2008年06月19日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その4)

 ●「東京裁判史観」と「自虐史観」は歴史の断絶
 東京裁判史観と自虐史観は、一対になっている。
 前者が「日本は、侵略戦争をおこなったので、戦犯処刑や都市空襲、原爆投下は当然の報い」というプロパガンダで、後者は、細川護煕・村山富一の戦争責任談話、宮沢喜一の「近隣諸国条項」に象徴される「日本は、アジアに侵略戦争をしかけたので、その咎を負わねばならない」という歴史上の事実誤認である。
 戦勝国から完膚なきまでに叩きのめされた敗戦国が、正気を失い、戦後、半世紀以上もへて、なお、アメリカやアジアに平伏しているのが、現在の日本のすがたなのである。
 なぜ、そのような意気地なしになってしまったのか。
 理由は、三つ、考えられる。
 一つは、戦死や要人追放、財閥解体などで、気骨のある日本人がすくなくなっていたたこと。
 二つ目は、敗戦革命によって、歴史の連続性が断ち切られたこと。
 三つ目は、戦時中、国家総動員法や統制経済をおこなった革新官僚が、戦後、左翼的なGHQの官僚になり、そのまま、霞ヶ関に居座ったことである。
 だが、それだけの理由で、日本人が、これほどだらしなくなるものであろうか。
 むろん、別に、理由があった。
 東京裁判に、国家分断のワナが、仕掛けられていたのである。
「悪いのは、侵略戦争を指導した軍の一部で、一般国民は被害者だった」というテーゼが、それである。
 くわえて、天皇が、戦争責任を免れた。予想していたより温和だったGHQ政策とアメリカ民主主義にふれて、いつのまにか、日本人は、「じぶんたちは軍部にダマされていた――われわれは、軍国主義の被害者だった」という、思考パターンに陥った。
 GHQが仕掛けてきた思想戦に、一発で、KO負けを喫してしまったのである。
 戦後、日本人が、物質的満足にしか関心をむけないエコノミック・アニマルになってしまったのは、軍事力・占領・思想戦(戦争における勝利の三原則)に、徹底的に敗北したからで、その思想戦の仕上げが、「国の指導者からダマされていた国民に罪はない」という免罪符だった。
 その結果、何がおきたかといえば、「歴史の断絶」と「過去の否定」だった。
 ダマされていた、ということは、悪いのは過去の体制ということになる。
 東京裁判が閉廷した日、朝日新聞は「お役目ご苦労様」と書いた。日本の戦争指導者を処刑したGHQをねぎらったのである。歴史の連続性が断たれていなければ、できない芸当である。
 東京裁判史観の弊害は、日本が、侵略戦争をおこなったという罪意識ではなく、一般の日本人が、指導者にダマされていたとする被害者意識である。
 それに気づかせてくれたのがGHQなので、戦後日本人にとって、GHQは、恩人ということになる。
 GHQを解放軍と見立てた日本共産党は、GHQの建物の前で万歳三唱をしたが、多くの日本人も、そのトリックにひっかかって、過去を見限って、アメリカ民主主義にとびついた。
 それでは、GHQがもちこんできたアメリカ民主主義とは、何だったのか。
 かぎりなく、共産主義に近い人民民主主義だった。
 GHQは、ニューディーラーの集団だった。
「赤狩り」のマッカーシズム旋風で、ニューディールの推進者だったルーズベルト(当時はすでに死亡)一派が一網打尽にされたことからもわかるように、ニューディーラーは、大半が、共産主義思想の持ち主だった。
 だからこそ、GHQの対日敗戦処理が左翼的で、かれらがおしつけてきた憲法が、あれほど左翼的だったのである。
 サンフランシスコ講和条約が成って、GHQは去った。だが、左翼的な体制は残った。
 この体制をまもろうするのが、護憲派で、その代表が日本共産党である。
 GHQを解放軍として迎えた日本共産党が、GHQがつくった憲法をまもろうとするのは、筋がとおっている。ニューディーラーが、かぎりなく、共産主義に近かったからだが、そのニューディーラーは、アメリカで退治された。
 マッカーシズムによって、アメリカは、正気にもどった。
 だから、日本共産党は、かつて、解放軍と見立てたアメリカを、こんどは「米帝」と罵るのである。
 サンフランシスコ講和条約のとき、日本でも、マッカーシズム旋風が吹き荒れていれば、真っ先に憲法が改正されて、東京裁判史観・自虐史観などでてくる余地はなかっただろう。
 だが、軍隊や国家主義に嫌悪感をもっていた吉田茂に、戦後体制と憲法をかえる気はなかった。安全保障はアメリカにまかせて、日本は、経済発展だけに専念しようというのである。
「東京裁判史観」と「自虐史観」は戦後の日本人がつくった――というのは、この国家否定の思想は、吉田ドクトリンのもとで、GHQが敷いた左翼化路線をまっしぐらにすすんできた必然的な結果だからである。
 労働・組合運動による資本主義精神の破壊と日教組による教育破壊、左翼マスコミによる世論操作――この三つで、国家の背骨は、ガタガタになる。
 その路線を敷いたのが、日本の大改造をはかったGHQだったのはいうまでもない。
 だが、これらの歴史や文化の破壊は、GHQのもとで、すすめられたわけではない。
 GHQ改革は、短期間で収束して、言論弾圧や神道指令も、早々に、解除された。
 そして、昭和27年のサンフランシスコ講和条約のあと、アメリカへ帰っていった。 
 昭和三十年の前半までは、戦前の日本が残っていた。どこの家も国旗をもち、祝日には、玄関に日の丸が掲げた。アメリカを悪玉にした戦争マンガ(ゼロ戦はやとなど)が人気を博し、皇国史観を題材にした映画(日本誕生/1959年)もヒットした。
 当時、東京裁判史観や自虐史観は、影も形もなかった。
 昭和40年代後半になって、国歌や国旗を排撃する風潮、皇国史観を否定する流れが生じたのは、戦前の日本人が第一線から去り、いれかわって、戦後のGHQ世代が社会のリーダーとなったからである。
 すでに、日教組や組合・労働団体、社会党・共産党、左翼マスコミなどが大きな力をもっていた。
 かれらと、戦後世代が、冷戦下、平和主義と経済発展の二大車輪をおして日本の戦後をつくった。
 戦後のGHQ世代は、戦前からの歴史の連続線を継承していない。
 歴史をもたない戦後世代が、ためらうことなく、GHQが敷いた左翼化路線にのったのが、小泉純一郎に代表される改革主義で、小泉は、首相在任中、万世一系を否定する皇室典範の改悪をはかった。
 GHQが蒔いたタネが、長い潜伏期をへて、発芽したのである。
 わたしは、戦後日本の思想的混迷の原因が、GHQの置きみやげにあるという認識をもっている。
 国体にたいする危機感も、そこから、でてくる。
 歴史の連続性が断たれているので、皇室典範の改悪や道州制の導入、外国人参政権の付与という、国家・国体の根幹をゆるがす法案が、何の抵抗もなく、保守党から発議されるのである。
 かれらと議論して、痛感するのが、国体感覚の欠如である。
 道州制をすすめている政府委員会の代表に「天皇体制をどう担保するのか」とたずねたが、かれから明快な答えは返ってこなかった。
 アメリカ民主主義の枠内で考えているので、国体にまで、考えがおよばないのである。
 アメリカ民主主義は、一方が社会主義の顔で、一方の顔は、経済功利主義(新自由主義)である。
 いったい、どのくらいのひとが、日本の改革が、GHQ改革の焼き直しということに気づいているであろうか。
posted by 山本峯章 at 03:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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