神なのである。
 保守精神は、民族や国家の歴史、文化の総体たる国体に拠って立つ。
 じぶんのうまれた国土、同胞、歴史、文化に心をおくことによって、はじめて、独立心や誇り、自信がうまれる。国体は、そういう情緒をとおしてあらわれるもので、国体を捨てて、じぶんの国に罵詈を浴びせ、アメリカに平伏し、中国に媚びるのは、日本を西洋より劣った国と見て、自国の歴史や伝統、文化の破棄を主張した岩倉欧米使節団のようなもので、始末に負えない。
 国家は、権力という現実主義に、国体は、保守という情にささえられている。
 自国の国体を愛することが第一で、そうすると、変革することより、変革しないことのほうに、現在より過去のほうに、より高い価値があることが、わかってくる。
 それが、保守主義である。
 国体の西欧化に反対して、西南戦争をたたかった西郷隆盛は、保守主義をつらぬいて殉死した。
 現在の保守主義の欠如は、万世一系の天皇を政治的に利用している憲法をもち、天皇を権威として立てられない政治的風土と、西欧化(アメリカ化・グローバリゼーション)のなかにあって、国体意識を血肉化できない社会的風潮によって生じた、とわたしは、思っている。
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2008年04月15日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(16)

 ●権威と権力を合体させた維新政府の過ちとその呪縛
 1945年の敗戦によって、日本は、神武紀元以来、連綿とつづいてきた国体(皇室)の存続が危殆に瀕するという、未曾有の国難に直面した。
 天皇の戦犯問題である。
 天皇が、東京裁判で裁かれ、あるいは、イタリアのサボイア王家と同様、皇室の解体がおこなわれていたら、国体が崩壊して、日本は、分裂国家か、大国の属国になっていたと思われる。
 日本がポツダム宣言の受諾を渋ったのも、国体の護持という確証がえられなかったからで、それが、広島・長崎への原爆投下という惨禍につながった。
 そういう事態に立ち至ったのは、明治政府が、権威と権力を一体化させ、天皇を戦争の当事者にしてしまったからである。
 ロシア、英国、オーストラリアなどの戦勝国が、天皇の戦争責任をもとめたのも、天皇が、かつての、ヨーロッパの王室と同様、権力者と思ったからだった。
 天皇の権威に象徴される国体、その国体の認承によって、権力に正統性があたえられる政体――これが、わが国の二元的な政治システムで、権威たる天皇は、権力である元首や大元帥と、一線が画された存在でなければならなかった。
 ところが、明治政府は、権威である天皇を<元首・大元帥・現人神>として権力の側にとりこんで政治的に利用した。
 そのつけが、一〇〇年後にまわってきたのである。
 戦後、劇的なかたちであらわれた天皇体制の危機は、明治維新の段階で、すでに、仕込まれていたわけだが、先の戦争の失敗から現在の社会的欠陥まで、原因をさぐると、すべて、そこへゆきつく。
 今回は、2回にわたって、そのテーマについてのべる。
 さて。我が国にとって幸運だったのは、GHQ最高指令官・マッカーサーが占領政策に天皇を利用すべく、アメリカ議会や他の戦勝諸国の反対を押し切って、戦犯から除外したことである。
 マッカーサーの判断によって、天皇の戦犯問題と皇室解体の危機は、かろうじて、回避されたが、国体の護持が、薄氷をふむような危うさに瀕したことは、日本史上、最大の汚点といってよい。
 もともと、日本の天皇制度は、権威と権力を分離することによって、権力の増長を防ぐ歴史の知恵で、だからこそ、日本の国体は、二千年以上にわたって、まもられてきたのである。
 薩長閥による明治政府が、この伝統的な体制をこわしたのは、かれらの近代化が、欧化主義だったからで、下級武士にもおよばない低い身分だったかれらに、日本の伝統を重んじる気風は、そなわっていなかった。
 明治維新は、きわめて、複雑な構造をしている。
 慶応三年(1867年)、十五代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に奉還し、その翌年、官軍が江戸に迫ったところで、勝海舟・西郷隆盛の会談をとおして、江戸城の無血開城までおこなっている。
 ここまで平和裏にすすむのは異例としても、これは、日本史にいくたびかあらわれた政権交代劇の一つといってよい。
 ところが、官軍は、徳川家と親藩の徹底殲滅をはかって、内戦をひきおこす。
 戊辰戦争である。
