2014年12月04日

 国家と国体(月刊ベルダ12月号から転載)

 今月(12月号)から月刊ベルダ(Verdad)の連載がはじまった。
 以下、転載させていただく。

 国家と国体 
 本島等元長崎市長が亡くなられた。
 新聞報道の小見出しに「90年に右翼から銃撃」とある。
 わたしの手許に、その本島さんからいただいた手紙がある。
「先般来の私の発言については、たいへん御心配をおかけし、尚、ご高配を賜り、深く感謝申し上げます。実は、このことは、故児玉誉士夫先生が、丸山邦夫著『天皇観の戦後史』の中で申されたり、自民党参議院議員林健太郎氏(東大名誉教授)が昨年文藝春秋十二月号で申されますように、天皇の戦争責任について、私も同じ趣旨を申し上げたわけでありました」
 文中、御心配云々とあるのは、わたしが、本島発言に反発した右翼団体「正氣塾」塾長の若島征四郎氏と本島氏がおこなう予定だった会談の立会人をひきうけたからだった。
 本島氏が、福岡市でおこなう予定だった会談を断ってこられたのは、周辺や支持者(旧社会党)らが反対したからで、正氣塾の田尻和美から銃撃をうけたのは、わたしがこの手紙をうけとったのちのことである。
 天皇の戦争責任は、微妙な問題で、天皇が国体の象徴であるかぎり、天皇に戦争責任はなく、問うこともできないが、国家元首および大元帥として、軍服を召された以上、そう言い切ることもむずかしい。
 軍部が担いだお神輿にのせられただけといっても、宣戦の詔勅に署名され、終戦の御聖断も、天皇の御意思だった。
 わたしは、予定されていた会談で、若島塾長と天皇の戦争責任や原爆投下は当然などの発言をくり返す本島氏のお二人をたしなめる心積もりだった。

 天皇の戦争責任については、林房雄氏の「われわれは有罪である。天皇とともに有罪である」(『大東亜戦争肯定論』/昭和39年)ということばで決着がついている。
 国民が天皇とともに、敗戦の不利益をひきうけることによって、戦争責任という戦勝国の言いがかりは根拠を失い、法的にも、負けた国だけに戦争責任があるという理屈はとおらない。
 天皇の戦争責任ついては、南京大虐殺や731部隊のデマを妄信して、旧日本軍にたいして憎悪をつのらせた本島個人の発言より、天皇を元首に据え、統帥権をゆだねた大日本帝国憲法(明治憲法)のほうに大きな問題があっただろう。
 ポツダム宣言の受諾が遅れて、原爆投下という悲劇を招いたのは、同宣言に国体護持の確約がなかったからで、天皇が国家元首ではなく、軍服を召されていなかったら、そんな心配は無用だったはずである。
 英仏蘭豪が、天皇の処罰をもとめ、国体に危機が生じたのは、国体と政体が分離されていたわが国の伝統を破壊した明治憲法の欠陥に原因があったのである。
 薩長が、天皇を元首に祭り上げたのは、天下取りの戦略で、かれらは、天皇を玉(ギョク)と称して、「ギョクをとれ」を倒幕クーデターの合言葉にした。
 明治憲法が、プロイセン(ドイツ)憲法を下敷きにしたのは、天皇を元首と定めて、内閣や首相の行政権を制限するためで、軍部が暴走したのは、内閣や首相が無力で、「陸海軍は天皇に直属する」という規定があったからである。
 明治憲法は、天皇をとりこめば、かんたんに軍部独裁体制ができてしまう仕組みだったのである。

 気になるのは、自民党の日本国憲法改正草案(平成二十四年四月二十七日)で、第一章「天皇」第一条が、現行の「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」のうちの日本国の象徴≠ェ日本国の元首≠ノとりかえられていることである。
 第一条の問題点は、国家のものである主権(君主権/独立権)を日本国民の総意においている点であって、日本は、1000年以上昔から、天皇を日本国の象徴としてきた。
むしろ、天皇を元首とすることのほうが異様で、それでは、国体とは何かという話になってくる。
自民党の憲法改正草案は、文化や歴史、民族性などの無形なものにささえられている国体と機能としての政体を区別せず、天皇=権威、幕府=権力というわが国の伝統を破壊した明治憲法の欠陥を踏襲しているのである。
 天皇が元首だったのは、飛鳥・奈良時代までで、天皇の権力を取り返そうとしたのが、失敗に終わった後醍醐天皇の建武の中興だった。
 朝廷(権威)と権力(執権・幕府)が分離されたのは、官制が整えられはじめた天武天皇あたりからで、平安京をひらいた桓武天皇以降、政治の実権は、天皇から官僚(行政官)、さらには、平氏源氏、鎌倉幕府など、武家集団へひきつがれてゆく。
 権威と権力の二元論的体制は、平安時代の摂関政治から江戸時代の武家政治まで、1000年以上つづき、それが、国体という国家の文化的な基礎をつくりあげた。
平清盛や源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら数々の武将が政権を握ったが、だれ一人、天皇にとって代わろうとした者はなかった。
 政権は、明治政府をふくめて、たびたび、代わったが、天皇は万世一系で、日本という国は、天皇のもとで、千古不易の伝統国家たりえている。
 政体は一過性のものだが、国体は、いわば永遠で、明治維新や敗戦、GHQ支配という大変動がありながら、日本が日本たりえているのは、国体があったからである。
 日本は、江戸幕府や明治政府、自民党や民主党の日本ではなく、天皇の国なのである。
 その天皇を時の権力にすぎない政体のトップ(元首)に戴こうというのは、見当ちがいといわざるをえない。
 政権は、国家のリーダにふさわしい者を元首に立て、国体に忠誠を誓うべきであろう。

 右翼陣営でも国体と政体の区別がつかず、政治問題に首をつっこむ者が少なくないが、右翼がまもるべきは、天皇(国体)であって、政治家や官僚の責に帰すべき政策にくちばしをいれることではない。
天皇は、日々、国民の平安と国家の繫栄を祈っておられる。
 権力が、権威の祈りに沿うて、挺身することが政治で、政体は、国体の下位にある。
天皇を法や政治のカテゴリーとりこむのは、いかなる形でも、天皇の政治利用で、権力は、権力の前でいずまいを正すより、とりこんで、権力の補強にもちいたがる。
 日本の国の形が歪むのは、国体がないがしろにされたときで、建武の中興が失敗に終わって、権威が地に堕ちた足利時代から応仁の乱、戦国時代にわたる数百年は、日本においても、暗黒の中世となった。
 右翼の鑑とされる楠木正成は、湊川の決戦で、「七生報国」を誓って散華した。
 正成が殉じたのは、時の政権ではなく、国体であった。
 国体をまもるという一途な情熱が、右翼の本懐で、たとえそれが、権力にとって恐怖であろうと、それ以外に、右翼の存在価値はない。
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2010年12月21日

 天皇と日本の歴史C

 ●国体なきところに国家の誇りはない
 最近の日本人や戦後育ちの政治家から、日本人としての誇りが欠けているのは、国体意識が乏しいからではないか。
 日本の国体は、神話と神道、天皇の三つからなっている。
 この三つが、日本の文化や習俗、日本人の心の源泉で、それが、国柄である。
 一方、政体は、政治形態のことで、現在、日本は、議会民主主義や自由主義をとっている。
 この二つが合わさったのが、日本という国家である。
 国体と政体は、権威と権力、歴史(時間)と国土(空間)、文化と国力の関係でもあって、この二者は、いわば、心と体である。
 愛国心や国にたいする誇り、というときの国は、政体ではなく、国体をさす。
 日本人が愛し、誇りに思う対象は、歴史や文化、国民性などの国体、国柄であって、西洋から移入した民主主義や自由主義ではない。
 ところが、現在、政体にすぎない民主主義ばかりがもてはやされる。
「日本は世界に冠たる民主主義国家」「世界に誇るべき憲法」などという言説がその代表だろう。
 憲法や民主主義は、ただの法則で、敬意や愛、誇り、親しみの対象ではない。
 日本人が、誇りや愛国心を失ったのは、国体という観念が遠ざけられたためで、国体なきところに、祖国愛や民族の誇りは育たない。
 かつて、教科書に神話が載り、書店に神話の絵本が並び、どこの家にも神棚があった。
 だが、いまは、教育の場から神話が一掃されて、神棚を飾っている家もすくなくなった。
 神話や神道がなし崩しになってゆくなかで、日本人の心性が失われてゆく。
 民主主義や自由主義は、日本的良識の代替品にすぎず、外国からとりこんだ思想をいくら有り難がったところで、日本人の心がゆたかになるはずがない。

 ●神話につちかわれた日本人の心性
 日本の文化や国のかたち、国柄、日本人の心は、神話や神道を源にしている。
 鎮守の森(神社)は、同じ守り神をお参りすることによって近隣の人々との親和感をつくりだす日本特有の思想(産土/うぶすな)で、かつて、日本には「向こう三軒両隣」という美風があった。
 守り神は、産土神ともいい、氏神や祖霊のことである。
 神道では、霊魂が不滅なので、死したのち、守り神となって、一族や土地の人々をみまもる。
 若いひとももつ神社の御守りも、産土思想のあらわれで、これも、もとをただせば、祖霊信仰である。
 ちなみに、個人主義とカルマ(業)の仏教に、祖霊という考え方はない。
 仏教の位牌は、神道の祖霊神を借りた“神仏習合”の一つで、仏教にも、先祖を敬う神道と産土の精神が流れていたのである。
 産土思想は、神話や天皇と深いかかわりがある。
 神道では、神話を介して、この世と高天原がつながっている。
 その神話が、現在に生きているのが、万世一系の天皇である。
 天皇の祖霊は、神武天皇で、天孫降臨のニニギノミコト(邇邇杵命)の曾孫にあたる。
 産土神というのは、肉体から離れて、高天原に還った霊魂である。 
 天皇の祖霊と日本人の祖霊は、高天原で、むすびつく。
 それが、天皇を中心とした産土思想で、森林が国土の70パーセントを占める日本という国土が、鎮守の森なのである。
 この世と高天原がつながっているのが、日本の神話の最大の特徴で、そこにこそ、日本的精神の根幹がある。
 キリスト教などの他宗教には、祖神や氏神という考え方も、死して産土神になるという思想もない。
 信仰が、個人と絶対神の契約なので、先祖も縁者もなく、しかも、あの世とこの世が断絶しているため、死は、この世からの消滅以外の何ものでもないということになる。
 ここから、現世利益の個人主義やエゴイズムがでくるわけで、個人や自我というのは、一神教・絶対神の観念なのである。

 ●神話が教える生きる知恵
 神道では、死は、肉体から霊魂が離れることなので、この世に残るのは、死体だけということになる。
 神道が忌むのは、この世に残った死体、とりわけ、死体にたいする未練で、霊が高天原に還って、産土神になる死そのものは、一つの摂理にすぎない。
 この摂理をあらわしたのが、死んだ妻のイザナミを探しに黄泉の国へ赴いたイザナギの物語である。
 イザナミは、変わり果てた姿になったじぶんを見ないように、イザナギに懇願する。
 だが、イザナギは、タブーを犯して、イザナミの死体を見てしまう。
 そして、おそれおののいて、黄泉の国から逃げ帰る。
 死霊の追撃を逃れたイザナギは、黄泉のケガレを浄めるべく、禊をする。
 このとき、うまれたのが、天照大神(日の神)と月夜見尊(月の神)、素戔嗚尊(海の神)である。
 この神話が教えるところは、死についてのタブーと生にたいする叡智である。
 死は、霊に還ることなので、死体にとりすがって悲しむのは、ケガレとなる。
 そして、そのケガレを浄めることによって、再生産のエネルギーが復活する。
 この死生観は、武士道にも反映されて、肉体より魂を大事にする日本人独特の精神がかたちづくられた。
 日本神話には、絶対神がいないばかりか、天照大御神とスサノオノミコトとの姉弟喧嘩や岩戸隠れ、大国主命の国譲りなど、他国の神話にはみあたらない人間的な物語ばかりで、しかも、日本人の価値観や生きる上で大事なことが巧みに語られている。
 神話を読み解くことで、日本人の心の背骨となっている神道や国体の象徴である天皇のすがたが、よりいっそう、明らかになるのではないか――。
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2010年11月12日

 天皇と日本の歴史B

 ●日本人はどこからきたのかという愚問
 古代の東アジア情勢について、誤解や曲解がまかりとおっている。
 代表的なものが、小沢一郎がいう「騎馬民族征服王朝説」や多くの日本人が信じこんでいる「弥生人大陸渡来説」で、いずれも、日本人や天皇が、朝鮮半島から渡ってきたという話になっている。
 だが、日本列島が大陸とつながっていた有史以前(氷河期・旧石器時代)から縄文・弥生、古墳時代まで、日本列島と朝鮮半島、大陸沿岸部には人種的な隔たりがなく、かれらはすべて、現在の用語でいう古モンゴロイド(アイヌ・南洋人・エスキモー・インディアンをふくむ環太平洋人)の一族だった。
 地形的にも、日本列島は、ユーラシア大陸東岸部(沿岸)で、対馬や済州島とともに、大陸の一部(のちに離島)であった。
 日本人はどこから来たのか――という設問をよく耳にするが、まったくの愚問で、日本人は、もともと、東アジアの一部だった日本列島に住んでいたのである。
 その証拠が、青森県の大平山T遺跡(1万6千年前)や茨城県後野遺跡から発見された無文土器で、佐賀県吉野ヶ里遺跡では、縄文・弥生時代の集落跡が保存されている。
 そのころ、朝鮮半島は、中国の一部(遠隔地)にすぎず、むろん、吉野ヶ里のような、古代人のゆたかな暮らしを裏付ける遺跡は発見されていない。
 どんな地域でも、経済的・文化的ゆたかさは、海に近い場所から生じるもので、日本列島は、ユーラシア東岸のなかで、もっともゆたかで文化がすすんだ沿岸部だったのである。

 ●現在とは異なる古代の東アジア情勢
 朝鮮半島で、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)時代をへて、国家が誕生するのは、日本の古墳時代(大和朝廷)に下ってからである。
 小沢一郎は、韓国の講演で、日本と南朝鮮(伽耶・百済・新羅)が、通訳なしで交渉しえたのは、日本が朝鮮の属国だったからと断じたが、とんでもない妄想である。
 日本が伽耶(任那/日本の行政府/弁韓)や百済(馬韓)、新羅(辰韓)と数百年にわたって交易・文化交流をおこなうことができたのは、同じ民族(古モンゴロイド)だったのにくわえ、朝鮮半島が、東アジアに一部という歴史的・地政学的な事情があったからで、東アジアの人種は、共通の言語をもっていた可能性がある。
 東アジアへ、中央アジア系のモンゴロイド(匈奴の一族)が侵入してきて、朝鮮半島で大動乱がおきる。
 現在の韓国、北朝鮮の祖である高句麗の騎馬軍団が怒涛のようにおしよせてきて、新羅や百済をおびやかすのである。
 このとき、ジェノサイド(民族皆殺し)が発生して、多くの百済人が、済州島や対馬、日本列島に逃げこんだ。
 高句麗は、百済・新羅をのみこんで、やがて、朝鮮半島は、高句麗の英語読みであるコリアとなる。
 ちなみに、高句麗が朝鮮半島を手中にするのは、日本・百済連合が、新羅・唐連合に破れた「白村江の戦い(663年)」から250年後のことである。
 長い年月をかけて、千年前、朝鮮半島は、二重まぶたで温厚な古モンゴロイドに代わって、一重まぶたで目の吊り上った中央アジア系モンゴロイドの国となったのである。
 日本の朝鮮渡来説は、現在の韓国・北朝鮮の祖先が日本人の祖先であるかのようにいうものだが、日本人と現在の韓国・朝鮮人では、そもそも、血の源流が異なっていたのである。

 ●日本人の祖先は環太平洋モンゴロイド
 遺伝子調査によると、ユーラシア大陸東沿岸部に住んでいた古モンゴロイドは「YAP+」という遺伝子をもっている。
 現在、この「YAP+」が確認されるのは、中央アジア系アイヌと日本人、チベット人、済州島の一部だけで、モンゴルや朝鮮半島、中国には、皆無である。
 朝鮮や中国の祖は、中央アジアのモンゴロイドで、一方、朝鮮半島から日本へ逃げてきた人々は、日本人と同じ「YAP+」をもった人々だったのである。
 中国のチベット弾圧にくわえて、韓国の済州島にたいする虐殺の歴史、差別にはすさまじいものがあるが、済州島は、もともと、日本領だった伽耶の勢力範囲で、中国の史書にも「倭人の国」とある。
 日本と中・韓の相性がわるいのは<中央アジアモンゴロイド>と<環太平洋モンゴロイド>の相違が原因だったとみるのが、しぜんだろう。
 これらの歴史背景をのみこんでおかなければ「日本人は朝鮮人のおちこぼれ」「天皇は朝鮮からやってきた」という小沢一郎ら反日・親韓主義者のデマゴギーにひっかかることになる。
 雄略天皇の時代、日本は、任那に基地をおいて、百済・新羅をおさえ、高句麗とたたかい、一時は、半島の北西部まで攻め入るが、兵站線がのびすぎて、敗退。以後、任那防衛に専心する。
 下って、継体天皇の時代に、大和朝廷内で、朝鮮出兵がからんだ内乱がおきる。
 新羅から攻められた百済の要請をうけて、大和朝廷が軍を送ろうとした矢先に、九州の磐井が、新羅とつうじて、大和朝廷に叛旗をひるがえすのである。
 この磐井の乱が成功していれば、日本は、大和朝廷に代わって、磐井・新羅連合軍の手に落ちていたかもしれない。
 この事実からも、大和朝廷という連合政権と朝鮮半島の国が、東アジアという地域における群雄割拠だったことがわかるのである。
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2010年11月08日

