●文化大革命だった公職追放指令
日本が伝統国家であることを誇りに思っている日本人は、少数派だろう。
それどころか、国民の大半が、天皇や国体、祭祀などの国家的伝統に無関心なのが現状ではあるまいか。
戦後、GHQが国史や国教、言語、法体系を破壊しようとしたのは、戦勝国の常套的なふるまいで、これには世界史上、多くの前例がある。
国字のローマ字化は、識字率が欧米をはるかにこえていたので実行されることがなく、神道指令も、ブルーノ・ビッター神父(駐日ローマ法王代表バチカン公使代理)の反対によって、靖国神社が焼却を免れ、指令自体も昭和27年の講和条約によって失効した。
しかし、国史と諸法の変更(新憲法施行など)は「ポツダム宣言」違反だったにもかかわらず、何の抵抗もうけず実行に移され、講和条約締結後も、日本を縛りつづけている。
その背後ではたらいたのが公職追放指令(昭和22年)というGHQの悪智恵だった。
20万人以上が対象になった同指令は、大学や学会、教育分野、マスコミから保守層を一掃して、左派勢力や共産党の党員・シンパに入れ替える文化革命の役割をはたした。
GHQの亡国作戦をひきついだのが、東大・朝日・岩波を拠点に日本の左傾化をおしすすめた進歩的文化人や革新官僚、インテリ左翼だった。
やり方は巧妙で、宗教法人法には神道指令の効力を温存させ、GHQ憲法には平和憲法、9条には平和主義の理論付けをおこなって、占領基本法の恒久化をはかった。
●悪の根源とされた国史=皇国史観
熾烈をきわめたのが国史の否定で、エリート左翼らが皇国史観の排除に血道を上げたのは「歴史を失った民族は滅びる(トインビー)」の指摘が核心をついていたからで、かれらには、国史の抹殺が、レーニンの敗戦革命とGHQの亡国戦略に並ぶ重大テーゼだったのである。
戦後、皇国史観を悪の根源としてきた歳月が70年をこえ、高齢者までが皇国史観と聞いただけで眉をひそめる風潮になった。
皇国史観のもとで戦争計画が練られたというのが理由だが、これは、共産党のプロパガンダで、延長線上に、天皇のもとで戦争がおこなわれたという論理が用意されている。
天皇や皇国史観が戦争に利用されたというのなら、批判されるべきは、軍部と天皇を憲法上の元首・大元帥に戴いた明治憲法であって、天皇や皇国史観ではなかったはずである。
だが、どこからも、国史=皇国史観を悪の根源としてきた左翼のデマゴギーを打ち破る正論がでてこず、国史の正統性をうったえる論客も出現しなかった。
戦後、産経新聞でさえ社説で「戦前の皇国史観への回帰を目指すのは論外」とのべるほど「皇国史観=悪」の刷り込みがいきわたった結果、歴史を喪失した国は滅びるというトインビー的危機が、戦後から現在まで延々とひきずられてきた。
●民主主義神話と「国民の常識」
絶対悪の皇国史観の対極におかれたのが唯物史観と民主主義だった。
民主主義は、闘争史観の産物で、左派が人民民主主義(共産主義)へ、右派が議会民主義(共和主義)へと枝分かれしたが、根っこは同じである。
その中間にあったのが、ナチスの国家社会主義ドイツ労働者党で、ヒトラーが独裁者になったのは、普通選挙法と民主主義的な手続きによるものだった。
戦後の日本人は、民主主義を絶対真理として、崇めてやまない。
マスコミや言論界、教育界らが民主主義を人類至上の真実として吹聴してきたからで、共産党が見抜いたように、国民は無知で愚かだったのである。
左翼が民主主義をもちあげてきたのは、いつでも、人民独裁へ変更できるからで、日本共産党が暴力 革命から議会内革命に路線を変更した理由もそこにある。
妨害になるのは、多数決でどうにでもなる議会などの政体ではなく、多数決が通用しない国体という歴史的な文化構造である。
戦後、革命攻勢を防いできたのは、支配階級でもインテリ層でもなく、敗戦の痛手に苦しみながら、終戦直後のアンケートで、90パーセント以上が天皇を支持した一般国民だった。
国体を支えているのは、政治やイデオロギーではなく、「国民の常識」だったところに天皇問題の本質があるだろう。
文化防衛の要は「国民の常識」にあり、左翼・反日の標的がその破壊にあったのは言うを俟たない。
