2008年05月07日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(20)

 ●「右翼論」その2/極右のテロリズムと極左のゲバルト 
 日本の極右を定義することはむずかしい。
 左翼過激派、極左のように、戦略として、暴力主義を唱える団体はなく、革マルや中核派、革労協に匹敵する戦闘的な団体や組織があるわけではないからだ。
 右翼思想は、思想の練磨から奉仕活動、直接行動まで、幅が広い。
 おだやかな愛国思想からテロリズムまでが、一本の糸でつながっており、一介の草莽の士が、突如、直接行動にでるという事態も、ありうるのが、右翼のすがたなのである。
 その右翼のなかで、極右といえば、行動右翼をさす。
 行動右翼には、伝統(組織・神道)右翼と任侠(やくざ一家・暴力団系)右翼の二つの系統があり、そのうち、極右のレッテルを貼られているのが、街宣車をもち、街頭で宣伝活動をおこなっている任侠右翼とよばれる団体である。
 伝統右翼のうち、組織右翼は、思想的には、頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの国家・国権主義に立ち、現在は、三島由紀夫を慕う民族派グループが、その流れをくんでいる。
 五・一五事件、2・26事件に関与した国家社会主義の大川周明や北一輝、血盟団事件の井上日召らも、伝統右翼にくくられるが、一部の軍人と組んで、権力闘争にかかわったことから、右翼というより、むしろ、ウルトラ国家主義者といったほうがいいように思う。
 神道右翼は、蓑田胸喜、葦津珍彦らの思想家から、終戦直後、14名が天皇陛下に敗戦を詫びて割腹自殺した大東塾の影山正治までを擁する大山脈で、現代の右翼思想の一つの潮流をなしている。
 任侠右翼は、60年安保の際、共産主義革命に危機感を背景にうまれた団体で、多くが暴力団系の政治結社である。反共を旗印にしているところから、全愛会議(全日本愛国者団体会議)や児玉誉士夫系の青思会(青年思想研究会)、愛国党の赤尾敏らと共通点をもつ。
 全愛会議や児玉誉士夫系右翼については、次回、「戦後の行動右翼」で詳しくのべる。
 極右を定義することはむずかしい、とのべたのは、極右という存在はなくとも、内部にテロリズムをかかえている右翼は、ときと場合によって、突如、極右へきりかわるからである。
 いいかえれば、右翼は、テロをおこなうことによってのみ、極右となるのである。
 極左は、暴力=ゲバルトを恒常的な手段とするが、右翼は、その必要に迫られたときにかぎって、テロという非常手段をうったえる。それが極右で、極左のように、暴力主義を目的化しているわけではない。
 日本の右翼は、左翼とちがい、権力志向をもっていない。
 政権奪取のためのクーデター、あるいは、保守政党が政権をとるための前衛的な役割を担っているわけでもない。
 極右=テロは、国体を危機から救うための自己犠牲で、「一殺多生」というテロリズムの論理には、自死という、究極の無私の精神がともなっている。他人の生命を奪ったからには、みずからも、生命を絶つのが右翼のテロで、権力闘争のため、政敵を殺傷する左翼のゲバルトとは、本質的に、異なる。
 右翼テロが、美学となりうるのは、目的を果たしたあと、潔く散ってゆくからで、生きのびれば、ただの殺人者である。
 テロは、法治国家の基準からも、人道的見地から見ても、狂気の妙汰ので、犯罪行為である。
 その右翼テロが、日本の風土で、殺人と区別されてきたのは、無私という、人為がおよばない領域の行動だったからで、たとえ、それが狂気であっても、人間をこえているテロリストに、この世の法律や善悪をあてはめることはできない。
 一方、暴力革命をとおして政権をとろうとする極左のゲバルト殺人は、敵対する勢力の殲滅や粛清が目的で、かれらは、みずからの権力欲のため、多くの人々を犠牲にする、ただの殺人者である。ちなみに、極左の内部闘争によるテロの犠牲者は、百人をこえているが、犯人は、ほとんど逮捕されていない。
 テロリズムの原義は、権力による恐怖政治である。だが、日本の極右テロは、権力側に恐怖心をあたえる逆テロリズムで、標的は、我欲のために国益を害い、国体を危うくする政・官・財界の売国的指導者である。
 といっても、右翼テロの動機は、政治にかかるものではなく、あくまで、国体防衛で、拠って立つところも、国体である。国体は、政体とも、国家ともちがい、それ以前の、歴史や民族という根源的なものにかかわっている。
 政治には、まがりなりにも、一般投票という制度があり、有権者である国民は、投票をつうじて、政治に関与できる。その意味で、国家も政治も、国民の前にオープンになっている。
 ところが、その政体の土台となっている国体は、国民の手の届かないところにある。
 国体の維持という国是がまもられているかぎり、国体が、国民の手の届かないところにあっても、不都合もない。
 だが、為政者や権力をもつ者が、国体を破壊しようとした場合、国民には、それを阻止する手段がない。
 国体の変更はゆるされない。現在というこの一瞬しか生きていない者、一過性の権力にすぎない政治は、歴史に根ざしている国体を変える権利がなく、その資格もあたえられていないからである。
 その国体が、権力の座にある者の私心や私欲によって、毀損され、破壊されようとしたとき、身をもって、無防備な国体をまもるのが、右翼である。
 右翼は天皇の防人――というのは、売国奴から国体をまもれるのは、理論上、右翼しかいないからである。
 テロ事件が発生すると、識者は、「民主主義の危機である」「民主主義の世の中でテロはゆるされない」と口を揃える。
 だが、民主主義は、専制政治や独裁、全体主義よりましというだけで、けっして、理想的な体制ではない。むしろ、民の独裁なので、民や資本を味方につけると、どんなこともできる暗黒性をもっている。
 資本やマスコミは、民主主義の名のもとで、独裁者のような力をもち、国民は、これに対抗する意思も手段ももちえない。民主主義の基本である多数決も、少数派の排除という不条理をともない、格差社会や衆愚政治をうみだす。
 民主主義は、専制政治にたいするアンチテーゼなので、理論上、国家理性=国是が制限される。人権を最大の価値として、国権を危険なものとする民主主義においては、革命権までがみとめられているので、反政府運動や左翼の政治活動にたいする取り締まりもゆるやかで、むろん、中国のように、治安をまもるための予備拘束のようなことは、不可能である。
 つまり、民主主義は、左翼による革命、および、右翼による反革命の危険性にたいして無防備な制度で、けっして、安全でも平和的でもない、むしろ、危なっかしい仕組みなのである。
 革命権をみとめる民主主義において、資本とマスコミ、左翼、官僚の天下となるのは、現在の日本を見ればわかるとおりで、無防備な国体は、これまで、左翼陣営の最大の攻撃目標にされてきた。
 革命・国家転覆・国体破壊という超法規的な戦略をもつ左翼に対抗できるのは、テロという、法を超越した行動論理をもつ右翼だけで、だからこそ、民主主義のなかに、存在が許容されている。
 民主主義においては、左翼運動ばかりか、大資本の横暴、マスコミの言論暴力、官僚の過剰権力がゆるされる。右翼テロは、これを制御する手段として、存在する。民主主義が国体を否定する方向へ傾いているぶん、非合法の右翼テロが突出するのは、合法、非合法を別にして、政治力学的なバランスなのである。
 テロは、民主主義の敵なのではなく、民主主義だからこそ、テロが存在する。
 テロの恐怖がなければ、左翼・資本・マスコミ・公権力だけが肥大して、民主主義の矛盾に、国家や国体が、ねじ切れてしまうことになる。
 右翼の存在価値は、恐怖にある。その恐怖は、その行動原理が、法をこえているところからでてくる。
 右翼テロが、法をこえているのは、一過性の政体ではなく、永遠の国体に拠って立っているからで、右翼テロが、神の領域というのも、命を捨てて、国体をまもるには、無私でなければならないからである。
 極左の暴力主義と極右のテロは、じつは、もっとも遠いところにあったのである。
posted by 山本峯章 at 07:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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