日本史をふり返ると、蘇我馬子、藤原不比等、平清盛、北条泰時、足利尊氏、織田信長、徳川家康など、図抜けた権力者が幾人もでたが、ふしぎなことに、天皇にとってかわった者は、一人もいない。
未遂者は、二人、いる。弓削道鏡と、金閣寺を建てた足利義満である。
宮中で権勢をふるった道鏡は、権力者ではなかったので、問題外だとしても、じぶんの息子を天皇の養子にだした足利義満の場合は、上皇となって、院政を敷く可能性が十分にあった。
政略で太上天皇の称号をいれかけた義満は、正装に、天皇にしかゆるされていない紋をつけ、金閣寺を建てた北山に、朝廷にしかない紫辰殿と同じ名の建物を建てるなど、天皇気取りで、天皇の養子にした息子の義嗣に、後小松天皇の後継ぎをうかがわせる増長ぶりだった。
だが、義嗣元服の数日後、肺炎にかかって急死して、義満の野望は、ついえた。天罰が下ったのであろう。
義満は、現在の政治家にたとえると、媚中派・河野洋平のような奇怪な権力者で、明と屈辱的な外交をひらき、その明から「日本国王」の称号をあたえられると、支那服を身につけ、暦まで明歴にあらためるという、極端な明びいきだった。
日本国王の称号は、華夷秩序(柵封体制)における明皇帝の下位で、かつて、聖徳太子が、これを拒んで「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書き送ったのは有名な話である。
義満は、これと、まったく逆のことをやった。日中外交に、外務省チャイナスクールや朝日新聞、媚中派の政治家や財界人が介入して、へりくだった関係にしてしまったようなもので、義満が存命して、上皇になっていたら、日本は、柵封体制にとりこまれて、その後の歴史が、まるっきりちがったものになっていたろう。
だが、これは、あくまでも例外で、有史以来、この義満以外、だれも、天皇になろうとしなかった。
そこに、日本の権力構造のユニークさがある。
その理由の一つが、神話の存在である。日本の神話は、天皇の祖であるニニギノミコトが降臨して、国造りをする物語だが、大和時代の豪族から奈良・平安の公家、戦国時代の武将にいたるまで、祖をたどると、すべて、ニニギノミコトにつきしたがってきた従者の神々につきあたる。
その神々の末裔が、天皇にとってかわれば、祖神を裏切ることになる。
祖神を敬う日本人の宗教感覚から、とうてい、考えられることではない。
大化の改新で功があった藤原鎌足とその子、不比等にはじまる藤原一族は、奈良・平安時代に、藤原三百年とよばれる栄華を築きあげ、武家政権になっても、朝廷人事の中枢を占めてきた。
だが、一族のうちで、天皇になったものは、一人もいない。
藤原氏の祖先は、神代の時代、天照大神が天岩屋戸に隠れたときに、岩戸の前で祝詞をあげた神で、藤原家系の由緒は、天皇をおまもりすることによってのみ、正統性がまもられたからである。
神話時代から天皇をまもってきた重臣は、連(むらじ)や臣(おみ)とよばれた。
日本の権力構造は、藤原氏をふくめ、天皇をまもる神々の子孫、連や臣にささえられてきた。
したがって、天皇に叛旗をひるがえすと、神話時代から天皇に仕えてきた神々の末裔、他の連や臣が立ち上がって、叛徒を討つ。
それが、日本で、権力者が朝敵になるのをおそれる理由である。
たとえ神話でも、歴史上の出来事は、一つの規範となって、後世に残される。
この神話的秩序をまもるのが保守で、それが、伝統国家の特質である。
一方、この神話的秩序を破壊しつくすのが革命で、共産主義の名のもとで、前世紀だけで、数億人の人々が犠牲になった。それが、革命の愚かさで、歴史を断ち切ると、人間も国家も、文化と心を失い、野蛮と冷血性にとりつかれるのである。
ソ連や東欧、中国や北朝鮮、カンボジアの悲惨な歴史が、それを如実に物語っている。
同じ新興国家でも、アメリカでそういうことがおこらなかったのは、大陸からキリスト教という神話的秩序がもちこまれたからである。
保守が、宗教とかかわるのは、過去から神話をひきつぐからである。アメリカの新保守主義も、アメリカン・プロテスタンティズムやファンダメンタリズム(原理主義)と深いつながりをもっている。
宗教をふくめ、道徳や習俗、情などの精神文化が、民族共有のものとなるのは、神話が介在しているからで、日本の場合、そのなかに、忠がある。
朝廷と公家、天皇の子孫である平氏源氏までは、神話的世界でつながる。
だが、出自が百姓の武士は、公家や源平にくらべて、天皇とのむすびつきは、それほどつよくなかった。
ところが、武家政権になっても、朝廷と幕府、幕府と御家人の関係は、崩れていない。
神話的むすびつきが、忠という武士の倫理にきりかわって、生きつづけたからである。
忠は、日本人特有の心情で、武士の倫理のみならず、上下の人間関係から愛国心にまでおよぶが、外国には、これに該当することばがない。
忠の精神は、儒教から移入されたといわれる。だが、日本の忠は、神話から借りてきた日本独自の精神文化で、けっして、大陸のものではない。
儒教は、孔子がつくった学問で、教えの中心に、仁・義・礼、徳治や忠孝がある。
朱子学は、儒教より先鋭的で、王道政治(尊王賤覇)が、幕末には「水戸学」となって幕末の志士たちに大きな影響をあたえ、やがて、討幕運動のイデオロギーになっていった。
だが、儒教(学)も朱子学も、仏教と同様、日本で独自の発展をとげてきたので、中国や韓国のものと、同一視することはできない。
韓国の儒教は、忠孝の忠が捨てられて、孝が強化された。反対に、日本では、孝よりも忠である。韓国では、親への遠慮が美徳になるが、日本では、忠義が善行である。それが国民性や国柄のちがいで、いかんともしがたい。
尊王賤覇も、易姓革命をくり返し、何度も北方民族に征服されてきた中国と、古来より覇道(征夷将軍)が王道(万世一系)の下位におかれてきた日本を同列に語ることはできない。
事実、中国では、観念の上のものでしかなかった尊王賤覇が、日本では、天皇と摂関、朝廷と幕府という権威と権力の二元体制として、千年以上もつづいてきた。
儒教が日本にはいってきて、忠や尊王が生じたのではなく、儒学によって、神話的秩序が理論化されたとみるべきだろう。
科挙の国だった中国や朝鮮では、儒学が受験科目で、知識の対象だった。
地位と富をえるための知識にすぎなかったその儒学が、日本で、よみがえった。
租神を敬う神話的秩序があったため、儒教が空論ではなく、天皇や君主をまもる武士のモラルにまで高まったのである。
天皇を中心とした律令制度や幕藩体制が、何百年も何千年もつづいたのは、律令体制の神話的秩序が、武家政権になって、忠という、倫理に成熟したからで、そこに、日本史をつらぬいている保守の思想がある。
保守は、ただたんに、過去を復元することではない。変容をみとめるのも保守で、それがなかったら、歴史の知恵は、すべて、過去の遺物として捨て去られて、後世につたわらない。
律令体制の神話的秩序は、封建体制(武家政権)の忠へ、すんなりときりかわったわけではない。
それどころか、建武の新政ののちに消えた忠がふたたび登場して、織田信長によって、権威と権力の二元体制が再建されるまで、日本は、数百年におよぶ暗黒の中世へ迷いこむのである。
次回は、日本が暗黒の中世に迷いこんだ歴史をふりかえってみたい。