新自由主義を語る前に、主義やイデオロギーとはいったい何か、それをのべておくのが順番だろう。
「個と全体の矛盾」を解消しようとする運動論理――一言でいえば、それが、主義やイデオロギーというものの正体である。
ところが、「個と全体の矛盾」を解消する理論は、まだみつかっておらず、今後、みつかる可能性も、薄い。
そこに、イデオロギーや主義の不毛性がある。
マルクス主義や社会主義、計画された資本主義が不完全なすがたをしているのは、それが、イデオロギーの産物だったからである。
「個と全体の矛盾」を解消するどころか、みずから矛盾に陥り、空中分解してしまったのが、前世紀末のソ連邦・東欧の解体劇であり、資本主義の世界で、周期的にくり返されるスタグフレーション(不況+インフレ)の悪夢なのである。
「個と全体の矛盾」は、理論的にも、現実的にも、解消できないというのが、現代の世界常識である。
にもかかわらず、なお、イデオロギーをふり回すのは、不毛をこえて、おばかさんというしかない。
とくに、左翼は、イデオロギー一本槍なので、その荒廃ぶりは、目に余るものがある。左翼過激派の内ゲバやリンチ殺人をみてわかるとおり、過剰にイデオロギーにとりこまれると、人間性が破壊されて、ケダモノやロボットのようになってしまう。
日本の左翼も、本人はインテリのつもりでも、かつてのオウム信者のように、魂の抜け殻で、イデオロギーにマインドコントロールされたまま、自虐史観や反日主義、反道徳をふりまわしているだけである。
いったい何のために、そんなことをしているのか、本人も、よくわかっていないのではないか。
おおよそ、主義と名のつくものは、あまり信用しないほうがよいわけだが、自由主義もリベラリズムも、新自由主義も、その域をでない。
知識にすぎないイデオロギーにとらわれると、経験をふまえる、現実を直視するという頭のはたらきが留守になってしまい、生きた知恵がはたらかなくなる。
ちなみに、イデオロギーや主義のうち、経済を土台にしているものは、マルクス主義をはじめ、すべて、革新にぞくする。自民党でも、大蔵出身の池田勇人がつくった旧宮沢派(宏池会系/加藤派・谷垣派・古賀派)は、党内でもっとも左翼的で、保守からもっとも遠いところにいる。
自由主義は、国家から自由という意味なので、左翼的なのだが、一方の保守は、国家や歴史、伝統によりそい、経済理論をふりまわさない。のちにのべるように、経済を単独の問題として考えず、社会や歴史、人間との関連でとらえるからである。
自由主義は、「個人の自由」というときの自由とはちがう。
国家に縛られない経済という意味で、経済用語である。リベラリストは、自由人ではなく、国家からの自由をもとめる反逆者であり、イギリスやフランス、アメリカにおける政変や革命、分離独立を担ったのも、国家の束縛をきらったかれらだった。
その自由主義のわかりにくいところは、古典的自由主義と現代の自由主義(リベラリズム)が、まるっきり、逆の立場にたち、新自由主義は、リベラリズムを逆転させて、ふたたび、古典的自由主義へ立ち戻っているところにある。
●古典的自由主義(アダム・スミス)→国家からの自由→市場経済(神の見えざる手)
●リベラリズム(ケインズ)→国家の関与→市場への積極的介入(社会保障・福祉)
●新自由主義(ハイエク)→国家の関与を縮小→市場原理の重視(民営化・規制緩和)
昨今、日本で、民営化・規制緩和がすすめられ、一方で、社会的格差や貧富の差がひろがりつつあるのは、アメリカで猛威をふるっている新自由主義が移入されたためである。社会保障や福祉が後退して、競争原理が前面にでてきたために、経済が活気をおびてきた半面、社会がギスギスしてきたのである。
●リベラリズム→大きな政府→社会保障・福祉→公共投資など政府の経済振興策
●新自由主義→小さな政府→自由化・規制緩和・民営化→減税による消費経済の拡大
両者は、どちらがよくて、どちらがわるいというふうには、いえない。
自由放任(レッセ・フェール)を制限すると、コストがかかり、経済が沈滞する。
かといって、弱肉強食の市場至上主義を前面におしだすと、勝者と敗者の二極化がすすみ、市場原理に合わないものは淘汰されて、悪貨は良貨を駆逐するたとえどおり、価値の高い少数が、価値の低い大衆的な多数におしつぶされることになる。
