2015年01月06日

 国家と国体A 月刊ベルダ1月号(2014年12月発売)より転載

 天皇は、古来より、象徴だった 
 第47回衆議院選挙は、自民党がほぼ現状を維持、公明党と合わせて、衆議院の3分の2(317議席)を超える326議席を確保した。
 これで、長期政権の布石が敷かれたわけだが、そうなると、昨年6月に施行された「国民投票法案」にからめて、96条改正問題が浮上してくるだろう。
 自民党は、すでに、改憲原案を作成しているが、国民主権が踏襲されている一方、第一条で、天皇元首を謳っている。
 天皇を元首としたのは、エリザベス女王をはじめヨーロッパの国王が元首になっているからであろうが、だからといって、憲法で、規定すればよいという話にはならない。
 話は逆で、憲法に明記することによって、天皇が、憲法上の存在にすぎないものになって、国体の象徴という本質が見失われてしまいかねない。
 憲法などというものは、一過性のもので、改正することも、廃棄することもできる。
 権力(政権)にいたっては、一夜で、ひっくり返る。
 世俗の法や権力に、歴史の真実をゆだねて、平気なのは、国体という観念を欠いているからで、国家が権力構造でもある一方、歴史を貫く文化構造でもあることを忘れている。
 権力という視点だけからみると、権力をもたない天皇に、元首の資格がないような印象になる。
 そこで、憲法で、天皇元首を規定しようとしたのであろうが、短慮というほかない。
 政治的権力をもたないからといって、元首の資格がないということにはならないからである。
 天皇やエリザベス女王、ヨーロッパの国王は、権力を有さないが、権力者であるアメリカ大統領と同様、元首として遇され、訪問国では、21発の礼砲で迎えられる(日本の首相は19発)。
 元首の本質は、象徴性で、ヨーロッパの国王やアメリカ大統領が元首となるのは、国家を代表する象徴的な存在だからである。
 ヨーロッパの王室は権力の系譜だが、日本の皇室は、権威という文化の系統で、それがともに国家の象徴となるのは、それぞれ、国の成り立ちが異なるからである。
 天皇は、古来より、権力に拠って立つ元首ではなく、権威にもとづく象徴だった。
 そもそも、天皇は、象徴的存在であって、天皇の象徴するところは、陛下個人ではなく、天皇を戴く日本国である。
 欧米を真似て、天皇を元首に立てる必要がないのは、日本は、国家の象徴が、古来より、天皇だったからで、元首という別の象徴を立てなければならない理由は、どこにもない。
 岩倉具視の使節団が、欧米諸国と条約改正などの外交交渉ができなかったのは、天皇の勅旨をもっていかなかったからで、国際関係においては、政権をとったからといって、元首とみとめられるわけではない。
 天皇を措いて、政権にすぎないものが、国家の象徴を名乗ることはできない。
 元首という権力の匂いのする冠を用意するまでもなく、古来より、天皇は、象徴であると同時に、元首的存在だったのである。
 世界がみとめている最高権威を、ちっぽけな憲法の枠におしこめるのは、自己否定というほかない。

 辞書(現代国語例解辞典/小学館)によると――元首は、国際法上、外部にたいして、一国を代表する資格をもつ君主や大統領などをさす。
 ここでは、異質な2つのことが、同時にいわれている。
 一つは、元首が、国家という法人の代表であること。
 もう一つは、君主や大統領などの政治的権力者であること。
 この二つが、矛盾なく、あてはまるのは、ヨーロッパ王政である。
 同辞書によると、君主は、世襲により、国家や領地を統治する最高位の人であって、統治とは、主権者が、国土や人民を治めることである。
 ヨーロッパ王政のこの概念をわが国にあてはめることはできない理由は、天皇は、直接、国土や人民を治めていないからである。
 歴史上、天皇が主権をもち、国家の実権を握ったのは、天武天皇(40代)までで、後醍醐天皇の「建武の新政」を例外に、天皇は、権力ではなく、千数百年にわたって、権威=国体の象徴だった。
 藤原一族の摂関政治やのちの院政は、天皇が政治的実権をもっていなかった証左で、天皇が権力者だったら、政変のたび、易姓革命がおこなわれて、とても、世界最古、最長の王朝というわけいかなかったろう。
 天皇を主権者にしたのは、明治維新の王政復古で、大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。
「統治ス」は、伊藤博文の作で、井上毅の草案では、「治ス所ナリ」だったという。
「治ス(シラス)」は、「古事記」に出てくる古語で、「(天皇が)お知りになる(ところのもの)」というほどの意味合いである。
 天皇を元首と定めた明治憲法でも、天皇親政は、おこなわれていない。
 議会の承認(立法)や国務大臣の副署(勅令)が必要で、天皇が、枢密院に諮問せず、みずから、命令を下したことは、一度もなかったからである。
 権力をもたない天皇が、一国を代表する資格をもつのは、日本では、権威である天皇と権力である幕府が分離した二元構造になっているからである。
 前者が国体、後者が政体で、政治という現在性が、国体という過去性の上にうちたてられるのは、わかりやすい話で、天皇の権威が、権力のきまぐれや政治の都合によって、伝統や文化、古来の価値観が排除されるのを防ぐ防波堤になっている。
 日本で、権威(国体)と権力(政体)の二元化がおこなわれたのは、天皇が権力を放棄したからである。
 その結果、貴族や武家が権力を握ることになったが、かれらは、天皇の存在なくして、権力を維持することができなかった。
 桓武天皇(50代)が国軍を廃止して、農民のなかから武士が勃興したのは、土地をまもるためで、守護(地方官)に代わって、豪族(国人)が台頭する。
 武家社会の土台は、戦国時代につくられた。地方官だった守護大名やその家来、土着していた豪族が、戦国大名として名乗りを上げ、軍事力をもって、封建主義的な自治権を確立したのである。
 摂関4姓「源平藤橘」ら貴族も、多くが都落ちして、ちがったかたちで、武家社会をつくってゆく。
 朝廷にも、摂関政治の名残である貴族(公家)が、江戸末期まで、勢力を保つ。
 権威である天皇や朝廷と権力である大名や幕府が共存したのは、権力が、権威に統治の正統性(レジテマシー)をもとめたからである。
 武田信玄が、入京して、天皇から征夷大将軍の官位をえていれば、戦国時代は、早々に幕を下ろし、信長や秀吉、家康の出番はなかったろう。
 権威は、権力とちがって、法で定めることができない。
 智恵者だった家康は、公家諸法度をつくって、朝廷が、他大名に官位をあたえる自由を奪った。
 徳川幕府が長持ちしたからよかったものの、政変がおきていれば、公家諸法度を逆手にとって、天皇の権威や地位が危うくなっていたかもしれない。
 それは、現在もいえることで、天皇が憲法に規定され、皇室典範が憲法に組み込まれているため、天皇の政治的独立や万世一系(皇位の男系相続)が、権力によって、おびやかされたのは、つい、過日のことである。
 権威にたいする権力の侵犯が現実のものとなったのが、明治維新だった。
 明治憲法が、天皇を元首に定めたのは、政治利用で、大政奉還は、公家諸法度による大政委任の裏返しで、権威が、権力にとりこまれたのである。
 国体に立ち返らなければ、保守は、政体の一部、政争の具となるほかないのである。

posted by 山本峯章 at 16:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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