自主外交をとりもどせ
●相容れない日本と西洋の文明観
西洋と日本のギャップは、解消するのがむずかしい。
歴史や宗教、文明のタイプや国民性などの隔たりが大きすぎるのである。
欧米やユーラシア大陸の国々が異質といえば暴論になるだろう。
普遍性をもっているのは、西洋やユーラシア大陸のほうだからだ。
特殊なのは、むしろ、日本で、西洋とは、文化や価値観が根本的に異なる。
日本は、世界最古の王朝国家でありながら、経済や技術、科学や文化などのほか軍事力や宇宙工学でも、世界のトップクラスにある。
かつて、日本は、ロシアや中国をはじめ英・米などの大国と戦って、負けたのが、原爆を落とされた先の大戦だけという強大国でもあった。
全世界を敵にまわした第二次大戦の敗戦にも、日本は、打ちのめされることがなかった。
空襲による都市と産業インフラの壊滅と原爆投下、連合軍 (GHQ)による7年間余の占領と戦後賠償という敗戦の痛手をうけながら、日本経済は、10年後には戦前の水準に復興、その後、20年間にわたって、10%以上の経済成長を達成して、1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜いて世界第2位となった
多くの王朝国家が、近代以前にすがたを消した世界史のなかで、日本だけが現在まで繁栄してきたのは、日本が祭祀国家で、古来より、権威(朝廷)と権力(幕府)が分離されていたからである。
律令制の導入から武家政権の誕生、戦乱と封建体制の確立、そして明治の近代化、前大戦にいたるまで、政体が国体の下位にあったため、権力が移っても、たとえ、戦争に負けても、国家の体制がゆるがなかったのである。
天皇の下で、士農工商の各階層がゆたかな文化をもち、江戸は、当時、ロンドンをしのぐ世界最大の都市だった。
識字率が世界一で、絵画や文学、芸能や食文化などの庶民文化が栄え、一方、世界に類のない道徳国家でもあった。
圧政と争乱、飢えと貧困、身分差別や奴隷制度などの旧弊に打ち沈んでいた中近世の暗黒世界にあって、江戸幕府は、2世紀以上にわたって、侵略をうけることも内乱で国をみだすこともなく、平和と繁栄を保ってきた。
日本以外の国々や地域では、軍事的な侵略と文化的な同化によって同質性が築きあげられていった。
だが、鎖国していた武士の国には、列強も、指一本ふれることができず、独自の文明がまもられてきたのである。
西洋文明やイスラム文明、中華文明など、世界を8つの文明圏に分けたハンティントン教授が日本を単一の文明圏とみなしたのは、日本が、他のどこにも属さない独自の歴史と文化、民族性をもつ伝統国家だったからである。
●日本文明と西洋文明の衝突
日本と西洋、ユーラシア大陸では、価値観や文化が異なる。
土地が農耕に適さないヨーロッパは、放牧・肉食文化圏である。
土地・農民・作物の三位一体構造がない肉食文化圏で、国家の基礎となったのが、土地の強奪や掠奪経済だった。
神が与え下さった恵みを取り返す(キリスト教)という好戦性や適者生存という競争原理(ダーウィニズム)がヨーロッパの中心思想で、十字軍の遠征や大航海、植民地侵略もその延長線上にあった。
したがって、東インド会社などによるアジアの植民地化に、かれらはなんら罪悪感をかんじていない。
白人の非白人・非キリスト者にたいする残虐非道ぶりは、インカやアステカ帝国の滅亡、アフリカの奴隷狩り、アメリカ・インディアン、オーストラリア・アボリジニの抹殺から大東亜戦争における都市空爆と原爆投下による非戦闘員大虐殺まで一貫したものがある。
その根底にあるのが人種差別で、欧米人にとって、黒人は奴隷で、黄色人種は使用人、原住民は動物だった。
西洋のリーダーには「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族」と演説して大統領になったアンドリュー・ジャクソンのような人物もいたほどで、下卑で無教養なトルーマンは、100万人の米兵の命を救った大統領というキャッチフレーズをみずから考案して、ポツダム宣言発表の前日、原爆投下の命令書にサインした。
白人は、自らの生存と繁栄のためなら、人間性をかなぐり捨てるのである。
