自民党の二階幹事長が、女性天皇の問題にからめて、皇位の男系相続が男女平等に反すると発言(BS朝日)して、物議をかもした。
「女性尊重の時代に天皇陛下だけ例外というのは時代遅れだ」「トップが女性の国もいくつかある」というのは、法における男女平等であって、政治や権力のカテゴリーにおかれている。
一方、国体や皇位は、歴史や伝統という文化のカテゴリーにあって、政治や権力、法の支配をうけない。
国家は、権力機構である一方、文化構造で、両者は表裏の関係にある。
したがって、民主主義という政治概念と伝統という文化概念は、二元論的に両立する。
それを裏付けているのが当時のマッカーサーの判断である。
戦後の民主主義(男女同権)はマッカーサー憲法を原基としている。
その憲法が定めた皇室典範の第一章(第一条)に皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承するとある。
日本に民主主義をもちこんだマッカーサーが男系男子(万世一系)をみとめているのである。
にもかかわらず、二階発言がとびだしてきたのは、戦後、民主主義ばかりをもちあげて、伝統や歴史的な価値観がないがしろにする風潮がはびこってきたからである。
●革命イデオロギーとなった民主主義
戦後、マスコミや文化人は、民主主義を、人類が到達した最高道徳であるかのような言説をふりまいてきた。
そして、戦前の教育勅語や道徳教育を「軍国主義」の象徴として、徹底的に排除した。
このとき、忠孝や友愛、礼儀や謙虚などの道徳観念が捨てられた。
政治と文化、国体と政体、権力と権威の区別がつかなかったのである。
民主主義は、多数派の独裁ということであって、政治の技能をもたず、権力操作ができない国民一般に代わって、為政者が政治権力を行使するというだけの話である。
それが、戦後、絶対善となったのは、民主主義も国民主権も、革命のイデオロギーだったからである。
戦後、革命の経験も必要もなかった日本でヨーロッパの革命思想が流行したのは、公職追放令や神道指令、労組結成促進などGHQの政策によって革命を夢見る左翼が大躍進したからである。
左翼にとって、民主主義や国民主権は、革命へのステップボードだったのである。
●反日主義の正体
17世紀のイギリス革命から20世紀のロシア革命にいたる200年ほどのあいだヨーロッパでは革命の嵐が吹き荒れた。
その理論的支柱となったのがロック(アメリカ独立戦争)とルソー(フランス革命)そしてマルクス(ロシア革命)だった。
中世の絶対君主制の崩壊にともなって、離反した国家と人民の関係をむすびなおそうとしたのが社会契約説である。
万人の万人に対する闘争を避けるために国家が必要としたホッブスの半世紀後にロックが人民の抵抗権を、百年後にルソーが直接民主主義を、20世紀になって、マルクスが暴力革命によるプロレタリアート独裁を唱えた。
日教組や労組、新聞マスコミ、大学論壇の左翼色は、戦後のルソー、マルクスブームの燃えカスなのである。
テレビの討論番組で「反日主義のどこがわるい」と居直った若者が、日本という国家自体が憲法違反だという珍論をくりだした。
そして、左翼憲法学者の論を借りてきて「国家を監視するのが憲法」と主張した挙げ句、「憲法は国体」と言い放った。
「国家は悪である」というルソーの革命思想と強過ぎる大統領の権力を憲法で制限するアメリカ民主主義、そして、国家主権が否定されている戦後憲法の三者を組み合わせて、珍妙なる理屈をこねたわけだが、それが反日主義の論法である。
●グロテスクな精神
ルソー主義とアメリカ大統領制、日本国憲法の三者を見比べてみよう。
紀元前の大昔、プラトンによって退けられた民主主義は、十八世紀にルソーの手でよみがえった。
共産主義革命という歴史破壊に、ルソー主義という大嘘が必要だったからである。
ルソーの人民主権は、議会に収容することできない人民の意思を一般化して、一人の独裁者にゆだねるという詭弁である。
一方、ロックは、人民の主権を議会や三権分立に委託した。
前者がナポレオンやヒトラー、スターリンなら、後者がアメリカの大統領というわけで、アメリカの場合、大統領と議会、憲法が三つ巴の関係で、ルソーとロックがごちゃまぜになっている。
アメリカの権力構造は、突出した大統領の権力を抑えるため三権≠フ上に憲法を置き、立法や司法が憲法をタテにホワイトハウス(行政)の暴走を阻止できる仕組みになっている。
伝統的規範をもたない革命国家アメリカでは、憲法というガードを設けなければ、大統領の独裁専制になってしまうのである。
アメリカの憲政主義と三権分立は、二権(立法府・司法府)が民主主義(大統領の権力=行政府)をチェックするための機関なのである。
