2010年11月01日

 天皇と日本の歴史@

 ●属国と柵封体制
「属国化(日本の中国への)は、いまはじまったことではない」という仙谷官房長官の真意は、どこにあったのか。
 桃太郎のお伽噺(桃は古代中国の神仙思想で不老長寿の果物)をもちだして、日本文化が、中国に依存していると強弁したところをみると、外務省チャイナスクール並みの中国崇拝主義者で、仙谷のいう「属国化」というのは、おそらく、柵封体制のことであろう。
 日本が柵封体制にくわわったのは、後漢書に「倭奴国王、後漢に遣使」としるされた西暦57年から、雄略天皇(西暦479年崩御)までの四百年余だが、柵封と属国は、別物である。
 柵封は、いまでいう安全保障条約で、当時、東アジアでは、柵封体制からの離脱と戦争が、表裏の関係にあった。
 古代の東アジアは、一種の国際紛争地帯で、分裂状態にあった中国と朝鮮半島、日本が、くんずほぐれつの領土争いをくり広げていた。
 日本(倭)は、391年に、新羅・百済軍を破ってのち、663年、白村江の戦いで大和朝廷の水軍が唐に敗れるまで、朝鮮南部に権益を有していた。
 柵封体制は、日本が朝鮮半島の権益をまもるための戦略的条約で、柵封体制内で、大和朝廷が成立したのも、国家を樹立するには、柵封という安保条約が必要だったからである。
 ところが、戦後の自虐史観では、柵封体制が、あたかも、属国関係であるかのように語られる。
 日本が柵封体制から完全に離脱したのは、聖徳太子が隋の皇帝に「日の出づる処の天子」と謳った親書を送った607年で、翌608年、隋に派遣された小野妹子は「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す」としたためた国書を携えた。
 このとき、隋の煬帝が激怒したのは、日本が中国と対等の立場にあることをあらわす天子・天皇の文字があったからだった。
 日本は、柵封という安保条約を利用したが、周辺諸国を東夷・西戎・北狄・南蛮と見る「中華思想」に与することも、中国を宗主国とする「華夷秩序」につらなることもなかったのである。

 ●柵封体制からうまれた大和朝廷
 戦後、皇国史観の排除によって、天皇が、歴史書からすがたを消した。
 そのため、歴史から、日本の国体や日本特有の権力構造、固有の文化や民族性を読みとることが困難になった。
 日本という国体は、天皇が、権力者から権威へと移り変わってゆく古代史において、明らかになるのであって、日本固有の社会構造や民族文化も、天皇の権威と幕府の権力の二元的な関係を抜いて、語ることができない。
 天皇不在の歴史では、ただの権力史となり、そこから、日本という国のかたちができあがった物語が見えてこない。
 日本は、ヨーロッパや中国とちがい、権力闘争からうまれた国ではない。
 大和朝廷成立以前から、自然を神と見立てる特有の宗教観から、剣ではなく、祈念によって、国を治める思想がうまれ、そこから、卑弥呼のような神格をもった調停者が統治者となる風土が生じた。
 それが、天皇の原型で、紀元前、百余国に分立していた時代の日本では、長(おさ)の多くが、世俗的な権力者ではなく、神格をもった超越的権威だったと考えられる。
 だが、柵法体制にあった倭国や邪馬台国、大和朝廷の大王が、すべて、権威だったわけではなく、権力者としてふるまった天皇もすくなくなかった。
 柵封体制というユーラシア型の政治機構に組みこまれることによって、日本もまた、一元的な権力構造にならざるをえなかったのである。

 ●権威と権力の二元性が日本の国体
 それでは、いつから、天皇が、権威となったのか。
 雄略天皇(21代)以後の六世紀からである。
 柵封体制における最後の天皇となった雄略天皇は「治天下大王」を名乗ったことからもわかるように、最後の権力型天皇でもあった。
 小国家群だった古代日本は、倭や邪馬(中国の命名)、大和(日本の命名)という一国をなしてのち、柵封体制に編入されることによって、宗教的国家群から、一大権力国家へ変貌したのである。
 中国の史書「宋書」に記されている五人の倭王(讃・弥・斉・興・武)のうち、武が、雄略天皇で、宋から「使持節都督倭・百済・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍・倭国王」という称号をうけている。
 有力な皇位継承者を次々に殺害するなど暴君として鳴らした大悪天皇こと雄略天皇は、朝鮮半島の半分を領有する大権力者でもあったのである。
 ちなみに、残りの四人の倭王は、讃=仁徳(あるいは履中)天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇といわれるが、定説はない。
 雄略天皇は、異母兄・安康天皇(20代)の死後、即位したのちに有力な皇位継承権保持者をことごとく殺してしまったので、実子の清寧天皇(22代)をへて、ついに、血筋が絶える。
 それでも、万世一系の血統がまもられたのは、天皇の正統性が、皇室の家督者ではなく、神武天皇のY遺伝子(男系男子)の継承にあったからである。
 それが、当時、北陸にあった応神天皇の五世、継体天皇(26代)である。
 当時、有力豪族たちは、国家の支配者の正統性を、権勢や武力ではなく、神武以来の万世一系にみとめた。
 これが、日本の国体のはじまりで、これは、人為よりも自然の摂理をおもんじる日本精神への復帰でもあった。
 権力型の天皇が、血筋とともに、雄略天皇で終わると、神に祈る神である天皇(権威)と摂関政治・幕藩体制(権力)の二元体制という、世界に類のない政治システムがスタートする。
 天皇という視点から日本史を見直すと、日本という国のかたちが、よく見えてくるのである。
 仙谷の柵封体制=属国という歴史認識の誤りを正すところから、テーマが横道にそれたが、本稿の本題は、こちらのほうで、次回以降、継体天皇、仁徳天皇、神道、皇国史観など、順を追って「天皇と日本の歴史」のテーマで、論をすすめてゆきたい。
posted by 山本峯章 at 13:17| Comment(90) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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