2017年02月10日

 月刊ベルダ11月号(2016年10月発売)より転載

 保守と右翼
 
 ●保守を右翼と呼ぶ誤り
 保守と右翼が混同されている。
 好例が安倍政権は右翼≠ニいうレッテルである。
 もともと、右翼や左翼ということばは、フランス革命当時、王党派が議会の右側、革命派(ジロンド派)が左側に座ったことに由来している。
 したがって、保守の安倍首相が右翼なのはあたりまえなのだが、日本では、右翼ということばが、左翼陣営やリベラル派のあいだで、悪の代名詞としてもちいられている。
 ファシズムや好戦主義者の代名詞になっているのである。
 西洋の右翼は、日本の保守もしくは与党で、政治勢力である。
 一方、日本でいう右翼は、国体の防人で、文化の概念である。
 ヨーロッパに日本でいう右翼(=天皇主義)が存在しないのは、国体が失われているからで、国連安保常任理事国(米・英・仏・ロ・中)はみな革命国家である。
 伝統(権威)と武力(権力)が一体化していた古代国家(王国)が消滅したのは、権威と権力が一元化されていたからである。
 革命とは権力による権威の否定にほかならない。
 日本に国体が残っているのは、権威と権力が両立していたからで、先進国のなかで、唯一、日本は、革命を経験していない伝統国家なのである。
 かつてクニは、神話や素朴な宗教心、習俗などの文化概念によってみずからを統一した祭祀共同体で、邪馬台国(大和朝廷)の女王卑弥呼は、軍事力ではなく祈祷でクニを治めた巫女だった。
 現在の日本は、大和朝廷と歴史的連続性を有しており、天皇は、大和朝廷を建てた神武天皇の男系子孫(万世一系)である。
 日本が伝統国家として、世界から尊敬をうけているのは、国体という歴史の財産が残っているのみならず、現体制をささえているからで、その象徴が天皇である。
 自民党にもとめられているのは、革命国家の保守主義(カンサバティブ)ではなく、伝統国家の国体思想で、日本の保守党には、国体の防人としての使命も課せられている。

 ●右翼の本質は防衛にあり
 右翼の本質は、防人で、歴史や文化、風土、習俗などの伝統の守護者としてふるまう。
 勇を奮ってまもらなければならないのは、伝統は無防備だからで、千年の蓄積も、タリバンに破壊されたバーミヤン大仏のように、一発の大砲で粉々になる。
 防衛は、攻撃よりもはるかに戦略的意味が重い。
 攻撃は、失敗しても撤退するだけだが、まもりに失敗すればすべてを失う。
 神風に破れた蒙古軍は船団を失っただけだが、日本軍が負けていたら国家を失っていたろう。
 神風特攻隊が散華したのは、本土防衛軍だったからで、防衛は、攻撃よりも壮絶なたたかいになる。
 右翼がまもるべきは、物質的な価値や権力ではなく、精神性や無形の文化である国体である。
 それが三島由紀夫のいった文化防衛で、三島は、命を捨てて国体や日本精神という無形の文化をまもろうとした。
 文化という内面を侵蝕されるとつぎは文明という外面の崩壊がはじまる。
 アメリカ民主主義とGHQ憲法が、かつての誇り高き道徳国家をアメリカに追従する二流国にしてしまったのは、権力がはたらいたからではなく、国体という内面を侵蝕されたからだった。
 国体は空気のようなもので、だれも意識することがない。
 その無意識が国体の真のすがたで、国民は無言でこれをささえている。
 日の丸を振って愛国心を訴え、政治スローガンを叫ぶのが国体護持ではない。
 無自覚なほどにクニに同化して、はじめて、国体はまもられる。
 特攻隊員の遺書をみてわかるように、かれらは、祖国愛と高い教養、強靭な精神力をもっていた。
 それが右翼=防人の本質で、国家をまもるには、まもるべき国家に惚れきる純粋性や熱情、歴史や文化につうじる聡明さがもとめられる。
 