日本国憲法は、国家主権を否定して、国民主権を謳っている。
戦後、日本から伝統国家の精神が消えたのは、憲法が共和制(革命国家)の内容になっているからで、国家は悪だ、武器を捨てれば平和になると叫ぶ反日主義が大手をふるい、反体制派(政党)が政権争いに参入してくるのは、国家基本法(憲法)が反体制派のバイブルになっているからである。
ルソーの国家性悪説と強すぎる政治権力を制限するための憲法優位説、国家主権の不在の日本国憲法があいまって、日本は、世界に類のない「反日(自国の否定)」というグロテスクな精神がはびこる国となったのである。
●アメリカは革命国家
民主主義は、多数決による権力奪取の手段にすぎない。
国民主権も、政治権力の主体を国民におき、それを為政者があずかるという理屈にすぎず、一片の政治理念も宿していない。
まして徳性や文化とは無縁の代物で、かつて、武力に頼っていた権力闘争の手段が多数決に代わっただけの話である。
一方、文化は、伝統を継承し、過去から学ぶことで、歴史の知恵である。
したがって、歴史や国体という文化構造をもたない革命国家は、民主主義を唯一の社会規範とするしかない。
革命国家には、トランプ大統領の政治をみてわかるとおり、民主主義の権力(大統領令)と憲法の威力(司法による執行停止)の衝突しかない。
内閣がなく、議会も無力なアメリカの政体は、選挙(=民主主義)によって主権を手にしたホワイトハウス(大統領+スタッフ)による独裁政治となる。
アメリカもまた人民独裁の形をとる革命国家だったのである。
●王制民主主義と天皇民主主義
日本も首相を国民投票でえらぶべきという者がいるが、愚見である。
日本は内閣・議会政治で、独裁的な権力をもつ大統領を必要としない。
日本の国のかたちは、歴史にもとづく文化の系統=国体(権威)が、政治をおこなう権力の系統=政体(権力)に統治の正統性を授ける二重構造になっている。
ロックやルソーをもちださずとも、日本には、万人の戦争を避けうる国体と国家の二元構造があって、その伝統が天皇の存在である。
したがって、伝統国家には、主権者の権力を制限する憲法は要らない。
政治が、民(民主主義)や法(憲法)ではなく、歴史(伝統)から委託されるからである。
イギリスが憲法をもたないのは伝統国家の体裁をとっているからで、王から委託をうけた議会と文化の歴史的蓄積である一般慣習法(コモンロー)ですべて足りる。
イギリスが王制民主主義なら、日本は天皇民主主義である。
自由には節度、平等には分相応、人権には人格という法以外の常識や知恵がもとめられる。
それがイギリスのコモンローで、日本の伝統的価値観である。
ところが、戦後の日本人は、アメリカ民主主義を最高道徳(=憲法)としてとらえ、これを国体の上位においてきた。
日本は、文化的には伝統国家だが、民主主義と法を唯一の規範とする政治の面では、新興国並みである。
なにしろ、歴史や文化までを裁判(憲法訴訟)で決着をつけようというのである。
日本では、最大の権力が民主主義で、憲法が民主主義の教本になっている。
ならば、必要なのは、憲法を監視する文化(伝統)であろう。
伝統国家というのは、国体という文化構造が政体=権力を監視する仕組みができている国のことなのである。
●民主主義とリベラリズム
民主主義は、自由や平等、人権と同様、市民革命からうまれてきたことばで、歴史を否定する進歩主義である。
近世の革命熱が冷めて、現実政治に立ち返った近代において、自由や平等などのことばは、法の専門用語として残っただけで、国民主権も、実効的な意味合いを失っている。
代わって台頭してきたのがリベラリズムである。
現在、世界中で、リベラリズムと保守主義が対立している。
「個と全体の矛盾」という永遠のテーマが政治の場で衝突しているのである。
個を重く見るのがリベラルで、全体を重視するのが保守である。
保守と革新の対立は、マルクス主義の破綻と保守主義の中道化によってほぼ解消されて、残っているのは、国家と個人が対立する構図だけとなった。
個(個人)と全体(国家)の絶対矛盾は解消されることはない。
個は全体の一部で、一方、全体は、個なくして成り立たないからである。
したがって、先進国の政党は、たとえ野党でも、国家を第一義におく。
それが「大きな政府・小さな政府」論である。
アメリカはリベラル(民主党)と保守(共和党)の二大政党である。
リベラルは大きな政府(=経済への政府関与)を、保守は小さな政府(=市場主義)を掲げる。
民主主義がアメリカで機能しているのは、政治的手法としてのみもちられているからである。
日本の民進党(旧民主党)をリベラル政党ということはできない。
リベラルも保守も、民主主義に立ち、ともに国益をもとめる。
ところが、日本の場合、民主主義が反体制のイデオロギーになっている。
