2015年11月18日

国家と国体F 月刊ベルダ6月号(2015年5月発売)より転載

 ●日本の国体を危うくする「天皇元首論」
 古代において、天皇は、権威だったのか、それとも、権力者だったのか。
 そして、現代、天皇の地位は、どんな形でひきつがれてきたのか。
 天皇が権威となったのは、鎌倉時代以降というのが、定説のようである。
 だが、わたしは、かならずしも、そう思わない。
 紀元前の古代国家成立から聖徳太子が憲法十七条を制定する飛鳥時代にいたるまでの600年にわたって、天皇は、権力者というよりも、むしろ、祭祀国家の祭祀主(権威)として象徴的な立場にあったからである。
 それをあらわすのが、かつて「大和時代」と呼ばれた3世紀から6世紀末までのあいだにつくられた前方後円墳である。
 九州から東北の広大な範囲にわたって、豪族たちが、天皇と同じ形式の大型墳墓をつくったのは、天皇を祭祀主≠ニする同一の宗教観をもっていたことのあかしで、この一事をもって日本が祭祀国家だったことがうかがえる。
 祭祀国家だった日本が、律令国家へ変貌してゆくのが、前方後円墳がつくられなくなった7世紀からである。
 律令国家は、天皇の権力を集中させる「中央集権国家」でもあって、天皇をとりかこむ有力者や官僚が実権をにぎる仕組みである。
 それが、摂関政治の入口で、力をもちすぎた有力者や官僚にたいする反撃が皇親政治や院政で、これは、天皇ととりまきとの内部抗争であった。
 権力の内部抗争に決着をつけたのが、武士が台頭するきっかけとなった「保元の乱」と「平治の乱」だった。
 両乱の後、平清盛の平氏の時代をへて、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、600年の長きにわたった摂関・院政の律令体制は終わりを告げる。
 以後、朝廷(権威)と幕府(権力)による二元体制≠ェ戦国・江戸時代をへて、明治維新まで600年もつづく。
 日本は、600年の周期で、天皇が権威だった「祭祀国家」と権力者だった「律令国家」を交替してきたことになる。
 明治維新で、天皇は、権力の頂点に立つ元首≠ヨとまつりあげられて、日清日露、第一次・第二次世界大戦をへて、終戦後、再び、象徴の座へ立ち戻った。
 GHQが天皇を象徴としたのは、権威と権力を分離して、国家を安定させるためであったろうが、それは、豪族が、祭祀主だった大王(オオキミ)権威のもとに結束した古代国家の政治システムと同一であって、幕府が朝廷を敬った江戸280年の幕藩体制≠ニもつうじるものがある。
 GHQが、日本の古代国家を真似たのではなく、天皇を中心とした安定した国家の形をもとめると、おのずと、そうなるのである。
 自民党の憲法改正案では、憲法の下で、天皇が元首に立てられている。
 これは、日本の国体と歴史を見ないヨーロッパの真似事で、世界が天皇を日本の元首とみなしているのは、数千年の歴史をもつ国体=天皇の権威が、西洋の元首を超えるものだったからである。
 天皇が、改廃可能な憲法上の元首に据えられると、却って、天皇への尊敬心が削がれるのみならず、国威が低下し、国体もゆらいで、民族的な文化や価値観が根っこを失う。
 天皇が、紀元前の古代国家時代から権威(=象徴)だったというのが、わたしの考えで、だからこそ、日本は、祭祀国家というゆるやかな中央集権体制をつくることができたのである。
 祭祀にもとづく国体にたいして、急激な中央集権をめざした天皇中心の律令制は、権力抗争と内乱をまねき、歴史上、しばしば、国家存亡の危機を招いてきた。
 蘇我馬子の崇峻天皇弑逆(592年)から敗戦と天皇の戦争責任(1945年)問題にいたるまで、いくたびか、国体に危機が生じたのは、天皇が権力に接近し、権力が天皇との権威をとりこむことによって、神話や民族性、歴史に根ざした永遠の国体(祭祀)が、一過性の法や権力に蹂躙されたからだった。

 ●大和朝廷は「祭祀国家」だった
 かつて、大和朝廷の誕生は、神武天皇が橿原宮で即位した紀元前660年とされてきた。
 ところが、現在は、3世紀末に変更されて、大和朝廷はヤマト政権へ、大和時代が古墳時代と呼び方もかわった。
 神武天皇も、伝説上の人物で、実在しなかったとするのが、歴史学の常識という。
