2015年11月18日

 国家と国体 11 月刊ベルダ10月号(2015年9月発売)より転載

 ●文化の「国体」と国家理性の「政体」
 国体は何かと問われて、明快に答えられる人は、少ない。
 一流の学者でも、「国家の基礎的な政治原則」「天皇を中心とした政治体制」というのがせいぜいで、国体が、政体から切り離された文化概念ということに思い至っていない。
 国体と政体は、コインの表裏で、一体ではあるが、交わらない。
 政体が、王政や独裁、民主制などの形態をもつ権力構造で、国体は、伝統や歴史的遺産、民族の精神や習俗、文明の蓄積などを包みこんだ文化構造だからである。
 日本では、古代より、権力(政権)が数千年にわたって交代をかさねてきたが、そのかん、土台となる国体がゆらぐことはなかった。
 一過性の権力が、歴史や文化の永遠性の上に構築されてきたのである。
 日本が、世界に類のない伝統国家たりえているのは、古代から継続する国体を有するからで、他の国々は、すべて、国体を破壊もしくは否定した革命国家である。
 君主制の国があるといっても、ヨーロッパの王制は、権力の系譜で、ローマ帝国を源流としている。
 西洋では、権力構造の政体が、文化共同体の国体を破壊して、樹立された。
 国体を失った革命国家が、代わりにもとめたのが、国家理性だった。
 国家理性は、国益のためなら何をやってもゆるされるという原理で、これには、歴史的因縁がある。
 ヨーロッパに国家理性という考え方がうまれたのは、絶対王政が確立された暗黒の中世(14〜16世紀)≠ナ、日本の戦国時代にあたる。
 当時、ヨーロッパ(とくにイタリア半島周辺)では、群雄割拠する小国家群が熾烈な争乱をくりひろげていた。
 日本のいくさとちがうのは、民をまきこんだことで、戦争に負けると、領土も財も奪われ、民も奴隷として売られた。
 ヨーロッパで城塞都市が発達したのは、市民が、都市という砦に集結して、兵といっしょにたたかったからである。
 戦争に負けると、すべてを失うのが、中世ヨーロッパの戦争で、国家がなくなれば、個人の富も名誉も、自由も平等もあったものではなかった。
 国家の勝ち残りを絶対善≠ニする国家理性がうまれたのは、その歴史体験からだった。
 欧米で、国家理性が、国益と同義とされたのは、国益が正義だったからで、理性(リーズン)には、正当な根拠や正しい理由という意味がある。 

 ●国家理性という西洋の怪物
 国家理性は、国家主権とペアになっている。
 国家主権の象徴が、交戦権なら、国家理性の象徴は、<国益に善悪なし>という国家エゴで、国益に合致すれば、海賊行為や武力侵略、軍事威嚇がゆるされる。
 欧米が、奴隷狩りや植民地政策、原爆投下や都市空襲、非戦闘員の大量虐殺を謝罪しないのは、国家がいかなる悪をおこなっても非にあたらないとする国家理性の原理に立っているからである。
 一方、日本は、やってもいない南京大虐殺や朝鮮政府の請願にもとづく日韓併合、どこにでもあった戦場慰安婦問題、アジアを解放した大東亜戦争をぺこぺこと謝罪して回っている。
 国家理性の観念も認識も、もちあわせていないのである。
 国家理性にあたるのが、日本の場合、国体だが、それは、後段でふれよう。
 ヨーロッパでは、中世以降、戦争の勝利者が王政を立て、国家理性が、絶対主義へ移行してゆく。
 国家存続の原則だった国家理性が、絶対王政の規範となったのである。
 マキャベリの「君主論」やジャン・ボダンの「主権論」、ホッブスの「リヴァイアサン=国家怪物論」は、国家理性の思想を汲むもので、西洋では、国家のために悪をおこなうことが、為政者の崇高な義務にまで高められた。
 悪を為して、国家と民をまもるのが、指導者の資質や条件となったのである。

