2017年02月10日

 月刊ベルダ9月号(2016年8月発売)より転載

 天皇の「生前退位」が広げた波紋

 ●もっとも望ましい皇太子の摂政宮就任
 安倍首相は、天皇陛下がビデオメッセージで生前退位のご意向をしめされた問題について、ご年齢とご公務の負担など陛下の心労を重くうけとめるとしながらも、生前退位の法制化などの具体的な政府の方針は示さなかった。
 菅官房長官も「公務の円滑な遂行が困難になることを懸念されたお気持ちをのべられたもので、国政に影響を及ぼす発言ではない」として、天皇が政治に影響力をもたない憲法上の限界をしめすにとどまった。
 今上天皇が生前に皇太子に皇位を譲る「生前退位」の理由がご高齢なのであれば、憲法(第5条)及び皇室典範(第16条)の規定にしたがって、皇太子が摂政をつとめられるのが順当と思われる。
 事実、陛下が前立腺がん(2003年)や心臓冠動脈のバイパス手術(2012年)でご静養中だった時期、皇太子殿下や秋篠宮殿下が公務を代行されておられる。
 皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が大正天皇のご療養から崩御にいたる5年間(1921年から1926年/大正10年から大正15年)にわたって摂政(摂政宮)をつとめられた歴史的前例も存在する。
 皇太子摂政であれば、皇室会議だけで手続きがすみ、元号を変更する必要もない。
 昭和天皇が摂政となられた5年間、元号は大正のままで、昭和へ改元されたのは、大正天皇の崩御後、昭和天皇が践祚されて第124代天皇となられたのち(大正15年/1926年)のことであった。
 摂政という選択肢がある以上、二百年前の光格天皇(119代)以後、絶えて久しい生前退位の復活には、歴史的必然性が乏しいといわざるをえない。

 ●皇室典範を憲法の下において生じた国体の危機
 生前退位を可能にするには皇室典範の改正で十分という意見がある。
 憲法に組み込まれた皇室典範は、法律の一つにすぎず、国会の承認があれば改正は可能というのである。
 だが、これには、大きな問題がある。
 今上天皇が生前退位されるとすれば、大日本帝国憲法や旧皇室典範をとびこえ、江戸時代後期の光格天皇の前例にまでさかのぼらなければならない。
 現行憲法や現皇室典範は、大日本帝国憲法や旧皇室典範の改定である。
 江戸時代の前例を適用して生前退位を法制化すると、明治以来の法体系との連続性や整合性が失われて、恣意的な法改正によって、天皇や皇室のあり方を変えることが無制限に可能になってしまう。
 天皇陛下のご意思にもとづいて「生前退位」の法改正がおこなわれるとすれば、憲法第四条の1(天皇は国政に関する権能を有しない)に抵触するのみならず、天皇がお望みになれば、法の名の下で、皇位の女系相続といった伝統に反した皇室制度の変更までが可能になって、歴史や国体との整合性が失われかねない。
 最大の問題点は「生前退位」を法制化によって定めると、国体の象徴である天皇が国体の下部構造である政体によって規定されるという矛盾が生じてしまうことである。
 天皇が権力を超越した存在だったことは、しばしばおこなわれた生前譲位に幕府が関与しなかったことからも明らかである。
 万が一、「生前退位」が実現すれば、新天皇は、権力が定めた史上初の天皇ということになって、権威(国体)と権力(政体)の二元性が根本からゆらぐだろう。
 象徴天皇を憲法の規定とする菅発言からもうかがえるように、憲法改正案に天皇元首を謳った自民党には、天皇が憲法ではなく、国体にもとづく存在という認識が乏しい。
 天皇が政治的影響力を有さないのは、権威と権力の二元化というわが国の伝統にもとづくもので、かならずしも、憲法の規定に根拠にしたものではない。
 天皇の象徴性も、市民革命によって権力者としての地位を失ったヨーロッパ王制の象徴ではなく、権威と権力の二元化にもとづく非政治化であって、古来より、天皇は、権力者ではなく、象徴的存在だった。
 天皇の地位を憲法で規定すれば、天皇を国家元首とした明治憲法の二の舞となり、天皇の政治利用という道をひらくことになる。
 改憲案に天皇元首を謳った自民党に猛省と再考を促したい。

