2015年11月18日

 国家と国体 K 月刊ベルダ11月号(2015年10月発売)より転載

 ●地政学上の要衝に位置する日本
 地政学的な特性を抜きに、日本の防衛を考えることはできない。
 平和論者のなかには、非武装中立論(九条遵守)を唱える者がいるが、非武装中立のコスタリカや武装中立のスイスと日本では、地政学的な条件が異なる。
 日本は、4つの領海(太平洋・日本海・東シナ海、オホーツク海)を隔ててアメリカとロシア、中国、韓国、北朝鮮と隣接している。
 しかも、通商や軍事面において、5つの国と密接な利害関係をもつ。
 ロシア(ウラジオストック)や中国、朝鮮半島にとって、日本は、太平洋へでてゆく妨害者で、太平洋を独占したいアメリカにとっても、邪魔者である。
 侮りがたい大国で、原爆を投下された太平洋戦争以外、戦争に負けたことがない。
 伝統国家でもあって、革命国家であるこれら5つの国とは、文化や価値観が異なる。
 地政学的要衝に位置する日本は、元々、周辺国から敵視、あるいは疎まれる運命を背負っていたのである。
 江戸時代は鎖国でしのぎ、明治に入って帝国主義を立て、日清・日露、第一次大戦に勝ち、国際的地歩を固めたが、前大戦では、敗北した。
 そして、憲法九条によって、丸腰にさせられたが、日米安保条約と再軍備をもって、再び、独立国家の体裁を整えた。
 国際情勢に、大きな歴史的変化はあったものの、利害対立国群に包囲された日本の地政学的条件は、大戦前から変わっていない。
 憲法九条によって、平和がまもられてきたというのは、とんだ妄想で、日米安保と自衛隊が、旧日本軍に代わって、戦争のない状態(=平和)をつくりだしてきたのである。
 第二次大戦が終結してから70年がたち、戦勝国が世界を支配する戦後体制は、米ソ冷戦構造崩壊後、急速にほころびはじめ、イラク戦争以後、アメリカが世界の警察官≠ニしての役割をはたせなくなるに至って、ほぼ瓦解した。
 くわえて、中国の台頭によって、アメリカの一極支配は、いよいよ、怪しくなっている。

 ●アジアに迫り来る危機の構造
 現在、アジアの軍事バランスは、二つの局面で、微妙に変化しつつある。
 一つは、中・韓接近で、半島有事によって、韓国が、中国と北朝鮮連合にのみこまれる可能性がでてきた。
 もう一つは、米軍のアジアからの撤退で、韓国からの完全撤兵と沖縄海兵隊のグアム島移動によって、近い将来、アジアにおけるアメリカ軍の影が薄くなる。
 第七艦隊も、指令系統が横須賀や沖縄からワシントンに移って、海上自衛隊と米海軍の一体感が希薄になるだろう。
 西太平洋から日本海、南シナ海、インド洋、ペルシャ湾にいたる第七艦隊の守備海域が、アメリカの戦力地域から外れる一方、中国海軍が勢力範囲を拡大してくると、シーライン危機が現実のものとなってくる。
 日本とアジアの安全をまもっているのは、日本とアメリカ(在日米軍/在韓米軍・第七艦隊)、台湾、韓国、オーストラリア、これにたいする中国・北朝鮮、第三戦力のインド、アセアン諸国らの軍事バランスである。
 このバランスが決定的に崩れたとき、紛争の危機が現実のものとなってくるだろう。
 米海軍がフィリピンのスービック基地を放棄したあと、中国が南シナ海を領海化したのが好例で、軍事力の後退は、かならず、紛争の危機をまねく。
 戦後、朝鮮半島やベトナム、アフリカ、中東が戦火に包まれたのは、日本とドイツの敗戦によって、旧植民地という軍事的空白地帯≠ェ生じたからだった。
 憲法九条によって日本が非武装地帯≠ノなっていたら、ベトナム戦争以前に日本列島が、米ソ代理戦争の戦場になっていたかもしれない。
 そうならなかったのは、在日米軍や自衛隊という軍事力が存在していたからだった。
 日本の防衛予算(5兆円)は、世界8位で、兵員、戦車、航空機、攻撃ヘリ、空母、潜水艦の6要素から算出した総合戦力ランキング(クレディ・スイス)では、アメリカ、ロシア、中国に次ぐ4位で、インド、フランス、韓国、イタリア、英国、トルコをしのいでいる。
 交戦能力の高さに至っては、日本がアメリカに次ぐ2位で、ロシアや中国をこえるというのが、世界の有力軍事専門誌の分析である。
 憲法九条など、宇宙の彼方へふっとんでいるわけだが、それが、シーラインの安全をまもっている平和の真のすがたである。

 ●実戦シミュレーションによって保たれている平和
 これからの戦争は、IT技術と精密機器のたたかいで、鉄砲かついで戦場にむかう戦争は、とっくに終わっている。
 現代の戦争は、総力戦でも局地戦でも、シミュレーションで片が付く。
これはおそろしい話で、開戦前に戦争の決着がついて、負けたほうは、たたかわずに、敗戦国となってしまうのである。
 台湾海峡危機から朝鮮有事、尖閣列島、南シナ海やシーライン防衛にいたるまで、紛争が回避されているのは、攻撃と防衛の実戦シミュレーション≠ェ拮抗しているからである。
 米ソ冷戦が、キューバ危機をふくめて、ホット・ウオーにいたらなかったのは、想定される攻撃効果と攻撃をうけた場合の被害が拮抗して(相互確証破壊)いたためで、アメリカが冷戦に勝ったのは、シミュレーションゲームに勝ったのである。
 核攻撃を抑止する相互確証破壊≠フメカニズムもシミュレーションである。
 日本は、核をもっていないが、日米同盟という核の傘≠フ下にある。
 たとえ、核報復がおこなわれなくとも、核を使用した国は地球的村八分≠フ扱いをうけて、首都が被爆したと同様、国家滅亡へむかわねばならない。
 現代は、戦争も平和も、シミュレーションによって保たれている。    
 したがって、いかなる戦争も、通常兵器に限定される。
 通常兵器による戦争も、実行に移されることはない。
 前述したように、現代の戦争は、シミュレーションによって、たたかう前に勝敗が決してしまうからである。
 中国海軍が、海上自衛隊より実力が上なら、尖閣列島は、人民解放軍が宣言したとおり、直ちに、中国海軍によって占拠されていたはずである。
 そうならなかったのは、海自の防衛力が、中国海軍の攻撃力を上回っていたからである。
 それが安全保障で、平和は、軍事バランスによって、維持されるのである。
 自衛隊の行動範囲は、国内と領海内、シーラインの輸送船護衛に限定されるので、大量の兵力や戦車を必要としない。
 日本が準備すべきなのは、日米連合となる全面戦争ではなく、大量の兵力や戦車、空母、爆撃機を必要としない防衛戦で、防衛戦は、攻撃戦よりも優位に立てる。
 遠征戦となる攻撃軍の能力は、数分の一に縮減されるからである。
 外洋を航行してくる大型空母は、迎撃潜水艦の格好の標的で、イージス艦ですら、出撃すれば、大和や武蔵のように、魚雷攻撃にさらされる。
 日本海軍の伝統戦法は、日本海海戦以来、漸減邀撃(ざんげんようげき)である。
 敵艦隊の遠征途中で、潜水艦や航空機で痛めつけ、近海の決戦場で、巨砲を見舞うというもので、戦艦大和や武蔵はそのためのものだった。
 日本が、専守防衛の漸減邀撃に徹すれば、防衛は、自衛隊の現勢力で十分に可能で、あとは、戦闘力の先鋭化をはかるだけである。

 ●日本は単独で国家をまもらなければならない
 現在、日本の軍事力は、質の高さにおいて、アメリカと肩を並べる。
 日本の防衛能力は、数や量ではなく、技術の高さに依存している。
 その象徴が、第6世代戦闘機の国産試作機ATD-X(心神)である。
 使用されているXF5-1エンジン(IHI製作)は、推重比率が世界トップレベルで、同機のアフターバーナー燃焼時のスピードは世界一である。
 ステルス性も世界トップレベルで、エンジン排気ノズルを可動型にした独自な技術によって、ゼロ戦並みの旋回性能ももっている。
 レーダーなどの高度な電子化や全方位を射程におさめる火器管制装置、高性能自動追尾機関砲によるミサイル迎撃能力などを考慮に入れると、同機が完成した場合、世界一の戦闘機という折り紙がつくはずである。
 陸上自衛隊の「10(ヒトマル)式戦車」も、第4世代主力戦車として世界最強との呼び声が高い。
 海上自衛隊の装備も、世界最強レベルで、潜水艦20隻体制になれば、中国艦隊は、日本近海どころか、東シナ海にもでてこられない。
 中国潜水艦の天敵が、日本が90機保有する「P3C哨戒機」で、冷戦時代にソ連の潜水艦隊を封じ込めた対潜能力は、いまなお、健在である。
 P3C哨戒機は、高性能の搭載電子機器とターボファンエンジン4発搭載の国産「P1哨戒機」にきりかえられつつあるが、そうなれば、中国の潜水艦はほぼ完全に無力化されるだろう。
 陸上自衛隊の偵察ヘリコプターOH1(「ニンジャ」)は、世界最強の攻撃ヘリコプター「アパッチ」に匹敵する戦闘能力をもつほか、宙返りやロール機動などの驚異的アクロバット飛行が可能で、戦闘ヘリコプターとして世界最高の水準にある。
 空母は、ひゅうが型2隻といずも型2隻の4隻体制だが、戦闘機の発着艦が可能な空母2隻とヘリ空母2隻あれば、本土防衛は可能である。
 日本は、新型ミサイル(SM‐3ブロック2A)の発射試験にも成功している。
 射程や射高が旧型(ブロック1A)の二倍の能力をもつブロック2Aが配備されれば、ロフテッド(高高度)軌道で発射された中距離弾道ミサイルを弾道頂点で迎撃できるようになり、弾道ミサイル迎撃能力が飛躍的に向上する。
 日米が実用化に協力しているレールガン (電磁波砲) も実用に目処がついた。
 レールガンは、リニアによる大量の電流パルスで弾丸を音速の10倍のスピードで発射するもので、日本の「リニア新幹線」とアメリカの「スター・ウォーズ計画」の技術がむすびついた今世紀最大の火器といわれる。
 日米がレールガンの実用化に成功すれば、中国大陸沿岸のミサイル基地網を瞬時に壊滅することができる。
 これらの先端技術は、実戦に利用されなくても、シミュレーンだけで、戦争抑止力としてはたらく。
 次々とノーベル賞学者をうみだす科学立国日本は、マスコミ売国奴のたわ言をよそに、着々と科学的防衛システムをすすめてゆくのである。

 ●平和主義アナーキズムと憲法九条
 日本の安全を脅かすのは、ホット・ウオーではなく、むしろ、平和主義アナーキズムによる情宣戦である。
 平和主義アナーキズムは、無抵抗主義のガンジーやトルストイ(『戦争と平和』)、ソロー(『森の生活』)らの運動をつうじて欧米に広がったもので、個人主義、人道主義、反戦主義、反国家主義のイデオロギーである。
 資本主義にも懐疑的だったところから、ニューディール政策(資本の社会主義化)のルーズベルト大統領は、共産主義ではなく、平和主義アナーキズムの信奉者だったと思われる。
G HQがつくった憲法が、トルストイ的なのは、かれらがニューディーラーだったからで「武器を捨てると平和になる」は、『戦争と平和』からの借り物である。
 作家や大学教授、弁護士らをふくむ反日勢力が「武器を捨てると平和になる」と叫ぶのは、頭が幼稚園児並みだからではなく、トルストイやガンジーの信奉者だからで、原発反対は、日本の長期的エネルギー政策を見据えてのことではなく原始に戻れ≠フソーローやルソーの影響をうけているからである。
 国家や国防は悪で、「武器を捨てると平和になる」という平和主義アナーキズムは、売国思想にほかならない。
 日本が戦争に負けると世界に平和がやってくると夢想したゾルゲ事件の尾崎秀美のようなもので、尾崎が記者をつとめた朝日新聞は、いまなお、平和主義アナーキズムを唱えているのである。
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 国家と国体 11 月刊ベルダ10月号(2015年9月発売)より転載

