安倍首相は憲法改正にご執心だが、憲法の条文など、解釈一つでどうとでもなる。
日本は、現憲法下で世界6位の軍事力をもち、イージス艦6隻、空中給油機6機、準空母2隻を保有するほか、900キロ級の巡航ミサイルの導入までをきめている。
憲法を改正せずとも、否、憲法を改正しないほうが、日本は適正な軍事力をもてるのである。
加憲とやらで、国軍としてすでに国民の了解をえている自衛隊に9条3項をかぶせると、9条の1項、2項との矛盾が明らかになって、却って、反自衛隊派を勢いづかせることになる。
日本の防衛は、生存権や国家主権(交戦権)、正当防衛などの憲法外の規範にもとづいている。
自国をまもる、自分の家族をまもるのは、自然法や習慣法で、人間や国家の自己保存本能や尊厳は、法の規制をうけない文化のカテゴリーにある。
憲法をまもるためなら国が滅びてもよいという護憲派の平和主義は、人間の心=文化が失われた法匪の思想≠ナ、安倍首相の加憲論は、国家防衛という本能的欲求をゆるがす余計な小細工なのである。
憲法9条より問題なのが、日米地位協定で、日米の地位(立場)が、米独や米伊、米韓より不利益的ならば、早急に改善されなければならない。
法の問題なら条文の改正ですむが、パーセプション・ギャップ(認識のずれ)は文化の問題で、これを放置すれば、国家や民族の尊厳までが傷つきかねない。
近代国家は、政治と法治(ほうち)のバランスからなりたっている。
政治とは文化で、権力や法と対立する。
アメリカやイギリスなどに比べて、日本で、憲法(法治主義)のウエイトが高いのは、政治が弱体だからである。
なにしろ、自国の政治判断よりも、旧宗主国(GHQ)が70年前においていった占領基本法(憲法)のほうを大事にしているのである。
大統領制の国では、アメリカのように大統領令が憲法に優先する。
議会がつよい国では、ドイツのように憲法が議会に隷属するか、イギリスのように議会の決定を制限する憲法そのものがない。
日本の場合、GHQ政令の憲法を絶対化するため、憲法99条で、天皇から総理大臣、最高裁裁判長にまで、憲法遵守の義務を負わせている。
このばかげた法の過剰支配の下で、東大法卒を中心とした法務・検察官僚がわが世の春とばかりに、国権を牛耳っている。
法の過剰支配が、政治や文化、常識、人情を圧迫するのは当然なのだ。
日本では、あらゆる分野に権力や権限、権益がはいりこみ、それが、文化や政治を基盤とするあたたかい家族社会を法や権力が支配する冷酷な監獄社会に仕立て上げている。
下が規則や許認可、法令などの小さな権力をふりまわせば、上は東大法卒の赤レンガ組が、警察・司法・マスコミを従えて、法務権力というスーパーパワーを発動させるという按配なのである。
●皇室典範=国体法を憲法から切り離せ
戦後、いっさいの権威や伝統、民族的価値が否定されて、アメリカ製憲法が唯一の価値となった。
大きなダメージをうけたのが皇室の家法である皇室典範だった。
皇室の廃絶を長期的視野に入れたGHQの皇室政策はきびしいもので、財産没収と11宮家の臣籍降下のほか、明治憲法と同格だった皇室典範を憲法へとりこみ、歴史的存在である天皇=国体を法律上の存在にしてしまった。
天皇問題は、すべて、ここに起因する。
リベラル派は、女系天皇や女性宮家を主張する。
万世一系を否定する女性天皇は、もともと論外で、世継ぎ問題を解決するには、11宮家の皇籍復帰あるいは現皇族と旧皇室の養子縁組以外にはない。
それには、皇室典範を憲法から切り離して天皇と皇室の家法=国体法典としなければならない。
天皇の地位や皇族の身分、皇統問題は、歴史の問題である。
憲法を改正するなら、9条より第一章(天皇)が先であろう。
天皇事項を憲法から外して「国体法たる皇室典範で定める」としなければならない。
皇室典範が皇室の家法となれば、自民党の改憲案「天皇元首」などもってのほかで、天皇および皇室が権力や法から離れた文化的存在になったとき、日本は、歴史に国家の根拠をおいた真の伝統国家となるのである。
天皇陛下は、平成28年8月8日、ビデオメッセージで、ご高齢になられたことや身体の衰えを挙げ、公務をつづけることがむずかしくなるのではなるとして、譲位の意向をおしめしになった。
しかし、現在の皇室典範には、生前退位に関する規定がない。
そこで、2017年、天皇陛下の退位を一代限りでみとめる皇室典範特例法(譲位特例法)を制定、皇室会議(2017年12月1日)をへて、定例閣議(12月8日)で、2019年4月30日に天皇陛下が退位して、5月1日の皇太子徳仁親王殿下即位をもって新元号への改元をおこなうという政令案が閣議決定された(退位特例法)。