 ●天皇は万世一系によって世襲される歴史上の地位
 日本人が忘れかけている国体について、三つの常識を提示しておきたい。
 1、天皇は、歴史=国体が継承してきた地位で、天皇家が相続する身分ではない。
 2、天皇の地位を継承するのは万世一系(神武天皇の嫡流)である。
 3、皇位継承問題は権力や法の干渉をうけない。
 天皇は、歴史がひきついできた地位で、永遠なのは、その歴史性である。
 天皇の位が先に継承されて、万世一系の系統を引き継ぐどなたが天皇の位を世襲されるのかは、万世一系の原則に従う、それが伝統国家としてのわが国の歴史である。
 天皇の嫡嗣が皇位を継がれるのは、その一形態であって、天皇家に男系男子が絶えた場合、他系統に皇統をもとめなければならない。
 したがって、永遠なる国体を維持するには、その地位につく万世一系の男系男子の幅を大きくとっておく必要がある。
 現皇室は、世襲親王家の一つで、118代天皇後桃園天皇とは家系的つながりの薄い閑院宮の119代光格天皇を祖としている。
 閑院宮は、皇統の断絶を懸念した新井白石と東山天皇(113代)が創設した世襲親王家の一つで、114代中御門天皇の系列で男系男子が絶えても、皇統が保たれたのは、新井白石の智恵のたまものであった。
 一方、現在、GHQが皇室の自然消滅を図った11宮家の臣籍降下にたいして、これを復元させようといううごきはなきにひとしい。
 皇位の世襲を謳った皇室典範が、改廃可能な法体系(憲法)にとりこまれているところに、GHQがつくった戦後体制の矛盾がある。
 旧皇室典範は、皇室の家法として、憲法とは別の、しかも同格の法典として用意されていた。
 これは、権力と権威が二元化されていたわが国特有の体制をあらわしたもので、飛鳥浄御原令や大宝律令などの古代法にも天皇の地位について記述がない。
 天皇や国王が世襲なのは、血統による正統性がもっとも安定した伝統の継承形式だからで、それ以外の方法では、権力が介入して、政争や乱をまねかずにいない。
 永遠の国体が変動する権力構造や一過性の政体の下位におかれると、国家の屋台骨が不安定になる。
 日本が紀元前の大和朝廷以来、同一体制を維持してきた理由は、権威と権力が不可侵の関係にあったからで、それが、日本を世界一の伝統国家にしたのである。

 ●国家をつくった天武天皇・国体に殉じた楠木正成
 国家観があって、はじめて、国家ができる。
 世界の後進的地域が、一足先に国家をつくった列強の餌食になったのは、国家観がなく、したがって、国家をつくれなかったからで、イギリスやオランダの食い物になったインドやインドネシアは、領主群が勢力を競いあう広大なる未開の地でしかなかった。
 日本が列強をよせつけなかったのは、体裁としても機能としても国家だったからで、その中心にいたのが天皇だった。
 現代人にピンとこないだろうが、古代において、国家は、超越的空想でしかなかった。
 国家は、もともと、戦争からうまれるもので、中国大陸で、秦(始皇帝)や漢王朝が誕生したのは、紀元前770年から500年間もつづいた春秋・戦国時代のあとのことだった。
 戦争は武人による権力・勢力争いだが、その先の国づくりをひきうけるのは政治家である。
 戦場(武)と国家(政)をつなげるのが国家観で、中国は、そのために500年をついやしたのである。
 日本が、紀元前という早い時代に国家概念をもつことができたのは、天皇という超越的な存在があったからで、日本の神話も、国産み、神産み、国譲りの物語である。
 天皇が国家を構想しえたのは、個人をこえた歴史上の存在だったからで、歴史=国体という時間軸に立って、はじめて、国家が見えてくる。
 天武天皇は、皇親政治をとって独裁体制を敷き、大宝律令の前身である飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』『古事記』の編纂と着々と国家的事業をすすめる一方、天皇の称号と日本の国号を定めた。
 日本という国家および権力機構は、天皇がつくったのである。
 土台にあったのが国体で、国体が政体を擁して、国家となったのである。
「建武の新政」で足利尊氏らと後醍醐天皇を助け、尊氏が叛旗を翻したあとは南朝軍を統率、湊川の戦いで700人の小勢で数万の尊氏の軍勢に挑み、破れた楠木正成は「七生報国」を誓って、弟正季とともに自害した。
 七生報国の国は、空間的・世俗的な国家ではない。
 正成の国家は、歴史という時間軸と神性からなっている国体のことである。
 尊氏は、武家時代の到来を念頭に、正成を家臣に迎えようとしたが、正成は一顧だにしなかった。
 正成が七生報国を誓った国という概念は、権力構造としての国家ではなく、神性をおびた国体だったからである。
 水戸黄門こと徳川光圀は、正成終焉の地・湊川に墓石を建立、そこに自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した。
 封土や俸禄の代償として忠勤奉仕に励む武士の論理は打算で、俗世の利害に左右される。
 光圀公は、権力の走狗となる粗雑な武士に失望して、国体に殉じた楠木正成に武士の理想をもとめたのである。
 幕府や主君のあいだにあるのは契約で、建武の新政が失敗したのは、武士が恩賞に不満をもったからだった。
 利害や個人的栄達に心をうごかされる武士は、身命を捨てて、国体=神州をまもることはできない。
 楠木正成に日本精神を見た光圀の思想は、やがて、幕末の尊皇攘夷へと発展していく。

