2015年11月18日

 国家と国体G 月刊ベルダ7月号(2015年6月発売)より転載

 ●国をまもらない憲法は国法∴癆ス 
 安保法制の国会成立が、8月上旬以降にずれ込むという。
 衆院の憲法審査会で、自民党推薦をふくむ憲法学者3人全員が、法案を憲法違反としたため、野党が攻勢に転じて、会期内の成立が困難になったのだ。
 現憲法には、主権と安全保障にかかる条項がない。
したがって、国家を護る法案が憲法違反になるのは当然で、国家の指針を左右する大事な局面で、不用意に学者バカを動員するのは、危機管理の欠如というしかない。
 紙に書かれた憲法以前に、国をまもるという無言の国法(国家原理)が、蒙古襲来の昔から、厳然と存在してきた。
 1959年の砂川判決(最高裁判決)は、自国の存立を絶対とする無言の国法に沿ったもので、個別も集団も、国をまもろうとしない現行憲法における解釈論にすぎない。
 日本の安全保障は、戦後70年間にわたって、空想と現実、ウソとマコトのあいだを右往左往してきた。
 憲法で軍備の放棄を謳いながら、アメリカに次ぐ戦闘能力を有する自衛隊が国土を防衛しているのが、それで、平和や安全、国家防衛が、ゴマカシの上に成り立っているのである。
 これまで、日本が、タテマエとホンネを使い分けてきたのは、現実と空想のちがいをわきまえてきたからである。
 その間隙を突こうというのが、左翼や反日勢力の戦術で、護憲派は「憲法9条をまもれ」と拳をふりあげるが、口が裂けても、日本をまもれとはいわない。
 9条をまもれば、国家防衛や独立維持が不可能になる。
 中国の属国にでもなれば、たしかに、主権も軍備も必要がなくなって、対米属国条項9条(武装解除)が、こんどは、対中関係にふりかえられる。
 武装解除を平和主義とするのが、世間知らずの大学教授風情で、長谷部恭男、小林節、笹田栄司らが「集団的自衛権の行使は憲法違反」とのべるのは、空想と現実の見境がついていないからである。
 空想を並べて、国家や国民を護ることができたらだれも苦労しない。
 
●憲法の外側にある安全保障
 日本の安全保障に、憲法は、何の機能もはたしていない。
 それどころか、武装解除条項(9条)が、安全保障上の最大の障壁となっている。
 ばかな憲法をおしつけたアメリカが、主権(交戦権)を否定する9条を捨てさせようと努力したが、国防をアメリカに委ねて、経済発展に専念したかった日本政府は、聞く耳をもたなかった。
 平和主義は、主権放棄と経済至上主義の代名詞で、吉田茂は、当時、社会党に、アメリカがもとめる憲法改正と再軍備に反対するようにもとめている。
 護憲主義者は、憲法をまもれというが、その憲法に、国家を護る条項がないことには一言もふれない。
 そして、「平和を愛する諸国民の公平と信義」などと嘘八百を並び立て、九条で、「陸海空軍その他の戦力を保持しない」と欺く。
 だれも気にしないのは、憲法などとうの昔に廃棄されているからで、60年安保以後は、日米安保という軍事同盟が、憲法に代わる国法として、日本という国家と国民をまもってきた。
 憲法が形骸化されている以上、安保条約と安保法制化が安全保障上の最大の要で、野党や憲法学者が「安全保障法制は戦争法案」と、これに反対するのは、政府攻撃やメシのタネにしてきた憲法が、いよいよ、お払い箱になるからである。
 GHQが敗戦国の足鎖≠ニした憲法に代わって、安保法制が国家主権を宣言する。
憲法改正が、技術的に困難な以上、それが、国家原理に沿った唯一の選択肢だろう。
 国家主権というのは、交戦権のことで、世界広しといえども、交戦権を放棄しているのは、人口800人のバチカン王国くらいのもので、それにも、バチカンを侵略すれば全キリスト教国家が敵に回るという無言の安全保障機能がはたらいている。
 日本で、安保法制が「希代の悪法」「戦争の準備」という話になるのは、戦争を放棄すれば世界が平和になるという少女マンガのような話が、国政レベルで語られているからで、新聞各社は、安保法制に反対する村山富市や河野洋平の会見をトップで扱っている。
 自民党元重鎮の野中広務や古賀誠らが、安全保障法制をすすめる安倍首相に「死んでも死に切れぬ」(野中)「恐ろしい国になった」(古賀)と悲鳴を上げている。
 野中は「人殺しをする自衛隊に入る者がいなくなる」というが、武器をもつ者は公人で、人殺しは私事である。
 どうやら、公儀と私儀の区別がつかないようで、国家という概念が空中分解している。
 安保法制化を批判するメディアも「自衛隊は人殺し≠フためのものではない」「自衛隊の軍隊化反対」という論陣を張る。沖縄タイムスや北海道新聞は、「殺し、殺される自衛隊に失望して辞めた」という元隊員のインタビューを載せ、赤旗は、「自衛隊入隊者に遺書≠強要」と報じた。
「命が惜しい」と公言するような自衛官は、さっさと辞めてもらいたいもので、自衛官が「命がけで責務の完遂に努め、国民の負託に応える」と宣誓するのは、遺書ではなく公人≠ニしての覚悟である。
「自衛隊の軍隊化」は望ましいことで、自衛隊は、国費で大型車両免許や各種資格をあたえ、民間企業への転出者を養成する職業訓練所ではないのだ。
 