 天皇と日本の歴史A

 ●権力より権威をおもんじた大和朝廷
 雄略天皇(21代)の没後、清寧天皇(22代/雄略天皇の第三皇子)、顕宗天皇(23代/履中天皇の孫)、仁賢天皇(24代/履中天皇の孫)武烈天皇(25代/仁賢天皇、雄略天皇の皇女の子)と雄略天皇系の天皇が四代つづく。
 だが、いずれも短命で、しかも、継嗣がなかったため、ついに、血統が絶える。
 そこで、大和朝廷内の有力氏族・大伴金村らは、越前に赴いて、武烈天皇と血統の異なる男大迹王(おおどのおおきみ)を大和王権の大王に推戴した。
 大伴らが、越前を治めていた大男迹王を擁立したのは、初代神武天皇以来の血統(男系男子/Y遺伝子)をうけついでいる応神天皇の男系五世だったからである。
 だが、樟葉宮(大阪府枚方市)で即位した継体天皇が、大和の磐余玉穂宮(奈良県)にはいるのは、それから、二十年ものちのことである。
 当時、大和朝廷は、まだ、権力が一本化されておらず、継体天皇を推戴する大伴に対抗する勢力があったからと思われる。
 当時、朝廷内では、物部や中臣、忌部、大伴ら――地方豪族では、吉備、三輪、穂積、葛城、新興の蘇我、九州の磐井らが、各地で威を競い合っていた。
 紀元前の漢書に「百余国に分立」と書かれた状態が、基本的には、この頃まで、つづいていたのであろう。
 だが、記紀などには、これらの国々が存亡をかけてたたかった記録が、それほど、多くない。
 大和朝廷が、権力の正統性を、天照大神の末裔である神武天皇以来の血統にもとめた<権威の構造>だったからである。
 ユーラシア大陸では、戦争と皆殺し、領土の強奪をもって、権力構造をつくりあげた。
 これにたいして、古代日本の権力構造は、神代からつたわる権威の序列が、その土台となった。 
 これは、世界に類のない日本固有の権力機構で、日本人の宗教観や自然観、世界観と切り離して考えることができない。
 古代日本は、神代の国の再来で、大連(おおむらじ)の大伴や物部、忌部、中臣らも、のちに大臣(おおおみ)となる蘇我や葛城、平群、巨勢らの豪族も、高天原の神々を祖先とする。
 天の岩屋にひきこもった天照大神がふたたびすがたをあらわしたのは、アメノウズメの踊りとアメノフトダマとアメノコヤネがさしだした鏡に映ったじぶんの姿に見とれたからである。
 日本書紀によると、鏡を天照大神にさしだすアメノフトダマ(天太玉命)は忌部の祖先で、アメノコヤネ(天児屋命)は、藤原氏の先祖である中臣の祖神である。
 当時の氏族・豪族が、だれ一人として、天皇にとってかわろうとしなかったのは、天皇への叛逆は、天照大神の忠臣・下僕だった祖神を裏切ることになるからだったのである。
 かつて、どんな国も、神話とむすびついた歴史をもっていた。
 だが、敗戦や革命、国の滅亡、キリストなど一神教の支配によって、神話を失い、神話と実史が一体となった歴史をもっている国は、現在、世界のなかで、唯一、日本だけである。
 共産党系の学者は、大和朝廷の豪族・氏族が、ことごとく、高天原の神々を祖先としていることを偽称と主張するが、神話はフィクションなので、偽称も何もあったものではない。
 重要なのは、実史が、記紀などの史料によって、神話とつながっているその一点であって、そのような雄大な連続性を有した歴史をもっていること自体に、誇るべき価値があるのである。
 その神話が、実史に残ったのが<万世一系>である。
 大伴らが、大男迹王を推戴したのは、その神話伝説にのっとったもので、当時、日本は、神話と現実が渾然一体となった、神々とその末裔たちの国だったのである。

 ●前方後円墳の謎
 神話と現実の一体性を象徴しているのが、歴代天皇陵である「前方後円墳」である。
 円形と直線形(四角・三角・台形)が意味するのは<万物=宇宙>である。
 この認識は、古今東西、世界共通のもので、古代日本においては、宇宙のどこかにあると思われていた高天原をさしている。
 天皇は、自身が、高天原の神々の末裔であることをしめすために、天上からも見えるように、地上に、ナスカの地上絵やエジプトのピラミッドに匹敵するスケールの、巨大な前方後円墳を築いたのである。
 これは、わたしの仮説ではあるが、いくつか根拠がある。
 一つは、大和朝廷に対抗した吉備一族や九州の磐井氏が、大和朝廷に服従したのち、前方後円墳の造営をぴたりとやめたことである。
 大和朝廷の系列にくわわったことによって、権威の正統性を主張する必要がなくなったからである。
 二つ目は、高松塚古墳やキトラ古墳の天井に、精密な天文図があったことである。
 これは、死者が天上の高天原へもどって、ふたたび神になるという、日本人の宗教観(古代神道)のあらわれとみてよい。
 現在、天皇陵は、日教組や共産党系の歴史学者らによって、すべて、改称された。

 仁徳天皇陵→大山古墳
 応神天皇陵→誉田山古墳
 履中天皇陵→上石津ミサンザイ古墳
 景行天皇陵→渋谷向山古墳
 神功天皇陵→五社神古墳
 崇神天皇陵→行灯山古墳

「神話とナショナリズムは革命の敵」とする左翼勢力が、日本の歴史から国体の礎となっている天皇を抹消することにやっきになっているわけだが、さらにもう一つ、かれらが戦略的に流布させているのが、天皇の<朝鮮渡来人説>である。
 左翼・反日勢力がいう朝鮮とは、中国東北部から侵入してきた高句麗(Korai=Korea)のことである。
 だが、当時、日本と交流していたのは、大陸沿岸系の百済・新羅であって、かれらは、一部が日本に渡来して日本人になったほか、高句麗に滅ぼされて、現在、朝鮮半島にはいない。
 現在の朝鮮は、百済・新羅をジェノサイド(民族殺戮)したモンゴル系・高句麗の国で、小沢一郎や左翼がいう「天皇の祖先は朝鮮」が、高句麗をさすのであれば、とんでもない歴史誤認である。
 次回は、古墳時代以前にさかのぼって、日本および東アジアの古代史を検証してみよう。

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2010年11月01日

 天皇と日本の歴史@

 ●属国と柵封体制
「属国化(日本の中国への)は、いまはじまったことではない」という仙谷官房長官の真意は、どこにあったのか。
 桃太郎のお伽噺(桃は古代中国の神仙思想で不老長寿の果物)をもちだして、日本文化が、中国に依存していると強弁したところをみると、外務省チャイナスクール並みの中国崇拝主義者で、仙谷のいう「属国化」というのは、おそらく、柵封体制のことであろう。
 日本が柵封体制にくわわったのは、後漢書に「倭奴国王、後漢に遣使」としるされた西暦57年から、雄略天皇(西暦479年崩御)までの四百年余だが、柵封と属国は、別物である。
 柵封は、いまでいう安全保障条約で、当時、東アジアでは、柵封体制からの離脱と戦争が、表裏の関係にあった。
 古代の東アジアは、一種の国際紛争地帯で、分裂状態にあった中国と朝鮮半島、日本が、くんずほぐれつの領土争いをくり広げていた。
 日本(倭)は、391年に、新羅・百済軍を破ってのち、663年、白村江の戦いで大和朝廷の水軍が唐に敗れるまで、朝鮮南部に権益を有していた。
 柵封体制は、日本が朝鮮半島の権益をまもるための戦略的条約で、柵封体制内で、大和朝廷が成立したのも、国家を樹立するには、柵封という安保条約が必要だったからである。
 ところが、戦後の自虐史観では、柵封体制が、あたかも、属国関係であるかのように語られる。
 日本が柵封体制から完全に離脱したのは、聖徳太子が隋の皇帝に「日の出づる処の天子」と謳った親書を送った607年で、翌608年、隋に派遣された小野妹子は「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す」としたためた国書を携えた。
 このとき、隋の煬帝が激怒したのは、日本が中国と対等の立場にあることをあらわす天子・天皇の文字があったからだった。
 日本は、柵封という安保条約を利用したが、周辺諸国を東夷・西戎・北狄・南蛮と見る「中華思想」に与することも、中国を宗主国とする「華夷秩序」につらなることもなかったのである。

 ●柵封体制からうまれた大和朝廷
 戦後、皇国史観の排除によって、天皇が、歴史書からすがたを消した。
 そのため、歴史から、日本の国体や日本特有の権力構造、固有の文化や民族性を読みとることが困難になった。
 日本という国体は、天皇が、権力者から権威へと移り変わってゆく古代史において、明らかになるのであって、日本固有の社会構造や民族文化も、天皇の権威と幕府の権力の二元的な関係を抜いて、語ることができない。
 天皇不在の歴史では、ただの権力史となり、そこから、日本という国のかたちができあがった物語が見えてこない。
 日本は、ヨーロッパや中国とちがい、権力闘争からうまれた国ではない。
 大和朝廷成立以前から、自然を神と見立てる特有の宗教観から、剣ではなく、祈念によって、国を治める思想がうまれ、そこから、卑弥呼のような神格をもった調停者が統治者となる風土が生じた。
 それが、天皇の原型で、紀元前、百余国に分立していた時代の日本では、長(おさ)の多くが、世俗的な権力者ではなく、神格をもった超越的権威だったと考えられる。
 だが、柵法体制にあった倭国や邪馬台国、大和朝廷の大王が、すべて、権威だったわけではなく、権力者としてふるまった天皇もすくなくなかった。
 柵封体制というユーラシア型の政治機構に組みこまれることによって、日本もまた、一元的な権力構造にならざるをえなかったのである。

 ●権威と権力の二元性が日本の国体
 それでは、いつから、天皇が、権威となったのか。
 雄略天皇(21代)以後の六世紀からである。
 柵封体制における最後の天皇となった雄略天皇は「治天下大王」を名乗ったことからもわかるように、最後の権力型天皇でもあった。
 小国家群だった古代日本は、倭や邪馬(中国の命名)、大和(日本の命名)という一国をなしてのち、柵封体制に編入されることによって、宗教的国家群から、一大権力国家へ変貌したのである。
 中国の史書「宋書」に記されている五人の倭王(讃・弥・斉・興・武)のうち、武が、雄略天皇で、宋から「使持節都督倭・百済・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍・倭国王」という称号をうけている。
 有力な皇位継承者を次々に殺害するなど暴君として鳴らした大悪天皇こと雄略天皇は、朝鮮半島の半分を領有する大権力者でもあったのである。
 ちなみに、残りの四人の倭王は、讃=仁徳(あるいは履中)天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康天皇といわれるが、定説はない。
 雄略天皇は、異母兄・安康天皇(20代)の死後、即位したのちに有力な皇位継承権保持者をことごとく殺してしまったので、実子の清寧天皇(22代)をへて、ついに、血筋が絶える。
 それでも、万世一系の血統がまもられたのは、天皇の正統性が、皇室の家督者ではなく、神武天皇のY遺伝子(男系男子)の継承にあったからである。
 それが、当時、北陸にあった応神天皇の五世、継体天皇(26代)である。
 当時、有力豪族たちは、国家の支配者の正統性を、権勢や武力ではなく、神武以来の万世一系にみとめた。
 これが、日本の国体のはじまりで、これは、人為よりも自然の摂理をおもんじる日本精神への復帰でもあった。
 権力型の天皇が、血筋とともに、雄略天皇で終わると、神に祈る神である天皇(権威)と摂関政治・幕藩体制(権力)の二元体制という、世界に類のない政治システムがスタートする。
 天皇という視点から日本史を見直すと、日本という国のかたちが、よく見えてくるのである。
 仙谷の柵封体制=属国という歴史認識の誤りを正すところから、テーマが横道にそれたが、本稿の本題は、こちらのほうで、次回以降、継体天皇、仁徳天皇、神道、皇国史観など、順を追って「天皇と日本の歴史」のテーマで、論をすすめてゆきたい。
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2010年03月23日

人権擁護法案という革命の火の手(3)

 ●人権擁護法案で国を売った政治家たち
 人権擁護法案は、人権思想という偏ったイデオロギーを法制化して、国民を洗脳しようというたくらみで、典型的な左翼全体主義である。
 自由主義の先進国で、二十一世紀のいまどき、こんな悪法がでてくること自体、狂気の沙汰で、まして、特殊な権力団体をつくって、二万人の人権屋を動員するにいたっては、悪夢というしかない。
 イデオロギーの権力化は、毛沢東主義と呼ばれる手法で、文化大革命の折、紅衛兵の私刑から逃れるため、一般市民は、『毛沢東語録』を手にかざして、「毛沢東万歳」と叫びながら町をねり歩いた。
 同法が成立すると、日本でも、人権ゲシュタボの私刑から逃れるため、「人権万歳」を叫ぶ風潮になるだろうが、そうなると、人権の対立項にある人格や道徳、隣人愛や和の精神、共同体意識や愛国心は、木っ端微塵になってしまうだろう。
 人権擁護法案は、もともと、国連からの要請で、土台となっているのが、児童の人身売買や売春、少年兵の禁止などを謳った「パリ原則」である。
 日本に「パリ原則」に抵触する人権侵害などあるわけはないが、国連が、筋ちがいの要請を日本につきつけたのは、中国の謀略で、これにのったのが、全共闘や隠れ過激派がもぐりこんでいる法務省と、野中広務から部落差別などの人権案件をひきついだ古賀誠だった。
 みずから部落出身を公表した野中は、差別に深い怨恨をもつ政治家で、古賀と一緒に南京大虐殺記念館へでかけて、花輪を捧げるほどの自虐史観の持ち主でもある。
 当時、自民党内で、法案化をすすめたのが、古賀誠や太田誠一、二階俊博、中川秀直、福田康夫、加藤紘一、山崎拓ら自民党を左傾化させた面々で、廃案になったのは、平沼赳夫や安倍晋三、麻生太郎、島村宜伸、中川昭一、衛藤晟一、古川禎久らの保守派が、猛反対したからだった。
 この時点で、自民党は、思想的に、まっぷたつに割れていたわけで、事実上、党としての命脈が尽きていたのである。
 このとき、自民党案支持に回った民主党の小沢一郎や千葉景子、仙谷由人、川端達夫らが、こんどは、与党として、同法案の立法化にうごきだした。
 民主党に、反対議員は、ほとんどいないので、同法案は、より過激な内容になって、国会に上程されて、可決されるのは、確実である。
 ちなみに、マスコミが沈黙しているのは、反対を表明すると「メディア規制留保」を撤回される懸念があるからで、岡田外相がいちはやく“規制留保”から“規制削除”へふみこむと、マスコミは、人権擁護法案について、いっさい、報道しなくなった。
 これは危険な兆候で、マスコミの沈黙によって、日本人は、何も知らされないまま、人権ゲシュタボ法案に呑みこまれてゆく。
 民主主義の旗手のようにいわれるマスコミも、弾圧という恐怖の前では、かくもだらしなく、権力に平伏するのである。

 ●人権擁護法案は重大な憲法違反である
 マスコミが牙を抜かれた以上、対抗手段は、権力を司法に訴える以外ない。
 人権擁護法案が憲法違反であることは、百地章(日本大学教授)らも指摘している。
 同法案は、あらゆる人権侵害を調査対象とした上、侮辱などの不当な差別的言動から「相手方を畏怖させ、困惑させ、不快にさせる」場合にいたるまで「令状なし」の強制的な出頭要請、尋問、文書提出、立ち入り検査権をみとめている。
 これが――
 憲法第19条「思想及び良心の自由を侵してはならない」
 同第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由を保障する」
 同第21条の2「検閲をしてはならない。通信の秘密を侵してはならない」
 同第31条「法律の定める手続以外に、生命や自由を奪われ、その他の刑罰を科せられない。
 同第35条「令状によることなく、住居や所持品の点検をしたり、強制的にとりあげたりすることはできない」
 などに違反するのは明白で、裁判において、これらの違反が指弾されなければ、日本は、法治国家ですらないということになる。
 さらに、これにくわえるべき論点が、二つある。
 一つは、民主主義において、事前規制(検閲)や予防規制(措置・拘束)はけっしてゆるされないということである。
 国家権力による予防的な強制措置がゆるされるなら、民主主義は死に、日本は、全体主義国家へ転落してゆく。
 もう一つは、不当な差別的言動や相手方を畏怖させ、困惑させ、不快にさせるなどの行為を取り締まる法が、日本には、存在しないということである。
 憲法には、第14条で「すべて国民は、法の下に平等で、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあるだけである。
 法の下の差別や人権侵害は、憲法に違反するが、差別的言動は、たとえ好ましくないものであっても、モラルの問題なので、法で裁くことはできない。
 法案によると、何が差別に該当して、何が人権侵害にあたるか、人権擁護委員会がきめるというが、それこそが、野蛮な無法行為である。
 法の根拠がないまま、摘発が可能なら、理論的には「お前の顔は人権侵害だ」と言いがかりをつけて、喚問や家宅捜索、証拠品押収ができるようになる。
 二万人の人権ゲシュタボは、基本的に左翼で、過激派もいるだろう。
 かれらが、法の根拠もなく、一存だけで、予防規制が可能な国家権力をふりまわせば、暗黒社会が到来しないわけはない。
 参院選に勝った民主党は、まちがいなく、独裁化する。
 民主党がナチス党に、小沢がヒトラーになったとき、はたして、国民は、自身や家族をまもることができるだろうか。
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2008年08月01日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(26)

 ●書籍化のタイトルは「『情』の国家論」
 本ブログが単行本(光人社刊)化されることになり、タイトルが「『情』の国家論」にきまった。
 このタイトルは、共著をおねがいした村上正邦先生との対談中、村上先生の口からでたことばをいただいたもので、言いえて妙、の感が深い。
 今回は、同書のタイトルにもちいた「情」についてのべたい。
 愛情ということばがあるが、愛と情は、別物である。
 愛が個人的感情なら、情は、社会的感情といってよいであろう。
 それを的確にいいあらわしているのが、義理人情で、本来、対立するはずの義理と人情が、情(なさけ)ということばのなかで、むすびついている。義理という社会観念とひとの熱い心が、一体化して、日本人の心のかたちをつくりだしているのである。
 思いやりや同情、寛容の精神も、愛ではなく、情である。
 個人の心に根ざしながら、他者とともにあろうとする。この運命共同体の意識をつくりだしているのが、和の精神で、これもまた、日本人の伝統的な心根である。
 愛国心も、ほんらい、情(憂)国心であろう。国のために身を捧げる覚悟は、わが身を燃焼しつくす恋になぞらえて、国への恋心である。特攻隊や2・26事件に殉じた人々の手記を読むと、国という歴史的共同体に、恋焦がれる深い情が、ひしひしと、つたわってくる。
 日本の神々は、鎮守の森の土地神も(地域)祖霊(同族)も、個人をこえている。情も、日本の神々と同様に、地縁や血縁、同じ釜の飯という仲間意識をとおして、共同体や集団にたいしてはたらく。
 掟(ルール)やナラワシ(常識)も、同胞とともにあろうとする情である。
 情が、家族から同族、ムラ、シマ(生活圏)をこえて、国家や歴史までひろがってゆくのは、土地神や祖霊が、日本共通の神話でつながっているからで、この神々を統べるのが天照大御神である。
 かつて、日本人が同じ心(情)をもちあえたのは、神話を共有していたからである。
 日本の古代宗教=原始神道は、はじめから、天皇中心だったわけではない。
 大和朝廷が優位になると、天皇が、土地の神や五穀の神(=社稷)をまつる最高祭司となり、地方の豪族が、天皇の宗教的権威を奉って、大和朝廷が、自然成立した。
 権力者や有力者が覇権をあらそう前に、津々浦々の神々が、手をむすんだのである。
 戦争ではなく、和の精神をもって、古代朝廷が統一をはたすことができたのは、天照大御神のもとで、共存をさぐりあう情がはたらいたからで、そこに、血みどろの権力抗争をくりひろげたユーラシアとの決定的なちがいがある。 
 キリスト教の愛を唯一の価値とした中世ヨーロッパ、善を説く儒教の古代中国で、戦乱が熄むことなく、たびたび、虐殺がおこなわれたのは、かれらの愛や善が、個人の領域にあったからで、かれらは、共同体にはたらく情をもちえなかった。
 情と似て非なる愛が、拠って立つところは、個人主義である。
 個人主義に立つ愛は、冷める。場合によっては、憎しみへかわる。排他的で、社会性に乏しく、しばしば、外部にたいして、敵意をむきだしにする。
 明治以前、日本にあったのは、交し合う情で、愛という観念は、なかった。個人主義が根づいていなかったからである。
 かつて、日本では、ひとは、個人ではなく、親の子で、子の親だった。祖の末裔にして子孫の祖で、しかも、家族や地域、共同体や組織の一部にくみいれられていたので、わが身が、単独で存在しているなどと、だれも、考えなかった。
 日本に個人という考え方がめばえたのは、成仏をもとめる仏教や神と契約するキリスト教が伝来してからである。仏教の輪廻転生やキリスト教の魂の救済は、一人の人間としてうけとめる問題なので、はじめから、個人が対象なのである。
 日本に、個人主義が根を下ろしたのは、明治維新の文明開化をとおして、近代的自我がうけいれられてからで、さらに、戦後、アメリカから、自由と平等の民主主義がはいってくると、情や和の精神にとってかわって、個人主義が、普遍的な価値となった。
 自由も平等も、成仏や救済と同様、一人の個人にかかる観念なので、根幹に個人主義がすえられるのである。
 戦後、情の文化がすたれていったのは、この個人主義が蔓延してきたからである。
 個人主義は、全体主義の反対概念で、西洋の思想は、神と悪魔、愛と憎、正邪、善悪というふうに、一方を否定する二分法で、このとき「抗争の論理」がうまれる。
 二元論と似ているようだが、二元論は、権威と権力のように、双方が並び立つ。
 愛は、憎や嫉妬、敵愾心をまねきよせ、善悪で一方を否定しても、立場やイデオロギーによって、そのつど、善悪が逆転する。自由や平等、人権や平和など、空理をふりまわすほど、愛やヒューマニズム、正義をもちだすほど、憎悪や非人間性、悪徳がはびこる。
 西洋の二分法では、いつまでも、抗争に決着がつかず、個と全体、個人と集団の対立や矛盾も、永遠に解消されない。
 空理のもとでは、こうして、情という、血のかよった人間の心が失われてゆく。
 世界市民を標榜する政治家が、帰国した拉致被害者を北朝鮮へ送還すべきと、血も涙もないことをいい、弱者の切り捨てや格差化社会をすすめた元首相が、人生色々とうそぶくのは、マルクス主義にしろ、新自由主義にしろ、西洋の思想に染まった者には、情が欠けているからである。
 日本は、八百万の神々のもとで、万物が、それぞれ自在にある多元論の国である。
 どちらが正しいか、ではなく、実情をふまえ、理に走らず、私心に溺れず、人間の心で判断する。
 それが情である。愛や正義のような空理ではなく、ひとの心なので、きっぱり、白黒にわけられないが、白黒をつけないのは、空理ではなく、ひとの心がはたらいている証拠である。
 現在、日本では、歴史や国体から切り離された個人主義がはびこって、政治からも社会からも、家庭からも人心からも、情が消えかかっている。
 本ブログで、保守政治と国体について、のべてきたのは、政治は、もともと、情にもとづくまつりごとで、とくに、保守政治は、歴史(時間)の連続性と国体(空間)の護持を使命としていることを明らかにしたかったからである。
「『情』の国家論」で、わたしがもとめたのは、日本の文化や歴史、日本人の心に根ざした国家の、あるべきすがただったのである。
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2008年07月25日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その7)