 だが、歴史上の人物は、すべて伝説上の人物で、非実在論を挙げると、中臣鎌足から聖徳太子、天武天皇まで多々あって、収拾がつかなくなる。
 伝説と民族史料、史跡をそのままうけとるのが、過去へ遡って検証できない歴史にたいする態度というものだろう。
 大和朝廷の誕生が3世紀末とされた根拠は、それ以前に、邪馬台国があったとする「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」である。
 邪馬台国や卑弥呼については、大和朝廷との関係をふくめて何もわかっていない。
 古事記や日本書紀に、卑弥呼や邪馬台国の名称がなかったからである。
 それも当然で、日本の正史である『記紀』に中華思想にもとづく「ヤマトクニ」「ヒノミコ(日御子)」を蔑字≠ナ表した文字があるはずはない。
 大和や倭、邪馬台は、読み方がともに「ヤマト」で、下に国がつくと、「ヤマトクニ」になる。
 したがって、邪馬台国(「ヤマトクニ」)は畿内で、卑弥呼と記された「ヒノミコ(日御子)」が大和朝廷の要人だったと考えるのが、自然だろう。
 年輪年代法によって、古墳時代の始まりが百年以上早まったため、古墳時代の初期と卑弥呼の死亡時期が重なり、邪馬台国と大和朝廷の連続性が明らかになった。
 卑弥呼が百襲姫だったことは、百襲姫を(日)の巫女として立てた崇神天皇が、卑弥呼の男弟とも、卑弥呼の後継者台与の摂政ともつたえられてきたこととも符合する。
『魏志倭人伝』に邪馬台国と記された大和朝廷は、大和(奈良)の葛城氏、物部氏、蘇我氏、巨勢氏、平群氏から河内の多治比氏、滋賀の息長氏、京都の中臣氏、岡山の吉備氏、島根の出雲氏、福岡の安曇氏らの連合政権で、漢書地理志に「分れて百余国」とある状況そのままである。
 大和朝廷を結束させたのが、神話にもとづく神的な秩序で、それを象徴するのが、前方後円墳だった。
前方後円墳がつくりはじめられたのは、古墳時代(3世紀〜6世紀)の初期で、巨大な前方後円墳は、クフ王のピラミッドや始皇帝陵と並ぶ「世界三大陵墓」の一つに数えられている。
ピラミッドに並ぶ前方後円墳を建設する文明を育むのに必要だった歴史時間は、千年単位だったと思われる。
5千年前の三内丸山遺跡(縄文集落跡)から、当時、高度なムラ社会が完成していたことがわかっている。
神武天皇が即位した紀元前550年は、それから、4500年ものちのことで、当時、当時、日本に、大王(オオキミ)を中心とする祭祀国家が成立していて、何の不思議もない。
 前方後円墳の円は天(高天原)で、方(四角)は地上(中つ国)であろう。
 首長たちが、高天原と中つ国(葦原中国)組み合わせた前方後円墳を共通の墳墓としたのは高天原神話≠共有していたからで、かれらの始祖は、命(ミコト)である。
 日本の神話は、高天原と葦原中国の二元論で、富や権力を奪い合う乱世と神々があそぶ高天原が溶け合って、それが現在にまでつながっている。
 権力は、武力や軍事力などの強制力でもあって、盗賊の親分も、権力者になれる。
 だが、権力者というだけでは、世を治め、民から租税を取り立てる為政者になることはできない。
 民や地主、有力者らが承服しないからで、為政者には、民が承服するに足る、為政者としての正統性(レジティマシー)が必要だった。
 権力に正統性をあたえるのが、天皇の権威で、荒くれの権力者は、高天原につながる天皇の親任をえなければ、クニを治めることができなかった。
 高天原崇拝は、祖霊崇拝でもあって、祖先を敬うことは、高天原に祈りを捧げる天皇への崇拝ともつながる。
 高天原信仰によって、権力者としての大王(オオキミ)が権威としての天皇へ変化してゆき、天皇の権威の下で、大和朝廷連合がかたちづくられていった。
 そのキーパーソンが、大和朝廷の重臣で、神武天皇よりも前に大和に入った饒速日命を祖神とする物部氏である。
 その物部氏が、拝仏派の蘇我氏や聖徳太子に倒されて、祭祀国家は、幕を下す。
以後、日本は、権力者となった天皇を中心に中央集権を築く律令国家のみちを歩みはじめる。
律令国家は、権力の政治で、朝廷の重臣(大連・大臣)らが天皇の権力を利用して、実権を握る官僚国家でもあった。
