2015年11月18日

 国家と国体H 月刊ベルダ8月号(2015年7月発売)より転載

 ●国体と合致しない天皇元首論
 自民党の改憲案では、第一条に、天皇元首が謳われている。
 天皇のなんたるかを心得ない浅慮で、かつての鳩山由紀夫(民主党)改憲案でも、国民主権と並んで、天皇元首が明記された。
「天皇は元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴」とする自民党の改憲案も、鳩山案と大差なく、「象徴的権威」と「政治的権力」の分離を理論化できずにきた云々という鳩山の弁は、自民党案にもあてはまるだろう。
 要するに、ほとんど無根拠に、鳩山の弁を借りるなら、「天皇は日本の元首か否か」という戦後の不毛な憲法議論に終止符を打つために、天皇が憲法上の元首に据えられたのである。
 もう一つの理由は、英国やオランダなどヨーロッパの国王が、国際儀礼上の元首だからで、日本もヨーロッパ並みにという意識がはたらいたのであろう。
 ヨーロッパ王政よりはるかに長い伝統と歴史的意義をもつ天皇をヨーロッパ並みにという発想はいただけないが、くわえて、天皇元首論には、国体と国家の峻別という重大な視点が欠けている。
 ヨーロッパ王政は、権力の系譜で、源氏や平氏、足利や徳川家にあたる。
 乱の勝者が、絶対者である王を名乗ったのである。
 宗教的権威も存在したが、王権神授説や海外侵略を鼓舞したローマ法王庁のように、権力を補佐し、強化する存在でしかなかった。
 弱肉強食の権力しか存在せず、それに一神論がからんで、西洋は、日本人が想像もできないような一元論的な世界だったのである。
 中国には、覇王と王道があって、将軍が覇王、天皇が王道にあたるという説があるが、誤りである。
 覇王も王道も、権力の側にあって、武であろうと徳であろうと、独裁であろうと民主主義であろうと、政体の概念にすぎない。
 大陸から律令制がもちこまれた平安朝や奈良朝では、天皇を頂点とする中央集権体制となったため、多くの天皇は、権力者としてふるまった。
 しかし、元々、大和朝廷以来、日本は、祭祀国家で、天皇の信任をえた摂政や関白、征夷大将軍の官位を授かった幕府が統治をうけもち、天皇は、祭祀を主宰した。

 古代社会において、祭祀は、ただの儀礼にとどまらない。
 見えざる神々に支配されるこの世を治める政(マツリゴト)は、祈り(権威)であって、税や軍事、財務や人事を扱う統治(権力)は、その下位におかれた。
 鳩山のいう象徴的権威は、文化的権威の誤認で、日本は、文化と権力、国体と政体を分離させ、かつ融合させる二元論をもって、数千年にわたって、国家を営んできた。
 天皇は、文化的象徴で、天皇が征夷大将軍や総理大臣を任命するのは、国家が文化的な基盤に立っているからで、そもそも、国家は、権力と文化の二本足で立っている。
 国家が権力機構なら、国体は文化構造で、両者は、土と水の関係にある。
 命あるものが栄えるのは、土と水があるからで、草木が生えない砂漠やすべてをおし流す濁流は、森も耕地も、共同体も成立しない死の世界である。
 万物は、すべて、地と水に依存するが、さらに大事なのが太陽である。
 日本人は、古来より、万物を超越する太陽(天照大御神)を信仰してきた。
 命あるものは、太陽の下で、平等に生の恵みをうけ、共存共栄する。
 日本人の信仰心は、天照大御神の下で、八百万の神々があそぶおおらかな宗教観が育んだもので、ハンチントン教授が、西洋文明(キリスト教)、中華文明(儒教)から日本文明を切り離したのは、日本人の宗教観(神道)が、世界に類のない自然と神話が一体化した壮大な民族文化だったからである。
 天照大御神(高天原)信仰にもとづく天皇の祭祀は、この世が高天原のように平安で、ゆたかな国でありますようにという祈念で、この祈りが権力にゆだねられて、権力に統治の正統性がそなわる。
そこから、神聖なる権威と世俗の権力が分化した。
 権威と権力の二元体制は、日本古来の宗教観と切っても切り離せない関係にあったのである。
 4百年間の平安朝と二百七十年間の江戸幕府をふくめて、日本が二千年以上にわたって、天皇を中心とするこの体制がまもってきたのは、祭祀主が為政者を任命する権威と権力の二元化が維持されてきたからで、大王(オオキミ)と大連・大臣(オオムラジ・オオオミ)、天皇と摂政の相補的関係は、武家社会になって、朝廷(天皇)と幕府(征夷大将軍)の二元関係に引き継がれて、江戸時代までつづいた。

