●個の文化、全体の権力
現在、わが国では、文化と政治(権力)の区別がつかなくなってしまっている。
たとえば、民主主義だが、これは、権力であって、文化ではない。
多数決は、数の暴力でもあって、文化的要素は皆無である。
全員の意見を聞くから文化というのはこじつけで、民主主義とは、投票数の集計にすぎない多数決や普通選挙のことである。
民主主義を文化であるかのようにいうのは誤りで、われわれは、有権者総数7千万人分の1人の数値的存在ではなく、国家にたいして、全人格的にむきあう一人の国民、一人の日本人である。
一人の日本人という感覚が文化で、根源をたどれば、天皇にゆきつく。
天皇は、文化的存在であって、一人ひとりの日本人とむきあわれる。
被災地におもむかれ、民を前にひざまずかれて、一人ひとりの被災者の労苦にご同情される陛下のおすがたは、被災者何万人と数字で括った政治的認識とはまったく異質なものである。
文化的認識と政治的認識を、個と全体の差異というふうにいいかえてもよい。
個が文化なら全体が権力(政治)で、個と全体の矛盾は永遠に解消できない。
そこからでてきたのが二元論である。
文化と政治、権威と権力は二元論で、この二元論によって、両者は安定する。
この二元論が崩壊すると「乱の構造」が生じる。
日本にも、建武の新政から南北朝、応仁の乱、戦国時代まで280年、第82代後鳥羽天皇(上皇)の討幕軍が鎌倉幕府に鎮圧された承久の乱を入れると400年にもおよぶ「乱の時代」(暗黒の中世)があった。
原因は、権威たるべき天皇が権力をもとめたため、権威の座が空位になってしまったためだった。
二元論が崩壊したのである。
権威が空位になると、権威によって正統性をあたえられない権力が、存続をかけて、群雄割拠の闘争に突入する。
この争いは不毛で、権威が関与しなければ、最後には、すべてが、共倒れになってしまう。
織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らが天下をとれたのは、天皇の後ろ盾を得たからで、第106代正親町天皇が信長を立て、第107代後陽成天皇が秀吉を太閤に叙し、家康を征夷大将軍に任じて、権威と権力の二元論が恢復した。
社会が安定したのは、文化基盤が生じたからで、権力は、この文化基盤の上に立って、はじめて、機能する。
数値や物理的な力にすぎない権力は、それ自体、不安定きわまりない。
共産主義(=人民民主主義)が滅びたのは、文化的基盤をもたなかったからで、マルクス主義は、暴力革命とギロチンが象徴の権力主義である。
夢想家ルソーはフランス革命に、自然権のロックはアメリカ独立運動に、反資本主義のマルクスはロシア革命に、それぞれ、利用されただけで、革命の本質は、くり返すようだが、文化的基盤をもつ思想ではなく、権力の収奪しか頭にない権力闘争である。
●乱を呼ぶ権力、和を招く文化
社会を動かす原理が民主主義や自由主義であるかぎり、世界に平和や安定はやってこない。
民主主義も自由主義も権力だからである。
権力はかならず衝突して乱をひきおこす。
権力は一元論でもあって、権力の衝突は、政敵が存在するかぎり熄むことはない。
平安時代や江戸時代、そして、戦後日本が平和だったのは、権力抗争がすくなかった一方、文化が隆盛をきわめたからだった。
民が文化を享受したのは、権力が権威から権力の正統性を授かって、両者がともに安定したからである。
歴史や芸術、宗教などの文化には、永遠性や普遍性があって、大地のようにどっかりと安定している。
権力は、その大地の上に樹立されるもので、大地が安定しなければ、権力も安定しない。
権力は、大地(文化基盤)に依存するが、その逆はありえない。
文化は絶対的存在だが、敵を倒してあらわれる権力は、相対的存在だからである。
この相関関係を見失うと、2005年の小泉内閣の「皇室典範に関する有識者会議」のような本末転倒がおこる。
このとき、権力が、民主的手続きをとおして、万世一系という伝統文化を否定しようとしたのだった。
これが「乱の構造」で、わが国では、文化破壊を改革と呼ぶ悪癖が長いあいだの習い性になってきた。
●元号は歴史・文化・伝統である
文化と権力(政治)を混同させているケースに元号がある。
そもそも、天皇が文化なのだから、天皇の御世である元号が文化であることは言うを俟たない。
天皇には基本的人権も選挙権もみとめられていない。
天皇が法から自由なお立場にあらせられるのは、法的存在ではなく、文化的・歴史的存在だからである。