 徳川慶喜は、すでに、恭順の意をしめしており、親藩にも反抗の意図はなかった。あとは、公武合体にしろ公儀政体にしろ、新しい政府をつくるために、英傑が力をあわせればよかったわけだが、薩長がそうしなかったのは、公武合体論の孝明天皇が急死して、「薩長政府」樹立の機運がうまれたからである。
 このとき、薩摩や長州は、権力の正統性を顕す錦の御旗をもとめた。
 戊辰戦争は、錦の御旗をわがものにしようとする薩長の権力欲によってひきこされたといってよい。
 幕末の乱世にあっても、徳川幕府は、天皇から征夷大将軍の官位を戴き、三百年の長きにわたって日本を統治してきた。為政者としての正統性もあり、薩長軍と対抗する戦闘能力も十二分にもっていた。
 一方、薩摩や長州が王制復古や天皇親政をうったえても、錦の御旗がなければ、倒幕に大義名分が立たない。当時、薩長軍が、天皇の勅書と錦の御旗を必要としたのは、かれらがめざした倒幕が権力闘争で、事実上のクーデターだったからである。
 錦の御旗がなければ、倒幕運動は、ただの叛乱である。事実、薩長の倒幕運動には、関が原で徳川に敗れた両藩の意趣返しという動機が隠れていた可能性がある。
 錦の御旗や天皇の詔勅によって、権力に正統性が付与されるというやりかたは、日本の伝統的な政治システムで、足利尊氏が、後醍醐天皇親政に対抗すべく、北朝一代目となる光巌天皇を立てて、室町幕府をひらいたのも、同じ原理である。
 明治維新において、薩長(東征)軍が幕府軍を圧倒できたのは、かれらが、錦の御旗を手にしたからだった。一方、朝敵となった幕府軍は、賊軍の汚名を着せられて、ことごとく、敗れ去った。
 錦の御旗のもとで、権力を手にした政治権力は、こんどは、権威である天皇の意思にかなう政体を組織して、国家・国民のために、行政組織を合理的に運営しなければならない。
 それが、権威と権力、国体と政体の二元論的関係である。
 ところが、明治政府は、討幕に利用した天皇を――徳川三〇〇藩候の解体や廃藩置県、廃刀令などの政治改革に利用する。
 民の平安や国の繁栄を神々に祈る最高神官として、権力構造と一線が画されていた天皇を現人神として神格化する一方、明治政府は、天皇を元首・大元帥という権力者に仕立て上げたのである。
 権威である天皇が、権力へとりこまれると、権威が空白となって、騒乱がまきおこるのは、これまでの歴史がしめすとおりである。
 後醍醐天皇の建武の新政を、わたしは、評価しない。
 清廉な鎌倉幕府・北条執権を倒して何がおきたであろうか。
 南北朝から、内紛がたえなかった足利幕府、足利義満・義正の悪政、応仁の乱から戦国時代をへて、徳川幕府が安定政権を打ち立てるまで、日本は、270年にわたって、暗黒の中世をさまよわねばならなかった。
 権威と権力が別々に機能していれば、なかったはずの暗黒の270年だが、明治維新でも、建武の新政と同じことがおきた。
 明治政府が天皇をとりこんだことによって、権威が空白となり、あっというまに、軍国主義ができあがってしまったのである。権力を監視する天皇が不在で、現人神が、権力に就けば、その権力が怪物化するのは、必然である。
 マッカーサーは、占領統治に天皇を利用した。だが、それは、かならずしも、権威と権力の二元論から外れたものではなかった。天皇は、マッカーサーに「わたしはどうなってもよいが、国民を飢えから救ってもらいたい」といわれ、マッカーサーは、曲がりなりにも、その意にそおうとした。
 権威である天皇の祈念が、マッカーサーという権力につうじたのである。
 天皇の戦争責任が不問になったのは、本来、天皇は、民の幸を「神に祈る神」(本居宣長)であって、もともと、権力から、切り離された存在だったからである。
 新憲法では象徴(権威)となったが、新憲法で規定された天皇の象徴性は、国民の統合であって、国体と明記されていない。
 わたしが、憲法を改正して、天皇の条項、および、皇室典範を憲法から外すべきと思うのは、国体が、法や政体の下位におかれると、文化や歴史、国民の幸が、政治権力の下にきてしまい、危険きわまりないからである。
 古来にはじまり、武家政治の中世から江戸末期まで、天皇の権威は、国体の象徴としてであって、国体の根拠は、政治力や軍事力ではなく、歴史や文化、なによりも、民の幸せと国家の繁栄におかれている。
 国体には、国家の安泰と民の幸という神々の祈りが、すでに、封じ込まれているのである。
 お天道様のもとで、人々が、八百万の神々とともに、生産や繁殖に励むことをめざしているのが、神道のもとにある日本の国体で、そのため、天皇は、皇居内で年間三十回にもおよぶ祭}、多くの国事行為をおこなっている。