 ●文化の「国体」と国家理性の「政体」
 国体は何かと問われて、明快に答えられる人は、少ない。
 一流の学者でも、「国家の基礎的な政治原則」「天皇を中心とした政治体制」というのがせいぜいで、国体が、政体から切り離された文化概念ということに思い至っていない。
 国体と政体は、コインの表裏で、一体ではあるが、交わらない。
 政体が、王政や独裁、民主制などの形態をもつ権力構造で、国体は、伝統や歴史的遺産、民族の精神や習俗、文明の蓄積などを包みこんだ文化構造だからである。
 日本では、古代より、権力(政権)が数千年にわたって交代をかさねてきたが、そのかん、土台となる国体がゆらぐことはなかった。
 一過性の権力が、歴史や文化の永遠性の上に構築されてきたのである。
 日本が、世界に類のない伝統国家たりえているのは、古代から継続する国体を有するからで、他の国々は、すべて、国体を破壊もしくは否定した革命国家である。
 君主制の国があるといっても、ヨーロッパの王制は、権力の系譜で、ローマ帝国を源流としている。
 西洋では、権力構造の政体が、文化共同体の国体を破壊して、樹立された。
 国体を失った革命国家が、代わりにもとめたのが、国家理性だった。
 国家理性は、国益のためなら何をやってもゆるされるという原理で、これには、歴史的因縁がある。
 ヨーロッパに国家理性という考え方がうまれたのは、絶対王政が確立された暗黒の中世(14〜16世紀)≠ナ、日本の戦国時代にあたる。
 当時、ヨーロッパ(とくにイタリア半島周辺)では、群雄割拠する小国家群が熾烈な争乱をくりひろげていた。
 日本のいくさとちがうのは、民をまきこんだことで、戦争に負けると、領土も財も奪われ、民も奴隷として売られた。
 ヨーロッパで城塞都市が発達したのは、市民が、都市という砦に集結して、兵といっしょにたたかったからである。
 戦争に負けると、すべてを失うのが、中世ヨーロッパの戦争で、国家がなくなれば、個人の富も名誉も、自由も平等もあったものではなかった。
 国家の勝ち残りを絶対善≠ニする国家理性がうまれたのは、その歴史体験からだった。
 欧米で、国家理性が、国益と同義とされたのは、国益が正義だったからで、理性(リーズン)には、正当な根拠や正しい理由という意味がある。 

 ●国家理性という西洋の怪物
 国家理性は、国家主権とペアになっている。
 国家主権の象徴が、交戦権なら、国家理性の象徴は、<国益に善悪なし>という国家エゴで、国益に合致すれば、海賊行為や武力侵略、軍事威嚇がゆるされる。
 欧米が、奴隷狩りや植民地政策、原爆投下や都市空襲、非戦闘員の大量虐殺を謝罪しないのは、国家がいかなる悪をおこなっても非にあたらないとする国家理性の原理に立っているからである。
 一方、日本は、やってもいない南京大虐殺や朝鮮政府の請願にもとづく日韓併合、どこにでもあった戦場慰安婦問題、アジアを解放した大東亜戦争をぺこぺこと謝罪して回っている。
 国家理性の観念も認識も、もちあわせていないのである。
 国家理性にあたるのが、日本の場合、国体だが、それは、後段でふれよう。
 ヨーロッパでは、中世以降、戦争の勝利者が王政を立て、国家理性が、絶対主義へ移行してゆく。
 国家存続の原則だった国家理性が、絶対王政の規範となったのである。
 マキャベリの「君主論」やジャン・ボダンの「主権論」、ホッブスの「リヴァイアサン=国家怪物論」は、国家理性の思想を汲むもので、西洋では、国家のために悪をおこなうことが、為政者の崇高な義務にまで高められた。
 悪を為して、国家と民をまもるのが、指導者の資質や条件となったのである。

 ●国家理性と国体の対決
 ヨーロッパで絶対王政が崩れたのが、17世紀の名誉革命、18世紀のフランス革命以降で、国家理性が帝国主義や人民政府に移行する一方、法の支配を機軸とする近代国家がうまれた。
 そして、市民(ブルジョワ)革命後、国家理性が、こんどは国家発展の原動力となった。
 産業革命後のヨーロッパや新大陸アメリカの発展をささえたのは、すべてに国益を優先させる帝国主義という新しい国家理性だった。
 その延長線上にあったのが、日本の近代化だった。
 当時、インドから東南アジアがヨーロッパ帝国主義の支配下におかれ、中国は生体解剖≠ニ揶揄されるほどだった。
 国家理性どころか、国家という概念すらなかったアジアが、幾多の主権戦争をくぐりぬけてきたヨーロッパの強国に歯が立つはずはなかった。
 例外が日本だった。
 四方を海に囲まれた日本では、わが国土は天下≠ナ、国家理性どころか、国家という観念も未成熟だった。
 その日本が、欧米から侵略されるどころか、幕末からわずか数十年後、強国の仲間入りをはたしたのは、薩英戦争(英)や下関戦争(英・仏・蘭・米)をたたかった薩長が、国体(天皇)を立てたからである。
 ヨーロッパの国家理性にあたるのが、日本の国体だった。
 薩長が欧米列強とやりあって、近代化に成功したのは、日本には、国体という絶対的な価値があったからである。
 幕末の動乱と明治維新は、日本の国体と西洋の国家理性の対決だった。
 このとき、日本は、驚くべき国家戦略を成功させる。
 天皇をヨーロッパの君主に仕立てた薩長が、日本を西洋型の国家に改造して、帝国主義のみちを驀進するのである。
国体に、国家理性と同等のポテンシャルがそなわっていたのは、主君や藩のために命を捨てる武士道に、国家理性とつうじるものがあったからだろう。
 日本が、近代化に成功したのち、明治憲法制定時(明治22年)において、天皇を元首(大元帥)から国体の象徴という原型に復していれば、軍国主義から第二次大戦の敗戦にともなう国体の危機は避けられていたはずである。
 国体は、西洋の国家理性と同等であったとしても、同一ではないからである。

 ●善≠フ国体と悪≠フ国家理性
 国家理性と国体は、ともに、絶対的だが、内容は、正反対である。
 権力である国家理性は悪≠セが、文化である国体は善≠ネのである。
 日本では、善である国体が、悪である政体を従えた。
 絶対的なのは国体で、幕府という政体は、天皇のゆるしをえて、マツリゴトをおこなう国体の一部にすぎなかったのである。
 国体と政体は、二元論的に機能する。
 民や国土、歴史や文化などから成る国体と、権力をもって国を治める政体が異なった機能をもち、別の原理でうごくのである。
 それが権威と権力≠フ二元論である。
 国体の象徴が天皇で、政体をつくりあげるのが幕府(政府)である。
 いくさに勝った武将が、天皇から征夷大将軍の官位をうけて幕府をひらく形態は、選挙に勝った議員のトップが、天皇から内閣総理大臣を親任される現在の政治システムにまでひきつがれている。
 権力は、権威の親任という正統性(レジテマシー)を必要とするからで、一方、権威の源泉は、民の敬愛である。
 民を治める政府が、天皇から正統性を授かり、天皇が民の敬愛にささえられる三位一体が、日本の国のかたち≠ナ、統治者が絶対権力をふるった西洋とは、国家の成り立ちが異なる。
 国民から選ばれた政治家が、多数決ですべてを決定できるとするのは、直接民主主義で、国民エゴだけで、国家を運営することはできない。
 国民の代表である政治家が、国民の召使いではなく、歴史に責任をもつ国家のリーダーになるには「天皇の親任」という別の作用がはたらかなくてはならない。
 天皇の親任は、国の未来を思い、民を慈しむ皇祖皇宗の大御心の委託で、選挙に勝った政治家は、天皇の親任をえて、はじめて、大御心を実現させる国家の指導者になれる。
 政治は、西洋では悪だが、日本では、善なのである。

 ●国体と憲政を両立させた「御告文」
 天皇は、古来より、国の発展と民の幸を高天原に祈念する祭祀王であった。
 天皇の祭祀(宮中祭祀)は、日本が、世界で唯一、国体を有する国家であることの証で、立憲君主制という近代国家は、日本においては、天皇の万世一系と宮中祭祀という近代合理主義をこえた歴史の真実にささえられている。
 それが伝統国家で、唯物論や合理主義がつくりあげた新政体が、全体主義や独裁政治に陥って崩壊してきたのは、歴史が示すとおりである。
 明治憲法には、前文にあたる「御告文」や「憲法發布敕語」「帝國憲法上諭」において、皇祖皇宗の御心から説きおこされた国体論が条文と並んで、記されている。
 明治憲法は、近代的な立憲君主制と議会・民主主義国家を宣言しながら、同時に、国体を諄々と説いていたのである。
 現行憲法における3大原則「国民主権」「平和主義」「基本的人権」は、国体がもとめるところでもあって、明治憲法では、天皇主権は、国民主権と同義だった。
 明治憲法は、天皇主権といわれるが、条文のどこにも、そんな文言はない。
天皇に主権がおかれていたとすれば、国民主権の言い換えで、大日本帝国憲法発布勅語には、このように記述されている。
「朕は、国家の繁栄と臣民の幸福とを、我が喜びと光栄の思いとし、朕が祖先から受け継いだ大権によって、現在と将来の臣民にたいして、この永遠に滅びることのない大法典を宣布する」
 帝國憲法上諭にはこうある。
「朕は臣民の権利と財産の安全を重んじ、これを保護して、この憲法と法律の範囲内で、完全にこれを守り尊重していく」
 そして、天皇は、国民の幸福(康福)を増進し、国民の立派な徳と生まれながらの才能(懿コ良能)を発達させることを願い、国家の進運を補佐(國家ノ進運ヲ扶持セム)することを望まれる。
 帝國憲法上諭には、「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ」とある。
 天皇という存在は、地位ではなく、祖宗遺烈の歴史的相続、万世一系の世襲で、天皇が親愛する国民は、「祖宗ノ惠撫慈養シタマヒシ所ノ臣民(祖宗が恵み、愛し、慈しみ、養ったところの臣民)」であるとされる。
 天皇は、国民の慈父であって、主権者でも、国民を支配する絶対権力者でもなかったのである。

 ●外には国家理性、内には国体思想
 戦後、国体と政体の区別がつかなくなったのは、国体概念が一掃されたからである。
 その象徴が、憲法前文で、キリスト教的な理想論とルソーやロックの人権思想、共産党宣言の人民主義が並び立てられている。
 フランス革命の「人権宣言」やアメリカの「独立宣言」は、ルソーやロックの人権思想が採られている。
 日本国憲法の前文は、これに、国家を敵とするマルクス史観をくわえ、さらに、九条で、国家主権を否定する交戦権の放棄まで謳っている。
 GHQは、伝統国家の日本に、革命国家のイデオロギーをもちこんで、日本人の魂たる国体を破壊しようとしたのである。
 その日本が、変わることなく日本たりえているのは、敗戦や占領憲法をはね返す国体の力≠ェ残っていたからである。
 いかなるインチキナ憲法をもちながら、日本は、依然として、悠久の国体を有する伝統国家なのである。
 日本は、内には、善としての国体を立て、外には、悪としての国家理性を立てる二枚腰の構えがもとめられる。
 日本は、これまで、外にむけて、国家理性を放棄し、内においては、国体を軽視してきた。
 国家理性が衝突する場面で、政治家が謝罪をくり返し、平和主義者は「武器を捨てると平和になる」と叫び、国体の象徴である宮中祭祀を天皇の私的行事として、国事行為から除外するという誤りを犯してきた。
 日本という国家は、政体の上位にある国体にささえられている。
 皇室典範や宮中祭祀の粗末な扱いが、日本の将来に、大きな禍根を残すことになるのである。
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 国家と国体I 月刊ベルダ9月号(2015年8月発売)より転載

