雑誌「現代」に、立花隆が「憲法九条は戦後日本の国体」という論文を書いている。
国体は、歴史や伝統、文化、宗教感情、習俗などに根ざしており、政治や法は、国体の上にのっている政体にすぎない。
立花の暴論には、驚くしかないが、憲法九条を戦後日本の国体と強弁するのは、事実上の国体否定で、かれら護憲主義者の主張は、最後には、国境を取り払い、世界連邦をつくって、全人類が手をつなごう、という誇大妄想へゆきつく。
過激派の「世界同時革命」のようなものだが、いったん、こういうイデオロギーにとりつかれると、国家の礎である国体が、世界連邦建設の障壁になるというわけで、保守陣営をふくめた護憲派の政治家、論壇人、マスコミ文化人らが、競って、反日主義をいいつのるようになる。
反日主義は、左翼ではなく、国体という観念が抜けおちたコスモポリタニズム(世界市民=無国籍主義)で、そんな連中が、憲法九条をたてまつるのは、国体を否定したいからにほかならない。
憲法九条、および、憲法に謳われている国民主権は「国家は――国家の維持・強化を最高原理として行動する」という国家理性(国是)や国家主権と対立する。
それも当然で、日本の国体や国是を否定する目的でつくられているGHQ憲法から、コスモポリタニズムに立った絶対平和主義や国体・国益の否定がでてくるのは、必然のなりゆきである。
さらにそこから、反日主義がとびだしてくるのも、占領憲法に封印されていたシナリオで、要するにかれらは、GHQ憲法という敗戦革命の申し子なのである。
政治や法を国体に優先させると、国家は、文化的に不毛な人工国家へ転落してゆく。共産主義国家がよい例で、国体の代わりにイデオロギーをもちこんだ結果、国家が機能マヒと経済破綻をおこして、前世紀の末、大半が地球上からすがたを消した。
国体を否定した国家が、衰弱するのは、文化や歴史、宗教感情が国体ともども、消えてしまったからである。
戦後の日本が、いまだ、独立国家の体をなしていないのも、政治や法に比べて、国体の比重が軽いからで、そこに、国家としての致命的欠陥がある。
国体というまもるべき実体がないので、国益がふみにじられ、防衛観念が薄まり、媚中外交や対米従属、自虐史観から、反日主義などというとんでもないものまでがとびだしてくる。
●太陽と神道、天皇と国体
今回は、国体論をのべるにあたって、神道をからめて、考えてみたい。
原始の時代から、人々の心をとらえてきた宗教感情は、やがて、独自の価値観や世界観をかたちづくり、それが、文化や習俗、民族性などに投影されて、国体ができあがった。
政体ができる前に、素朴な宗教的共同体があったのである。
歴史や伝統、文化、習俗に根ざしている国体は、もとをたどると、宗教感情へゆきつくはずで、日本の場合、それが神道で、万世一系の天皇は、「神に祈る神」として、いまもなお、神道の最高神官という立場にある。
国家は、この伝統的な国体の上に、封建体制や民主主義、立憲政体などの合理的な権力をのせた二重構造になっている。
時代や状況とともに変化する権力構造と、万古不易の国体が、擦り合わさっているのが国家で、この二重構造をふまえなければ、国家の全体像は、なかなか、見えてこない。
宗教感情といっても、国によってちがい、国体には、その差異が、反映される。
その差異によって、国々の価値観や世界観、ものの考え方も、異なってくる。
真・善・美になぞらえていえば、西洋の一神教がもとめてきたのは真で、東洋の仏教や儒教は、善をおもんじる。日本の神道は、美で、日本人は、キリスト教の真理や儒教的な善悪よりも、美をたいせつにする。
日本人の美意識は、伝統的な価値観、古くからの習俗と同様、神道からきている。
真理をもとめる一神教な世界が、合理主義一辺倒で、弱肉強食となるのは、善がかえりみられないからで、儒教的な善悪の世界観が、不自由で窮屈になるのは、美がないからである。
美は、内部に、真や善をのみこみながら、それ自体、感性的な価値をもっている。
事物が美しいのは、邪や悪がとりのぞかれているからで、しかも、真や善以上の価値がある。真が頭脳から、善が精神からうみだされるものであれば、美は、もっと高度な審美的感性からでてくる。その意味で、神道は、一神教や観念宗教をこえた、芸術の域にまで高められた、日本固有の宗教であり、文化であり、美意識ということができる。
日本の国体は、このような、古来の宗教感覚や美意識を土台にしている。
したがって、この神道がいかなるものか、どんなかたちをしているか、それをふり返らなければ、日本の国体を語ることができず、われわれは、日本人としての自分自身のすがたを知ることもできない。
現在、日本が、あらゆる分野で停滞しているのは、借り物の外来文化にたよりきって、神道という感性や国体を見失っているせいではないか。
かつて、日本が、大陸からの文物を国風化する懐の深さ、柔軟さをもつことができたのは、受け皿となる国体が磐石だったのにくわえ、神道が、太陽を最高の存在とみる大らかない自然観をもっていたからである。
太陽のもとでは、すべて平等で、しかも、太陽をこえるものは、存在しない。
仏教もキリスト教も、太陽の恵みのもとにある森羅万象の一つなので、神仏習合というかたちで、共存できる。
神道は、すべてをのみこむ太陽を崇めるが、霊魂とみているわけではない。
自然の存在、現象そのものが、神の道で、そのなかで、太陽を最高の神と見立てている。最高神が、照らしだしているので、この世は、下界ではなく、中つ国なのである。
神道のもっとも大きな特徴は、仏教やキリスト教とちがい、あの世とこの世の境界線がないことである。
キリスト教などの一神教、あるいは、この世が天の差配のもとにあるとする儒教、死の哲学である仏教では、現世のほかに、天国や来世、彼岸があるが、神道という日本独自の宗教観においては、高天原は、現世とつながったままになっている。
高天原でも、この世(芦原中つ国)でも、最高神は、同じ太陽で、太陽の化身である天照大神の神話が、血筋によって、現在まで、連綿とつづいている。
そこに、神道と天皇が中心となった日本の国体のレジティマシー(正統性)がある。
この世が、高天原の再来なのであれば、真・善・美は、すでに実現されているというのが、神道的世界観で、それが失われているのなら、浄めと復活でよみがえらせることができる。
そこに、神道の保守思想があるのだが、そのテーマについては、いつかまた、ふれる。
森喜朗元首相の「日本は神の国」、安倍晋三前首相の「美しい国・日本」は、神道的な価値観にもとづいたものだったわけだが、いかんせん、現在の日本では、神道的な素養が払底しているので、意思がうまくつたわらず、左翼マスコミから、散々、叩かれる破目になった。
神道は、宗教というより、日本人が数千年にわたって共有してきた文化=世界観であり、天皇は、実史と融合している神話時代の唯一の実在者=国体の象徴で、政治体制がどうかわろうと、その地位やかたちは、ゆるがない。
神道と国体は、このように、天皇が仲立ちとなった歴史の連続性、および、文化の永続性の関係である。
このすがたをみず、憲法九条が戦後日本の国体などというのは、知的退廃も、はなはだしい。