2008年06月27日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その6)

 ●イデオロギー語に踊らされる戦後の日本人
 今回は、人権や差別、民主主義など、戦後日本を呪縛してきた<イデオロギー語>について、考えてみたい。
 テロや暴力事件がおきるたび、識者は「民主主義の世の中でおきてはならないこと」と口を揃える。
 だが、テロや暴力は、民主主義ではなくとも、ゆるされるべきことではなく、そんなことに、いちいち、民主主義をもちだす必要はない。
 民主主義は、人類がたどりついた至高の思想なので、テロや暴力など、あってはならないというわけだろうが、はたして、そうであろうか。
 民主主義の発明者で、フランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』でつぎのようにいっている。
「随意に祖国をえらべといわれたら、わたしは、君主と人民のあいだに利害対立のない国をえらぶだろう。わたしの理想は、君民共治であるが、そのような政治体制が地上に存在するはずがないので(独裁や専制政治を憎む)わたしは、やむをえず、民主主義をえらぶのである」
 ルソーでさえ、民主主義について、独裁や専制政治よりはマシ、としかいっていない。
 民が主になると、たしかに、王権や独裁権力は制限される。だが、つねに、民が正しいとはかぎらず、それどころか、民には、天下国家という視点がそなわらないので、大抵の場合、衆愚政治に陥る。
 そもそも、民主主義は、無秩序の代名詞のようなものである。むろん、テロや暴力も排除できない。独裁や専制政治のもとでは、予防拘束や国民監視体制を敷けるが、民主政治では、そうはいかないからである。
 ヒトラーは、日本国憲法のモデルといわれる、過剰に民主主義と平和主義をとりいれたワイマール憲法のもとで、民主選挙に圧勝して、登場してきた。民主主義は、テロや暴力、衆愚政治ばかりか、ファシズムの苗床にさえなるのである。
 戦後、日本人が、民主主義を、この世の天国のように思ってきたのは、共産主義者や反国家主義者の宣伝によるもので、反体制の運動家にとって、たしかに、民主主義ほど都合のよい体制はない。
 だが、一般の人々にとって、民主主義は、無秩序にさらされる、危なっかしい体制でもある。
 ちなみに、ルソーが理想とした"君臣共治"は、日本の天皇体制のことである。
 このテーマについては、モルデカイ・モーゼ(戦後、米政府の対日戦後処理にあたったユダヤ系アメリカ人)のことばを借りて、後述するが、ここでは、モーゼ長老のつぎのことばを紹介するにとどめる。
「自由と平等は相容れず、国家の力なくして人権がまもられたためしはなく、非武装の平和はジョークにすぎない。だが、これを民主主義、基本的人権、平和主義というイデオロギー語におきかえると、それが、一つの理想として、実際にあるかのような錯覚に陥る。
 これが、祖国をもたないわれわれユダヤ人が数千年にわたって生きのび、世界支配を実現させたトリックである。自由や平等、人権や平和主義という虚構仮説(ありえない話)をふりまくことによって、ユダヤ人は、ユダヤ人の敵である国家の弱体化と、国家をこえた個人的な諸権利の両方を、手にいれてきたのである」
 前回、「人権擁護法案」で、反日勢力が、差別と人権とタテに、国家の弱体化を画策している実態をのべた。
 反差別や人権も、自由や平等、民主主義と同様、弱者である個人の権利を無制限に拡大して、国家を衰弱させようというユダヤ・テーゼで、このテーゼにからめとられると、体制は、土台からゆさぶられる。
 差別は、広辞苑によると「差をつけて不当にとりあつかう」ことで、区別は「違いによって分けること」である。したがって、問題点は、「不当にとりあつかう」ことにある。
 だが、現在、日本では、行政上も法的にも、在日外国人や同じ日本人を、差をつけて不当にとりあつかう、などということは、おこりえず、おこなわれてもいない。
 意識の問題については、論外である。ひとによって、価値観が異なり、異なる思想や信条をもつ自由がある以上、心のなかにまでふみこむと、思想統制になり、予備拘束と同様、これは、けっして、ゆるされることではない。
 今回の人権擁護法案は、被差別・人権擁護は絶対的に正しいので、心のなかにまで立ち入って、強制してもかまわないという野蛮な考えに立っている。
 だから、わたしは、そういう法をゆるしてはならないと、声を大にするのである。
 同法の推進者は、人権を、神のことばのように、思っている。
 自由や平等、基本的人権などを、国家ではなく、ヤハヴェ(ユダヤ教の唯一神)からあたえられたものとするのが、ユダヤ・テーゼである。
 そして、それをそっくり、いただいたのが、ヤハヴェを知らないはずの戦後日本人だった。
 日本国憲法に、基本的人権や主権が、だれからあたえられ、だれによってまもられるのか、書かれていないのは、そのせいである。
 日本国憲法をつくったのは、ユダヤ人だった。かれらは、そこに、ヤハヴェの名を書きたかったのかもしれないが、そうもいかない。だから、かれらは、主語を削ったのである。
 戦後憲法は、ユダヤ人ケーディスを責任者とするGHQの少数のニューディーラーによって、わずか二週間でつくられた。たたき台となったのが、ワイマール憲法で、つくったのは、ドイツの内相をつとめたフーゴ・ブロイス以下、三人のユダヤ人学者だった。
 ワイマール憲法も、自由や平等、人権や平和が、神のことばとして扱われている。
 同憲法は、自由と平等(非差別)、平和主義が過剰にもりこまれた、ユダヤ人に都合のよいもので、ユダヤ人の権利をまもるため、世界を改造しようとするユダヤ・テーゼの産物でもあった。