 29代欽明天皇の代になって、朝廷の実権は、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力に握られる。
 仏教導入をめぐる蘇我(崇仏派)と物部(排仏派)の対立は、蘇我馬子と物部守屋の代に引き継がれ、厩戸皇子(聖徳太子)の支援をうけた馬子が守屋を倒して、崇仏派が勝利する。
 聖徳太子は、仏教のほか、大陸の文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇を中心とした中央集権国家体制を確立させる。
 そして、隋の煬帝に「日出処の天子、書を没する処の天子に致す」とする国書を送って、両国が対等であることを宣する。

 ●律令体制から封建主義への回帰
 天皇をしのぐ蘇我氏の権勢も、36代孝徳天皇の代であっけなく幕を下す。
 中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が、蘇我入鹿を天皇の目前で暗殺して、蘇我氏の本宗家までを滅ぼすのである。
 そののちの壬申の乱は、38代天智天皇に即位して、3年後に病死する中大兄皇子の後継者争いで、弟の大海人皇子が実子の大友皇子を倒して40代天武天皇となる。
 天武天皇の政治が、皇族を要職につけ、みずからも、専制君主として君臨する皇親政治だった。
 天皇を頂点に、摂関家や公卿が、ピラミッド状に配置される一元的な権力構造では、天皇と摂関家、公卿らのあいだで勢力争いが生じるのは当然で、複雑にこみいった権力構造に武士がくわわって、律令体制は、ついに、空中分解をおこす。
「保元の乱」「平治の乱」は、武士が政権の座に躍り出た最初の乱で、奈良・平安の律令体制は、ここで終焉を迎える。
 律令体制のなかで武士が台頭してきたのは、内部抗争に介入して、大きな役割をはたしたからだった。
朝廷内部で、天皇と上皇、関白と左大臣が敵味方に分かれてたたかった「保元の乱」では、平氏と源氏も、骨肉の争いをくりひろげた。
 勝ったのは、後白河と忠通側で、敗れた崇徳上皇は、讚岐へ流罪となった。
 ともに勝者となった平氏の平清盛と源氏源義朝がたたかった「平治の乱」では、平氏がいったん政権を握るが、驕る平家は久しからずで、その26年後、源氏の逆襲によって平氏もあっけなく滅びる。
 頼朝の鎌倉幕府は、『御家人の本領(土地の所有権)』を安堵し、『ご恩と奉公の原理』に支えられた封建主義政権で、大化の改新から550年余つづいた天皇中心の律令体制とはまったく異なる原理に立っている。
 これは、強大な軍事力を背景にした幕府(武士政権)が、朝廷から征夷大将軍の官職を戴く二元論体制で、頼朝は、尊王を国家イデオロギーとした。
 平清盛にあたえられた太政大臣が総理大臣なら、律令制度の役職にはいっていない征夷大将軍は、治安隊長ほどの位でしかなかったが、頼朝にとって、むしろ、好都合だった。
 朝廷と距離をおくことができたからだった。
武力で天下をとる武将、天皇をとりこんで権勢をふるう上皇や公家は、ただの権力者であって、高天原の理想という正統性に立った国家の指導者たりえない。
 権力者は、天孫である天皇という権威の後ろ盾をえて、はじめて、統治者となれる。
 朝廷から距離をおいて、天皇の権威の下で政権を担ってこそ「高天原の理想を現世にもたらす善の政治」をおこなえる――それが、頼朝の武家政治だった。
 頼朝は、天皇を厚く敬う一方、官位をえるなど朝廷に近づく者は、実弟の義経であってもゆるさなかった。
 権威を畏れ、権力を律する頼朝の尊王思想は、家康にひきつがれる。
 江戸三百年の安泰は、幕府が奉じた天皇の権威と権力の自制によってもたらされたといってよい。
 日本人のモラルや礼儀、価値観も、威を重んじ、力を律する「権威と権力」の二元論に拠って立つところが小さくない。
 それが、大和朝廷以来の日本の国体であることを忘れるべきではないだろう。
posted by 山本峯章 at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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