こうなると、衆愚化現象の経済版である。
小泉・竹中コンビは、新自由主義にとびついた。だが、「日本改造計画」で新自由主義を主張した小沢一郎は、民主党へ入党するにあたって、リベラル路線へのりかえた。民主党は、羽田元首相の「共生」、旧社会党横路の「民主」、菅の「市民」、鳩山の「友愛」がごちゃまぜになったわけのわからない政党だが、新自由主義より、よほど、左翼色がつよい。
小沢は、そこへ「生活」という新たなスローガンを掲げて、リベラリストの仲間入りをはたした。
自由主義は、このように、のりかえも自由で、不況にぶちあたるたび、各国の経済担当部門は、自由主義政策のモデルチェンジをおこなってきた。古くは、ルーズベルトのニューディール政策(自由主義→リベラル/公共事業と社会保障制度の整備)、新しいものでは、レーガンのレガノミクス(リベラル→新自由主義/大型減税と規制緩和)などがあるが、日本のケースでいうと、バブル崩壊後のグローバリゼーションも、リベラリズムから、新自由主義へののりかえである。
ちなみに、新保守主義は、新自由主義をささえる政治的イデオロギーで、伝統の重視や強硬な外交姿勢に特徴があるが、グローバル資本主義において、国家主義的な政治勢力が台頭してくるのは、理屈として、うなずける。
だが、グローバル化や政治主義で武装しても、新自由主義がイデオロギーであるかぎり、いずれ、失敗に終わる。
冒頭にのべたように、主義やイデオロギーは、永遠に「個と全体の矛盾」を解消することができないからである。しかも、経済理論である自由主義は、革新色がつよく、マルクス主義の二の舞になる可能性さえある。
経済理論を軸にした主義は、すべて、左翼にぞくするとのべた。
それでは、保守のイデオロギーや主義は、何を中心にしているのであろうか。
経済ではなく、国家や歴史、文化である。
厳密にいえば、保守には、主義もイデオロギーもない。本ブログでは、便宜上、主義と呼んでいるが、実際は、保守思想で、テーマは、徳である。
「個と全体の矛盾」は、イデオロギーで、解消できないと指摘した。
ところが、徳なら、その矛盾を解消できる。
前回、聖徳太子の和に、ふれた。イデオロギーでは、数の暴力になる民主主義が、和の精神という徳をもちいると、まるくおさまるように、「個と全体の矛盾」も、全体利益への譲歩、エゴイズムの抑制、忠孝の精神という徳をもちいると、解消される。
かつて、日本経済が世界一となった一方、旧ソ連の経済が破綻し、現在、中国が、高い経済成長を実現しながら、日本に追いつけないのは、日本経済にそなわっていた徳が、いまの中国になく、旧ソ連になかったからである。
理論は正しくとも、徳がはたらかなければ、「個と全体の矛盾」は解消されない。
徳のない自由主義の経済は、かならず、ゆきづまる。日本の過去の経営者は、そのことを知っていたので、日本経済はつよかったわけだが、それが、保守主義である。
経済政策において、保守主義は、経験主義である。
革新は「頭で考えて不可能なことはない」という人知万能主義だが、人知を完全なものとしてみない保守は、頭のなかで考えたものに、全幅の信頼をおかない。
歴史の知恵や常識、あるいは、徳にもとづいて経済をとらえ、創造や勤勉、協力、互助という倫理観に立って、経済哲学をつくりだすのである。
商道の元祖といわれる石田梅吉(「商人の売買するは天下の相なり」)や、自藩(松代藩)の困窮と徴税問題を民との話し合いで解決した恩田杢、自助・互助・扶助の三助で米沢藩の財政危機を救った上杉鷹山、「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」の名言を残した二宮金次郎、武士道と商道を合体させた「富国論」で日本資本主義の黎明をひらいた横井小楠、そして、東洋紡や東京海上火災など、生涯に千をこえる事業をおこない、「完全な冨、正当な殖益には、かならず徳がそなわっている」と喝破した渋沢栄一など、欧米の主義やイデオロギーに学ばずとも、わが国には、先人のすぐれた教え、哲学、テキストがいくらでもある。
自由主義やリベラリズム、新自由主義は、かつての日本にあり、いまは失われた「人間経済学」に比べると、浅知恵に類するものなのである。
次回は、日本史に目を転じて、中世日本の保守主義を検証してみたい。