日本人の忠の精神や滅私奉公は、神話からひきついだ民族の遺伝子のようなもので、他の民族も、同様に、神話をとおして、文化的・精神的な特性をひきついでいる。
アメリカがフロンティア・スピリッツを国家のパワーとしてきたように、日本では、忠の精神が、経済の発展や組織力をささえてきた。聖徳太子の「和の精神」が横のつながりなら、忠はタテの結束で、団結力が、日本のつよさなのである。
といっても、忠の精神が、日本史に武士が出現した当初からあったわけではない。
源平合戦の源義経、鎌倉幕府をひらいた源頼朝、蒙古軍を破った北条時宗、貞永式目の北条泰時、南北朝で活躍した楠木正成、神皇正統記の北畠親房と、徐々に、忠が、武士の魂になってゆく一方、武士のあいだでは、依然として、一所懸命という打算が根強く、それが、のちに、暗黒の中世をつくりだしてゆく。
日本史に、暗黒の中世が出現したのは、朝廷(権威)の地位が下がったため、求心力を失った権力集団が暴走したためで、南北朝の動乱から応仁の乱、戦国時代をへて、徳川幕府が誕生するまで、数百年にわたって動乱がつづく。
忠という秩序感覚がはたらかなくなれば、権力は、武装集団にすぎないものになり、武士の世界は、下克上がふきあれる乱世となるのである。
秩序が乱れはじめた鎌倉末期、武士の世界に打算をもちこんだのが、足利尊氏である。
尊氏は、武士の打算の代表的な人物で、当時の武士も、所領地の主か、用心棒のようなもので、後世でいう忠の精神がうまれるのは、信長が朝廷の権威を盛り返してからである。
連や臣ら、天皇のとりまきが権力をにぎる律令体制において、神話的秩序が大きな意味をもった、と前回、のべた。
そしてそれが、武家政権になって、忠へ転化したと論じたが、それには、乱世という準備期間が必要だったのである。
打算の足利尊氏と忠義の楠木正成がたたかった南北朝の争いにふれる前に、武家政権が成立した経緯をみてみよう。
武士が台頭してきたのは、天皇と摂関家(藤原)を中心とした律令体制が崩壊したからである。朝廷や摂関家、源氏、平氏、土地持ちとなって力をつけた豪族が、それぞれ内部分裂してたたかった「保元の乱」を契機に武士が台頭してくると、つづく「平治の乱」で平清盛が源義朝を討って、太政大臣の地位につく。
武家政権が成立するのは、それから、源平合戦をへて、平氏を滅ぼした源頼朝が、鎌倉幕府をひらいてのちのことである。
その源氏の血統が三代で絶え、頼朝の妻・北条政子の系統が執権の座につき、「承久の乱」で、後鳥羽上皇の院政を廃した北条泰時の時代になって、ようやく、武家政権らしくなってくる。
泰時はなかなかの傑物で、貞永式目をつくって潔白な政治をめざし、公武双方から高い評価をうけた。貞永式目は、聖徳太子の十七条の憲法を三倍した五十一条からできているが、その精神もうけつぎ、これが、のちの日本における法体系の土台となった。
さて。日本の政治が安定していたのは、権力が権威にとってかわらなかったからとのべてきたが、逆に、天皇が権力をめざしたケースは、二度あった。
一つは、後鳥羽上皇の承久の乱で、もう一つが、後醍醐天皇の建武の新政である。
承久の乱は、かえって、武士政権をつよめる結果となり、朝廷は、弱体化して、内紛を生じる。承久の乱で、後鳥羽上皇が配流になった二十年後、持明院統と大覚寺統が対立して、両統迭立となる。
朝廷が権力をもとめた結果、権威としての存在価値があやしくなってきたのである。
後醍醐天皇が、もとめたのも、王政復古という政治権力だった。
倒幕計画が発覚(正中の変・元弘の変)して、配流された大覚寺統の後醍醐天皇が隠岐から脱出、蜂起をよびかけると、護良親王や楠木正成、新田義貞らが呼応して鎌倉幕府を倒す。
こうして、いったんは、王政復古が成功するが、鎌倉幕府から寝返って功をあげた足利尊氏が、ふたたび、叛旗をひるがえして、後醍醐天皇を吉野へ追い、そこから、半世紀をこえる南北朝の時代がはじまる。
鎌倉幕府と後醍醐天皇を裏切った足利尊氏が、拠って立ったのが、武士の打算だった。
幕府(将軍)が領主(御家人)に所領や安堵をあたえ、軍事上、経済上の奉公をもとめるのが、武家政権である。幕府と御家人は、打算でむすびつき、武士は、領主を命がけでまもる恩賞として、土地(所領)をえる。
そこから、一所懸命ということばがでてきたわけだが、鎌倉末期に、その関係がゆるんできた。十分な知行をあたえることができない鎌倉幕府に、領主が、背をむけはじめたのである。
二度にわたる元寇などで、貧窮化した鎌倉幕府には、幕臣に十分な知行をあたえる力がなく、王政復古の後醍醐政権にいたっては、律令体制への逆戻りで、あたえられる所領も知行も、鎌倉時代から大幅に後退した。
当時の幕府と武士の関係は、打算であり、鎌倉幕府の幕臣だった足利尊氏が後醍醐天皇に寝返り、さらに、南朝に反旗をひるがえしたのも、打算からだった。
鎌倉幕府を崩壊させたのと同じ経済的打算から、尊氏は、後醍醐天皇の理想を葬ったのである。
足利尊氏は、幕府にたいする武士の不満、あるいは、打算を巧みにすくいあげて、叛乱軍を編成した。新田義貞に敗れて九州へ逃れたのち、50万もの大軍を率いて、ふたたび京都をめざすことができたのは、後伏見上皇に宣院を願いでた尊氏の政治力の高さもさることながら、それだけ、当時の武士が、功利的だったということであろう。
このとき、打算に見向きもせず、忠を立てたのが楠木正成だった。正成は、勇猛にして智謀にたけたいくさの天才で、赤坂城・千早城などで奇策をもちいて奮戦、幕府軍を苦しめた。だが、度重なる進言が後醍醐天皇に聞き入れられず、情勢は不利になり、九州からのぼってきた尊氏の大軍を正面から討たねばならなくなる。
湊川の決戦である。正成は、出陣のとき「今はこれまでなり」とのべている。天皇への忠をつらぬき、50万対700という劣勢のなかでたたかい、弟の正季と「七生報国」を誓って、刺し違えるが、これは、打算でうごく当時の武士のイメージを一変させる新しい武士像である。
正成は、古代の神話的秩序を、忠という近世の観念にかえて、朝廷に仕える武家政権の土台をつくりあげて、みごとに、散っていった。
そこに、太平記が、多くの日本人に読みつがれてきた理由がある。
近代になって、正成をよみがえらせたのは、水戸藩主・水戸光圀である。
楠木正成の死に様は、水戸光圀の「大日本史」に著され、幕府や主君より、天皇に忠義をつくすのが、真の武士だという考えがひろまっていった。吉田松陰や幕末の尊王志士のあいだで、楠木正成が武士の鑑となり、一方の足利尊氏は、戦後、再評価されたものの、不忠の烙印をおされた。
アメリカに密航をくわだて、下田で捕まった吉田松陰は、護送先の泉岳寺で「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」と詠んだ。
意味も場面もちがうが、忠や義、情もまた、松陰のいう、やむにやまれぬもので、どこかで高い理想につながっている。
やむにやまれぬもの、それもまた、保守思想の大きな柱であろうと、思うのである。