その天皇を法的存在へ規定したのが戦後憲法で、GHQ憲法には、日本の伝統や歴史、文化、民族的価値観が、なに一つ、盛り込まれていない。
本来、天皇の譲位や即位、元号は、歴史や伝統、文化であって、法の差配下にあるものではない。
ところが、内閣法制局は、今上天皇の自らのご意志によるご譲位は、天皇の国政関与を禁じた憲法4条に抵触するとしたばかりか、天皇が皇位を譲位するような形式は「天皇の地位は国民の総意にもとづく」と定めた憲法1条と不整合となるので、皇室典範にない退位の儀式やおことばについて慎重に協議するという。
天皇が政治的発言をされると、天皇のおことばの政治的利用という弊害が生じるが、譲位や即位、元号は、政治的力学を有さない皇室文化の一環で、これに政治が関与すると、逆に、文化への政治介入となる。
内閣法制局は、集団的自衛権について、これまで、「権利をもっているが行使できない」と主張してきた法匪で、朝日・毎日ら左翼メディアと足並みを揃えてきた。
●元号の初日をメーデーにあてる不見識
内閣法制局の答申をうけて、安倍首相は、天皇のご譲位のご意志を無視してこれを政治決定とする退位特例法をつくったばかりか、@改元月日を5月1日のメーデーにあてるA元号の事前公表B運転免許証やビザ(査証)、役所文書の西暦表示(元号廃止)などの計画を着々とすすめている。
政治が文化の領域へ堂々と手をつっこんできたのである。
驚くべきことに、安倍首相は、寿ぐべき元号の初日を、アメリカではゼネストの記念日として知られる5月1日のメーデー(労働者の日)をあてた。
日本では、1952年5月1日、暴力革命を叫ぶ一部左翼団体が暴徒化、警察官側に740人、デモ隊側に200人の負傷者(死者1人)がでたが、この人民闘争は、労働界・左翼革命勢力のなかで、いまなお、高く評価されている。
新天皇の船出、新元号発足の当日がメーデーとかさなると、メーデー行進のデモ隊が「元号反対」や「天皇制反対」のスローガンをもちださないともかぎらず、そうなれば、新生日本国の門出にも、治安上にも、大きな問題を残す。
ちなみに、私は、この件について、友人(福田富昭/国際レスリング連盟副会長/2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会評議員/文部科学省五輪対策チーム実行委員長)を介して、神社本庁に申し入れをおこなっている。
安倍首相は、新元号の「事前公表」という前例のないことをしようとしている。
これにたいして、超党派保守系議員でつくる「日本会議国会議員懇談会」は「新元号の公表は改元当日にすべき」との見解をまとめ、会長の古屋圭司衆院議院運営委員長が菅義偉官房長官に「新元号は新天皇から公布されるべき」と申し入れた。
新元号の事前公表は、今上天皇を諡(おくりな/平成天皇)でお呼びするのと同様、あってはならないことである。
新天皇の践祚および即位前に新元号を事前公表することは、今上陛下の御代(平成)に次の天皇の時代の元号を謳うこと(一世二元)になって、これは、神事として成り立たない。
御代替わりにあたって、宮中では、幾つもの重大な儀式が催される。
これは国家的神事で、政府機関がおこなう御代替わりの式典は、天皇の神事をうけるものにすぎない。
践祚および即位は、国体の儀式であって、断じて、政体の行事ではないのである。
不都合だからといって、一世二元となる元号の事前公表をおこなえば、新元号発布が神事に則らないご都合主義となって、はなはだ、不穏当である。
●安倍首相に叛旗を翻した「神道政治連盟」
今回、異義を申し入れた「日本会議国会議員懇談会」と「神道政治連盟国会議員懇談会」はメンバーがダブっていることもあってきわめて近い関係にある。
安倍内閣の閣僚20人中、安倍本人をふくめて、19人が「神道政治連盟」のメンバー(国会議員300人以上)である。
その「神道政治連盟」が安倍首相に叛旗を翻したのである。
神道政治連盟の上部構造が神社本庁である。
神社本庁は、戦後、宗教法人となって、国家機関ではなくなった。
だが、地方機関である都道府県の神社庁をつうじて、全国約8万社の神社を包括している。
宮司など神職約2万人、信者約8千万人を擁するスケールで、全国各地の祭り(神事)を担う氏子総代会や保存会を擁する潜在的パワーは、他の宗教教団を寄せつけない。
神道政治連盟(神政連)の中核は、神社本庁の神職たちで、各県の神社庁ごとに地方組織が置かれ、地方議員連盟も組織されている。