 ●断絶している九条と国家安全保障
 安保法制反対の声が「九条をまもれ」という声と重なって聞こえてくる。
 安保法制に戦争法案≠ニいうレッテルを貼って、これを交戦権放棄≠謳った憲法九条とからめ、安保法制を廃案に追い込もうというのであろう。
 だが、九条は、心肺停止状態で、何の役にも立っていない。
 死んでいる九条をもちだして、日本の安全保障という現実問題に対処することはできない。
 これまで、九条と日本の安全保障が並び立っているかのように語られてきた。
 これは、ご都合主義で、世界で五本指に入る軍備を持つ自衛隊と集団的自衛権にもとづく日米安保条約が、交戦権を禁止する憲法九条と整合するはずはない。
 事実、日本の安全保障は、憲法九条を否定した上に成り立っており、戦後の安保政策で、憲法違反でなかったものは、一つもない。
 だが、憲法改正は、困難だった。
 そこで、政府は、憲法九条の解釈に幅をもたせ、「自衛隊は国民のあいだに定着している」「防衛は交戦権の放棄にふくまれない」などと言い繕ってきた。
 解釈改憲が可能だったのは、日米安保条約が片務的だったからで、専守防衛と個別的自衛権だけなら、ごまかすこともできた。
 だが、中国の軍拡と覇権主義にともなう尖閣諸島と南シナ海のシーレーン危機が浮上してくるに至って、解釈改憲も限界にたっした。
「もっている(日米安保)が行使できない(九条)」とされてきた集団的自衛権をうちだして、日米安保の片務性を解消しなければ、中国に対抗できなくなったのである。
 安保法制は、そのためのもので、集団的自衛権を共有しなければ、守備範囲がひろがった日米安保は、形骸化してしまいかねない。

 ●九条は懲罰的ハンディキャップ
 1952年のサンフランシスコ講和条約締結にあたって、安全保障問題が浮上してきた。
 GHQが日本から引き揚げても、在日米軍は残るが、アメリカには、日本防衛の義務を負わず、独立後も、交戦権を放棄した九条が日本を縛りつづけるからである。
 サンフランシスコ講和条約とGHQの占領停止によって、日本は、独立どころか、却って、国土防衛が手薄になってしまうのである。
 問題は、九条2項で、交戦権の放棄は国家主権の否定を意味する。
 独立後、交戦権を禁じる憲法9条が残ったのは、96条に、三分の二条項があったためで、日本は、憲法に仕込まれた敗戦国条項(交戦権の放棄)≠ノ縛られたままだった。
 鳩山一郎が改憲に情熱を傾け、岸信介が安保の日本防衛条約化に執着したのは、九条があるかぎり、日本は、米・ソいずれかに属国になるか、中国の支配をうけるか、韓国からも脅かされる弱小国にとどまるしかなかったからだった。
 交戦権の放棄は、戦勝国が、占領中の敗戦国に負わせたハンディキャップで、戦争行為にあたる。
 戦争の第一段階は、戦場のおける勝敗、第二段階が敵国の占領、第三段階が武装解除である。
 国家主権(交戦権)を奪うのが、戦争の最終目的だったからには、終戦とともに、武装解除は、解除されなければならない。
 サンフランシスコ講和条約に赴いた吉田茂は、このとき、別室に連行され、有無をいわさず、日米安保条約に署名させられた。
 この時点で、日本の安全保障は、GHQ支配体制から、憲法をとびこえて、安保条約体制へ軸足が移った。
 占領中におしつけられた憲法の武装解除¥項は、日米安保条約によって、安全保障戦略の外へ捨てられたのである。
 米ソ冷戦と中国共産党革命、朝鮮戦争勃発という世界情勢のなかで、アメリカが、日米安保条約締結と自衛隊容認へ方針を変更したのは当然だったろう。

 ●集団的自衛権がささえる安全保障
 護憲派は、世界5位の陸海空軍を解体し、日米安保条約を破棄して、世界に誇れる平和国家たるべしと威勢はよいが、中国軍が尖閣を軍事占拠し、北朝鮮からミサイルが飛んでき、韓国が第二の李承晩ラインを敷いたらどうするのか。
 軍隊をもちません、交戦権を放棄しますといったところで、軍事攻撃をうけたら、国民の生命と財産をまもるため、応戦しなければならない。
自衛隊や交戦権が憲法違反なら、国民が殺されるのを黙ってみていろという話になる。
 1952年の李承晩ラインによって、拿捕された日本の漁船は328隻、抑留された船員は3929人、死傷者は44人に上ったが、軍隊・沿岸警備隊・警察をもたなかった日本は、国民の命や財産をまもることができなかった。
 韓国が奪った竹島を返さないのは、九条が武力による国際紛争の解決を禁じているからで、日本は、法制上、丸腰のままである。

 ●日米安保条約の根幹は集団的自衛権
 日米安保は、集団的自衛権にもとづく双務条約で、自衛隊の代わりに米軍がたたかってくれるわけではない。
 中国軍が尖閣を占拠した場合、まっさきに防衛にあたるのは、自衛隊で、米軍が海兵隊を送り込むのは、日本政府の要請に応じてのことである。
 その場合、日米両軍にはたらく同盟倫理が集団的自衛権である。
 そこが、国連軍の指揮権を握る在韓米軍とちがうところで、日米安保条約は、集団的自衛権があって、はじめて、機能する仕組みになっているのである。
 朝日新聞が、憲法学者209人を対象におこなった安保法制のアンケート調査(122人が回答)では、同法案を「合憲」としたのはわずか2人だった。
 自衛隊については、大半が「違憲」の判断で、9条改正の賛否では、ほぼ全員が「必要ない」と答えている。
 日本の憲法学者は、死んでいる憲法九条で、国をまもれると思っているのである。
 日米安保体制に安住しながら、集団的自衛権を拒むのは、日本が他国から攻撃をうけた場合、アメリカさんよ、代わりにたたかってくれ、だが、一緒にたたかうのはごめんだという、なんとも、虫のよい話なのである。
 
 ●安全保障とモラルを破壊した憲法九条
 戦後70年にわたって、日本の安全保障を担ってきたのは、国連憲章(51条)と日米安保条約(前文)が謳っている「個別的・集団的自衛権」で、陸海空軍の保持と交戦権を否定した9条は、安全保障上の機能をなんらはたしてこなかった。
 安保法制反対派は、その九条をまもれという。
 寝言でなかったら、九条バカ≠ニいうほかない。
 九条は、国家の安全保障を脅かしただけではなく、祖国をまもるというモラルの原点を破壊して、日本人の総平和ボケ≠促したところに大きな罪科がある。
 九条バカの構造は、二段構えで、まず憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」で、頭がお花畑になって、九条2項の「陸海空軍を保持せずと交戦権の放棄」によって、ほぼ、痴呆状態になる。
 これが、敗戦革命の仕組みで、占領憲法をそのまま実践してゆくと、おのずと革命が成就して、伝統国家は、崩壊する。
 GHQ憲法は、もともと、アメリカ独立戦争の啓蒙主義とソ連のコミンテルン思想が詰まった革命綱領だったからである。
 これにとびついたのが、左翼で、国家防衛を禁じる九条が、革命勢力の手にわたって、レーニンのいう敗戦革命の武器に使われることになった。
 もちいられた論法が、「戦争に巻き込まれる」という大衆扇動のプロパガンダだった。
 警察予備隊創設(50年)から、講和条約締結(51年)、保安隊の自衛隊昇格(54年)、日米安保条約改定(60年)、湾岸戦争支援(90年)、PKO協力法(92年)、周辺事態法(99年)、イラク戦争支援(2003年)、そして、今回の安保法制反対にも、エンドレステープのように「戦争に巻き込まれる」とくり返されたが、日本は、戦争に巻き込まれることはなく、60年安保も、半世紀がたった現在、安全保障のレベルと日本の国際地位を向上させたとして、岸信介首相が高く評価されている。
 沖縄の本土復帰も新安保体制あってこその成果で、安保改正ができなかったら、日本全土が、アメリカのための基地のままだったろう。

 ●占領政策の緊急避難だった九条
 それにしても、憲法九条は、不自然にして、不可解な条文である。
 国家基本法に、陸海空軍を保有せず、交戦権を放棄するなどと書き込む必要がどこにあっただろう。
 国土防衛や国軍保有は自然権で、交戦権は国家主権である。
 いずれも、法に先行するので、立法化する必要はなく、どこの国の憲法でもふれられていない。
 ところが、戦後憲法では、これが否定形で、明記されている。
 何のためか。
 天皇をまもるためである。
 マッカーサーは、天皇を裁けば、日本国民が蜂起して、反米闘争が半永久的につづき、天皇を免責すれば、日本統治がうまくゆくことを知っていた。
 なんとしても、天皇を残さねばならない。
 それには、連合国強硬派を納得させうる強力な交換条件が必要だった。
 マッカーサーは、天皇を免責する交換条件として、憲法に、日本が再び連合国側の敵になりえない戦争の放棄条項≠もりこみ、天皇の廃位と処罰をもとめる英豪、ワシントンの一部勢力を沈黙させた。
 憲法九条は、天皇をまもる担保だったのである。
 交戦権の放棄は、国家主権を放棄で、敗戦国といえども、到底、うけいれられるものではなかった。
 天皇の免責とひきかえに、憲法に9条を盛り込むよう迫ったマッカーサーと幣原首相の会談は、3時間にもおよんだ。
 幣原は、天皇をまもるために、結局、九条をのんだ。
 それが、憲法九条の呪われた運命で、戦後日本は国家主権の放棄≠ニいうハンディキャップを背負って、迷走することになる。

 ●安保法制反対派の正体は親中派
 同盟国のアメリカ、英独仏伊らEU諸国、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国、太平洋諸国がこぞって支持しているなか、安保法制に反対しているのは中国と韓国のほか、日本の野党、憲法学者、マスコミ、市民運動家だけである。
 中国の覇権主義とアジア軍事支配の邪魔をするなというのであろう。
 中国は、1990年代以降、国防費を毎年10%もふやしつづけている。
 そんな軍拡主義の国から、戦争法案などという難癖はつけられたくないものだが、中国の軍事的挑発は、防空識別圏設定(2013年)から尖閣諸島の領有権宣言、基地化目的の南シナ海の埋め立てとどまるところを知らない。
 沖縄・尖閣諸島周辺の領海侵犯にくわえ、領空侵犯もふえつづけ、2014年度の航空自衛隊機の緊急発進(スクランブル)回数は過去最多の464回(1日1・2回)になった。
 中国は、東シナ海に面した温州市に、1万トン級の巡視船6隻が停泊可能な1200メートル岸壁やヘリポート基地、大型レーダーを備えた大規模な軍事基地を建設する計画を立てているが、実現すれば、これまでの尖閣諸島防衛策が通用しなくなる。
 米軍との共同戦線を強化する安保法制は、日本の島嶼・海洋防衛に不可欠だったのである。