 ●西洋の真似だった王政復古
 大政奉還の上表文に、「保元・平治の乱で政権が武家に移ってから徳川家の祖である徳川家康に至り、更に天皇の寵愛を受け、二百年余りも子孫が政権を受け継ぎ」云々とある。
 徳川慶喜の大政奉還に権威と権力の分離≠ニいう観念がはたらいていたことがわかる。
 大政奉還は、歴史上、かつてなかった大胆な政治改革で、幕末の啓蒙学者、西周らによる幕府の公儀政体論は、公府(幕府)が行政権と司法権、各藩大名が立法権を分担する議院制を採っており、これが、のちの五箇条の御誓文にも反映される。
 王政復古と根本的に異なるのは、天皇が象徴(権威)として、権力から切り離されていることで、これが、天皇が天神地祇を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べた五箇条の御誓文の典礼から現在の天皇の国事行為にまでひきつがれている。
 公儀政体論は、三権分立と権威と権力の分離≠ニいう高度な政治概念にもとづいたもので、維新が成功していれば、日本は、ヨーロッパ化と帝国主義をとった薩長政権とはちがった形の近代化を実現させていたろう。
 ところが、この大政奉還は、薩長のクーデターによって、王政復古へときりかえられる。
 倒幕派の王政は、古代史上、もっとも有能だったといわれる飛鳥時代の天武天皇や「建武の新政」の後醍醐天皇の皇親政治をさすものではない。
 薩長のいう王政は、神権神授説にもとづく西洋型王政で、権威が不在、もしくは権威と権力が一体化しているヨーロッパ王政を日本にもちこもうというのである。
 二元論から成り立っていた日本の伝統的政治を権力一本の絶対君主制へきりかえようというのが、薩長の王政復古で、戊辰戦争は、江戸幕府がおしてすすめていた政治改革を根こそぎひっくり返す国体改造計画でもあったのである。

 慶応3年(1867年)10月14日、岩倉具視の謀略によって、薩長へ討幕の密勅(偽勅)が下される。
 徳川慶喜が大政を奉還したのは、その同じ日のことで、大政奉還には、薩長や一部公家の倒幕のうごきを封じる目的もあった。
 慶喜に機先を制されて、倒幕の偽勅工作が失敗に終わると、岩倉や西郷らの倒幕派は、打つ手を失った。
 朝廷は、すでに徳川へ政権を委任し、公儀政体の準備が整い、徳川諸藩連合政権ができれば、薩長の出番がなくなるどころか、謀反をくわだてた両藩は、討伐の対象になりかねなかった。
 偽勅工作や謀叛計画は、天下の大罪で、岩倉も西郷らも、ただですむはずはない。
 討幕の密勅が、明治天皇のあずかり知らぬものだったことは、同日、大政奉還と公儀政体の諸侯召集が、朝廷から勅許をえていることからも明らかである。
 15歳の明治天皇に政権担当能力はなく、薩長を除いて、徳川3百藩は江戸幕府と足並みを揃えている。
 朝廷が慶喜に統治を委任し、将軍職も従来どおりとなったのは、当然のなりゆきで、戊辰戦争がおきていなかったら、明治維新は、封建(幕藩)体制から議会君主制(公儀政体)への移行という形をとっていたはずである。
 倒幕派の王政復古は宙に浮いた。
 薩長に残された手段は、幕府を挑発して、いくさにもちこむことだけだった。
 西郷は、赤報隊というテロ組織をつくって、江戸市中で、放火や殺人、暴行の狼藉をはたらかせ、幕府を挑発した。
 江戸幕府が薩摩討伐の兵を挙げれば、これを迎え撃って、いくさにする。
 いくさになれば、朝廷をとりこんだほうに勝ちがころがりこむ。
 幕府も諸藩も、天皇に銃口をむけることができないからである。
 岩倉には秘策があった。
 倒幕軍の本陣に嘉彰親王を迎え入れ、錦の御旗を立て、官軍を名乗ることだった。
 岩倉は、反幕派の下級公家をとりこみ、朝廷内の親幕派の摂政・関白などの役職を廃止して、王政復古の朝廷内クーデターを着々と実行に移す。 

