2018年12月09日

 承詔必謹と昭和天皇のお嘆き

 ●現人神と天皇の政治利用
 昭和天皇は三島由紀夫をきらっていたとつたえられる。
 理由は、三島の『英霊の聲』(1966年/河出書房新社)が天皇のお気持ちを逆撫でするものだったからという。
 同書は、二・二六事件で銃殺刑に処せられた青年将校と神風たらんと散華した特攻隊員の霊が天皇の人間宣言を呪詛する(「なぜ人になり給ひしか」)内容の作品で、印象的なのは、二・二六事件で処刑された磯部浅一が天皇にむかって「天皇陛下、何というご失政でありますか、何というザマです、皇祖皇宗におあやまりなされませ」と絶唱する場面を思わせる描写で、これが、そののちに書かれる『文化防衛論』の前駆的な役割を担った。
 文化防衛論は、畢竟、天皇防衛論だったのである。
 神風特攻隊は、天皇と国体をまもるため散華して、英霊となって、靖国神社に還ってくる。
 だが、昭和二十一年元旦の詔書で、天皇は人間宣言をなされた。
 そこから「なぜ人になり給ひしか」の悲憤がうまれた。
 三島の現人神信仰は、あくまで、文学的な概念にすぎない。
 歴史上、天皇は、神そのものだったことはない。
 記紀に記述されている神代の時代は神話である。
 実史における天皇史は第十代崇神からはじまる。
 天皇は、現人神ではなく、神格を有したやんごとなきお方で、戦後、人間宣言によって至尊至高な人間天皇に還ったのである。
 現人神は、天皇を国家元首に立てた明治憲法の延長線上にある昭和軍国主義の産物で、元を糾せば、薩長の天皇の政治利用につきあたる。
 天皇の政治利用のメカニズムは、政・軍の権力が、権威=天皇の絶対化してこれを私物化することで、長州倒幕派は天皇をギョク(玉)≠ニ呼び、誘拐までを計画していた。
 戦時中は、軍国主義が、天皇陛下万歳の天皇絶対主義を隠れ蓑とした。
 したがって、だれも無謀な中国侵攻や南洋戦略を批判することができなかった。
 
 ●昭和天皇を苦しめた戦争責任
 2018年8月23日、全国朝刊(共同通信)に、戦争責任について苦悩する昭和天皇の心中をうかがわせる元侍従(小林忍)の日記が公開された。
 日記には「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり」と嘆かれる昭和天皇の真情が綴られている。
 昭和天皇はマッカーサーを訪ねた折、「私は、国民が戦争遂行するにあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」とのべられた。
 そして、以後、日本の発展をみまもられながら、ひそかに、戦争責任という苦悩に身を苛まれてこられた。
 天皇に、筆舌に尽くしがたい苦悩をあたえた戦争責任は、天皇の政治利用の一つの帰結で、軍部は、天皇を政治利用したそのツケをすべて天皇一人に負わせたのである。
 バワーズ副官(少佐)兼通訳の手記によると、マッカーサーは、日本の戦争の罪をどう処罰してやろうかと考えていた人物だったが、訪問された天皇陛下が「戦争は私の名前でおこなわれた。全責任は私にある」「戦争犯罪人たちの身代わりになる」と申し出られたとき、それまでの考えをすべて捨て去った。
 バワーズはこう記す。
「元帥ははた目に見てもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今はほとんど劇的ともいえる様子で感動していた。彼は両腕を夫人やフェラーズ代将、そして、私を抱くように広げ、こういった。「私は平等な人間として生まれたが、あれほど全能に近い地位にあった人が、今かくもへりくだった立場になったのを見て、心が痛む思いだ」。そういって、彼は感慨深い様子で、1人でゆっくり階段を上がっていった。
 
 ●天皇の祈りと自己犠牲
 マッカーサーが感動したのは、天皇の国民にたいする責任感だった。
 天皇にとって民は大御宝である。
 西洋には、支配者たる王と被支配者である民の対立観念しかなかった。
 ところが、日本は、天皇と民が同一地平上にある君民合一≠ナ、君民共治という理想郷がすでにできあがっていた。
 第16代仁徳天皇は、民のかまどから煙が立たないのを見て、税の徴収を3年間、さらに2年間中止して、民のかまどから煙がたちのぼるのを見て安堵された。
 元寇の折、亀山上皇(後宇多天皇)は各地の寺院に参詣して、蒙古殲滅を祈願している。
 天皇は、現人神ではないが、神格を有する存在で、両者のちがいは、前者が軍国主義だったのにたいして、後者は、庶民(国民)感覚で、日本人の天皇にたいする敬愛心はそこにある。
 なにごとの 在しますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる
 伊勢神宮に参った西行法師のうただが、庶民にとって、天皇は、どなたさまかは存じ上げないが、ただひたすらかたじけない存在であった。
 戦後、大手新聞社がおこなったアンケート調査では、95%近くが天皇支持であった。戦争に負けると死刑か国外追放が常識だったなか、驚異的な支持率とその後の全国行幸における国民の熱狂的な歓迎にマッカーサーは腰を抜かすほど驚いた。
 
