●伝統国家に新興国家の憲法
国家の三要素として、領域(領土、領海、領空)と人民(国民、住民)、権力(国家主権)があげられる。
この三つにくわえ、外交権能が、国際法上、主権国家にもとめられる条件とされる。
もっとも、これは、西洋もしくは革命国家の国家観念で、伝統国家の日本にはあてはまらない。
歴史や言語や宗教など、民族の遺産というべき国体という文化概念が欠けているからである。
過去が断ち切られている革命国家では、領域や人民を支配する統治システム、権力機能をはたす政体が、そのまま、国家となる。
それが、ステーツで、独立宣言以前の歴史をもたないアメリカは、政治的な機能だけで成り立っている連邦政府(ユナイテッドステート)である。
一方、ネーションは、歴史の遺産を現在にひきつぐ民族共同体で、日本は、政治機能のほかに国体という文化概念を併せもつ伝統国家である。
伝統国家は、国体という過去と政体という現在が十字に交差して、できあがっている。
ところが、戦後、日本は、GHQによって、国体という時間軸を抜かれ、伝統国家から、政体という空間軸しかない新興国家へ転落した。
憲法から日本の独自の国家像が見えてこないのは、国体が欠落しているからで、日本国憲法をつくったGHQの頭にあったのは、民主主義という政体概念だけだった。
過去をもたないアメリカ人がつくった憲法が、伝統国家である日本の国柄に合致するわけはなく、憲 法概念を逸脱した九条にいたっては、敗戦国にたいする報復措置という代物でしかなかった。
GHQの対日戦略は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムと歴史の否定で、廃位を免れた天皇は、国体という歴史から分離されて、日本国と国民統合の象徴となった。
もっとも、天皇を政体=権力へ置いたのは、戦後のGHQではなく、薩長の明治政府で、国体=権威の危機は、明治の近代化において、すでにくすぶっていたといえる。
かつて、明治憲法下において、天皇機関説と天皇主権説が対立した。
両説とも、天皇を政体のトップにおいた明治憲法の誤りをひきずっているのはいうまでもない。
国体が見えなかったのは、山田孝雄(『国体の本義』)が指摘したように、国体が無意識化されていたからだったろう。
戦後、天皇は、主権者から象徴となったが、依然として、政体に根拠がおかれている。
国体の象徴である天皇を政体(憲法)で規定する誤りがくり返されたのである。
●祭祀王にしてオオキミだった天皇
天皇は、元首ではなく、もともと、象徴的存在だったという認識から、象徴天皇を見直す議論もある。
象徴性は、目に見えない抽象的な価値を目に見える具体的な物象に置き換えることで、剣が権力の象徴なら、ペンは言論を象徴する。
かつて、権力者だった天皇は、のちに権威となったが、権力の象徴となった事実はない。
摂関政治や院政、武家政治が権力の委譲であったのなら、天皇が権力の象徴だったことになる。
それなら、天皇から権力を奪えば、ユーラシア大陸のように、容易に革命や政変が成立する。
そうならなかったのは、天皇が、権力から離れても、地位がゆるがなかった日本特有の原理があったからである。
それが祭祀国家である。
かつて、天皇は、オオキミ(大王)と祭祀王の両方の顔をもっていた。
大和朝廷が統一される過程で、大きないくさがなかったことやピラミッドに匹敵する巨大墳墓が数多く残っていることからも、祭祀が、国家統一の大きな力としてはたらいていたことは疑いえない。
日本が、有史以前から祭祀国家だったのは、日本人特有の自然観や宗教観にもとづいている。
島国日本は、変化に富んだ地形や3大海流に洗われる海岸線があり、自然の幸に恵まれている。四季があり、稲作のほか農耕がさかんで、動物を殺さずに食糧を確保できる農業国だった。
反面、4つのプレートの上にのった地震国で、列島が台風の通り道になっている。
