中世以降の日本の権力構造は、世界史のなかでも、ひときわ、きわだっている。
幕府(権力)が朝廷(権威)から官位を戴き、その朝廷が民の幸を祈るという三位一体の関係が、建武の中興以後、江戸末期まで五百年以上もつづいてきたのは、この仕組みが、それだけ、すぐれていたからであろう。
とくに信長の安土、秀吉の桃山、家康の徳川時代は、朝廷が唯一絶対の権威で、したがって、その権威から征夷大将軍の官位をさずかった幕府の権力もゆるがないという、権威と権力の二元論が、ほぼ完璧に機能していた。
権威なき権力は滅ぶということを知っていた信長や家康が、朝廷を利用したという言い方もできようが、じつはそこに、保守思想の真髄がある。
わたしのいう保守は、過去のよきことをひきうけて、悪しきことを断つ功利的な思考や行動をさす。
それが、歴史や伝統をおもんじる態度に帰着するのは、結果論であって、先立つのは、守旧・復古主義ではなく、是非をわきまえた、現実にそくした知恵である。
権力のなかに天皇を立てるという考えがうまれ、時間をかけて、それが、血肉化されてゆく。長くつづいたものは、それだけで価値がある、とするのが、保守の中心的な思想であり、それも、天皇制度をささえてきた支柱の一つである。
権力が天皇を利用したのではなく、権力は権威の裏づけを必要とするという歴史の知恵が、日本史のなかで開花したとみるべきだろう。
それが、本来の天皇の在り方で、天皇を神格化して、国家元首にもちあげた明治維新と昭和の新体制のほうが、じつは、ゆがめられた天皇制度だったといえよう。
幕末の討幕運動では、天皇をかちとったほうが勝ちという論理のもとで、薩長が猛烈な尊王倒幕運動をくりひろげた。
権力は、みずからの権力を正当化しようとして、歴史をねじまげる。そのため、多くのひとが誤解しているが、徳川家も、朝敵とされた会津藩も奥羽諸藩も、朝廷に歯向かう気は、さらさらなかった。
げんに、徳川慶喜は、朝廷に大政を奉還して、はやばやと恭順の意をしめしている。
にもかかわらず、戊辰戦争という内戦へ発展したのは、薩長の謀略、とりわけ、長州藩の怨念によるもので、かれらは、天皇をかつぎあげて、二世紀半以上も昔の関が原の恨みを晴らしたのである。
討幕運動は、当初から、スムーズに事が運んだわけではない。というのも、当時、国粋主義的だった孝明天皇は、開国をゆるさず、徳川家を頂点とした公武合体の新体制を望んでいたからである。
その孝明天皇が、とつぜん崩御して、事態が急変する。
ちなみに、孝明天皇の急死については、岩倉具視と伊藤博文による毒殺説が根強い。戦前は、孝明天皇にかんする研究が禁止され、いまもなお、資料はすくないが、孝明天皇の典医・伊良子光順が残した拝診日記は、中毒死を思わせる内容で、現在では、異例なことに、学術書までが、暗殺説を引用している。
その孝明天皇がもっとも信頼をよせたのが、徳川家茂(孝明天皇崩御の直後に急死)と京都守護職の会津藩主・松平容保だった。
孝明天皇と徳川家茂が存命だった時点までは、朝敵は、禁裏守護の役を解かれ、京都を攻めた(禁門の変)長州のほうで、薩長同盟がなければ、日本は、内乱ぬきに、新体制をつくりあげた可能性がつよい。
ちなみに、坂本竜馬が薩長同盟にうごいたのは、国際的武器商人で、アヘン戦争をおこした国際資本マセソンの手下、トーマス・グラバー(グラバー商会)の意向にそったもので、薩摩は、薩長同盟ののち、グラバーから大量の火砲(アメリカ南北戦争の中古品)を買い付け、長州とともに江戸へ進撃、みずからがひきおこした戊辰戦争で、幕府軍を圧倒する。
孝明天皇と徳川家茂が相次いで急死して、薩長同盟が成ると、薩長は、御所を軍事制圧して、会津藩は京都から放逐される。そして、若年の天皇を擁して王政復古のクーデターを成功させると、徳川家を丸裸にする要求(辞官納地)をつきつける。
それでも、徳川慶喜は、倒幕派の挑発にのらなかった。すると、薩摩藩は、配下の者を江戸に送りこみ、薩摩藩士と名乗らせて商家などに押し入らせるという暴挙にでた。