 ●天皇と民主主義の折り合い
「承詔必謹(みことのりをうけてはかならずつつしめ)」は下命である。
 だが、天皇と民は敬愛の関係で、臣下や従属というタテの関係だったことはない。
 十七条憲法でも、承詔必謹の対象は豪族や官僚で、太子は群卿(豪族/第四条)や群臣(官僚/第十四条)ということばを使っている。
 そもそも、民という概念がうまれるのは、十七条憲法から40年下った大化の改新(公地公民)以降のことで、それまでは、民も土地も、氏上がこれを所有する私地私民だった。
 天皇と民の接点はなく、したがって、天皇と民のあいだに、承詔必謹の思想が生じたと考えることはできない。
 懸念されるのは、天皇と西洋民主主義の離反である。
 わたしは、西洋の民主主義を日本精神の破壊者と見るもので、むろん、民主主義の信奉者ではない。
 しかしながら、日本が民主主義を捨てて、日本主義に回帰する可能性は万に一つもない。
 そうなら、民主主義と折り合いをつけて、共存する以外、天皇を未来永劫にわたってまもってゆく方法がない。
 葦津珍彦は、憲法を改正するなら、天皇主権を謳うべしという。
 私はそうは思わない。
 天皇が統治権の総覧者になるとヨーロッパ型王権が誕生する。
 ヨーロッパで市民革命がおきたのは、主権者たる王と人民が対決したからだった。
 現在、ヨーロッパなどに残っている王政は、絶対王権と国民主権の中間点にある立憲君主制である。
 統治は、権力行為で、天皇主権がファシズムに利用されたように、人民主権は共産主義に乗っ取られる。
 わが国は伝統国家(民主的君主国家)で、権力は、権威と法からゆだねられる限界内で行使される。
 象徴天皇は、戦後、GHQがもちこむ以前に、摂関・院政・武家政権において、すでに定着しており、天皇が、権力ではなく、歴史や文化、民族の象徴にして、権威だったことは、日本の歴史の真実である。
 民主主義にしても、ルソーが国家の理想とした君民共治≠ェ古代日本においてすでに実現されており、革命の産物であるデモクラシーより、日本の民主主義(君民一体)のほうがはるかに伝統的なのである。
 歴史的に実現されていた天皇と民主主義の共存を破壊したのが、明治憲法の天皇元首(大元帥/統治権の総攬者)と昭和軍国主義の現人神信仰だった。
 
 ●西南戦争と徴兵令
 そこで、障碍になってくるのが天皇元首論と「承詔必謹」である。
 かさねて指摘しておくが、天皇は、歴史上、国民に、直接、下命する立場に立たれたことはなかった。
 その大原則をひっくり返したのが徴兵令(全国徴兵の詔/明治5年) だった。
 大元帥となった天皇は、理論上、国民皆兵の指揮者となって、ここで、天皇と国民が、直接、むきあう関係になった。
 この構造を利用して、政府は、赤紙一枚で、大量の国民を戦場に駆り立てることができるようになって、日露戦争では1か月の局地戦(203高地・旅順要塞攻略)で戦死者1万6千人、戦傷者4万4千人という未曽有の大被害をだした。
 武士の時代なら想像もできない下手な戦争で、侍のいくさならこんなに多くの犠牲者がでるはずはなかった。
 赤紙一枚でいくらでも兵隊をとれる徴兵令が、対米戦争(南洋島嶼作戦)や中国戦線の戦線拡大につながって、大東亜戦争の戦死者は、二百十二万人にもおよんだ。
 西郷隆盛の士族の反乱の根底に、徴兵令があったのは疑いえない。
 志願兵制度(「壮兵」)を構想していた西郷隆盛や「萩の乱」の首謀者として処刑された前原一誠、西郷隆盛とともに私兵を率いて政府軍と戦い、壮絶なる最期を遂げた桐野利秋(中村半次郎)らは「国家のために死ぬ武士の名誉を奪うもの」として、徴兵令に反対した。
 日本人の精神の頂点に、国家のために死ぬ武士の名誉があったのである。
 承詔必謹は、日本人を戦場に送り出すため、軍人が17条憲法から盗用した論法で、これが、天皇の政治利用だったことに気づかなければ、天皇=国体の純粋性を未来永劫にわたって、まもりぬいてゆくことはできないだろう。
 