 ●反日主義はユダヤの思想
 1979年に刊行され、現在なお、版を重ねている稀有な本がある。
 前回のブログで紹介した、ユダヤ人長老モルデカイ・モーゼ著『あるユダヤ人の懺悔/日本人に謝りたい』(日新報道)である。
 ネット上では、ほぼ全編がデータ・ベース化され、モルデカイ・モーゼの正体について、さまざまな説がとびかうほど関心を集めている。
 そのモルデカイ・モーゼの子息(ユージン・E・モーゼ=イスラエル在住)とかれのグループから、日新報道の遠藤社長をつうじて、モルデカイの未発表の遺稿とユージン氏の署名がある原稿、および、パンフレット(同人誌のようなもの)を託された。
 翻訳して、リライト・加筆したものを日本で出版したい意向という。
『あるユダヤ人の懺悔/日本人に誤りたい』にまして、刺激的なテーマなので、翻訳と監修、加筆がすんだ一部を紹介したい。

 ユダヤ人は、政治や権力にたよって、みずからを解放する希望をもちえなかった。
 それどころか、政治や権力によって、二千年来、ユダヤ人は、差別され、居住地から追われ、ゲットー(ユダヤ人強制収容所)におしこまれてきた。
 国家や権力は、ユダヤ人にとって、リヴァイアサン(旧約聖書にでてくる怪物で、ホッブスの著書名)以外の何物でもなかったのだ。
 在日韓国・朝鮮人は、日本から差別をうけてきたと主張する。
 だが、かれらは、かつて、ゲットーにおしこまれたことがあったろうか。理由もなく、居住地から追われたであろうか。在日という理由だけで、法や国家権力、暴力によって、血も涙もない差別や虐待をうけたであろうか。
 集団虐殺(ポグロム)という悲劇を、くり返し、味わったであろうか。
 われわれ、ユダヤ人は、それらのすべてを体験して、強制収容された六百万人同胞を、ナチス・ゲットーのガス室において、失ったのである。
 われわれにとって、政治や国家、ユダヤ人以外の民族、ユダヤ教以外の宗教は、すべて、敵であった。
 敵ということばすら、われわれには、ふさわしくないだろう。ユダヤ人は、ただ一方的に、追われ、隔離され、殺されただけだったのだから。
 国家をもたないわれわれには、耕すべき土地がなかった。金融以外にゆるされた職業もなかった。ユダヤ社会から、多くのすぐれた医者や弁護士、教授や科学者、思想家が輩出したのは、ユダヤ人は、土地を耕す代わりに、頭脳を耕したからで、ロスチャイルド以下、多くの金融コングロマリットが世界へ雄飛したのは、キリスト教社会が、資本主義の根幹である金貸しを、賤業として、放棄したからであった。
 農業や一般産業、役人や軍人へのみちが断たれていたユダヤ人には、頭脳と金貸しのほかに、生きてゆくすべがなかった。だが、その二つこそ、世界が、人類が、産業発展の恒久財として、必要としていたものであった。
 国家も土地も、安全もなかったユダヤ人が頼りにできたのは、頭脳と蓄財と世界中にひろがった人的ネットワークだけであった。皮肉なことであるが、国家と土地と安全がなかったゆえに、頭脳と蓄財、人的ネットワークをいかして、多くのユダヤ人が成功をおさめた。
 成功が、嫉妬をまねくのは、太った鵞鳥が狼の食欲をそそるのと同じことで、ユダヤ人は、成功するほど、受難をまねきよせる逆風のなかで、ひたすら、生きのびるみちをさぐってきた。
 だが、ユダヤ人にとって、国家は、われわれユダヤ人を食い殺すリヴァイアサンをこえていた。飼いならすことによって、かえって、守護獣になる可能性をひめているのだ。
 われわれユダヤ人は、そのことを見逃すほどお人好しではなかった。
 ユダヤ人にとって、国家ほど、邪悪で、偉大なものはなかった。二千年にわたって、国家に虐げられてきたからこそ、国家の悪魔性と偉大さの両方を、われわれは、よく知るのである。
 国家をもたず、他国に寄生しているユダヤ人が、なすべきこと、なしうるのは、もてる財力と頭脳をつかって、国家をユダヤ人にとって都合のよいものへ変えること以外になかった。国家の牙を抜き、国家がユダヤ人にとって安全で、居心地のよいものへ改造することによってのみ、ユダヤ人は、生きのびることも、繁栄することもできる。
 国家をもたないユダヤ人が、寄生する国家内で、非ユダヤ人と共存するには、国家を無力化して、一つの利便的機関へ改造しなければならない。その戦略は、ユダヤ人が二千年前、国を失って以来、もちつづけてきた永遠のエートス(=血肉化された精神)であった。
 それが、結実したのが、フランス革命とアメリカ独立戦争、ロシア革命とドイツ革命(ワイマール憲法)、ニューディール政策とGHQによる日本改造だった。
 これらの革命のシナリオを書いたのが、わがユダヤの同胞で、熱烈なユダヤ教の信者だったジャン・ジャック・ルソー、カール・マルクス、ウラジーミル・レーニン、ゲオルグ・イェリネック、非ユダヤ人ながら、ヨーロッパのユダヤ社会を味方につけて独立戦争に勝利したベンジャミン・フランクリンとジョージ・ワシントン、ユダヤ系で隠れ共産主義者だったフランクリン・ルーズベルト大統領、戦後、全共闘・反日勢力などに大きな影響をあたえたヘルベルト・マルクーゼである。

 ユダヤ人がおこなってきた歴史的革命劇
●ジャン・ジャック・ルソー
 ホッブスの『リヴァイアサン』をリライトした『社会契約論』で、自由権・平等権を拡大することによって、国家を転覆できる理論を構築。これが、フランス革命のテーゼとなった。
●カール・マルクス
モーゼの口伝律法「タルムード」を『資本論』『共産党宣言』にリライト、ロシア革命の下敷きをつくった。
●ウラジーミル・レーニン
ジョン・アトキンソン・ホブソンの著作を『帝国主義論』へリライト。暴力革命以外に、戦争による革命=敗戦革命があることをしめした。
●ゲオルグ・イェリネック
 ドイツ革命をとおして、国家主権と、自由・平等:平和主義を同等におくワイマール憲法を制定、ドイツの弱体とヒトラー登場のお膳立てをした。
●フランクリン・ルーズベルト
擬似共産主義のニューディール政策は、レーニンにテキストを提供したホブソンが立
案したものである。戦後、全米に吹き荒れたマッカーシーの"赤狩り"はルーズベルト以下、容共派の残党狩りであった。
GHQは、その容共一派で、日本改造と日本国憲法は、ニューディール政策の輸出版であった。
●ヘルベルト・マルクーゼ
ナチスから逃れてアメリカに亡命、国家を悪の根源とする『エロス的文明』をとおして「否定の哲学」を主唱、これが、マルクス主義に代わるイデオロギーとして、全共闘運動や反日主義、フェミニズム運動のマニュアルになった。

 フランス革命から、現在、日本で吹き荒れている反日主義運動まで、すべて、国家を無力化して、万人を「地球市民」に仕立てるべく、ユダヤ人が、緻密に練り上げた大戦略で、これら、二百年以上におよぶ歴史改造は、祖国を追われて、二千年の漂流をへたユダヤ人でなければなしえなかった偉業といえよう。
 わたくし、ユージン・モーゼが、日新報道の遠藤社長をつうじて、日本の著名な政治評論家である山本峯章先生に、所見を託するのは、日本の政治家、学者、学生、国民の多くが、ユダヤ人の謀略にすこしも気がつかず、われわれがつくった革命理論、反国家主義、反道徳のエロス主義を、あたかも、正義であるかのようにうけとめ、国の方向を見失うのをおそれるからである。
 われらが父、モルデカイ・モーゼは、『あるユダヤ人の懺悔/日本人に誤りたい』の冒頭に、こう記している。
「経済の驚異的高度成長に反比例する精神面の退化現象の跛行性の原像を日本人はまだつかんでいないように思われる。
 この病理のルーツが分からないと、治療法も発見できないのは、至極当然であろう。
 日本をこよなく愛する私としては、この問題を解明して、日本人が真の日本歴史を生き生きと構築できるよう側面から及ばずながらお助けしなければならないという強い義務感、責任感におそわれるのである。
 何故か。それはこれら病巣のルーツがほとんど誤れるユダヤ的思考の所産であるからに他ならないからである。我々は信じ難いほど頭が悪かったのだ。
 もともと、我々が犯した誤ちはごく単純そのものの誤ちだったのだ。
 しかるに、この小さな誤ちの及ぼした影響は想像以上に大きかった。それは、戦前まで日本が世界に冠絶した類い稀れなものとして誇っていた数々のものを破壊してしまう結果となったのであった。
 このことを知るに及んで、我々の心は痛むのである。しかも、その日本が戦前もっていた類い稀れな長所というものが我々ユダヤ民族の理想の具現化されたものでもあったことを知り、ますます我々の苦悩は倍加されるのである」

 ユージン・E・モーゼ氏が『あるユダヤ人の懺悔/日本人に誤りたい』の続編として考えている出版物(『反日主義はユダヤの思想』/仮題)には、以下の内容が網羅される予定で、今後、追って、内容を紹介してゆきたい。

■ユダヤ人が日本国憲法に仕掛けた国家自壊の法則
■ユダヤとメーソンリーにあやつられていた倒幕運動
■ユダヤの策略にひっかかった坂本竜馬と維新政府
■文明開化の正体と福沢諭吉・森有礼の「脱亜入欧」
■ユダヤとの共闘が実をむすんだ日露戦争の勝利
■ユダヤ人がつくった東京裁判「平和にたいする罪」
■自虐史観のお手本はレーニンの「帝国主義論」
■日米戦争を仕掛けた「国際ユダヤ」の深謀と短慮
■日本軍がインド洋ではなく南太平洋へむかった理由
■GHQはユダヤ系のメーソンリー・クラブだった
■日本国憲法とフランス革命をつなぐ一本の細い糸
■虚構仮説=マルクス主義を妄信した日本のインテリ
■全共闘の教祖だったマルクーゼの「否定の哲学」
■ユダヤの人間破壊工作にのったフェミニズム
■反日主義はユダヤ・プロパガンダの最高傑作? 
■二つの大嘘! コスモポリタニズムと平和主義
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2008年06月27日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その6)

 ●イデオロギー語に踊らされる戦後の日本人
 今回は、人権や差別、民主主義など、戦後日本を呪縛してきた<イデオロギー語>について、考えてみたい。
 テロや暴力事件がおきるたび、識者は「民主主義の世の中でおきてはならないこと」と口を揃える。
 だが、テロや暴力は、民主主義ではなくとも、ゆるされるべきことではなく、そんなことに、いちいち、民主主義をもちだす必要はない。
 民主主義は、人類がたどりついた至高の思想なので、テロや暴力など、あってはならないというわけだろうが、はたして、そうであろうか。
 民主主義の発明者で、フランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』でつぎのようにいっている。
「随意に祖国をえらべといわれたら、わたしは、君主と人民のあいだに利害対立のない国をえらぶだろう。わたしの理想は、君民共治であるが、そのような政治体制が地上に存在するはずがないので(独裁や専制政治を憎む)わたしは、やむをえず、民主主義をえらぶのである」
 ルソーでさえ、民主主義について、独裁や専制政治よりはマシ、としかいっていない。
 民が主になると、たしかに、王権や独裁権力は制限される。だが、つねに、民が正しいとはかぎらず、それどころか、民には、天下国家という視点がそなわらないので、大抵の場合、衆愚政治に陥る。
 そもそも、民主主義は、無秩序の代名詞のようなものである。むろん、テロや暴力も排除できない。独裁や専制政治のもとでは、予防拘束や国民監視体制を敷けるが、民主政治では、そうはいかないからである。
 ヒトラーは、日本国憲法のモデルといわれる、過剰に民主主義と平和主義をとりいれたワイマール憲法のもとで、民主選挙に圧勝して、登場してきた。民主主義は、テロや暴力、衆愚政治ばかりか、ファシズムの苗床にさえなるのである。
 戦後、日本人が、民主主義を、この世の天国のように思ってきたのは、共産主義者や反国家主義者の宣伝によるもので、反体制の運動家にとって、たしかに、民主主義ほど都合のよい体制はない。
 だが、一般の人々にとって、民主主義は、無秩序にさらされる、危なっかしい体制でもある。
 ちなみに、ルソーが理想とした"君臣共治"は、日本の天皇体制のことである。
 このテーマについては、モルデカイ・モーゼ(戦後、米政府の対日戦後処理にあたったユダヤ系アメリカ人)のことばを借りて、後述するが、ここでは、モーゼ長老のつぎのことばを紹介するにとどめる。
「自由と平等は相容れず、国家の力なくして人権がまもられたためしはなく、非武装の平和はジョークにすぎない。だが、これを民主主義、基本的人権、平和主義というイデオロギー語におきかえると、それが、一つの理想として、実際にあるかのような錯覚に陥る。
 これが、祖国をもたないわれわれユダヤ人が数千年にわたって生きのび、世界支配を実現させたトリックである。自由や平等、人権や平和主義という虚構仮説(ありえない話)をふりまくことによって、ユダヤ人は、ユダヤ人の敵である国家の弱体化と、国家をこえた個人的な諸権利の両方を、手にいれてきたのである」
 前回、「人権擁護法案」で、反日勢力が、差別と人権とタテに、国家の弱体化を画策している実態をのべた。
 反差別や人権も、自由や平等、民主主義と同様、弱者である個人の権利を無制限に拡大して、国家を衰弱させようというユダヤ・テーゼで、このテーゼにからめとられると、体制は、土台からゆさぶられる。
 差別は、広辞苑によると「差をつけて不当にとりあつかう」ことで、区別は「違いによって分けること」である。したがって、問題点は、「不当にとりあつかう」ことにある。
 だが、現在、日本では、行政上も法的にも、在日外国人や同じ日本人を、差をつけて不当にとりあつかう、などということは、おこりえず、おこなわれてもいない。
 意識の問題については、論外である。ひとによって、価値観が異なり、異なる思想や信条をもつ自由がある以上、心のなかにまでふみこむと、思想統制になり、予備拘束と同様、これは、けっして、ゆるされることではない。
 今回の人権擁護法案は、被差別・人権擁護は絶対的に正しいので、心のなかにまで立ち入って、強制してもかまわないという野蛮な考えに立っている。
 だから、わたしは、そういう法をゆるしてはならないと、声を大にするのである。
 同法の推進者は、人権を、神のことばのように、思っている。
 自由や平等、基本的人権などを、国家ではなく、ヤハヴェ(ユダヤ教の唯一神)からあたえられたものとするのが、ユダヤ・テーゼである。
 そして、それをそっくり、いただいたのが、ヤハヴェを知らないはずの戦後日本人だった。
 日本国憲法に、基本的人権や主権が、だれからあたえられ、だれによってまもられるのか、書かれていないのは、そのせいである。
 日本国憲法をつくったのは、ユダヤ人だった。かれらは、そこに、ヤハヴェの名を書きたかったのかもしれないが、そうもいかない。だから、かれらは、主語を削ったのである。
 戦後憲法は、ユダヤ人ケーディスを責任者とするGHQの少数のニューディーラーによって、わずか二週間でつくられた。たたき台となったのが、ワイマール憲法で、つくったのは、ドイツの内相をつとめたフーゴ・ブロイス以下、三人のユダヤ人学者だった。
 ワイマール憲法も、自由や平等、人権や平和が、神のことばとして扱われている。
 同憲法は、自由と平等(非差別)、平和主義が過剰にもりこまれた、ユダヤ人に都合のよいもので、ユダヤ人の権利をまもるため、世界を改造しようとするユダヤ・テーゼの産物でもあった。

 ●ユダヤ・テーゼに惑わされてきた二十世紀 
 日本人が、普遍的価値としてうけとめている、自由や平等、人権や民主主義などの近代主義は、祖国をもたないユダヤが、じぶんたちの都合がよい世界をつくりあげるため、戦略的につくりあげたイデオロギー語だったのである。
 このあたりの事情をおさえておかなければ、日本人は、そっくり、ユダヤ・テーゼにとりこまれてしまうことになる。
 ちなみに、ヒトラーがユダヤ人のジェノサイドを決意したのは、ユダヤ・テーゼの存在を知ったためといわれる。

【ユダヤ・テーゼ10項】
@中世以降、啓蒙思想などをとおして、自由と平等、人権、民主主義を普遍的な価値に高め、個人と国家と対立させてきた
Aユダヤ人であるジャン・ジャック・ルソーは「社会契約論」で、自由と平等が国家をこえることをしめした
Bルソー主義によって、ヨーロッパにおける王室の廃絶とフランス革命が実現した
Cユダヤ人であるマルクスが、ユダヤ教を「共産党宣言」にリライトして、暴力革命の必然性を示唆(ユダヤの金銭観、世界観を反映させたのが「資本論」)した
Dユダヤ人であるレーニンが、戦争こそ、革命をこえる有効な革命とする「帝国主義論」を展開(敗戦革命)した
Eドイツ法学界のユダヤ勢力が、自由と平等を過剰にもりこんだ「ワイマール憲法」をつくり、結果として、ナチス・ヒトラーの台頭をまねく
Fユダヤ人であるルーズベルトが、ニューディール政策で、アメリカの共産化をはかる
Gルーズベルトが、スターリンとつうじ、ドイツ・日本に宣戦布告をおこなって、世界大戦をひきおこす
Hユダヤ集団GHQが、戦後日本をユダヤ(無国籍者)の楽園にすべく、自由と平等を基本的人権におきかえた平和憲法を制定する
I二律背反する自由と平等をもりこんだ民主主義によって、国家理性と道徳が崩壊した