この性向は、東アジアでも同様で、世界史上もっとも残酷だったといわれるモンゴル帝国に支配された中国、モンゴルの末裔である韓国・北朝鮮も、悪逆非道ぶりでは、西洋人にひけをとらない。
一方、日本人の祖先は、一万年も昔から、三内丸山遺跡(5千年前)のような集落をつくって、採集や農耕をなりわいとしてきた。
集団的な農作業や作物の備蓄、交換から経済がめばえ、素朴な宗教や祭りから技術や文化がうみだされ、古代農耕集落群は、こうして、邪馬台国や大和朝廷へ発展していったのである。
血で血を洗う闘争と虐殺の歴史を生きてきた民族には、和を重んじ、恵みの神々に祈りを捧げてきた民族を容易に理解できない。
同様に、日本は、アジアを侵略して、暴虐のかぎりをつくす英米仏蘭の力の論理を容認できない。
伝統国家の日本と革命国家の西洋やユーラシア大陸の国々では、価値観や歴史観、道徳観を共有することができないのである。
●白人支配への反逆だった日本の船出
日本は、白人による世界支配が完成した19世紀半ばに、国際社会にのりだしていった。
これが、近代日本の船出で、日本の新しい歴史がはじまったのである。
最初の大事件が、日清・日露戦争で、次が大東亜戦争である。
20世紀が帝国主義と戦争、革命の世紀だったのにくわえ、日本をとりまく地政学的な状況も切迫していた。
ロシアをふくむヨーロッパ列強が、インドや中国、朝鮮半島を侵蝕する一方、アメリカは、ハワイを併合、フィリピンを侵略して、太平洋の西端まで支配権を広げてきた。
日本は、ユーラシア大陸と太平洋の白人勢力に挟み撃ちされる格好になった。
日本は、防衛戦を朝鮮半島から満州にまで拡張して、ロシアの南下を防ぎ、アメリカのハワイ侵略には、東郷平八郎率いる軍艦「浪速」「金剛」がホノルル沖に停泊して、王族や住民を虐殺、リリウオカラニ女王を軟禁して革命政権を立てたクーデター部隊(アメリカ兵)を威嚇した。
日本がアメリカの仮想敵国になったのは、地政学・軍略的な事情にくわえて、日本の海軍が、西太平洋のアメリカの覇権をゆるさず、日本の陸軍が、アメリカの狙う中国利権の妨害者となったからだった。
白人が有色人種を支配した19〜20世紀に、アジアの有色人国家・日本が軍国主義の道をつきすすんで、列強の帝国主義と対決したのは、近代化に成功したからだけではない。
もともと、日本が、誇り高き武士の国だったからである。
それまで、白人にひれ伏す一方だった黄色人種である日本の躍進は、白人世界にとって、目障りな存在から、やがて、有害な存在に変化する。
というのも、日本が、民族・人種差別と搾取一辺倒の植民地政策に反対する立場をとったからである。
日本が、人種・民族差別と植民地の撤廃を国策としたのは、西洋の啓蒙主義的な考えからではなかった。
人種・民族の平等と白人国家による有色人種国家の支配・搾取という世界構造の打破とアジア解放は、アジアの一員である日本の誇りと実利がかかった国家の基本戦略だったのである。
●燃え上がった日本への憎悪
1919年、日本は、パリ講和会議で「人種的差別撤廃提案」をおこなって過半数を超える国の賛成を得ている。
このとき、議長のウィルソン米大統領が、全会一致による採択法を採用してこれ否決したのは、属国支配や植民地政策をとっている英米ら列強に不都合だったからだった。
日米が対立関係に入ったのは、ポーツマス条約によって日本が獲得した鉄道管理権の共同経営(桂・ハリマン協定/1905年)を日本側が拒否したからで、これを中国権益の足場にしようと考えていたアメリカは激怒する。
もっとも、これは、1908年、日本の満州・朝鮮支配とアメリカのフィリピン・ハワイ支配を相互に承認(高平・ルート協定)しあって、一応の決着をみている。
そののち、アメリカを悩ませる問題が新たに浮上してくる。
第一次世界大戦(1914年)は、日本をふくむ連合国側が勝利して、日本が山東半島の旧ドイツ権益を継承したほか、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得るのである。
支那と太平洋に新たな拠点をえた日本は、アメリカにとって、さらなる脅威となった。
そこで、アメリカは、イギリスを抱き込んで、日本弱体化の戦略を練る。
アメリカは、主要国9か国をワシントン会議(1922年)に招集して、日本をターゲットに、各国に戦艦の縮減をもとめるのである。