 ●左翼には保守、反日には右翼が対抗
 かつて、右翼が反共と同義だったのは、共産主義革命から国体をまもるためだった。
 共産主義は、国体という歴史の連続性と文化の蓄積を根こそぎ否定する権力構造で、いわば国家自体が、共産主義が管理する監獄となる。
 中国でおきた共産主義革命が、戦後、日本でおきなかったのは、容共政策をとったGHQが反共へ転じたためで、朝鮮戦争がおきなかったら、日本も共産化されていた可能性が多分にあった。
 国体が失われる危機となるのが、敗戦と国家分裂、そして革命である。
 戦後、日本にその三つの危機がいちどきに襲ってきた。
 敗戦と連合国による分割統治、そして左翼の大躍進によって、日本は、革命前夜の情況になった。
 連合国による四島分割統治と天皇の戦犯指名を免れて、一応、危機を脱したものの、深い傷跡が残った。
 日本の支配階級が、右翼からそっくり左翼に入れ代わったからである。
 戦前の一般的な日本人は、現在の感覚でいえばすべてウヨクで、民族主義者であることが国民の徳の一つに数えられていた。
 ところが、戦後、霞ヶ関をはじめ教育界や大学、法学や歴史学などの学会、大新聞などのエリート階級が、戦前戦中、アカや非国民と呼ばれて社会の中枢から外れている人々に占領された。
 戦後日本では、敗戦直後の革命の危機は脱したものの、公職追放とGHQの容共政策によって、左翼革命の準備が着々とすすんでいたのである。
 それを阻止したのは、天皇と皇室を敬愛する一般国民だった。
 左翼は国体とともにある国民の前で身動きがとれなかったのである。
 だが、現在、日本という国家を危機に陥れているのは、日本共産党が議会で一定の議席を占める共産主義ではない。
 危険なのは左翼よりも反日で、政権を狙う左翼にたいして、反日は、国体の破壊を目的とする。
 国体が崩壊すれば、国家主権(交戦権)をもたない日本は、革命をおこさずとも、国家としての機能と体裁を失って、アメリカか中国の属国にならざるをえない。
 反日主義は、国家の主権を他国にゆだねようという売国思想なのである。
 左翼には政権を争う保守が対抗する。
 だが、伝統破壊を目的とする反日は、メディアや教育などをつうじて、じわじわと国民生活に浸透する。
 反日攻撃の防波堤となるのが、国体の防人たるウヨク=民族派である。
 現在、ウヨクと呼ばれているのは、戦前の日本人の精神を継承している人々で、ふだん市井に埋没しているが、国体がおびやかされたときは立ち上がる。
 右翼の本質は防人というのはその意味合いなのである。

 ●国体を破壊したのは戦後左翼
 戦後、国体意識が失われたのは、GHQの情報工作のせいだけではない。
 GHQは、三大紙による「天皇制存廃世論調査」で天皇支持が9割をこえた事実をふまえて「天皇制があるからといって民主主義的ではないとはいえない」と正式にコメントしている。
 国体破壊の意図がなかったというより、GHQには、国体にたいする認識がほとんどなかったのである。
 国体意識を破壊したのは、日本共産党や日教組、労組などの革命勢力とこれに同調したマスコミや学会、言論界、GHQによって再編された官界だった。
 GHQの公職追放令によって20万人以上の要人が公職から追われ、日本の中枢機構が左翼に占領された。
 GHQによって息を吹き込まれ、GHQの日本弱体化戦略をひきついだ左翼と反日勢力のスローガンとなったのが、平和憲法だった。
 憲法は改正が可能で、神道指令や言論統制のような占領政策は、講和が成立すれば解除される。
 だが、日本の中枢機構を左翼一色にした公職追放令は、解除不能なので、百年の禍根となって、いまも日本を呪いつづけている。
 GHQが種をまいた戦後左翼・反日が目の敵にしたのが皇国史観で、天皇から君が代、日の丸に至るまでが、反皇国史観の名目で攻撃目標となった。
 祝日(旗日)に玄関に日の丸を掲げる風習がなくなったのは、GHQが日本から引き揚げたあとのことで、日教組や労組、大新聞が、日の丸=軍国主義という教育や宣伝をおこなったためだった。
 日教組と歴史学会、教科書出版社、文部省は、国史が皇国史観を連想させるという理由から、軍国主義の元凶とされた皇国史観や神話も排除して、国史ならぬ天皇不在の日本史がつくりあげた。
 国体という日本精神は、いまなお、左翼革命運動のターゲットとなっているのである。
 