 ●安保法制によって成功した中国封じ込め
 中国にとって、安倍首相は、いまや、敵将として、もっとも手強い相手となりつつある。
 世界のリーダーに先駆けて、中国封じ込めに成功したからである。
 アメリカは、中国の習近平国家主席がもちかけた新型大国関係という事実上の「太平洋の縄張り分割提案」に乗りかけていた。ヨーロッパも、中国が宣伝してきた日本ファシズム論≠ノのせられて、親中・嫌日ムードが広がりつつあった。
 だが、米上下両院合同会議場における安倍演説への反応を見て分かるように、アメリカは、親中路線から親日路線へ大きく舵をきりかえ、ヨーロッパでも、安倍首相の欧州歴訪によって、信頼関係が強化され、安保法制については、英仏を中心にG8が積極的支持を打ち出した。
 東南アジアや太平洋諸国も同様で、日本を孤立させようという習近平国家主席の目論見が大きく外れたどころか、欧米やアセアンは、中国の防空識別圏の設定や南シナ海領有化などを公然と批判しはじめた。
 米ソ冷戦におけるアメリカの勝利に、日米安保がはたした役割は小さくなかった。
 そして今回は、安倍の安保法制が、世界を巻き込む形で、中国の軍事的暴走に待ったをかけたのである。
 現在、人類が到達した平和の方程式(国家間の秩序モデル)は、バランス・オブ・パワーと相互確証破壊、民主化の三つである。
 フィリピンがアメリカをクラーク(空軍)基地とスービック(海軍)基地から追い出した結果、中国が出張ってきて、南シナ海が危機的状況になった。
 迷惑をこうむったのが、ベトナムなどの周辺国で、フィリピンの平和主義が、アセアン諸国をまきこんで、南シナ海戦争の火種をつくったのである。
 憲法九条を信奉し、70年前の侵略戦争をぺこぺこと謝ってばかりいると、日本は、平和主義国家どころか、戦争を呼び込む火種になりかねないのである。


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 国家と国体H 月刊ベルダ8月号(2015年7月発売)より転載

 ●国体と合致しない天皇元首論
 自民党の改憲案では、第一条に、天皇元首が謳われている。
 天皇のなんたるかを心得ない浅慮で、かつての鳩山由紀夫(民主党)改憲案でも、国民主権と並んで、天皇元首が明記された。
「天皇は元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴」とする自民党の改憲案も、鳩山案と大差なく、「象徴的権威」と「政治的権力」の分離を理論化できずにきた云々という鳩山の弁は、自民党案にもあてはまるだろう。
 要するに、ほとんど無根拠に、鳩山の弁を借りるなら、「天皇は日本の元首か否か」という戦後の不毛な憲法議論に終止符を打つために、天皇が憲法上の元首に据えられたのである。
 もう一つの理由は、英国やオランダなどヨーロッパの国王が、国際儀礼上の元首だからで、日本もヨーロッパ並みにという意識がはたらいたのであろう。
 ヨーロッパ王政よりはるかに長い伝統と歴史的意義をもつ天皇をヨーロッパ並みにという発想はいただけないが、くわえて、天皇元首論には、国体と国家の峻別という重大な視点が欠けている。
 ヨーロッパ王政は、権力の系譜で、源氏や平氏、足利や徳川家にあたる。
 乱の勝者が、絶対者である王を名乗ったのである。
 宗教的権威も存在したが、王権神授説や海外侵略を鼓舞したローマ法王庁のように、権力を補佐し、強化する存在でしかなかった。
 弱肉強食の権力しか存在せず、それに一神論がからんで、西洋は、日本人が想像もできないような一元論的な世界だったのである。
 中国には、覇王と王道があって、将軍が覇王、天皇が王道にあたるという説があるが、誤りである。
 覇王も王道も、権力の側にあって、武であろうと徳であろうと、独裁であろうと民主主義であろうと、政体の概念にすぎない。
 大陸から律令制がもちこまれた平安朝や奈良朝では、天皇を頂点とする中央集権体制となったため、多くの天皇は、権力者としてふるまった。
 しかし、元々、大和朝廷以来、日本は、祭祀国家で、天皇の信任をえた摂政や関白、征夷大将軍の官位を授かった幕府が統治をうけもち、天皇は、祭祀を主宰した。

 古代社会において、祭祀は、ただの儀礼にとどまらない。
 見えざる神々に支配されるこの世を治める政(マツリゴト)は、祈り(権威)であって、税や軍事、財務や人事を扱う統治(権力)は、その下位におかれた。
 鳩山のいう象徴的権威は、文化的権威の誤認で、日本は、文化と権力、国体と政体を分離させ、かつ融合させる二元論をもって、数千年にわたって、国家を営んできた。
 天皇は、文化的象徴で、天皇が征夷大将軍や総理大臣を任命するのは、国家が文化的な基盤に立っているからで、そもそも、国家は、権力と文化の二本足で立っている。
 国家が権力機構なら、国体は文化構造で、両者は、土と水の関係にある。
 命あるものが栄えるのは、土と水があるからで、草木が生えない砂漠やすべてをおし流す濁流は、森も耕地も、共同体も成立しない死の世界である。
 万物は、すべて、地と水に依存するが、さらに大事なのが太陽である。
 日本人は、古来より、万物を超越する太陽(天照大御神)を信仰してきた。
 命あるものは、太陽の下で、平等に生の恵みをうけ、共存共栄する。
 日本人の信仰心は、天照大御神の下で、八百万の神々があそぶおおらかな宗教観が育んだもので、ハンチントン教授が、西洋文明(キリスト教)、中華文明(儒教)から日本文明を切り離したのは、日本人の宗教観(神道)が、世界に類のない自然と神話が一体化した壮大な民族文化だったからである。
 天照大御神(高天原)信仰にもとづく天皇の祭祀は、この世が高天原のように平安で、ゆたかな国でありますようにという祈念で、この祈りが権力にゆだねられて、権力に統治の正統性がそなわる。
そこから、神聖なる権威と世俗の権力が分化した。
 権威と権力の二元体制は、日本古来の宗教観と切っても切り離せない関係にあったのである。
 4百年間の平安朝と二百七十年間の江戸幕府をふくめて、日本が二千年以上にわたって、天皇を中心とするこの体制がまもってきたのは、祭祀主が為政者を任命する権威と権力の二元化が維持されてきたからで、大王(オオキミ)と大連・大臣(オオムラジ・オオオミ)、天皇と摂政の相補的関係は、武家社会になって、朝廷(天皇)と幕府(征夷大将軍)の二元関係に引き継がれて、江戸時代までつづいた。

 ●西洋の真似だった王政復古
 大政奉還の上表文に、「保元・平治の乱で政権が武家に移ってから徳川家の祖である徳川家康に至り、更に天皇の寵愛を受け、二百年余りも子孫が政権を受け継ぎ」云々とある。
 徳川慶喜の大政奉還に権威と権力の分離≠ニいう観念がはたらいていたことがわかる。
 大政奉還は、歴史上、かつてなかった大胆な政治改革で、幕末の啓蒙学者、西周らによる幕府の公儀政体論は、公府(幕府)が行政権と司法権、各藩大名が立法権を分担する議院制を採っており、これが、のちの五箇条の御誓文にも反映される。
 王政復古と根本的に異なるのは、天皇が象徴(権威)として、権力から切り離されていることで、これが、天皇が天神地祇を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べた五箇条の御誓文の典礼から現在の天皇の国事行為にまでひきつがれている。
 公儀政体論は、三権分立と権威と権力の分離≠ニいう高度な政治概念にもとづいたもので、維新が成功していれば、日本は、ヨーロッパ化と帝国主義をとった薩長政権とはちがった形の近代化を実現させていたろう。
 ところが、この大政奉還は、薩長のクーデターによって、王政復古へときりかえられる。
 倒幕派の王政は、古代史上、もっとも有能だったといわれる飛鳥時代の天武天皇や「建武の新政」の後醍醐天皇の皇親政治をさすものではない。
 薩長のいう王政は、神権神授説にもとづく西洋型王政で、権威が不在、もしくは権威と権力が一体化しているヨーロッパ王政を日本にもちこもうというのである。
 二元論から成り立っていた日本の伝統的政治を権力一本の絶対君主制へきりかえようというのが、薩長の王政復古で、戊辰戦争は、江戸幕府がおしてすすめていた政治改革を根こそぎひっくり返す国体改造計画でもあったのである。

 慶応3年(1867年)10月14日、岩倉具視の謀略によって、薩長へ討幕の密勅(偽勅)が下される。
 徳川慶喜が大政を奉還したのは、その同じ日のことで、大政奉還には、薩長や一部公家の倒幕のうごきを封じる目的もあった。
 慶喜に機先を制されて、倒幕の偽勅工作が失敗に終わると、岩倉や西郷らの倒幕派は、打つ手を失った。
 朝廷は、すでに徳川へ政権を委任し、公儀政体の準備が整い、徳川諸藩連合政権ができれば、薩長の出番がなくなるどころか、謀反をくわだてた両藩は、討伐の対象になりかねなかった。
 偽勅工作や謀叛計画は、天下の大罪で、岩倉も西郷らも、ただですむはずはない。
 討幕の密勅が、明治天皇のあずかり知らぬものだったことは、同日、大政奉還と公儀政体の諸侯召集が、朝廷から勅許をえていることからも明らかである。
 15歳の明治天皇に政権担当能力はなく、薩長を除いて、徳川3百藩は江戸幕府と足並みを揃えている。
 朝廷が慶喜に統治を委任し、将軍職も従来どおりとなったのは、当然のなりゆきで、戊辰戦争がおきていなかったら、明治維新は、封建(幕藩)体制から議会君主制(公儀政体)への移行という形をとっていたはずである。
 倒幕派の王政復古は宙に浮いた。
 薩長に残された手段は、幕府を挑発して、いくさにもちこむことだけだった。
 西郷は、赤報隊というテロ組織をつくって、江戸市中で、放火や殺人、暴行の狼藉をはたらかせ、幕府を挑発した。
 江戸幕府が薩摩討伐の兵を挙げれば、これを迎え撃って、いくさにする。
 いくさになれば、朝廷をとりこんだほうに勝ちがころがりこむ。
 幕府も諸藩も、天皇に銃口をむけることができないからである。
 岩倉には秘策があった。
 倒幕軍の本陣に嘉彰親王を迎え入れ、錦の御旗を立て、官軍を名乗ることだった。
 岩倉は、反幕派の下級公家をとりこみ、朝廷内の親幕派の摂政・関白などの役職を廃止して、王政復古の朝廷内クーデターを着々と実行に移す。 

 ●戊辰戦争は薩長のクーデター
 世にいわれるように、小御所会議の決定によって、徳川幕府が辞官納地をうけいれ、王政復古が実現したわけではない。
 その逆で、小御所会議の翌年、慶応4年の元日、徳川慶喜は、諸藩に討薩の出兵を命じ、翌日には、幕府諸藩連合軍1万5千の兵が京都伏見に本陣を構えている。
 大政奉還後も、徳川幕府は、権力の座にあって、叛乱軍征伐の号令をかけていれば、親藩・譜代大名の藩兵だけで、十分に薩長を圧倒できたろう。
 それをしなかったのは、幕府(権力)が朝廷(権威)を重んじ、自制したからで、江戸270年の安泰は、ひとえに、権力の自己抑制からうまれたといってよい。
 その均衡を破ったのが、権力と権威の癒着で、発端となったのが、日米通商条約に、老中・堀田正睦が孝明天皇の勅許をもとめたことで、外国嫌いの孝明天皇から中山忠能・岩倉具視ら中・下級公家までが猛反対して、結局、新たに大老に就任した井伊直弼が、孝明天皇の勅許がないまま独断で条約締結にふみきリ、桜田門外の変がおこる。
 ここから、中・下級公家をまきこんだ攘夷運動がおき、長州や水戸、各藩の過激派がこれに勤皇思想をむすびつけ、やがて、尊皇攘夷が、倒幕や王政復古のスローガンになってゆく。
開国を朝廷に諮らず、幕府が単独で処理していれば、明治維新は、ちがったかたちになっていたはずで、かつて幕府は、朝廷の許可なく、鎖国令をだしたが、何の問題もおきていない。

