緊急提言/北方領土
なぜ日本は2島返還≠ノ呪縛されてきたのか
●2島返還で平和条約の短慮
安倍晋三首相とプーチン大統領が、1956年の「日ソ共同宣言」を基礎に平和条約交渉をすすめるという。
歯舞・色丹の返還と国後・択捉における経済協力を組み合わせた「2島プラスアルファ」で、領土問題に決着をつけようというのである。
従来の4島返還からの大幅後退で、これでは、この60年余つみあげてきた努力が水の泡である。
これまで、政府は「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」ことを日ソ交渉の基本方針に掲げてきた。
日ロ首脳会議でも、1991年のゴルバチョフ以降、四島返還と平和条約がワンセットになっていた。
ところが、今回の安倍・プーチン合意で、この前提が崩れ去った。
今年の9月、プーチン大統領は、ロシア極東ウラジオストクで開かれていた東方経済フォーラムで、突如、「前提条件なしの平和条約締結」を提案した。
前提条件なしとは、ふざけた話である。
領土問題抜きで、平和条約をむすべるはずはない。
ところが、安倍首相は、プーチン発言に反発するどころか、これを前向きに受け止めた。
「領土問題を(2島返還で)解決して平和条約を締結する」というのである。
功を急いだ拙速で、4島返還の原則を放棄すれば、旧ソ連の不法占領をみとめることになる。
木村汎氏(北大名誉教授)はこういう。
「4島返還をもとめるのは、国境不可侵、領土不拡大の原則という国際正義をロシアに突きつけることにほかならない」
広島に原爆が投下されてから2日後の1945年8月8日、旧ソ連は、当時まだ有効だった日ソ中立条約を一方的に破棄し、日本に宣戦布告した。
8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して、連合国に降伏した。
しかし、ソ連軍は、その後も千島列島を南下し、9月5日までに「北方4島(歯舞・色丹・国後・択捉)」を占領した。
●ソ連の略奪だった北方4島
8月16日、スターリンはトルーマン大統領に秘密電報を打っている。
千島列島と北海道の北半分をソ連の占領地とすることをもとめたのである。
トルーマンは、千島列島をソ連領とすることには同意したが、北海道北部の占領については拒否した。
かつて、拙書(『レポ船の裏側』日新報道/昭和57年)で、旧ソ連軍の千島占領作戦の経緯にふれた。
通訳としてソ連軍に同行した水津満・北千島守備軍作戦参謀の体験談である。
引用しよう。
「ソ連軍は、8月18日から千島列島の占領を開始して、27日には、北方領土の北端である択捉島の手前まで来て、一旦引き返した。南千島の武装解除に立ち会うことを想定していた水津は、ウォルフ参謀に理由をたずねた。これより先はアメリカの担任だからソ連は手をだせない、という返事だった」
ソ連軍は、千島列島に北方4島がふくまれないと認識していたのである。
ところが、北方領土に米軍がいないと知って、方針を一転させる。
8月28日、ソ連軍は、南千島へ侵攻を開始して、9月5日までのあいだに歯舞・色丹・国後・択捉の四島を占拠する。
ソ連軍が北方4島を奪ったのは、どさくさまぎれの略奪で、4島に米軍が進駐していなかったからだったのである。
ロシアは、北方4島を戦争の成果=戦利品という。
スターリンは、ヤルタ会談で、ルーズベルトから「ソ連の対日参戦の代償として千島列島を譲り受ける約束をとりつけていた。
だが、ルーズベルトがソ連に引き渡すとした千島列島は、ウルップ島以北の18島で、歯舞・色丹・国後・択捉ふくまれていない。
そもそも、ヤルタ秘密協定は、領土不拡大を宣した「カイロ宣言」に反するルーズベルトとスターリンの密約で、当事国のアメリカでさえ、条約としてみとめていない。
ダレス国務長官は、日ソ交渉に臨んでいる重光外相にたいして、「2島返還で受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力(「ダレスの恫喝」)をかけている。
そればかりか、外務省に「覚書」まで送りつけてきている。
「択捉・国後両島は、北海道の一部である歯舞群島および色丹とともに日本固有の領土で、日本国の主権下にあるものとしてみとめられる」というのである。
冷戦下の当時、アメリカは、日ソ接近を警戒して、干渉してきたのである。
●北方4島は日本固有の国土
1952年のサンフランシスコ講和条約で、日本は、千島列島を放棄した。
千島列島のなかに、北方4島はふくまれていない。
西村熊雄条約局長が、1951年、衆院特別委員会で、「南千島(国後・択捉)は千島にふくまれる」と答弁している。
だが、この答弁は、1956年、衆議院外務委員会で、森下國雄外務政務次官によって、正式に否定された。
日本政府は、国後・択捉は、サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島にふくまれないとしたのである。
その後、国後・択捉を指す「南千島」という用語も使われなくなった。
もともと、北方4島は、日本固有の国土である。
国後・択捉は、日本人の手で開拓された島で、根室や函館とのあいだに航路があって、定住者も多かった。
歯舞・色丹にいたっては、北海道の一部である。
かつて、『島は還らない』(昭和52年)という本を著した。
そこに、北方領土の概略や歴史、ソ連の領土侵略について記した。
そこから引用しよう。
北方領土の画定は、1855年、下田条約(日露和親条約)にはじまる。
江戸幕府とロシア帝国のあいだでむすばれた日魯通好条約(日露和親条約)によって、択捉島とウルップ島のあいだに境界線が引かれた。
この境界線によって、択捉島以南の4島は日本の領土となった。
4島とは、歯舞・色丹・国後・択捉である。
一方、ウルップ島以北のクリル諸島(千島)18島がロシア領となった。
日本政府は、この日魯通好条約を根拠に、「歯舞・色丹・国後・択捉」4島を北方領土としてきたのである。
1875年(明治8年)、日本は、ロシアと樺太千島交換条約を締結する。
日本は、樺太(サハリン)の領有権を放棄する代わりに、ロシアからクリル諸島(千島列島)を譲り受けた。
シュムシュ島からウルップ島にいたる18島である。
サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した千島列島は、そのときロシアと交換したクリル諸島18島のことである。
●「日ソ共同宣言」と2島返還
サンフランシスコ講和条約で、日本は、ウルップ島以北の千島列島18島と南樺太を放棄した。
だからといって、国際法上、ロシアに、南樺太・千島列島・北方4島の領有権がゆるされているわけではなかった。
サンフランシスコ条約に署名していないからで、あるのは、実効支配という戦争状態の継続だけである。
サンフランシスコ条約第二十五条によると、同条約に調印・批准していない国へは、いかなる権利や権原、利益もあたえられないとある。
北方領土を画定するには、日ソ2国間の平和条約締結が必要だった。
日本とソ連は、サンフランシスコ条約が「片面講和」だったため、戦争状態が解消されていなかった。
日本は、1954年以降、ソ連との国交回復をめざした鳩山一郎内閣のもとで、平和条約を結ぶべく、ソ連と折衝を開始した。
日本の国連加盟の支持や抑留日本人の送還、戦時賠償の相互放棄、漁業条約の締結など日ソ間の懸案事項がすくなくなかった。
1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
戦争状態の終結と国交回復が宣言された瞬間だった。
当初は「平和宣言」の締結を目指していた。
だが、交渉が折り合わず、結局は「共同宣言」という形をとった。
交渉が折り合わなかった理由は北方領土だった。
日本側は「四島返還」をもとめたが、ソ連は、歯舞・色丹の「二島返還」をゆずらなかった。
「日ソ共同宣言」は両国で批准された。
同宣言には、歯舞・色丹の引き渡しに同意すると書かれている。
だが、国後・択捉には一言もふれていない。
なぜ、そんなことになってしまったのか。
日本が漁業交渉とのかけひきで、国後・択捉を放棄したからである。
当時、松本・重光全権団の日ソ交渉と河野一郎の漁業交渉が同時に進行していた。
日ソ交渉に臨んだ全権重光葵は、日本政府へこんな請訓電を発している。
「涙をのんで国家百年のため、妥結すべきと思う。この期を逸すれば、将来、歯舞・色丹さえ失うことあるべし…」
秘書官・吉岡羽一によると、松葉杖で身体を支えてクレムリンの長い廊下を歩いてきた重光は、このとき、腹の底から絞り出すような声でいったという。
「畜生め、やはりそうだったか」
河野一郎の日ソ漁業交渉は、1956年5月である。
日ソ共同宣言の重光全権団のモスクワ入りが1956年7月だった。
わずかに先行した河野一郎は、重光の知らぬまま、ソ連側と密約をむすんでいたのである。
●河野一郎に売られた国後・択捉
「日ソ共同宣言」に5か月先立つ1956年5月9日。
クレムリンでおこなわれた日ソ漁業交渉で、河野一郎農相は、随行していた外務省の新関欽哉参事官を部屋から閉め出し、ソ連側の通訳をとおして、ブルガーニン首相にこうもちかけた。
「北洋水域のサケ・マス漁業を認めてくれれば、北方領土の国後・択捉の返還要求は取り下げてもいい」
サケ・マスなどの漁獲量・操業水域・漁期などをとりきめる漁業協定がまとまらなければ出漁できない。
水産業界からは「北方領土は漁業協定の後に交渉しろ」という声が高まっていた。
日ソ漁業交渉をまとめた河野一郎農相は、1956年5月26日、羽田空港で、日の丸の旗をかざし、のぼりを立てた漁業関係者の大歓迎団に迎えられている。
河野・ブルガーニンの密約後、ソ連は、領土問題で強硬姿勢に転じた。
国後、択捉の返還を拒否しても日本側は譲歩すると判断したのである。
歯舞・色丹の二島返還による平和条約の締結という基本路線はこのときでてきたといってよい。
鳩山は、平和条約締結をあきらめ、領土問題を継続協議にして、共同宣言で国交回復をめざす。
訪ソ直前になって、政権与党の自由民主党は、国交回復の条件として「歯舞と色丹の返還、国後・択捉の継続協議」を党議決定していた。
鳩山らは、歯舞・色丹の「譲渡」と国後・択捉の「継続協議」を共同宣言に盛り込むよう主張した。
だが、フルシチョフは、歯舞・色丹2島返還だけで、領土問題の打ち切りをはかる。
そして、河野に、国後・択捉の継続協議を意味する「領土問題をふくむ」の字句の削除をもとめた。
河野は、いったんもちかえり、結局、これもうけいれる。
日ソ漁業交渉はうまくいったが、領土問題は、日本側の敗北だった。
重光葵や吉田茂の秘書官を務めたことがある自民党の北沢直吉は、日ソ共同宣言調印後の批准国会(外務委員会)で、河野農相と激しくやりあっている。
「河野・ブルガーニン会談で、クナシリ、エトロフはあきらめるから漁業権のほうはヨロシクたのむ、といったのではないか」
河野はシラを切った。
「天地神明に誓ってそのようなことはない」
重光は秘書官の吉岡羽一秘書にこういっている。
「河野にしてやられた。シェピーロフ(外相)からすべて聞いた」
重光はシェピーロフにこうたずねたという。
「貴下は、モスクワ会談の際、領土問題について、一貫して、解決済みであるとのべられたが、いかにして解決済みと考えるのか、その内容について説明がなされなかった。この機会に率直に真意を聞きたい」
シェピーロフはこう答えた。
「モスクワで漁業交渉中の河野大臣は、交渉打開のため、ブルガーニン首相とクレムリンで会談した。その席で、河野大臣は、ソ連がエトロフ、クナシリを返還しない場合でも、日本は、平和条約を締結すると約束した」
河野はこうともいったという。
「私は日本政界の実力者の一人で、将来、さらに高い地位につくであろう」
そのとき、ブルガーニンは、河野にこうたずねた。
「帰国後、ただちに、全権団をモスクワに送ることができるか」
河野はできると答えている。
それが、1956年7月の重光全権団、9月の松本全権団、そして10月に訪ソした鳩山首相を団長とする全権団だった。
日ソ共同宣言における2島返還は、ソ連共産党の既成路線ではなかった。
河野・ブルガーニンの密約の産物だった。
国後・択捉は、漁業交渉とひきかえに、取り引きされたのである。
安倍首相は、歯舞・色丹の引き渡しを明記した日ソ共同宣言を基礎にプーチン大統領と平和条約の交渉をすすめるという。
そのなかで、2島返還論の旗を振っているのが鈴木宗男と佐藤優である。
安倍首相の意向をうけて、国民を洗脳しているとしか思えない。
4島返還という従来の基本方針を下ろすのも、二島返還で決着をつけたのちに国後・択捉の経済協力という方法をとるのも一つの政治選択であろう。
だが、歯舞・色丹・国後・択捉が日本固有の領土で、ロシアがこれら4島を不法占拠したという歴史的事実を忘れてはならない。
領土問題における安易な妥協は、かならず将来、大きな禍根を残すことになるのである。