 自由と平等の啓蒙主義から、フランス革命、ロシア革命、第二次世界大戦、GHQによる日本改造まで、世界史の激動に、ユダヤ・テーゼがはたらいていたわけだが、その作品の一つが、日本国憲法だった。
 戦後、マッカーサー元帥以下、ユダヤ人を中心とするGHQのニューディーラーたちは、日本という国家を解体すべく、勇んで、日本にやってきた。
 そして、日本の真のすがたを発見して、腰を抜かすほど、驚く。
 山本七平・イザヤペンダサンの『日本人とユダヤ人』に並ぶ名著として知られているモルデカイ・モーゼ著『日本人に謝りたい』(日新報道)から引用する。

 われわれ、ユダヤ民族は、西洋人にない高尚な理想をつねに頭に描いてきた。
 だが、ユダヤ民族は、永い永い迫害の悲しい歴史のなかで、これら理想を実現させる余裕などまったくなく、ただ、いかに、生命の安全をまっとうするかということだけに心血を注がねばならなかった。
 第二次大戦終結まで、みずからを解放するため、つねに、たたかいつづけてきたわれわれには、残念ながら、理想は、遠い夢にすぎなかった。
 われわれは、敗戦後の日本へやってきて、はじめて、ユダヤ人が理想としてきたものが、日本に実在していたことを知った。
 そのときの驚きは、いまなお、筆舌につくしがたい。
 われわれの犯した誤りは、戦前まで、日本が世界に冠絶した、類い稀れなものとして誇っていた数々のものを破壊してしまったことである。
 そのことを思うと、われわれの心は痛む。その痛みは、日本が戦前まで、もっていた類い稀れな長所が、われわれ、ユダヤ民族が理想としてもとめてきたものだったと知るほどに、深い後悔をともなって、倍加されるのである。
 マッカーサーもわれわれも、天皇を、日本統治のために利用したのでない。
 われわれは、君民共治の理想を、ルソーが空想のなかにもとめたように、現実のなかにみいだしたのである。

 ユダヤ人、アインシュタインも、大正十一年、伊勢神宮を訪問した際、同様のことをのべている。

 近代日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。
 一系の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめたのである。
 私はこのような尊い国が世界に一ヶ所ぐらいなくてはならないと考えていた。
 世界の未来は進むだけ進み、その間幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときが来る。
 そのとき、人類は、まことの平和を求めて、世界的な盟主を仰がなければならない。
 この世界の盟主なるものは、武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を抜きこえたもっとも古くてまた尊い家柄でなくてはならぬ。
 世界の文化はアジアにはじまって、アジアに帰る。
 それには、アジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
 われわれは神に感謝する。
 われわれに日本という尊い国をつくっておいてくれたことを――
( 祥伝社黄金文庫 「『日本文明』の真価」/清水馨八郎)

 中学生が、平気で、人権ということばを口にして、大人が、そのことばにひれ伏すという異様な出来事が、戦後、半世紀もつづいてきた。
 そろそろ、その呪縛から開放されなければ、ユダヤ・テーゼを戦略化する反日勢力によって、日本は、アインシュタインが感動した真のすがたを完全に失ってしまうことになるだろう。
 次回から、モルデカイ・モーゼの未発表遺稿と故モルデカイ長老の意志を継ぐユージン・L・モーゼ氏の監訳をまじえ、反日主義の正体をさらに暴きだしていきたい。
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2008年06月24日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その5)

 ●日本の"非日本化"を画策する反日勢力の謀略
 自民党の人権問題等調査会(太田誠一会長)が、新しい「人権擁護法案(太田私案)」の骨子をまとめ、推進派の急先鋒、古賀誠選対委員長とともに、党内で意見調整をはかった。
 だが、中堅・若手議員から「現在の個別法で対応すべき」「新たな法案は不要」と反対意見が続出、自民党は、今国会への法案提出を断念して、秋の臨時国会まで議論の先送りを余儀なくされた。
 五年前、世論や党内の反対をうけて、廃案になり、三年前、自民党内で議論されたときには、議案の再提出にさえいたらなかった「人権擁護法案」が、亡霊のように再登場してきた裏に、反日勢力が結集した謀略が隠されていることを見逃してはならない。
 政府与党の自民党が、反日勢力にとりこまれて、国体を危うくしているのである。
 謀略とは、日本の"非日本化"で、反日勢力とは、左翼や無国籍主義者、日教組、労働団体のほか、朝鮮総連や在日韓国人・朝鮮人、および、被差別を自称する人々である。
 太田誠一がもちだしてきた今回の新しい「人権擁護法案」は、一連の反日法案の強化策として、反日勢力が仕掛けてきた謀略戦といってよい。
【反日主義者による一連の謀略法案】
■皇室典範改悪→国体破壊(万世一系/天皇体制の否定)
■道州制導入→国家システムの解体(国家主権の分断)
■外国人選挙権→政体工作(国民国家の形骸化)
■人権擁護法案→国家機能の無力化(差別撤廃を口実にした言論弾圧)

「人権擁護法案」は、国家や国体、政体を攻撃目標にしている反日勢力が、一般国民・保守陣営の言論に "差別"という烙印をおして、裁判所の許可なく、立ち入り検査・強制捜査をおこなおうという言論弾圧である。
 このとき、警察権と同様の捜査権をもつのが「国家権力と対置する意見・感覚が必要」(法務省)とされる人権擁護委員会で、かれらの多くは、反日主義者といわれる。
 全国に二万人ほどの人権委員は、ほぼ、半数が無職で、何らかの政治活動に従事している。反日的な団体が、メンバーの専任をおこない、差別の対象になる可能性のあるひとを優先しているので、委員は、左翼のプロ市民や組合・労働運動家のほか、部落解放同盟の関係者が少なくなく、しかも、資格要因から国籍条項が外されているため、朝鮮総連や在日韓国・朝鮮人が、多数、ふくまれている。
 人権擁護法案は、かれらに、言論弾圧の強権をあたえようという法律である。
 人権擁護法が成立すると、人権委員が、皇室典範改悪や道州制導入、外国人選挙権付与に反対する国民や保守論陣の言論を「差別的」と判断しただけで、同委員会が、裁判所の許可なく、立ち入り検査・強制捜査をおこなえるようになる。
 たとえば、わたしが、自著などに「女性天皇には神武天皇以来の男性Y遺伝子がない」と書き、それが、人権委員会から「女性差別」と認定されると、わたしは<差別主義者>として氏名を公表され、自著は回収後、廃棄処分、出版業界から追放となる仕組みで、そんな法ができたら、マスコミ・出版業界には、左翼と反体制主義者、朝日系の進歩的文化人しか残らなくなってしまうだろう。
 ナチスのゲシュタボ、文化大革命の紅衛兵、戦時中の憲兵のような連中が、権力をもった行政委員として、日々、国民を監視し、私生活にまで介入して、人権侵害の申し立てがあれば、法務局に代わって、被疑者に出頭を命じ、取り調べ、個人の"社会的抹殺"という特権までもつ。
 しかも、何が差別で、何が人権侵害にあたるかは、すべて、人権委員会の判断にゆだねられるため、被疑者には、抗弁がゆるされない。
 いわば、公認された私刑(リンチ)で、治安維持法でも、裁判所の令状が必要だったことを考えると、この人権擁護法は、中世の魔女狩りの再来としかいいようがない。
 このとき、容疑をかけられた日本人を取調べ、吊るしあげるのが、外国籍の金日成崇拝者や日本人に恨み骨髄の被差別部落出身者となる可能性も、十分、ありうる。すると、善意の日本人は、じぶんの国にいながら、外国人から弾圧をうけ、あるいは、被差別の怨恨のうさ晴らしにされることになる。
 当然、密告が横行するだろう。ある日、とつぜん、「差別的発言をした」として、出頭を命じられるかもしれず、そんな風潮になったら、日本人は、びくびくしながら生きなければならなくなり、和という日本の美風は消え、人心の荒廃は、目もあてられないものとなるだろう。
 いままで、問題化していなかった在日韓国・朝鮮人、および、被差別部落にたいする差別意識が増幅して、憎悪になれば、大きな社会問題となる可能性もある。さわらぬ神にタタリなし、ということになれば、かえって、寒々しい差別も生じるだろう。
 この法案がとおれば、暗黒のファシズム社会と新たな差別社会が、一挙に、到来することになるが、なぜ、このような暗黒法が、自民党からでてきたのか。
 創価学会・池田大作に意向がはたらいているのである。
 自民党で、この「人権擁護法案」に賛成しているのは、太田誠一をはじめ、創価学会から票をもらって、当選してきた議員ばかりである。
 人権擁護法案を裏で操っているのが、その創価学会を自民党へとりこんだ野中広務である。
 野中から自民党幹事長にしてもらった古賀誠、その下の太田誠一が、人権擁護法案の推進しているのは、わが身かわいさのあまりで、「強姦されるほうも悪い」「レイプは元気である証拠」という暴言を吐いて落選した太田誠一は、部落開放同盟に、人権擁護法案の国会提出を約束しているという。
 ちなみに、部落開放同盟は、天皇体制が、差別や人権侵害の根源と公言してはばからない反体制の集団で、野中や古賀、太田は、かれらの同調者である。

 ●国家・国体より差別の怨恨を優先させる野中広務
 野中は、大阪大鉄局業務部審査課の主査時代に、同郷の後輩から、被差別部落出身であることを上司にバラされて「一週間、泣きに泣いた」末に、国鉄を辞めたという。
 その執念が「人権擁護法案」というわけで、反差別主義の野中に、国家も国体もない。
 園部町長時代は、共産党の蜷川京都府知事べったりだったが、田中角栄に目をかけられて府議会議員に当選すると、一転して、自民党と敵対していた蜷川を攻撃して、田中派の国会議員として赤絨緞をふむ。
 国会議員になってから、大恩人の角栄を裏切って経世会にくわわり、竹下登が小沢一郎に寝首をかかれ、自民党が野に下ると、野中は、政敵だった社会党の村山富一を首班とする三党連立という奇策をつかって政権を取り返す。
 村山内閣で、公安委員長となった野中は、細川連立政の一翼を担った公明党を攻撃、宗教法人法の改正や池田大作の国会喚問をちらつかせ、池田を攻略して、小沢から公明党を奪いとった。
 ここから、大物議員でも、池田大作ににらまれると落選する自・公の腐れ縁がはじまった。
 国家よりも反差別、天皇より人権の野中が、創価学会を国教にするのが夢という池田大作と組み、反日勢力を結集して、法制化しようというのが「人権擁護法案」で、これがとおるようなことになれば、日本の"非日本化"が、一気にすすむことになる。
 現在、年間2万4000件ほどおきている人権侵害事件は、すべて、現行法で処理できており、差別問題も、過剰と思えるほどの法整備と国民的自制で、大きな問題は生じていない。
 にもかかわず、二重に、人権擁護法案のような法律をつくろうというのは、人権や差別の新法が、国家機能を無力化という、べつの政治目的をもっているからである。
 人権擁護と反差別は、基本的人権にかかわる。この基本的人権は、国家をこえた普遍的な価値というのが、日本国憲法の根幹で、国権といえども、これをこえられない。
 反日主義者は、人権と差別をタテに、国家をこえる権力をわがものにすべく、人権擁護法案の立法化に、血眼になっているのである。
 日本は、法治国家であるが、法は、元来、国家をこえることができない。
 国家主権は、法を超越した権利で、だからこそ、国家は、国家理性によって運営されるのである。
 だが、人権擁護法安が成立すると、国民の人権をまもる主体が、国家から市民グループへ移って、国民の人権をまもるという国家主権が、停止する。
 反日主義者の狙いが、マスコミ支配を視野にいれた言論弾圧であることはいうをまたないが、裏に隠されている意図は――基本的人権をタテに、国家をこえる権力をもって、日本を改造することにある。
 そして、四つの反日法案で、国体・国家システム・政体・国家機能を、反日主義者集団に売り渡そうというのが、創価学会にとりこまれた自民党のすがたなのである。
自民党が反日勢力と手を組む――政治の堕落は、ここに極まったというべきだろう。
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2008年06月19日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その4)

 ●「東京裁判史観」と「自虐史観」は歴史の断絶
 東京裁判史観と自虐史観は、一対になっている。
 前者が「日本は、侵略戦争をおこなったので、戦犯処刑や都市空襲、原爆投下は当然の報い」というプロパガンダで、後者は、細川護煕・村山富一の戦争責任談話、宮沢喜一の「近隣諸国条項」に象徴される「日本は、アジアに侵略戦争をしかけたので、その咎を負わねばならない」という歴史上の事実誤認である。
 戦勝国から完膚なきまでに叩きのめされた敗戦国が、正気を失い、戦後、半世紀以上もへて、なお、アメリカやアジアに平伏しているのが、現在の日本のすがたなのである。
 なぜ、そのような意気地なしになってしまったのか。
 理由は、三つ、考えられる。
 一つは、戦死や要人追放、財閥解体などで、気骨のある日本人がすくなくなっていたたこと。
 二つ目は、敗戦革命によって、歴史の連続性が断ち切られたこと。
 三つ目は、戦時中、国家総動員法や統制経済をおこなった革新官僚が、戦後、左翼的なGHQの官僚になり、そのまま、霞ヶ関に居座ったことである。
 だが、それだけの理由で、日本人が、これほどだらしなくなるものであろうか。
 むろん、別に、理由があった。
 東京裁判に、国家分断のワナが、仕掛けられていたのである。
「悪いのは、侵略戦争を指導した軍の一部で、一般国民は被害者だった」というテーゼが、それである。
 くわえて、天皇が、戦争責任を免れた。予想していたより温和だったGHQ政策とアメリカ民主主義にふれて、いつのまにか、日本人は、「じぶんたちは軍部にダマされていた――われわれは、軍国主義の被害者だった」という、思考パターンに陥った。
 GHQが仕掛けてきた思想戦に、一発で、KO負けを喫してしまったのである。
 戦後、日本人が、物質的満足にしか関心をむけないエコノミック・アニマルになってしまったのは、軍事力・占領・思想戦(戦争における勝利の三原則)に、徹底的に敗北したからで、その思想戦の仕上げが、「国の指導者からダマされていた国民に罪はない」という免罪符だった。
 その結果、何がおきたかといえば、「歴史の断絶」と「過去の否定」だった。
 ダマされていた、ということは、悪いのは過去の体制ということになる。
 東京裁判が閉廷した日、朝日新聞は「お役目ご苦労様」と書いた。日本の戦争指導者を処刑したGHQをねぎらったのである。歴史の連続性が断たれていなければ、できない芸当である。
 東京裁判史観の弊害は、日本が、侵略戦争をおこなったという罪意識ではなく、一般の日本人が、指導者にダマされていたとする被害者意識である。
 それに気づかせてくれたのがGHQなので、戦後日本人にとって、GHQは、恩人ということになる。
 GHQを解放軍と見立てた日本共産党は、GHQの建物の前で万歳三唱をしたが、多くの日本人も、そのトリックにひっかかって、過去を見限って、アメリカ民主主義にとびついた。
 それでは、GHQがもちこんできたアメリカ民主主義とは、何だったのか。
 かぎりなく、共産主義に近い人民民主主義だった。
 GHQは、ニューディーラーの集団だった。
「赤狩り」のマッカーシズム旋風で、ニューディールの推進者だったルーズベルト(当時はすでに死亡)一派が一網打尽にされたことからもわかるように、ニューディーラーは、大半が、共産主義思想の持ち主だった。
 だからこそ、GHQの対日敗戦処理が左翼的で、かれらがおしつけてきた憲法が、あれほど左翼的だったのである。
 サンフランシスコ講和条約が成って、GHQは去った。だが、左翼的な体制は残った。
 この体制をまもろうするのが、護憲派で、その代表が日本共産党である。
 GHQを解放軍として迎えた日本共産党が、GHQがつくった憲法をまもろうとするのは、筋がとおっている。ニューディーラーが、かぎりなく、共産主義に近かったからだが、そのニューディーラーは、アメリカで退治された。
 マッカーシズムによって、アメリカは、正気にもどった。
 だから、日本共産党は、かつて、解放軍と見立てたアメリカを、こんどは「米帝」と罵るのである。
 サンフランシスコ講和条約のとき、日本でも、マッカーシズム旋風が吹き荒れていれば、真っ先に憲法が改正されて、東京裁判史観・自虐史観などでてくる余地はなかっただろう。
 だが、軍隊や国家主義に嫌悪感をもっていた吉田茂に、戦後体制と憲法をかえる気はなかった。安全保障はアメリカにまかせて、日本は、経済発展だけに専念しようというのである。
「東京裁判史観」と「自虐史観」は戦後の日本人がつくった――というのは、この国家否定の思想は、吉田ドクトリンのもとで、GHQが敷いた左翼化路線をまっしぐらにすすんできた必然的な結果だからである。
 労働・組合運動による資本主義精神の破壊と日教組による教育破壊、左翼マスコミによる世論操作――この三つで、国家の背骨は、ガタガタになる。
 その路線を敷いたのが、日本の大改造をはかったGHQだったのはいうまでもない。
 だが、これらの歴史や文化の破壊は、GHQのもとで、すすめられたわけではない。
 GHQ改革は、短期間で収束して、言論弾圧や神道指令も、早々に、解除された。
 そして、昭和27年のサンフランシスコ講和条約のあと、アメリカへ帰っていった。 
 昭和三十年の前半までは、戦前の日本が残っていた。どこの家も国旗をもち、祝日には、玄関に日の丸が掲げた。アメリカを悪玉にした戦争マンガ(ゼロ戦はやとなど)が人気を博し、皇国史観を題材にした映画(日本誕生/1959年)もヒットした。
 当時、東京裁判史観や自虐史観は、影も形もなかった。
 昭和40年代後半になって、国歌や国旗を排撃する風潮、皇国史観を否定する流れが生じたのは、戦前の日本人が第一線から去り、いれかわって、戦後のGHQ世代が社会のリーダーとなったからである。
 すでに、日教組や組合・労働団体、社会党・共産党、左翼マスコミなどが大きな力をもっていた。
 かれらと、戦後世代が、冷戦下、平和主義と経済発展の二大車輪をおして日本の戦後をつくった。
 戦後のGHQ世代は、戦前からの歴史の連続線を継承していない。
 歴史をもたない戦後世代が、ためらうことなく、GHQが敷いた左翼化路線にのったのが、小泉純一郎に代表される改革主義で、小泉は、首相在任中、万世一系を否定する皇室典範の改悪をはかった。
 GHQが蒔いたタネが、長い潜伏期をへて、発芽したのである。
 わたしは、戦後日本の思想的混迷の原因が、GHQの置きみやげにあるという認識をもっている。
 国体にたいする危機感も、そこから、でてくる。
 歴史の連続性が断たれているので、皇室典範の改悪や道州制の導入、外国人参政権の付与という、国家・国体の根幹をゆるがす法案が、何の抵抗もなく、保守党から発議されるのである。
 かれらと議論して、痛感するのが、国体感覚の欠如である。
 道州制をすすめている政府委員会の代表に「天皇体制をどう担保するのか」とたずねたが、かれから明快な答えは返ってこなかった。
 アメリカ民主主義の枠内で考えているので、国体にまで、考えがおよばないのである。
 アメリカ民主主義は、一方が社会主義の顔で、一方の顔は、経済功利主義(新自由主義)である。
 いったい、どのくらいのひとが、日本の改革が、GHQ改革の焼き直しということに気づいているであろうか。
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2008年06月16日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その3)