 孝明天皇がとつぜん崩御されて、異変がおきる。
 後ろ盾を失った徳川幕府が、焦燥して、江戸でテロ行為をくり返す赤報隊の退治にのりだす。
 西郷の計略にひっかかったのである。
 それが、鳥羽・伏見の戦を端緒とする戊辰戦争である。
 このとき、薩長は、王政復古とともに征討大将軍の地位に就いた嘉彰親王を薩長軍本営に迎え入れる。
 この瞬間、新政府軍は、官軍となった。
 錦の御旗が薩長軍に立って、政府軍が総崩れになると、諸藩も、薩長になびきはじめる。
 勢いづいた薩長は、江戸へ逃れた徳川慶喜追討令を出す。
 その後、薩長による大殺戮戦が開始されて、軍事クーデターは、江戸開城をもって、成功する。
「玉(ギョク=天皇)を取る」という薩長の戦略が、もののみごとに奏功したのである。
 日米修好通商条約締結に端を発する混乱の収拾と開国という難問は、大政奉還によって、幕府の手で、すでに決着がついていた。
 戊辰戦争がおきるのは、そののちのことで、天皇は、維新とは何のかかわりもない権力闘争(薩長の独裁クーデター)に利用されたにすぎなかった。
 そして、明治20年、王権のつよいプロイセン(ドイツ)憲法をとりいれた大日本帝国憲法が発布され、日本は、西欧型国家へと変貌する。
 明治維新は、天皇を利用した軍事クーデターで、勝った薩長連合政権の帝国主義が、大日本憲法の発布から日米開戦、敗戦までひきつがれた。
 明治新政府が発足したわずか75年後、日本は、第二次世界大戦に負け、焦土と化した国土を連合軍に軍事占領され、国体が危機に瀕した。
 帝国主義・植民地時代の19世紀後半にあって、薩長政権がはたした役割は小さくないが、薩長の王政復古が、国体を破壊し、国家の存亡の危機を招いたのも事実である。
 自民党改憲案の天皇元首論は、国体を破壊した薩長政権の悪夢の再現というしかないのである。
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 国家と国体G 月刊ベルダ7月号(2015年6月発売)より転載

 ●国をまもらない憲法は国法∴癆ス 
 安保法制の国会成立が、8月上旬以降にずれ込むという。
 衆院の憲法審査会で、自民党推薦をふくむ憲法学者3人全員が、法案を憲法違反としたため、野党が攻勢に転じて、会期内の成立が困難になったのだ。
 現憲法には、主権と安全保障にかかる条項がない。
したがって、国家を護る法案が憲法違反になるのは当然で、国家の指針を左右する大事な局面で、不用意に学者バカを動員するのは、危機管理の欠如というしかない。
 紙に書かれた憲法以前に、国をまもるという無言の国法(国家原理)が、蒙古襲来の昔から、厳然と存在してきた。
 1959年の砂川判決(最高裁判決)は、自国の存立を絶対とする無言の国法に沿ったもので、個別も集団も、国をまもろうとしない現行憲法における解釈論にすぎない。
 日本の安全保障は、戦後70年間にわたって、空想と現実、ウソとマコトのあいだを右往左往してきた。
 憲法で軍備の放棄を謳いながら、アメリカに次ぐ戦闘能力を有する自衛隊が国土を防衛しているのが、それで、平和や安全、国家防衛が、ゴマカシの上に成り立っているのである。
 これまで、日本が、タテマエとホンネを使い分けてきたのは、現実と空想のちがいをわきまえてきたからである。
 その間隙を突こうというのが、左翼や反日勢力の戦術で、護憲派は「憲法9条をまもれ」と拳をふりあげるが、口が裂けても、日本をまもれとはいわない。
 9条をまもれば、国家防衛や独立維持が不可能になる。
 中国の属国にでもなれば、たしかに、主権も軍備も必要がなくなって、対米属国条項9条(武装解除)が、こんどは、対中関係にふりかえられる。
 武装解除を平和主義とするのが、世間知らずの大学教授風情で、長谷部恭男、小林節、笹田栄司らが「集団的自衛権の行使は憲法違反」とのべるのは、空想と現実の見境がついていないからである。
 空想を並べて、国家や国民を護ることができたらだれも苦労しない。
 
●憲法の外側にある安全保障
 日本の安全保障に、憲法は、何の機能もはたしていない。
 それどころか、武装解除条項(9条)が、安全保障上の最大の障壁となっている。
 ばかな憲法をおしつけたアメリカが、主権(交戦権)を否定する9条を捨てさせようと努力したが、国防をアメリカに委ねて、経済発展に専念したかった日本政府は、聞く耳をもたなかった。
 平和主義は、主権放棄と経済至上主義の代名詞で、吉田茂は、当時、社会党に、アメリカがもとめる憲法改正と再軍備に反対するようにもとめている。
 護憲主義者は、憲法をまもれというが、その憲法に、国家を護る条項がないことには一言もふれない。
 そして、「平和を愛する諸国民の公平と信義」などと嘘八百を並び立て、九条で、「陸海空軍その他の戦力を保持しない」と欺く。
 だれも気にしないのは、憲法などとうの昔に廃棄されているからで、60年安保以後は、日米安保という軍事同盟が、憲法に代わる国法として、日本という国家と国民をまもってきた。
 憲法が形骸化されている以上、安保条約と安保法制化が安全保障上の最大の要で、野党や憲法学者が「安全保障法制は戦争法案」と、これに反対するのは、政府攻撃やメシのタネにしてきた憲法が、いよいよ、お払い箱になるからである。
 GHQが敗戦国の足鎖≠ニした憲法に代わって、安保法制が国家主権を宣言する。
憲法改正が、技術的に困難な以上、それが、国家原理に沿った唯一の選択肢だろう。
 国家主権というのは、交戦権のことで、世界広しといえども、交戦権を放棄しているのは、人口800人のバチカン王国くらいのもので、それにも、バチカンを侵略すれば全キリスト教国家が敵に回るという無言の安全保障機能がはたらいている。
 日本で、安保法制が「希代の悪法」「戦争の準備」という話になるのは、戦争を放棄すれば世界が平和になるという少女マンガのような話が、国政レベルで語られているからで、新聞各社は、安保法制に反対する村山富市や河野洋平の会見をトップで扱っている。
 自民党元重鎮の野中広務や古賀誠らが、安全保障法制をすすめる安倍首相に「死んでも死に切れぬ」(野中)「恐ろしい国になった」(古賀)と悲鳴を上げている。
 野中は「人殺しをする自衛隊に入る者がいなくなる」というが、武器をもつ者は公人で、人殺しは私事である。
 どうやら、公儀と私儀の区別がつかないようで、国家という概念が空中分解している。
 安保法制化を批判するメディアも「自衛隊は人殺し≠フためのものではない」「自衛隊の軍隊化反対」という論陣を張る。沖縄タイムスや北海道新聞は、「殺し、殺される自衛隊に失望して辞めた」という元隊員のインタビューを載せ、赤旗は、「自衛隊入隊者に遺書≠強要」と報じた。
「命が惜しい」と公言するような自衛官は、さっさと辞めてもらいたいもので、自衛官が「命がけで責務の完遂に努め、国民の負託に応える」と宣誓するのは、遺書ではなく公人≠ニしての覚悟である。
「自衛隊の軍隊化」は望ましいことで、自衛隊は、国費で大型車両免許や各種資格をあたえ、民間企業への転出者を養成する職業訓練所ではないのだ。
 
●安全保障は「強者の論理」
 左翼や反日勢力、護憲派や反核・反原発派ら平和主義者と呼ばれる人々が、集団的自衛権や安全保障法制化に反対するのは、拠って立つところが「弱者の理屈」だったからである。
 一方、主権と国益は、「強者の論理」である。
 こよなく平和を愛するが、敵が攻めてきたら、命がけでたたかうというのが強者の論理で、安保法制化は、敵国が攻めてきたらたたかうというあたりまえの話である。
 その万全の準備に、敵が不用意な攻撃を控えれば、平和がまもられる。
 それが、真の平和主義で、攻めてきても、たたかわないのは、平和主義ではなく、飢えた狼の前をうろつく太った豚である。
 戦後日本は、戦争反対一辺倒で、国を護るという気概、国をまもってくれる兵を敬うという精神文化を捨て去った。
 モラルの崩壊がおきたのは、日本が、サムライの国から弱虫の国へ転落してしまったからである。
 憲法前文を暗誦するような教育からでてくるのは、肝っ玉が縮み上がった人間ばかりで、それが、憲法9条をまもろうという日本の平和主義の根っこである。
 護憲派の民主党が政権をとるや、たちまち、尖閣諸島危機や従軍慰安婦問題が浮上してきた。媚中・親韓派の民主党には、国家や国民をまもる「強者の論理」がそなわっていなかったからである。
 国家を背負い、国民をまもるには「強者の論理」が必要で、政治家が国会で「自衛隊員の命をまもれ」と叫ぶのは醜態で、だいいち、自衛隊員に、失礼だろう。
 軍備は、せいぜい世界5位程度だが、士気と戦闘技術にかけては、アメリカが世界一と太鼓判を押し、イラクのサマーワに派遣された自衛隊の規律や礼儀、忍耐力や統率力、理念の高さに世界が驚愕した。
 自衛員がサムライだったからで、サムライは公人≠ナある。
「弱者の理屈」の落ち着くところが私人≠ナ、じぶんさえよければ、義理も人情もへったくれもない、オレのイノチ、ワタシの生活をまもれと叫ぶばかりで、野中は、兵隊も命は惜しいだろうと、下司の勘ぐりでモノをいっている。
 平和主義から民主主義、人権・平等思想にいたるまで、核になっているのは、私人で、「村山談話」も「河野談話」も、あんなものは、私文書か私信で、戦後日本は、公の精神がもののみごとに枯れ果てている。
 
●平和主義と精神の崩壊
 戦後の日本で、平和主義ほど、喧伝されてきたことばはないだろう。
 欧米では意気地なし≠笏レ怯者の隠語でしかない平和主義が、日本では、戦争を好まない崇高な精神として、もちあげられてきたのである。
 破壊主義者や侵略者以外、戦争を好む者が、どこにいるだろう。
 戦争を避けるため、守りを固く構えるのが「強者の論理」で、武器を捨てると平和になるなどというたわ言は、日本以外、中学生だって口にしない。
 戦後日本をまもってきたのは、憲法九条ではなく、九条を補填する形で機能してきた日米安保条約で、軍事同盟が、平和と安全をまもってきたのは、政治が、戦争の一歩手前に控える極めつけの現実だからである。
 政治とは、現実で、日本の政治が、空想的だったのは、政治の上位に置いた憲法が空想の産物だったからである。
 だからこそ、安保条約が、国法の代役をはたしてきたのであって、国際法上の条約である日米安保は、軍隊の保持や交戦権にもとづいて、個別的・集団的自衛権を肯定している。
 一方、憲法は、GHQの憲法作成スタッフなかに女性や若者、共産主義者がいたせいか、全編乙女の祈り£イで、憲法前文を読んで、気恥ずかしくならない大人はいない。
 大のオトナが、武器を捨てると平和になると、中学生のようなことを言って、恥じないのは、宗教的妄信に陥っているからで、このカルト教の本尊が、国家は不要、じぶんの生命や財産以外の価値はいっさいみとめないというエゴイズムである。
 野中広務らの反軍主義、マスコミ左翼らの世界市民主義、反体制の反国家主義、憲法9条を守れという平和主義は、同じ穴のムジナで、大事なのは、国家よりもカネ、イノチと叫んでいる。
 かれらが、集団的自衛権に反対するのは、トラブルに巻き込まれたくないというエゴイズムと「権力は悪」というひがみ根性からだが、警官が国民を暴漢から守るのも集団的自衛権の行使で、国家の平和や安全を護るのは、憲法が保証する天賦の権利≠ナはなく、実力である。
 