 ●ユダヤ・テーゼに惑わされてきた二十世紀 
 日本人が、普遍的価値としてうけとめている、自由や平等、人権や民主主義などの近代主義は、祖国をもたないユダヤが、じぶんたちの都合がよい世界をつくりあげるため、戦略的につくりあげたイデオロギー語だったのである。
 このあたりの事情をおさえておかなければ、日本人は、そっくり、ユダヤ・テーゼにとりこまれてしまうことになる。
 ちなみに、ヒトラーがユダヤ人のジェノサイドを決意したのは、ユダヤ・テーゼの存在を知ったためといわれる。

【ユダヤ・テーゼ10項】
@中世以降、啓蒙思想などをとおして、自由と平等、人権、民主主義を普遍的な価値に高め、個人と国家と対立させてきた
Aユダヤ人であるジャン・ジャック・ルソーは「社会契約論」で、自由と平等が国家をこえることをしめした
Bルソー主義によって、ヨーロッパにおける王室の廃絶とフランス革命が実現した
Cユダヤ人であるマルクスが、ユダヤ教を「共産党宣言」にリライトして、暴力革命の必然性を示唆(ユダヤの金銭観、世界観を反映させたのが「資本論」)した
Dユダヤ人であるレーニンが、戦争こそ、革命をこえる有効な革命とする「帝国主義論」を展開(敗戦革命)した
Eドイツ法学界のユダヤ勢力が、自由と平等を過剰にもりこんだ「ワイマール憲法」をつくり、結果として、ナチス・ヒトラーの台頭をまねく
Fユダヤ人であるルーズベルトが、ニューディール政策で、アメリカの共産化をはかる
Gルーズベルトが、スターリンとつうじ、ドイツ・日本に宣戦布告をおこなって、世界大戦をひきおこす
Hユダヤ集団GHQが、戦後日本をユダヤ(無国籍者)の楽園にすべく、自由と平等を基本的人権におきかえた平和憲法を制定する
I二律背反する自由と平等をもりこんだ民主主義によって、国家理性と道徳が崩壊した


 自由と平等の啓蒙主義から、フランス革命、ロシア革命、第二次世界大戦、GHQによる日本改造まで、世界史の激動に、ユダヤ・テーゼがはたらいていたわけだが、その作品の一つが、日本国憲法だった。
 戦後、マッカーサー元帥以下、ユダヤ人を中心とするGHQのニューディーラーたちは、日本という国家を解体すべく、勇んで、日本にやってきた。
 そして、日本の真のすがたを発見して、腰を抜かすほど、驚く。
 山本七平・イザヤペンダサンの『日本人とユダヤ人』に並ぶ名著として知られているモルデカイ・モーゼ著『日本人に謝りたい』(日新報道)から引用する。

 われわれ、ユダヤ民族は、西洋人にない高尚な理想をつねに頭に描いてきた。
 だが、ユダヤ民族は、永い永い迫害の悲しい歴史のなかで、これら理想を実現させる余裕などまったくなく、ただ、いかに、生命の安全をまっとうするかということだけに心血を注がねばならなかった。
 第二次大戦終結まで、みずからを解放するため、つねに、たたかいつづけてきたわれわれには、残念ながら、理想は、遠い夢にすぎなかった。
 われわれは、敗戦後の日本へやってきて、はじめて、ユダヤ人が理想としてきたものが、日本に実在していたことを知った。
 そのときの驚きは、いまなお、筆舌につくしがたい。
 われわれの犯した誤りは、戦前まで、日本が世界に冠絶した、類い稀れなものとして誇っていた数々のものを破壊してしまったことである。
 そのことを思うと、われわれの心は痛む。その痛みは、日本が戦前まで、もっていた類い稀れな長所が、われわれ、ユダヤ民族が理想としてもとめてきたものだったと知るほどに、深い後悔をともなって、倍加されるのである。
 マッカーサーもわれわれも、天皇を、日本統治のために利用したのでない。
 われわれは、君民共治の理想を、ルソーが空想のなかにもとめたように、現実のなかにみいだしたのである。

 ユダヤ人、アインシュタインも、大正十一年、伊勢神宮を訪問した際、同様のことをのべている。

 近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
 一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。
 私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。
 世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。
 そのとき、人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主を仰がなければならない。
 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえたもっとも古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアにはじまって、アジアに帰る。
 それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
 われわれは神に感謝する。
 われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを――
( 祥伝社黄金文庫 「『日本文明』の真価」/清水馨八郎)

 中学生が、平気で、人権ということばを口にして、大人が、そのことばにひれ伏すという異様な出来事が、戦後、半世紀もつづいてきた。
 そろそろ、その呪縛から開放されなければ、ユダヤ・テーゼを戦略化する反日勢力によって、日本は、アインシュタインが感動した真のすがたを完全に失ってしまうことになるだろう。
 次回から、モルデカイ・モーゼの未発表遺稿と故モルデカイ長老の意志を継ぐユージン・L・モーゼ氏の監訳をまじえ、反日主義の正体をさらに暴きだしていきたい。
posted by 山本峯章 at 02:04| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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