最近の日本人や戦後育ちの政治家から、日本人としての誇りが欠けているのは、国体意識が乏しいからではないか。
日本の国体は、神話と神道、天皇の三つからなっている。
この三つが、日本の文化や習俗、日本人の心の源泉で、それが、国柄である。
一方、政体は、政治形態のことで、現在、日本は、議会民主主義や自由主義をとっている。
この二つが合わさったのが、日本という国家である。
国体と政体は、権威と権力、歴史(時間)と国土(空間)、文化と国力の関係でもあって、この二者は、いわば、心と体である。
愛国心や国にたいする誇り、というときの国は、政体ではなく、国体をさす。
日本人が愛し、誇りに思う対象は、歴史や文化、国民性などの国体、国柄であって、西洋から移入した民主主義や自由主義ではない。
ところが、現在、政体にすぎない民主主義ばかりがもてはやされる。
「日本は世界に冠たる民主主義国家」「世界に誇るべき憲法」などという言説がその代表だろう。
憲法や民主主義は、ただの法則で、敬意や愛、誇り、親しみの対象ではない。
日本人が、誇りや愛国心を失ったのは、国体という観念が遠ざけられたためで、国体なきところに、祖国愛や民族の誇りは育たない。
かつて、教科書に神話が載り、書店に神話の絵本が並び、どこの家にも神棚があった。
だが、いまは、教育の場から神話が一掃されて、神棚を飾っている家もすくなくなった。
神話や神道がなし崩しになってゆくなかで、日本人の心性が失われてゆく。
民主主義や自由主義は、日本的良識の代替品にすぎず、外国からとりこんだ思想をいくら有り難がったところで、日本人の心がゆたかになるはずがない。
●神話につちかわれた日本人の心性
日本の文化や国のかたち、国柄、日本人の心は、神話や神道を源にしている。
鎮守の森(神社)は、同じ守り神をお参りすることによって近隣の人々との親和感をつくりだす日本特有の思想(産土/うぶすな)で、かつて、日本には「向こう三軒両隣」という美風があった。
守り神は、産土神ともいい、氏神や祖霊のことである。
神道では、霊魂が不滅なので、死したのち、守り神となって、一族や土地の人々をみまもる。
若いひとももつ神社の御守りも、産土思想のあらわれで、これも、もとをただせば、祖霊信仰である。
ちなみに、個人主義とカルマ(業)の仏教に、祖霊という考え方はない。
仏教の位牌は、神道の祖霊神を借りた“神仏習合”の一つで、仏教にも、先祖を敬う神道と産土の精神が流れていたのである。
産土思想は、神話や天皇と深いかかわりがある。
神道では、神話を介して、この世と高天原がつながっている。
その神話が、現在に生きているのが、万世一系の天皇である。
天皇の祖霊は、神武天皇で、天孫降臨のニニギノミコト(邇邇杵命)の曾孫にあたる。
産土神というのは、肉体から離れて、高天原に還った霊魂である。
天皇の祖霊と日本人の祖霊は、高天原で、むすびつく。
それが、天皇を中心とした産土思想で、森林が国土の70パーセントを占める日本という国土が、鎮守の森なのである。
この世と高天原がつながっているのが、日本の神話の最大の特徴で、そこにこそ、日本的精神の根幹がある。
キリスト教などの他宗教には、祖神や氏神という考え方も、死して産土神になるという思想もない。
信仰が、個人と絶対神の契約なので、先祖も縁者もなく、しかも、あの世とこの世が断絶しているため、死は、この世からの消滅以外の何ものでもないということになる。
ここから、現世利益の個人主義やエゴイズムがでくるわけで、個人や自我というのは、一神教・絶対神の観念なのである。
●神話が教える生きる知恵
神道では、死は、肉体から霊魂が離れることなので、この世に残るのは、死体だけということになる。
神道が忌むのは、この世に残った死体、とりわけ、死体にたいする未練で、霊が高天原に還って、産土神になる死そのものは、一つの摂理にすぎない。
この摂理をあらわしたのが、死んだ妻のイザナミを探しに黄泉の国へ赴いたイザナギの物語である。
イザナミは、変わり果てた姿になったじぶんを見ないように、イザナギに懇願する。
だが、イザナギは、タブーを犯して、イザナミの死体を見てしまう。
そして、おそれおののいて、黄泉の国から逃げ帰る。
死霊の追撃を逃れたイザナギは、黄泉のケガレを浄めるべく、禊をする。
このとき、うまれたのが、天照大神(日の神)と月夜見尊(月の神)、素戔嗚尊(海の神)である。
この神話が教えるところは、死についてのタブーと生にたいする叡智である。
死は、霊に還ることなので、死体にとりすがって悲しむのは、ケガレとなる。
そして、そのケガレを浄めることによって、再生産のエネルギーが復活する。
この死生観は、武士道にも反映されて、肉体より魂を大事にする日本人独特の精神がかたちづくられた。
日本神話には、絶対神がいないばかりか、天照大御神とスサノオノミコトとの姉弟喧嘩や岩戸隠れ、大国主命の国譲りなど、他国の神話にはみあたらない人間的な物語ばかりで、しかも、日本人の価値観や生きる上で大事なことが巧みに語られている。
神話を読み解くことで、日本人の心の背骨となっている神道や国体の象徴である天皇のすがたが、よりいっそう、明らかになるのではないか――。
日本人には日本語があり、日本語には階称 (言葉づかい) がある。
「上とみるか、下とみるか」の判断により序列関係 (義理) を作る。
義理が廃ればこの世は闇と考えられている。
日本人は、礼儀正しい。
日本人の礼儀は、序列作法である。
序列なきところには、礼儀なし。
日本人の社会は、序列社会である。
社会の構成員は、神々と下々に分かれている。
天皇は、序列最高位の人である。
天皇の御前では、全ての国民は「わし」でもなく、「わたし」でもなく、「わたくし」である。
価値観を揃えることで、日本人は一体感を得ている。安心感を得ている。
日本語の無い社会では日本人は価値観に迷いを生じ、心身ともに疲れ果てる。
序列社会では、序列判断とその作法により、人を遇する。
礼儀作法により、人々は向上心を掻き立てられている。
学校でも生徒に「身を立て、名をあげ、やよ励め」と歌わせている。
日本人の社会は、向上心により活気を得ている。
その原動力は、序列競争である。そのための試験地獄もある。
序列人間を作るのが、日本人教育の目的である。
教科の内容は、雑学ていどのものでよい。
日本人の学校は、格差を検出するための道具立てである。
だから、日本人は、序列人間となるために日本の学校で修業しなくてはならない。
四年間、大学で遊ぶことも、また序列作りに必要なことである。
生涯の協力も序列協力でなされるからである。
意思薄弱と他力本願を伴う幼児症に罹っていて、序列の外には出られない。
英国も日本も島国であるが、島国根性になるのは日本人だけである。
移民をすれば、序列社会を出なければならない。
外国では、序列判断も序列協力も成り立たず、日本人は本来の力を発揮できない。
それで、さまよえる日系人となり、精神的な不安定さにさいなまれる。
日系人は、移民先で勢力を拡大することもなく、祖国に帰って国の柱となることもない。
我が国の天皇制は、日本人に心の安らぎを与え、仕事に励ましを与える世俗の上下観である。
我々の過去を語ることもなく、行き着く先を示すこともない。
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