 ●戊辰戦争は薩長のクーデター
 世にいわれるように、小御所会議の決定によって、徳川幕府が辞官納地をうけいれ、王政復古が実現したわけではない。
 その逆で、小御所会議の翌年、慶応4年の元日、徳川慶喜は、諸藩に討薩の出兵を命じ、翌日には、幕府諸藩連合軍1万5千の兵が京都伏見に本陣を構えている。
 大政奉還後も、徳川幕府は、権力の座にあって、叛乱軍征伐の号令をかけていれば、親藩・譜代大名の藩兵だけで、十分に薩長を圧倒できたろう。
 それをしなかったのは、幕府(権力)が朝廷(権威)を重んじ、自制したからで、江戸270年の安泰は、ひとえに、権力の自己抑制からうまれたといってよい。
 その均衡を破ったのが、権力と権威の癒着で、発端となったのが、日米通商条約に、老中・堀田正睦が孝明天皇の勅許をもとめたことで、外国嫌いの孝明天皇から中山忠能・岩倉具視ら中・下級公家までが猛反対して、結局、新たに大老に就任した井伊直弼が、孝明天皇の勅許がないまま独断で条約締結にふみきリ、桜田門外の変がおこる。
 ここから、中・下級公家をまきこんだ攘夷運動がおき、長州や水戸、各藩の過激派がこれに勤皇思想をむすびつけ、やがて、尊皇攘夷が、倒幕や王政復古のスローガンになってゆく。
開国を朝廷に諮らず、幕府が単独で処理していれば、明治維新は、ちがったかたちになっていたはずで、かつて幕府は、朝廷の許可なく、鎖国令をだしたが、何の問題もおきていない。

 孝明天皇がとつぜん崩御されて、異変がおきる。
 後ろ盾を失った徳川幕府が、焦燥して、江戸でテロ行為をくり返す赤報隊の退治にのりだす。
 西郷の計略にひっかかったのである。
 それが、鳥羽・伏見の戦を端緒とする戊辰戦争である。
 このとき、薩長は、王政復古とともに征討大将軍の地位に就いた嘉彰親王を薩長軍本営に迎え入れる。
 この瞬間、新政府軍は、官軍となった。
 錦の御旗が薩長軍に立って、政府軍が総崩れになると、諸藩も、薩長になびきはじめる。
 勢いづいた薩長は、江戸へ逃れた徳川慶喜追討令を出す。
 その後、薩長による大殺戮戦が開始されて、軍事クーデターは、江戸開城をもって、成功する。
「玉(ギョク=天皇)を取る」という薩長の戦略が、もののみごとに奏功したのである。
 日米修好通商条約締結に端を発する混乱の収拾と開国という難問は、大政奉還によって、幕府の手で、すでに決着がついていた。
 戊辰戦争がおきるのは、そののちのことで、天皇は、維新とは何のかかわりもない権力闘争(薩長の独裁クーデター)に利用されたにすぎなかった。
 そして、明治20年、王権のつよいプロイセン(ドイツ)憲法をとりいれた大日本帝国憲法が発布され、日本は、西欧型国家へと変貌する。
 明治維新は、天皇を利用した軍事クーデターで、勝った薩長連合政権の帝国主義が、大日本憲法の発布から日米開戦、敗戦までひきつがれた。
 明治新政府が発足したわずか75年後、日本は、第二次世界大戦に負け、焦土と化した国土を連合軍に軍事占領され、国体が危機に瀕した。
 帝国主義・植民地時代の19世紀後半にあって、薩長政権がはたした役割は小さくないが、薩長の王政復古が、国体を破壊し、国家の存亡の危機を招いたのも事実である。
 自民党改憲案の天皇元首論は、国体を破壊した薩長政権の悪夢の再現というしかないのである。


posted by 山本峯章 at 11:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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