徳川側が、江戸の薩摩藩邸に犯人の引渡しを要求すると、薩摩側は、これを拒絶。面子と治安維持のため、幕閣が武士団を薩摩藩邸に送りこんだのは当然だが、これが、薩摩に開戦の口実をあたえることになった。
大坂城にあった慶喜は、薩摩藩討伐を主張する強硬派をおさえきれず、京都にむかって進軍する旧幕府側の大軍と薩摩軍が鳥羽周辺で衝突、薩摩の大砲が火を吹いて、戊辰戦争の火蓋が切られることになるが、たたかいは、グラバー商会から大量の火砲を買い付けた薩長軍の優勢のうちにすすみ、やがて、薩長軍の陣営に「錦の御旗」が翻る。
会津藩を主体とする旧幕府軍は、朝敵と宣告されて、慶喜は、江戸へ引き返す。
幕府軍が賊軍となると、諸藩は、次々と官軍の側に転じて、ここで、大勢が決する。
徳川慶喜は、江戸を無血開城して、新政府への恭順をしめすが、官軍は、鳥羽・伏見のたたかいで「錦の御旗」に発砲した会津藩を第一級朝敵ときめつけ、奥羽諸藩に、会津討伐を命じる。
このとき、会津藩家老・西郷頼母は、なんども「恭順嘆願書」をさしだし、奥羽諸藩も総督府に、会津討伐解除の嘆願書を提出している。
ところが、総督府は、討伐の方針をかえない。
それどころか、総督府参謀の世良修蔵は、密書に「奥羽皆敵」と書き、これが仙台藩の手に落ち、怒った仙台藩士に捕縛されて処刑されるという事件までおきている。
これを契機に、奥羽列藩同盟が結成されるが、北越戦争で長岡藩が敗北、会津城も白虎隊が全滅して落城。武士集団だった旧幕府軍は、こうして、薩長の火砲の前に瓦解していった。
降伏の意思をしめした相手を討伐するという発想は、日本史上、なかったことで、そこに、関が原で敗走した薩長の怨念が見える。とくに、長州藩は、京都で、新撰組や会津藩士に痛めつけられた恨みがあり、しかも、長州勢のほとんどが、士分以下の小者で、武士にたいするコンプレックスがあった。
明治新政府をつくった長州勢のうち、井上馨が士分以下、伊藤博文が足軽、山県有朋にいたっては、剣術を学ぶことすらゆるされなかった足軽以下で、山縣は、武士を何よりも憎んでいた。
徴兵制度を採用して、日本の陸軍をつくった山縣は、軍隊の軍刀を西洋式のサーベルにかえてしまったが、そこに、明治政府が、武士の身分を廃して、ちょんまげ禁止、廃刀礼をうちだした理由が隠れている。
明治維新は、近代化をめざした改革運動のようにいわれる。けれども、実際は、上級武士(幕府・藩士)にたいして、外国の力を借りた地方の下級・非武士がおこした西洋化のクーデターで、天皇は、その政変に利用されたといってよい。
鳥羽・伏見、上野戦争(彰義隊)、長岡藩・会津藩との戦争から函館戦争にいたる戊辰戦争で、旧幕府軍を倒した明治政府は、秩禄処分や廃刀令に反発した士族がおこした佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争にも勝利して、日本から武士という伝統的な身分を根こそぎにする。
そのことからも、明治維新が、旧体制をひっくり返す過激な革命運動だったことがわかる。
長州一色となった明治政府がやったのは、武士階級の廃絶と西洋化という文化大革命にほかならず、そのために天皇が利用されて、権威が空洞化した。権力を監視するはずの権威が、権力にとりこまれたからである。
権威が消滅すると、権力もまた不安定になり、あるいは、怪物化する。
じじつ、日本は、明治維新によって、権威と権力が並び立つ本来の天皇制度を失い、ヨーロッパ型の権力一元型国家へと移行してゆく。
日本は、その後、日清・日露戦争をへて、昭和初期の軍国主義にむかうが、そこでふたたび、天皇は、権力に利用されることになる。
こんどは、権力を強化する飾り物として、である。
次回は、大川周明や北一輝の国家社会主義と、陸軍と海軍、統制派と皇道派が、天皇を奪い合った軍国体制について、のべる。