 ●承詔必謹の歴史背景
 592年。聖徳太子19歳の折、崇峻天皇が、蘇我馬子が放った刺客、東漢直駒に弑逆される。
 豪族連合に擁立された祭祀王=天皇はけっして絶対的な存在ではなかったのである。
 そこで、聖徳太子は、蘇我の出自ながら、天皇中心の政治を実現すべく、官僚(畿内)と豪族(地方)へ、天皇の下で一つになれと激をとばした。
 それが17条憲法の承詔必謹である。
 その承詔必謹が、明治以降、天皇の政治利用のキーワードとして使われはじめる。
 維新以降、天皇を利用して幕府や武士の文化を滅ぼし、国家を危うくしたのは、時代の流れにのった西洋化主義者や帝国主義者、革新官僚だった。
 明治の軍隊は、海軍の薩摩、陸軍の長州と薩長閥だったが、西郷隆盛の下野と西南戦争における敗死、紀尾井坂の変の大久保利通暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、政界・軍部ともに、伊藤博文や山縣有朋ら長州閥、岩倉具視や三条実美ら親長州公家の独り勝ちとなった。
 これに反発したのが、政界や財界とむすんで、軍部の影響力をつよめていった統制派や革新官僚で、その代表が、永田鉄山陸軍少将やのちの東條英機陸軍大将だった。
 政・官・財界と組んで力をつけてきた統制派は、皇道派や薩長閥を排除して栄達の道を歩みはじめるが、薩長閥のような実績や人脈がなかった。
 かれらが権力の正統性としたのが、天皇と学歴だった。
 永田鉄山は、陸大をトップででて恩賜の軍刀を贈られているが、東条英機も丸暗記で有名な勉強家で、陸大をトップに近い成績で卒業している。
 知将今村均、猛将山下奉文、賢将石原莞爾が冷や飯を食わされたのは、日本の軍部が、陸軍士官学校や陸大、海軍兵学校の成績順位だけで、軍人の身分をきめていったからで、連合艦隊参謀長の宇垣纏は、海軍兵学校や海軍大学校の卒業順次がじぶんより下の者へ、敬礼も返さなかったという。

 ●承詔必謹と愚かなる戦争
 昭和の日本軍は、極端な偏差値社会だったわけで、薩長の出身者がほとんどいなかった当時の軍事エリートは、勉強はできたが、薩長とは比べものにならないほど戦争が下手だった。
 中国大陸侵攻や南洋島嶼作戦は、陸軍と海軍が予算を分捕るためにおこした意味のない戦争で、その一方、サイパン島・硫黄島の要塞化など、本土防衛に必要だった作戦はなに一つ実行に移されなかった。
 日本は、天皇を政治利用した統制派の傲慢と権力主義、学力主義のために戦争に負けたのである。
 漫画家の小林よしのりが、皇后さま82歳の誕生日のご発言から、承詔必謹を読みとって、男系天皇論者を「承詔必謹なきエセ尊皇家」と罵っている。
 皇后さまは、天皇陛下の御放送にふれて、こうのべられた。
「皇太子や秋篠宮ともよく御相談の上でなされた陛下の御表明も、謹んでこれを承りました」
 小林は、このご発言をもって、皇后さまの承詔必謹を見習うべしという。
 あの愚かな戦争からなにも学ばなかっただけではない。
 小林がもちあげる承詔必謹は、天皇利用の危険思想なのである。
 小林は、女系天皇論者で、祖先がどこの馬の骨とも知れぬ女系天皇に「承詔必謹」という絶対権力を与えよという。
 万世一系を迷信ときめつける男でもあって、日本を、天皇というアクセサリーをつけた共和国にしようという魂胆をもっている。
 保守思想のなんたるか、天皇の政治利用のなんたるかに無知で、漫画という武器で、薄っぺらな合理主義や社民主義、フェミニズム(女権主義)をもちあげている。
 私には、小林よしのりがアピールする承詔必謹が、天皇の政治利用という悪夢の再来のように聞こえるのである。
posted by 山本峯章 at 17:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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