主力戦艦の保有比率を5(英):5(米):3(日)としたものだが、これには、ハワイ(米)とシンガポール(英)が除外されているので、事実上、日本だけを対象にした軍縮計画だった。
ワシントン会議で、アメリカは、日本にたいして、「日英同盟」と支那における「日本の特殊権益(石井・ランシング協定)」の破棄(門戸開放)という大きな成果をえる。
その後、アメリカは、日支関係に干渉してくると、石油と鉄くずの対日禁輸という経済封鎖(ABCD)をおこない、併せて、日米交渉の途中で突然、米国務長官コーデル・ハルが「ハル・ノート」(日米協定基礎概要案)をつきつけてきた。
その主たる内容は「仏印・中国からの全面撤退」「汪兆銘の国民政府(中華民国臨時政府)の全否認」「三国同盟からの離脱」という宗主国であるかのような命令で、日本が、とうてい、うけいけることができるものではなかった。
東郷外相は手記にこう書き残している。
「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんとしたものである」
海軍による真珠湾攻撃は、ハルノートの挑発にのったもので、もともと、対米戦争計画は、植民地解放と大東亜共栄思想を謳った基本国策要綱(1940年)や帝国国策遂行要領(1941年)に盛られていなかった。
ルーズベルトとチャーチルの対日敵視政策が、大西洋憲章(1941年)によって明らかになると、日本は、大東亜会議を開催して、「大東亜共同宣言」で対抗する。
カイロ会談のあと、チャーチルとトルーマンは、日本への原爆使用と将来的な核管理、戦後の工業化阻止、武装解除の維持などの対日政策をとりきめて、白人優位世界をゆるがしてきた日本への措置がここで決定する。
それがハイドパーク協定で、これが、そののち、ヤルタ・ポツダム宣言へひきつがれる。
日本壊滅を望んだのは、英米だけではなかった。アジア全域の共産化に野望を燃やすロシアも、南京政府(汪兆銘)を倒すため、英米のヒモつきとなった重慶政府の蒋介石も、コミンテルン支部の毛沢東も、日本打倒に血眼になるのである。
●存在しないYB体制の正当性
トルーマン、チャーチル、スターリンの3首脳がベルリン郊外のポツダムに会して、昭和20年7月26日、日本に降伏を勧告する「ポツダム宣言」を発表した。
同宣言は、降伏の脅し文句と降伏条件を示した勧告書で、領土条項は全13項のうちの8項のみである。
「ポツダム宣言」の第8条に「カイロ宣言の条項は履行する」とある。
だが、カイロ宣言には日付や三首脳の署名がなく、チャーチルは、イギリス国会(1955年)で同宣言書の存在すら否定している。
ルーズベルトが蒋介石を呼んだのは米英中3巨頭≠ニおだて上げ、日本との講和へ傾いていた蒋に釘をさすためで、1914年の第一次世界大戦以降に日本が獲得した満州と台湾、澎湖島の中国への返還は、ルーズベルトと蒋の私的な口約束にすぎない。
そもそも、カイロ会談は、2日後(1944年11月28日)に開催された初の3巨頭(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)会談(テヘラン会談)に合わせてルーズベルトが小細工したもので、チャーチルが「ダマされた」と地団駄をふんだように、世紀の大芝居だったのである。
「樺太南部およびこれに隣接する島々」「全千島列島」と名指しで日本領のソ連への返還が謳われたのはヤルタ協定においてであった。
だが、ソ連領のクリミア半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンが集っておこなわれた秘密協定は、米英ソの軍事協定であって、法的な拘束力をもつ国際条約ではなかった。
アイゼンハワー大統領は、ソ連の参戦と日本領土の譲渡を約したルーズベルトとスターリンの密約は、個人的な約束事だったとして、無効宣言をだしている。
ヤルタ・ポツダム体制は、ルーズベルトの迷妄であって、なんら法的効果を有していない。
国家防衛には、三島由紀夫が『文化防衛論』で唱えたように「尚武の精神」がもとめられる。
それには、GHQ憲法を廃棄して新憲法を建て、軍備を充実させ、日本独自の文明観を堂々とおしとおしていけばよいのである。