 ●日本国憲法は、なぜ、"無国籍"なのか
 かつて、反日主義といえば、日本共産党や旧社会党の党員、あるいは、労働運動家などのマルクス主義者と相場がきまっていた。
 日本共産党は、1955年の六全協まで、旧ソ連共産党国際部(コミンテルン)からの指令で、暴力革命と天皇制(日本共産党の用語)の打倒をめざしていた。その日本共産党を頂点とする左翼が、日本の国体や歴史、文化や道徳を目の敵にするのは、わからないではない。
 ところが、ベルリン崩壊(1989年)以降、保守系政党や非共産主義陣営に、自虐史観派や媚中派など、反日的言動をとる政治家が、めだってふえてきた。
 自民党では、野中広務や河野洋平、加藤紘一、古賀誠、山崎拓らがその筆頭だが、民主党にいたっては、菅原直人や岡田克也ら、党員の大半が、反日主義者といってよいほどである。
 共産主義という天敵が消えたため、ホンネがでてきたのだとしたら、かれらは、もともと、保守政治家ではなかったことになる。
 かといって、共産主義者ではない。
 それでは、かれらが拠って立つ基盤は、どこにあるのか。
 その謎をとくカギは、加藤紘一が、しばしば、口にする"世界市民"ということばである。
 世界市民は、共産主義インターナショナルにつうじるキーワードで、国家を超えた連帯を意味する。
 世界の労働者が団結して、資本主義を倒そうというのである。
 その根底に、無国籍性(コスモポリタニズム)があるのは、いうまでもない。
 共産主義と反日主義は、ともに、国家の否定という共通項をもっていたのである。
 そのコスモポリタニスト(反日主義者)が、支持をよせるのが極東軍事裁判と日本国憲法である。
 そこで、日本国憲法をひらいてみると、無国籍条項(=国家の不在)のオンパレードである。
「主権が国民に存することを宣言」(前文)「天皇は日本国民統合の象徴――この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」(第一条)「国権の発動たる戦争と国の交戦権、陸海空軍の永久放棄」(第九条)
 と、まず、国家主権が否定され、その次に――。
「何ものも侵すことのできない永久=権利基本的人権」(第十一条)「思想及び良心の自由」(第十九条)「信教の自由」(第二十条)「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(第二十一条)「居住、移転及び職業選択の自由」(第二十二条)「学問の自由」(第二十三条)「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」(第二十八条)「財産権の保護」(第二十九条)「生命や自由を奪われない自由」(第三十一条)
 と、国民に、国家を抜きに、あらゆる権利を保証して――。
「憲法改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成と国民投票における過半数の支持を必要とする」(第九十六条)「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(第九十八条)
 と、最後に、この憲法が不磨の大典で、天皇や国会の上位あると宣言している。
 そして「日本国民たる要件は法律で定める」(第十条)と、日本人であることが、国家や国体を離れて、条文にすぎない法にゆだねられる。
 日本の国体や歴史、文化、道徳など、歴史の連続性をしめす文言は、一行もない。
 一方で、無国籍者でも、法にしたがってさえいれば、世界市民として、人間としてのあらゆる権利を享受できる――というのが日本国憲法で、これでは、日本人に、コスモポリタンになるようにすすめているようなものである。
 日本国憲法をつくったのは、GHQだが、かれらの正体がニューディーラーと呼ばれる左翼だったことは、あまり、知られていない。
 ニューディール(新規まき直し)というのは、F・ルーズベルト大統領がとった共産主義政策のことで、戦後、このニューディール政策にかかわったルーズベルトのスタッフは、GHQの幹部をふくめて、マッカーシーの「非米活動調査委員会」(赤狩り)の告発によって失脚、多くが、海外へ逃亡している。
 終戦前に急死したルーズベルトは別として、非米活動調査委員会がルーズベルトの政策をすすめたスタッフを糾弾したのは、ニューディーラーが、共産主義者だったからである。
 それで、ニューディーラーだったGHQが、日本に国家主権を否定した無国籍憲法をおしつけた理由がわかろうというものである。
 反資本主義的な「農業調整法」「産業復興法」などを次々に成立させたほか、最低賃金の規定や労働者の団体交渉権をみとめるなど、ルーズベルトは、連邦最高裁から憲法違反の判決を下されるまで、共産主義的政策をおしすすめた。
 共産主義者のルーズベルトが、四回も大統領選に勝利できたのは、32人の歴代大統領が残した累積赤字をこえる200万ドルの財政赤字をつくって、票田である労働者階級に大盤振る舞いしたからだけではない。
 金融・産業・マスコミを牛耳る在米ユダヤ人社会から、熱烈な支持をうけたのである。
 なぜ、ユダヤ人が、ルーズベルトを支持したのか。
 ルーズベルトが、1649年、オランダから、当時、ニューアムステルダムと呼ばれていたニューヨークへ移住したローゼンフェルト家を先祖とするユダヤ人だったからである。
 ルーズベルトがユダヤ人だったことと、ニューディール政策と対独参戦、GHQによる対日戦後処理は、一本の線でつながっている。
 対独参戦が、ユダヤ人のジェノサイド計画をすすめていたヒトラーを倒すためだったのは、いうまでもない。だが、ニューディール政策とGHQによる対日戦後処理が、ルーズベルトがユダヤ人だったことと、どうつながるのか、近現代史からは、何も見えてこない。
 ルーズベルト大統領のブレーンで、日本の戦後処理立案に参画したユダヤ人、モルデカイ・モーゼによると、共産主義は、祖国をもたないユダヤ人解放のため、ユダヤ教の「メシア思想」をベースに、マルクスがつくりあげたデッチ上げだったという。
 ユダヤ教の歴史観は、エデンの園で犯した原罪のため堕落した人間は、最後の審判で、善人と悪人が分かたれて、善人だけが神の国へ行く。
 ユダヤ人のマルクスは、原始共産制をエデンの園に見立てて、資本主義という堕落した社会は、やがて、階級闘争と革命という最後の審判によって断ち切られて、プロレタリアだけが、この世の勝者となるというストーリーをつくった。
 共産主義の話は、別の機会にゆずって、今回は、ニューディーラーがつくった日本国憲法である。
 GHQで、日本国憲法の作成を指揮したのは、ルーズベルト政府の下で労働問題を担当していたケーディスである。
 ユダヤ人の共産主義者で、日本の憲法に、自由と平等をもちこむと、国が滅びるということは、百も承知だった。主権在民と国家主権の否定というダメもおしてあるので、日本国は、早晩、三流国に転落するはずだった。
 ユダヤの理想は、国権なき国家で、それなら、ユダヤ人も安心して暮らせる。
 ユダヤ人は、国家の代わりに、ユダヤ教と「タルムード」という伝統的な民族の宝典をもっており、才能も金儲けの技術にも長けている。あとは、市民としての権利、安全さえ手にはいれば、ほかは、何も必要がなかった。 
 そこで、日本国憲法をよく見ると、無国籍のユダヤ人にとって、都合のよいことばかり書かれていることに気がつく。
 義務は、納税くらいなもので、あとは、権利や自由と平等ばかりである。
 しかも、それらは、国家ではなく、法の下で、保証される。
 モルデカイ・モーゼは、自由と平等が、国家を解体させる"毒"だという。
 自由と平等は、相容れないので、民主主義という虚構を立てなければならない。
 ところが、民主主義もデモクラシーは、専制政体にかわる民主政体、あるいは、選挙や多数決のことにすぎず、個人に民主の特典があたえられるわけではない。
 憲法に、民主主義の文字がないのも、実体がないからである。
 したがって、民主主義を個人の権利と心得違いをすると、摩擦が生じて、国力が弱まる。
 日本の平和憲法には、ヒナ型がある。史上、もっとも民主的だったといわれるワイマール憲法である。
 つくったのは、ユダヤ人で内相も務めたフーゴ・プロイス以下3名のユダヤ人である。
 このワイマール憲法も、自由と平等がふんだんにもりこまれて、ユダヤ人にとって、居心地がよいものであった。
 ところが、ナチスのゲッベルス宣伝相は、ユダヤ勢力から仕掛けられた「人間獣化計画」だとして、このワイマール憲法を、事実上、廃棄する。
 ゲッベルスが「人間獣化計画」に挙げたのが、次の19項目である。
 愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策事なかれ主義(Sports Sex Screen)、無気力・無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、家族制度破壊、民族的歴史観否定――
 日本の左翼は、ヘーワ憲法を世界に輸出しようという。
 だが、ドイツ人は、ヘーワ憲法のオリジナル版だったワイマール憲法のいかがわしさを見抜き、これに猛反発して、その結果、ナチス・ヒトラーの台頭をまねいた。
 日本とドイツのこの大きなちがいについて、モルデカイ・モーゼは「日本人は、あまりにも、ユダヤ人を知らなすぎた」とのべている。
 次回も、ひきつづいて、同じテーマで、のべることにしよう。
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2008年06月06日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(25)

 ●<国家三原則>に反する外国人参政権 
 国家には、ゆるがせにできないものが、三つある。
「主権」「国是」「国体」の<国家三原則>である。
 国家主権は、交戦権に代表される独立国家の象徴で、国是は、自国の利益をすべてに最優先する国家理性である。国体は、歴史や伝統、文化や民族性などに根ざしている国のかたちで、日本では、天皇体制がこれにあたる。
 この三つに、憲法をくわえて、国家の四本柱となる。
 ところが、わが国は、占領憲法を改正していないため「主権」「国是」「国体」が憲法の下におかれ、日本共産党ら野党が、この占領憲法をタテに<国家三原則>を攻撃するという危機的な事態にさらされている。
 戦後、GHQによって、国家を解体された日本は、六〇余年たったいまなお、国家主権の不在やスパイ法・国家反逆罪の未制定など、独立国家としてのかたちを整えられず、半人前国家の欠陥をひきずったままである。
 皇室典範への立法・司法の介入や道州制導入なども、一過性の政権が、絶対無比の国体に変更をくわえようという暴挙で、現在の政治体制が、今後もつづけば、日本は、独立国家としての体裁を失ってしまいかねない。
 現在、さらに、懸念されるのが「外国人参政権」問題である。
 独立国家なら「外国人参政権」問題は@主権防衛A国益優先B国体護持の観点から、ただちに、はねつけてしかるべきものである。
 アメリカでは、グリーンカード(労働許可証兼永住許可証)を取得すれば、徴兵登録をもとめられる。だが、グリーンカードをとっても、徴兵登録しても、選挙権は、あたえられない。 
 国籍と選挙権は、いかなる国家でも、国家独立の根幹にふれる大問題なのである。
 ところが、日本では、民主党元代表の岡田克也が「わたしが外国で、2、3世として生まれ育ち、選挙権をえたければ国籍を捨てろといわれたらゆるせない」と感情論むきだしのユルフンぶりである。
 外国人の参政権は、国籍取得がセットになっていなければ、国籍の二重行使になる。 
 北米諸国やEU諸国、スイス、オーストラリアなどが外国人に地方参政権を付与しているのも、欧州連合や英連邦など、同盟国だけで、無条件で外国人に参政権をあたえているわけではない。
 くわえて、同盟国内の在留外国人は、住んでいる国に"政治的運命共同体"意識をもっており、メンタリティにおいて、ほとんど、自国民とかわらないという事情がある。
 一方、日本国籍の取得を拒み、外国籍のまま参政権(永住外国人地方選挙権)をもとめている特別永住外国人(主に在日韓国人)は、日本国内に反日的な民族団体(大韓民国民団/朝鮮総連)をもち、しかも、かれらの母国、韓国・北朝鮮では、戦後六十年以上たったいまも、反日教育がおこなわれている。
 金正日に忠誠を誓わせ、本国への送金団体としてのみ機能している朝鮮総連が、参政権を拒否しているのは、日本の政治システム組みこまれると、民族的アイデンティティーを失いかねないからという。そんな敵意むきだしの国に、どうして、日本国民の証である参政権をあたえなければならないのか。
 外国人参政権法案が成立すると、当然、北朝鮮系在日にも、参政権があたえられる。
 そのとき、かれらが、戦術を変更して、地方の市町村へ大挙して押し寄せ、住宅街を建設するなどして、人口の半分を占めると、どうなるか。
 在日朝鮮人には、北朝鮮最高人民会議の現役代議員(国会議員)が、六名もいるという。
 日本の市や町の首長に、北朝鮮の最高人民会議の国会議員が就任することになりかねない。
 地方参政権とはいえ、軍事関係基地や原子力発電所、交通機関のほか、教育、環境、周辺事態法、治安問題など、地方自治は、国家政策と密接にかかわっている。
「日本は朝鮮を侵略したのだから、参政権くらいあげるべき」(野中広務)「参政権がほしいなら国籍を取れというのは、人権にかかわる」(岡田克也)などと、ノーテンキなことをいっている場合であろうか。

 ●選挙で、反日・創価学会に呑みこまれた自民党
 みずからの意思で、日本に永住する外国人として生きることを選択したかれらに、選挙権が付与されないことは、日本国民と外国人の区別であって、差別でも、人権侵害でもない。
 ところが、参政権をもとめる在日本大韓民国民団の主張には、日本への内政干渉や批判がにじむ。
 @外国人参政権の拒否は、日本国憲法、地方自治法、国際人権規約や人種差別撤廃条約などに違反している
 A日本国民と同じく法律上納税の義務を負っているので、参政権は、当然の権利である
 B基本的人権と「住民」の権利が保障され、地方公務員採用などにおける不要な国籍条項の撤廃につながる
 B少数民族の自尊、国際人権規約B規約第27条に明記されている少数民族の権利、民族教育の制度的保障などが実現される
 C戦後処理の一環。在日韓国籍住民の歴史的経緯を正しく認識することで、日本の民主主義の成熟が促される
 D21世紀にむけた日本の真の国際化と社会良化。相互理解と共生社会が実現される
 公権力にたずさわる公務員(警察官など)に外国人を採用できないのは、当然であろう。
「基本的人権の尊重」と「参政権」は、直接、むすびつくものではなく、戦後処理は「日韓基本条約の調印」で、解決済みになっている。
 強制連行によって来日した韓国人の多くは、すでに、帰国しており、現住している韓国人は、任意の永住者であり、戦争被害者ではない。
 納税義務をはたしているというが、社会党と国税庁、在日朝鮮人商工連合会(朝鮮商工連)のあいだで取り交わされた合意によって、在日韓国・朝鮮人は、事実上、免税処置をうけている。
 免税ばかりではない。生活保護をうけている在日韓国・朝鮮人の人口比率(22.7%)は、日本人(0.9%)の25倍(厚生統計要覧13年度)にたっしている。
 在日韓国人、朝鮮人の5人に一人がうけている生活保護は、日本国憲法25条(すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する)にもとづいて、権利の享受を日本国民に限定している。
 かれらは、差別されているどころか、甘やかされ、特別扱いされているのである。
 帰化申請を拒んでいるのは、免税や生活保護などの既得権を失うからで、そのうえ、さらに、参政権をくれないのは、民主主義が未成熟だから、真の国際化に対応できていない、といいつのっているのである。
 尊大で、カサのかかってくる在日韓国、朝鮮人をささえているのが、与・野党の反日勢力や学会・論壇である。司法にも、永住外国人の参政権をみとめるべきという意見が根強く、外国人参政権を合憲とする判例もでている。
 @法律上「国民」とあるのは「日本国籍保持者」ではなく、広く政治社会の構成員
 A国民主権の原理・民主主義の理念は、政治的決定にしたがう人民の自己統治
 B人権問題を考える際、重要なのは、その人の国籍ではなく、生活実態
 というのだが、国政選挙については、最高裁判所が、これと反対の立場をとっている。
 国政をおこなう公務員をえらぶ選挙権は、国民主権の原理から、国民にのみにみとめられるという見解である。根拠は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とする日本国憲法第一五条@である。
 地方選挙についても、憲法第九三条Aの「住民」の前提が、日本国籍なら、外国人の参政権は、違憲になる。 
 司法では、憲法第93条Aの「住民」に、その地方に住んでいる外国人をふくむか否かで判例が分かれているが、最高裁判所が在留外国人選挙名簿訴訟の判決で、憲法第93条Aの「住民」を「日本国籍をもつ住民」と解釈して、憲法論議は、一応、決着がついている。 
 政界で、外国人参政権の決着がつかないのは、創価学会(公明党)と反日勢力が法制化をスケジュール化しているからである。
 岡田克也ら、反日主義者の目的は、日本国家の弱体化であろうが、自民党の同法支持者の多くは、選挙区で、創価学会の票をもらっている連中の打算である。
 公明党は<国家三原則>など眼中になく、公明党のリモコン下にある自民党にも、政権をとったら、まっさきに、岡田が入閣する民主党政権にも、国家再建は、期待できない。
 かつて「外国人参政権の慎重な取り扱いを要求する国会議員の会」の会長として動いた平沼赳夫氏の保守新党旗揚げが、待たれるばかりである。
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2008年06月02日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(24)