 ●指針は「主権と国益」
 ホルムズ海峡が機雷で封鎖されて、日本のタンカーが航行できなくなる事態になれば、自衛隊がでかけていって、実力で機雷を爆破処理するのは、あたりまえの話で、集団的自衛権の法的解釈がうんぬんというのは、二の次の問題である。
 安倍首相は、自衛隊がアメリカの戦争に参加(集団安全保障にもとづく戦闘行為)することはありえないとしたが、国際紛争に際して自衛隊派遣の要件を定める恒久法「国際平和支援法案」には、他国内領での対応措置が明記されている。
 その場合、行動基準となるのが「主権と国益」である。
 アメリカの戦争は、アメリカの主権にもとづくものなので、自衛隊がアメリカにつきあって、地球の裏側まで出てゆく必要はすこしもない。
 だが、国益が侵された場合、場所がどこであれ、主権を行使できる。
 日本がホルムズ湾や中国が制海権を狙う南シナ海に軍事的影響力を行使するのは、「主権と国益」にもとづくもので、平和と安全は、軍事力の均衡によってまもられる。
 新聞各社のアンケートでは、安保法制反対派が、過半数をこえている。
 それも、無理からぬことで、戦後、日本は、憲法9条のおかげで平和だったという教育や宣伝、マスコミのプロパガンダがいきわたった現在の日本では丸腰の平和≠ルどうまい話はないからである。
 だが、中国や北朝鮮、韓国の暴走を防いで、日本の主権や国益を護っているのは、日米安保と自衛隊で、憲法九条は、利敵条項でしかない。
げんに、反日主義者は、平和勢力である中国が日本を攻撃するはずはないと主張して、憲法9条の撤廃に反対している。
 憲法9条が、日本を封じ込める仕掛け爆弾≠ノなっているのである。
 安保法制が廃法、あるいは憲法違反の最高裁判決がでたら、中国は、尖閣列島や南シナ海へいっそう軍事的圧力をつよめてくるはずである。
 ドイツで開かれた先進7か国首脳会議(G7サミット)では、「大規模な埋め立てなど現状変更を試みる一方的な行動にも強く反対」するとした首脳宣言を発表した。
 これにたいして、中国は、猛反発したが、一応、ブレーキはかかった。
 フランスのオランド大統領との会談では、安全保障関連法案への連帯が表明された。
 欧州各国が主権国家日本をパートナーとみなしはじめた兆しだが、これを好意的に報じたマスコミは、少なかった。
 60年安保と同様、現実から目を逸らさせる丸腰平和論≠煽ろうというのであろう。
 平和主義を叫んでいれば、経済的成功が手に入り、主権を放棄すれば、戦争のリスクから逃れられるという弱者の理屈、中学生並みの妄想が、まだまだ、払拭されていないのである。

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国家と国体F 月刊ベルダ6月号(2015年5月発売)より転載

 ●日本の国体を危うくする「天皇元首論」
 古代において、天皇は、権威だったのか、それとも、権力者だったのか。
 そして、現代、天皇の地位は、どんな形でひきつがれてきたのか。
 天皇が権威となったのは、鎌倉時代以降というのが、定説のようである。
 だが、わたしは、かならずしも、そう思わない。
 紀元前の古代国家成立から聖徳太子が憲法十七条を制定する飛鳥時代にいたるまでの600年にわたって、天皇は、権力者というよりも、むしろ、祭祀国家の祭祀主(権威)として象徴的な立場にあったからである。
 それをあらわすのが、かつて「大和時代」と呼ばれた3世紀から6世紀末までのあいだにつくられた前方後円墳である。
 九州から東北の広大な範囲にわたって、豪族たちが、天皇と同じ形式の大型墳墓をつくったのは、天皇を祭祀主≠ニする同一の宗教観をもっていたことのあかしで、この一事をもって日本が祭祀国家だったことがうかがえる。
 祭祀国家だった日本が、律令国家へ変貌してゆくのが、前方後円墳がつくられなくなった7世紀からである。
 律令国家は、天皇の権力を集中させる「中央集権国家」でもあって、天皇をとりかこむ有力者や官僚が実権をにぎる仕組みである。
 それが、摂関政治の入口で、力をもちすぎた有力者や官僚にたいする反撃が皇親政治や院政で、これは、天皇ととりまきとの内部抗争であった。
 権力の内部抗争に決着をつけたのが、武士が台頭するきっかけとなった「保元の乱」と「平治の乱」だった。
 両乱の後、平清盛の平氏の時代をへて、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、600年の長きにわたった摂関・院政の律令体制は終わりを告げる。
 以後、朝廷(権威)と幕府(権力)による二元体制≠ェ戦国・江戸時代をへて、明治維新まで600年もつづく。
 日本は、600年の周期で、天皇が権威だった「祭祀国家」と権力者だった「律令国家」を交替してきたことになる。
 明治維新で、天皇は、権力の頂点に立つ元首≠ヨとまつりあげられて、日清日露、第一次・第二次世界大戦をへて、終戦後、再び、象徴の座へ立ち戻った。
 GHQが天皇を象徴としたのは、権威と権力を分離して、国家を安定させるためであったろうが、それは、豪族が、祭祀主だった大王(オオキミ)権威のもとに結束した古代国家の政治システムと同一であって、幕府が朝廷を敬った江戸280年の幕藩体制≠ニもつうじるものがある。
 GHQが、日本の古代国家を真似たのではなく、天皇を中心とした安定した国家の形をもとめると、おのずと、そうなるのである。
 自民党の憲法改正案では、憲法の下で、天皇が元首に立てられている。
 これは、日本の国体と歴史を見ないヨーロッパの真似事で、世界が天皇を日本の元首とみなしているのは、数千年の歴史をもつ国体=天皇の権威が、西洋の元首を超えるものだったからである。
 天皇が、改廃可能な憲法上の元首に据えられると、却って、天皇への尊敬心が削がれるのみならず、国威が低下し、国体もゆらいで、民族的な文化や価値観が根っこを失う。
 天皇が、紀元前の古代国家時代から権威(=象徴)だったというのが、わたしの考えで、だからこそ、日本は、祭祀国家というゆるやかな中央集権体制をつくることができたのである。
 祭祀にもとづく国体にたいして、急激な中央集権をめざした天皇中心の律令制は、権力抗争と内乱をまねき、歴史上、しばしば、国家存亡の危機を招いてきた。
 蘇我馬子の崇峻天皇弑逆(592年)から敗戦と天皇の戦争責任(1945年)問題にいたるまで、いくたびか、国体に危機が生じたのは、天皇が権力に接近し、権力が天皇との権威をとりこむことによって、神話や民族性、歴史に根ざした永遠の国体(祭祀)が、一過性の法や権力に蹂躙されたからだった。

 ●大和朝廷は「祭祀国家」だった
 かつて、大和朝廷の誕生は、神武天皇が橿原宮で即位した紀元前660年とされてきた。
 ところが、現在は、3世紀末に変更されて、大和朝廷はヤマト政権へ、大和時代が古墳時代と呼び方もかわった。
 神武天皇も、伝説上の人物で、実在しなかったとするのが、歴史学の常識という。
 だが、歴史上の人物は、すべて伝説上の人物で、非実在論を挙げると、中臣鎌足から聖徳太子、天武天皇まで多々あって、収拾がつかなくなる。
 伝説と民族史料、史跡をそのままうけとるのが、過去へ遡って検証できない歴史にたいする態度というものだろう。
 大和朝廷の誕生が3世紀末とされた根拠は、それ以前に、邪馬台国があったとする「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」である。
 邪馬台国や卑弥呼については、大和朝廷との関係をふくめて何もわかっていない。
 古事記や日本書紀に、卑弥呼や邪馬台国の名称がなかったからである。
 それも当然で、日本の正史である『記紀』に中華思想にもとづく「ヤマトクニ」「ヒノミコ(日御子)」を蔑字≠ナ表した文字があるはずはない。
 大和や倭、邪馬台は、読み方がともに「ヤマト」で、下に国がつくと、「ヤマトクニ」になる。
 したがって、邪馬台国(「ヤマトクニ」)は畿内で、卑弥呼と記された「ヒノミコ(日御子)」が大和朝廷の要人だったと考えるのが、自然だろう。
 年輪年代法によって、古墳時代の始まりが百年以上早まったため、古墳時代の初期と卑弥呼の死亡時期が重なり、邪馬台国と大和朝廷の連続性が明らかになった。
 卑弥呼が百襲姫だったことは、百襲姫を(日)の巫女として立てた崇神天皇が、卑弥呼の男弟とも、卑弥呼の後継者台与の摂政ともつたえられてきたこととも符合する。
『魏志倭人伝』に邪馬台国と記された大和朝廷は、大和(奈良)の葛城氏、物部氏、蘇我氏、巨勢氏、平群氏から河内の多治比氏、滋賀の息長氏、京都の中臣氏、岡山の吉備氏、島根の出雲氏、福岡の安曇氏らの連合政権で、漢書地理志に「分れて百余国」とある状況そのままである。
 大和朝廷を結束させたのが、神話にもとづく神的な秩序で、それを象徴するのが、前方後円墳だった。
前方後円墳がつくりはじめられたのは、古墳時代(3世紀〜6世紀)の初期で、巨大な前方後円墳は、クフ王のピラミッドや始皇帝陵と並ぶ「世界三大陵墓」の一つに数えられている。
ピラミッドに並ぶ前方後円墳を建設する文明を育むのに必要だった歴史時間は、千年単位だったと思われる。
5千年前の三内丸山遺跡(縄文集落跡)から、当時、高度なムラ社会が完成していたことがわかっている。
神武天皇が即位した紀元前550年は、それから、4500年ものちのことで、当時、当時、日本に、大王(オオキミ)を中心とする祭祀国家が成立していて、何の不思議もない。
 前方後円墳の円は天(高天原)で、方(四角)は地上(中つ国)であろう。
 首長たちが、高天原と中つ国(葦原中国)組み合わせた前方後円墳を共通の墳墓としたのは高天原神話≠共有していたからで、かれらの始祖は、命(ミコト)である。
 日本の神話は、高天原と葦原中国の二元論で、富や権力を奪い合う乱世と神々があそぶ高天原が溶け合って、それが現在にまでつながっている。
 権力は、武力や軍事力などの強制力でもあって、盗賊の親分も、権力者になれる。
 だが、権力者というだけでは、世を治め、民から租税を取り立てる為政者になることはできない。
 民や地主、有力者らが承服しないからで、為政者には、民が承服するに足る、為政者としての正統性(レジティマシー)が必要だった。
 権力に正統性をあたえるのが、天皇の権威で、荒くれの権力者は、高天原につながる天皇の親任をえなければ、クニを治めることができなかった。
 高天原崇拝は、祖霊崇拝でもあって、祖先を敬うことは、高天原に祈りを捧げる天皇への崇拝ともつながる。
 高天原信仰によって、権力者としての大王(オオキミ)が権威としての天皇へ変化してゆき、天皇の権威の下で、大和朝廷連合がかたちづくられていった。
 そのキーパーソンが、大和朝廷の重臣で、神武天皇よりも前に大和に入った饒速日命を祖神とする物部氏である。
 その物部氏が、拝仏派の蘇我氏や聖徳太子に倒されて、祭祀国家は、幕を下す。
以後、日本は、権力者となった天皇を中心に中央集権を築く律令国家のみちを歩みはじめる。
律令国家は、権力の政治で、朝廷の重臣(大連・大臣)らが天皇の権力を利用して、実権を握る官僚国家でもあった。
 29代欽明天皇の代になって、朝廷の実権は、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力に握られる。
 仏教導入をめぐる蘇我(崇仏派)と物部(排仏派)の対立は、蘇我馬子と物部守屋の代に引き継がれ、厩戸皇子(聖徳太子)の支援をうけた馬子が守屋を倒して、崇仏派が勝利する。
 聖徳太子は、仏教のほか、大陸の文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇を中心とした中央集権国家体制を確立させる。
 そして、隋の煬帝に「日出処の天子、書を没する処の天子に致す」とする国書を送って、両国が対等であることを宣する。

