1945年の敗戦によって、日本は、神武紀元以来、連綿とつづいてきた国体(皇室)の存続が危殆に瀕するという、未曾有の国難に直面した。
天皇の戦犯問題である。
天皇が、東京裁判で裁かれ、あるいは、イタリアのサボイア王家と同様、皇室の解体がおこなわれていたら、国体が崩壊して、日本は、分裂国家か、大国の属国になっていたと思われる。
日本がポツダム宣言の受諾を渋ったのも、国体の護持という確証がえられなかったからで、それが、広島・長崎への原爆投下という惨禍につながった。
そういう事態に立ち至ったのは、明治政府が、権威と権力を一体化させ、天皇を戦争の当事者にしてしまったからである。
ロシア、英国、オーストラリアなどの戦勝国が、天皇の戦争責任をもとめたのも、天皇が、かつての、ヨーロッパの王室と同様、権力者と思ったからだった。
天皇の権威に象徴される国体、その国体の認承によって、権力に正統性があたえられる政体――これが、わが国の二元的な政治システムで、権威たる天皇は、権力である元首や大元帥と、一線が画された存在でなければならなかった。
ところが、明治政府は、権威である天皇を<元首・大元帥・現人神>として権力の側にとりこんで政治的に利用した。
そのつけが、一〇〇年後にまわってきたのである。
戦後、劇的なかたちであらわれた天皇体制の危機は、明治維新の段階で、すでに、仕込まれていたわけだが、先の戦争の失敗から現在の社会的欠陥まで、原因をさぐると、すべて、そこへゆきつく。
今回は、2回にわたって、そのテーマについてのべる。
さて。我が国にとって幸運だったのは、GHQ最高指令官・マッカーサーが占領政策に天皇を利用すべく、アメリカ議会や他の戦勝諸国の反対を押し切って、戦犯から除外したことである。
マッカーサーの判断によって、天皇の戦犯問題と皇室解体の危機は、かろうじて、回避されたが、国体の護持が、薄氷をふむような危うさに瀕したことは、日本史上、最大の汚点といってよい。
もともと、日本の天皇制度は、権威と権力を分離することによって、権力の増長を防ぐ歴史の知恵で、だからこそ、日本の国体は、二千年以上にわたって、まもられてきたのである。
薩長閥による明治政府が、この伝統的な体制をこわしたのは、かれらの近代化が、欧化主義だったからで、下級武士にもおよばない低い身分だったかれらに、日本の伝統を重んじる気風は、そなわっていなかった。
明治維新は、きわめて、複雑な構造をしている。
慶応三年(1867年)、十五代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に奉還し、その翌年、官軍が江戸に迫ったところで、勝海舟・西郷隆盛の会談をとおして、江戸城の無血開城までおこなっている。
ここまで平和裏にすすむのは異例としても、これは、日本史にいくたびかあらわれた政権交代劇の一つといってよい。
ところが、官軍は、徳川家と親藩の徹底殲滅をはかって、内戦をひきおこす。
戊辰戦争である。
徳川慶喜は、すでに、恭順の意をしめしており、親藩にも反抗の意図はなかった。あとは、公武合体にしろ公儀政体にしろ、新しい政府をつくるために、英傑が力をあわせればよかったわけだが、薩長がそうしなかったのは、公武合体論の孝明天皇が急死して、「薩長政府」樹立の機運がうまれたからである。
このとき、薩摩や長州は、権力の正統性を顕す錦の御旗をもとめた。
戊辰戦争は、錦の御旗をわがものにしようとする薩長の権力欲によってひきこされたといってよい。
幕末の乱世にあっても、徳川幕府は、天皇から征夷大将軍の官位を戴き、三百年の長きにわたって日本を統治してきた。為政者としての正統性もあり、薩長軍と対抗する戦闘能力も十二分にもっていた。
一方、薩摩や長州が王制復古や天皇親政をうったえても、錦の御旗がなければ、倒幕に大義名分が立たない。当時、薩長軍が、天皇の勅書と錦の御旗を必要としたのは、かれらがめざした倒幕が権力闘争で、事実上のクーデターだったからである。
錦の御旗がなければ、倒幕運動は、ただの叛乱である。事実、薩長の倒幕運動には、関が原で徳川に敗れた両藩の意趣返しという動機が隠れていた可能性がある。