 ●消えた極左、残った極右
 サンフランシスコ講和条約がむすばれてGHQが撤退した4年後、日本では憲法改正をめぐって大きな政治変動が生じた。
 左右両派に分裂していた日本社会党が統一されて、憲法改正の阻止に必要な3分の1議席を獲得すると、憲法改正を目指す保守勢力も、自由党と日本民主党が合同して自由民主党を結成、議席の3分の2弱を確保する。
 これが「55年体制」で、このとき日本共産党も大きな変貌をとげた。
 それまでの武装闘争路線を捨て、議会内革命路線をとるのである。
 日本共産党にとって、国体が抜き去られている憲法は革命運動の障壁にならないどころか、国民主権は、むしろ追い風だった。
 革命は、暴力であれ選挙であれ、国民(人民)主権の名目の下で独裁政権を樹立することだからである。
 妨害になるのは歴史と文化の実体たる国体だけだった。
 だからこそ革命は殺戮と破壊によって過去を消滅しようとする。
 だが、戦後日本では、左翼の手で国体がほぼ完全に否定されていた。
 日本共産党にとって、GHQによって改造された戦後は、革命前夜だったのである。
危機感を抱いた保守陣営のなかでまっ先に行動をおこしたのが、検事総長や法務大臣、防衛庁長官などを歴任し、政界引退後、自由民主党の院外団「自由民主党同志会」を率いた木村篤太郎だった。
 木村は、法務総裁だった当時、国粋会など全国の任侠団体を結集した「反共抜刀隊」計画を立てている。
 右翼の大同団結は吉田茂の反対で実現しなかったが、これが任侠右翼として60年安保闘争以後までも引き継がれる。
 これが、極右と呼ばれるグループで、いまは多くが民族派を名乗っている。
 極左は、あさま山荘事件で連合赤軍(赤軍派・京浜安保共闘)が壊滅したのち内ゲバをくり返すだけの殺人集団へ転落していった。
 極左が全滅したのは、かれらがもとめたのが政治権力だったからである。
 武装蜂起による世界同時革命が荒唐無稽だったというより、共産主義自体が崩壊して革命という政治目的が消失したからである。
 一方、権力と政治から切り離されている極右には、依然として、国体の護持という目的が残されている。
 60年安保の前年に結成された全愛会議(全日本愛国者団体会議)に参加した民族主義団体は、1964年の第6回大会には440にもふえた。
 全愛会議の綱領は「国体護持」「反共協同戦線」で、60年安保闘争には、自民党の要請をうけて、多くの任侠団体が動員された。
 だが、安保闘争が終わると、政治結社を名乗って革命勢力と対抗した任侠団体は、警察の大弾圧をうけて、政治の世界からすがたを消す。
 右翼は、国体の防人であって、権力の従者ではなかったからである。
 といっても、右翼は権力に利用されたわけではない。
 右翼の本懐は国体の護持にあって、ときには権力とむすび、ときには権力の敵となる。
 左右を問わず、国体をおびやかす勢力にとって、右翼は恐怖の対象となる。
 極左は消えても、国体をおびやかす勢力があるかぎり、極右は存在理由を失わないのである。


posted by 山本峯章 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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