 権力が、国体をまもるということは、国家・国民をまもることで、その規範から外れることがないよう、権力を監視するのが、権威=天皇である。
 天皇が国体の象徴、というのは、そういう意味合いからである。
 次回は、権力構造という視点から、もういちど、明治維新を見直してみよう。

posted by 山本峯章 at 12:13| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月10日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(15)

 ●天皇と神道――ヨーロッパ王制とキリスト教
 ヨーロッパの王室は、中世における権力闘争の覇者で、征服王の家系である。
 歴史的にも浅く、三〜四百年ほど前といえば、ちょうど、日本の戦乱期にあたる。
 しばしば、日本の天皇と比較されるが、絶対権力者であるヨーロッパの王は、天皇ではなく、むしろ、平氏の平清盛や源氏の源頼朝、足利尊氏、あるいは、天下統一をはたした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、戦乱期の覇者に近い。
 天皇は、覇者でも、権力者でもない。
 覇者に、征夷大将軍などの称号をあたえ、一方で、幕府を監視する権威である。
 天皇のこの権威は、神話にもとづいている。
 神話は、一つの寓話ではあるが、その根源に、神道という民族の宗教原理があり、国体や国柄、伝統や文化は、その神道の価値観に根ざしている。
 天皇は、権力に正統性を付与し、幕府を総監するだけではなく、国家の繁栄や民の幸、収穫を祈念する神道の最高神官でもある。
 これが、日本特有の権威(天皇)と権力(幕府)の二元体制である。
 ヨーロッパに天皇にあたる地位がなかった理由は、キリスト教の布教によって、民族の神話が失われたからで、ヨーロッパ各国の古来の伝統や文化も、民族の神話とともに、消えさった。
 民族固有の神話を失ったヨーロッパ各国において、新たな神話となったのが、「神が創造した最初の人間、アダムと妻のイヴが神の戒めに背いたため、エデンの園から追放された(原罪=キリスト教の中心教義)」とするキリスト教の物語で、権力構造においても、キリスト教をうけいれたヨーロッパの王国は、いずれも「神より与えられた統治権は神聖にして不司侵である」という帝王神権説をとって、絶対権力をつくりあげた。
 権威の後ろ盾がなかったため、ヨーロッパ王政は、絶対主義という強権を立てなければならなかったのである。
 歴史や民族、文化が異なるドイツ、フランス、イタリアなどのヨーロッパ諸国が、EU統合という大事業をなしえたのは、キリスト教という同一宗教、キリスト教を中心とした独自の文化と価値観でむすばれていたからで、ヨーロッパに、ユダヤ教や回教など、別の絶対神が根を張っていたら、統合は、不可能だったかもしれない。
 万世一系の天皇を戴くわが国の皇室は、古事記や日本書紀に描かれている神話を起源にして、現在まで、連綿とつづいている。
 政体が、源平から鎌倉、室町、戦国時代をへて、織豊、徳川、明治と変遷してきたにもかかわらず、後醍醐天皇による一時期の王政復古を別として、国体がゆるがなかったのは、天皇の権威と幕府の権力のあいだに、一線画されていたからで、権力と権威の二元構造が、古代から今日までひきつがれてきたのも、権力者がかわっても、国体は変化しない柔構造が、すぐれた政治形態だったからであろう。
 この二世紀のあいだに、ヨーロッパ王制の多くが、消滅した。
 ブルボン王朝はフランス革命で、ロマノフ王家はロシア共産革命によって滅び、第一次大戦に敗れたドイツでは、ホーへンツ、オレルン王家が消えた。オーストリアでは、ハプスブルグ家が王制から去り、第二次大戦後、イタリアのサボイア王家が、国外に追放された。
 国家は、国体という文化構造のうえに、政体という権力構造をのせている。
 ヨーロッパで多くの王家が消えていったのは、拠って立つところが、歴史や文化などに裏打ちされた国体ではなく、権力闘争がくり広げられる政体だったからである。
 権力闘争の産物である政体は、時代によって、変遷する。
 ところが、国体という歴史的な文化構造は、かわることがない。
 そこから、国家の母体は、権力の実体たる政体ではなく、国体だったと、わかる。
 国体から、権威が派生する。
 権力は、その権威によって、正統性をあたえられる。
 したがって、権威の裏づけがない権力は、絶対主義でもとらないかぎり、安定した支配体制をつくりあげることはできない。
