2008年05月27日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(23)

 ●天皇の文化=神道と西洋のキリスト教文明
 雅子妃のボイコットを理由に、宮中祭祀の廃止をうったえる言説がでてきた。
 明治学院大学の原武史教授の「皇太子一家『新しい神話づくり』の始まり」(月刊「現代」5月号)もそのうちの一つで、サブタイトルに「宮中祭祀の廃止も検討すべき時がきた」とある。
 内容は、宮中祭祀は、前世紀の遺物なので、廃棄して、ボランティアをやったほうがよいという、お話にならない内容で、雅子妃の宮中祭祀ボイコットを逆手にとって、天皇体制を形骸化しようという魂胆であろう。
 これらの者たちに共通しているのが、神道を、仏教的・キリスト教的な価値観でとらえる視点である。
 天皇が、天照大神に、何事かを祈念していると思っているのである。
 宮中祭祀は「神に祈る神」=天皇が、身体を浄め、心を清らかにして臨む儀式で、一つの型である。
 型は、カタチで、言挙げしない日本の文化は、カタチを整えるところに根源がある。
 神道の参拝も、手水を使い、二拝二拍手一拝などの型だけあって、神に何事かを願うわけではない。
 浄めとカタチができれば、蘇りや生命の再生は、おのずとあらわれる。
 そこが、神との契約といわれるキリスト教や成仏をねがう仏教と異なる。
 神道は、思う、願う、念じるという賢しらを捨てて、モノ・コトの本質へ立ち返る儀式で、人間の頭で考えることは、もとより、対象になっていない。
 モノはコトへ、コトはモノへ変化して、実りをもたらす。籾というモノは、手をくわえるコトによって、苗になる。苗というモノは、太陽の恵みをうけるコトによって、稲穂というモノになり、手間をかけるコトによって、コメというモノになる。
 大自然のなかで、モノとコトが循環するのがむすび(産巣日・結び)で、その奇異(くすしあやし)にくらべて、人間の思いや考えの、いかに生臭く、小さいことか。
 身体を浄めるのは、その生臭さを水に流すことで、儀式は、賢しらを捨て、モノ・コトが循環する大自然と合一して、高天原に、この世の弥栄(いやさか)をねがうものである。
 天皇はこの儀式を、国民になりかわって、おこなっているのである。
『本居宣長』を著した小林秀雄の文章を要約して、引用する。
「(日本人にとって)宗教は、教理ではなく、祭儀という行動であった。長いあいだのその経験が、日本人の文化にたいする底力を育んだ。海外から新しい文明や観念がはいってきたとき、それをうけとる日本人の気質(かたち)は、すでに、完成していた。文明や観念に気質を変える力はない。気質が、文明や観念を吸収して、己の物とするのである」
 カタチを重んじる祭儀が、文化を吸収する日本人の気質を育て上げたというのである。
 カタチができていれば、内実がともなう。外からどんなものがきても、うけとめ、咀嚼して、じぶんのものにできる。
 大陸からきた漢字や小乗仏教、唐文化を、ひらがなや大乗仏教、国風文化につくりかえることができたのは、日本の文化は、すでに、カタチができていたからで、このカタチができあがっていなければ、内側から、外来文化にとりこまれる。
 原という者は「実りを祈る祭祀は時代遅れ」という。天皇が、豊作を念じて、天照大神を拝んでいると思っているのである。そして、そんなムダなことはやめて、世界一の高位にある天皇に、町で、ボランティアをやれというのである。
 戦後、西洋文明で育った者は、日本文化の根本が、大自然のなかで、モノがコトへ、コトがモノへ循環する美や実(まこと)にあって、宮中祭祀が、それを再現していることに、気づいていない。
 西洋合理主義にそまったひとは、すべてを、科学や合理、イデオロギー、特定の価値観で説明しようとする。そのとき、モノがコトへ、コトがモノへと循環する大自然の知恵や力が消え、代わりに、生臭く、小さい人間主義が浮上してくる。
 古代のギリシア・ローマ文明、中世のキリスト教文明、近代合理主義をへて、現代の科学万能主義へつらぬかれているのは、人間中心の理性主義である。
 フランス革命では、王の代わりに、理性神が玉座におかれたが、人間の理性に、それほどの価値がなかったことは、理性だけでつくりあげられた共産主義革命の結末をみればわかる。