強行採決にたいして、野党が民主主義をまもれと叫ぶのは、かれらにとって民主主義は、多数決の原理ではなく、人民独裁なのである。
日本で二大政党体制が成立しない理由はそこにあって、共産党と共闘関係にある民進党は、政党ではなく、革命集団なのである。
●まだ革命熱が冷めない後進性
ニューディール政策のルーズベルトは民主党の大統領で、コミンテルンから多大な影響をうけた経済政策はアメリカ版共産主義≠ニ呼ばれ、最高裁から違憲判決までうけている。
だが、反国家的政策をとったことはなく、現在の軍産複合体制をつくったのはそのルーズベルトだった。
共和党のトランプ大統領が、共和党の一部から批判され、民主党の一部から支持されているのは、共和党の新自由主義を捨て、政府が経済政策に積極的に関与する民主党の路線をとったからである。
アメリカ民主党は、かつての自民党の保守本流(宏池会)で、共和党にあたるのが非主流(岸信介・鳩山一郎派)である。
日本では、政治向けの政策をおこなう非主流派と経済政策をもっぱらとする保守本流が交代に政権を担当して、バランスをとってきた。
このサイクルが狂ったのが、細川護煕政権(非自民・非共産8党派連立政権/1993年)と民主党政権(2009年)だった。
自民党が8党派連立政権に政権を明け渡したのは、宮沢首相の指導力欠如と分派行動が原因だったが、民主党に政権を奪われたのは、マスコミ総出の反自民キャンペーンによるもので、このとき民主党ブームがおこり、そのときの議席占有率(64.2%)はいまなお破られていない。
日本人とりわけマスコミが非自民政権に期待したのは革命(改革)だった。
反日主義や自虐史観が台頭、媚中派や護憲派が幅をきかせ、愛国心や国益を口にすると右翼と叩かれるようになったのもこの頃からだった。
●戦争で大きくなったアメリカ
アメリカにおける政権交代は、自民党左派と右派の主導権争いのようなもので、民進党や共産党のような革命政党が護憲をタテに政治の表舞台に登場することはありえない。
アメリカ憲法は、大統領の権力を制限するが、国権を制限しないからである。
アメリカは「力への信仰」から成り立っている国である。
世界最強の軍事力が、腰に拳銃をぶら下げていた時代からアメリカ人のアイデンティティーで、USAが他国をねじ伏せているかぎり、かれらは、誇りと愛国心をたずさえたアメリカ人なのである。
武器を捨てると平和になる(九条護持)と叫びながら、日米安保条約のなかで惰眠を貪っているわが国の護憲派とは大違いなのである。
アメリカは戦争によって、大きくなった国である。
独立戦争やインディアン戦争、南北戦争のほか、メキシコ国土の三分の一を奪った米墨戦争、キューバを支配下におき、フィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した米西戦争、そして、二つの世界大戦に勝利して、アメリカは世界一の強国となった。
アメリカの戦争は、権力を一手に握る大統領の指導力と国民の熱狂的支持の下でおこなわれてきた。
国家の形態も臨戦型で、アメリカ合衆国大統領行政府(ホワイトハウス)と中央情報局(CIA)、国防総省(ペンタゴン)の三者が形成する∧軍産複合体制(MIC)∨には、アメリカを代表する数千の企業や金融機関、大学、研究施設からマスコミまでがふくまれる。
原爆を製造・投下したのもMICで、現在でも、最新兵器にはアメリカ中の科学の粋が結集される。
●「力=正義=民主主義」の図式
アメリカの民主主義は、政治(権力)のカテゴリーにあって、革命と戦争がその決着点である。
アメリカにとって、力が正義で、その正義をうみだすのが民主主義なのである。
「力=正義=民主主義」がアメリカの国是で、多数決(民主主義)と法だけで決着のつく文化果つる地では、戦争や軍事力を背景にした「力の支配」だけがまかりとおるのである。
みんなにこにこ民主主義とやっているのは日本だけだが、その日本でも民主主義による伝統破壊がじわじわ進行している。
好例が自民党の改憲案で、9条を除いて、GHQ憲法がそのまま踏襲されているどころか、明治憲法の天皇元首までをひきついでいる。
明治憲法がプロイセン(ドイツ)憲法をモデルにしたのは、皇帝の政治力がつよかったからだが、ドイツも革命国家で、皇帝は、憲法によって定められた地位にすぎなかった。
天皇が、アメリカの民主主義や西洋の憲法以上の存在なのは、伝統国家のオサ(長)だからで、権力や政治や法によって定められた西洋の王や皇帝よりはるか上位にある。
そこに万世一系の権威があるのだが、民主主義と憲法に毒された戦後の日本人は、そのことをすっかり忘れている。
伝統と民主主義をめぐる議論をもっと深めてゆく必要があるだろう。