 ●大御心に反する天皇の声は「聞いてはならない」
 国家や法、制度は、現在的にして唯物的である。
 したがって、万人が敬意をいだく権威はそなわらない。
 権威は、歴史という時間的連続性に宿るものだからである。
 天皇が権威たりうるのは皇祖皇宗と一体化した歴史の体現者だからで、憲法上の象徴天皇として歴史から切り離されると権力構造の一部にすぎなくなってしまう。
 天皇陛下の今回のおことばやお気持ちが、はたして、皇祖皇宗の大御心に添っていたであろうか。
 陛下のお考えやおことばが大御心に反していたなら、葦津珍彦がいったように「聞いてはいけない」ということになる。
 天皇陛下が皇太子時代、家庭教師をつとめたヴァイニング夫人は、クエーカー教の正式会員で、アメリカ民主主義の信奉者であった。
 皇太子徳仁親王も、数年間、オックスフォード大学に留学されている。
 天皇陛下や皇太子殿下の個人的なお考えは、女系天皇容認とつたえられるが、皇位継承について、陛下や皇太子殿下からおことばをいただく必要はない。
 耳を傾けるべきは、日本書紀などの正史にもとづいて先人がくり返してきた不変の原理で、それが大御心である。
 皇祖皇宗は、女系天皇や皇位継承を法にゆだねる現行憲法をおゆるしにならないだろう。
 戦後、占領軍によって臣籍降下させられた11宮家をいまだ皇籍復帰論させられない現状を深く憂いてもおられる。
 それが、民の幸と国の繁栄を願う皇祖皇宗の遺訓たる大御心で、天皇陛下のおことばは、陛下の個人的なお考えを超えた歴史の意志でなければならない。
 日米開戦に反対した葦津珍彦が「天皇が大御心に反することを仰せになったら聞いてはならぬ」といったのは、今上天皇がひきつがれたのは、現世的権力ではなく、歴史的権威だったからである。

 ●大御心を背負って成り立つ権力の正統性
 大御心の添うことによって、一過性の権力に正統性がそなわる。
 それが、権威と権力の二元論で、国体護持は、権力者が負うべき最大の義務である。
 国体をまもるというということは、大御心をまもるということであって、政治家は、国体護持の義務を最大限に負わなければならない。
 ところが、現在、政治家は、天皇は憲法上の存在と言い放って、恥じるところがない。
 権威と権力は、並び立っているのではなく、大御心の下に幕府が開かれたことからわかるように、上下の関係にある。
 いくさの勝者、選挙の多数派にすぎない権力には、権威という正統性がそなわらず、権力が施政権を有する政治権力たりえない。
 戦国時代の群雄割拠は、それが原因で、武田信玄や織田信長が京をめざしたのは、天皇拝謁をもとめてのことだった。
 武田信玄が、上洛途上、病死して、天皇拝謁を実現した織田信長が、天下統一の号令を発して、100年以上にわたった戦国時代の幕が下ろされた。
 皇位を簒奪しようとした人物には、歴史上、弓削道鏡や平将門(桓武天皇の玄孫)、以仁王(後白河法皇の子)、足利義満らがあげられるが、平将門や以仁王は、崇神・応神・継体の新王朝と同様、皇統の男子相続者なので、皇位簒奪にはあたらない。
 万世一系を危うくしたのが、道鏡と義満で、かれらが新天皇や上皇(新天皇=足利義嗣)になっていれば、皇室の起源が神武天皇ではなくなっていた。
 明朝皇帝から「日本国王」として冊封を受けた義満は、皇位を簒奪することによって、日王として自身の地位をあげ、日本を明の属国にしようとした。
 義満急死は、四代将軍となった足利義持と公卿らによる暗殺だった可能性が高く、のちに、義嗣も義持に殺されている。
 皇位簒奪に失敗した道鏡が左遷(下野薬師寺造寺別当)されたのも、和気清麻呂の機転(宇佐八幡宮神託事件)によるもので、天皇の権威は、万世一系の維持という形でまもられてきたのである。

 
 

 
posted by 山本峯章 at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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