 日本の文化は、自然の力を敬うところから生じているが、西洋文明は、人間が自然を支配できるという傲慢からうまれた。
 ギリシア・ローマ文明は、森林を破壊して、天水農業を破滅させ、略奪経済と侵略戦争にむかった。キリスト教の中世では、自然物から、動物までも神からの賜物とする思想のもとで、食肉文化がすすめられ、牧畜と放牧によって、ヨーロッパの森や河川は、大半が消えた。
 森林と河川が消えた大地は死に、ペストのような疫病が大流行して、森の栄養を必要とする沿海漁業も全滅した。
 人間中心主義と理性は、自然破壊と肉食文化、略奪と侵略、奴隷売買という暗黒の中世をへて、科学文明へたどりついたが、鉄の科学と火薬の化学は、効率よくひとを殺すため(武器)と、金をえる(錬金術)ための副産物だった。
 日本の文化と西洋文明は、逆転した構図になっている。
 西洋人は森を破壊しつくしたが、日本人は、森を大事にして、古代より植林をおこなってきた。日本の古代宗教では、自然やモノが迦微(かみ=神)だったので、枝一本、おろそかにできなかったのである。
 勿体ないという考え方、物を大事にする発想は、物自体が迦微だった神道の名残で、それも、日本の文化である。
 中世・近世にかけて、日本には、世界一のものが、数多く、あった。
 水田技術をささえた農業土木、釘を使わずに五重塔をつくった木造建築技術、森と河川がはぐくんだ沿海漁業、大衆レベルの食文化、士農工商によるマクロ経済、和歌や俳句、浮世絵、草紙物などの庶民文芸など、枚挙にいとまがない。
 一方、西洋は、十八世紀前後、産業革命がはじまるまで、特権階級以外、飢えをしのぐのが精一杯だった。民の味方=権威(天皇)がいなかったので、権力が、富や文化を独占したためである。
 製鉄や化学、酪農などの分野が、西洋より遅れたのは、当時、必要(需要)性が小さかったからで、近代以降、必要に応じて、日本は、短時日で、西洋と肩を並べる文明国になった。 
 日本は、近代の科学文明まで消化する文化の型=潜在力までもっていたのである。
 もう一つ、日本と西洋で、逆転しているのは、自我である。
 日本では、抑制されるべきものであった自我が、西洋では、もちあげられる。
 自我は、すべて神からの賜物であるとするキリスト教から、産み落とされた。
 聖書によると、自然も他の生物も、神がじぶんに似せてつくった人間に与え給うた生活資材で、したがって、征服も略奪も、神の御心にかなっている、ということになる。
 この自己中心的な世界観から、自我や人権思想がうまれた。日本で、人権といえば、泣くも子も黙る風潮だが、もともと、これは、キリスト教の教義で、神権政治や専制政治、絶対主義が滅びてからでてきたのが、民主主義である。
 西洋は、すすんでいるのではなく、世界戦争に勝ったキリスト教文明が、他の文明を隅におしやっているだけで、日本には、人権や民主主義以前に、人々が自然と共存して、仕合わせにくらせる神道という大思想があった。
 それを象徴しているのが、宮中祭祀で、人間は、心を浄めて、大自然と共存する以外、仕合わせに生きることはできない。
 だから、本居宣長は、ふしぎは、ふしぎのままでよろしき、といったのである。
 ふしぎを、そのまま、みとめることによって、人間の賢しらをこえた、大きな知恵につつまれる――というのは、この世界にあるありとあらゆるものは、奇異にささえられ、奇異の投影であるが、その奇異は、神の御仕業(みしわざ=古事記)なので、ふしぎという通路をとおって、われわれは、神々とともにあることができる――というのである。
 奇異の頂点は太陽で、お天道様の下に存在するものは、人間をふくめて、すべて、奇異である。天地があり、禽獣草木が生をいとなみ、人々が出遭い、万物が移りかわってゆくすがたは、けっして、理屈では説明がつかず、もののあはれ(安波礼)として、そっくり、うけとめるほかない。
 現代の日本人が、天皇の文化=神道を再発見すると、ボランティアなどという西洋のことばを聞いただけでうかれだす、原のようなばか学者は、少なくなるのである。



posted by 山本峯章 at 00:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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