自然とともにあった日本人は、八百万の神々に和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)の2つの側面を見て、寿(ことほ)いて祭り、畏(かしこ)みて祀るという独自の信仰をまもってきた。
その独自の宗教観の頂点にあるのが、祭祀王としての天皇、権力者としての大王で、魏志倭人伝に「鬼道によって人々を惑わす」と記されている卑弥呼の政(まつりごと)も祭祀をさしている。
●権威と権力に二元化された支配構造
大和(古墳)時代の第16代仁徳天皇が、三年間の免税をおこなって「民のかまどは賑いにけり」と謳ったのは、祭祀王の顔で、一方、朝鮮半島の百済や新羅、高句麗の軍とたたかい、東晋に使者を送り、宋の皇帝から称号をうけたのは、大王(倭五王のうちの讃)としての顔である。
天皇の位は、聖と俗、国体と政体、権威と権力の両方にまたがっていたのである。
祭祀国家の源流をたどれば、神武天皇と同一人物といわれる第10代崇神天皇にたどりつく。
崇神天皇は、縄文弥生時代から原始信仰(自然崇拝)の象徴だった三輪山の山麓に初期の大和朝廷(三輪王朝)を建て、大物主神がのりうつったとされる百襲姫にマツリゴトをおこなわせている。
山麓一帯には、崇神天皇(行灯山古墳)や第12代景行天皇(渋谷向山古墳)の陵のほか、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳がある。
崇神天皇の治世が邪馬台国の時代の後半と重なるところから、魏志倭人伝に蔑称で記されている卑弥呼が百襲姫だった可能性はきわめて高い。
祭祀王だった崇神天皇は、一方で、大和朝廷を全国規模の政権に育て上げた政治の天才でもあった。
日本史には、政治的に高い能力をもつ天皇が、数多く登場するが、祭祀王である天皇が、つねに、為政者として有能であることは困難で、そののち、天皇の政治力は、摂関政治や院政、武士の台頭によって、徐々に形骸化されてゆく。
第45代聖武天皇は、「三世一身の法」「墾田永年私財法」を発して、天皇がすべての土地と人民を支配する天皇政治の原則を放棄している。
藤原不比等や長屋王ら公卿にゆだねられた政治は、やがて、源平藤橘4氏が中心となった貴族政治から武家政治へとすすんでゆく。
その一方、天皇の権威は、ゆらぐことはなかった。
天皇の祭祀と為政者の権力が二元化されたからである。
古代社会では、祭祀は、現代人の想像がおよばない大きな力をもっていた。
古代国家において、権力者が、祭祀王である天皇の許しをえて、施政をうけもつシステムは、自然発生的にできあがったはずである。
そして、その仕組みは、江戸時代までつづいた。
平安時代の390年、江戸時代の265年、鎌倉時代の148年と長期政権がつづいたのは、政体が国体の下位にあったからで、戦国時代の100年間と南北朝時代の57年間は、朝廷の権威低下によって、権力が空中分解をおこしたからだった。
●革命勢力に脅かされる国体
権威があって、権力がそれにつらなるのではない。
権力が安定をもとめて、権威をもとめるのである。
そのメカニズムを熟知していたのが、上洛途中で病死した武田信玄とのちに政権をとった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だった。
そして、その原理を忘れたのが、院政をはじめた白河天皇、承久の乱をおこした後鳥羽上皇、建武の新政の後醍醐天皇、天皇を国家元首に戴いた明治政府だった。
ユーラシア大陸型の専制国家は、武力で統一された。
ヨーロッパの王室は、ローマ時代以来の権力と富の系譜で、源平藤橘、徳川家のようなもので、しかも、天皇にあたる上位の権威が存在しない。
近現代は、市民革命によって、伝統国家が革命国家に転身した時代で、主要8か国(G8)のなかで、国体を有しているのは、日本だけである。