●安全保障は「強者の論理」
 左翼や反日勢力、護憲派や反核・反原発派ら平和主義者と呼ばれる人々が、集団的自衛権や安全保障法制化に反対するのは、拠って立つところが「弱者の理屈」だったからである。
 一方、主権と国益は、「強者の論理」である。
 こよなく平和を愛するが、敵が攻めてきたら、命がけでたたかうというのが強者の論理で、安保法制化は、敵国が攻めてきたらたたかうというあたりまえの話である。
 その万全の準備に、敵が不用意な攻撃を控えれば、平和がまもられる。
 それが、真の平和主義で、攻めてきても、たたかわないのは、平和主義ではなく、飢えた狼の前をうろつく太った豚である。
 戦後日本は、戦争反対一辺倒で、国を護るという気概、国をまもってくれる兵を敬うという精神文化を捨て去った。
 モラルの崩壊がおきたのは、日本が、サムライの国から弱虫の国へ転落してしまったからである。
 憲法前文を暗誦するような教育からでてくるのは、肝っ玉が縮み上がった人間ばかりで、それが、憲法9条をまもろうという日本の平和主義の根っこである。
 護憲派の民主党が政権をとるや、たちまち、尖閣諸島危機や従軍慰安婦問題が浮上してきた。媚中・親韓派の民主党には、国家や国民をまもる「強者の論理」がそなわっていなかったからである。
 国家を背負い、国民をまもるには「強者の論理」が必要で、政治家が国会で「自衛隊員の命をまもれ」と叫ぶのは醜態で、だいいち、自衛隊員に、失礼だろう。
 軍備は、せいぜい世界5位程度だが、士気と戦闘技術にかけては、アメリカが世界一と太鼓判を押し、イラクのサマーワに派遣された自衛隊の規律や礼儀、忍耐力や統率力、理念の高さに世界が驚愕した。
 自衛員がサムライだったからで、サムライは公人≠ナある。
「弱者の理屈」の落ち着くところが私人≠ナ、じぶんさえよければ、義理も人情もへったくれもない、オレのイノチ、ワタシの生活をまもれと叫ぶばかりで、野中は、兵隊も命は惜しいだろうと、下司の勘ぐりでモノをいっている。
 平和主義から民主主義、人権・平等思想にいたるまで、核になっているのは、私人で、「村山談話」も「河野談話」も、あんなものは、私文書か私信で、戦後日本は、公の精神がもののみごとに枯れ果てている。
 
