日本は天皇制(度)の国といわれる。
だが、明治維新以後の日本は、天皇を利用して近代化をおこなった西洋のモノ真似国家であり、天皇を中心に和をむすんできた江戸時代以前の伝統的な国のかたちは、120年前に、すがたを消している。
われわれが知っている天皇制度は、明治維新以降のものである。
それが、本来のすがたではなかったところに、天皇問題のむずかしさがある。
現在の象徴天皇も戦前の現人神も、伝統にもとづく、本来の天皇制度ではない。
というのも、天皇制度は、伝統国家と一対になっているからである。
保守主義が、天皇制度をおもくみるのは、文化や習俗、歴史の叡智をかかえこんだ伝統国家と一対になっているからで、祖国や歴史への思いに、天皇制度が介在している。
国家形態と天皇の関係は、おおまかには、つぎのようになるだろう。
●古代・中世=豪族をしたがえた朝廷の世襲的君主
●中世=文化や歴史の継承者、民の代表、神道の最高神官として権力を監視する権威
●明治維新後=国のかたちを象徴する主権者
●戦前=現人神、大元帥としての神がかり的な権力者
●戦後=国民主権というありうべくもない体制の象徴
西洋の模倣による明治以降の近代国家、西欧と派遣を争った戦前の帝国主義国家、および、主権が国民にあるとされる戦後の空想国家は、いずれも、日本の伝統的な国家像とはいえない。
わたしがいう天皇制度は、伝統国家における天皇の在り方をさしている。
天皇と伝統、つまり、国体と文化、習俗、歴史は一体化している。
したがって、天皇制度の危機と伝統の喪失は、表裏の関係ということになる。
そこに、保守主義と天皇制度が一体化する根拠がある。
ちなみに、天皇制度と天皇制は、異なる。天皇制という用語は、日本共産党が、国際共産主義組織(コミンテルン)の指令によって「天皇制打倒」という文脈でもちいられてきたもので、天皇を権力としてみている。
伝統国家において、天皇は、つねに権威の側にあったので、あえてここでは、天皇制度と、区別して記す。
日本を伝統国家にもどすことは、それほど、むずかしいことではない。憲法を改正すればよいのである。
聖徳太子の十七条の憲法と明治天皇の五箇条の御誓文に貞永式目をくわえて、現代風につくりかえれば、世界に冠たる憲法ができあがる。
だが、現在の情勢では、環境権の新設や人権の拡大ばかりいわれており、憲法をかえると、かえって、いまよりわるくなる可能性がある。
このテーマについては、次回、のべることにする。
さて。討幕運動や維新政府による近代国家建設、および、戦後の新体制において、天皇は、権力やイデオロギーに利用されてきた。
権力が、みずからの権力を強化、正統化、絶対化するために、天皇を大元帥に、あるいは、現人神にして、権力の一部に組みこんできたのが、明治維新から戦前にいたる近現代史の流れである。
天皇と民、幕府が三位一体となった伝統国家が、天皇を利用して、西洋的な絶対主義の国家へ変質していったのが、日本の近代化だったわけだが、ゆがめられた天皇制度は、いまもなお、かわっていない。
否、戦後、GHQがつくった新体制では、教育勅語と「五箇条の御誓文」が反映された明治憲法が廃棄されているので、天皇制度のゆがみが、いっそう大きくなった。
かつて、軍国主義に利用された天皇が、こんどは、国民主権という、一歩まちがえると共産主義へ足をふみこみそうな、危なっかしい体制の象徴にされているのである。
保守陣営は、天皇制をまもれという。だが、日本の近現代において、西洋のモノ真似によって歴史の連続性が断たれているので、歴史や文化、習俗の復元なくして、天皇制度をまもることはできない。
保守主義は、歴史の断裂点までさかのぼってゆがみをたださなければならない。それには、西洋のサル真似だった鹿鳴館時代をとびこえて、江戸時代まで立ち返る必要があるだろう。
江戸幕府以前の権威としての天皇は、民と幕府と、三位一体となった天皇体制の中心にあったが、かならずしも、権力に利用されてきたわけではない。
権力構造は、権威(民の敬愛)と権力(国益の行使)がかみ合って、はじめて、うまくはたらくもので、それが十全に機能してきたのは、中世の世界において、日本だけだった。
江戸幕府が、世界史上、もっとも長命で、高潔な権力だった理由は、天皇という権威があったからだが、そのかん、天皇は、表にでてくることはなかった。
表にでてこないから、権威なのであって、世俗化すると、権威は、失われる。
権威は、高いところにあるから、失墜する。一方、はじめから、低いところにある権力は、争奪の対象になるだけである。
企業と株主の関係でみると、権力が社長で、株主が権威である。
株主(オーナー)の願いは、企業の安泰と繁栄、社員の幸福である。