ロシアやフランス、独立戦争で母国イギリスとの歴史的連続性を断ち切ったアメリカのほか、王政復古したイギリスも、チャールズ1世を処刑した清教徒革命とジェームズ2世を追放した名誉革命という 2つの市民革命によって、伝統国家の資格を失っている。
ドイツは、11月革命(1918年)でカイザー(皇帝)を廃し、イタリアでは、第二次世界大戦後、国民投票によって共和制を採択、国王(ウンベルト2世)を国外へ追放して、それぞれ、革命国家となった。
オランダやノルウェー、スウェーデン、ベルギー、デンマーク、スペインらの王国も、君主制から共和制に移行して、中国では、共産主義革命がおきた。
日本は、革命国家群に囲まれているだけではなく、戦後、国家基本法までが革命憲法に書き直されるという試練に耐えて、伝統国家をまもりつづけている。
野党や労組から、大マスコミや教育(日教組・大学)、論壇までが、反体制を志向しているのが戦後の風潮である。
反体制が標榜しているは、共産主義や社会主義ではない。
民主主義と国民主権が至上の価値となって、他のいっさいを排除しようとしている。
●個と全体の矛盾を解消した天皇の象徴性
デモクラシーも主権在民も、文化概念ではない。
絶対君主制や専制政治に対抗するための政治概念で、多数決や普通選挙法、議会制度をさしているにすぎない。
ところが、日本では、民主主義と国民主権が文化の領域まで侵犯している。
文化の領域というのは、国体である。
国家は、政体が多少、左傾化しても、転覆することはない。政治は、国家と国民の利益をもとめるというレールが敷かれているからで、脱線したら、選挙で、政権を交代させればいいだけの話である。
国家が危機に瀕するのは、国体が脅かされるときである。
革命は、国体を破壊することで、文化には防衛力がそなわっていない。
国家をまもるということは、文化をまもることで、内外の圧倒的な革命勢力の圧力のなかで、日本が伝統国家たりえているのは、天皇と国民の紐帯が、それだけ、固いからである。
日本で、市民革命がおきなかったのは、国家が、国体(天皇)と政体(幕府・政府)の二重構造になっていたからで、天皇から施政権を授かる幕府は、民の敵となる構造になっていない。
幕府に施政権をあたえる天皇が、同時に、氏子である民とともにある祭祀王だったからである。
幕府が奉じた大御心が、民を慈しむ皇祖皇宗の心であれば、民を粗末に扱うことは、天皇への反逆となるのである。
江戸幕府が明治政府に移行したのは、政体交代であって、政体が国体の下におかれる仕組みに変更はなかった。
天皇元首論が危険なのは、天皇を政体にとりこむことによって、国体と政体の二重構造が崩壊するからで、明治憲法で、国家元首を謳った誤りが、天皇の戦争責任と戦犯処罰という1945年の危機を招いたことを忘れるべきではない。
世界史をふり返って、国家と人民の関係が円満だった時代は、ほとんどみあたらない。
国と民は、全体と個の利害が矛盾するように、もともと、対立するようにできているのである。
絶対王権や専制政治では、国家が人民をおさえこみ、革命によって、権力が人民の手に移っても、結局、同じことがくり返される。
人民政府は、絶対化・独裁化するので、恐怖政治によって、人民抑圧という悪政が、さらに悲惨なものになるのである。
近代国家は、専制と独裁、革命の苦い経験からうまれたもので、議会制度や民主主義、普通選挙法が採用されたのは、国家と人民の対立や摩擦を緩和するためだった。
だが、国家と人民の対立、全体と個の矛盾は、いまだ解消されていない。
国家と国民の対立が、議会制や政党政治、民主主義や多数決にもちこされただけである。
個と全体の矛盾を解消できるのは、国家が国民を治め、国民が国体の下で心を一つにし、国体(天皇)が政体(政府)に施政権の正統性をあたえる三位一体構造のみである。
天皇は、この三位一体構造の象徴でもあったのである。