●平和主義と精神の崩壊
 戦後の日本で、平和主義ほど、喧伝されてきたことばはないだろう。
 欧米では意気地なし≠笏レ怯者の隠語でしかない平和主義が、日本では、戦争を好まない崇高な精神として、もちあげられてきたのである。
 破壊主義者や侵略者以外、戦争を好む者が、どこにいるだろう。
 戦争を避けるため、守りを固く構えるのが「強者の論理」で、武器を捨てると平和になるなどというたわ言は、日本以外、中学生だって口にしない。
 戦後日本をまもってきたのは、憲法九条ではなく、九条を補填する形で機能してきた日米安保条約で、軍事同盟が、平和と安全をまもってきたのは、政治が、戦争の一歩手前に控える極めつけの現実だからである。
 政治とは、現実で、日本の政治が、空想的だったのは、政治の上位に置いた憲法が空想の産物だったからである。
 だからこそ、安保条約が、国法の代役をはたしてきたのであって、国際法上の条約である日米安保は、軍隊の保持や交戦権にもとづいて、個別的・集団的自衛権を肯定している。
 一方、憲法は、GHQの憲法作成スタッフなかに女性や若者、共産主義者がいたせいか、全編乙女の祈り£イで、憲法前文を読んで、気恥ずかしくならない大人はいない。
 大のオトナが、武器を捨てると平和になると、中学生のようなことを言って、恥じないのは、宗教的妄信に陥っているからで、このカルト教の本尊が、国家は不要、じぶんの生命や財産以外の価値はいっさいみとめないというエゴイズムである。
 野中広務らの反軍主義、マスコミ左翼らの世界市民主義、反体制の反国家主義、憲法9条を守れという平和主義は、同じ穴のムジナで、大事なのは、国家よりもカネ、イノチと叫んでいる。
 かれらが、集団的自衛権に反対するのは、トラブルに巻き込まれたくないというエゴイズムと「権力は悪」というひがみ根性からだが、警官が国民を暴漢から守るのも集団的自衛権の行使で、国家の平和や安全を護るのは、憲法が保証する天賦の権利≠ナはなく、実力である。
 
 ●指針は「主権と国益」
 ホルムズ海峡が機雷で封鎖されて、日本のタンカーが航行できなくなる事態になれば、自衛隊がでかけていって、実力で機雷を爆破処理するのは、あたりまえの話で、集団的自衛権の法的解釈がうんぬんというのは、二の次の問題である。
 安倍首相は、自衛隊がアメリカの戦争に参加(集団安全保障にもとづく戦闘行為)することはありえないとしたが、国際紛争に際して自衛隊派遣の要件を定める恒久法「国際平和支援法案」には、他国内領での対応措置が明記されている。
 その場合、行動基準となるのが「主権と国益」である。
 アメリカの戦争は、アメリカの主権にもとづくものなので、自衛隊がアメリカにつきあって、地球の裏側まで出てゆく必要はすこしもない。
 だが、国益が侵された場合、場所がどこであれ、主権を行使できる。
 日本がホルムズ湾や中国が制海権を狙う南シナ海に軍事的影響力を行使するのは、「主権と国益」にもとづくもので、平和と安全は、軍事力の均衡によってまもられる。
 新聞各社のアンケートでは、安保法制反対派が、過半数をこえている。
 それも、無理からぬことで、戦後、日本は、憲法9条のおかげで平和だったという教育や宣伝、マスコミのプロパガンダがいきわたった現在の日本では丸腰の平和≠ルどうまい話はないからである。
 だが、中国や北朝鮮、韓国の暴走を防いで、日本の主権や国益を護っているのは、日米安保と自衛隊で、憲法九条は、利敵条項でしかない。
げんに、反日主義者は、平和勢力である中国が日本を攻撃するはずはないと主張して、憲法9条の撤廃に反対している。
 憲法9条が、日本を封じ込める仕掛け爆弾≠ノなっているのである。
 安保法制が廃法、あるいは憲法違反の最高裁判決がでたら、中国は、尖閣列島や南シナ海へいっそう軍事的圧力をつよめてくるはずである。
 ドイツで開かれた先進7か国首脳会議(G7サミット)では、「大規模な埋め立てなど現状変更を試みる一方的な行動にも強く反対」するとした首脳宣言を発表した。
 これにたいして、中国は、猛反発したが、一応、ブレーキはかかった。
 フランスのオランド大統領との会談では、安全保障関連法案への連帯が表明された。
 欧州各国が主権国家日本をパートナーとみなしはじめた兆しだが、これを好意的に報じたマスコミは、少なかった。
 60年安保と同様、現実から目を逸らさせる丸腰平和論≠煽ろうというのであろう。
 平和主義を叫んでいれば、経済的成功が手に入り、主権を放棄すれば、戦争のリスクから逃れられるという弱者の理屈、中学生並みの妄想が、まだまだ、払拭されていないのである。



posted by 山本峯章 at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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