「譲位」が「生前退位」にすり替わったのは、譲位を望まれる陛下のご意向に政府が従えば、憲法4条に抵触しかねないからだという。
皇室典範を憲法にとりこんでおいて、天皇のご意志が憲法にふれるというのは、それじたい矛盾で、皇室典範を憲法と同等の皇室の家法へもどせば、なんの問題も生じない。
天皇問題は文化であって、文化を法や権力で支配することはできない。
日本人にとって天皇は、制度でも法でも権力でもなく、神話や歴史、言語のような文化、民族の心で、国家以前の国体なのである。
●文化防衛論における「菊と刀」
権力が国家をつくっているとだれもが思っている。
だが、国家をまもり、国家を国家たらしめているのは文化であって、権力や軍事力ではない。
三島由紀夫は、文化と武力の関係を「菊と刀」にたとえた。
刀(武力)は菊(文化)をまもるものであって、権力の道具ではない。
三島由紀夫の『文化防衛論』がまもろうとしたのは、文化概念としての天皇だった。
国家をつくりあげているのは、文化と歴史、権威で、その象徴が天皇である。
日本という国家の本質は文化にあって、その文化(菊)は、軍事力(刀)によってまもられなければならない。
国家をまもることは文化をまもることだが、たたかわずして、文化をまもることはできない。
文化は、大砲や文化侵略、伝統破壊に無防備で、革命にはひとたまりもないからである。
日本が軍事侵略(元寇など)や宗教侵略(天草四郎の乱など)を防ぐことができたのは、菊という文化ではなく、刀という闘争力が高かったからで、三島は、文化防衛の要諦が刀であることを熟知していた。
外国人が、なによりも恐れたのは、武士の刀だった。
刀は武士の誇りでもあって、武士の誇りを傷つけるとその場で斬殺されかねなかったからだった。
まして、軍靴で帝(みかど)の地を侵略すれば、武士がいっせいに抜刀して襲いかかってくる。
日本侵略など、とうてい、思いおよばなかったのである。
天皇をまもるのは、法でも正義でもなく、刀であって、それが文化防衛論の要諦である。
三島由紀夫は「文化防衛論」のなかで日本文化の衰弱を「近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元禄」と嘆いた。
江戸時代には、浮世草子の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、大和絵の尾形光琳や俵屋宗達、浮世絵の菱川師宣や葛飾北斎、人形浄瑠璃の近松門左衛門、東海道中膝栗毛の十返舎一九、南総里見八犬伝の滝沢馬琴、浮世床の式亭三馬と庶民芸術が花開き、庶民のあいだで川柳や狂歌が流行り、人々は歌舞伎や能、狂言に熱狂し、武家の奥方から町人の娘までが踊りや三味線、茶道や生け花、小唄や長唄などの習い事に夢中になった。
そして子らは「寺子屋」で書や算盤を学び、江戸時代、庶民の識字率70%は世界一だった。
近松も西鶴も芭蕉も、権力からすっぱりと切り離されている。
そこに「菊と刀」の真骨頂がある。
「菊と刀」の刀は、外圧や権力にたいする抵抗権でもあって、カミカゼの散華は、権力と無縁な庶民が、菊という文化や国体、天皇をまもるため命を捨てて抜き払った必殺の剣だったのである。
●皇祖皇宗の大御心と「君民一体」
権力にたいする怒りが爆発したのが、5・15事件や2・26事件だった。
反乱の根っこには、隆盛を誇る財閥経済の陰で、娘を売るまでに追いつめられた東北の農村の貧困があった。
5・15も2・26も、クーデターではなく、農村の凶作や災害に手をさしのべようとしない政府にたいする直訴で、青年将校は、天皇による一視同仁の親政をもとめて、蜂起したのだった。
だが、側近の老臣を殺害された昭和天皇は激怒して「朕みずから近衛師団を率いて鎮圧に当たる」と主張して、一片の同情もお示しにならなかった。
天皇が権力にとりこまれて、権力の一部になっていたことに2・26事件の青年将校らは気づかなかったのである。
磯部浅一大尉は昭和天皇にむかって(「獄中日記」)こう叫んだ。
「天皇陛下、なんという御失政でござりますか。なぜ奸臣を遠ざけて、忠烈無双の士をお召しになりませぬか」「なんというザマです。皇祖皇宗に御あやまりなさいませ」
磯部が信頼していたのが北一輝だったが、北も大川周明も、右翼ではない。
国家社会主義者で、北や大川がもとめた憲法は、現在の日本国憲法に近い。
すると、三島がいう文化概念としての天皇は、明治維新にも昭和のクーデター事件にもなかったことになる。
後花園天皇は、大飢饉と疫病の大流行で、都に死者があふれているにもかかわらず、東山山荘・銀閣寺の造営にうつつを抜かす八代将軍足利義政を諌める漢詩を送っている。