 ●国家理性と国体の対決
 ヨーロッパで絶対王政が崩れたのが、17世紀の名誉革命、18世紀のフランス革命以降で、国家理性が帝国主義や人民政府に移行する一方、法の支配を機軸とする近代国家がうまれた。
 そして、市民(ブルジョワ)革命後、国家理性が、こんどは国家発展の原動力となった。
 産業革命後のヨーロッパや新大陸アメリカの発展をささえたのは、すべてに国益を優先させる帝国主義という新しい国家理性だった。
 その延長線上にあったのが、日本の近代化だった。
 当時、インドから東南アジアがヨーロッパ帝国主義の支配下におかれ、中国は生体解剖≠ニ揶揄されるほどだった。
 国家理性どころか、国家という概念すらなかったアジアが、幾多の主権戦争をくぐりぬけてきたヨーロッパの強国に歯が立つはずはなかった。
 例外が日本だった。
 四方を海に囲まれた日本では、わが国土は天下≠ナ、国家理性どころか、国家という観念も未成熟だった。
 その日本が、欧米から侵略されるどころか、幕末からわずか数十年後、強国の仲間入りをはたしたのは、薩英戦争(英)や下関戦争(英・仏・蘭・米)をたたかった薩長が、国体(天皇)を立てたからである。
 ヨーロッパの国家理性にあたるのが、日本の国体だった。
 薩長が欧米列強とやりあって、近代化に成功したのは、日本には、国体という絶対的な価値があったからである。
 幕末の動乱と明治維新は、日本の国体と西洋の国家理性の対決だった。
 このとき、日本は、驚くべき国家戦略を成功させる。
 天皇をヨーロッパの君主に仕立てた薩長が、日本を西洋型の国家に改造して、帝国主義のみちを驀進するのである。
国体に、国家理性と同等のポテンシャルがそなわっていたのは、主君や藩のために命を捨てる武士道に、国家理性とつうじるものがあったからだろう。
 日本が、近代化に成功したのち、明治憲法制定時(明治22年)において、天皇を元首(大元帥)から国体の象徴という原型に復していれば、軍国主義から第二次大戦の敗戦にともなう国体の危機は避けられていたはずである。
 国体は、西洋の国家理性と同等であったとしても、同一ではないからである。

 ●善≠フ国体と悪≠フ国家理性
 国家理性と国体は、ともに、絶対的だが、内容は、正反対である。
 権力である国家理性は悪≠セが、文化である国体は善≠ネのである。
 日本では、善である国体が、悪である政体を従えた。
 絶対的なのは国体で、幕府という政体は、天皇のゆるしをえて、マツリゴトをおこなう国体の一部にすぎなかったのである。
 国体と政体は、二元論的に機能する。
 民や国土、歴史や文化などから成る国体と、権力をもって国を治める政体が異なった機能をもち、別の原理でうごくのである。
 それが権威と権力≠フ二元論である。
 国体の象徴が天皇で、政体をつくりあげるのが幕府(政府)である。
 いくさに勝った武将が、天皇から征夷大将軍の官位をうけて幕府をひらく形態は、選挙に勝った議員のトップが、天皇から内閣総理大臣を親任される現在の政治システムにまでひきつがれている。
 権力は、権威の親任という正統性(レジテマシー)を必要とするからで、一方、権威の源泉は、民の敬愛である。
 民を治める政府が、天皇から正統性を授かり、天皇が民の敬愛にささえられる三位一体が、日本の国のかたち≠ナ、統治者が絶対権力をふるった西洋とは、国家の成り立ちが異なる。
 国民から選ばれた政治家が、多数決ですべてを決定できるとするのは、直接民主主義で、国民エゴだけで、国家を運営することはできない。
 国民の代表である政治家が、国民の召使いではなく、歴史に責任をもつ国家のリーダーになるには「天皇の親任」という別の作用がはたらかなくてはならない。
 天皇の親任は、国の未来を思い、民を慈しむ皇祖皇宗の大御心の委託で、選挙に勝った政治家は、天皇の親任をえて、はじめて、大御心を実現させる国家の指導者になれる。
 政治は、西洋では悪だが、日本では、善なのである。