 ●日本が日本でなくなる「道州制」導入の恐怖
政府の「道州制ビジョン懇談会(座長=江口克彦PHP研究所社長)」や自民党の「道州制推進本部(本部長=谷川禎一政調会長)」、「道州制導入に向けた第二次提案(日本経団連)」、有識者でつくる「日本再建のため行革を推進する700人委員会/道州制導入研究会(座長=石原信雄元官房副長官)」などが中間報告をまとめ、それぞれ、内容を公開した。
 各メディアの反応は、こぞって、好意的で、読売新聞などは「道州制知らんぷり官邸」と道州制導入に不熱心な福田康夫首相を暗に批判する熱っぽさである。
 小泉内閣・安倍内閣、与野党の改革派を中心にすすめられてきた道州制は、基礎自治体の線引きや分権内容など、細部にわたる議論が先行しているが、何のために道州制を導入するのか、という肝心なことについて、何一つ、明らかになっていない。
「東京一極集中と格差の拡大、地域住民のニーズに即した行政ができない」(道州制ビジョン懇談会)という理由から、「日本の統治構造を全面的に変える」(道州制導入研究会)という飛躍した結論がみちびきだされて、明治四年の「廃藩置県」以来となる行政機構の大改革がおこなわれようとしているわけだが、それがまるで、条例変更ほどの軽さで論じられているのである。
 主権をもった道州制の導入は、国家の大改造である。
 当然、憲法も変えなければならないが、国家主権が分裂して、国民統合の象徴としての天皇の地位がゆらぐと、国体にも影響がおよび、革命にひとしい衝撃的な変化となる。
 国体の解体と国家分裂の危機を隠蔽したまま、ある勢力が、改革の一環として、道州制の導入をはかっているのなら、これほど、物騒な話はない。
 政治家が、この罠に気がつかないほど、国体防衛や国家主権に鈍感なのであれば、これも、不気味である。
 道州制ビジョン懇談会の江口は、著書『地域主権型道州制』(PHP新書)に、こう書いている。
「私の『地域主権型道州制』について批判する人もいるだろう。それはそれでいい。しかし、反対のための反対、重箱の隅をつつくような反対は止めてほしい。揚げ足取りの批判はごめんこうむりたい。反対、批判するのならば、なにより、そのあなたに私は問いたい。ならば、あなたは崩れつつある、いまの日本を救うために、どのような全体構想をもっているのか、と。それもないなら、あなたと軽々に議論するつもりはない」
 道州制の導入に反対なら対案を提起しろと、行政機構の改革を前提にして、居丈高なのである。そして、こうつづける。
「中央集権体制によって、国民の生活が画一化され、強制され、個性を奪われ、自由を阻害されている。実際のところ、このごろの犯罪、とくに若い人たちの犯罪などをみると、中央集権体制の抑圧が個人にストレスをあたえ、取り返しのつかない事件を発生させている例が多い」
 国家の衰弱が、国民活力の低下やモラルの崩壊をうむというのが一般常識で、中央集権が諸悪の根源などという理屈は、これまで、聞いたことがない。
 道州制の発案者は、松下電器産業の創業者で、PHP研究所をつくった松下幸之助とその松下が師事した下村宏(内閣情報局総裁・朝日新聞副社長/ポツダム宣言の受諾や玉音放送の中心的人物)である。
 江口の「地域主権型道州制」は、松下幸之助の「廃県置州」をひきついだものと思われるが、オリジナルは、行政上のコスト削減と県による差別意識の撤廃をはかった下村宏の「道州論」である。
 さらに、さかのぼると、福沢諭吉の「廃県論」がある。福沢諭吉、下村宏、松下幸之助らに共通するのは、徹底した経済効率主義と福沢の「脱亜入欧論」や著書「西洋事情」「文明論之概略」に象徴される国際主義である。
 いまでいう、新自由主義とグローバリゼーションで、これが、現在の道州制に、ひきつがれた。
 というのは、道州制は、すべての価値をカネに換算する新自由主義と、左翼色の濃いアメリカ新保守主義(ネオコン)の産物で、小泉内閣からはじまった構造改革のしめくくりが、この道州制導入だったからである。
 アメリカは、けっして、保守主義の国家ではない。歴史の浅い国なので、回帰すべき歴史がないからである。保守思想といっても、キリスト教と反共主義のほかには、建国の理想としての自由原理主義(ハト派)と民主原理主義(タカ派)があるだけで、日本やイギリスのような歴史や知恵(コモンセンス)、伝統的な価値観や思考形態がない。
 ちなみに、アメリカが、民主主義の名のもとでおこなった戦争がイラク戦争で、自由主義の名のもとでおこなった金融・経済侵略が、グローバリゼーションだった。
 プラザ合意からバブル崩壊、第二の敗戦といわれる日米構造協議以降の金融・経済面での屈服から年次改革要望書にいたるまで、日本は、アメリカがおしつける構造改革とグローバリゼーションに痛めつけられてきた。
 その仕上げが、東京のワシントンDC化と日本の連邦化をはかる道州制の導入である。
 なぜ、道州制が必要なのか、という肝心な話をスッとばして、道州制への完全移行を前提に、改革派系の懇談会などが、州の数や線引き、権限の分担をきめたのは、国民から異論がでる前に、道州制導入を既成事実化してしまおうという狙いがあったからであろう。
 道州制導入は、歴史上、類のない大改革で、革命にひとしい。
 その革命を、新自由主義にのっとった経済至上主義と、伝統という裏付けのないアメリカ民主主義で、一気に実現してしまおうというのが、改革主義者のやり方とみえる。
 道州制は、基礎自治体に公選制の首長をおき、将来的には、各道州が主権をもつ連邦共和制にしようという事実上の無血革命である。
 十いくつの州の首長と州都が、主権と自治権を宣言して、独立集州の補選をへて大統領がえらばれることになれば、日本は、歴史が不在のアメリカのコピー国家となり、万世一系の天皇を中心に和をむすんできた日本国の二千年の歴史と伝統は、廃棄される。
 ここに、是が非でも、道州制の法制化を阻止しなければならない、国体上の大問題が横たわっている。

 ●和と均一性、中央集権が日本のパワー 
 現在、連邦制をとっている国は、アメリカのほか、スイスやドイツなどがある。アメリカは、もともと、州政府や入植者が、経済原理にそって、原住民から奪った土地を分け合った国柄である。
 多民族・多言語のスイスは、連邦制以外に、国家の体裁をたもつことができず、歴史的に統一国家ではなかったドイツは、敗戦後、国家が滅亡したため、ドイツ人の団結力や発展をおそれた連合国によって、東西に、さらに、米・英・仏によって、11の州政府(西ドイツ)へ、八つ裂きにされた。
 連邦化は、中央集権の求心力が弱まるため、国家の衰弱につながる。
 旧ソ連連邦が崩壊したのは、各連邦間の摩擦や経済不況、共産党官僚の腐敗が深刻化したためで、中央集権の求心力がはたらかなくなれば、連邦国家は、連邦間でひきおこされる摩擦と経済不況、腐敗の三悪によって、倒壊してゆく。
 日本は、世界で、唯一、万世一系の神話的な存在である天皇を中心に「和」という特有の文化のもとで、家族国家を形成してきた。
 アメリカのような歴史をもたない国とも、他民族・多言語の国とも、敗戦によって国土を八つ裂きにされた国とも異なる日本が、歴史的経験がない連邦制をとったら、和という中心原理(=セントラル・ドグマ)が失われ、道州間に、それまで、経験したことがない摩擦が生じて、発展どころか、数年をへずして、非力なアジアの一分裂国家へ転落してゆくだろう。
 日本のパワーは、和という中心原理、均一性、中央集権という伝統的な国柄からうまれている。これを廃棄して、先進国と肩を並べられると思うのはおおまちがいで、本気で、そう思っているのだとすれば、おそるべき亡国の論である。
 江口は、著書で、こうのべている。
「日本の一地方と同程度の人口・面積しかもたないアイルランドやデンマーク、スイス、オランダ、オーストリアなどが、世界屈指の高所得国に成長している一方、日本は、イギリスやドイツ、フランスを上回る人口・面積をもちながら、これらの国はおろか、先進国平均の成長率を下回るまでに経済・所得が停滞している。日本を小さな国に分けて、道州制国家になれば、中央集権のハンディキャップを克服できる」
 なんという、粗雑な議論であろうか。
 ヨーロッパ諸国の発展は、欧州連合(EC)という中央集権的な求心力がはたらいたからで、一方、日本経済の停滞は、アメリカのいいなりになって、グローバリゼーションや構造改革に走り、求心力を弱めたからである。
 国家は"家"にたとえることができる。玄関や台所、茶の間や書斎、客間や寝室、便所もあるが、これが、統合的にはたらいて、家の形態となる。会社にたとえてもよい。製造部や営業部、総務部や経理部、人事部があって、はじめて、会社という生きた組織になる。
 モノをつくり、カネを稼ぐのは、製造部や営業部である。だが、家に台所や寝室、便所が必要なのと同様に、カネは、稼ぎのない総務部や経理部、人事部へも支給されなければならない。
 これが、地方交付金や補助金で、これを打ち切って、中央と地方の所得格差をひろげたのが、新自由主義の小泉改革である。
 地方も自立して、じぶんでカネを稼げというのだが、東京都に食糧を自給しろというのと同様、無理な相談である。先日、奈良県の吉野へ行ったが、あそこで、どうすれば、自力で産業を興せるであろうか。
 日本の経済は、過疎地のきれいな空気と工業地帯の汚れた空気が、どこか見えないところでつながっている大きな関係のなかで、成立している。過疎なのは、若者が、都会へ行ってしまったせいで、その恩恵をうけた都会が、過疎地へ地方交付金をだして、経済の手助けをする――こういう和の精神によって、これまで、日本は、発展してきた。
 それが、全体性の利益追求と中央集権のメリットである。
 補助金や支援がなくなれば、過疎地や産業のない地方は破産する。それが、地方を犠牲にしてきた経済国家の構造的欠陥で、この矛盾を解消するには、中央が地方へ、手をさしのべて、お返しをしなければならない。「人生いろいろ」や自己責任で片付く問題ではないのだ。
 日本を連邦化して、過疎地に自己責任を課して、地域経済を活性化させることが、可能であろうか。
 道州制が導入されると、州都へ資金やカネが集まって、ミニ中央集権化がおき、過疎化がさらに深刻になるだけである。とくに、道州制では、中央からの補助金がなくなるので、破産する州や自治体もでてくるだろう。
 道州制は、地方経済にとって、けっして、追い風にはならない。
 道州制の導入によって、資金が流入して地方が活性化するというのも、地域社会にかかる行政の権限を道州に委譲して、課税自主権、税率決定権、徴税権をもたせると、地方が元気になるというのも、世紀の大嘘である。
 州では、資本マーケットが小さいので、設備投資や商品開発などに大きな資本を投下することができない。スケール・メリットがない地方経済は、中央経済とのタイ・アップが必要なのである。
 日本経済の強みは、日本全土という広いマーケットに同質性・均一性があることで、これは、EC統合によって大きな市場をえたデンマークが、酪農製品の売り上げをのばしたのと同じ原理である。
 小さな国だから経済がうまくいっているという江口の仮説は、デマゴギーなのである。
 道州制の問題点は、経済だけではない。
 主権道州ができたら、こんどは、左翼が煽って、オリジナルの憲法、国旗、国歌をつくるうごきがでてくるだろう。東京DCのある関東国と張り合い、摩擦のタネをふりまき、紛争に政治エネルギーを消耗するようなことになれば、経済発展どころではなくなる。
 かつて、ヨーロッパ列強は、アフリカを再分割する際、@部族を分散させるA一国に多くの部族種を混在させるB崇める神がちがう部族を同じ国に住まわせる――という弱体化戦略をとった。
 中央主権をつくりだせなかったアフリカ諸国は、いまなお、ツチ族とフツ族が殺しあったルワンダの悲劇に代表される悲惨な内戦が絶えない。
 道州制によってうまれる独立自治体は、和と均一性、中央集権制という、これまで日本の国力をささえてきた特性を失った一地方にすぎず、その行く末は、内地の都市との一体感を断たれた場合の北海道をイメージするだけで、十分であろう。
 地方の活性化は、革命的な道州制という方法をとらなくとも、たとえば、地方農家のオリジナル・ブランドのワイン製造にまで口出しする中央官庁の支配力を大幅に制限するだけで十分で、それが、考えうる、もっとも効果的で、現実的な方法である。
 そういう、順当な方法をとらず、いきなり、道州制へ飛躍するのは、改革主義者の狙いが国体の変更にあるからではないかと、わたしは、疑わずにおられない。
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2008年05月27日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(23)

 ●天皇の文化=神道と西洋のキリスト教文明
 雅子妃のボイコットを理由に、宮中祭祀の廃止をうったえる言説がでてきた。
 明治学院大学の原武史教授の「皇太子一家『新しい神話づくり』の始まり」(月刊「現代」5月号)もそのうちの一つで、サブタイトルに「宮中祭祀の廃止も検討すべき時がきた」とある。
 内容は、宮中祭祀は、前世紀の遺物なので、廃棄して、ボランティアをやったほうがよいという、お話にならない内容で、雅子妃の宮中祭祀ボイコットを逆手にとって、天皇体制を形骸化しようという魂胆であろう。
 これらの者たちに共通しているのが、神道を、仏教的・キリスト教的な価値観でとらえる視点である。
 天皇が、天照大神に、何事かを祈念していると思っているのである。
 宮中祭祀は「神に祈る神」=天皇が、身体を浄め、心を清らかにして臨む儀式で、一つの型である。
 型は、カタチで、言挙げしない日本の文化は、カタチを整えるところに根源がある。
 神道の参拝も、手水を使い、二拝二拍手一拝などの型だけあって、神に何事かを願うわけではない。
 浄めとカタチができれば、蘇りや生命の再生は、おのずとあらわれる。
 そこが、神との契約といわれるキリスト教や成仏をねがう仏教と異なる。
 神道は、思う、願う、念じるという賢しらを捨てて、モノ・コトの本質へ立ち返る儀式で、人間の頭で考えることは、もとより、対象になっていない。
 モノはコトへ、コトはモノへ変化して、実りをもたらす。籾というモノは、手をくわえるコトによって、苗になる。苗というモノは、太陽の恵みをうけるコトによって、稲穂というモノになり、手間をかけるコトによって、コメというモノになる。
 大自然のなかで、モノとコトが循環するのがむすび(産巣日・結び)で、その奇異(くすしあやし)にくらべて、人間の思いや考えの、いかに生臭く、小さいことか。
 身体を浄めるのは、その生臭さを水に流すことで、儀式は、賢しらを捨て、モノ・コトが循環する大自然と合一して、高天原に、この世の弥栄(いやさか)をねがうものである。
 天皇はこの儀式を、国民になりかわって、おこなっているのである。
『本居宣長』を著した小林秀雄の文章を要約して、引用する。
「(日本人にとって)宗教は、教理ではなく、祭儀という行動であった。長いあいだのその経験が、日本人の文化にたいする底力を育んだ。海外から新しい文明や観念がはいってきたとき、それをうけとる日本人の気質(かたち)は、すでに、完成していた。文明や観念に気質を変える力はない。気質が、文明や観念を吸収して、己の物とするのである」
 カタチを重んじる祭儀が、文化を吸収する日本人の気質を育て上げたというのである。
 カタチができていれば、内実がともなう。外からどんなものがきても、うけとめ、咀嚼して、じぶんのものにできる。
 大陸からきた漢字や小乗仏教、唐文化を、ひらがなや大乗仏教、国風文化につくりかえることができたのは、日本の文化は、すでに、カタチができていたからで、このカタチができあがっていなければ、内側から、外来文化にとりこまれる。
 原という者は「実りを祈る祭祀は時代遅れ」という。天皇が、豊作を念じて、天照大神を拝んでいると思っているのである。そして、そんなムダなことはやめて、世界一の高位にある天皇に、町で、ボランティアをやれというのである。
 戦後、西洋文明で育った者は、日本文化の根本が、大自然のなかで、モノがコトへ、コトがモノへ循環する美や実(まこと)にあって、宮中祭祀が、それを再現していることに、気づいていない。
 西洋合理主義にそまったひとは、すべてを、科学や合理、イデオロギー、特定の価値観で説明しようとする。そのとき、モノがコトへ、コトがモノへと循環する大自然の知恵や力が消え、代わりに、生臭く、小さい人間主義が浮上してくる。
 古代のギリシア・ローマ文明、中世のキリスト教文明、近代合理主義をへて、現代の科学万能主義へつらぬかれているのは、人間中心の理性主義である。
 フランス革命では、王の代わりに、理性神が玉座におかれたが、人間の理性に、それほどの価値がなかったことは、理性だけでつくりあげられた共産主義革命の結末をみればわかる。
 日本の文化は、自然の力を敬うところから生じているが、西洋文明は、人間が自然を支配できるという傲慢からうまれた。
 ギリシア・ローマ文明は、森林を破壊して、天水農業を破滅させ、略奪経済と侵略戦争にむかった。キリスト教の中世では、自然物から、動物までも神からの賜物とする思想のもとで、食肉文化がすすめられ、牧畜と放牧によって、ヨーロッパの森や河川は、大半が消えた。
 森林と河川が消えた大地は死に、ペストのような疫病が大流行して、森の栄養を必要とする沿海漁業も全滅した。
 人間中心主義と理性は、自然破壊と肉食文化、略奪と侵略、奴隷売買という暗黒の中世をへて、科学文明へたどりついたが、鉄の科学と火薬の化学は、効率よくひとを殺すため(武器)と、金をえる(錬金術)ための副産物だった。
 日本の文化と西洋文明は、逆転した構図になっている。
 西洋人は森を破壊しつくしたが、日本人は、森を大事にして、古代より植林をおこなってきた。日本の古代宗教では、自然やモノが迦微(かみ=神)だったので、枝一本、おろそかにできなかったのである。
 勿体ないという考え方、物を大事にする発想は、物自体が迦微だった神道の名残で、それも、日本の文化である。
 中世・近世にかけて、日本には、世界一のものが、数多く、あった。
 水田技術をささえた農業土木、釘を使わずに五重塔をつくった木造建築技術、森と河川がはぐくんだ沿海漁業、大衆レベルの食文化、士農工商によるマクロ経済、和歌や俳句、浮世絵、草紙物などの庶民文芸など、枚挙にいとまがない。
 一方、西洋は、十八世紀前後、産業革命がはじまるまで、特権階級以外、飢えをしのぐのが精一杯だった。民の味方=権威(天皇)がいなかったので、権力が、富や文化を独占したためである。
 製鉄や化学、酪農などの分野が、西洋より遅れたのは、当時、必要(需要)性が小さかったからで、近代以降、必要に応じて、日本は、短時日で、西洋と肩を並べる文明国になった。 
 日本は、近代の科学文明まで消化する文化の型=潜在力までもっていたのである。
 もう一つ、日本と西洋で、逆転しているのは、自我である。
 日本では、抑制されるべきものであった自我が、西洋では、もちあげられる。
 自我は、すべて神からの賜物であるとするキリスト教から、産み落とされた。
 聖書によると、自然も他の生物も、神がじぶんに似せてつくった人間に与え給うた生活資材で、したがって、征服も略奪も、神の御心にかなっている、ということになる。
 この自己中心的な世界観から、自我や人権思想がうまれた。日本で、人権といえば、泣くも子も黙る風潮だが、もともと、これは、キリスト教の教義で、神権政治や専制政治、絶対主義が滅びてからでてきたのが、民主主義である。
 西洋は、すすんでいるのではなく、世界戦争に勝ったキリスト教文明が、他の文明を隅におしやっているだけで、日本には、人権や民主主義以前に、人々が自然と共存して、仕合わせにくらせる神道という大思想があった。
 それを象徴しているのが、宮中祭祀で、人間は、心を浄めて、大自然と共存する以外、仕合わせに生きることはできない。
 だから、本居宣長は、ふしぎは、ふしぎのままでよろしき、といったのである。
 ふしぎを、そのまま、みとめることによって、人間の賢しらをこえた、大きな知恵につつまれる――というのは、この世界にあるありとあらゆるものは、奇異にささえられ、奇異の投影であるが、その奇異は、神の御仕業(みしわざ=古事記)なので、ふしぎという通路をとおって、われわれは、神々とともにあることができる――というのである。
 奇異の頂点は太陽で、お天道様の下に存在するものは、人間をふくめて、すべて、奇異である。天地があり、禽獣草木が生をいとなみ、人々が出遭い、万物が移りかわってゆくすがたは、けっして、理屈では説明がつかず、もののあはれ(安波礼)として、そっくり、うけとめるほかない。
 現代の日本人が、天皇の文化=神道を再発見すると、ボランティアなどという西洋のことばを聞いただけでうかれだす、原のようなばか学者は、少なくなるのである。



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2008年05月26日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(22)

