かつて、反日主義といえば、日本共産党や旧社会党の党員、あるいは、労働運動家などのマルクス主義者と相場がきまっていた。
日本共産党は、1955年の六全協まで、旧ソ連共産党国際部(コミンテルン)からの指令で、暴力革命と天皇制(日本共産党の用語)の打倒をめざしていた。その日本共産党を頂点とする左翼が、日本の国体や歴史、文化や道徳を目の敵にするのは、わからないではない。
ところが、ベルリン崩壊(1989年)以降、保守系政党や非共産主義陣営に、自虐史観派や媚中派など、反日的言動をとる政治家が、めだってふえてきた。
自民党では、野中広務や河野洋平、加藤紘一、古賀誠、山崎拓らがその筆頭だが、民主党にいたっては、菅原直人や岡田克也ら、党員の大半が、反日主義者といってよいほどである。
共産主義という天敵が消えたため、ホンネがでてきたのだとしたら、かれらは、もともと、保守政治家ではなかったことになる。
かといって、共産主義者ではない。
それでは、かれらが拠って立つ基盤は、どこにあるのか。
その謎をとくカギは、加藤紘一が、しばしば、口にする"世界市民"ということばである。
世界市民は、共産主義インターナショナルにつうじるキーワードで、国家を超えた連帯を意味する。
世界の労働者が団結して、資本主義を倒そうというのである。
その根底に、無国籍性(コスモポリタニズム)があるのは、いうまでもない。
共産主義と反日主義は、ともに、国家の否定という共通項をもっていたのである。
そのコスモポリタニスト(反日主義者)が、支持をよせるのが極東軍事裁判と日本国憲法である。
そこで、日本国憲法をひらいてみると、無国籍条項(=国家の不在)のオンパレードである。
「主権が国民に存することを宣言」(前文)「天皇は日本国民統合の象徴――この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」(第一条)「国権の発動たる戦争と国の交戦権、陸海空軍の永久放棄」(第九条)
と、まず、国家主権が否定され、その次に――。
「何ものも侵すことのできない永久=権利基本的人権」(第十一条)「思想及び良心の自由」(第十九条)「信教の自由」(第二十条)「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(第二十一条)「居住、移転及び職業選択の自由」(第二十二条)「学問の自由」(第二十三条)「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」(第二十八条)「財産権の保護」(第二十九条)「生命や自由を奪われない自由」(第三十一条)
と、国民に、国家を抜きに、あらゆる権利を保証して――。
「憲法改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成と国民投票における過半数の支持を必要とする」(第九十六条)「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(第九十八条)
と、最後に、この憲法が不磨の大典で、天皇や国会の上位あると宣言している。
そして「日本国民たる要件は法律で定める」(第十条)と、日本人であることが、国家や国体を離れて、条文にすぎない法にゆだねられる。
日本の国体や歴史、文化、道徳など、歴史の連続性をしめす文言は、一行もない。
一方で、無国籍者でも、法にしたがってさえいれば、世界市民として、人間としてのあらゆる権利を享受できる――というのが日本国憲法で、これでは、日本人に、コスモポリタンになるようにすすめているようなものである。
日本国憲法をつくったのは、GHQだが、かれらの正体がニューディーラーと呼ばれる左翼だったことは、あまり、知られていない。
ニューディール(新規まき直し)というのは、F・ルーズベルト大統領がとった共産主義政策のことで、戦後、このニューディール政策にかかわったルーズベルトのスタッフは、GHQの幹部をふくめて、マッカーシーの「非米活動調査委員会」(赤狩り)の告発によって失脚、多くが、海外へ逃亡している。
終戦前に急死したルーズベルトは別として、非米活動調査委員会がルーズベルトの政策をすすめたスタッフを糾弾したのは、ニューディーラーが、共産主義者だったからである。
それで、ニューディーラーだったGHQが、日本に国家主権を否定した無国籍憲法をおしつけた理由がわかろうというものである。
反資本主義的な「農業調整法」「産業復興法」などを次々に成立させたほか、最低賃金の規定や労働者の団体交渉権をみとめるなど、ルーズベルトは、連邦最高裁から憲法違反の判決を下されるまで、共産主義的政策をおしすすめた。