「天皇の日本史(上下巻)」「天皇問題」などいくつか天皇に関する著作があることから、講演や勉強会などで、天皇について、多くの質問をいただく。
本ブログでも、多くの方々から、ご意見や質問が寄せられている。
そのなかから、「国民の常識」にふさわしい応答をえらんで列記してみよう。
誌面に限りがあるので、要点だけになるが、ご容赦をねがいたい。
1、国民主権と天皇主権
明治憲法に主権の文字はなく、天皇主権は、戦後、国民主権に合わせてつくりだされた造語である。
主権(ソブリンティ)は、ヨーロッパの絶対王権(君主権)のことである。
君主を倒したのち、君主権が国民の手に移ったという解釈から国民主権という観念がうまれたが、国民は国家を運営できないので、これが国家に委託されて国家主権となった。
国民主権は、国家主権を正統化する便法にすぎず、実体があるわけではない。
もともと、日本には、主権という概念はなく、最高権力である幕府も朝廷から施政権をあずかっただけである。
君民一体において、天皇主権があったというなら、事実上、国民主権のことであって、戦後、主権が天皇から国民に移ったという事実はなく、わが国にはそのような後付けの理屈が成り立つ風土がない。
終戦直後のアンケートで、90パーセントもの日本人が天皇を支持し、国民の大半が、戦犯釈放の署名をおこなったのは、日本が、君民一体・臣民一体の国だったからで、日本人のだれも、主権などという外来語には無関心だったのである。
2、万世一系と天皇家
万世一系は、神武天皇以来の男系血統で、これを木の幹にたとえると、天皇家は枝の一つで、戦後、臣籍降下された11家系もそれぞれ枝である。
歴史上、皇統が絶えることがなかったのは、一本の枝で男系が絶えると元の幹に戻って、新たな枝から男系相続をもとめたからである。
26代継体天皇は、25代武烈天皇に男子がなかったため、別の枝(応神天皇系5世)から天皇に就いたが、このとき、仲哀天皇系(5世倭彦王)という選択肢もあった。
南北朝の両統迭立は、89代後深草天皇(持明院統)と90代亀山天皇(大覚寺統)の父親が88代後嵯峨天皇なので、どちらが皇位についても男系継承(万世一系)は途切れない。
女系継承の場合、女帝の皇子が皇位に就くと、天皇の血統が、別の幹に移るので、万世一系が途切れる。
皇室の永続性には、旧皇族の皇籍復帰の道しか残されていないが、自民党までも皇室=天皇家に拘泥して、女系天皇をいいだす始末である。
天皇家と皇室、万世一系のちがいをわきまえなければ、久遠なる国体の護持は不可能なのである。
3、皇国史観と教科書日本史
国史を皇国史観として排除してきたところにわが国の歴史観の異様さがある。
皇国史観とは、『日本書紀』『古事記』から北畠親房の『神皇正統記』、頼山陽の『日本外史』、徳川光圀の『大日本史』、神話にいたる国史のすべてをふくむ。
皇国史観排除の音頭をとったのが東大(歴史学研究会)と京大(日本史研究会)のマルクス学者らで、そこから自虐史観という世界の非常識≠ェ一世を風靡して、謝罪談話や土下座外交へつながっていった。
左翼陣営が国史を目の敵にしてきたのは、民主主義戦争革命を完遂しようというマルクス主義者にとって、伝統=国史が最大の攻略目標だったからである。
戦後、国史否定論が過激になったのには、2つの理由がある。
一つは共産主義革命で、もう一つは大東亜戦争の敗戦である。
大東亜戦争は、事実上、伝統(皇国思想)と革命(民主主義)の戦争だった。
民主主義は、革命と戦争のスローガンで、フランス革命やロシア革命、アメリカ独立戦争、中国革命、米ソが手をむすんだ第二次世界大戦まで、謳われたのは、革命と同様、伝統的体制の打倒だった。
世界を戦争に駆り立て、暴力革命をおこし、延べ数億人もの犠牲者をだしたのは、原爆で大東亜共栄圏思想を打ち砕いた民主主義という革命思想だったのである。
日本は戦争に負けたが、伝統的体制を維持して、現在に至っている。
皇国史観否定と民主主義賛美は、革命と戦争の燃えカスなのである。
4、象徴天皇と天皇元首
マッカーサーが象徴ということばをもちいたのは、イギリス国王を英連邦の象徴と規定したウェストミンスター憲章(1931年)に倣ったものと思われる。