錦の御旗や天皇の詔勅によって、権力に正統性が付与されるというやりかたは、日本の伝統的な政治システムで、足利尊氏が、後醍醐天皇親政に対抗すべく、北朝一代目となる光巌天皇を立てて、室町幕府をひらいたのも、同じ原理である。
明治維新において、薩長(東征)軍が幕府軍を圧倒できたのは、かれらが、錦の御旗を手にしたからだった。一方、朝敵となった幕府軍は、賊軍の汚名を着せられて、ことごとく、敗れ去った。
錦の御旗のもとで、権力を手にした政治権力は、こんどは、権威である天皇の意思にかなう政体を組織して、国家・国民のために、行政組織を合理的に運営しなければならない。
それが、権威と権力、国体と政体の二元論的関係である。
ところが、明治政府は、討幕に利用した天皇を――徳川三〇〇藩候の解体や廃藩置県、廃刀令などの政治改革に利用する。
民の平安や国の繁栄を神々に祈る最高神官として、権力構造と一線が画されていた天皇を現人神として神格化する一方、明治政府は、天皇を元首・大元帥という権力者に仕立て上げたのである。
権威である天皇が、権力へとりこまれると、権威が空白となって、騒乱がまきおこるのは、これまでの歴史がしめすとおりである。
後醍醐天皇の建武の新政を、わたしは、評価しない。
清廉な鎌倉幕府・北条執権を倒して何がおきたであろうか。
南北朝から、内紛がたえなかった足利幕府、足利義満・義正の悪政、応仁の乱から戦国時代をへて、徳川幕府が安定政権を打ち立てるまで、日本は、270年にわたって、暗黒の中世をさまよわねばならなかった。
権威と権力が別々に機能していれば、なかったはずの暗黒の270年だが、明治維新でも、建武の新政と同じことがおきた。
明治政府が天皇をとりこんだことによって、権威が空白となり、あっというまに、軍国主義ができあがってしまったのである。権力を監視する天皇が不在で、現人神が、権力に就けば、その権力が怪物化するのは、必然である。
マッカーサーは、占領統治に天皇を利用した。だが、それは、かならずしも、権威と権力の二元論から外れたものではなかった。天皇は、マッカーサーに「わたしはどうなってもよいが、国民を飢えから救ってもらいたい」といわれ、マッカーサーは、曲がりなりにも、その意にそおうとした。
権威である天皇の祈念が、マッカーサーという権力につうじたのである。
天皇の戦争責任が不問になったのは、本来、天皇は、民の幸を「神に祈る神」(本居宣長)であって、もともと、権力から、切り離された存在だったからである。
新憲法では象徴(権威)となったが、新憲法で規定された天皇の象徴性は、国民の統合であって、国体と明記されていない。
わたしが、憲法を改正して、天皇の条項、および、皇室典範を憲法から外すべきと思うのは、国体が、法や政体の下位におかれると、文化や歴史、国民の幸が、政治権力の下にきてしまい、危険きわまりないからである。
古来にはじまり、武家政治の中世から江戸末期まで、天皇の権威は、国体の象徴としてであって、国体の根拠は、政治力や軍事力ではなく、歴史や文化、なによりも、民の幸せと国家の繁栄におかれている。
国体には、国家の安泰と民の幸という神々の祈りが、すでに、封じ込まれているのである。
お天道様のもとで、人々が、八百万の神々とともに、生産や繁殖に励むことをめざしているのが、神道のもとにある日本の国体で、そのため、天皇は、皇居内で年間三十回にもおよぶ祭}、多くの国事行為をおこなっている。
権力が、国体をまもるということは、国家・国民をまもることで、その規範から外れることがないよう、権力を監視するのが、権威=天皇である。
天皇が国体の象徴、というのは、そういう意味合いからである。
次回は、権力構造という視点から、もういちど、明治維新を見直してみよう。
二年以上前のことですが「天皇問題」読ませていただき、今でも私の天皇観の根本を為しております。
そこで質問なんですが、昨今盛んになっている鎌倉幕府成立年の議論ですが、先生はこの議論についてどうお考えなんでしょうか。
私は、成立年を1192年から1185年に変えるのは「天皇の権威が無くても日本を支配できる。」と言っているのと同じことだと思うんですがどう思いますか。
この議論は天皇解体を目論む左翼の陰謀だと思っているのですが・・・