共産主義者のルーズベルトが、四回も大統領選に勝利できたのは、32人の歴代大統領が残した累積赤字をこえる200万ドルの財政赤字をつくって、票田である労働者階級に大盤振る舞いしたからだけではない。
金融・産業・マスコミを牛耳る在米ユダヤ人社会から、熱烈な支持をうけたのである。
なぜ、ユダヤ人が、ルーズベルトを支持したのか。
ルーズベルトが、1649年、オランダから、当時、ニューアムステルダムと呼ばれていたニューヨークへ移住したローゼンフェルト家を先祖とするユダヤ人だったからである。
ルーズベルトがユダヤ人だったことと、ニューディール政策と対独参戦、GHQによる対日戦後処理は、一本の線でつながっている。
対独参戦が、ユダヤ人のジェノサイド計画をすすめていたヒトラーを倒すためだったのは、いうまでもない。だが、ニューディール政策とGHQによる対日戦後処理が、ルーズベルトがユダヤ人だったことと、どうつながるのか、近現代史からは、何も見えてこない。
ルーズベルト大統領のブレーンで、日本の戦後処理立案に参画したユダヤ人、モルデカイ・モーゼによると、共産主義は、祖国をもたないユダヤ人解放のため、ユダヤ教の「メシア思想」をベースに、マルクスがつくりあげたデッチ上げだったという。
ユダヤ教の歴史観は、エデンの園で犯した原罪のため堕落した人間は、最後の審判で、善人と悪人が分かたれて、善人だけが神の国へ行く。
ユダヤ人のマルクスは、原始共産制をエデンの園に見立てて、資本主義という堕落した社会は、やがて、階級闘争と革命という最後の審判によって断ち切られて、プロレタリアだけが、この世の勝者となるというストーリーをつくった。
共産主義の話は、別の機会にゆずって、今回は、ニューディーラーがつくった日本国憲法である。
GHQで、日本国憲法の作成を指揮したのは、ルーズベルト政府の下で労働問題を担当していたケーディスである。
ユダヤ人の共産主義者で、日本の憲法に、自由と平等をもちこむと、国が滅びるということは、百も承知だった。主権在民と国家主権の否定というダメもおしてあるので、日本国は、早晩、三流国に転落するはずだった。
ユダヤの理想は、国権なき国家で、それなら、ユダヤ人も安心して暮らせる。
ユダヤ人は、国家の代わりに、ユダヤ教と「タルムード」という伝統的な民族の宝典をもっており、才能も金儲けの技術にも長けている。あとは、市民としての権利、安全さえ手にはいれば、ほかは、何も必要がなかった。
そこで、日本国憲法をよく見ると、無国籍のユダヤ人にとって、都合のよいことばかり書かれていることに気がつく。
義務は、納税くらいなもので、あとは、権利や自由と平等ばかりである。
しかも、それらは、国家ではなく、法の下で、保証される。
モルデカイ・モーゼは、自由と平等が、国家を解体させる"毒"だという。
自由と平等は、相容れないので、民主主義という虚構を立てなければならない。
ところが、民主主義もデモクラシーは、専制政体にかわる民主政体、あるいは、選挙や多数決のことにすぎず、個人に民主の特典があたえられるわけではない。
憲法に、民主主義の文字がないのも、実体がないからである。
したがって、民主主義を個人の権利と心得違いをすると、摩擦が生じて、国力が弱まる。
日本の平和憲法には、ヒナ型がある。史上、もっとも民主的だったといわれるワイマール憲法である。
つくったのは、ユダヤ人で内相も務めたフーゴ・プロイス以下3名のユダヤ人である。
このワイマール憲法も、自由と平等がふんだんにもりこまれて、ユダヤ人にとって、居心地がよいものであった。
ところが、ナチスのゲッベルス宣伝相は、ユダヤ勢力から仕掛けられた「人間獣化計画」だとして、このワイマール憲法を、事実上、廃棄する。
ゲッベルスが「人間獣化計画」に挙げたのが、次の19項目である。
愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策事なかれ主義(Sports Sex Screen)、無気力・無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、家族制度破壊、民族的歴史観否定――
日本の左翼は、ヘーワ憲法を世界に輸出しようという。
だが、ドイツ人は、ヘーワ憲法のオリジナル版だったワイマール憲法のいかがわしさを見抜き、これに猛反発して、その結果、ナチス・ヒトラーの台頭をまねいた。
日本とドイツのこの大きなちがいについて、モルデカイ・モーゼは「日本人は、あまりにも、ユダヤ人を知らなすぎた」とのべている。
次回も、ひきつづいて、同じテーマで、のべることにしよう。