イギリス国王は、名誉革命によって政治的実権を失い、首相の指名権などの儀礼的・形式的な権限をもつにすぎない非政治的な存在になった。
それが「君臨すれども統治せず」の立憲君主制で、国王が国家の象徴となる近代王制のモデルとなった。
日本で、中世以降、天皇が政治的権力をもたなかったのは、それまで、一体だった権威(祭祀王)と権力(大王)が分化したためで、権力が一元化されていたヨーロッパの王制とは根本的な原理が異なる。
自民党の改憲案に「天皇元首」が謳われている。
歴史をふり返って、天皇が政治権力をもったのは、天武天皇が最後で、のちは摂政や院政、建武の新政などの揺り戻しがあったものの、権威(天皇)と権力(幕府)の二元構造によって、千年の秩序がたもたれてきた。
天皇元首は、明治政府が権力の絶対化をはかった工作で、戊辰戦争から日清・日露戦争、大東亜戦争の遂行には、天皇の権威を権力へとりこむ必要があった。
それが、1945年の国体の危機につながった。
マッカーサーの判断で日本は亡国を免れて、天皇は象徴となられたが、天皇はもともと非政治的な存在で、ヨーロッパは国家、日本は国体というちがいはあるものの、古来、象徴であった。
国体の象徴として、国民の敬愛、世界の尊敬を一身にうけている天皇を憲法という権力構造の枠内におさめようという愚論が、与党の改憲案に盛られていることに驚愕するのである。
5、宮中祭祀と伝統国家
当初、GHQやアメリカ国務省は、占領政策を施行するにあたって、天皇廃位の方針で臨んだ。
それを防いだのが昭和天皇のマッカーサー訪問と、日本国民の90%が天皇を支持したアンケート結果で、これを契機に、GHQは、天皇を日本統治に利用する方向へ舵を切った。
GHQの民主化計画は、革命憲法をおしつけ、天皇を廃止することに主眼があった。
それが、旧皇室典範の破棄(憲法への繰り込み)と皇室の自然消滅を図った11宮家の臣籍降下で、宮中祭祀が国事行為から外されたのは、GHQの意図を読んだ法官僚らの迎合で、宮中祭祀が私的な宗教行事にされてしまった。
神話や言語、習俗や文化を共有する共同体の象徴が祭祀で、古来より、日本人は、祭祀をとおしてクニという観念を育み、まもってきた。
天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈る宮中祭祀は、神社で豊作や無事息災を祈る民の祈願とつうじあって、国体という祭祀共同体の背骨となって、現在、日本を伝統国家あらしめている。
憲法7条10号(国事行為/儀式を行ふこと)に宮中祭祀を謳って、日本が祭祀国家であることを内外に宣する必要があるだろう。
6、信教の自由と政教分離
憲法の「信教の自由」「政教分離」は、GHQが国教である神道を標的にしたもので、個人の自由の範疇にある宗教条項に「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法第20条3項)「(宗教活動にたいする)公の財産の支出や利用の制限」(第89条)とあるのは、人権条項を超えた国政権への干渉にほかならない。
皇室の財産を取り上げ、重税をかけ、国庫や政治的な補助を断とうとしたのは、旧皇室典範の破棄や11宮家の臣籍降下と同様、皇室の自然消滅を目的とした計略で、憲法改正案には、当然、第20条3項と第89条の撤回、宮家の皇籍復帰が盛り込まれていなければならない。
アメリカでも信教の自由や政教分離原則が憲法で保障されているが、これは、内輪もめが絶えないキリスト教会派の法的平等を約束したもので、キリスト教は見えない国教≠ニして国民的良心や道徳の土台になっている。
キリスト教の見えない国教≠ヘ、信教の自由を保障していた明治憲法下で、神道が仏教やキリスト教などと異なる国民道徳や民族文化とされてきたことと同じ構造である。
現在、信教の自由は、仏教やキリスト教信者、反日主義者による見えない国教=神道と国体≠ヨの攻撃に利用されているだけある。
アメリカで、国民性の拠り所となっているゴッドや聖書を憲法違反としたら暴動がおきるだろう。