神社本庁が安倍政権の支持母体であるかのようにいわれるが、政治的支持と文化的共感では、本質的な意味が異なる。
政治的支持は、多数決的支持で、文化的共感は価値観の共有である。
神社本庁が、文化の分野で、旗色鮮明にして、安倍政権に異義を立ててこそ本来の政教分離であろう。
戦後、GHQ命令によって、天皇の法的効力(勅定・詔書)は失われた。
元号も法的根拠を失ったが、政府は歴史的慣習としてこれを存続させてきた。
そして、昭和54年の元号法成立で、元号は、よみがえった。
ところが、同法では「元号は、政令で定める」とされている。
政令は、内閣による命令なので、元号を決めるのは天皇ではなく、内閣総理大臣ということになる。
戦後、日本は独立国となったので、天皇の法的効力(勅定・詔書)を復活させてよかったはずだが、どういう力がはたらいたのか、GHQ意向がそのまま残った。
天皇ではなく、首相が元号をきめるのなら、元号の決定が天皇の権威を示すイベントとなりえない。
元号制度をとる国は、世界で日本が唯一で、天皇の権威を示すものとなっている以上、新元号は、新天皇におきめいただく配慮がはたらいてしかるべきではなかったか。
●矛盾する親米と保守
1979年(昭和54年)に元号法が成立してから40年近くが過ぎた。
いまにいたって、元号を廃止する理由も根拠も見当たらない。
にもかかわらず、安倍首相は、パスポートや運転免許証、公的文書などへの西暦表記を関係省庁へ通達した。
安倍首相の不可解な行動の謎を解くカギは、「9条加憲」にあるだろう。
自衛隊を憲法で明文化する安倍首相の「9条加憲」は、護憲派ばかりか改憲派や中道、無党派層のいずれの層からもそっぽをむかれている。
憲法9条の1項、2項をそのままにして、3項を追加して、そこに自衛隊の合憲化を書き込むというアイデアは、果たして可能であろうか。
賛成反対以前に、論理的矛盾につきあたって、だれだって、お手上げである。
このアイデアを名案として歓迎するムキが一つだけある。
アメリカである。
「われわれ(アメリカ)がつくった憲法をまもって、わが国(アメリカ)との集団的自衛権を保持せよ」とアメリカから迫られた場合、日本は、論理的矛盾はさておいて、9条に3項をくわえて、自衛隊の合憲を謳うほかない。
これが、安倍首相の「9条加憲」の根拠である。
アメリカは、9条の改正を望んではいない。
事実、日米構造協議や年次改革要望書で、あれほど、露骨な内政干渉をしておきながら、アメリカは、集団的自衛権の妨害となっている憲法9条の改正にいちども言及したことがない。
アメリカ人の大雑把な思考なら、1項、2項をそのままにして、3項で自衛隊を合憲化する論理的矛盾を意に介さない。
どっちみち、日本を植民地のような国と思っている国なので、9条がどんな矛盾をひきおこそうが知ったこっちゃないのである。
日本は、GHQが撤退して70年近くたっているのに、いまもって、憲法も天皇条項もGHQの金縛りになったままである。
独立国家としての誇りや自主性をまったくもちあわせていないのである。
国家としての誇りが元号で、これを新天皇の勅定とすることで、GHQ憲法というアメリカの呪縛をきっぱり断つことができるが、安倍首相にその気はさらさらない。
親米保守である安倍首相は、親米だけを取って、保守を捨てた売国政治家に変貌しつつあるのではないかと疑問を抱かざるをえない。
今上天皇の譲位のご意志を、憲法4条の解釈にからめて政治決定としたのみならず、神事ともからむ元号決定を政治問題(政令)にして、天皇を除外したのは、改憲主義者とは思えない憲法原理主義≠フふるまいで、国民感情とも遊離している。
安倍首相は、アメリカ人の感覚をもって、日本の政治をおこなっているのではないか。
安倍首相から、日本独自の国益や誇り、固有文化を訴える迫力がかんじられないのは、かれは、愛国者でも民族主義者でもなく、戦後のアメリカンボーイだったからではなかったか。
トランプ大統領は、貿易摩擦を回避するため、日本が、アメリカ製の武器を大量に購入する予定と嬉々として記者会見している。
安倍首相の政治的軸足は、日本よりもアメリカにかかっている。
このままでは、安倍政治は、アメリカのための憲法改正、アメリカのための外交、アメリカのための経済に転落してしまう危険性がある。
安倍首相の政治・外交・経済手腕は評価されてよいだろう。
だが、国家の誇りや国体、伝統、愛国心は、政治ではなく、文化である。
安倍首相が、日本の歴史や伝統、文化を軽んじる方向へ足をふみだすようなことがあれば、大きなしっぺ返しをうけるだろう。