2008年04月21日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(18)

 ●楠木正成と西郷隆盛がめざしたもの
 右翼という名称は、フランス革命時、議長席の右方に、王政派やファシスト党が席を占めたことに由来する。
 革命派や改革派が左翼とよばれるのも同様で、議席が、議長席の左方に位置していたからである。
 ヨーロッパの場合、イデオロギーによって、右と左が分かたれる。
 だが、日本では、事情が異なる。左が社会主義やマルクス主義でも、右は、かならずしも、イデオロギーに縛られているわけではないからである。
 戦前や戦中、右翼といえば、国家主義のことで、その国家主義にも、北一輝や大川周明の国家社会主義から、頭山満が率いる玄洋社などの大アジア主義、それに、国粋主義という三つの流れがあり、それぞれ、別個に活動をおこなっていた。
 なかでも、異色だったのが、天皇を戴いた革命運動の国家社会主義で、イデオロギーとしては、右翼より、むしろ、左翼に近かった。
 国家社会主義は、2・26事件で壊滅するが、東条英機の「統制経済」や「国家総動員法」も、一種の官僚社会主義で、戦後、この全体主義が、そっくり、ひきつがれて、現在の永田町・霞ヶ関体制になったことに、多くのひとは、気がついていない。
 頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの大アジア主義は、孫文らとむすんで、アジア解放という大戦略を立てた。だが、政府の協力がえられず、結局、これも、途中で挫折を余儀なくされた。
 残ったのが、国粋主義で、これが、現在の右翼へ、細い糸で、つながっている。
 国粋主義にたいして、マスコミは、「狂信的」という形容詞をつけたがるが、国の歴史や文化、習俗、伝統を保守しようとする考えは、本来、自然にして、常識的なもので、どこの国も、国家の中心に"国粋"というスピリットをすえている。
 孝明天皇は、国粋主義者であらせられ、尊皇攘夷も、もとをただせば、国粋主義である。
 幕末から明治維新にかけての闘争は、佐幕と勤皇、開国と攘夷、公武合体と倒幕、文明開化と士族の反抗と、すべて、国粋主義をめぐって生じたといってよいが、結局、勝ったのは、開明派だった。
 西洋文明の移植という方法で、近代化をめざした明治政府にとって、国粋主義は、国策を妨害する邪魔者で、是が非でも、取り除かなければならない目の上のコブだった。
 だが、国粋主義がめざすところは、「歴史の連続性」にあり、この国粋主義が排除されると、歴史が断絶して、やがて、国家は、求心力を失って、ばらばらになる。
 日本は、戦後、アメリカ民主主義とソ連のマルクス主義をうけいれて、事実上の文化的植民地となった。明治維新につづき、ふたたび、歴史の断絶をおこなったわけだが、その結果、日本は、国家中枢を官僚と反日勢力が握る、外国のような国になってしまった。
 皇室典範を改悪しようという有識者会議の議長が、伝統や歴史などカンケーないと言い放って、どこからも批判が出ないような国が、はたして、本来の日本のすがたといえるであろうか。
 さて。歴史上、「歴史の連続性」という思想に殉じた大人物が、二人、いる。
 楠木正成と西郷隆盛である。
 この二人には、いくつか、共通点がある。
 一つは、二人が旗印に掲げた銘に、いずれも「天」の文字があることである。
「敬天愛人(あいしん)」(西郷隆盛)
「非理法権天」(楠木正成)
 儒教における天も、高天原の天も、一過性の地上の価値や出来事をこえている。
 天は、永遠という「歴史の連続性」を暗示しているのである。
 そういう観点に立つと、二人の行動の謎が、徐々にとけてくる。
 二つ目の共通点は、敢えて、決戦と敗死をえらんだことである。
 歴史という長いスパンで見ると、妥協して、いっとき、生きながらえるより、大義(歴史の連続性・国体護持)ために散るほうが、はるかに大きな価値がある。
 たとえ、国が方向を誤っても、それを正そうとしたじぶんが、どのような思想に立って、戦場で散ったか。それが、後世につたわれば、日本は、ふたたび、天道へもどれる、という希望と確信が二人を死地へむかわせたのではないか、というふうに、わたしは、考えている。
 正成は、後醍醐天皇へ、足利尊氏との和睦を進言している。天皇が尊氏を許して、尊氏を征夷大将軍に任じれば、天皇親政・律令体制の復古はならなくとも、歴史の連続性は、まもられる。
 だが、正成の真意を理解できない後醍醐天皇のとりまきの公卿らは、正成を嘲っただけだった。
 そのあと、正成は、わずか7百騎を率いて、湊川で、数十万の尊氏大軍勢とたたかって散るが、このとき、「七生報国」ということばを残している。
 七回生まれかわる七生は、個人や地上の出来事をこえた、歴史のことにほかならない。
 そして、国というのは、政権を手にした幕府=権力ではなく、天皇=国体である。
 正成の天皇に対する忠は、個人崇拝ではなく、国体護持という歴史の連続性へのつよい意思のあらわれで、それが、国粋主義の本質といってよい。
 西郷隆盛も、西南戦争のさなか、山県有朋の自刃勧告にたいして、堂々たる決起の大義を書き送り、味方には――
「一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候也」
 と檄をとばした。
 安堵というのは、歴史が、われわれの正しさを証明するであろうから、安心しろという意味である。
 江戸城の無血開城、朝鮮の平和外交(武力による征韓論は板垣退助の意見で、西郷は、みずから使者に立つという外交路線を主張した)など、徹頭徹尾、流血を避けてきた西郷が、西南の役で、徹底抗戦をえらんだ理由が、これである。
 政府が、日本の西洋化というまちがったみちをえらび、その誤りに気づかぬまま滅びるより、われわれが、ここで政府軍とたたかって、歴史に敢闘の足跡を残せば、いつか日本は、その過ちに気づくであろうというのである。
 西郷の心根をもっともよく知る勝海舟は「西郷さんは、じぶんの思想を歴史にゆだねた」と評したが、江藤淳も、『南洲残影』にこう書いている。
 明治維新の目的は、無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。
 ところが天子をいただく明治政府は、何をなしたか。
 みずからすすんで、西洋を真似て、無道の国への道を歩みはじめているではないか。
 国家をまもらんとした西郷が、なぜ、国家を代表する政府に叛旗を翻したか。
 国家とは――その時代に存在している政府や国民だけのものではないからである。
 過去、現在、未来と連綿とつづく垂直的なるもの(歴史の連続性)、それこそが、西郷のまもらんとした国家であった。
 明治政府は、垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。
 歴史を切断する勢力とは、断固として、たたかわねばならない。
 これが、西郷の思いではなかったろうか。(大意)
 日本の右翼が、政治闘争を志向せず、政権をめざさないのは、もとめ、まもるべきものが、国体=歴史の連続性にあるからで、そこが、政権をめぐって、権力闘争へ走るヨーロッパの右翼と異なる。
 わたしは、右翼と称する人々が、政治問題を語るのをにがにがしく思っている。右翼が目をむけるべきは、歴史の連続性であって、政治という一過性の問題は、政治家と選挙民に、まかせておき、政治家が、国を売るような誤りを犯したら、そのときは黙って、その過ちを贖わせればよいのである。
 次回は、右翼の在り方について、思うところをのべよう。


posted by 山本峯章 at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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