残民争採首陽薇 処々閉廬鎖竹扉 詩興吟酸春二月 満城紅緑為誰肥
生き残った者も飢えて首陽山でワラビなどを採り至る所で飯櫃を閉ざし扉を封鎖している 春の二月だというのに詩を吟じるにも痛ましい 都の花や草木は誰のために育っているのだろうか。
民を想う情や涙、怒りが文化で、日本には、皇祖皇宗の大身心という文化があったのである。
それが君民一体で、幕府は、この国体をまもる武士集団(幕藩)だった。
フランス革命に思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』で「随意に祖国を選べというなら、わたしは君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。わたしは君民共治を理想とするが、そのような国が地上に存在するはずもないので、わたしは、やむをえず民主主義を選ぶのである」
といっている。
ルソーは、東洋にその理想の「君民共冶」の国があったことを知らなかったのである。
●権威と権力の二元論は「構造と力」
明治維新は、薩長の革命軍・テロリストによる政権略奪で、この革命が成功したのは、天皇をとったからで、薩長は天皇を玉(ギョク)と呼んだ。
薩長の下級武士集団が、幕藩体制を打破して、中央主権国家をつくることができたのは、天皇の威光があったからで、明治維新は、天皇親政の形をとった天皇の政治利用だったのである。
明治維新によって、権威(文化)の座におられた天皇が権力(政治)の座へ移って、日本は、文化国家から権力国家へと変容した。
軍国主義や帝国主義は、権力の暴走で、明治維新や日清・日露戦争がおきた19世紀末〜20世紀末までの百年は日本にとって「革命と戦争」の世紀でもあった。
日本史をながめても、権力主義の嵐が吹き荒れたのは、建武の新政から南北朝、応仁の乱、戦国時代までの暗黒の中世260年と明治・大正・昭和初期の80年の二つの時代しかない。
応仁の乱のさなか、後花園天皇の牛車が騎馬の武士団に道を譲らされる事件がおきている。
権威の失墜が権力の肥大化をうみ、世は、乱世へとむかってゆく。
建武の新政破った足利尊氏によって足利幕府が発足するが、歴代足利将軍の側近政治が応仁の乱をうみ、やがてそれが群雄割拠の戦国時代を招き、日本は暗黒の中世に叩き落される。
それとまったく同じことがおきたのが幕末の倒幕から帝国主義に走った明治時代から昭和初期で、天皇が権力へとりこまれた結果、権威の空洞化と権力の肥大化が生じて、第二次大戦の敗戦=国体の危機へとつながった。
国家も人生も、文化的側面と権力的側面の両面を併せもっている。
これが権威と権力、文化と政治の二元論の原型である。
文化と権力は「構造と力」の関係で、国家は、目に見える文化という構造を失ったとき、目に見えない権力という力に呑みこまれる。
極端なケースが革命で、形のある文化が、過去の遺物として葬られる。
一方、観念やイデオロギー、思想などの無形の力が人々を縛りつける。
過去や歴史は、その形を保守しなければ、力によって粉砕される。
その力が、合理性や改革、民主主義や個人主義で、この力が増強されてゆくと、世界は、文化や歴史、伝統を失った生命維持装置のような殺伐としたものになってゆく。
それが、スターリンや毛沢東、ポルポトがもとめた革命世界で、完全に合理化された世界は死の世界なのである。
われわれが生を営んでいるのは、不合理な世界で、論理や合理で割り切れるものはほとんどない。
法や権力、合理主義や民主主義ばかりもちあげていると、やがて、世界は、暗黒化してゆくことになる。
天皇退位と新天皇即位にともなって、元号が改められる。
一部つたえられるところによると、官公庁の書類を西暦に一本化する動きがあるという。
元号が不便というのだが、不合理を殺ぎ落として、利便性だけを追いもとめると社会はやせ衰える。
社会は、歴史や伝統を無条件に相続することによって、ゆたかさが維持される。
その代表が祭祀で、国家も人間も、祭祀や儀式などの不合理な文化の領域を失うと無機的な制度や法、権力にすぎないものへ堕落する。
日本が文化国家たりえているのは、国体を有するからで、日本は、天武天皇の大昔から明治の五箇条のご誓文に到るまで、政治(太政官)と祭祀(神祇官)の二元論だった。
明治憲法(明治22年)が天皇を国家元首に据えたところから、文化国家である日本のすがたがゆがみはじめ、前述したように、それが、前大戦の敗戦に到って国体の危機が生じた。
法と権力を排して国家や国体を文化論≠ナ語らなければ、伝統国家日本の成熟はありえないのである。