 ●雅子妃は離婚して民間人に戻るべき
 小和田雅子という一女性によって、二千年以上つづいてきた天皇家の祭祀が、平成の世で、途絶えかねない事態になっている。
 公務サボタージュどころか、天皇家が主催する宮中祭祀に、平成十五年以降、皇太子妃として、一度も参列していないのである。
 天皇の最大の任務で、日本の伝統のいしずえである宮中祭祀に無関心な女性が、一二六代皇后になれば、皇室のあり方が、根本から問われることになり、天皇体制にとって、先の「皇室典範」改悪以上の危機となる。
 雅子妃の問題は、病気や個人的な事情によるものであろうか。
 皇太子妃なったほどの女性が、気まぐれから、祭祀や公務をサボタージュして、天皇家の歴史に泥を塗っているとは、とうてい、考えられない。
 成婚から皇室の伝統破壊、皇太子の洗脳にいたるまで、一連のかなしむべき事態は、一族揃って創価学会のコントロール下にあり、反日思想にこりかたまった小和田一族による確信犯的な謀略と、巷間、噂されている。
 事実ならば、雅子妃は、皇太子と離縁して民間人に戻り、徳仁親王殿下は、責任をおとりになって、皇太子の座を、皇太弟の秋篠宮文仁親王に譲られるべきであろう。
 さいわいにして、文仁親王と紀子妃のあいだには、悠仁親王というお世嗣がおられる。
 紀子妃は、平成十九年から二十年まで、天皇が251回、皇后が一八八回、つとめられた公務に一七六回、参列されており、わずか一八回の雅子妃よりも、よほど、皇后になられるべき資格をおもちである。
 病気と称して、公務や宮中祭祀をサボった翌日、いそいそとジュエリー展(平成18年/インドネシア大統領の宮中晩餐会欠席)や父母会(胡錦濤主席の宮中晩餐会欠席)へでかけ、私的外出をのべ100回以上もくり返している雅子妃とは、そもそも、資質が異なる。
 小和田家は、雅子妃の父親、恆が、大鳳会(外務省の創価学会集団)と関係が深く、宮内庁からの情報によると、雅子妃の妹夫婦は、正式な学会員である。創価学会は、家族を折伏できないのは信心が足りないせいとされて、学会内で高い地位がえられない。
 その意味では、恆も、妻の優美子も、当然、信者と考えられる。
 これで、雅子妃が、宮中祭祀に、一度もでなかった理由が、明らかであろう。
 創価学会は「神社を祀る日本は呪われた国」「神社に参拝すると一族が地獄に落ちる」という教えをふれまわっているカルト教団である。小和田一族は、雅子妃が、神道の最高神主である天皇が主催する宮中祭祀に参列すると、池田大作の怒りにふれて、仏罰が下ると思いこんでいるのなら、何をか言わんやである。
 中国への土下座外交を定着させた小和田恆は「日本はハンディキャップ国家なのでふつうの国になれない」「永久に中国へ謝罪すべし」「東京裁判は正しかった」「首相の靖国参拝は誤っている」など公然と言い放つ反日外交官で、外務省チャイナスクールをとおして中国に忠誠を誓い、創価学会の池田大作を崇める売国奴である。
 小和田家とは、いったい、どんな家系なのであろうか。
 小和田家には、恆の祖父、小和田金吉以前の系図や墓がない。士分以上であれば、考えられない。雅子妃の母親、江頭優美子も、水俣病という日本最大の公害事件をおこしたチッソ株式会社の社長・江頭豊の娘である。
 ちなみに、江頭豊は「貧乏人が腐った魚を食って病気になった」「(水俣病は)身体障害者のいいがかり」「原因がチッソでも社会的責任はない」と主張して、水俣病の解決を遅らせた張本人である。
 昭和天皇も、皇太子の小和田家との婚姻には反対で、故後藤田正晴も「皇居にむしろ旗が立つ」と猛反対した。むしろ旗といったのは、独自の情報チャンネルから、小和田家の素性や謀略に気がついていたからであろう。
 お妃候補から削除されて、皇太子も了承されたにもかかわらず、皇太子と雅子妃との再会を工作したのが、元外務次官で、恆の息がかかった柳谷謙介といわれる。雅子妃を皇太子妃に推した外務省グループのリーダー格だが、かれらが、大鳳会やチャイナスクールとつながっていたのは、疑う余地がない。
 再会後、皇太子が、雅子妃に直接電話して、宮内庁が困り果てたという。私心をはたらかされたのである。皇太子との婚姻が発表されたのは、その直後である。
 一連の出来事が<朝敵>による破壊工作員であったのら、彼女の背後には、天皇制度の崩壊を虎視眈々とにらむ、中国政府と創価学会、外務省チャイナスクールを中心とした売国奴グループの存在があるということになる。
 小泉首相の「皇室典範改悪」も、裏でうごいたのが、霞ヶ関の反日・創価学会系のグループで、その中心に小和田恆がいたとつたえられる。
 徳仁天皇・雅子皇后が誕生すると、左翼や媚中派、創価学会、改革・革命主義らによってふたたび「女系女性天皇」論がもちあげられて、反日マスコミが、愛子内親王が皇位につかれず、悠仁親王が次期天皇というのでは「雅子さまがおかわいそう」というキャンペーンをはれば、「女系女性天皇」が蒸し返される可能性がきわめて高い。
 皇室の権威や尊厳は、万世一系の男性男系にあり、皇太子妃や女系女性天皇は、もともと、皇位の系列から外れている。
 アメリカ大統領が最敬礼するのは、天皇陛下とエリザベス女王、ローマ法王の三人である。そのエリザベス女王も、天皇陛下と同席するときは、上座を譲る。男系の万世一系が、国際儀礼上、女王の上位であることをわきまえているからである。
 ローマ法王が外国を訪問した際、慣例として、その国の元首が法王を訪ねる。例外が天皇である。ヨハネ・パウロ二世が日本を訪問した際も、教皇が皇居に出向いて昭和天皇に表敬している。
 国際儀礼上、天皇陛下は、世界一の高位にある。だが、女性天皇の場合、ヨーロッパ王室は、正式の天皇とはみとめず、晩餐会でも、末席となる。
 ヨーロッパの王室は、女性の王位継承や財産相続をみとめないフランク王国の「サリカ法典」にもとづいているからである。万世一系同様、男系をとっているヨーロッパ王室も、女帝は緊急措置にすぎず、男系が絶えると、廃絶される。げんに、モナコ公国は、男子の世継ぎが誕生しなかった場合、フランスに吸収される約束になっている。
 徳仁親王が、こういう事実を見ず、雅子妃にひきまわれて、皇室外交を口走るようでは、天皇になる資格を欠いている、といわざるをえない。
 イギリスでも、皇太子が皇太弟に王位を譲ったケースがある。
 エドワード八世に代わって王位についた弟のジョージ六世である。
 ヒトラーやムッソリーニが台頭して、ヨーロッパが風雲急を告げていた1936年、イギリスで、王位にあったエドワード八世が、ウォリス・シンプソン夫人と恋に陥った。純潔をもとめられる王室の妃に、未亡人は、みとめられない。王冠をとるか、恋をとるかの選択を迫られたエドワード八世は、恋をとって、このとき、王位をジョージ六世に譲った。
 ジョージ六世は、いまにつたわる名君で、1940年のロンドン空襲で命を落としかけたときも、ロンドンから離れず、ドイツ軍のイギリス本土への侵攻にそなえ、拳銃を片手にバッキンガム宮殿にとどまり、ドイツ空軍によって破壊された国内を訪問して国民を慰め、勇気づけた。
 王は、私心を捨て、国のため、国民のために尽くすべしというのが、イギリス王室の伝統で、六世が56歳の若さで死去したのは、病弱をおして、激務にのぞんだからだとつたえられる。
 わが皇室も、これに倣って、徳仁親王は、皇位継承権を文仁親王へお譲りになって、雅子ともども、海外でお暮らしになってはいかがといいた。
 外務省の反日グループ「小和田一派」の謀略にひっかかり、邪恋で、私心があってはならない皇位の尊厳を汚したのであれば、皇祖皇宗は、けっして、お赦しになるまい。
 由々しいことに、最近、雅子妃のボイコットを理由に、宮中祭祀の廃止を主張する言説がでてきた。
 次回は、この言説の誤りと、神道における祭祀のすがたについて、のべよう。



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2008年05月14日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(21)

 ●「右翼論」その3/結果論的"善"であらねばならない任侠右翼
 農本主義や大アジア主義、国家社会主義に立つ伝統右翼は、戦後、GHQの弾圧やスポンサーだった保守政界や軍部、旧財閥の解体によって、事実上、壊滅した。
 右翼が国政や軍事、クーデターにかかわった時代は、敗戦によって、こうして、終わりを告げ、戦後日本は、共産党や組合運動の躍進によって、急速に、左傾化してゆく。
 GHQが、当初、めざしたのは、要人追放や財閥解体、農地改革などで旧体制を破壊する事実上の敗戦革命で、当時、GHQは、プレスコードや検閲、神道指令から、戦時教科書の黒塗り、武道の禁止、茶道の古書までを焚書にする、徹底的な文化破壊をおこなった。
 のちに、GHQは、ソ連・中国の脅威に気づき、急きょ、左翼路線を変更することになるが、それまでは、軍国主義をささえた右翼勢力が、GHQの最大の掃討目標だったのである。
 旧体制の組織や団体がGHQの標的になったなかで、任侠系の右翼団右翼が生き残ることができたのは、暴力団組織という独自の資金源をもっていたからである。
 任侠系の右翼団体は、戦後、うまれたわけではない。近代になって、自由民権運動や社会主義思想がさかんになってくると、危機感をつのらせた政府・公権力が、反政府運動の取り締まりに任侠団体を利用し、任侠団体も、その多くが、政治結社を名乗った。
 代表的なのが、原敬首相と床次竹次郎内相の提唱で結成された博徒と土建系任侠の全国的組織「大日本国粋会」(顧問・頭山満)で、国体護持と共産化の阻止を掲げて、労働争議介入やストライキ破りなどに、暴力的な直接行動をおこなった。
 任侠系の右翼は、伝統右翼とちがって、思想的な背景や含蓄があるわけではない。
 政治家や軍人、財界がこの任侠右翼を利用したのは、体制側にとって、かれらが、結果論的に"善"だったからである。
 政治や軍事は、結果論の世界である。たとえ、動機が善であっても、結果が悪では、政治は乱れ、戦争では負ける。悪知恵や謀略などの悪しき動機が、結果として、安全や平和をまもるのが権力のリアリズムなのである。
 一方の動機論は、結果に責任をもたない女・子どもの発想で、たとえていえば、憲法九条や絶対平和主義が、これにあたる。
 反体制側が、任侠右翼を無知でやくざな暴力集団=悪とみるのは、女・子どもの動機論に立っているからで、男・大人の結果論に立つ体制側にとって、任侠右翼は、体制の防人=善である。
 右翼論の根底にあるのは、この「結果論的善」で、任侠右翼が、反体制派にとって恐怖の対象で、かれらが、体制の防波堤、社会の防腐剤となれば、それで、十分に存在価値があり、学識をひけらかして正論を語るだけのインテリ右翼は、かえって、有害ということになる。
 任侠右翼が躍進してきたのが、60年安保闘争だった。
 昭和二七年のサンフランシスコ平和条約締結によって、日本は、独立した。
 だが、政治的には、社会党などの左翼の勢力がつよく、日本共産党も、第六回全国協議会(六全協/1955年)以降、議会への大量進出をはかり、議会内革命が懸念される情勢が生じてきた。
 左翼対策に、任侠右翼を利用しようとしたのが、吉田茂内閣で法務総裁を務めていた木村篤太郎である。
 1960年の日米安保条約改定で、政治的混乱が予想されるなか、警察力の整備に不安を抱いた木村は、20万人暴力団を組織化して共産主義勢力に対抗するべく、右翼の大物、児玉誉士夫に相談をもちかけた。
 この結果、テキヤ系組織は東京街商組合・日本街商連盟、博徒系組織は、日本国粋会を結成して、暴力団の組織化(愛国反共抜刀隊構想)がすすめられた。この構想は、吉田の承認をえられなかったものの、このとき木村は、37の右翼団体を糾合して、安保闘争にそなえる。
 安保改正の1960年、アイゼンハワー大統領の訪日反対の大規模な反対運動を阻止するため、岸信介首相は、木村篤太郎と、当時の自民党幹事長・川島正次郎に、ヤクザ・右翼の動員を命じている。
 このとき、児玉は、警視庁と打ち合わせて、稲川会五千人、松葉会二千五百人、飯島連合会三千人、国粋会千五百人、義人党三百人、神農愛国同志会一万人を「警官補助警備力」として、東京・芝の御成門周辺に配置することをきめている。
 これに前後して、血盟国事件の井上日召や浜口雄幸襲撃事件の佐卿屋留男らの護国団が音頭をとった「全日本愛国団体連合会」(全愛会議)をはじめ、「大日本愛国団体連合・時局対策協議会」(時対協)、「青年思想研究会」(青思会)、自民党議員も多く所属する保守主義者団体「日本会議」などが、次々に結成された。
 50年代の砂川闘争、新島闘争、60年代のハガチィー事件、安保闘争など、左右陣営の衝突が激化するなか、60年には、安保闘争で樺美智子が死亡、浅沼稲次郎社会党委員長が右翼のテロで倒れ、岸信介首相も、右翼に刺されて、瀕死の重傷を負うという事件がおきる。
 この60年が、左右両陣営にとって最大の山場で、その後、安保の岸内閣から所得倍増の池田勇人内閣へ政権交代がおこなわれると、社会の関心は、政治から経済へ移り、任侠右翼は、次第に、存在理由を失っていく。
 70年代にはいると、政府や警察当局は、用済みとなった任侠右翼にたいして、暴力団のレッテルを貼って取締りを強化、なかには、解散に追いこまれた団体もでた。
 任侠右翼は、もともと、博徒やテキヤ、やくざで、かれらを体制の番兵として利用したのは、権力である。使用済みになったからといって、切り捨てるのは、権力側の都合によるものだが、任侠右翼も、高度成長、とりわけ、バブル経済時には、総会屋や金融機関、不動産や建設業者と結託して、大きなしのぎをえた。
 任侠右翼に、もっとも、勢いがあったのは、この時期で、やくざ世界では、企業舎弟という新語がうまれたほどである。
 やがて、バブルが崩壊する。戦後の経済復興期に、労働運動を妨害するなど、一貫して大企業の側に立ち、企業の裏活動をささえ、もちつもたれつ関係を築いた任侠右翼にとって、バブル崩壊と暴対法の施行、総会屋への取り締まり強化は、大きなダメージとなった。
 以後、任侠右翼は、資金源も闘争目標も失って、長い低迷期にはいる。
 かつて、体制側にとって結果論(体制の守護)的善で、反体制側にとって動機論(反体制派への妨害・反社会性)的悪だった任侠右翼は、いまや、時代の変化にともなって、その在り方をかえなければならない時期を迎えているように思われる。
 というのは、かつて任侠右翼は、反共の砦として、存在価値があったが、現在、反共というスローガンは、すでに、無効になりつつあるからである。
 右と左の闘争は、すでに、決着がついている。日本人は、だれも、中国や北朝鮮のような国を理想と思っていない。そこで、旧左翼は、共産主義からコスモポリタニズム(無国籍主義)や反日主義へのりかえ、攻撃目標を、政体(政治)から国体(天皇体制)へきりかえてきた。
 左右対決という図式が消え、代わりに、愛国主義と反日主義という新たな対決の図式がうかびあがってきたのである。
 たたかいの場が、政治やイデオロギーから、国体や文化論へと移ってきた。
 ということは、運動の転換期がきたということである。
 政治は、選挙民や論壇系の政治評論家にまかせ、右翼は、国体のことだけを考え、行動すべきということであって、このうごきをつかまなければ、必要悪としての任侠右翼の存在価値が、なくなる。
 社民党や日本共産党、自民・民主党の左派は、日本をよい国にしようとして、政治活動をしているのであろうか。
 否である。政権をとって、国体を変更することがかれらの目的で、その兆候が、道州制の導入や皇室典範の改悪、人権法・フェミニズム法・外国人参政権法などで、自虐史観や媚中外交、戦争謝罪、歴史の共通認識などは、すべて、そのためのプロパガンダといってよい。
 日本を、共産党や民社党、自民・民主党左派、左翼出身の官僚のいうとおりにかえていけば、日本は、もはや、日本ではなくなる。ということは、かれらが血眼になって、やろうとしているのは、政体の変更ではなく、国体の変更だったのである。
 旧態依然として、右だ左だといっていると、右翼は、反日主義=国体変更主義の戦略に気づかないまま、取り残されて、近い将来、日本は、小泉純一郎が端緒を切った「国体変更計画」にのみこまれることになるだろう。
 かつて、右翼は、国家の危機に体を張った。そのときは、左右陣営の対立という図式がはっきりとしていたため、迷うことなく、必要悪=結果論的善の存在になりきれた。
 だが、現在は、国家の危機がどこからきているのか、ひじょうに、わかりにくくなっている。
 はっきりといおう。現在、日本が直面している国家の危機は、国体、三島由紀夫が「文化防衛論」で指摘した、日本精神が脅かされているところから生じている。
 三島は「文化防衛論」で、こうのべた。
 われわれは自民党を守るために闘うのでもなければ、民主主義社会を守るために闘うのでもない。……終局、目標は天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するような政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。
 なぜなら、われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本文化伝統をかけて戦わなければならないと信じているからである。
 
 右翼が、何をまもり、何のためにたたかうのかをわきまえたとき、かれらは、ふたたび結果論的"善"となるのはあるまいか。



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2008年05月07日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(20)

