2015年03月04日

 国家と国体C 月刊ベルダ3月号(2015年2月発売)より転載

 ●憲法の上位にあるべき皇室典範
 現行憲法の最大の欠陥は、国体観念が欠落しているところにある。
 国家主権の不在から、防衛義務の放棄(9条)にいたるまで、国家の安全と安定、秩序を保障すべき国家基本法が、危機と流動、混乱の要因となっている原因は、そこにある。
 それが、現行憲法の危うさで、伝統という肝心なものが抜け落ちている。
 伝統は、国体ということである。
 日本という伝統国家は、一過性の権力構造にすぎない政体と、歴史や文化の連続性である国体の二元論から成り立っている。
 国体観念を欠いた現行憲法は、この二元論的構造が、根本から崩れ堕ちている。
 三島由紀夫は、これを「西洋の神をもって日本の神が裁かれた」と表現した。
 キリスト教にもとづく西洋の自然法をもって、日本古来の自然法が断罪されているというのである。
 現行憲法は、いわば、異教徒の経典で、そこから生じるのは、危機と不安定、動揺だけであろう。
 われわれが、安心して生きてゆけるのは、お天道様や神、親子の関係、秩序など、絶対的なものに拠って立っているからで、人間の心も、ゆるがせにできない信仰と信念、確信があるから安定する。
 一方、観念やことば、議論は、相対的な価値でしかなく、打算やその場しのぎの考え、ことばほど、あてにならないものはない。
 絶対的なものなくして、物事は、安定しない。
 その絶対的なものが、具象ではなく、象徴に宿っていることは、法や制度、権力が移ろいやすく、歴史や文化、宗教が永遠であることからもわかる。
 佐藤優氏は、著書「日本国家の真髄」で、賀茂真淵、本居宣長に連なる最後の国学者といわれる山田孝雄博士のこんなことばを紹介している。
「これ(国体)は恰も健康体を持ってゐ人間に在つては、その身体ついて何事も忘れてゐるが如きものである」(帝国の精神/文部省教学局/昭和13年)
 同氏が、同書で「国体は発見されるもの」とのべたのは、至言で、目に見えないものがかたちとなってあらわれるのが象徴である。
 伊勢神宮に参詣した西行法師が詠んだ「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」が、象徴の機能で、戦争に負けて、なお、日本国民が、天皇の行幸を熱狂的に迎えた心理も、これにつうじるだろう。
それが、絶対ということで、神惟(かむながら)の国体が、言挙げしないのは、絶対的なものは、語ることができないからである。
 そこに象徴≠フ本義がある。
 象徴は、絶対的でありながら、目に見えず、意識されざるもののしるしで、日本人と日本という国家を成り立たせている国体の象徴が天皇なら、国家民族の永遠性を祈る象徴行為が祭祀にあたる。
 三島由紀夫の死後、盾の会憲法研究会が完成させた「維新法案序」の第一章に定義されている天皇の要諦は2点である。
一、天皇は国体である
二、天皇は神勅を奉じて祭祀を司る
 三島が、国家や憲法ではなく、国体(天皇)と祭祀(祈り)を絶対とみたのは、それが、日本国の起源、歴史の出発点だったからである。
 国体と祭祀が、先進国のなかで唯一、革命がおこなわれていない、世界最古の伝統国家日本の国のかたちである。
 祭祀は祈りで、天皇は、国の肇(はじまり)から「神に祈る神」であった。
 漢時代に完成した『漢書』地理志には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す」という記載がある。紀元前1世紀に、百余りの小国に分立していた倭国が邪馬台国、さらに大和朝廷へ統一されていった過程で、大きないくさがあったという記述(古事記・日本書記)がないことから、百余国の統一は、宗教的統合で、祭祀が重要な役割をはたしたと思われる。
 天皇の祈りによって、百余国が統一された史実は、この世(葦原の中つ国)支配者だった「国つ神」が、高天原の「天つ神」に支配権を譲った「国譲り神話」と符合している。
 事実、日巫女は、天照大御神に仕える巫女で、『魏志倭人伝』には、「鬼道によって人心を掌握」とある。(卑や倭、邪や鬼は中華思想にもとづく蔑字)
 日巫女の後継者で宗女の壹與、壹與の摂政とも、女帝(女系ではない)日巫女の男系の後継者だったともいわれる崇神天皇(大和朝廷の礎を築いた天皇/神武天皇と同一人物という説もある)も、「神に祈る神」で、大和朝廷は、祈り(祭祀)によって、統一されたのである。

 実際に機能しているのは、国体という象徴の力≠ナあって、軍備放棄(9条)や平和を愛する諸国民とした憲法前文は、飾り物にすぎない。
 憲法が絶対なら、自衛隊は違憲なので、解散して、日本は丸腰にならなければならない。
 ところが、現実では、日本は、世界第五位の軍事力をもって、国家を防衛している。
 日本の軍備は、憲法という教条のさだめるところではなく、国体という身体が、生来的もっている防衛本能≠ノ拠って立っているのである。
「9条があるから日本は平和なのだ」とする護憲勢力は、国家を国家たらしめている国体に無自覚で、国体が有する防衛本能の放棄(9条)を日米安保条約と世界5位の軍事力が補填している事実をみていない。
 日本の現在の文化的・経済的繁栄や防衛、秩序は、国体の要請によって達成されたもので、国家という茎や葉、花や実は、国体を根っこにしている。
 その国体の象徴が天皇で、日本史において、数々の権力者のうち、だれ一人、天皇にとって代わろうとしなかったのは、日本の権力は、天皇の権威を権力の正統性(レジテマシー)としてきたからである。
 天皇の権威は、国の永遠性を祈念する祭祀に象徴される。
 ところが、現行憲法では、国事行為としての祭祀が、天皇の個人的行事にされて、国と切り離されている。
 それが、11宮家の臣籍降下などの国体解体≠意図したGHQの憲法戦略だった。

 憲法99条に「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務」がある。
 天皇が公布する憲法において、天皇が、政治家や公務員と同格の個人とされているのである。
 天皇が人権や戸籍、人格を有さず、皇位が世襲なのは、権力者ではなく、権威だからである。
 天皇が象徴なのは、祭祀をおこなう皇位が皇統だからで、日本国民の総意にもとづく世俗的君主であるなら、歴史や神聖というレジティマシーをもたない大統領で十分である。
 日本の憲法は、17条憲法から大宝律令、武家諸法度、五箇条のご誓文にいたるまで、政治家や官僚のありかたをしめすのが伝統である。
 ところが、現行憲法では、天皇の勅である国家基本法で、天皇のありかたを規制し、象徴たる権威を私人とし、国家の根源たる祭祀が、国事行為から外されている。
 憲法は、世俗的制度で、制度は、いつでも、改廃できる。
 その憲法に皇室典範をとりこみ、お世継ぎの方法まで規制することは、それ自体、国体の危機にほかならない。
 天皇陛下と習近平中国国家副主席(当時)の会見を強要した民主党小沢一郎元幹事長の「天皇は政府の決定にしたがう」という発言や小泉純一郎元首相の皇室典範改定は、歴史にもとづく国体と、政治や権力の産物にすぎない憲法を逆転させたもので、権力と権威の逆転は、日本という国家を危機に陥れる。
 皇室典範は、あくまで、憲法の上位におかれなければならない。
 権威が権力の上にあるのは、過去が現在の礎であるように、永遠の真理なのである。
 国をまもることは、天皇をまもることというのは、以上の意味合いからである。
posted by 山本峯章 at 14:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする