とりわけ、保守主義にたいする認識が貧弱で、それが、政界を中心にした日本人の思想の混迷に、拍車をかけているように思われる。
そこで、わたしなりに、ここで、日本の思想を整理しなおし、体系づけ、わかりやすくしておこうと思う。
思想や主義といわれるものは、二つの体系がある。
一つは文化。もう一つが、文明である。
保守と資本主義、君主制が、文化の体系で、革新と共産主義、国民主権が文明の体系である。
それ以外の、右翼や左翼、国家や民族、自由や平等、人権、民主主義。あるいは、伝統や習慣、宗教、真善美、道徳などは、それぞれ、文化と文明の二つの体系につらなるもので、その一つひとつを単独に語っても、あまり意味はない。
文化と文明という二つの山があり、山頂に、保守と革新という砦が立っている。
その山の中腹や裾野に、国家主義や民主主義など、もろもろの主義やイデオロギーが旗印をあげている、とイメージすると、わかりよいのではないか。
●文化の体系=保守・資本主義・君主制
●文明の体系=革新・共産主義・国民主権
文化と保守が同体ということは、文化の性質をみればわかる。
歴史の試練に耐え、淘汰されることなく、現在にひきつがれた過去の価値が文化の本質で、そのなかに、さまざまな芸や技術、習俗や伝統、習慣や道徳、真善美などがつまっている。
保守が、君主制や資本主義と三位一体になっているのも、同じ構図である。
国家や民族の歴史的遺産を包括的に継承する君主(天皇)制という伝統的体制において、天皇は「君臨すれども統治せず」の権威で、歴史や文化の産物である国体の最高位におかれている。
そこに、保守の源流としての正統性がある。
共産主義者がつけた名称なので、天皇制ということばと同様、語弊があるが、資本主義もまた、本来、人々が、生産や製造、貨幣や市場などをとおしてつくりあげた伝統社会であって、君主制とこの資本主義が、保守の両翼である。
「資本家が労働者を搾取する仕組み」などとマルクス主義者がいいがかりをつけるが、資本主義は、本来、勤労精神や主従関係、礼儀や義理、約束、よき風習などの道徳観念からできあがっており、人間の頭のなかでつくられた共産主義と比較することがまちがいなのである。
保守が、君主制と資本主義を両翼としているのは、ともに、文化やモラル、真善美などを三者が共有しているからで、そういう大きな視野に立って見なければ、保守を理解することはできない。
わたしは、これを「情の世界」と呼んでいる。
情というのは、人間らしい感情や情緒、あるいは、義理・人情、忠誠心や愛国心などの総称で、いわば、日本人の心である。
保守とは、こういう情をつつみこんだ思想で、イデオロギーとは別物なのである。
一方の革新は「理の世界」である。
歴史に育まれた歴史や文化、情や心ではなく、言語や観念、理論からできあがっているのが、革新で、その両翼に、共産主義と国民主権をかかえている。
共産主義も国民主権も、君主制とや資本主義と、相容れない。
というのも、国民主権も共産主義も、伝統的な価値や体制を打ち倒す(革命)過程からうまれてきたもので、両者は、はじめから、水と油なのである。
といっても、わたしは、これを頭から否定しない。
保守を右、革新を左とすれば、左右のバランスがとれているかぎり、社会は、墜落せずにすむわけで、民主主義が国家主義の暴走をくいとめ、国益主義が個人主義のゆきすぎを是正するという機能がはたらいてこそ、社会は、弱肉強食にも、ノーテンキな享楽国家にもならず、中庸をたもつことができる。
保守・革新という二つの山のあいだに、文化と文明、情と理が融合した中庸という峠があり、そこに、抑制された民主主義やおだやかな愛国心などが、個と全体の矛盾をむきだしにすることなく、おかれている。
保守というのは、なにも、古いものだけをまもるのではない。この中庸の精神が歴史に根づいたのであれば、これをまもるのも保守で、そこが、右翼とちがう。
保守は、情の世界なので、当然、矛盾や相反するものが混在する。それを同時にだきかかえる、それも、保守思想である。
自由民主党や民主党右派、国民新党などが、保守政党たりえるのは、その精神やスタンスが、この中庸にあるかぎりにおいて、である。
ところが、最近の自民党は、小泉以降、安倍をとばして、福田まで、やや左にシフトして、新自由主義へ近づいている。構造改革やグローバリゼーションは、保守ではなく、新自由主義で、ゆきすぎると、計画主義になって、革新へ接近する。
事実、小泉元首相も福田現首相も、ぜんぜん、保守主義者ではない。
河野洋平や加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階俊博にいたっては、保守のカテゴリーから完全に外れている。かといって、革新というわけでもない。日本人としての情が欠落しているので、保守の資格を失い、反日主義へ転落していっただけ、といっておこう。
さて。その革新だが、共産主義にしろ、国民主権にしろ、理論だけでできあがっている革新のイデオロギーは、とうに、破綻している。
革新は、国家や資本主義を悪の権化のようにいう。だが、体制内左翼ほど、国家や資本主義の恩恵にあずかっている者はなく、かえって、市井でひっそり生きている保守系の人々のほうが、国や体制から、何ももらっていない。
それでも、かれらは、体制の打倒などとはいわない。
資本主義は、もともと、モラルや情にささえられた「共存の構造」で、左翼がいうような、資本家が労働者を搾取する体制などではないからだ。
市井の人々が、生を営み、地味な努力をつみかさね、ギブ・アンド・テークの場とした社会が、長い年月をとおして、高度に組織化されて、現在、資本主義と呼ばれているだけである。
市井の人々は、搾取されているどころか、みずから、資本主義をささえているのである。
そこに、資本主義にたいする共産主義者の、重大な認識上の誤りがある。
革新のもう一つの翼、国民主権は、もともと、GHQが、民主主義を拡大解釈したもので、これも、嘘っぱちである。絶対王権に対抗するために用意したデモクラシーを人民主権(マルクス主義)に近づけたところで、実体をともなうわけはない。
国民主権の国民は、総体で、人民独裁というときの人民と同じである。
こういうトリックを使って、スターリンや毛沢東は、独裁をおこなったのである。
革新のことばは、ことほどさように、破綻している。
結局、イデオロギーなど、ことば遊びのようなものなのである。
たとえば、自由主義といっても、他人にも自由があるので、個人の自由が他人の不利益になったり、社会に有害な場合は、制限される。
それを「自由を侵害された」というのは、思いちがいで、もともと、自由主義などというものは、なかったのである。
民主主義(制)は、理想的な体制といっても、結局、多数決は、多数派の独裁となるのであって、話し合ったところで、個と全体、利益相反者の利害は、永遠に一致しない。
革新(理といってよい)の思想が、このように破綻をきたしたのは、過去の遺産を引き継いでいないからである。
保守は、理では割り切れないものを、歴史や文化、習慣などの知恵(情といってよい)でのみこんでしまう。その懐の深さが、君主制(天皇体制)や資本主義(商道)という、ある種の矛盾を抱えた体制をささえつづけてきた。
次回は、日本の保守思想を、右翼・左翼の視点からのべることにしよう。