 ●「右翼論」その2/極右のテロリズムと極左のゲバルト 
 日本の極右を定義することはむずかしい。
 左翼過激派、極左のように、戦略として、暴力主義を唱える団体はなく、革マルや中核派、革労協に匹敵する戦闘的な団体や組織があるわけではないからだ。
 右翼思想は、思想の練磨から奉仕活動、直接行動まで、幅が広い。
 おだやかな愛国思想からテロリズムまでが、一本の糸でつながっており、一介の草莽の士が、突如、直接行動にでるという事態も、ありうるのが、右翼のすがたなのである。
 その右翼のなかで、極右といえば、行動右翼をさす。
 行動右翼には、伝統(組織・神道)右翼と任侠(やくざ一家・暴力団系)右翼の二つの系統があり、そのうち、極右のレッテルを貼られているのが、街宣車をもち、街頭で宣伝活動をおこなっている任侠右翼とよばれる団体である。
 伝統右翼のうち、組織右翼は、思想的には、頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの国家・国権主義に立ち、現在は、三島由紀夫を慕う民族派グループが、その流れをくんでいる。
 五・一五事件、2・26事件に関与した国家社会主義の大川周明や北一輝、血盟団事件の井上日召らも、伝統右翼にくくられるが、一部の軍人と組んで、権力闘争にかかわったことから、右翼というより、むしろ、ウルトラ国家主義者といったほうがいいように思う。
 神道右翼は、蓑田胸喜、葦津珍彦らの思想家から、終戦直後、14名が天皇陛下に敗戦を詫びて割腹自殺した大東塾の影山正治までを擁する大山脈で、現代の右翼思想の一つの潮流をなしている。
 任侠右翼は、60年安保の際、共産主義革命に危機感を背景にうまれた団体で、多くが暴力団系の政治結社である。反共を旗印にしているところから、全愛会議(全日本愛国者団体会議)や児玉誉士夫系の青思会(青年思想研究会)、愛国党の赤尾敏らと共通点をもつ。
 全愛会議や児玉誉士夫系右翼については、次回、「戦後の行動右翼」で詳しくのべる。
 極右を定義することはむずかしい、とのべたのは、極右という存在はなくとも、内部にテロリズムをかかえている右翼は、ときと場合によって、突如、極右へきりかわるからである。
 いいかえれば、右翼は、テロをおこなうことによってのみ、極右となるのである。
 極左は、暴力=ゲバルトを恒常的な手段とするが、右翼は、その必要に迫られたときにかぎって、テロという非常手段をうったえる。それが極右で、極左のように、暴力主義を目的化しているわけではない。
 日本の右翼は、左翼とちがい、権力志向をもっていない。
 政権奪取のためのクーデター、あるいは、保守政党が政権をとるための前衛的な役割を担っているわけでもない。
 極右=テロは、国体を危機から救うための自己犠牲で、「一殺多生」というテロリズムの論理には、自死という、究極の無私の精神がともなっている。他人の生命を奪ったからには、みずからも、生命を絶つのが右翼のテロで、権力闘争のため、政敵を殺傷する左翼のゲバルトとは、本質的に、異なる。
 右翼テロが、美学となりうるのは、目的を果たしたあと、潔く散ってゆくからで、生きのびれば、ただの殺人者である。
 テロは、法治国家の基準からも、人道的見地から見ても、狂気の妙汰ので、犯罪行為である。
 その右翼テロが、日本の風土で、殺人と区別されてきたのは、無私という、人為がおよばない領域の行動だったからで、たとえ、それが狂気であっても、人間をこえているテロリストに、この世の法律や善悪をあてはめることはできない。
 一方、暴力革命をとおして政権をとろうとする極左のゲバルト殺人は、敵対する勢力の殲滅や粛清が目的で、かれらは、みずからの権力欲のため、多くの人々を犠牲にする、ただの殺人者である。ちなみに、極左の内部闘争によるテロの犠牲者は、百人をこえているが、犯人は、ほとんど逮捕されていない。
 テロリズムの原義は、権力による恐怖政治である。だが、日本の極右テロは、権力側に恐怖心をあたえる逆テロリズムで、標的は、我欲のために国益を害い、国体を危うくする政・官・財界の売国的指導者である。
 といっても、右翼テロの動機は、政治にかかるものではなく、あくまで、国体防衛で、拠って立つところも、国体である。国体は、政体とも、国家ともちがい、それ以前の、歴史や民族という根源的なものにかかわっている。
 政治には、まがりなりにも、一般投票という制度があり、有権者である国民は、投票をつうじて、政治に関与できる。その意味で、国家も政治も、国民の前にオープンになっている。
 ところが、その政体の土台となっている国体は、国民の手の届かないところにある。
 国体の維持という国是がまもられているかぎり、国体が、国民の手の届かないところにあっても、不都合もない。
 だが、為政者や権力をもつ者が、国体を破壊しようとした場合、国民には、それを阻止する手段がない。
 国体の変更はゆるされない。現在というこの一瞬しか生きていない者、一過性の権力にすぎない政治は、歴史に根ざしている国体を変える権利がなく、その資格もあたえられていないからである。
 その国体が、権力の座にある者の私心や私欲によって、毀損され、破壊されようとしたとき、身をもって、無防備な国体をまもるのが、右翼である。
 右翼は天皇の防人――というのは、売国奴から国体をまもれるのは、理論上、右翼しかいないからである。
 テロ事件が発生すると、識者は、「民主主義の危機である」「民主主義の世の中でテロはゆるされない」と口を揃える。
 だが、民主主義は、専制政治や独裁、全体主義よりましというだけで、けっして、理想的な体制ではない。むしろ、民の独裁なので、民や資本を味方につけると、どんなこともできる暗黒性をもっている。
 資本やマスコミは、民主主義の名のもとで、独裁者のような力をもち、国民は、これに対抗する意思も手段ももちえない。民主主義の基本である多数決も、少数派の排除という不条理をともない、格差社会や衆愚政治をうみだす。
 民主主義は、専制政治にたいするアンチテーゼなので、理論上、国家理性=国是が制限される。人権を最大の価値として、国権を危険なものとする民主主義においては、革命権までがみとめられているので、反政府運動や左翼の政治活動にたいする取り締まりもゆるやかで、むろん、中国のように、治安をまもるための予備拘束のようなことは、不可能である。
 つまり、民主主義は、左翼による革命、および、右翼による反革命の危険性にたいして無防備な制度で、けっして、安全でも平和的でもない、むしろ、危なっかしい仕組みなのである。
 革命権をみとめる民主主義において、資本とマスコミ、左翼、官僚の天下となるのは、現在の日本を見ればわかるとおりで、無防備な国体は、これまで、左翼陣営の最大の攻撃目標にされてきた。
 革命・国家転覆・国体破壊という超法規的な戦略をもつ左翼に対抗できるのは、テロという、法を超越した行動論理をもつ右翼だけで、だからこそ、民主主義のなかに、存在が許容されている。
 民主主義においては、左翼運動ばかりか、大資本の横暴、マスコミの言論暴力、官僚の過剰権力がゆるされる。右翼テロは、これを制御する手段として、存在する。民主主義が国体を否定する方向へ傾いているぶん、非合法の右翼テロが突出するのは、合法、非合法を別にして、政治力学的なバランスなのである。
 テロは、民主主義の敵なのではなく、民主主義だからこそ、テロが存在する。
 テロの恐怖がなければ、左翼・資本・マスコミ・公権力だけが肥大して、民主主義の矛盾に、国家や国体が、ねじ切れてしまうことになる。
 右翼の存在価値は、恐怖にある。その恐怖は、その行動原理が、法をこえているところからでてくる。
 右翼テロが、法をこえているのは、一過性の政体ではなく、永遠の国体に拠って立っているからで、右翼テロが、神の領域というのも、命を捨てて、国体をまもるには、無私でなければならないからである。
 極左の暴力主義と極右のテロは、じつは、もっとも遠いところにあったのである。
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2008年04月27日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(19)

 ●「右翼論」その1/右翼がまもるべきは国体の永遠性 
 右翼といっても、日本と欧米では、根本思想が異なる。
 ヨーロッパの右翼がもとめるのは、現実世界にある政治権力である。
 一方、日本の右翼は、悠久の歴史という時間の経過が刻みこまれている国体の護持を使命とする。
 国体は、天壌無窮の神勅(日本書紀)にもとづいて「神の御子孫たる皇孫が、天地の果てることの無きが如く、統べ治め給う永遠の国土」のことで、政治や政体は、国体の上にのっている一過性の権力機構にすぎない。
 永遠の国土、というのは、易姓革命によって、存亡流転してきた中華王朝にたいする反対概念で、聖徳太子が、隋の皇帝に送った親書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と、万世一系の皇統を太陽にたとえた故事からもわかるとおり、このことばは、日本の国体が永久不変であることをあらわしている。
 国体の永遠性は、神道から生じたもので、論拠を立てて、言挙げすべきことではない。
 どんな民族も、神話をもっており、その神話は、何ものにもかえがたいので、日本の右翼は、身をもって、国体をまもってきたのである。
 特攻隊の遺書に、国体のすがたをいいあてたものがあるので、紹介したい。

 生を享けて、二三年、私には私だけの考え方もありましたが、それは、もう無駄ですから、申しません。特に善良な大多数の国民を欺瞞した政治家たちだけは、今も心にくいような気がします。しかし私は、国体を信じ、愛し、美しいと思うがゆえに、政治家や統帥の輔弼者たちの命を奉じます。
 実に日本の国体は美しいものです。
 古典そのものよりも、神代の有無よりも、私は、それを信じてきた祖先達の純心そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。
 国体とは祖先達の一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国の最善至高なるものが、皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。(後略)
名をも身をも さらに惜しまず もののふは 守り果さむ 大和島根を

 国学院大学の学徒動員で、階級は予備少尉。山口輝夫という二三歳のこの特攻隊員が命を捨てて、まもろうとしたのは、日本の国体であって、東条内閣でも、所属する海軍でもなかった。
 日本の右翼が、政権奪取をめざさず、国体の護持だけに使命感をもちつづけてきたのは、政治権力によって国の根幹をかえてきたユーラシアの国々とは異なり、日本の国柄が、国体という神話や歴史、文化、習俗という永遠の基盤にあって、権力は、一過性の政治機構にすぎなかったからだった。
 国体という観念のない欧米では、右翼という呼称は、ファシスト政党など、政体内の反民主主義グループをさすことが多い。政体内の勢力である以上、政権奪取をめざし、当然、選挙にも出馬する。
 ヒトラーのナチス党も、ワイマール憲政下の民主選挙で、第一党に躍り出て、政権をとった。欧米の右翼は、ナチズムの流れをくむ超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)や民族の優位性を叫ぶ民族主義的な政党活動であって、もとめるのは、あくまでも、政治権力である。
 ヨーロッパで、国体の観念が育たなかったのは、国家がイコール境界線で、古代の神々が、キリスト教に滅ぼされたからである。
 境界線をもたない島国で、太陽を絶対存在(太陽神ではない)とする神道という雄大な宗教観のもとで、異文化・異教を呑みこんできた日本では、力の論理による抗争や政治ではなく、和を土台にした国体運動によって、国が治まってきた。
 これは、日本独自の文化体系で、祖先は、この国体をまもるため、命を投げだしてきた。
 日本の右翼が、街宣と称して、宣伝カーで軍歌を流し、日の丸を振り、政策を訴えるのは、本来、筋がちがう。選挙に出て、議席を確保するという使命がない以上、右翼の活動は、政治活動ではなく、国体運動でなければならないからである。
 国体運動というのは、文化・伝統防衛で、畢竟、天皇をまもることである。
 かつて、火焔瓶闘争をおこない、トラック部隊(資金調達)を組識して、暴力革命を志向した共産党が第六回全国協議会(六全協)の後、議会内革命へ路線変更して「天皇制反対」のスローガンを捨てた。
 日本共産党は、革命という国体変更を諦めて、政権奪取へむかったのである。
 日本の右翼も、政権を狙うのなら、日本共産党と同様、路線変更して、ヨーロッパ型の右翼へモデル・チェンジをしなければならないが、そのとき、右翼の存在価値はなくなる。
 日本の右翼は、権力志向をもたないことで、国体の守護者たりえている。
 権力を志向すれば、権謀術数や利害、損得などの一過性の世界にまきこまれて、俗化される。この現実主義によって、右翼の存在価値がなくなってしまうのは、恐怖というインパクトが消えるからである。
 右翼の恐怖は「歴史からの報復」という側面をもっている。
 この国をつくり、まもってきたのは、いま生きている人間ではない。過去に、多くの人々が流した血の上に国体が築かれている。その国体を、現在を生きているにすぎない者たちが、じぶんたちの都合や理屈によって危うくしたとき、歴史から報復をうけるのは、当然である。
 歴史に消えていった死者は、何もできない。
 だが、右翼は、過去の人々の意思を継いで、現在を生きる国体の守護者である。
 だから、権力者や国体破壊者は、右翼がこわいのである。
 現在という一過性を生きているにすぎない人間が、じぶんの信条にしたがって、歴史や伝統、文化を破壊し、死者たちの魂をふみにじって恥じないのは、この国から、国体をまもるという右翼思想が、根こそぎ、消えてしまったからである。
 万世一系という2000年の伝統を破壊しようとした有識者会議のロボット学者が「歴史や伝統などは勘案に値しない」と言い放った。その六十年前、「万世一系の美しい国体をまもるため」といって、三千人に近い若者が、特攻機にのりこんで散華したことを思うと、ゆるされるべきことばではない。
 国体は、政治や権力、利害や打算どころか、現実からも切り離されて、過去から現在へつながる線上にただよっている。蒙古軍とたたかった武者も、203高地で戦死した兵も、特攻隊も、すべて、この国体のために、散っていった。
 国体は永遠なので、一過性の政治や法どころか、生死までをのりこえる。
 かつて、右翼がこわかったのは、国に殉じた愛国者の代理人という立場に立ったからで、かれらのなかで、燃えたぎっていたのは、ことばや理屈ではなく、情であり、祈りであった。
 情も祈りも、死を超越しているので、生にしがみついている者たちは、かれらの言動に震えあがったのである。
 その右翼が、政治論争や政権奪取に目の色をかえたら、国体を忘れたただの政治屋にすぎないものになり、こわいどころか、滑稽である。
 右翼のこわさは、生死をのりこえた思想を、身をもって体現させるところにある。
 本物の右翼にとって、テロリズムは、タブーではない。
 といっても、このテロリズムは、政争による暴力とは、まったくの別物である。
 政争によるテロは、気狂いに刃物であって、戦前の三月事件や十月事件、永田鉄山を斬殺した相沢事件は、議会を無力化して、軍の独走をまねいた愚行で、あれがなかったら、日本の戦争は、まったく、ちがったかたちになっていたであろう。
 右翼は、徹頭徹尾、国体守護の立場に立つ。
 かつて、大東塾という右翼団体は、景山正治塾頭以下、十四名が、天皇陛下に敗戦を詫びて、集団で、割腹自殺をとげた。自死をもって、国体の守護神にならんとしたのである。
 右翼は、天皇に還るほかない。天皇の防人となる。天皇の権威をまもることが、国体護持の王道であることを自覚するほかに、右翼は、右翼たりえない。
 右翼論について、次回は、極右と極左、戦後右翼と順を追ってにのべてゆきたい。

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2008年04月21日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(18)

 ●楠木正成と西郷隆盛がめざしたもの
 右翼という名称は、フランス革命時、議長席の右方に、王政派やファシスト党が席を占めたことに由来する。
 革命派や改革派が左翼とよばれるのも同様で、議席が、議長席の左方に位置していたからである。
 ヨーロッパの場合、イデオロギーによって、右と左が分かたれる。
 だが、日本では、事情が異なる。左が社会主義やマルクス主義でも、右は、かならずしも、イデオロギーに縛られているわけではないからである。
 戦前や戦中、右翼といえば、国家主義のことで、その国家主義にも、北一輝や大川周明の国家社会主義から、頭山満が率いる玄洋社などの大アジア主義、それに、国粋主義という三つの流れがあり、それぞれ、別個に活動をおこなっていた。
 なかでも、異色だったのが、天皇を戴いた革命運動の国家社会主義で、イデオロギーとしては、右翼より、むしろ、左翼に近かった。
 国家社会主義は、2・26事件で壊滅するが、東条英機の「統制経済」や「国家総動員法」も、一種の官僚社会主義で、戦後、この全体主義が、そっくり、ひきつがれて、現在の永田町・霞ヶ関体制になったことに、多くのひとは、気がついていない。
 頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会などの大アジア主義は、孫文らとむすんで、アジア解放という大戦略を立てた。だが、政府の協力がえられず、結局、これも、途中で挫折を余儀なくされた。
 残ったのが、国粋主義で、これが、現在の右翼へ、細い糸で、つながっている。
 国粋主義にたいして、マスコミは、「狂信的」という形容詞をつけたがるが、国の歴史や文化、習俗、伝統を保守しようとする考えは、本来、自然にして、常識的なもので、どこの国も、国家の中心に"国粋"というスピリットをすえている。
 孝明天皇は、国粋主義者であらせられ、尊皇攘夷も、もとをただせば、国粋主義である。
 幕末から明治維新にかけての闘争は、佐幕と勤皇、開国と攘夷、公武合体と倒幕、文明開化と士族の反抗と、すべて、国粋主義をめぐって生じたといってよいが、結局、勝ったのは、開明派だった。
 西洋文明の移植という方法で、近代化をめざした明治政府にとって、国粋主義は、国策を妨害する邪魔者で、是が非でも、取り除かなければならない目の上のコブだった。
 だが、国粋主義がめざすところは、「歴史の連続性」にあり、この国粋主義が排除されると、歴史が断絶して、やがて、国家は、求心力を失って、ばらばらになる。
 日本は、戦後、アメリカ民主主義とソ連のマルクス主義をうけいれて、事実上の文化的植民地となった。明治維新につづき、ふたたび、歴史の断絶をおこなったわけだが、その結果、日本は、国家中枢を官僚と反日勢力が握る、外国のような国になってしまった。
 皇室典範を改悪しようという有識者会議の議長が、伝統や歴史などカンケーないと言い放って、どこからも批判が出ないような国が、はたして、本来の日本のすがたといえるであろうか。
 さて。歴史上、「歴史の連続性」という思想に殉じた大人物が、二人、いる。
 楠木正成と西郷隆盛である。
 この二人には、いくつか、共通点がある。
 一つは、二人が旗印に掲げた銘に、いずれも「天」の文字があることである。
「敬天愛人(あいしん)」(西郷隆盛)
「非理法権天」(楠木正成)
 儒教における天も、高天原の天も、一過性の地上の価値や出来事をこえている。
 天は、永遠という「歴史の連続性」を暗示しているのである。
 そういう観点に立つと、二人の行動の謎が、徐々にとけてくる。
 二つ目の共通点は、敢えて、決戦と敗死をえらんだことである。
 歴史という長いスパンで見ると、妥協して、いっとき、生きながらえるより、大義(歴史の連続性・国体護持)ために散るほうが、はるかに大きな価値がある。
 たとえ、国が方向を誤っても、それを正そうとしたじぶんが、どのような思想に立って、戦場で散ったか。それが、後世につたわれば、日本は、ふたたび、天道へもどれる、という希望と確信が二人を死地へむかわせたのではないか、というふうに、わたしは、考えている。
 正成は、後醍醐天皇へ、足利尊氏との和睦を進言している。天皇が尊氏を許して、尊氏を征夷大将軍に任じれば、天皇親政・律令体制の復古はならなくとも、歴史の連続性は、まもられる。
 だが、正成の真意を理解できない後醍醐天皇のとりまきの公卿らは、正成を嘲っただけだった。
 そのあと、正成は、わずか7百騎を率いて、湊川で、数十万の尊氏大軍勢とたたかって散るが、このとき、「七生報国」ということばを残している。
 七回生まれかわる七生は、個人や地上の出来事をこえた、歴史のことにほかならない。
 そして、国というのは、政権を手にした幕府=権力ではなく、天皇=国体である。
 正成の天皇に対する忠は、個人崇拝ではなく、国体護持という歴史の連続性へのつよい意思のあらわれで、それが、国粋主義の本質といってよい。
 西郷隆盛も、西南戦争のさなか、山県有朋の自刃勧告にたいして、堂々たる決起の大義を書き送り、味方には――
「一統安堵し此の城を枕にして決戦致すべき候に付き、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に覚悟肝要にこれあるべく候也」
 と檄をとばした。
 安堵というのは、歴史が、われわれの正しさを証明するであろうから、安心しろという意味である。
 江戸城の無血開城、朝鮮の平和外交(武力による征韓論は板垣退助の意見で、西郷は、みずから使者に立つという外交路線を主張した)など、徹頭徹尾、流血を避けてきた西郷が、西南の役で、徹底抗戦をえらんだ理由が、これである。
 政府が、日本の西洋化というまちがったみちをえらび、その誤りに気づかぬまま滅びるより、われわれが、ここで政府軍とたたかって、歴史に敢闘の足跡を残せば、いつか日本は、その過ちに気づくであろうというのである。
 西郷の心根をもっともよく知る勝海舟は「西郷さんは、じぶんの思想を歴史にゆだねた」と評したが、江藤淳も、『南洲残影』にこう書いている。
 明治維新の目的は、無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。
 ところが天子をいただく明治政府は、何をなしたか。
 みずからすすんで、西洋を真似て、無道の国への道を歩みはじめているではないか。
 国家をまもらんとした西郷が、なぜ、国家を代表する政府に叛旗を翻したか。
 国家とは――その時代に存在している政府や国民だけのものではないからである。
 過去、現在、未来と連綿とつづく垂直的なるもの(歴史の連続性)、それこそが、西郷のまもらんとした国家であった。
 明治政府は、垂直的共同体としての国家を断ち切り、これを滅ぼさんとする革命勢力ではないか。
 歴史を切断する勢力とは、断固として、たたかわねばならない。
 これが、西郷の思いではなかったろうか。(大意)
 日本の右翼が、政治闘争を志向せず、政権をめざさないのは、もとめ、まもるべきものが、国体=歴史の連続性にあるからで、そこが、政権をめぐって、権力闘争へ走るヨーロッパの右翼と異なる。
 わたしは、右翼と称する人々が、政治問題を語るのをにがにがしく思っている。右翼が目をむけるべきは、歴史の連続性であって、政治という一過性の問題は、政治家と選挙民に、まかせておき、政治家が、国を売るような誤りを犯したら、そのときは黙って、その過ちを贖わせればよいのである。
 次回は、右翼の在り方について、思うところをのべよう。
posted by 山本峯章 at 02:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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