 ●律令体制から封建主義への回帰
 天皇をしのぐ蘇我氏の権勢も、36代孝徳天皇の代であっけなく幕を下す。
 中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が、蘇我入鹿を天皇の目前で暗殺して、蘇我氏の本宗家までを滅ぼすのである。
 そののちの壬申の乱は、38代天智天皇に即位して、3年後に病死する中大兄皇子の後継者争いで、弟の大海人皇子が実子の大友皇子を倒して40代天武天皇となる。
 天武天皇の政治が、皇族を要職につけ、みずからも、専制君主として君臨する皇親政治だった。
 天皇を頂点に、摂関家や公卿が、ピラミッド状に配置される一元的な権力構造では、天皇と摂関家、公卿らのあいだで勢力争いが生じるのは当然で、複雑にこみいった権力構造に武士がくわわって、律令体制は、ついに、空中分解をおこす。
「保元の乱」「平治の乱」は、武士が政権の座に躍り出た最初の乱で、奈良・平安の律令体制は、ここで終焉を迎える。
 律令体制のなかで武士が台頭してきたのは、内部抗争に介入して、大きな役割をはたしたからだった。
朝廷内部で、天皇と上皇、関白と左大臣が敵味方に分かれてたたかった「保元の乱」では、平氏と源氏も、骨肉の争いをくりひろげた。
 勝ったのは、後白河と忠通側で、敗れた崇徳上皇は、讚岐へ流罪となった。
 ともに勝者となった平氏の平清盛と源氏源義朝がたたかった「平治の乱」では、平氏がいったん政権を握るが、驕る平家は久しからずで、その26年後、源氏の逆襲によって平氏もあっけなく滅びる。
 頼朝の鎌倉幕府は、『御家人の本領(土地の所有権)』を安堵し、『ご恩と奉公の原理』に支えられた封建主義政権で、大化の改新から550年余つづいた天皇中心の律令体制とはまったく異なる原理に立っている。
 これは、強大な軍事力を背景にした幕府(武士政権)が、朝廷から征夷大将軍の官職を戴く二元論体制で、頼朝は、尊王を国家イデオロギーとした。
 平清盛にあたえられた太政大臣が総理大臣なら、律令制度の役職にはいっていない征夷大将軍は、治安隊長ほどの位でしかなかったが、頼朝にとって、むしろ、好都合だった。
 朝廷と距離をおくことができたからだった。
武力で天下をとる武将、天皇をとりこんで権勢をふるう上皇や公家は、ただの権力者であって、高天原の理想という正統性に立った国家の指導者たりえない。
 権力者は、天孫である天皇という権威の後ろ盾をえて、はじめて、統治者となれる。
 朝廷から距離をおいて、天皇の権威の下で政権を担ってこそ「高天原の理想を現世にもたらす善の政治」をおこなえる――それが、頼朝の武家政治だった。
 頼朝は、天皇を厚く敬う一方、官位をえるなど朝廷に近づく者は、実弟の義経であってもゆるさなかった。
 権威を畏れ、権力を律する頼朝の尊王思想は、家康にひきつがれる。
 江戸三百年の安泰は、幕府が奉じた天皇の権威と権力の自制によってもたらされたといってよい。
 日本人のモラルや礼儀、価値観も、威を重んじ、力を律する「権威と権力」の二元論に拠って立つところが小さくない。
 それが、大和朝廷以来の日本の国体であることを忘れるべきではないだろう。
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 国家と国体E 月刊ベルダ5月号(2015年4月発売)より転載

 ●なぜ、アメリカは「村山談話」「河野談話」の踏襲を望むのか
 戦後日本にとって、アメリカは、つねに、政治や外交の中心軸だった。
「親米保守」「対米従属」、「反米(親ソ・親中)左翼」などの言い方は、そのあたりの事情を物語るもので、1952年のサンフランシスコ講和条約発効、1955年の保守合同以降、親米の自民党と反米の野党が、対米関係を軸に安全保障や外交、貿易、金融などの政策を争ってきた。
 戦後日本の節目も、憲法制定から講和条約、60年安保、貿易摩擦、ロッキード事件、プラザ合意、バブル経済とその崩壊、日米構造協議、年次改革要望書、沖縄基地問題、TPPと、多くがアメリカがらみで、根底に核の傘≠ニいう対米依存がある。
核の傘≠ヘ、戦後の世界体制の一つの象徴で、「親米保守」と「対米従属」のアリバイになっている。
 といっても、「親米保守」と「従米依存」は別物で、この二者の隔たりが、これまで、日本の政治に、ブレと歪みをつくりだしてきた。
「敗戦と占領」から「冷戦構造と核の傘」へとひきつがれた戦後の日米関係は、当初から、現在のような対米従属型ではなかった。
 経済復興を軍備や憲法改正に優先させた吉田ドクトリンは、アメリカ国務長官ダレスをいたく失望させ、60年安保は、日本列島の基地化条約だった旧安保条約(51年)の双務的な安全保障条約への転換で、岸信介と重光葵がアメリカにのりこんで、要求をのませたものだった。
 だが、親米独立は、吉田茂や岸信介、鳩山一郎らまでで、その後、日米関係は、がらりと従米依存に変質する。
 とりわけ、日中・日ソ国交や資源外交で、対米従属からの脱却をはかった田中角栄が、アメリカ発の「ロッキード事件」で失脚して以来、アメリカとの関係が、対米従属一辺倒になった観がある。
 対米従属が、政権安定の切り札になったからで、従米派の小沢一郎が、アメリカがもとめる内需拡大に応えて430兆円(10年間)の財政出動をおこない、その実績をバックに権勢を振るったのが好例だろう。
 アメリカが、日本に高圧的なのは、敗戦国であることにくわえ、いいなりになってきたからで、一方、体制の異なる中国に遠慮するのは、戦勝国同士である以上に、独立国家として対等な関係にあるからである。
「年次改革要望書」をつきつけたクリントン大統領が、日本に立ち寄ることなく9日間にわたって中国に滞在(1998年)して、親米派を嘆かせたが、それが、戦前、蒋介石とむすんで、対日敵対政策(経済封鎖)をとったルーズベルト大統領以来のアメリカの伝統的な対日スタンスである。

 ●「日本封じ込め」がアメリカの国是
 もともと、日本とアメリカは、地政学的に微妙な関係にある。
 アメリカが、大戦前、日本に警戒心をもったのは、海岸線の長さが世界6位の海洋国家だったからで、北太平洋諸島を領有していた戦前、太平洋の制海能力は、モンロー主義(孤立主義)に立つアメリカをしのいでいた。
 かつて、大陸を制した国が帝国を築いたが、大航海時代以降は、イギリスやスペインやポルトガル、オランダなど、海洋を制した国が強国となった。
 大英帝国との戦争に勝ったアメリカが世界最強の国家になったのも、広大な国土の東西に大西洋と太平洋を擁する大海洋国家だったからである。
 世界一の強国アメリカにたいして、日本は、ハワイ併合を妨害したほか、第一次世界大戦後、アメリカが、喉から手がでるほど欲しかった北太平洋諸島(マーシャル諸島・ミクロネシア・北マリアナ諸島・パラオ)を占有(委任統治)し、アメリカが進出を目論む満州や朝鮮半島、中国大陸、南・東南アジアにもつよい影響力をもっていた。
 アメリカにとって、日本は、国益を害う地政学的な仮想敵国だったのである。
 アメリカが、日本封じ込めのパートナーにしたのが、日本と同盟関係にあったイギリスで、米英は「ワシントン会議(1921年)」で、3つの対日政策を決定した。
 @日英同盟を廃止して、日本を米英関係の下位に置く
 A海軍軍備比率で、米英は、日本の優位に立つ
 B日本の太平洋・アジア進出にブレーキをかけて、米英の権益をまもる
「ワシントン会議」の延長線上にあったのが、日米戦争の原因となった経済封鎖(ABCD包囲網)と大戦後の世界秩序を定めた「大西洋憲章」だった。
 大戦後の世界支配の構想が語られたルーズベルトとチャーチルの首脳会談(大西洋憲章)において、日本とドイツにたいして、国軍配備や核装備をゆるさないという日独封じ込め≠フ合意がなされたのは、アメリカにとって、日本帝国は、太平洋覇権とアジア進出の妨害者であり、英国連邦や欧州友好国にとって、ナチス・ドイツは、破壊者だったからである。
 大西洋憲章の決着が「ヤルタ・ポツダム宣言」だった。
「ヤルタ会談」で、ルーズベルトとスターリンは、千島・樺太の領有を条件に対日参戦の秘密協定をむすび、トルーマンがスターリンから対日戦参加の確約を得た「ポツダム宣言」では、日本の受諾を遅らせるため国体護持≠フ文言を外し、同宣言の発表以前に、原爆投下を命じている。
 アメリカが原爆を投下して日本を占領したのは、日本列島を極東米軍の基地にするためで、米ソ冷戦の勝利は、日本列島が旧ソ連の太平洋への出口を塞ぐ浮沈母艦≠フ役割をはたしたからだった。
敵国日本は、属国化することによって、アメリカの大きな利益に転じる。
 それが、対米従属の背景で、たしかに、超大国アメリカを敵に回す(反米)ことは国益に合致しないが、かといって、属国状態(従米)では、主権国家たりえない。
 残る選択肢は、親米独立だが、その前提となるのが、安倍首相が意欲的な自主憲法の制定だろう。

 ●日米安保で復権された国家主権
 今夏、予定されている安倍首相の「戦後70年談話」に、国の内外から関心が集まっているのは、焦点が、村山・河野の両談話の扱いにあるからで、アメリカまでが、両談話の踏襲を望んでいる。
 米・中・韓の足並みが揃ったのは、両談話が、戦後の世界体制の核心を衝いているからである。
 戦後の世界体制は、国連の名称が、戦勝国を意味する連合国(United Nations)とあるように、枢軸国だった日独が敵国扱い(53条敵国条項)に指定される一方で、拒否権をふり回す戦勝5か国(国連常任理事国)の独壇場になっている。
 村山談話と河野談話は、戦後体制にたいする敗戦国宣言≠ナ、戦勝国は、原爆を投下しても戦争犯罪を問われることがないが、敗戦国は、侵略や集団連行、大虐殺の濡れ衣を着せられても、抗弁しないどころか、すすんでこれをみとめようというのである。
 それが、対米従属や媚中の正体で、根っこにあるのは、戦勝国へのコンプレックスである。
 アメリカが、両談話に否定的な安倍首相をさかんに牽制する理由は、そこにある。
 敗戦国日本は、戦勝国と肩を並べようなどとせずに、東京裁判にしたがって、戦争にたいする罪意識を永遠にひきずっているべきというのである。
 中国の李克強首相が、全国人民代表大会で、「第二次大戦の勝利の成果と戦後の国際秩序をまもり抜き、歴史の逆行をゆるさない」とのべたのは、アメリカの代弁でもあって、これに便乗してふんぞり返っているのが参戦もしていなかった韓国である。
 対米追従や媚中親韓派が、戦後体制への屈服なら、親米独立は、アメリカと同盟関係をむすびながら、独立国家としての主権をまもることで、その端緒となったのが、60年の安保改正だった。
 旧日米安保条約は、無期限条約で、在日米軍は、日本のどこにでも基地をつくることができ、しかも、日本を防衛する義務が明文化されていなかった。
 一方、岸信介首相とアイゼンハワー大統領が署名した60年の安保条約は、集団的自衛権を前提とした双務的な体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力すると規定されている。
 占領憲法が交戦権をもたないのは、国家主権を有さないからである。
 これを解消したのが、国連憲章の自衛権(個別的・集団的)がもりこまれた60年安保で、日米安保によって、憲法第9条が形骸化され、自衛隊は、集団的自衛権をもつ実質的な国軍となった。
 内閣法制局が「保有するが行使できない」と詭弁を弄して、集団的自衛権に抵抗してきたのは、空文化された憲法をタテにとったためで、60年安保で左翼が決起したのも、安保条約が、非武装中立という憲法9条をひっくり返すものだったからである。
 60年安保で、日本は、ようやく、安全保障という国家の主柱を打ちたて、アメリカと対等の主権国家となったのだが、当時、その歴史的事実をつたえた新聞は一紙もなかった。