 ●国体と憲政を両立させた「御告文」
 天皇は、古来より、国の発展と民の幸を高天原に祈念する祭祀王であった。
 天皇の祭祀(宮中祭祀)は、日本が、世界で唯一、国体を有する国家であることの証で、立憲君主制という近代国家は、日本においては、天皇の万世一系と宮中祭祀という近代合理主義をこえた歴史の真実にささえられている。
 それが伝統国家で、唯物論や合理主義がつくりあげた新政体が、全体主義や独裁政治に陥って崩壊してきたのは、歴史が示すとおりである。
 明治憲法には、前文にあたる「御告文」や「憲法發布敕語」「帝國憲法上諭」において、皇祖皇宗の御心から説きおこされた国体論が条文と並んで、記されている。
 明治憲法は、近代的な立憲君主制と議会・民主主義国家を宣言しながら、同時に、国体を諄々と説いていたのである。
 現行憲法における3大原則「国民主権」「平和主義」「基本的人権」は、国体がもとめるところでもあって、明治憲法では、天皇主権は、国民主権と同義だった。
 明治憲法は、天皇主権といわれるが、条文のどこにも、そんな文言はない。
天皇に主権がおかれていたとすれば、国民主権の言い換えで、大日本帝国憲法発布勅語には、このように記述されている。
「朕は、国家の繁栄と臣民の幸福とを、我が喜びと光栄の思いとし、朕が祖先から受け継いだ大権によって、現在と将来の臣民にたいして、この永遠に滅びることのない大法典を宣布する」
 帝國憲法上諭にはこうある。
「朕は臣民の権利と財産の安全を重んじ、これを保護して、この憲法と法律の範囲内で、完全にこれを守り尊重していく」
 そして、天皇は、国民の幸福(康福)を増進し、国民の立派な徳と生まれながらの才能(懿コ良能)を発達させることを願い、国家の進運を補佐(國家ノ進運ヲ扶持セム)することを望まれる。
 帝國憲法上諭には、「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ」とある。
 天皇という存在は、地位ではなく、祖宗遺烈の歴史的相続、万世一系の世襲で、天皇が親愛する国民は、「祖宗ノ惠撫慈養シタマヒシ所ノ臣民(祖宗が恵み、愛し、慈しみ、養ったところの臣民)」であるとされる。
 天皇は、国民の慈父であって、主権者でも、国民を支配する絶対権力者でもなかったのである。

 ●外には国家理性、内には国体思想
 戦後、国体と政体の区別がつかなくなったのは、国体概念が一掃されたからである。
 その象徴が、憲法前文で、キリスト教的な理想論とルソーやロックの人権思想、共産党宣言の人民主義が並び立てられている。
 フランス革命の「人権宣言」やアメリカの「独立宣言」は、ルソーやロックの人権思想が採られている。
 日本国憲法の前文は、これに、国家を敵とするマルクス史観をくわえ、さらに、九条で、国家主権を否定する交戦権の放棄まで謳っている。
 GHQは、伝統国家の日本に、革命国家のイデオロギーをもちこんで、日本人の魂たる国体を破壊しようとしたのである。
 その日本が、変わることなく日本たりえているのは、敗戦や占領憲法をはね返す国体の力≠ェ残っていたからである。
 いかなるインチキナ憲法をもちながら、日本は、依然として、悠久の国体を有する伝統国家なのである。
 日本は、内には、善としての国体を立て、外には、悪としての国家理性を立てる二枚腰の構えがもとめられる。
 日本は、これまで、外にむけて、国家理性を放棄し、内においては、国体を軽視してきた。
 国家理性が衝突する場面で、政治家が謝罪をくり返し、平和主義者は「武器を捨てると平和になる」と叫び、国体の象徴である宮中祭祀を天皇の私的行事として、国事行為から除外するという誤りを犯してきた。
 日本という国家は、政体の上位にある国体にささえられている。
 皇室典範や宮中祭祀の粗末な扱いが、日本の将来に、大きな禍根を残すことになるのである。


posted by 山本峯章 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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