 立花隆が、雑誌に「戦後日本の国体は憲法九条」などと書いているが、護憲論者の強弁という以前に、政体にぞくする政治や法律が、国体を規制しうるという考え方が、そもそも、まちがっている。
 同様に、憲法で天皇のありかたを定めるのも、憲法で皇室典範を規定するのも、誤っている。
 権威は、権力の都合や法解釈によって左右されてはならないからである。
 だいいち、一過性の権力機構にすぎない政体に、そんな権限はゆるされていない。
 国体は、文化の体系であって、文化の根源をさぐれば、どこの国でも、神話にゆきつく。
 神話によると、天皇は、高天原から降臨した神々の子孫で、いまなお、国の繁栄や民の幸を祈っておられる。
 神話の母体である神道の精神は、無私である。
 私心をはさまず、高天原の神々が理想としたすがたを再現しようとするのが「惟神(かみながら)の道」で、天皇は、覇権を争う権力者と、正反対の立場に身をおかれている。
 そこに、幕府が、天皇のゆるしをえて、国を支配する原理がある。
 神武天皇の血筋をひいておられる万世一系の天皇が、日本の伝統文化や生活感情、習俗の土台になっている神道の最高神官であらせられる以上、戦闘能力にすぐれているにすぎない武力集団が、その天皇に、為政の勅をもとめるのは、すぐれて、しぜんなふるまいであり、それが、日本の国柄である。
 武力だけで、覇権を争ったヨーロッパの王政とのちがいは、いかばかりか。
 もっとも、わが国においても、七世紀初めまで、天皇は、王的な権力もそなえていた。
 というのも、大和朝廷の成立以前、あるいは、その初期において、政体といえるような権力構造がなかったため、政治が、文字どおり、まつりごと(政=祭祀)だったからである。その過程で、いくさ(征夷)をふくめた強権の発動があったと思われるが、ユーラシア大陸でおこなわれたような凄惨なたたかいはなかった。
 その理由は、神道の起源とも関連するが、森林や肥沃な平野、河川、海岸線がゆたかな日本では、砂漠や痩せた土地の国々とはちがって、生存競争や生死をかけた争いのタネが、それほど多くなかったからである。
 人々は、大自然のなかで、おおらかに生きていた。それが、万葉人と呼ばれる日本人の始祖で、かれらは、自然そのものを神として、その自然法則にのっとって生きる、神道という世界観をきずきあげた。
 砂漠や山岳、放牧しかできない痩せた土地では、魂の救済をもとめる一神教の啓示宗教がうまれる。 
 だが、ゆたかな自然に恵まれた日本では、もっと素朴な、太陽の恵みを称える祭祀が根づいた。
 神道の最高神は、太陽である。
 収穫や自然の恵み、巡ってくる四季、一日や一年という区切りは、すべて、太陽のはたらきによるものだからである。
 もっとも、神道は、インカやエジプトのような太陽神崇拝とは異なる。
 太陽のもとにある森羅万象が、それぞれ、神々(八百万神)で、この世は、神々の活動(産巣日=ムスビ)の場にほかならず、そのすがたは、神代から現在まで、かわらないとする。
 高天原の太陽も、この世で輝いている太陽も同じなので、高天原はこの世とつながっている、というのが、神道における太陽で、それが、天照大神のもとで、さまざまな神々が活躍した神話におきかえられて、いまにつたえられている。
 日本の伝統や文化、習俗や生活感情には、神道的な価値観が反映されている。
 たとえば、西洋の時間は直線的だが、神道の時間は循環する。お正月は、ふたたびめぐってきた新しい年で、過去は、忘れられる。
 禊(みそぎ)や浄め、よみがえり、水に流す、という習俗や考えかたは、神道のもので、それが、文化だけにとどまらず、日本人の価値観や気質にまで投影されている。 
 日本の国体は、風土や歴史、文化、日本人の精神の深くにはいりこんでいる神道の価値観にささえられている。
 その中心におられるのが、万世一系の天皇で、それが、国体のすがたといってよい。
 明治維新後、一神教的な価値観がはいってきて、伝統的な神道文化に珍奇な西洋文化を接ぎ木するかたちで、近代化がおこなわれた。
 かわったのは、明治政府という政体だけではなかった。
 権威と権力の二元構造、国体のあり方も、大きな変更をくわえられた。
 その結果、何がおきたか。そのテーマについては、次回、のべることとする。

posted by 山本峯章 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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