社長は、株主の期待に応えるべく、ビジネス界という世俗で、辣腕をふるう。
株主が、企業にのりこんできて、経営に口出ししたら、どういうことになるだろう。
経営が混乱するだけではない。内紛がおきる。株主にとりいったほうが権力を握れるとあって、社長派や専務派が、株主の権威を奪い合うのである。専務派が株主をとりこんで社長を追放すれば、クーデター成功だが、そんな権力争いをしている企業は、早晩、潰れることになる。
権威は、世俗に降りてこず、御殿で歌を詠っていただいていたほうが、権力は、うまく機能するのである。
明治維新において、天皇は、薩長の討幕運動に担ぎ出されて、権威から権力のカテゴリーへ、横滑りさせられた。そして、天皇という権威を奪い合って、内紛がはじまり、倒幕から戊辰戦争、西南戦争をへて、結局、天皇を担いだ薩長が、天下を握った。
江戸城無血開城や大政奉還がうまくいったのにもかかわらず、維新政府は、なぜ、旧幕府軍や長岡藩・会津藩をあそこまで追い詰め、西郷隆盛を下野させ、西南戦争で討ったのであろうか。
すべて、天皇が権力抗争にまきこまれたことに、原因がある。
天皇をとったほうが勝ちとなるので、和ではなく、相克の論理がはたらくのである。
権威が、権力へ接近すると、このように、権力構造が内から瓦解してゆく。
天皇が、権力に利用されることがなかったら、西郷隆盛が中心になって、欧化主義ではなく、伝統国家のすがたをもった、もっとちがった近代化が実現されていたと思われる。
明治から大正時代までは、日本が西欧化にむかっていった時代で、天皇が権力のほうへ移って、空洞化した権威に、脱亜入欧という文化革命がはいりこんできた。
昭和にはいって、さらに、天皇は、軍国主義の"虚仮威し"の役割をおしつけられる。
大株主に、代表権のある会長職をお願いするようなもので、そのため、日本の軍国主義は、統制派と皇道派、陸軍と海軍が天皇を奪い合い、双方ばらばらになったまま、戦争へ突入してゆく。
旧日本軍には、陸海共同の「作戦本部」がなかった。陸軍は参謀本部、海軍は軍令部が最高の意思決定機関で、それぞれが、別個に、天皇(大元帥)の指揮下にはいったからである。
大本営も御前会議も、ただの擦り合わせにすぎず、その前に、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が、べつべつに天皇の裁可をとって、勝手に戦争をはじめた。
陸軍は、海軍の真珠湾攻撃計画の内容や日時を知らされず、海軍は、陸軍の支那事変の門外漢で、両軍とも、あとで、要請をうけて、部隊や飛行機をだしただけだった。
ガダルカナル血戦やインパール作戦など、おおよそ、日本の敗戦を決定的にした一連の愚かな作戦は、一部軍人が、天皇の裁可をえたとして、良識派の反対をおしきって強引におこなったものである。
日本軍が長期展望のないでたらめな戦争をしたのは、天皇をとりこめば、何でもできたからで、そこに、権力に欺かれた天皇体制の危険性と悲劇性がある。
典型的なケースが「統帥権干犯」問題だろう。
1930年のロンドン軍縮会議で、浜口内閣が海軍軍令部の反対をおしきって調印したのは、天皇の統帥権を干犯したものだとして、軍令部や野党の政友会(犬養毅/鳩山一郎)、右翼が政府を激しく攻撃。そののち、浜口雄幸は右翼(佐郷屋留吉)のテロに、犬養毅は五・一五事件に倒れて、政党政治は終わりを告げる。
だが、もっと重大なポイントは、この事件によって、軍部が、天皇の名を借りて、統帥権という絶対権力を手に、独裁体制をつくりあげたことである。
最高権力者として天皇を立て、その天皇を巧く利用したのが、軍国主義の正体だったといってよい。
権威が、権力に利用されると、最悪の事態が生じるのである。
権力が権威を利用するのは、戦時体制にかぎったことではない。
戦後の天皇は、国民主権という、革新的な体制をささえる象徴として、イデオロギーに利用されている。国民主権というのは、GHQの傑作で、天皇制度という伝統的な文化をもって、かぎりなく共産主義(人民独裁)に似た体制をささえようというのである。
革新が、国民主権ということばをふりまわすことによって、戦後日本から、徳や品格が失われて、日本人は、みな、醜いエゴイストになった。
それが、伝統を失った国家・国民のありさまである。
天皇=朝廷は、日本人の宗家であり、歴史や文化の象徴であり、権力者をかねた時代があったとしても、本来、日本という国の中心で、その中心を失うと、日本という国も日本人も、ばらばらになってしまう。
天皇制度の恩恵は、失うまでわからないが、失ってからは、とりかえしがつかない。
保守とは、伝統=天皇制度をまもることにつきるが、このテーマは、いつかまたふれることにして、次回は、保守思想と憲法改正についてのべよう。