 ●望まれる国益主義に立った「戦後70年談話」
 安倍首相は、祖父である岸の路線を歩んでいる。
 野党や反日勢力は、集団的自衛権の行使を閣議決定した安倍首相をアメリカの番犬′トばわりするが、アメリカにとって好ましい政治家は、村山富市や河野洋平ら売国政治家で、安倍首相は、鳩山一郎や重光葵、岸信介ら、憲法改正や国家独立をもとめた旧民主党系政治家と同様、むしろ、危険視されている。
 今夏、予定されている戦後70年の安倍談話に、村山・河野談話が踏襲されていなければ、中国・韓国は騒ぐだろうが、中・韓とは国交関係がないにひとしいので、慌てることはない。
 問題は、アメリカだが、談話に「原爆投下や都市大空襲の悲劇をのりこえ――」という文言をいれておけば、アメリカは、沈黙する。
 アメリカが困るのは正義の国≠ニいう仮面が剥がれることで、南京大虐殺のデッチ上げは、原爆投下や都市大空襲を正当化するためのデマゴギーだった。

 中・韓や日本の左翼マスコミは、ワルシャワのゲットー記念碑でひざまずいたブラント首相を見習えというが、ブラントはナチスの殺人事件(ユダヤ人虐殺)≠謝罪しただけで、戦争犯罪については一切みとめず、国家間賠償もおこなっていない。
 主権国家には、交戦権があり、「正当な管轄権」(東京裁判清瀬一郎弁護士)なき軍事裁判を拒絶する権利があるからである。
 ドイツが、日本より早く再軍備をおこない、終戦の4年後には自主憲法(ボン基本法)を制定したのは、事後法による戦犯裁判の法的正当性をみとめなかったからである。
 一方、日本は、東京裁判を正義の審判として、陸海軍を解体した後、アメリカに促されるまで軍隊をもとうとせず、いまだ、自前の憲法をもっていない。
 そして、歴代首相は、これまで、「日本は戦争犯罪国家」と延々と謝ってきた。
 米・中のみならず、戦勝国が、村山・河野談話の踏襲をもとめるのは、戦勝既得権をまもるためで、これに対応するには、事実関係を明らかにして、デマゴギーを破壊することである。
 イギリスのBBC放送が米韓¥]軍慰安婦問題を世界に報じて以後旧日本軍¥]軍慰安婦問題にたいするアメリカの対日批判がトーンダウンして、シャーマン米国務次官も、従来の性奴隷「Sex Slave」という表現をやめて慰安婦「Comfort Women」に言い換えた。
 もっとも賢明な外交は、国益主義に立つことである。
 国際関係において、国家に忠誠を尽くす国益主義は、絶対善であって、いかなる国もこれを非難しない。
 日米安保条約が機能しているのは、岸信介が、日本を属国扱いしてきたアメリカと日本の左翼大連合≠ニいう逆風に立ち向かった成果で、国家や国民のために、逆風にたちむかうのが、大政治家の風格であろう。
 謀略と悪意、力の支配がまかりとおる国際社会のなかで通用するのは国益主義と国家にたいする忠誠心、かつての日本人の誇り高きサムライの魂だけなのである。

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国家と国体D 月刊ベルダ4月号(2015年3月発売)より転載

 ●明治憲法は維新≠ナはなく西洋革命≠フ産物 
 明治維新は、革命か、それとも、維新かという議論が、昔からくり返されてきた。
 そのどちらでもないだろう。
 明治の政変は、庶民(農工商)が関与していないので、ブルジョア(市民)革命とはいえず、王政復古の中身が、西洋化(近代化)とあっては、維新ということもできない。
 犬猿の仲だった開国派の薩摩藩と攘夷派の長州藩が同盟をむすび、その薩長に、王政復古の名目で「討幕の密勅」が出されるなど、思想的混乱がみられるのは、明治維新が、西南4藩(薩長土肥)とりわけ薩摩長州の下級武士が仕掛けた軍事クーデターだったからで、王政復古は、倒幕のスローガンにすぎなかった。
 クーデターの主役を演じたのは、「錦の御旗」や「討幕の密勅」などの偽勅を工作した岩倉具視で、西郷隆盛や大久保利通、桂小五郎が岩倉の謀略にのったのは、明治維新の本質が、尊皇攘夷や王政復古とは無縁の権力闘争だったからである。
 江戸開城後、藩地にもどっていた会津藩や庄内藩への討伐命令、この命令に反したとして、奥羽越31藩同盟にむけた新政府軍の攻撃は、ヨーロッパ型の覇権戦争で、薩長連合の背後にあったのはこれあらた≠フ維新でも水戸学の尊皇攘夷でもなく、薩英戦争と下関戦争をとおして生じた西洋思想(近代化)および欧米という異文化だった。

 明治維新は、徳川慶喜の大政奉還で、決着がついていた。
 征夷大将軍の地位が、天皇から委任された権力である以上、難局に直面した江戸幕府が一旦、大政を奉還して、その後、公武合体などの新政体で、開国や条約締結などの諸問題にあたろうとするのは、国体の原理にかなっている。
 ところが、「錦の御旗」と「勅命」を得て官軍となった薩長は、大政奉還した徳川家の討伐や京都守護職だった会津藩征伐を主張し、鳥羽・伏見にはじまる戊辰戦争で旧幕府軍・旧佐幕藩を壊滅させる。
薩長の「ギョク(玉/天皇)をとる」という倒幕戦略に、幕府が無力だったのは、政治権力が朝廷(権威)からあずかったもので、幕藩体制自体が天皇の権威の下にあったからである。
 薩長軍が、倒幕クーデターに使用した鉄砲は、「アヘン戦争」を仕掛けたマンセン商会(香港)の日本支店長グラバーから坂本龍馬が買い付けた南北戦争の払い下げ品で、竜馬が仕組んだ薩長連合は、大量の鉄砲を必要とする倒幕クーデター≠フためのものだった。
「禁門の変(蛤御門の変)」で、朝廷に弓を引き(天皇の奪回計画)、会津藩を中心とする幕府軍によって京都を追われた長州藩が、戊辰戦争のしめくくりとなった会津戦争で、婦女子への狼藉や戦死者の埋葬禁止などの残虐行為におよんだのは、復讐のためで、この覇権戦争のどこにも、王政復古の大義や維新の理想がみあたらない。

 明治維新は西洋革命≠ナ、王政復古の王は、ヨーロッパの王政だった。
 そして、大日本帝国憲法では、天皇が元首に立てられた。
 そこに、国体の危機が仕込まれていた。
 天皇を元首に立て、天皇を政治利用することによって、永遠の権威が一過性の権力や法にゆだねられたからである。
 それが、1945年の危機で、天皇が元首でなかったら、天皇の戦争責任という問題が発生することもなく、ポツダム宣言の受諾が遅れることもなかったろう。
 自民党案をはじめ、多くの改憲案が天皇を元首に掲げ、現憲法が明治憲法の改定という体裁をとっているところから明治憲法復元改正論≠ワでが取り沙汰されている。
 これこそ、新たな国体の危機で、人為法にすぎない憲法で、国体の象徴たる天皇を規定すれば、天皇が、法の改廃に左右されることになる。
 天皇を元首に立てた王政復古は、ヨーロッパ王政の真似で、岩倉具視の命をうけて、伊藤博文がプロイセン憲法を明治憲法の雛型としたのは、天皇を政治利用するには、議会や内閣がつよい英国憲法より、君主権がつよいプロイセン憲法のほうが都合よかったからである。
 明治政府が王政復古のモデルとしたヨーロッパの王政は、武力征服と神授権≠フミックスで、武力による覇権が神によって補強される構造になっている。
 さらに、ハプスブルク家やブルボン家のような大富豪とむすびつき、ヨーロッパの王権は、武力と宗教的権威、富の三つをそなえる絶対権力となった。
 イギリス王室がドイツ(ハノーヴァ朝)から新王(ジョージ一世)を迎えたのは、ヨーロッパの王室が名門の家系でつながっているからで、現在も、ノルウェー王室が、イギリスの王位継承権をもっている。
 両王室とも、ゴータ家を祖にもっているからで、ヨーロッパの王室は、ルーツをたどれば、すべて、ローマ帝国という権力にたどりつく。
 ヨーロッパ王室が家系でつながっているのは、王統が権力や法の枠外になければ、政変や戦争のたび、廃絶の危機にさらされるからである。
 ヨーロッパの王が神授説の権力なら、天皇は、神話にもとづく権威で、万世一系は、天皇の権威を権力や法から切り離すためのすぐれた仕組みでもあった。
 明治維新の王政復古は、二重の過ちを犯している。
 一つは、欠史時代を除いて、歴史上、存在しなかった王政を復古させたことである。
 王政の復古には、後鳥羽上皇が討幕の兵をあげ、鎌倉幕府軍に鎮圧された「承久の乱」や後醍醐天皇が天皇親政を掲げて鎌倉幕府を倒した「建武の新政」の例があるが、いずれも失敗に終わったのは、祭祀国家だった日本において、権力と権威が一体化する支配原理が存在しなかったからである。
 古代社会は、神々とともにある霊的世界で、恵みも災いも、人為およばぬ和魂や荒魂の所業だった。
 古代社会が祭祀共同体≠ニなったのは、収穫や日々の幸を神々の恵みとした万葉人にとって、祭祀王である天皇の祈りこそが政(まつりごと)で、いくさや権力争いは、とるにたらない人為的所業だったからである。
 日本には、祭祀共同体の歴史が、現在も、国体というかたちで残っている。
 もう一つの過ちは、権力が権威をとりこむことによって、万世一系が形骸化されたことである。
 わが国で、二千数百年にわたって、皇統がゆるがなかった理由は、天皇が政治権力から離れていたからで、権威たる皇統の男系相続≠ヘ、いかなる権力者も、手をつけることができなかった。
 日本で、皇室にたいする謀反がなかったのは、神格を武力で奪うことができなかったのにくわえ、神武天皇の血筋(男系)ひいていれば、他家系であっても、皇統とされたからである。
 欠史八代(葛城王朝)から崇神天皇(三輪王朝)へ、武烈天皇から、家系が異なる継体天皇(応神天皇5世)へ皇位継承が可能だったのは、男系相続の仕組みが合理的で明瞭だったからである。
 男系相続は、謀反や皇位争いを避け、皇嗣を広くもとめるため智恵で、皇統が、権力の干渉をゆるしていたら、皇統は、これまで、何度も断絶の危機に陥っていたはずである。

 権威(天皇/祭祀王)が、権力(幕府)に施政を命じる二元構造≠ェ国体である。
 革命を経験していない伝統国家の日本は、701年の大宝律令を挙げるまでもなく、大昔から法治国家で臣民一体≠あげるまでもなく、開闢以来、民主主義の国だった。
 そこへ、ヨーロッパ的な王政をもちこんで、皇位と地位を切り離した万世一系の伝統を破壊したのが、明治憲法だった。
 明治憲法の誤りは、権威(天皇)を権力(憲法)の下位においた現行憲法に、ひきつがれている。
 現憲法における皇位の法制化とGHQによる11宮家の皇籍離脱とは、近い将来、かならず、国体の危機を招来させる。
 11宮家の皇籍離脱は、戦勝国による主権侵犯で、女系天皇を容認した小泉内閣の「皇室典範に関する有識者会議報告書」は、歴史を否定する国体の毀損にほかならない。
 皇室規定を憲法から外し、皇室家法のもとで、旧皇族の皇籍復帰をはかってこそ、天皇を憲法にとりこんだ過失と敗戦による失地を取りもどすことができる。
 改憲には、国体の自覚と、国体解体が企図されたGHQ憲法、天皇の政治利用を目的とした明治憲法からの訣別が必要なのである。


posted by 山本峯章 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする