2008年04月16日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(17)

 ●権威と権力を合体させた維新政府の過ちとその呪縛(続)
 革命やクーデター、倒幕(反政府)闘争がめざすのは、すべて、権力の奪取である。
 したがって、そこに大義がなければ、叛乱とみなされる。
 大義というのは国体のことで、国体護持の意思がはたらいていなければ、どんな理由があろうと、政治闘争は、私利や権力欲にとりつかれた亡者の私闘、叛乱にすぎないものとなる。
 そこに、歴史上の覇者が、朝廷に、錦の御旗や詔勅、官位をもとめた根拠がある。
 いくさや政治権力の行使は、私利や権力欲のためではなく、国体のためである――。
 したがって、詔勅や官位を戴きたいと。
 歴代の覇者は、国体の護持を天皇に誓って、いくさをおこない、幕府をひらいたのである。
 国体は、歴史や文化、国の繁栄や民の幸までを包含している。
 天皇は、その国体の象徴である
 だから、権威なのであって、私闘や権力欲と皮一枚で接する権力とは、無縁である。
 一神教のもとにあるのは、権力だけである。ローマ法王庁も、権力を絶対化する役割を担っただけで、権威たりえなかった。歴史や文化、民の幸までをふくむ国体という観念がなければ、権威はどこからもうまれず、権威の裏づけをもたない権力は、暴力装置でみずからを絶対化するしかない。
 したがって、ヨーロッパ(ユーラシア)では、権力闘争がはてしなくつづく。
 現在の戦争なき状態――バランス・オブ・パワーは、一神教世界の平和なのである。
 国体というのは、この世は神の国(高天原)の延長という、神道の世界観である。
 キリスト教やマホメット教では、真実が神の国にある。仏教は来世、儒教は天に真実がある。いずれも、この世を仮の世界とみるニヒリズム(虚無主義)であって、現世に神をみいだす国体という観念は、一神教からは、けっして、でてこない。
 日本人が、古代から、国体意識をもちえたのは、神道の国だったからで、日本の文化や習俗、心のありかたまで、すべて神道的価値観に根ざしている。
 西洋文明と日本文化は、根本がちがうので、すりあわせることができない。
 西洋の学問をした者は「日本人は権利意識が乏しい」という。だが、ヨーロッパでたたかいとらなければならなかった生きる権利は、日本では、和の心や相身互いの精神で手にはいった。
 権利意識など必要がなく、そんなことをいいだせば、かえって、和の心がそこなわれることになる。
 明治維新は革命だった――というのは、その変革が、神道文化へのキリスト教文明の接ぎ木だったからである。
 じじつ、明治維新は、日本史では例がない、ヨーロッパ型の権力闘争だった。
 神道的価値観から一神教的価値観への大転換をもたらしたのが、権威と権力の一体化である。
 孝明天皇は、討幕派に転向した岩倉具視に毒殺されたという説が根強い。
 最近、発見された主治医(伊良子光順)の日記にも「急性薬物中毒」と記されている。
 一介の公卿にすぎなかった岩倉具視が、孝明天皇が崩御された翌年、若き明治天皇を立てて王政復古(大政奉還)を実現させ、一躍、維新政府の中枢にのしあがってゆくことができたのは、天皇(権威)を政府(権力)のトップにつけるという、大革命をやってのけたからである。
 そこで、日本の伝統的な政治システム=権威と権力の二元体制は、終わりを告げた。
 大久保利通や岩倉具視ら、明治政府の首脳がめざしたのは、明らかに、ヨーロッパ型の政体で、このとき、国体も、事実上、崩壊した。
 明治政府は、日本文化の廃棄と西洋文明の導入を宣言して、文明開化を国是とした。
 森有礼文部大臣は、国語を英語に代えるように主張し、葛飾北斎ら日本の美術品はタダ同然で海外に売り払われた。武士は野蛮で、鹿鳴館文化というヨーロッパの猿真似が上流ということになり、このとき、皇室の正装や正餐も、洋式となった。
 当時、日本で、近代化が可能だったのは、文明開化の号令があったからではなく、日本の国体が磐石で、とりわけ、江戸時代の知的水準が、西洋文明を理解して、再生産できるほどに高度だったせいである。
 遣唐使の廃止によって、国風文化が栄えたように、日本には、他国の文化や文明を吸収して、さらに発展させる潜在能力をもっている。
 科学の利器である文明は、文化革命をおこさずとも、知的水準が高ければ、うけいれることができる。
 知的水準が高い文化の受け皿も、また、国体である。明治政府が、政体や文化、文明をヨーロッパ化する方法をとっていなければ、近代日本で、江戸の文化と西洋の文明が調和した第二の国風文化がうまれていただろう。
 ところが、明治政府は、それに気づかず、鹿鳴館文化や武士の廃絶というヨーロッパの模倣に走ったばかりではなく、このとき、皇室の王室化という、国体の変更をおこなった。
 そして、使節団を率いて、欧米を視察した岩倉具視や大久保利通は、文化や国体の担い手だった武士の廃絶に反対した西郷隆盛を西南の役で討ち、日本文化の否定、日本のヨーロッパ化を国是に、世界へのりだしてゆく。
 明治維新後、富国強兵をスローガンした国造りは、一応の成功を収め、日本は、世界の烈強と肩を並べるまでになった。だが、これは、西欧化が成功したのではなく、前述したとおり、江戸の文化レベルや髷を切って軍人や官僚となった武士の精神性が高かったからである。
 日清・日露戦争に勝利できたのも、たたかったのが、戊辰戦争を体験した幕末の武士だったからで、当時は、まだ、江戸時代の遺風が十分に残っていた。
 その後、第一次大戦における勝利やシベリア派兵などをとおして、日本は、国際社会で大国に列されるまでになった。
 だが、当時の日本は、維新政府の犯した大きな間違いに、まだ気づいていない。
 権威としての「現人神」と統治者としての「大元帥」の合体というヨーロッパの王制的権力が、どんなに危険性をひめているかついて、何も――。
 大正デモクラシーをへて、昭和にはいると、国体を変更したツケが、徐々に、まわってくる。
 権力が暴走するのである。朝廷のもとで自粛していた歴代幕府とはちがい、畏れるべき天皇をわがものにした政府、とりわけ、軍部は、自己制御の能力を失って、怪物的権力を増殖させてゆく。
 そして、日本は、戦争のための戦争という、西洋型の戦争へふみこんでゆく。
 大東亜戦争は、ヨーロッパ型の帝国主義にのったもので、日本は、蒋介石の中華民国やアメリカとたたかう必要など、みじんもなかった。
 政府(権力)が、天皇(権威)から政治をあずかるという二元的な政治システムが機能していたら、冷静な判断がはたらいて、戦線は、満州国の建設と南方の資源を握っているヨーロッパ列強との対決にとどまり、支那やアメリカとの開戦には、ブレーキがかかったはずである。
 支那戦線の拡大や真珠湾攻撃には、常識で考えて、何一つ、合理的根拠がなかった。
 だが、天皇が、大元帥として、権力の側におかれていたため、政府と軍部が天皇をとりあうという事態が生じ、結局、天皇をとりこんだ軍部がファッショ体制を敷いて、日本は不合理きわまりない、対支・対米戦争へつきすすんでゆく。
 幕末の争乱期、討幕派の志士らは、天皇を"玉(ぎょく)"とよび、「玉をとったほうが勝ち」と公言してはばからなかった。
 先の大戦でも、同じ論理のもとで、軍部が天皇をとりこんだ。
 天皇に主権(政治権力)があると定めた統帥権をタテに、天皇を大元帥に戴いた軍部が政党や議会をおさえ、その一方で、現人神として奉った天皇の威を借りて、国家総動員法を敷き、陸・海軍の兵士を不合理なたたかいに駆りたて、無計画に戦線を拡大させるのである。
 天皇が、権力にとりこまれたため、政治を監視する権威が不在となって、国家が危殆に瀕した。
 それが、前回、冒頭でのべた、天皇の戦犯問題と国体(皇室)の危機の真相である。
 一五〇年前、明治政府が犯した過ちは、払拭されたのであろうか。
 否である。それどころか、日本は、その禍根をいまもなおひきずっている。
 それが、保守精神の欠如である。
 じぶんの頭で、国益や国是、国の誇りについて、自主的にモノを考えられない政治家や官僚が、アメリカや中国という"玉"をとりあい、いわば、大国の虎の威を借りて、親米や反米、親中などの旗をふりまわしている。
 かつて、天皇の権威を借りて、国内で権力を奪い合った陸軍統制派・海軍英米派とすこしもかわらない。
 保守は、国体の基盤に立つ、ということである。
 政治家は、国益と国是のためにはたらき、国民やマスコミは、愛国心や公徳心を大事にする。それが、しぜんなすがたで、何ものからも支配されていないことが、保守精神なのである。
 保守精神は、民族や国家の歴史、文化の総体たる国体に拠って立つ。
 じぶんのうまれた国土、同胞、歴史、文化に心をおくことによって、はじめて、独立心や誇り、自信がうまれる。国体は、そういう情緒をとおしてあらわれるもので、国体を捨てて、じぶんの国に罵詈を浴びせ、アメリカに平伏し、中国に媚びるのは、日本を西洋より劣った国と見て、自国の歴史や伝統、文化の破棄を主張した岩倉欧米使節団のようなもので、始末に負えない。
 国家は、権力という現実主義に、国体は、保守という情にささえられている。
 自国の国体を愛することが第一で、そうすると、変革することより、変革しないことのほうに、現在より過去のほうに、より高い価値があることが、わかってくる。
 それが、保守主義である。
 国体の西欧化に反対して、西南戦争をたたかった西郷隆盛は、保守主義をつらぬいて殉死した。
 現在の保守主義の欠如は、万世一系の天皇を政治的に利用している憲法をもち、天皇を権威として立てられない政治的風土と、西欧化(アメリカ化・グローバリゼーション)のなかにあって、国体意識を血肉化できない社会的風潮によって生じた、とわたしは、思っている。
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2008年04月15日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(16)

 ●権威と権力を合体させた維新政府の過ちとその呪縛
 1945年の敗戦によって、日本は、神武紀元以来、連綿とつづいてきた国体(皇室)の存続が危殆に瀕するという、未曾有の国難に直面した。
 天皇の戦犯問題である。
 天皇が、東京裁判で裁かれ、あるいは、イタリアのサボイア王家と同様、皇室の解体がおこなわれていたら、国体が崩壊して、日本は、分裂国家か、大国の属国になっていたと思われる。
 日本がポツダム宣言の受諾を渋ったのも、国体の護持という確証がえられなかったからで、それが、広島・長崎への原爆投下という惨禍につながった。
 そういう事態に立ち至ったのは、明治政府が、権威と権力を一体化させ、天皇を戦争の当事者にしてしまったからである。
 ロシア、英国、オーストラリアなどの戦勝国が、天皇の戦争責任をもとめたのも、天皇が、かつての、ヨーロッパの王室と同様、権力者と思ったからだった。
 天皇の権威に象徴される国体、その国体の認承によって、権力に正統性があたえられる政体――これが、わが国の二元的な政治システムで、権威たる天皇は、権力である元首や大元帥と、一線が画された存在でなければならなかった。
 ところが、明治政府は、権威である天皇を<元首・大元帥・現人神>として権力の側にとりこんで政治的に利用した。
 そのつけが、一〇〇年後にまわってきたのである。
 戦後、劇的なかたちであらわれた天皇体制の危機は、明治維新の段階で、すでに、仕込まれていたわけだが、先の戦争の失敗から現在の社会的欠陥まで、原因をさぐると、すべて、そこへゆきつく。
 今回は、2回にわたって、そのテーマについてのべる。
 さて。我が国にとって幸運だったのは、GHQ最高指令官・マッカーサーが占領政策に天皇を利用すべく、アメリカ議会や他の戦勝諸国の反対を押し切って、戦犯から除外したことである。
 マッカーサーの判断によって、天皇の戦犯問題と皇室解体の危機は、かろうじて、回避されたが、国体の護持が、薄氷をふむような危うさに瀕したことは、日本史上、最大の汚点といってよい。
 もともと、日本の天皇制度は、権威と権力を分離することによって、権力の増長を防ぐ歴史の知恵で、だからこそ、日本の国体は、二千年以上にわたって、まもられてきたのである。
 薩長閥による明治政府が、この伝統的な体制をこわしたのは、かれらの近代化が、欧化主義だったからで、下級武士にもおよばない低い身分だったかれらに、日本の伝統を重んじる気風は、そなわっていなかった。
 明治維新は、きわめて、複雑な構造をしている。
 慶応三年(1867年)、十五代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に奉還し、その翌年、官軍が江戸に迫ったところで、勝海舟・西郷隆盛の会談をとおして、江戸城の無血開城までおこなっている。
 ここまで平和裏にすすむのは異例としても、これは、日本史にいくたびかあらわれた政権交代劇の一つといってよい。
 ところが、官軍は、徳川家と親藩の徹底殲滅をはかって、内戦をひきおこす。
 戊辰戦争である。
 徳川慶喜は、すでに、恭順の意をしめしており、親藩にも反抗の意図はなかった。あとは、公武合体にしろ公儀政体にしろ、新しい政府をつくるために、英傑が力をあわせればよかったわけだが、薩長がそうしなかったのは、公武合体論の孝明天皇が急死して、「薩長政府」樹立の機運がうまれたからである。
 このとき、薩摩や長州は、権力の正統性を顕す錦の御旗をもとめた。
 戊辰戦争は、錦の御旗をわがものにしようとする薩長の権力欲によってひきこされたといってよい。
 幕末の乱世にあっても、徳川幕府は、天皇から征夷大将軍の官位を戴き、三百年の長きにわたって日本を統治してきた。為政者としての正統性もあり、薩長軍と対抗する戦闘能力も十二分にもっていた。
 一方、薩摩や長州が王制復古や天皇親政をうったえても、錦の御旗がなければ、倒幕に大義名分が立たない。当時、薩長軍が、天皇の勅書と錦の御旗を必要としたのは、かれらがめざした倒幕が権力闘争で、事実上のクーデターだったからである。
 錦の御旗がなければ、倒幕運動は、ただの叛乱である。事実、薩長の倒幕運動には、関が原で徳川に敗れた両藩の意趣返しという動機が隠れていた可能性がある。
 錦の御旗や天皇の詔勅によって、権力に正統性が付与されるというやりかたは、日本の伝統的な政治システムで、足利尊氏が、後醍醐天皇親政に対抗すべく、北朝一代目となる光巌天皇を立てて、室町幕府をひらいたのも、同じ原理である。
 明治維新において、薩長(東征)軍が幕府軍を圧倒できたのは、かれらが、錦の御旗を手にしたからだった。一方、朝敵となった幕府軍は、賊軍の汚名を着せられて、ことごとく、敗れ去った。
 錦の御旗のもとで、権力を手にした政治権力は、こんどは、権威である天皇の意思にかなう政体を組織して、国家・国民のために、行政組織を合理的に運営しなければならない。
 それが、権威と権力、国体と政体の二元論的関係である。
 ところが、明治政府は、討幕に利用した天皇を――徳川三〇〇藩候の解体や廃藩置県、廃刀令などの政治改革に利用する。
 民の平安や国の繁栄を神々に祈る最高神官として、権力構造と一線が画されていた天皇を現人神として神格化する一方、明治政府は、天皇を元首・大元帥という権力者に仕立て上げたのである。
 権威である天皇が、権力へとりこまれると、権威が空白となって、騒乱がまきおこるのは、これまでの歴史がしめすとおりである。
 後醍醐天皇の建武の新政を、わたしは、評価しない。
 清廉な鎌倉幕府・北条執権を倒して何がおきたであろうか。
 南北朝から、内紛がたえなかった足利幕府、足利義満・義正の悪政、応仁の乱から戦国時代をへて、徳川幕府が安定政権を打ち立てるまで、日本は、270年にわたって、暗黒の中世をさまよわねばならなかった。
 権威と権力が別々に機能していれば、なかったはずの暗黒の270年だが、明治維新でも、建武の新政と同じことがおきた。
 明治政府が天皇をとりこんだことによって、権威が空白となり、あっというまに、軍国主義ができあがってしまったのである。権力を監視する天皇が不在で、現人神が、権力に就けば、その権力が怪物化するのは、必然である。
 マッカーサーは、占領統治に天皇を利用した。だが、それは、かならずしも、権威と権力の二元論から外れたものではなかった。天皇は、マッカーサーに「わたしはどうなってもよいが、国民を飢えから救ってもらいたい」といわれ、マッカーサーは、曲がりなりにも、その意にそおうとした。
 権威である天皇の祈念が、マッカーサーという権力につうじたのである。
 天皇の戦争責任が不問になったのは、本来、天皇は、民の幸を「神に祈る神」(本居宣長)であって、もともと、権力から、切り離された存在だったからである。
 新憲法では象徴(権威)となったが、新憲法で規定された天皇の象徴性は、国民の統合であって、国体と明記されていない。
 わたしが、憲法を改正して、天皇の条項、および、皇室典範を憲法から外すべきと思うのは、国体が、法や政体の下位におかれると、文化や歴史、国民の幸が、政治権力の下にきてしまい、危険きわまりないからである。
 古来にはじまり、武家政治の中世から江戸末期まで、天皇の権威は、国体の象徴としてであって、国体の根拠は、政治力や軍事力ではなく、歴史や文化、なによりも、民の幸せと国家の繁栄におかれている。
 国体には、国家の安泰と民の幸という神々の祈りが、すでに、封じ込まれているのである。
 お天道様のもとで、人々が、八百万の神々とともに、生産や繁殖に励むことをめざしているのが、神道のもとにある日本の国体で、そのため、天皇は、皇居内で年間三十回にもおよぶ祭}、多くの国事行為をおこなっている。
 権力が、国体をまもるということは、国家・国民をまもることで、その規範から外れることがないよう、権力を監視するのが、権威=天皇である。
 天皇が国体の象徴、というのは、そういう意味合いからである。
 次回は、権力構造という視点から、もういちど、明治維新を見直してみよう。

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2008年04月10日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(15)

 ●天皇と神道――ヨーロッパ王制とキリスト教
 ヨーロッパの王室は、中世における権力闘争の覇者で、征服王の家系である。
 歴史的にも浅く、三〜四百年ほど前といえば、ちょうど、日本の戦乱期にあたる。
 しばしば、日本の天皇と比較されるが、絶対権力者であるヨーロッパの王は、天皇ではなく、むしろ、平氏の平清盛や源氏の源頼朝、足利尊氏、あるいは、天下統一をはたした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、戦乱期の覇者に近い。
 天皇は、覇者でも、権力者でもない。
 覇者に、征夷大将軍などの称号をあたえ、一方で、幕府を監視する権威である。
 天皇のこの権威は、神話にもとづいている。
 神話は、一つの寓話ではあるが、その根源に、神道という民族の宗教原理があり、国体や国柄、伝統や文化は、その神道の価値観に根ざしている。
 天皇は、権力に正統性を付与し、幕府を総監するだけではなく、国家の繁栄や民の幸、収穫を祈念する神道の最高神官でもある。
 これが、日本特有の権威(天皇)と権力(幕府)の二元体制である。
 ヨーロッパに天皇にあたる地位がなかった理由は、キリスト教の布教によって、民族の神話が失われたからで、ヨーロッパ各国の古来の伝統や文化も、民族の神話とともに、消えさった。
 民族固有の神話を失ったヨーロッパ各国において、新たな神話となったのが、「神が創造した最初の人間、アダムと妻のイヴが神の戒めに背いたため、エデンの園から追放された(原罪=キリスト教の中心教義)」とするキリスト教の物語で、権力構造においても、キリスト教をうけいれたヨーロッパの王国は、いずれも「神より与えられた統治権は神聖にして不司侵である」という帝王神権説をとって、絶対権力をつくりあげた。
 権威の後ろ盾がなかったため、ヨーロッパ王政は、絶対主義という強権を立てなければならなかったのである。
 歴史や民族、文化が異なるドイツ、フランス、イタリアなどのヨーロッパ諸国が、EU統合という大事業をなしえたのは、キリスト教という同一宗教、キリスト教を中心とした独自の文化と価値観でむすばれていたからで、ヨーロッパに、ユダヤ教や回教など、別の絶対神が根を張っていたら、統合は、不可能だったかもしれない。
 万世一系の天皇を戴くわが国の皇室は、古事記や日本書紀に描かれている神話を起源にして、現在まで、連綿とつづいている。
 政体が、源平から鎌倉、室町、戦国時代をへて、織豊、徳川、明治と変遷してきたにもかかわらず、後醍醐天皇による一時期の王政復古を別として、国体がゆるがなかったのは、天皇の権威と幕府の権力のあいだに、一線画されていたからで、権力と権威の二元構造が、古代から今日までひきつがれてきたのも、権力者がかわっても、国体は変化しない柔構造が、すぐれた政治形態だったからであろう。
 この二世紀のあいだに、ヨーロッパ王制の多くが、消滅した。
 ブルボン王朝はフランス革命で、ロマノフ王家はロシア共産革命によって滅び、第一次大戦に敗れたドイツでは、ホーへンツ、オレルン王家が消えた。オーストリアでは、ハプスブルグ家が王制から去り、第二次大戦後、イタリアのサボイア王家が、国外に追放された。
 国家は、国体という文化構造のうえに、政体という権力構造をのせている。
 ヨーロッパで多くの王家が消えていったのは、拠って立つところが、歴史や文化などに裏打ちされた国体ではなく、権力闘争がくり広げられる政体だったからである。
 権力闘争の産物である政体は、時代によって、変遷する。
 ところが、国体という歴史的な文化構造は、かわることがない。
 そこから、国家の母体は、権力の実体たる政体ではなく、国体だったと、わかる。
 国体から、権威が派生する。
 権力は、その権威によって、正統性をあたえられる。
 したがって、権威の裏づけがない権力は、絶対主義でもとらないかぎり、安定した支配体制をつくりあげることはできない。
 立花隆が、雑誌に「戦後日本の国体は憲法九条」などと書いているが、護憲論者の強弁という以前に、政体にぞくする政治や法律が、国体を規制しうるという考え方が、そもそも、まちがっている。
 同様に、憲法で天皇のありかたを定めるのも、憲法で皇室典範を規定するのも、誤っている。
 権威は、権力の都合や法解釈によって左右されてはならないからである。
 だいいち、一過性の権力機構にすぎない政体に、そんな権限はゆるされていない。
 国体は、文化の体系であって、文化の根源をさぐれば、どこの国でも、神話にゆきつく。
 神話によると、天皇は、高天原から降臨した神々の子孫で、いまなお、国の繁栄や民の幸を祈っておられる。
 神話の母体である神道の精神は、無私である。
 私心をはさまず、高天原の神々が理想としたすがたを再現しようとするのが「惟神(かみながら)の道」で、天皇は、覇権を争う権力者と、正反対の立場に身をおかれている。
 そこに、幕府が、天皇のゆるしをえて、国を支配する原理がある。
 神武天皇の血筋をひいておられる万世一系の天皇が、日本の伝統文化や生活感情、習俗の土台になっている神道の最高神官であらせられる以上、戦闘能力にすぐれているにすぎない武力集団が、その天皇に、為政の勅をもとめるのは、すぐれて、しぜんなふるまいであり、それが、日本の国柄である。
 武力だけで、覇権を争ったヨーロッパの王政とのちがいは、いかばかりか。
 もっとも、わが国においても、七世紀初めまで、天皇は、王的な権力もそなえていた。
 というのも、大和朝廷の成立以前、あるいは、その初期において、政体といえるような権力構造がなかったため、政治が、文字どおり、まつりごと(政=祭祀)だったからである。その過程で、いくさ(征夷)をふくめた強権の発動があったと思われるが、ユーラシア大陸でおこなわれたような凄惨なたたかいはなかった。
 その理由は、神道の起源とも関連するが、森林や肥沃な平野、河川、海岸線がゆたかな日本では、砂漠や痩せた土地の国々とはちがって、生存競争や生死をかけた争いのタネが、それほど多くなかったからである。
 人々は、大自然のなかで、おおらかに生きていた。それが、万葉人と呼ばれる日本人の始祖で、かれらは、自然そのものを神として、その自然法則にのっとって生きる、神道という世界観をきずきあげた。
 砂漠や山岳、放牧しかできない痩せた土地では、魂の救済をもとめる一神教の啓示宗教がうまれる。 
 だが、ゆたかな自然に恵まれた日本では、もっと素朴な、太陽の恵みを称える祭祀が根づいた。
 神道の最高神は、太陽である。
 収穫や自然の恵み、巡ってくる四季、一日や一年という区切りは、すべて、太陽のはたらきによるものだからである。
 もっとも、神道は、インカやエジプトのような太陽神崇拝とは異なる。
 太陽のもとにある森羅万象が、それぞれ、神々(八百万神)で、この世は、神々の活動(産巣日=ムスビ)の場にほかならず、そのすがたは、神代から現在まで、かわらないとする。
 高天原の太陽も、この世で輝いている太陽も同じなので、高天原はこの世とつながっている、というのが、神道における太陽で、それが、天照大神のもとで、さまざまな神々が活躍した神話におきかえられて、いまにつたえられている。
 日本の伝統や文化、習俗や生活感情には、神道的な価値観が反映されている。
 たとえば、西洋の時間は直線的だが、神道の時間は循環する。お正月は、ふたたびめぐってきた新しい年で、過去は、忘れられる。
 禊(みそぎ)や浄め、よみがえり、水に流す、という習俗や考えかたは、神道のもので、それが、文化だけにとどまらず、日本人の価値観や気質にまで投影されている。 
 日本の国体は、風土や歴史、文化、日本人の精神の深くにはいりこんでいる神道の価値観にささえられている。
 その中心におられるのが、万世一系の天皇で、それが、国体のすがたといってよい。
 明治維新後、一神教的な価値観がはいってきて、伝統的な神道文化に珍奇な西洋文化を接ぎ木するかたちで、近代化がおこなわれた。
 かわったのは、明治政府という政体だけではなかった。
 権威と権力の二元構造、国体のあり方も、大きな変更をくわえられた。
 その結果、何がおきたか。そのテーマについては、次回、のべることとする。

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2008年03月23日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(14)

●「神道」は日本民族固有の価値・世界観である
 今回は、神道について、すこし、整理してみたい。
 神道は、保守主義や右翼思想の根っ子の部分にひそんでいるが、これは、欧米の保守思想や国家主義が、キリスト教とつながっているのと、同じ構造である。
 民族的宗教観と国体、国柄が、表裏一体の関係にあるからである。
 広辞苑をひもとくと、神道の項目に「かんながらの道」とある。
 これが、神道の真髄で、神道には、これ以上の説明は、必要がない。
 かんながら(惟神)とは、人為をくわえないさま、神慮のまま、という意味である。
 自然や天体、物や事があるがままにあるのが神慮で、そのありさまが、惟神の道、神道のすがた、というのである。
 一神教の場合、自然や天体をつくったのが絶対神で、人間は、それを神からもらいうけるので、自然も他の生物も、人間の所有物や糧にすぎない物となる。
 キリスト教が、神との契約といわれるのはそのためで、中世ヨーロッパにおいて、侵略や他民族の虐殺がおこなわれたのは、キリスト者にとって、地球上の生産財すべてが、神からあたえられたものだったからである。
 神からもらった生産財には、自然のほか、動物もふくまれる。異教徒や未開人も動物なので、中世や大航海時代、ローマ法王の名のもとで、十字軍遠征、あるいは、インカ帝国などの非キリスト教地域で、虐殺や略奪をくり返して、キリスト者は、なんら、罪や良心の咎めをかんじるところがなかった。
 近世・近代になって、神は、科学にとってかわった。神がつくった自然の合理から科学がうまれたので、科学も、神の恩恵というわけで、こんどは、科学が絶対神になって、ふたたび、侵略がはじまった。
 列強のアジア侵略は、ヨーロッパ文明による文化破壊で、アジアやアフリカ、旧アメリカが、かれらに、徹底的に破壊され、奪われ尽くされた。
 一神教がうみだした科学=合理主義が、理性神にまで高められたのが革命である。
 フランス革命では、実際に、祭壇に、理性神が飾られた。
 そのフランス革命をモデルにしたのが、ソ連の共産主義革命だった。
 そして、二十世紀において、多くの共産主義国家がうまれ、大半が滅び、滅びつつある。
 一神教が、絶対神→科学→合理主義→理性→イデオロギー、というふうにすすんできたので、共産主義というイデオロギーのもとにある中国が、中世の十字軍遠征の論理をひきついで、いまなお、チベットの文化破壊やチベット僧侶の虐殺をおこなっているのである。
 神道における宗教観は、一神教世界のそれと、まったく、ちがう。
 宗教観がちがうと、価値観や自然観、世界観も、当然、ちがってくる。
 明治維新以前、日本は、特有の民族文化をもった文明国家で、当時の日本人の美的感覚や識字率、土木や建築技術、政治システムなど、多くの分野で、世界一だったことが、学術的に証明されている。
 日本の文化の高さをささえていたのが、神道の価値観だった。
 神道の「かみ」は、人間はもとより、鳥獣、木草、海や山、その他諸々、すべての存在をさす。その場合のかみは「迦微」で、八百万の神も、本来、迦微である。「神」という文字が付されるのは、全存在の頂点にある太陽だけで、それも、太陽に精霊が宿っているという意味ではなく、太陽そのものが神で、そこが、ギリシャの太陽神やアニミズム(精霊崇拝)とちがう。
 西洋の学者のなかには、神道は宗教ではなく、哲学というひともいるが、絶対神を拝んで救済をもとめるのが宗教なら、神道は、一神教と同じ宗教の枠にくくることはできない。
 神である太陽のもとで、森羅万象があるがままにあり、生あるものが精一杯生を営む、というのが「惟神の道」だが、この神道と、絶対神から、生産財として、自然や動物などをあたえられたと考える傲慢な一神教(絶対神)では、対極といってよいほど、遠い距離にある。
 ●神道と江戸の国学四大人
 日本の古代信仰が、神道として体系化されたのは、江戸時代で、当時、神道の研究は、国学とよばれた。テキストは、古事記や日本書紀などの古典、および民間伝承で、国学=神道を完成させたのは、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の四人(四大人)である。
 なかでも、本居宣長は、キリスト教や儒教など、ユーラシア大陸の価値・世界観を「漢意(からごころ)」として排して、神道の中心に、大和心をすえた。
 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花 
 大和心は、理屈を抜いた情緒や直観で、自然や物事と対面して生じる情けでもある。
 さて。この神道の特異なところは、教義や教典、御神体がないことである。
 しかも、おもんじるのは、祭祀だけで、徳目も、浄明正直(浄く明るく正しく直く)だけという、じつにさっぱりとしたもので、宗教というより、民族固有の世界観といったほうが、たしかに、わかりよい。
 荷田と賀茂、宣長は、順に、師弟の関係にあり、世界観もほぼ同じだが、宣長の後継者を名乗った平田篤胤だけが、やや、異色である。平田篤胤の神道は、天御中主神(アメノミナカヌシ)をキリスト教の創造主に見立て、天皇を現人神とする西洋的な宗教観をうちたてたが、それが、師と仰ぐ宣長がきらった漢意で、平田神道からうまれたのが、天皇を現人神とする国家神道である。
 国家神道では、天皇を現人神としたが、一方で権力は、天皇を大元帥に祭り上げ、政治的に利用した。国家神道は、戦後、GHQによって禁止されたが、神道における天皇は、万世一系の最高神官で、いっとき、武器をもってたたかいはしたが、もともと、高天原から降りてこられた葦原の国(日本)の管理者である。
 権力(幕府・政府)は、したがって、この国が浄明正直であれと願い、祈る天皇の大御心に応えなければならない。そこに、権威と権力が二元化した日本特有の政治構造と、日本で朝敵がもっとも忌まわしい存在となる根拠がある。
 もう一つ。神道が、一神教ともっともちがうところは、あの世がないことである。
 一神教では、あの世という異次元があり、そこに、絶対神がいる。
 人々は、絶対神にひれ伏して、死後、免罪されて天国へ行けるよう祈る。
 神道で、この世のことを「葦原中つ国」というのは、高天原と黄泉国の中間にあるという意味だが、これは、仏教の影響をうけた形跡で、死んでも、この世にとどまって守護神(祖霊)になる神道では、死は、生の抜け殻の死体でしかなく、したがって、忌まわしいだけのものでしかない。
 この世と高天原、黄泉国がつながっている神道には、死後の世界という観念がなく、生死や有形無形を問わず、全存在は、太陽のもとにある。キリスト教が生前(=原罪)の、仏教が死後(=浄土)の宗教なのにたいして、神道が生の宗教といわれるのは、そのためである。
 神道では、絶対神にあたるのが太陽だが、太陽は、あくまでも、この世のものである。
 この世に、太陽という絶対神が輝いているのは、高天原と葦原の国がつながっているからで、この世では、したがって、神代でおきることと同じことがおきる。
 宣長によると、この世界は「奇異なる物(迦微)と事(産巣日=むすび)」の生起消滅の連鎖で、神代で八百万の神々によってなされた事跡が、そのまま、葦原の国でおこっているという。
 太陽の運行も、巡ってくる四季も、草木の生長や動物の繁殖も、世界に存在するさまざまな文物も、人間の性行為さえ、漢意を抜き去ってながめると、奇異(くすしあやし)としかいいえないもので、この世で、奇跡(=奇異)がおきるのは、高天原とつながっているからである。
 刻一刻と、目の前にあらわれる事実や事象が「神の道=惟神」で、それをそのまま「神の御所為(みしわざ)」と見る。神道で、現在を「中今(なかいま)」「神代即今」というのは、いま現在、おきている出来事も、神代でおきたことと同様に、神慮であって、理屈では解けないからである。
 科学で説明しようとしても、なぜ、原子や遺伝子が存在するのか、という最大の謎は、とうてい、科学の手に負えない。
 宣長は、当時、解読不能だった「古事記」を読み解き、そのなかに、生々しく記録されていた神道の真髄を探りあて、その尊きを尊み、 可畏(かしこ)きを畏みているべきであるとした。
 かみには、貴きも賎しきも、強きも弱きも、善きも悪しきもあり、荒魂がいれば、和魂もいる。それらの神々が、太陽系の時空間でくりひろげる奇異とともに、われわれが存在するというのが、太古から有史以前、古事記の万葉世界、現在につらなる神道の世界観で、人間の小さい認識(漢意)で、その理(ことわり)を測り知ることはできない。
 これが、日本人の宗教心で、絶対神の救済をもとめないから、日本人は宗教心が乏しいというのは、西洋人の偏見、無知、思い上がりでしかない。
 戦後、日本人が、自信を失ったのは、戦前まで残っていた神道の価値観が、科学万能主義やマルクス主義、アメリカ化などによって、根絶やしになったためであろうが、一方、初詣や七五三のお参りでは、日本人は、いまなお、こぞって、神社へむかう。
 日本人の心の奥底に、ノスタルジーとしての神道が、根強く残っているからであろう。
 日本人の精神を復活させる鍵は、神道にある、というのが、わたしの持論なのである。
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2008年03月11日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(13)

 ●憲法九条を戦後日本の国体と強弁する立花隆
 雑誌「現代」に、立花隆が「憲法九条は戦後日本の国体」という論文を書いている。
 国体は、歴史や伝統、文化、宗教感情、習俗などに根ざしており、政治や法は、国体の上にのっている政体にすぎない。
 立花の暴論には、驚くしかないが、憲法九条を戦後日本の国体と強弁するのは、事実上の国体否定で、かれら護憲主義者の主張は、最後には、国境を取り払い、世界連邦をつくって、全人類が手をつなごう、という誇大妄想へゆきつく。
 過激派の「世界同時革命」のようなものだが、いったん、こういうイデオロギーにとりつかれると、国家の礎である国体が、世界連邦建設の障壁になるというわけで、保守陣営をふくめた護憲派の政治家、論壇人、マスコミ文化人らが、競って、反日主義をいいつのるようになる。
 反日主義は、左翼ではなく、国体という観念が抜けおちたコスモポリタニズム(世界市民=無国籍主義)で、そんな連中が、憲法九条をたてまつるのは、国体を否定したいからにほかならない。
 憲法九条、および、憲法に謳われている国民主権は「国家は――国家の維持・強化を最高原理として行動する」という国家理性(国是)や国家主権と対立する。
 それも当然で、日本の国体や国是を否定する目的でつくられているGHQ憲法から、コスモポリタニズムに立った絶対平和主義や国体・国益の否定がでてくるのは、必然のなりゆきである。
 さらにそこから、反日主義がとびだしてくるのも、占領憲法に封印されていたシナリオで、要するにかれらは、GHQ憲法という敗戦革命の申し子なのである。
 政治や法を国体に優先させると、国家は、文化的に不毛な人工国家へ転落してゆく。共産主義国家がよい例で、国体の代わりにイデオロギーをもちこんだ結果、国家が機能マヒと経済破綻をおこして、前世紀の末、大半が地球上からすがたを消した。
 国体を否定した国家が、衰弱するのは、文化や歴史、宗教感情が国体ともども、消えてしまったからである。
 戦後の日本が、いまだ、独立国家の体をなしていないのも、政治や法に比べて、国体の比重が軽いからで、そこに、国家としての致命的欠陥がある。
 国体というまもるべき実体がないので、国益がふみにじられ、防衛観念が薄まり、媚中外交や対米従属、自虐史観から、反日主義などというとんでもないものまでがとびだしてくる。

 ●太陽と神道、天皇と国体
 今回は、国体論をのべるにあたって、神道をからめて、考えてみたい。
 原始の時代から、人々の心をとらえてきた宗教感情は、やがて、独自の価値観や世界観をかたちづくり、それが、文化や習俗、民族性などに投影されて、国体ができあがった。
 政体ができる前に、素朴な宗教的共同体があったのである。
 歴史や伝統、文化、習俗に根ざしている国体は、もとをたどると、宗教感情へゆきつくはずで、日本の場合、それが神道で、万世一系の天皇は、「神に祈る神」として、いまもなお、神道の最高神官という立場にある。
 国家は、この伝統的な国体の上に、封建体制や民主主義、立憲政体などの合理的な権力をのせた二重構造になっている。
 時代や状況とともに変化する権力構造と、万古不易の国体が、擦り合わさっているのが国家で、この二重構造をふまえなければ、国家の全体像は、なかなか、見えてこない。
 宗教感情といっても、国によってちがい、国体には、その差異が、反映される。
 その差異によって、国々の価値観や世界観、ものの考え方も、異なってくる。
 真・善・美になぞらえていえば、西洋の一神教がもとめてきたのはで、東洋の仏教や儒教は、をおもんじる。日本の神道は、美で、日本人は、キリスト教の真理や儒教的な善悪よりも、をたいせつにする。
 日本人の美意識は、伝統的な価値観、古くからの習俗と同様、神道からきている。
 真理をもとめる一神教な世界が、合理主義一辺倒で、弱肉強食となるのは、善がかえりみられないからで、儒教的な善悪の世界観が、不自由で窮屈になるのは、美がないからである。
 美は、内部に、真や善をのみこみながら、それ自体、感性的な価値をもっている。
 事物が美しいのは、邪や悪がとりのぞかれているからで、しかも、真や善以上の価値がある。真が頭脳から、善が精神からうみだされるものであれば、美は、もっと高度な審美的感性からでてくる。その意味で、神道は、一神教や観念宗教をこえた、芸術の域にまで高められた、日本固有の宗教であり、文化であり、美意識ということができる。
 日本の国体は、このような、古来の宗教感覚や美意識を土台にしている。
 したがって、この神道がいかなるものか、どんなかたちをしているか、それをふり返らなければ、日本の国体を語ることができず、われわれは、日本人としての自分自身のすがたを知ることもできない。
 現在、日本が、あらゆる分野で停滞しているのは、借り物の外来文化にたよりきって、神道という感性や国体を見失っているせいではないか。
 かつて、日本が、大陸からの文物を国風化する懐の深さ、柔軟さをもつことができたのは、受け皿となる国体が磐石だったのにくわえ、神道が、太陽を最高の存在とみる大らかない自然観をもっていたからである。
 太陽のもとでは、すべて平等で、しかも、太陽をこえるものは、存在しない。
 仏教もキリスト教も、太陽の恵みのもとにある森羅万象の一つなので、神仏習合というかたちで、共存できる。
 神道は、すべてをのみこむ太陽を崇めるが、霊魂とみているわけではない。
 自然の存在、現象そのものが、神の道で、そのなかで、太陽を最高の神と見立てている。最高神が、照らしだしているので、この世は、下界ではなく、中つ国なのである。
 神道のもっとも大きな特徴は、仏教やキリスト教とちがい、あの世とこの世の境界線がないことである。
 キリスト教などの一神教、あるいは、この世が天の差配のもとにあるとする儒教、死の哲学である仏教では、現世のほかに、天国や来世、彼岸があるが、神道という日本独自の宗教観においては、高天原は、現世とつながったままになっている。
 高天原でも、この世(芦原中つ国)でも、最高神は、同じ太陽で、太陽の化身である天照大神の神話が、血筋によって、現在まで、連綿とつづいている。
 そこに、神道と天皇が中心となった日本の国体のレジティマシー(正統性)がある。
 この世が、高天原の再来なのであれば、真・善・美は、すでに実現されているというのが、神道的世界観で、それが失われているのなら、浄めと復活でよみがえらせることができる。
 そこに、神道の保守思想があるのだが、そのテーマについては、いつかまた、ふれる。
 森喜朗元首相の「日本は神の国」、安倍晋三前首相の「美しい国・日本」は、神道的な価値観にもとづいたものだったわけだが、いかんせん、現在の日本では、神道的な素養が払底しているので、意思がうまくつたわらず、左翼マスコミから、散々、叩かれる破目になった。
 神道は、宗教というより、日本人が数千年にわたって共有してきた文化=世界観であり、天皇は、実史と融合している神話時代の唯一の実在者=国体の象徴で、政治体制がどうかわろうと、その地位やかたちは、ゆるがない。
 神道と国体は、このように、天皇が仲立ちとなった歴史の連続性、および、文化の永続性の関係である。
 このすがたをみず、憲法九条が戦後日本の国体などというのは、知的退廃も、はなはだしい。
 


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2008年02月18日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(12)

 ●「国体」と「政体」
 日本の保守政治家のあいだに、保守主義をつよめてゆこうといううごきがでてきたことを、わたしは、まことによろこばしく思う。
 平沼赳夫、中川昭一、島村宜伸らが主催する勉強会がそれだが、なぜ、かれらが、保守主義をかかげたのか、他の保守議員とどこがちがうのか、今回は、そのあたりを入り口にして、国体と政体のちがいついて、のべたい。
 保守系有志の勉強会「健全な保守」の平沼、中川、島村らと、河野洋平、加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階正博、福田康夫ら自民党左派、あるいは、小沢一郎、菅直人、岡田克也ら民主党主流のちがいは、一言でいえば、国体意識があるか、ないか、である。
「健全な保守」がもち、自民左派・民主主流に欠落しているのは、歴史や文化、民族性に根ざした国体という、国家・政体・国柄の土台となるイメージである。
 別項で、権威と権力の二元論について、のべた。権威が朝廷・天皇で、権力にあたるのが幕府・政府だが、これは、そのまま、国体と政体の関係におきかえることができる。

 ●権威=朝廷・天皇=国体(歴史・文化・民族性など)
 ●権力=幕府・政府=政体(民主主義・資本主義)


 国体と対応する政体は、政治形態ということで、これは、経済形態とワンセットになっている。
 民主主義と資本主義が、日本の政体で、自民党も民主党も、この枠内で、国益・民益を追求している。
 政体論においては、枠組みがきまっているので、両党に大きなちがいはでてこない。
 むろん、枠内での対立点は、多くある。政治は「個と全体」の利益調整なので、自由競争と福祉政策、大きな政府と小さな政府、国益と民益など、二者択一的な争点をめぐって、政治家は、選挙運動や国会・政党活動などをとおして、丁丁発止とやりあう。
 かつての自民党は、旧自由党系が、宏池会の池田勇人から宮沢喜一、谷垣貞一にいたるまで、経済一辺倒で、一方の旧民主党系は、改憲主義者の鳩山一郎から安保条約の岸信介、前首相の安倍晋三まで、政治向き、というちがいがあり、両派は、経済と国家の安全という振り子のなかで、政権を争ってきた。
 それが、かつて、政局問題となり、民主党が躍進してきた現在、政権交代へと発展する可能性もあるが、それが、民主主義と自由経済の枠内におさまるかぎり、政権交代も改革も、政体にかかる変更にとどまり、国体は、ゆるがない。
 つまり、政体は、国体に抵触しない限度内で、国益・民益を追いもとめる政治ゲームであり、たとえば、アメリカの共和党と民主党、イギリスの保守党と労働党がいくら激しく競り合っても、国体は、ゆるがない。
 争点を政体論にとどめおくという暗黙のルールが、まもられているからである。
 ところが、日本では、その境界線が、はっきりしない。
 政体と国体の仕分けが、プロの政治家でも、よくできていないのだ。
 元凶は憲法である。憲法は、政体の基本法で、そのなかで、民主主義を謳うのは、どこの国でも同じだが、日本の場合、国体の規定が憲法のなかにくみこまれてしまっている。
 政体は、国体のうえにのっている。ところが、現憲法によると、政体が、逆に、国体を規制している。これは、属国憲法の特徴で、GHQは、国体を衰弱死させるような憲法を残していったのである。
 わたしが、持論だった二大政党制に、最近、懐疑的になったのも、そのことと無縁ではない。現在の憲法では、政権交代が、国体変更の方向をむかいかねず、とても危なくて、政権交代など、軽々しく、口にできなくなった。
 植民地憲法は、戦前のインド憲法がそうだったように、国体が、宗主国がつくる憲法=政体の下におかれる。政体以前の歴史や文化、民族性などが、政治に隷属するものとなるのである。
 日本国憲法も、植民地憲法なので、天皇の地位を憲法でさだめ、国家ではなく、国民に主権をあたえている。
 ということは、選挙、あるいは、国会議決で国体を変更できるというわけで、独立国家の条件である国体と政体の二元論的分離が、皮肉なことに、国家の基本法である憲法によって、否定されているのである。
 国体が、政治に干渉されると、国の土台がゆらぐ。
 したがって、各国は、国家反逆罪を設けて、政治や民主主義の暴走を防いでいる。
 ところが、日本の憲法には、国家反逆罪も国家転覆罪も、スパイ防止法も、国家防衛のための危機管理項目もない。それどころか、国民主権なので、政治によって、国体の変更が可能で、そんな憲法が、事実上、変更不可能になっている。
 戦勝国アメリカが、日本に、こんな憲法をあたえたのは、日本を占領体制のままにしておきたかったからで、それには、国体を不安定にさせておくのが、いちばんよい。日本の憲法で、徹頭徹尾、国体が形骸化されているのは、GHQの謀略なのである。
 左翼が憲法をまもろうとしているのも、国体の規定がなく、代わりに、国民主権が謳われているからだ。これでは、暴力革命をおこして、憲法を停止させなくとも、現憲法下で、国会に赤旗を立てることができる。
 国体と国家主権がない憲法は、共産党宣言のようなもので、事実、官費で靖国神社にわずかな玉串料を払っても、この国では、憲法違反になる。憲法から、国体条項が外されているどころか、国体が、敵視されているのである。
 その憲法によって、国体が危うくされたのが、皇室典範の改定問題だった。有識者会議の吉川弘之が「歴史観や国家観にもとづいてつくったのではない」とのべたように、改悪皇室典範をつくったメンバーの大半は、反伝統主義の進歩主義者で、こういう連中が、二千年の歴史をひっくり返そうとしたのは、皇室典範という国体の大典が、憲法の片隅にくみいれられていたからである。
 憲法という政体の基本法によって、かえって、国体が危うくされているのが、この国の危機の構造である。そして、植民地憲法の不備をついて、売国政治家が、さかんに、国体へ手をのばしてくる。
 自民・民主の売国政治家が、日本に敵対政策をかかげる中国に媚び、日本を貶める理由は、日本の憲法が、植民地憲法だからである。そこから、対米にしろ対中にしろ、大国によりかかる事大主義でてくる。自虐史観や東京裁判史観などという負け犬根性がはびこるのも、憲法で、国家主権が否定されているからである。
 河野洋平、加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階正博、福田康夫、小沢一郎、菅直人、岡田克也ら、保守系反日政治家が、こぞって、中国に媚びるのは、現在の植民地憲法のもとでは、構造的に、強国の保護下でしか国家の安全がたもてないからで、たまたま、かれらは、対米従属より、華夷秩序(柵封体制)のほうをえらんだのである。
 国家が独立した国家たりえるのは、国体がなければならない。愛国心や誇り、国民性などを培うのは、国体で、政体などは、植民地や属国にだってある。
 独立や国家主権は、政策ではなく、国体思想である。そこで、中国は、靖国神社や教科書、歴史認識などの国体を標的にし、これをうけて、日本の売国政治家も、戦争犯罪をふれてまわり、南京虐殺記念館まででかけて行って花輪を飾り、自国の歴史に泥をかける。
 国体の要である歴史が、中国の気にいられたい与党政治家によって、危機にさらされているのである。
 国体は、政治の埒外にあるので、もともと、無防備である。戦後、左翼にあらねばひとにあらずの風潮のなかで、革命志向の野党やマスコミ、進歩的文化人が、国体を標的にした。それに気づき、反撃を開始したのが、三島由紀夫の「文化防衛論」だった。
 三島は、文化防衛とは、天皇をまもることで、畢竟、それは、国体をまもることだと喝破した。
 しかし、三島以後、国体防衛論は、保守陣営・論壇のなかでも勢力を失い、保守といえば、もっぱら、政体における保守=カンサバティブをさすようになった。
 だが、政治は、流動するので、そんなものに国体をあずけるわけにいかない。
 小泉元首相が、皇室典範改訂をすすめ、福田現首相が、中国の意向をうけて、靖国神社にかわる、無宗教の戦没者慰霊施設をつくろうというのは、国体意識が乏しいからである。
 ここで、政治家の国体意識の乏しさをあげつらっても仕方がないが、いっておかなければならないのは、日本人の心の故郷というべき神道、万世一系の天皇、歴史、伝統、習俗、価値観、歴史観、民族性という国体を構成する分野に、現在という一瞬の国益・民益をはかるにすぎない政治は、けっして、手をつけてはならないということである。
 政体は、目の前の問題を相手にするが、国体は、現在と過去、未来、つまり、歴史の連続性とともにある。
 福田が、中国にほめてもらいたい一心で、靖国神社をコケにすれば、福田の政治的判断によって、神道を礎にしている日本の国体は、根底からゆらぐ。そんな資格は、福田にあたえられていない。福田にかぎらず、従軍慰安婦の河野談話も、古賀誠の南京虐殺記念館館の表敬訪問や献花も、国体への冒涜以前に、選挙に当選したにすぎない代議士には、ゆるされていない越権である。
 政治家は、政治や経済に懸命たちむかうべきだが、国体にたいしては、沈黙しなければならない。
 国体は、まもるべきもので、まもるべきものがあるから、政治がうまれるのである。
 それが、国体と政体の関係ということができよう。
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2008年02月01日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(11)

●国体と天皇、神道とうたごころ 
 日本の場合、天皇を抜きに、国体を語ることはできない。
 立憲君主国や制限(象徴)君主国というのは、西洋風な政体論であって、国体は、それとは別の次元にある。
 独自の歴史や文化、国土、民族に根ざしているのは、いうまでもないが、国体にとってもっとも重要なのは、宗教感情である。
 民族が共有する神によって、国のかたちが、できあがるからである。
 日本の国体をささえている宗教は、神道(しんとう)である。
 日本の国教は仏教、というひともいるが、大乗仏教は、聖徳太子が国政にもちいたように、信仰の対象であって、国体をかたちづくる宗教感情とは、別物である。
 神道は、日本の習俗や文化、日本人の心に影響をあたえてきた一つの世界観で、仏教やキリスト教、イスラム教のような、信仰の対象となる教団宗教ではない。
 ところが、戦後、神道を軍国主義のバイブルとみたGHQが「信教の自由」の名のもとに<神道指令>をだして、一種の禁教にしてしまったため、神道が、教団宗教であるかのようにうけとられ、また、そのようにあつかわれるようになった。
 GHQは、すぐ、誤りに気がつき、昭和24年に解除した。だが、左翼イデオロギーに染まっていた教育界、学会、論壇、マスコミは、GHQの失策につけこんで、戦後の日本から、神道を抹殺する文化革命をひそかにおしすすめた。
 その結果、日本人は、民族の背骨となる世界観を失い、精神的な根なし草になって、多くが、唯物論や反日主義、コスモポリタニズムへと押し流されていった。
 戦後、GHQが、本物の日本人を要職から追放すると、代わって、左翼や精神的無国籍者が日本の指導的立場に立った。かれらにとって、神道は、前体制の遺物にすぎず、GHQ革命の邪魔物でしかなかった。GHQ革命は、一種の文化革命でもあったので、民族の固有・伝統文化が、かれらの標的になったのである。
 だが、神道は、生きのびた。それだけ、日本人の心に、神道が深く根を下ろしていたということであろう。
 天皇を抜きに国体を語ることができない、というのは、神道の世界観によって打ち立てられている日本の国体の中心に、神道の最高神官である天皇がおられるからで、キリスト教的価値観や西洋合理主義、唯物史観で、この構造を説明することは、できない。
 本居宣長は、漢意(からごころ=現代では西洋合理主義)で、神道の世界観を読みとることはできないとした。読みとれば、不合理だ、非論理的だということになり、神話の世界は崩壊してゆく。
 あとに残るのは、神の道を失った唯物論(=餓鬼道)の世界である。
 西洋合理主義では、すべて、科学で説明がつくとするが、元素や遺伝子を解明できたといっても、元素や遺伝子が、なぜ、存在するのか、わからない。太陽の生成構造を科学で説明したところで、唯物論で、存在の第一原因が解明されるわけではない。
 外務省は、中国の圧力におされて「日中歴史共同研究」を立ち上げ、すでに、二回、北京で会議をおこなったが、「日中間の歴史認識の食い違いを埋める」(外務省)などということは不可能で、そんなタテマエは、中国への屈服の言い訳にすぎない。
 すべての歴史を「人民を抑圧してきた権力史」とみる唯物論者に、神道的な歴史観などわかるはずはないので、議論したところで、意味がない。事実、中国側は、日本史を唯物史観で読みかえ、日本側がそれに反論するというパターンがくり返されたようだが、反論は、相手の論理にまきこまれている証拠で、反論すればするほど、相手の術中にハマってゆく。
 一方、日本側は、反唯物史観論をもちださないので、結局、議論は、天皇・神道にたいする批判と弁明に終始することになる。これでは、日本が被告席に座らされている裁判のようなもので、このようなばかな会議へ、北京まででかけていくほうがどうかしている。
 唯物史観は、人民の抵抗史だが、神道の歴史観は、神代とこの世がかさなりあったすがた(=中今)をしており、戦後、権力史に書きかえられるまで、日本史は、神話や文化が土台になったおおらかなものだった。
 皇国史観というのは、天皇ではなく、神道の歴史観で、どこの国の歴史も、その国特有の宗教観が反映されている。
 日本の神道には、絶対神がいない。自然や天然物、造形物、生物すべてが神そのものであって、最高神が太陽、その化身が天照大神である。太陽を頂点とした自然の営みが惟神(かんながら)というもので、そのかたちは、神代もこの世も、かわるところがない。
 かつて、森喜朗元首相が「日本は神の国」といって、ひんしゅくを買ったが、神道の神は、神ではなく、迦微である。そのなかに、人間をはじめ、鳥獣、草木、山河、海や空など、奇異(くすあやしき)なものが、すべて、ふくまれる。
 本居宣長によると、奇異(それぞれにふしぎ)なものは、すべて迦微で、この世にあるものは、すべて奇異なので、世界には、迦微ならぬものはなし、ということになる。
 迦微に、神という字を当てたのは、迦微のなかでも、ひときわ、可畏(かしこ)きものだからで、頂点に立つのが、太陽(天照大神)である。
 万物は、太陽のもとで生成され、成育する。太陽も生命も、この世に実在する。神は空想だが、神道の迦微は、天照大神(太陽)や産巣日神(生成・生育)として、森羅万象をしたがえている。
 実体と空想が、こうして、調和をとりあうのが、惟神(かんながら)の世界で、本居宣長は、これを「神の道」といった。
 神道は、アニミズムを源流にもつといっても、あながち、まちがいではないが、神道の場合、モノに御霊が宿るのではなく、モノやコト、それ自体が迦微(神)で、神々のはたらきが、この世の仕組み(惟神=神の道)である。
 本居宣長のことばを借りると「貴きも賤しきも、強きも弱きも、善きも悪しきもの」もあり、可畏こきもののなかには、実りをもたらす和魂(にぎみたま)のほかに、台風や飢饉、地震や雷のように、災いをもたらす荒魂(あらみたま)がおり、神々の世界はいろとりどり(八百万の神々)ということになる。
 神々のはたらきを祈念する天皇は、神代から血筋がつながっているので「神に祈る神」となり、この世における神道的価値観の中心となる。
 それが、天皇を抜きに、国体を語ることができないという根拠である。
 神の道というのは、この世もまた、神代の延長だからである。
 この世でおこるくすあやしいさまが、このあはれで、そのことに気づき、驚き、感動する心を、宣長は、大和心と呼んだ。
「もののあはれ」を「物の哀れ」というのは、まちがいで、あはれは、「噫、ハレ」あるいは、安波礼で、この「あはれ」をそのままことばにしたのが、和歌なので、神道とうたごころは、そこでつながる。
本居宣長が「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」と詠んだその大和心が日本人の心で、それが、神の道を生きる心根である。
 保守思想には「神の道」という考え方があり、キリスト教社会でも、アメリカ中西部のファンダメンタリストからイギリスの保守主義まで、神の道が用意されている。
 むろん、この神は、教団宗教の神体ではなく、「神の祝福あれ」というときの神で、善という観念が、個人の生き方であれ、政治であれ、すべて、善神に集約されている。
 神というものを立てなければ、成立しないのが、善なのである。
 イデオロギーにもとづいて、人為的・強制的に社会を改造することをせず、その国の歴史的集積のなかで、自然に形づくられてきた知恵や文化、伝統、習俗をまもろうとするのが、神の道を立てる保守主義であって、宣長も、「天下を治めるには、古(いにしえ)のやり方をもちいて、善神の御心にかなうようにあるべし」といっている。
 神道において、この世は、天照大神や産巣日神とともにある「今即神代(中今)」なので、つねに、善神の御心にかなうように生きなければならないが、その御証人となる立場が、天皇である。
 権威と権力の二元論も、そこからきている。善神の化身である天皇のゆるしをえて、はじめて、幕府が権力を掌握できるということは、権力が、善神の監視のもとにあるということで、善神という基準がなくなれば、現在の国会のように、政治が千々に乱れて、国は、滅ぶ。
 保守思想の根本は、歴史が、すでに、神の道という理想を実現させているので、誤りや悪をとりのぞくほか、何も変えてはならないとするところにある。
 右翼論でいえば、天皇が善神の化身なので、身体を張って、天皇をまもることが第一義で、うたごころ(大和心)を忘れて、政治を語るのは、国体を忘れている証拠、ということになる。
 右翼が、拠って立つところは、政体ではなく、国体=天皇=権威でなければならない。
 多数決で、国が売られる可能性を否定できないのが、民主主義というものだが、国体をまもるという立場に立てば、身体を張って政治的決着を阻止することが、善神の御心にかなう。
 つまり、民主主義と対決を迫られるのが保守で、そこが、衆愚に流れる自由主義とちがうところである。
 政治を「マツリゴト」というのは、善神の御心を奉るという意味で、その善神がおられるのは、多数決がおこなわれる国会ではなく、神代からつながっている日本という国の、国体にほかならない。
 国体までを政治の下におこうというのが、憲法の皇室典範だが、このテーマについては別の機会にのべよう。

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2008年01月28日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(10)

●国家は、権力ではなく、情緒の産物である
 国家と聞くと、たいていの日本人は、国家権力、あるは、法治国家というハード面だけを思いうかべるのではないか。
 マスコミが、国家を、そういう印象につくりあげてしまったのである。
 左翼にいわせると、国家は、人民を抑圧する制度・権力機構で、資本家は、労働者から搾取する悪党である。
 マスコミには、左翼が多いので、国家の、そういうハード面だけが強調される。
 その結果、国民の前へ、国家=権力、人民の敵という図式が描きだされる。
 だが、権力は、あくまでも、国家の一面で、国家の本質は、むしろ、歴史や文化、伝統や習俗、国土や民族など包括したソフト面にある。
 愛国心、国を誇りに思う心情は、そこからでてくる。
 マスコミが「反日」を煽り、日教組が「自虐史観」を叫び、野党が「反国家」を謳ったところで、愛国心、国を誇りに思う心情は、国家のソフト面に根ざしているので、国民の大多数は、騙されないというわけである。
 そのことが明らかになったのが、読売新聞がおこなった「年間連続調査『日本人』」である。
 93%の日本人が「日本国民に誇り」をもち、73%が「国の役に立ちたい」と考えていることがわかったという。この結果に、左翼マスコミや日教組、反日市民運動家、共産党や社民党、自民・民主の左派は「じぶんたちは、いままで、何をやってきたのか」と、がっくり、肩を落としたのではないか。
 それにしても、マスコミと世論とのこの乖離は、いったい、何であろう。
 朝日新聞や毎日新聞、NHK、テレ朝、TBSなど、左翼がもぐりこんでいるメディアは、国家を悪とする報道姿勢をつらぬき、最大野党の民主党も、生活主義を標榜して、反国家の姿勢を鮮明にした。
 国家のハード面だけをとらえ、一部は反日主義に、大半は、自虐史観に立って、アジアに謝罪しない日本はわるい国、と言い続けてきたのが、この国のマスコミのすがたである。
 ところが、日本人の93パーセントは、日本人であることに誇りをもっている。
 左翼は、日本人であることの誇りと、国家はつながらないという。
 だが、国家を度外視した、個人主義の日本人など、どこにいるだろう。
 日本に誇りをもつのは、国家との属性をふまえているからで、それが、73%の日本人が「国の役に立ちたい」と応えた読売のアンケート結果に、あらわれている。
 先祖がつくりあげた国家は、父でもあり、母でもある。
 父は、家族をまもるために、銃をもち、規律を立てる。それが国家のハード面で、母のようなやさしさ、なつかしさ、安心が、国家のソフト面といえよう。
 左翼・反日主義者は、そういう家庭を破壊して、人々をすべて、イデオロギーの奴隷にしようというわけで、朝日新聞は、もっぱら、そのPR部門を担当してきた。
 先週の週刊新潮(平成20年1月31日)で、高山正之がコラム変見自在でこう書いている。「この(朝日)新聞はかつて『北朝鮮は天国』と書いて9万人を地獄に送って殺した。共産主義の幻想から書いたものと思っていたが、どうもそうじゃない。記事に騙されて人が殺されにゆくのが愉しくてしょうがないのかもしれない」
 朝日新聞に入社するのは、偏差値が高い極左で、思想的には、革マルに近い。体制内にもぐりこんで、内部から革命をおこすという戦略で、その路線対決で、中核派と内ゲバをくり返して、これまで、双方あわせて百人に近い同盟員が鉄パイプで虐殺されてきた。
 NHK・民放の労組も、極左で、かれらと報道部は、しっかり手をにぎっている。
 新聞・出版・電波の担当者も、極左ではないが、半数以上がインテリ左翼で、かれらの眼鏡にかなった者たちだけが、マスコミに登場してくる。左翼は、イデオロギー右翼ともつうじるところがあるので、保守系媒体も、でてくるのは、理論保守ばかりということになる。
 さて。読売のアンケートのほうだが、「日本国民に誇りをもつ」「国の役に立ちたい」と考えるのは、保守思想である。だが、かれらは、理論保守ではない。高尚な理論やことばは知らないが、情という、人間の感性のいちばん奥深いところで、日本という国をとらえている心情保守である。
 そこに、マスコミを中心とした左翼・反日・反国家主義、あるいは、右翼イデオロギーやインテリ保守との決定的なミゾがある。
 左翼・反日・反国家主義と、右翼イデオロギー・インテリ保守の共通点は、国家だけを相手にしていることである。ともに「国家改造論」で、左は、マルクス主義による完全な国家統制、右は、保守理論による社会主義的な国家体制の立て直しで、情という、人間にとって、もっとも大事なものが忘れられている。
 わたしが、学生時代から二十代にかけて、師事した三浦義一は、「戦後の政財界を裏で仕切った黒幕」(謀略の昭和裏面史/ 別冊宝島)とよばれているが、素顔は詩人で、北原白秋の弟子だった。三浦の保守思想は、うたごころ(和歌の心)にあり、本居宣長の「ものあはれ」につうじる心をもっていた。
 わたしが衆議院に立候補した(次点で落選)した三十数年前、後見人となってもらった今東光から「政治は文化だ」と教えられた。文化というのは心で、今和尚自身は、万葉集のますらお(益荒男)ぶりを最期までつらぬいた。
 昔話をもちだしたのは、読売新聞のアンケート結果と、マスコミ世論とのはなはだしい落差の正体が、文化=うたごころの有無ではないかと思いあたったからである。
 理論右翼には、左翼からの転向者がすくなくない。左翼イデオロギーをひっくり返すと右翼理論になるのは、北一輝の国家改造論が、マルクスの共産党宣言と相つうじるものがあるのと同じで、両方とも、情(=文化)というものがない。
 情を忘れて、理論をふりかざして、どっちが正しいか、とやっているのが、現在の思想界である。
 そして、保守系は、日本人には歴史観や国家観がない、左翼は、日本には個人主義がないと批判している。
 ところが、日本人の93パーセントは、日本人であることに誇りをもっている。
 しかも、「日本の国や国民について、誇りに思うこと」の具体的内容では、「歴史、伝統、文化」が72%で、「国土や自然」43%、「社会の安定・治安」「国民性」(各28%)があとにつづく。
 前回の調査と比べると、「歴史、伝統、文化」が19ポイント増えた一方、「教育・科学技術水準」が22ポイント減の19%、「経済的繁栄」が17ポイント減の19%に落ちこんだという。
 誇れるのは経済だけで、日本人は、じぶんの国に誇りをもっていない、戦争でアジアを侵略して、ろくに謝罪をしないような国の指導者を、日本人は、情けなく思っている、という朝日新聞の主張は、これで、音を立てて崩れ去った。
 日本人が、国を誇りに思うのは、国や民族への情がはたらいているからである。
 一方、左翼には、一片の情もなく、インテリ保守も、あやしいものである。
 ともに国家改造主義で、心や文化、情というものをすっかり忘れている。
 否、もともとないから、理論に走るのである。
 国家改造というのは、政治家や役人が、国民の税金で、じぶんたちに都合のよいように体制をつくりかえようというくわだてで、左右いずれにしても、役人中心の巨大な国家になる。
 今回の読売アンケートの「小さな政府」と「大きな政府」の選択肢では、38%が「小さな政府」をえらび、33%の「大きな政府」を上回った。
 国民が国家に望んでいるのは、強大な官僚機構をもち、役人が幅をきかせるような国になることではなく、誇りをもって外交・防衛をおこない、国内については、余計な公務員を減らして、少数精鋭でいけということである。
 今回のアンケートは、マスコミ左翼やインテリ保守より、情という文化において、大衆のほうが成熟していたことをしめしたように思える。
 次回は、うたごころ(大和心)にからめて、天皇と国体について、のべる。
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2008年01月22日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(9)

 ●楠木正成の忠義と足利尊氏の打算
 日本人の忠の精神や滅私奉公は、神話からひきついだ民族の遺伝子のようなもので、他の民族も、同様に、神話をとおして、文化的・精神的な特性をひきついでいる。
 アメリカがフロンティア・スピリッツを国家のパワーとしてきたように、日本では、忠の精神が、経済の発展や組織力をささえてきた。聖徳太子の「和の精神」が横のつながりなら、忠はタテの結束で、団結力が、日本のつよさなのである。
 といっても、忠の精神が、日本史に武士が出現した当初からあったわけではない。
 源平合戦の源義経、鎌倉幕府をひらいた源頼朝、蒙古軍を破った北条時宗、貞永式目の北条泰時、南北朝で活躍した楠木正成、神皇正統記の北畠親房と、徐々に、忠が、武士の魂になってゆく一方、武士のあいだでは、依然として、一所懸命という打算が根強く、それが、のちに、暗黒の中世をつくりだしてゆく。
 日本史に、暗黒の中世が出現したのは、朝廷(権威)の地位が下がったため、求心力を失った権力集団が暴走したためで、南北朝の動乱から応仁の乱、戦国時代をへて、徳川幕府が誕生するまで、数百年にわたって動乱がつづく。
 忠という秩序感覚がはたらかなくなれば、権力は、武装集団にすぎないものになり、武士の世界は、下克上がふきあれる乱世となるのである。
 秩序が乱れはじめた鎌倉末期、武士の世界に打算をもちこんだのが、足利尊氏である。
 尊氏は、武士の打算の代表的な人物で、当時の武士も、所領地の主か、用心棒のようなもので、後世でいう忠の精神がうまれるのは、信長が朝廷の権威を盛り返してからである。
 連や臣ら、天皇のとりまきが権力をにぎる律令体制において、神話的秩序が大きな意味をもった、と前回、のべた。
 そしてそれが、武家政権になって、忠へ転化したと論じたが、それには、乱世という準備期間が必要だったのである。
 打算の足利尊氏と忠義の楠木正成がたたかった南北朝の争いにふれる前に、武家政権が成立した経緯をみてみよう。
 武士が台頭してきたのは、天皇と摂関家(藤原)を中心とした律令体制が崩壊したからである。朝廷や摂関家、源氏、平氏、土地持ちとなって力をつけた豪族が、それぞれ内部分裂してたたかった「保元の乱」を契機に武士が台頭してくると、つづく「平治の乱」で平清盛が源義朝を討って、太政大臣の地位につく。
 武家政権が成立するのは、それから、源平合戦をへて、平氏を滅ぼした源頼朝が、鎌倉幕府をひらいてのちのことである。
 その源氏の血統が三代で絶え、頼朝の妻・北条政子の系統が執権の座につき、「承久の乱」で、後鳥羽上皇の院政を廃した北条泰時の時代になって、ようやく、武家政権らしくなってくる。
 泰時はなかなかの傑物で、貞永式目をつくって潔白な政治をめざし、公武双方から高い評価をうけた。貞永式目は、聖徳太子の十七条の憲法を三倍した五十一条からできているが、その精神もうけつぎ、これが、のちの日本における法体系の土台となった。
 さて。日本の政治が安定していたのは、権力が権威にとってかわらなかったからとのべてきたが、逆に、天皇が権力をめざしたケースは、二度あった。
 一つは、後鳥羽上皇の承久の乱で、もう一つが、後醍醐天皇の建武の新政である。
 承久の乱は、かえって、武士政権をつよめる結果となり、朝廷は、弱体化して、内紛を生じる。承久の乱で、後鳥羽上皇が配流になった二十年後、持明院統と大覚寺統が対立して、両統迭立となる。
 朝廷が権力をもとめた結果、権威としての存在価値があやしくなってきたのである。
 後醍醐天皇が、もとめたのも、王政復古という政治権力だった。
 倒幕計画が発覚(正中の変・元弘の変)して、配流された大覚寺統の後醍醐天皇が隠岐から脱出、蜂起をよびかけると、護良親王や楠木正成、新田義貞らが呼応して鎌倉幕府を倒す。
 こうして、いったんは、王政復古が成功するが、鎌倉幕府から寝返って功をあげた足利尊氏が、ふたたび、叛旗をひるがえして、後醍醐天皇を吉野へ追い、そこから、半世紀をこえる南北朝の時代がはじまる。
 鎌倉幕府と後醍醐天皇を裏切った足利尊氏が、拠って立ったのが、武士の打算だった。
 幕府(将軍)が領主(御家人)に所領や安堵をあたえ、軍事上、経済上の奉公をもとめるのが、武家政権である。幕府と御家人は、打算でむすびつき、武士は、領主を命がけでまもる恩賞として、土地(所領)をえる。
 そこから、一所懸命ということばがでてきたわけだが、鎌倉末期に、その関係がゆるんできた。十分な知行をあたえることができない鎌倉幕府に、領主が、背をむけはじめたのである。
 二度にわたる元寇などで、貧窮化した鎌倉幕府には、幕臣に十分な知行をあたえる力がなく、王政復古の後醍醐政権にいたっては、律令体制への逆戻りで、あたえられる所領も知行も、鎌倉時代から大幅に後退した。
 当時の幕府と武士の関係は、打算であり、鎌倉幕府の幕臣だった足利尊氏が後醍醐天皇に寝返り、さらに、南朝に反旗をひるがえしたのも、打算からだった。
 鎌倉幕府を崩壊させたのと同じ経済的打算から、尊氏は、後醍醐天皇の理想を葬ったのである。
 足利尊氏は、幕府にたいする武士の不満、あるいは、打算を巧みにすくいあげて、叛乱軍を編成した。新田義貞に敗れて九州へ逃れたのち、50万もの大軍を率いて、ふたたび京都をめざすことができたのは、後伏見上皇に宣院を願いでた尊氏の政治力の高さもさることながら、それだけ、当時の武士が、功利的だったということであろう。
 このとき、打算に見向きもせず、忠を立てたのが楠木正成だった。正成は、勇猛にして智謀にたけたいくさの天才で、赤坂城・千早城などで奇策をもちいて奮戦、幕府軍を苦しめた。だが、度重なる進言が後醍醐天皇に聞き入れられず、情勢は不利になり、九州からのぼってきた尊氏の大軍を正面から討たねばならなくなる。
 湊川の決戦である。正成は、出陣のとき「今はこれまでなり」とのべている。天皇への忠をつらぬき、50万対700という劣勢のなかでたたかい、弟の正季と「七生報国」を誓って、刺し違えるが、これは、打算でうごく当時の武士のイメージを一変させる新しい武士像である。
 正成は、古代の神話的秩序を、忠という近世の観念にかえて、朝廷に仕える武家政権の土台をつくりあげて、みごとに、散っていった。
 そこに、太平記が、多くの日本人に読みつがれてきた理由がある。
 近代になって、正成をよみがえらせたのは、水戸藩主・水戸光圀である。
 楠木正成の死に様は、水戸光圀の「大日本史」に著され、幕府や主君より、天皇に忠義をつくすのが、真の武士だという考えがひろまっていった。吉田松陰や幕末の尊王志士のあいだで、楠木正成が武士の鑑となり、一方の足利尊氏は、戦後、再評価されたものの、不忠の烙印をおされた。
 アメリカに密航をくわだて、下田で捕まった吉田松陰は、護送先の泉岳寺で「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」と詠んだ。
 意味も場面もちがうが、忠や義、情もまた、松陰のいう、やむにやまれぬもので、どこかで高い理想につながっている。
 やむにやまれぬもの、それもまた、保守思想の大きな柱であろうと、思うのである。
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2008年01月21日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(8)

 ●神話が源流だった“忠”の精神
 日本史をふり返ると、蘇我馬子、藤原不比等、平清盛、北条泰時、足利尊氏、織田信長、徳川家康など、図抜けた権力者が幾人もでたが、ふしぎなことに、天皇にとってかわった者は、一人もいない。
 未遂者は、二人、いる。弓削道鏡と、金閣寺を建てた足利義満である。
 宮中で権勢をふるった道鏡は、権力者ではなかったので、問題外だとしても、じぶんの息子を天皇の養子にだした足利義満の場合は、上皇となって、院政を敷く可能性が十分にあった。
 政略で太上天皇の称号をいれかけた義満は、正装に、天皇にしかゆるされていない紋をつけ、金閣寺を建てた北山に、朝廷にしかない紫辰殿と同じ名の建物を建てるなど、天皇気取りで、天皇の養子にした息子の義嗣に、後小松天皇の後継ぎをうかがわせる増長ぶりだった。
 だが、義嗣元服の数日後、肺炎にかかって急死して、義満の野望は、ついえた。天罰が下ったのであろう。
 義満は、現在の政治家にたとえると、媚中派・河野洋平のような奇怪な権力者で、明と屈辱的な外交をひらき、その明から「日本国王」の称号をあたえられると、支那服を身につけ、暦まで明歴にあらためるという、極端な明びいきだった。
 日本国王の称号は、華夷秩序(柵封体制)における明皇帝の下位で、かつて、聖徳太子が、これを拒んで「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書き送ったのは有名な話である。
 義満は、これと、まったく逆のことをやった。日中外交に、外務省チャイナスクールや朝日新聞、媚中派の政治家や財界人が介入して、へりくだった関係にしてしまったようなもので、義満が存命して、上皇になっていたら、日本は、柵封体制にとりこまれて、その後の歴史が、まるっきりちがったものになっていたろう。
 だが、これは、あくまでも例外で、有史以来、この義満以外、だれも、天皇になろうとしなかった。
 そこに、日本の権力構造のユニークさがある。
 その理由の一つが、神話の存在である。日本の神話は、天皇の祖であるニニギノミコトが降臨して、国造りをする物語だが、大和時代の豪族から奈良・平安の公家、戦国時代の武将にいたるまで、祖をたどると、すべて、ニニギノミコトにつきしたがってきた従者の神々につきあたる。
 その神々の末裔が、天皇にとってかわれば、祖神を裏切ることになる。
 祖神を敬う日本人の宗教感覚から、とうてい、考えられることではない。
 大化の改新で功があった藤原鎌足とその子、不比等にはじまる藤原一族は、奈良・平安時代に、藤原三百年とよばれる栄華を築きあげ、武家政権になっても、朝廷人事の中枢を占めてきた。
 だが、一族のうちで、天皇になったものは、一人もいない。
 藤原氏の祖先は、神代の時代、天照大神が天岩屋戸に隠れたときに、岩戸の前で祝詞をあげた神で、藤原家系の由緒は、天皇をおまもりすることによってのみ、正統性がまもられたからである。
 神話時代から天皇をまもってきた重臣は、連(むらじ)や臣(おみ)とよばれた。
 日本の権力構造は、藤原氏をふくめ、天皇をまもる神々の子孫、連や臣にささえられてきた。
 したがって、天皇に叛旗をひるがえすと、神話時代から天皇に仕えてきた神々の末裔、他の連や臣が立ち上がって、叛徒を討つ。
 それが、日本で、権力者が朝敵になるのをおそれる理由である。
 たとえ神話でも、歴史上の出来事は、一つの規範となって、後世に残される。
 この神話的秩序をまもるのが保守で、それが、伝統国家の特質である。
 一方、この神話的秩序を破壊しつくすのが革命で、共産主義の名のもとで、前世紀だけで、数億人の人々が犠牲になった。それが、革命の愚かさで、歴史を断ち切ると、人間も国家も、文化と心を失い、野蛮と冷血性にとりつかれるのである。
 ソ連や東欧、中国や北朝鮮、カンボジアの悲惨な歴史が、それを如実に物語っている。
 同じ新興国家でも、アメリカでそういうことがおこらなかったのは、大陸からキリスト教という神話的秩序がもちこまれたからである。
 保守が、宗教とかかわるのは、過去から神話をひきつぐからである。アメリカの新保守主義も、アメリカン・プロテスタンティズムやファンダメンタリズム(原理主義)と深いつながりをもっている。
 宗教をふくめ、道徳や習俗、情などの精神文化が、民族共有のものとなるのは、神話が介在しているからで、日本の場合、そのなかに、忠がある。
 朝廷と公家、天皇の子孫である平氏源氏までは、神話的世界でつながる。
 だが、出自が百姓の武士は、公家や源平にくらべて、天皇とのむすびつきは、それほどつよくなかった。
 ところが、武家政権になっても、朝廷と幕府、幕府と御家人の関係は、崩れていない。
 神話的むすびつきが、忠という武士の倫理にきりかわって、生きつづけたからである。
 忠は、日本人特有の心情で、武士の倫理のみならず、上下の人間関係から愛国心にまでおよぶが、外国には、これに該当することばがない。
 忠の精神は、儒教から移入されたといわれる。だが、日本の忠は、神話から借りてきた日本独自の精神文化で、けっして、大陸のものではない。
 儒教は、孔子がつくった学問で、教えの中心に、仁・義・礼、徳治や忠孝がある。
 朱子学は、儒教より先鋭的で、王道政治(尊王賤覇)が、幕末には「水戸学」となって幕末の志士たちに大きな影響をあたえ、やがて、討幕運動のイデオロギーになっていった。
 だが、儒教(学)も朱子学も、仏教と同様、日本で独自の発展をとげてきたので、中国や韓国のものと、同一視することはできない。
 韓国の儒教は、忠孝の忠が捨てられて、孝が強化された。反対に、日本では、孝よりも忠である。韓国では、親への遠慮が美徳になるが、日本では、忠義が善行である。それが国民性や国柄のちがいで、いかんともしがたい。
 尊王賤覇も、易姓革命をくり返し、何度も北方民族に征服されてきた中国と、古来より覇道(征夷将軍)が王道(万世一系)の下位におかれてきた日本を同列に語ることはできない。
 事実、中国では、観念の上のものでしかなかった尊王賤覇が、日本では、天皇と摂関、朝廷と幕府という権威と権力の二元体制として、千年以上もつづいてきた。
 儒教が日本にはいってきて、忠や尊王が生じたのではなく、儒学によって、神話的秩序が理論化されたとみるべきだろう。
 科挙の国だった中国や朝鮮では、儒学が受験科目で、知識の対象だった。
 地位と富をえるための知識にすぎなかったその儒学が、日本で、よみがえった。
 租神を敬う神話的秩序があったため、儒教が空論ではなく、天皇や君主をまもる武士のモラルにまで高まったのである。
 天皇を中心とした律令制度や幕藩体制が、何百年も何千年もつづいたのは、律令体制の神話的秩序が、武家政権になって、忠という、倫理に成熟したからで、そこに、日本史をつらぬいている保守の思想がある。
 保守は、ただたんに、過去を復元することではない。変容をみとめるのも保守で、それがなかったら、歴史の知恵は、すべて、過去の遺物として捨て去られて、後世につたわらない。
 律令体制の神話的秩序は、封建体制(武家政権)の忠へ、すんなりときりかわったわけではない。
 それどころか、建武の新政ののちに消えた忠がふたたび登場して、織田信長によって、権威と権力の二元体制が再建されるまで、日本は、数百年におよぶ暗黒の中世へ迷いこむのである。
 次回は、日本が暗黒の中世に迷いこんだ歴史をふりかえってみたい。

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2008年01月09日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(7)

 ●新自由主義と新保守主義
 新自由主義を語る前に、主義やイデオロギーとはいったい何か、それをのべておくのが順番だろう。
「個と全体の矛盾」を解消しようとする運動論理――一言でいえば、それが、主義やイデオロギーというものの正体である。
 ところが、「個と全体の矛盾」を解消する理論は、まだみつかっておらず、今後、みつかる可能性も、薄い。
 そこに、イデオロギーや主義の不毛性がある。
 マルクス主義や社会主義、計画された資本主義が不完全なすがたをしているのは、それが、イデオロギーの産物だったからである。
「個と全体の矛盾」を解消するどころか、みずから矛盾に陥り、空中分解してしまったのが、前世紀末のソ連邦・東欧の解体劇であり、資本主義の世界で、周期的にくり返されるスタグフレーション(不況+インフレ)の悪夢なのである。
「個と全体の矛盾」は、理論的にも、現実的にも、解消できないというのが、現代の世界常識である。
 にもかかわらず、なお、イデオロギーをふり回すのは、不毛をこえて、おばかさんというしかない。
 とくに、左翼は、イデオロギー一本槍なので、その荒廃ぶりは、目に余るものがある。左翼過激派の内ゲバやリンチ殺人をみてわかるとおり、過剰にイデオロギーにとりこまれると、人間性が破壊されて、ケダモノやロボットのようになってしまう。
 日本の左翼も、本人はインテリのつもりでも、かつてのオウム信者のように、魂の抜け殻で、イデオロギーにマインドコントロールされたまま、自虐史観や反日主義、反道徳をふりまわしているだけである。
 いったい何のために、そんなことをしているのか、本人も、よくわかっていないのではないか。
 おおよそ、主義と名のつくものは、あまり信用しないほうがよいわけだが、自由主義もリベラリズムも、新自由主義も、その域をでない。
 知識にすぎないイデオロギーにとらわれると、経験をふまえる、現実を直視するという頭のはたらきが留守になってしまい、生きた知恵がはたらかなくなる。
 ちなみに、イデオロギーや主義のうち、経済を土台にしているものは、マルクス主義をはじめ、すべて、革新にぞくする。自民党でも、大蔵出身の池田勇人がつくった旧宮沢派(宏池会系/加藤派・谷垣派・古賀派)は、党内でもっとも左翼的で、保守からもっとも遠いところにいる。
 自由主義は、国家から自由という意味なので、左翼的なのだが、一方の保守は、国家や歴史、伝統によりそい、経済理論をふりまわさない。のちにのべるように、経済を単独の問題として考えず、社会や歴史、人間との関連でとらえるからである。
 自由主義は、「個人の自由」というときの自由とはちがう。
 国家に縛られない経済という意味で、経済用語である。リベラリストは、自由人ではなく、国家からの自由をもとめる反逆者であり、イギリスやフランス、アメリカにおける政変や革命、分離独立を担ったのも、国家の束縛をきらったかれらだった。
 その自由主義のわかりにくいところは、古典的自由主義と現代の自由主義(リベラリズム)が、まるっきり、逆の立場にたち、新自由主義は、リベラリズムを逆転させて、ふたたび、古典的自由主義へ立ち戻っているところにある。

 ●古典的自由主義(アダム・スミス)→国家からの自由→市場経済(神の見えざる手)
 ●リベラリズム(ケインズ)→国家の関与→市場への積極的介入(社会保障・福祉)
 ●新自由主義(ハイエク)→国家の関与を縮小→市場原理の重視(民営化・規制緩和)


 昨今、日本で、民営化・規制緩和がすすめられ、一方で、社会的格差や貧富の差がひろがりつつあるのは、アメリカで猛威をふるっている新自由主義が移入されたためである。社会保障や福祉が後退して、競争原理が前面にでてきたために、経済が活気をおびてきた半面、社会がギスギスしてきたのである。

 ●リベラリズム→大きな政府→社会保障・福祉→公共投資など政府の経済振興策
 ●新自由主義→小さな政府→自由化・規制緩和・民営化→減税による消費経済の拡大


 両者は、どちらがよくて、どちらがわるいというふうには、いえない。
 自由放任(レッセ・フェール)を制限すると、コストがかかり、経済が沈滞する。
 かといって、弱肉強食の市場至上主義を前面におしだすと、勝者と敗者の二極化がすすみ、市場原理に合わないものは淘汰されて、悪貨は良貨を駆逐するたとえどおり、価値の高い少数が、価値の低い大衆的な多数におしつぶされることになる。
 こうなると、衆愚化現象の経済版である。
 小泉・竹中コンビは、新自由主義にとびついた。だが、「日本改造計画」で新自由主義を主張した小沢一郎は、民主党へ入党するにあたって、リベラル路線へのりかえた。民主党は、羽田元首相の「共生」、旧社会党横路の「民主」、菅の「市民」、鳩山の「友愛」がごちゃまぜになったわけのわからない政党だが、新自由主義より、よほど、左翼色がつよい。
 小沢は、そこへ「生活」という新たなスローガンを掲げて、リベラリストの仲間入りをはたした。
 自由主義は、このように、のりかえも自由で、不況にぶちあたるたび、各国の経済担当部門は、自由主義政策のモデルチェンジをおこなってきた。古くは、ルーズベルトのニューディール政策(自由主義→リベラル/公共事業と社会保障制度の整備)、新しいものでは、レーガンのレガノミクス(リベラル→新自由主義/大型減税と規制緩和)などがあるが、日本のケースでいうと、バブル崩壊後のグローバリゼーションも、リベラリズムから、新自由主義へののりかえである。
 ちなみに、新保守主義は、新自由主義をささえる政治的イデオロギーで、伝統の重視や強硬な外交姿勢に特徴があるが、グローバル資本主義において、国家主義的な政治勢力が台頭してくるのは、理屈として、うなずける。
 だが、グローバル化や政治主義で武装しても、新自由主義がイデオロギーであるかぎり、いずれ、失敗に終わる。
 冒頭にのべたように、主義やイデオロギーは、永遠に「個と全体の矛盾」を解消することができないからである。しかも、経済理論である自由主義は、革新色がつよく、マルクス主義の二の舞になる可能性さえある。
 経済理論を軸にした主義は、すべて、左翼にぞくするとのべた。
 それでは、保守のイデオロギーや主義は、何を中心にしているのであろうか。
 経済ではなく、国家や歴史、文化である。
 厳密にいえば、保守には、主義もイデオロギーもない。本ブログでは、便宜上、主義と呼んでいるが、実際は、保守思想で、テーマは、徳である。
「個と全体の矛盾」は、イデオロギーで、解消できないと指摘した。
 ところが、徳なら、その矛盾を解消できる。
 前回、聖徳太子の和に、ふれた。イデオロギーでは、数の暴力になる民主主義が、和の精神という徳をもちいると、まるくおさまるように、「個と全体の矛盾」も、全体利益への譲歩、エゴイズムの抑制、忠孝の精神という徳をもちいると、解消される。
 かつて、日本経済が世界一となった一方、旧ソ連の経済が破綻し、現在、中国が、高い経済成長を実現しながら、日本に追いつけないのは、日本経済にそなわっていた徳が、いまの中国になく、旧ソ連になかったからである。
 理論は正しくとも、徳がはたらかなければ、「個と全体の矛盾」は解消されない。
 徳のない自由主義の経済は、かならず、ゆきづまる。日本の過去の経営者は、そのことを知っていたので、日本経済はつよかったわけだが、それが、保守主義である。
 経済政策において、保守主義は、経験主義である。
 革新は「頭で考えて不可能なことはない」という人知万能主義だが、人知を完全なものとしてみない保守は、頭のなかで考えたものに、全幅の信頼をおかない。
 歴史の知恵や常識、あるいは、徳にもとづいて経済をとらえ、創造や勤勉、協力、互助という倫理観に立って、経済哲学をつくりだすのである。
 商道の元祖といわれる石田梅吉(「商人の売買するは天下の相なり」)や、自藩(松代藩)の困窮と徴税問題を民との話し合いで解決した恩田杢、自助・互助・扶助の三助で米沢藩の財政危機を救った上杉鷹山、「道徳を忘れた経済は罪悪であり、経済を忘れた道徳は寝言である」の名言を残した二宮金次郎、武士道と商道を合体させた「富国論」で日本資本主義の黎明をひらいた横井小楠、そして、東洋紡や東京海上火災など、生涯に千をこえる事業をおこない、「完全な冨、正当な殖益には、かならず徳がそなわっている」と喝破した渋沢栄一など、欧米の主義やイデオロギーに学ばずとも、わが国には、先人のすぐれた教え、哲学、テキストがいくらでもある。
 自由主義やリベラリズム、新自由主義は、かつての日本にあり、いまは失われた「人間経済学」に比べると、浅知恵に類するものなのである。
 次回は、日本史に目を転じて、中世日本の保守主義を検証してみたい。
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2008年01月07日

保守思想とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(6)

 ●革命憲法から伝統憲法へ
 憲法問題にかんしては、保守と革新が、攻守ところをかえる。革新が「平和憲法をまもれ(保守せよ)」と叫び、保守が「GHQ憲法は廃棄すべき(革新せよ)」と主張しているのである。
 ということは、現行憲法は、左翼にとってだけ都合のよいもので、したがって、その憲法のもとで生きている戦後の日本人もまた、知らず知らずのうちに、左翼色にそまってきたということになる。
 六日間で日本憲法をつくりあげたGHQの若い男女19人は、ニューディーラーだったといわれる。
 F・ルーズベルトの社会主義(ニューディール=新規まき直し)的政策の申し子だったかれらは、敗戦国日本をニューディールするべく、かれらが信奉するイデオロギーにもとづいて、思い切り左翼的な憲法をつくってみせたというわけである。
 自民・民主の左派から社民党・共産党にいたる大勢力が揃って護憲をいうのは、日本国憲法が、左翼のテキストとして、それだけ、よくできているということなのである。
 改憲派にしても、大半は、憲法九条の戦争放棄が、事実上、国家主権の否定にあたるのでこれを改正すべきという「九条改正派」で、自主憲法制定派とのあいだには、温度差がある。
 現行憲法を改正しなければならないのは、不都合があるからではない。
 歴史の連続性を断ち切っているからである。
 とりわけ、憲法九条の戦争放棄と十章の最高法規、憲法前文の三つは、みずから、国家主権を否定した、世界に類のない、珍奇な内容である。
 むろん、日本の歴史文化、伝統は、反映されていない。
 GHQは、日本をそっくりつくりかえるつもりだったので、あたりまえの話である。
 あえて、保守主義といわずとも、GHQ憲法の廃棄→伝統にもとづいた自主憲法の制定は、国民感情としても当然である。
 その場合、問題になるのが、自主憲法の下敷きになる思想や価値観である。
 新憲法の手本に、明治天皇の「五箇条の御誓文」と聖徳太子の「十七条の憲法」以上のものはみあたらない。
 というのも、新憲法にもとめられるのは、国家(主権)と国体(文化)、国民(繁栄)の三つをつなぐ哲学だからである。
「五箇条の御誓文」と「十七条の憲法」には、その三つが書かれている。
 それらをひきついで、憲法改正をおこなって、はじめて、伝統憲法となる。
 伝統憲法というのは、読んで字の如し、歴史や国柄が反映された憲法である。
 明治憲法は、形式こそ、ヨーロッパの憲法がモデルだが、精神は「五箇条の御誓文」で、そのまた原型が聖徳太子の「十七条の憲法」なので、伝統憲法ということになる。
 五箇条の御誓文にこうある。

 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
「広く会議を開設し、何においても公の議論によって決めなければならない」
 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
「上に立つ者も下に立つ者も心を合わせて国策につとめよ」
 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
「官史も武士も庶民も志をもって、国民が失望しないようにすべきである」
 一、旧来ノ陋習を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
「旧弊にとらわれず、世界につうずる、道理にかなった国をつくろう」
 一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
「知識を広く海外にもとめて、大いにこの国を発展させるべきである」
 
 これを現代にあった文章にかえるだけで、「主権が国民に存する」「人類普遍の原理」「崇高な理想」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」などという空想的な文言をちりばめた現憲法のものより、よほど、現実的で、りっぱな前文ができあがる。
 多くのひとは、意外に思うかもしれないが、明治維新の人々にとって、公議公論は、常識であった。外来思想の受け売りではなく、伝統的な道徳として、公議公論がおもんじられていたのである。
 原典は、聖徳太子の「17条の憲法」、その第17条である。
 十七条を現代語訳にするとこうなる。
<ものごとは一人で判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。重大な事柄を論議するときは、みんなで検討すれば、判断をあやまらず、道理にかなう結論がえられよう>
 個と全体の調和がとれた民主主義が、1400年前に、すでに、あったのである。
 一方、現代の民主主義は、個人が、非の打ち所がない権利者としてとらえられているので、個人は、他者や全体と対立し、しかも、多数決という数の暴力によらなければ、何事も、決着がつかない。
 多数決に該当するのが、公議公論である。各人が利己心を離れて"公"にとって、最善と思われる策を論じ合うような話し合いのことで、そこでは、エゴではなく、公益という徳がはたらく。
「17条の憲法」の第10条にこうある。
<ひとそれぞれにちがった考えがあり、相手がこれこそといっても、じぶんはよくないと思い、じぶんがこれこそと思って、相手はよくないとする。じぶんだけが聖人で、相手が愚かなどということはない。皆、ともに凡人なのだ。そもそも、だれもが賢く、反面、愚かというのに、だれが、まちがいのない判断を下せるだろうか>
 自己中心的でエゴイスティックな人権、全体の利益に一歩も譲らない現代の民主主義のはるか上をゆく和の精神が、聖徳太子の時代に、確立されていたのである。
 そのことを忘れて、戦後、アメリカから民主主義がはいってきたので、日本はよい国になったという議論は、愚かというしかない。
 エゴや多数決でしかない人権や民主主義が、ついに、主権にまでのぼりつめたのが国民主権だが、これもインチキである。人民独裁が不可能なので、人民の代表である独裁者が人民の生殺与奪の権利をもつ、という革命思想を借りてきただけである。
 日本伝統の民主主義=和の精神は、GHQも、みとめている。
 昭和26年(1946年)元旦に出された詔書(人間宣言)の詔書の冒頭にしるされた五箇条の御誓文が、それである。
 この詔書によって、天皇が人間になられたというが、昭和天皇は、昭和52年(1977年)8月23日の記者会見で「神格は二の次の問題で、わたしは、明治大帝のお考えを示すために、五箇条の御誓文を載せることを(マッカーサーに)もとめた」とのべておられる。
 マッカーサー元帥が詔書に記載することをゆるすほど、五箇条の御誓文が民主的だったということである。
 さて。憲法には、成文法と習慣(不文)法の二種類がある。
 前者がフランスやアメリカなどの憲法で、後者が、イギリスやイスラエルなどの憲法である。習慣法は、伝統憲法だが、成文法にも、伝統憲法と革命憲法がある。近世・近代になって、世界中の国々が、戦争や政変、革命を経験したため、大半が革命憲法になり、成文法の伝統憲法をもつ国は、日本の明治憲法をはじめ、わずかだった。
 敗戦によって、その明治憲法が、捨てられた。
 現在の日本の憲法は、伝統憲法どころか、革命憲法であり、謀略憲法でもある。
 というのも、国家主権(=交戦権)を否定する憲法九条「戦争放棄」は、日本を国家としてみとめないという属国化政策だからである。
 そして、前文で、国家主権を国民主権におきかえ、国家の主権を奪った。
 日本を主権喪失の国にした三つ目が、十章(最高法規/第九十七条、九十八条、九十九条)である。
 条文をみてみよう。

第十章 最高法規
【第九十七条】この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
【第九十八条】この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
【第九十九条】天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 基本的人権が、侵すことのできない永久の権利として信託された(主語がないため、だれから信託されたかわからない)ものなら、国民と国家の絆は切れてしまう。安全や経済的・文化的恩恵が自由獲得の努力の成果なら、国家はいらないということになるが、現実は、国家の庇護のもとになければ、われわれは、一日たりとも、人間らしい生き方ができない。
 子どもの作文のような憲法が、すべての法の上位にあり、立法権・行政権・司法権より重いばかりか、天皇も国会議員も、裁判官も役人も、この憲法を尊重し、擁護する義務を負わなければならないという。
 アメリカが、こんな呪術のような憲法をつくったのは、武力で日本を占領していたからである。
 したがって、講和が成立した1951年の時点で、その呪いから開放されなければならなかったのだが、さらに、日本は、憲法九十六条で、各議院の総議員三分の二以上の賛成と国民投票の過半数の承認という足かせをはめられて、GHQ憲法の呪縛は、いまもなお解けていない。
 GHQは、日本が国家の統一を欠き、いつまでたっても一人前の国家になれない、平和憲法という毒を仕込んでいったのである。
 革新陣営が現行憲法をまもろうとするのは、日本を弱体化させるためにつくったGHQ憲法が、文化・伝統破壊をおこない、革命前夜の状況をつくりだす効果をもっているからである。
 改憲政党だった自民党も、いまでは、護憲派のほうが多く、改憲派も、修正派といったほうが、あたっていよう。
 保守の立場に立って、伝統憲法を制定しないかぎり、日本は、現在の国力・国威低下に歯止めがかからず、やがて、アメリカが狙ったとおり、力も誇りもない、情けない国へ転落してゆくだろう。
 憲法問題については、いつかまた、別の角度からふれたい。
 次回は、日本の弱体化をはかるべくアメリカが仕掛けたグローバリゼーションと日本がとびついた新自由主義についてのべる。
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2008年01月05日

保守主義とは何か――混迷する戦後の思想を再点検する(5)

 ●権力に利用された天皇(続)
 日本は天皇制(度)の国といわれる。
 だが、明治維新以後の日本は、天皇を利用して近代化をおこなった西洋のモノ真似国家であり、天皇を中心に和をむすんできた江戸時代以前の伝統的な国のかたちは、120年前に、すがたを消している。
 われわれが知っている天皇制度は、明治維新以降のものである。
 それが、本来のすがたではなかったところに、天皇問題のむずかしさがある。
 現在の象徴天皇も戦前の現人神も、伝統にもとづく、本来の天皇制度ではない。
 というのも、天皇制度は、伝統国家と一対になっているからである。
 保守主義が、天皇制度をおもくみるのは、文化や習俗、歴史の叡智をかかえこんだ伝統国家と一対になっているからで、祖国や歴史への思いに、天皇制度が介在している。
 国家形態と天皇の関係は、おおまかには、つぎのようになるだろう。

 ●古代・中世=豪族をしたがえた朝廷の世襲的君主
 ●中世=文化や歴史の継承者、民の代表、神道の最高神官として権力を監視する権威
 ●明治維新後=国のかたちを象徴する主権者
 ●戦前=現人神、大元帥としての神がかり的な権力者
 ●戦後=国民主権というありうべくもない体制の象徴
 

 西洋の模倣による明治以降の近代国家、西欧と派遣を争った戦前の帝国主義国家、および、主権が国民にあるとされる戦後の空想国家は、いずれも、日本の伝統的な国家像とはいえない。
 わたしがいう天皇制度は、伝統国家における天皇の在り方をさしている。
 天皇と伝統、つまり、国体と文化、習俗、歴史は一体化している。
 したがって、天皇制度の危機と伝統の喪失は、表裏の関係ということになる。
 そこに、保守主義と天皇制度が一体化する根拠がある。
 ちなみに、天皇制度と天皇制は、異なる。天皇制という用語は、日本共産党が、国際共産主義組織(コミンテルン)の指令によって「天皇制打倒」という文脈でもちいられてきたもので、天皇を権力としてみている。
 伝統国家において、天皇は、つねに権威の側にあったので、あえてここでは、天皇制度と、区別して記す。
 日本を伝統国家にもどすことは、それほど、むずかしいことではない。憲法を改正すればよいのである。
 聖徳太子の十七条の憲法と明治天皇の五箇条の御誓文に貞永式目をくわえて、現代風につくりかえれば、世界に冠たる憲法ができあがる。
 だが、現在の情勢では、環境権の新設や人権の拡大ばかりいわれており、憲法をかえると、かえって、いまよりわるくなる可能性がある。
 このテーマについては、次回、のべることにする。
 さて。討幕運動や維新政府による近代国家建設、および、戦後の新体制において、天皇は、権力やイデオロギーに利用されてきた。
 権力が、みずからの権力を強化、正統化、絶対化するために、天皇を大元帥に、あるいは、現人神にして、権力の一部に組みこんできたのが、明治維新から戦前にいたる近現代史の流れである。
 天皇と民、幕府が三位一体となった伝統国家が、天皇を利用して、西洋的な絶対主義の国家へ変質していったのが、日本の近代化だったわけだが、ゆがめられた天皇制度は、いまもなお、かわっていない。
 否、戦後、GHQがつくった新体制では、教育勅語と「五箇条の御誓文」が反映された明治憲法が廃棄されているので、天皇制度のゆがみが、いっそう大きくなった。
 かつて、軍国主義に利用された天皇が、こんどは、国民主権という、一歩まちがえると共産主義へ足をふみこみそうな、危なっかしい体制の象徴にされているのである。
 保守陣営は、天皇制をまもれという。だが、日本の近現代において、西洋のモノ真似によって歴史の連続性が断たれているので、歴史や文化、習俗の復元なくして、天皇制度をまもることはできない。
 保守主義は、歴史の断裂点までさかのぼってゆがみをたださなければならない。それには、西洋のサル真似だった鹿鳴館時代をとびこえて、江戸時代まで立ち返る必要があるだろう。
 江戸幕府以前の権威としての天皇は、民と幕府と、三位一体となった天皇体制の中心にあったが、かならずしも、権力に利用されてきたわけではない。
 権力構造は、権威(民の敬愛)と権力(国益の行使)がかみ合って、はじめて、うまくはたらくもので、それが十全に機能してきたのは、中世の世界において、日本だけだった。
 江戸幕府が、世界史上、もっとも長命で、高潔な権力だった理由は、天皇という権威があったからだが、そのかん、天皇は、表にでてくることはなかった。
 表にでてこないから、権威なのであって、世俗化すると、権威は、失われる。
 権威は、高いところにあるから、失墜する。一方、はじめから、低いところにある権力は、争奪の対象になるだけである。
 企業と株主の関係でみると、権力が社長で、株主が権威である。
 株主(オーナー)の願いは、企業の安泰と繁栄、社員の幸福である。
 社長は、株主の期待に応えるべく、ビジネス界という世俗で、辣腕をふるう。
 株主が、企業にのりこんできて、経営に口出ししたら、どういうことになるだろう。
 経営が混乱するだけではない。内紛がおきる。株主にとりいったほうが権力を握れるとあって、社長派や専務派が、株主の権威を奪い合うのである。専務派が株主をとりこんで社長を追放すれば、クーデター成功だが、そんな権力争いをしている企業は、早晩、潰れることになる。
 権威は、世俗に降りてこず、御殿で歌を詠っていただいていたほうが、権力は、うまく機能するのである。
 明治維新において、天皇は、薩長の討幕運動に担ぎ出されて、権威から権力のカテゴリーへ、横滑りさせられた。そして、天皇という権威を奪い合って、内紛がはじまり、倒幕から戊辰戦争、西南戦争をへて、結局、天皇を担いだ薩長が、天下を握った。
 江戸城無血開城や大政奉還がうまくいったのにもかかわらず、維新政府は、なぜ、旧幕府軍や長岡藩・会津藩をあそこまで追い詰め、西郷隆盛を下野させ、西南戦争で討ったのであろうか。
 すべて、天皇が権力抗争にまきこまれたことに、原因がある。
 天皇をとったほうが勝ちとなるので、和ではなく、相克の論理がはたらくのである。
 権威が、権力へ接近すると、このように、権力構造が内から瓦解してゆく。
 天皇が、権力に利用されることがなかったら、西郷隆盛が中心になって、欧化主義ではなく、伝統国家のすがたをもった、もっとちがった近代化が実現されていたと思われる。
 明治から大正時代までは、日本が西欧化にむかっていった時代で、天皇が権力のほうへ移って、空洞化した権威に、脱亜入欧という文化革命がはいりこんできた。
 昭和にはいって、さらに、天皇は、軍国主義の"虚仮威し"の役割をおしつけられる。
 大株主に、代表権のある会長職をお願いするようなもので、そのため、日本の軍国主義は、統制派と皇道派、陸軍と海軍が天皇を奪い合い、双方ばらばらになったまま、戦争へ突入してゆく。
 旧日本軍には、陸海共同の「作戦本部」がなかった。陸軍は参謀本部、海軍は軍令部が最高の意思決定機関で、それぞれが、別個に、天皇(大元帥)の指揮下にはいったからである。
 大本営も御前会議も、ただの擦り合わせにすぎず、その前に、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が、べつべつに天皇の裁可をとって、勝手に戦争をはじめた。
 陸軍は、海軍の真珠湾攻撃計画の内容や日時を知らされず、海軍は、陸軍の支那事変の門外漢で、両軍とも、あとで、要請をうけて、部隊や飛行機をだしただけだった。
 ガダルカナル血戦やインパール作戦など、おおよそ、日本の敗戦を決定的にした一連の愚かな作戦は、一部軍人が、天皇の裁可をえたとして、良識派の反対をおしきって強引におこなったものである。
 日本軍が長期展望のないでたらめな戦争をしたのは、天皇をとりこめば、何でもできたからで、そこに、権力に欺かれた天皇体制の危険性と悲劇性がある。
 典型的なケースが「統帥権干犯」問題だろう。
 1930年のロンドン軍縮会議で、浜口内閣が海軍軍令部の反対をおしきって調印したのは、天皇の統帥権を干犯したものだとして、軍令部や野党の政友会(犬養毅/鳩山一郎)、右翼が政府を激しく攻撃。そののち、浜口雄幸は右翼(佐郷屋留吉)のテロに、犬養毅は五・一五事件に倒れて、政党政治は終わりを告げる。
 だが、もっと重大なポイントは、この事件によって、軍部が、天皇の名を借りて、統帥権という絶対権力を手に、独裁体制をつくりあげたことである。
 最高権力者として天皇を立て、その天皇を巧く利用したのが、軍国主義の正体だったといってよい。
 権威が、権力に利用されると、最悪の事態が生じるのである。
 権力が権威を利用するのは、戦時体制にかぎったことではない。
 戦後の天皇は、国民主権という、革新的な体制をささえる象徴として、イデオロギーに利用されている。国民主権というのは、GHQの傑作で、天皇制度という伝統的な文化をもって、かぎりなく共産主義(人民独裁)に似た体制をささえようというのである。
 革新が、国民主権ということばをふりまわすことによって、戦後日本から、徳や品格が失われて、日本人は、みな、醜いエゴイストになった。
 それが、伝統を失った国家・国民のありさまである。
 天皇=朝廷は、日本人の宗家であり、歴史や文化の象徴であり、権力者をかねた時代があったとしても、本来、日本という国の中心で、その中心を失うと、日本という国も日本人も、ばらばらになってしまう。
 天皇制度の恩恵は、失うまでわからないが、失ってからは、とりかえしがつかない。
 保守とは、伝統=天皇制度をまもることにつきるが、このテーマは、いつかまたふれることにして、次回は、保守思想と憲法改正についてのべよう。

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2007年12月24日

保守とは何か――混迷する戦後の思想を再点検する(4)

 ●権力に利用された天皇の悲劇
 中世以降の日本の権力構造は、世界史のなかでも、ひときわ、きわだっている。
 幕府(権力)が朝廷(権威)から官位を戴き、その朝廷が民の幸を祈るという三位一体の関係が、建武の中興以後、江戸末期まで五百年以上もつづいてきたのは、この仕組みが、それだけ、すぐれていたからであろう。
 とくに信長の安土、秀吉の桃山、家康の徳川時代は、朝廷が唯一絶対の権威で、したがって、その権威から征夷大将軍の官位をさずかった幕府の権力もゆるがないという、権威と権力の二元論が、ほぼ完璧に機能していた。
 権威なき権力は滅ぶということを知っていた信長や家康が、朝廷を利用したという言い方もできようが、じつはそこに、保守思想の真髄がある。
 わたしのいう保守は、過去のよきことをひきうけて、悪しきことを断つ功利的な思考や行動をさす。
 それが、歴史や伝統をおもんじる態度に帰着するのは、結果論であって、先立つのは、守旧・復古主義ではなく、是非をわきまえた、現実にそくした知恵である。
 権力のなかに天皇を立てるという考えがうまれ、時間をかけて、それが、血肉化されてゆく。長くつづいたものは、それだけで価値がある、とするのが、保守の中心的な思想であり、それも、天皇制度をささえてきた支柱の一つである。
 権力が天皇を利用したのではなく、権力は権威の裏づけを必要とするという歴史の知恵が、日本史のなかで開花したとみるべきだろう。
 それが、本来の天皇の在り方で、天皇を神格化して、国家元首にもちあげた明治維新と昭和の新体制のほうが、じつは、ゆがめられた天皇制度だったといえよう。
 幕末の討幕運動では、天皇をかちとったほうが勝ちという論理のもとで、薩長が猛烈な尊王倒幕運動をくりひろげた。
 権力は、みずからの権力を正当化しようとして、歴史をねじまげる。そのため、多くのひとが誤解しているが、徳川家も、朝敵とされた会津藩も奥羽諸藩も、朝廷に歯向かう気は、さらさらなかった。
 げんに、徳川慶喜は、朝廷に大政を奉還して、はやばやと恭順の意をしめしている。
 にもかかわらず、戊辰戦争という内戦へ発展したのは、薩長の謀略、とりわけ、長州藩の怨念によるもので、かれらは、天皇をかつぎあげて、二世紀半以上も昔の関が原の恨みを晴らしたのである。
 討幕運動は、当初から、スムーズに事が運んだわけではない。というのも、当時、国粋主義的だった孝明天皇は、開国をゆるさず、徳川家を頂点とした公武合体の新体制を望んでいたからである。
 その孝明天皇が、とつぜん崩御して、事態が急変する。
 ちなみに、孝明天皇の急死については、岩倉具視と伊藤博文による毒殺説が根強い。戦前は、孝明天皇にかんする研究が禁止され、いまもなお、資料はすくないが、孝明天皇の典医・伊良子光順が残した拝診日記は、中毒死を思わせる内容で、現在では、異例なことに、学術書までが、暗殺説を引用している。
 その孝明天皇がもっとも信頼をよせたのが、徳川家茂(孝明天皇崩御の直後に急死)と京都守護職の会津藩主・松平容保だった。
 孝明天皇と徳川家茂が存命だった時点までは、朝敵は、禁裏守護の役を解かれ、京都を攻めた(禁門の変)長州のほうで、薩長同盟がなければ、日本は、内乱ぬきに、新体制をつくりあげた可能性がつよい。
 ちなみに、坂本竜馬が薩長同盟にうごいたのは、国際的武器商人で、アヘン戦争をおこした国際資本マセソンの手下、トーマス・グラバー(グラバー商会)の意向にそったもので、薩摩は、薩長同盟ののち、グラバーから大量の火砲(アメリカ南北戦争の中古品)を買い付け、長州とともに江戸へ進撃、みずからがひきおこした戊辰戦争で、幕府軍を圧倒する。
 孝明天皇と徳川家茂が相次いで急死して、薩長同盟が成ると、薩長は、御所を軍事制圧して、会津藩は京都から放逐される。そして、若年の天皇を擁して王政復古のクーデターを成功させると、徳川家を丸裸にする要求(辞官納地)をつきつける。
 それでも、徳川慶喜は、倒幕派の挑発にのらなかった。すると、薩摩藩は、配下の者を江戸に送りこみ、薩摩藩士と名乗らせて商家などに押し入らせるという暴挙にでた。
 徳川側が、江戸の薩摩藩邸に犯人の引渡しを要求すると、薩摩側は、これを拒絶。面子と治安維持のため、幕閣が武士団を薩摩藩邸に送りこんだのは当然だが、これが、薩摩に開戦の口実をあたえることになった。
 大坂城にあった慶喜は、薩摩藩討伐を主張する強硬派をおさえきれず、京都にむかって進軍する旧幕府側の大軍と薩摩軍が鳥羽周辺で衝突、薩摩の大砲が火を吹いて、戊辰戦争の火蓋が切られることになるが、たたかいは、グラバー商会から大量の火砲を買い付けた薩長軍の優勢のうちにすすみ、やがて、薩長軍の陣営に「錦の御旗」が翻る。
 会津藩を主体とする旧幕府軍は、朝敵と宣告されて、慶喜は、江戸へ引き返す。
 幕府軍が賊軍となると、諸藩は、次々と官軍の側に転じて、ここで、大勢が決する。
 徳川慶喜は、江戸を無血開城して、新政府への恭順をしめすが、官軍は、鳥羽・伏見のたたかいで「錦の御旗」に発砲した会津藩を第一級朝敵ときめつけ、奥羽諸藩に、会津討伐を命じる。
 このとき、会津藩家老・西郷頼母は、なんども「恭順嘆願書」をさしだし、奥羽諸藩も総督府に、会津討伐解除の嘆願書を提出している。
 ところが、総督府は、討伐の方針をかえない。
 それどころか、総督府参謀の世良修蔵は、密書に「奥羽皆敵」と書き、これが仙台藩の手に落ち、怒った仙台藩士に捕縛されて処刑されるという事件までおきている。
 これを契機に、奥羽列藩同盟が結成されるが、北越戦争で長岡藩が敗北、会津城も白虎隊が全滅して落城。武士集団だった旧幕府軍は、こうして、薩長の火砲の前に瓦解していった。
 降伏の意思をしめした相手を討伐するという発想は、日本史上、なかったことで、そこに、関が原で敗走した薩長の怨念が見える。とくに、長州藩は、京都で、新撰組や会津藩士に痛めつけられた恨みがあり、しかも、長州勢のほとんどが、士分以下の小者で、武士にたいするコンプレックスがあった。
 明治新政府をつくった長州勢のうち、井上馨が士分以下、伊藤博文が足軽、山県有朋にいたっては、剣術を学ぶことすらゆるされなかった足軽以下で、山縣は、武士を何よりも憎んでいた。
 徴兵制度を採用して、日本の陸軍をつくった山縣は、軍隊の軍刀を西洋式のサーベルにかえてしまったが、そこに、明治政府が、武士の身分を廃して、ちょんまげ禁止、廃刀礼をうちだした理由が隠れている。
 明治維新は、近代化をめざした改革運動のようにいわれる。けれども、実際は、上級武士(幕府・藩士)にたいして、外国の力を借りた地方の下級・非武士がおこした西洋化のクーデターで、天皇は、その政変に利用されたといってよい。
 鳥羽・伏見、上野戦争(彰義隊)、長岡藩・会津藩との戦争から函館戦争にいたる戊辰戦争で、旧幕府軍を倒した明治政府は、秩禄処分や廃刀令に反発した士族がおこした佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争にも勝利して、日本から武士という伝統的な身分を根こそぎにする。
 そのことからも、明治維新が、旧体制をひっくり返す過激な革命運動だったことがわかる。
 長州一色となった明治政府がやったのは、武士階級の廃絶と西洋化という文化大革命にほかならず、そのために天皇が利用されて、権威が空洞化した。権力を監視するはずの権威が、権力にとりこまれたからである。
 権威が消滅すると、権力もまた不安定になり、あるいは、怪物化する。
 じじつ、日本は、明治維新によって、権威と権力が並び立つ本来の天皇制度を失い、ヨーロッパ型の権力一元型国家へと移行してゆく。
 日本は、その後、日清・日露戦争をへて、昭和初期の軍国主義にむかうが、そこでふたたび、天皇は、権力に利用されることになる。
 こんどは、権力を強化する飾り物として、である。
 次回は、大川周明や北一輝の国家社会主義と、陸軍と海軍、統制派と皇道派が、天皇を奪い合った軍国体制について、のべる。


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2007年12月13日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(3)

 保守ということばには「古いものを大事にする」のほかに、旧態依然、あるいは、改革を排除する、というイメージがある。
 それも、一面ではあるが、本質はちがう。
 保守は、じつは、すさまじいばかりの改革運動なのである。
「権力はかならず腐敗する」(アクトン卿)という至言があるように、歳月の経過とともに、権力は腐り、制度は疲労し、規律はゆるみ、組織はゆがみ、人心は怠惰に流れる。
 この権力の腐敗は、個と全体の矛盾と並んで、政治学上の二大難問で、いまだ、解決の目処が立っていない。
 権力が腐ると、政治体制も崩れ落ちるので、保守は、これをくいとめるために、急進的に、改革運動をおしすすめなければならない。
 それが、保守の真骨頂で、古いものを漫然とまもるのは、保守ではなく、体制主義(派)で、利権を漁る族議員が、これにあたる。
 日本史上、代表的な保守運動が、江戸の三大改革である。
 享保・寛政・天保の三大改革は、いまからふり返ると、ずいぶん窮屈なしめつけのように思えるが、これがなかったら、世界史上、類のない徳川幕府の長期政権もまた、不可能だったろう。
 徳川幕府は、独裁でも絶対主義王権でもなく、不安定な幕藩体制の上になりたっていた。全国の領主となった徳川幕府と、幕府から領地をあたえられて軍務につく各藩が、力を合わせて維持する体制で、近代的だったがゆえに、かならずしも、磐石ではなかった。
 地方にちらばった各藩が中央の幕府を軽んじ、行政官吏である武士の規律が乱れ、あるいは、武士階級が、農村や都市の商業資本を統制できなくなるような事態になれば、蟻の一穴から堤が崩れるように、幕府は、瓦解していたはずである。
 そうならなかったのは、つねに、改革がおこなわれたからである。
 三大改革では、農村振興や都市の商業・金融資本への干渉とならんで、支配階級の質素倹約と武芸の奨励が題目となった。
 幕府が、民のために祈る朝廷から全国の領地をあずかり、各藩が地方の領地を治めるという、三位一体(民⇔天皇⇔幕府)の支配構造のなかで、特権的な権力者は、でてくるはずがない。
 でてきたら、それが、幕藩体制の赤信号なのだ。
 武士階級が、慢心して贅沢にふけり、武芸を怠ることが、家康を尊敬してやまなかった徳川吉宗、吉宗の孫にあたる松平信定、吉宗が登用した水野忠之の子孫、忠邦には、我慢がならなかったのである。
 江戸三大改革は「家康公のむかしに戻す」というのがその精神で、底流に「放っておくと、権力は腐りはじめ、事態はわるくなってゆくが、体制のなかには自浄作用がそなわっていない」という世界観がある。
 これは、現在の「衆愚の思想」にもつうじるもので、世の中は、悪貨が良貨を駆逐する原理で、次第に、悪化してゆく。
 現在、国防を担う防衛省の汚職事件がマスコミに取り沙汰されている。
 江戸時代なら、守屋前次官は切腹モノだが、本人は、数人のヤメ検弁護士を立て、罪を逃れようとやっきになっている。
 このように「官の社会」に自浄作用がはたらかなくなったのは、保守による改革運動が停滞しているからで、そのため、霞ヶ関から防衛省、地方自治体の役所にいたる官僚機構のすべてが腐りはじめてきた。
 江戸時代の官吏は、公務員試験をパスした民間人ではなく、誇り高き武士で、この武士の責任のとり方が切腹だった。腹を切るのがこわいからモラルが高まったのではなく、武士のモラルの高さや名誉心が、切腹という強烈な自裁の精神をうんだのである。
 そのくらいの覚悟がなければ、権力は、腐敗から免れえない。
 日本の歴代将軍は、歴史の知恵として、この原理をわきまえ、幕府(権力)を監視する朝廷(権威)をおき、権力の絶対化と、絶対化にともなう腐敗を防いだ。
 したがって、保守運動が拠って立つところは、権威にたいする畏れということになる。
 朝廷からあずかった権力の行使に乱れがあってはならないとする覚悟が、保守の精神であり、だからこそ、そこに、自己監視→改革運動のエネルギーがはたらいたのである。

 といっても、保守は、かならずしも尊王主義とイコールではない。
 歴史や文化、国土や民が、国家安泰を神に祈る神=天皇に象徴されているので、天皇を絶対化する。絶対なのは、天皇ではなく、天皇が安泰を祈念する天地であって、そこが、王に忠誠を誓うヨーロッパの王政、共産主義・絶対主義国家の個人崇拝と根本的にちがう。
 別の機会に詳しくのべるが、日本の尊王主義は、天皇を利用して、権力を奪取しようという政権争いのなかからあらわれてきた。
 だが、古来より、権威である天皇は、ひたすら、畏れ多い存在だったのであり、権力の系列である臣下をもったことがない。
 臣下をもたないから、権力を監視できるのであり、戦時中の「現人神=大元帥」という宣伝は、日本史上、類のない捏造だったのである。
 保守は何をまもるべきかへ、話をもとへもどす。
 前回、右翼がまもるべきは、歴史や文化、国土や民の象徴としての天皇だとのべた。
 一方、保守がまもるべきは、失われた理想(=過去)である。
 革新は、未来に理想をもとめるが、保守は、過去のなかに理想をみいだす。
 事態は、日を追うごとにわるくなって、いつかは滅びるわけで、だからこそ、保守運動は、過去を模倣するという形で、改革運動をおこなうのである。
 伊勢神宮で二十年に一度、遷宮をおこなうのは、過去を未来へひきわたすには、原点へ還って、装いを新しくしなければならないからで、それも、維新の思想である。
 宇宙は人類の夢、ということばがある。革新陣営がいう未来への夢も、これと同じようなもので、火星かどこかへ行って、小便を濾過してのまなければならない地獄のようなところへ行くことは、人類の夢ではなく、地獄である。
 かつて、共産主義は人類の夢だったが、その夢のために、人類は、一億人以上が悲惨な死に追いやられ、いまなお、北朝鮮では、数パーセントの特権階級以外は、飢えと寒さのために死に瀕しており、中国の内陸部も、事情は、さしてかわらない。
 それでも、革新陣営や福田ら自民党の親中派が、北朝鮮サマサマ、中国サマサマというのは、未来には夢があるという"革命幻想"にとりつかれているからである(自民党のこのていたらくが、保守新党の可能性をさぐる勉強会=平沼新党構想がでてきた背景だが、このテーマについては、べつの機会にのべる)。
 保守思想には、理想は過去において実現されている、という歴史認識がある。
 現在が思わしくないのは、過去にうちたてた理想が崩れ去っているからで、その理想を再現するには、過去へ立ち帰らねばならない。
 未来の、火星へ行って小便をのむような生活、地獄の流血革命が、人類の理想なのではなく、かつてあり、いまもある美しい国土、ゆたかな人情、勤労の成果としての実りや繁栄が理想なのであり、これを旧悪として捨て、暗黒の未来にすべてをゆだねるのは、狂気にひとしい。
 そのことをわかっているのが、保守の心根で、カンサバティブだ、真正だと、小難しいことはいらない。
 革新派は、保守にたいして「現状を肯定する守旧思想」として攻撃する。
 だが、現状に満足していないのは、革新も保守も同じで、ただ、改革のやり方がちがう。
 保守は、家を補修し、手入れをして、大事に住む。ところが、革新は、火を放ってすべてを灰燼に帰させ、保険金で家を新築しようとする。歴史が教えるところによれば、そのくわだてはすべて失敗して、大勢が死に、飢え、文化と歴史が炎につつまれた。
 革新のデマゴギーから国民をまもることも、保守の仕事といいくわえておこう。
 次回は、権力に利用された天皇というテーマで、近現代史をふりかえってみたい。
 
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2007年12月07日

保守とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(2)

 「右翼」ということばは、あいまいで、誤解や曲解をまねきやすい。
 語源は、フランス革命後、議会の右側に、保守派や国粋主義者、ファシズム党が、席を占めたことによるが、そんな歴史をひっぱってきても、右翼の何たるかを説明することはできない。
 右翼、あるいは、右翼ということばが誤解されるのは、もともと、左翼の用語だからである。ちなみに、本物の右翼が、みずからを右翼と名乗ったことは、いちどもない。
 一方の左翼は、マルクス主義にのっとった政権奪取運動で、これには、暴力革命までがふくまれる。
 この左翼の対立概念としてとらえられるので、右翼が、政治運動とみられてしまうのである。
 左翼は革命だが、保守の改革運動は、維新とよばれる。
 維は「つなぐ」の意で、過去を現在につないで新たになるから、維新となるわけで、じじつ、物事は、たいてい、原点や初心にもどって、改まるものである。
 革命に反対する勢力を右翼とよび、敵対視するのは、左翼陣営のとらえかたで、右翼には、もともと、政権奪取の意思などない。
 かつて、北一輝や大川周明が、クーデターを計画したのは、国家社会主義を実現しようとしたイデオロギストだったからで、かれらを右翼というのは、まちがいである。
 左翼の反対語は、右翼ではなく、この国家社会主義で、ともに目的は、政権奪取である。

 政権奪取運動
 左翼→マルクス主義による革命
 国家社会主義→軍部による独裁
 
 
 両方とも、もちいているのは、社会主義や共産主義という西洋の思想で、前者がスターリンなら、後者がヒトラーといえば、わかりよいであろうか。
 戦時中、日本は、国家社会主義を志向したが、これは、一歩、誤ると、共産主義国家とかわらない体制になってしまう。統制経済は、スターリンの計画経済と紙一重で、国家総動員法は、共産党の一党独裁と同じようなものだったからである。
 日本の軍国主義は、右翼政権と思われがちだが、じつは、国家社会主義という左翼政権だったのである。
 左翼と対立するのが国家社会主義、とわかれば、右翼が、思想運動と察しがつくはずである。
 日本の近代右翼は、西郷隆盛の保守思想を汲んでいる。欧化主義に走った明治政府による歴史の断絶を拒み、文化の砦としての武士階級を残そうとした西郷の保守主義が、右翼思想の一つのモデルになっているのである。
 その一方、頭山満や内田良平ら、玄洋社や黒龍会系の人々がアジア解放に心血を注いだ大アジア主義の流れがある。
 現在の左翼がかった教科書には、かれらが、軍部の大陸侵略に加担したと書かれているが、戦前のアジアは、ヨーロッパ列強の植民地で、日本がたたかった相手は、そのヨーロッパ列強だった。
 当時、支那から孫文、朝鮮半島から金玉均、インドからチャンドラ・ボース、ベトナムからクオン・デ侯、ビルマからアウン・サン、フィリピンからリカルテ将軍ら、独立運動のヒーローたちが、続々と日本へやってきて、援助をもとめた。
 かれらを援けたのが、犬養毅や頭山満、玄洋社・黒龍会の有志だった。内田良平らの活躍には、血湧き肉躍るものがあるが、こういう人々の行動は、あくまでも、思想の発現で、権力闘争とは、無縁だった。
 岩倉具視や大久保利通ら、西洋崇拝主義者とのたたかい(西南の役)に破れて、西郷がまもろうとした武士階級は、廃絶となり、日本古来の文化や価値観が、文明開化と鹿鳴館文化に打ち負かされる。
 だが、西郷の保守主義と「敬天愛人」のことばで知られる「情け」は、大アジア主義となって、玄洋社・黒龍会へひきつがれた。
 この伝統右翼は、戦後、解散させられ、GHQ支配と60年安保を契機に、黒幕系や広域暴力団系の団体が右翼(政治結社)を名乗るようになって、本来の右翼は、すがたを消した。
 現在、右翼と呼ばれるのは、狭義では、政治結社系の右翼。広義では、左翼と敵対する政治的陣営のことで、思想のうねりとしての右翼は、残念ながら、存在しない。
 現在、右翼と称する人々やグループが、街宣車で軍歌を流し、激しい演説をぶっている。これはおかしな話で、本来、政治とはかかわらない右翼は、政治運動とは無縁のはずである。
 右翼が、政治にかかわってくるのは、思想運動のはての直接行動で、かれらは、とくべつの意味合いをこめて、極右とよばれる。

 左翼→政治運動 共産・社会(革新)主義者、選挙による政権奪取
 極左→闘争主義 トロツキスト、破壊主義と暴力革命による政権奪取 
 保守→政治運動 現政体・政策の継続性を土台にした政権維持と回復
 右翼→思想運動 国体の維持、歴史の連続性にのっとった文化防衛
 極右→行動主義 国体および現政体の破壊者にたいする直接行動


 保守が、左翼から右翼、革新から反動、反日主義者やコスモポリタン(世界主義者)から国粋主義者とよばれるのは、かれらが、文明開化や欧化主義、軍国主義(ミリタニズム)、社会主義、共産主義など、西洋の文明や外来思想にたいする防波堤だったからで、西郷の悲劇と、そこが、相つうじる。
 西郷は、欧化思想に負けた。現在の日本も、グローバリゼーションやアメリカの「年次要望書」で、屋台骨がグラついている。
 西洋の思想が日本に根づかないのは、「情」がないからだ。
 歴史の知恵、伝統を学びとる知のはたらきが保守なら、右翼は、情である。義理も人情も、礼も徳も、情である。
 情は「社会的情操」ともよばれるように、心と社会をつなぎあわせる。
 ひとは、理屈ではなく、情にしたがって生きる。その情のなかに、過去の価値が、ふくまれている。
 保守に、この情のはたらきがなかったら、ただの復古主義にすぎないものになってしまう。
 愛国心を教えるというが、国を思う心のはたらきは、やむにやまれぬ情なので、教えることはできない。情があれば、しぜんに育まれる。逆に、情がはたらかなければ、愛国心どころか、反日主義に走ることになるだろう。
 右翼が情けなら、国粋主義は宗教で、国家主義はイデオロギー、民族主義は感情である。国粋主義は、排斥運動にむすびつき、民族主義は、差別主義や争いをうむ。
 国家主義も、場合によっては、社会主義や権力主義に傾く。
 政治=権力とかかわっているからである。
 文化=権威とのみかかわる右翼の思想運動は、文化防衛であって、つまるところ、国体の護持である。
 したがって、右翼の役目は、天皇をまもるという次元にいきつく。
 これは、政治運動でもイデオロギーでもなく、文化防衛である。
 一方の左翼は、徹頭徹尾、政治とイデオロギーである。
 情けどころか、文化も歴史も、否定する。ということは、人間不在なのである。
 前世紀末に、共産主義が破綻したのは、過去の遺産なくして、人間らしい生き方ができる社会をつくれないと気づいたからだった。
 ところが、日本では、左翼色が薄まったぶん、反日主義・反国家主義・反歴史主義・コスモポリタニズムが広がって、かえって、保守が弱体化した。
 保守は、イデオロギーでは勝った。だが、保守をささえるハートの部分、つまり、右翼思想が貧弱だったため、共倒れになってしまったのである。
 共産主義というイデオロギーが価値を失った以上、左翼は、もはや、政治的存在たりえない。
 だが、反日主義という、国家を呪う執念だけをもった人々、いわば、情という文化を失った人々が、消えた左翼以上のペースで、ふえつづけている。
 それが、先の参院選において、「美しい日本」「道徳教育の充実」「憲法改正」を掲げた安倍前首相への不支持というかたちであらわれた。
  朝日新聞を中心とした左翼系のメディアは、安倍前首相を「右翼」と攻撃した。
 かれらがいう右翼とは、左翼=善、右翼=悪という左翼独特の識別によるもので、かれらの用語法では、右翼が、悪の代名詞なのである。
 右翼が、左翼が倒そうとする国体(歴史・文化)の守護兵で、当面の敵だからである。 
 反日主義、反国家主義、反歴史主義、コスモポリタニズムが、政治社会やマスコミ界等に広がっていくなかで、現在の政治体制は、保守思想や過去の価値観を共有する人々、あるいは、保守主義者によってまもられている。
 だが、危ないのは、政治体制ではなく、国家の土台となる国体のほうである。
 国体は、歴史や文化の体現者たる天皇を中心になりたっている。
 右翼は、この国体をまもる前衛として、存在価値がある。
 だから、右翼は、天皇の防人であり、文化防衛の担い手となりうるのである。
 思想的に鍛錬された少数精鋭の右翼は、大衆の支持をもとめず、みずからの手で政権を運営する志向ももたない。だが、政治とは異なった次元で、国体=歴史の連続性に身を挺する少数の強者として、維新の先駆けになりうる。
 右翼がおこなうべきは、政治運動ではない。いかにして日本国の国体をまもるかという思想的鍛錬をとおして、保守主義の一つの核となることである。
 その意味で、非政治的存在でありながら、保守主義の一翼をになっている。
 次回は保守主義は何をまもるべきかについてのべる。
 
 




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2007年11月30日

保守とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(1)

 政界ばかりか、現在、日本では、思想界が混乱のきわみにたっしている。
 とりわけ、保守主義にたいする認識が貧弱で、それが、政界を中心にした日本人の思想の混迷に、拍車をかけているように思われる。
 そこで、わたしなりに、ここで、日本の思想を整理しなおし、体系づけ、わかりやすくしておこうと思う。
 思想や主義といわれるものは、二つの体系がある。
 一つは文化。もう一つが、文明である。
 保守と資本主義、君主制が、文化の体系で、革新と共産主義、国民主権が文明の体系である。
 それ以外の、右翼や左翼、国家や民族、自由や平等、人権、民主主義。あるいは、伝統や習慣、宗教、真善美、道徳などは、それぞれ、文化と文明の二つの体系につらなるもので、その一つひとつを単独に語っても、あまり意味はない。
 文化と文明という二つの山があり、山頂に、保守と革新という砦が立っている。
 その山の中腹や裾野に、国家主義や民主主義など、もろもろの主義やイデオロギーが旗印をあげている、とイメージすると、わかりよいのではないか。
 ●文化の体系=保守・資本主義・君主制
 ●文明の体系=革新・共産主義・国民主権
 
 文化と保守が同体ということは、文化の性質をみればわかる。
 歴史の試練に耐え、淘汰されることなく、現在にひきつがれた過去の価値が文化の本質で、そのなかに、さまざまな芸や技術、習俗や伝統、習慣や道徳、真善美などがつまっている。
 保守が、君主制や資本主義と三位一体になっているのも、同じ構図である。
 国家や民族の歴史的遺産を包括的に継承する君主(天皇)制という伝統的体制において、天皇は「君臨すれども統治せず」の権威で、歴史や文化の産物である国体の最高位におかれている。
 そこに、保守の源流としての正統性がある。
 共産主義者がつけた名称なので、天皇制ということばと同様、語弊があるが、資本主義もまた、本来、人々が、生産や製造、貨幣や市場などをとおしてつくりあげた伝統社会であって、君主制とこの資本主義が、保守の両翼である。
「資本家が労働者を搾取する仕組み」などとマルクス主義者がいいがかりをつけるが、資本主義は、本来、勤労精神や主従関係、礼儀や義理、約束、よき風習などの道徳観念からできあがっており、人間の頭のなかでつくられた共産主義と比較することがまちがいなのである。
 保守が、君主制と資本主義を両翼としているのは、ともに、文化やモラル、真善美などを三者が共有しているからで、そういう大きな視野に立って見なければ、保守を理解することはできない。
 わたしは、これを「情の世界」と呼んでいる。
 情というのは、人間らしい感情や情緒、あるいは、義理・人情、忠誠心や愛国心などの総称で、いわば、日本人の心である。
 保守とは、こういう情をつつみこんだ思想で、イデオロギーとは別物なのである。
 一方の革新は「理の世界」である。
 歴史に育まれた歴史や文化、情や心ではなく、言語や観念、理論からできあがっているのが、革新で、その両翼に、共産主義と国民主権をかかえている。
 共産主義も国民主権も、君主制とや資本主義と、相容れない。
 というのも、国民主権も共産主義も、伝統的な価値や体制を打ち倒す(革命)過程からうまれてきたもので、両者は、はじめから、水と油なのである。
 といっても、わたしは、これを頭から否定しない。
 保守を右、革新を左とすれば、左右のバランスがとれているかぎり、社会は、墜落せずにすむわけで、民主主義が国家主義の暴走をくいとめ、国益主義が個人主義のゆきすぎを是正するという機能がはたらいてこそ、社会は、弱肉強食にも、ノーテンキな享楽国家にもならず、中庸をたもつことができる。
 保守・革新という二つの山のあいだに、文化と文明、情と理が融合した中庸という峠があり、そこに、抑制された民主主義やおだやかな愛国心などが、個と全体の矛盾をむきだしにすることなく、おかれている。
 保守というのは、なにも、古いものだけをまもるのではない。この中庸の精神が歴史に根づいたのであれば、これをまもるのも保守で、そこが、右翼とちがう。
 保守は、情の世界なので、当然、矛盾や相反するものが混在する。それを同時にだきかかえる、それも、保守思想である。
 自由民主党や民主党右派、国民新党などが、保守政党たりえるのは、その精神やスタンスが、この中庸にあるかぎりにおいて、である。
 ところが、最近の自民党は、小泉以降、安倍をとばして、福田まで、やや左にシフトして、新自由主義へ近づいている。構造改革やグローバリゼーションは、保守ではなく、新自由主義で、ゆきすぎると、計画主義になって、革新へ接近する。
 事実、小泉元首相も福田現首相も、ぜんぜん、保守主義者ではない。
 河野洋平や加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階俊博にいたっては、保守のカテゴリーから完全に外れている。かといって、革新というわけでもない。日本人としての情が欠落しているので、保守の資格を失い、反日主義へ転落していっただけ、といっておこう。
 さて。その革新だが、共産主義にしろ、国民主権にしろ、理論だけでできあがっている革新のイデオロギーは、とうに、破綻している。
 革新は、国家や資本主義を悪の権化のようにいう。だが、体制内左翼ほど、国家や資本主義の恩恵にあずかっている者はなく、かえって、市井でひっそり生きている保守系の人々のほうが、国や体制から、何ももらっていない。
 それでも、かれらは、体制の打倒などとはいわない。
 資本主義は、もともと、モラルや情にささえられた「共存の構造」で、左翼がいうような、資本家が労働者を搾取する体制などではないからだ。
 市井の人々が、生を営み、地味な努力をつみかさね、ギブ・アンド・テークの場とした社会が、長い年月をとおして、高度に組織化されて、現在、資本主義と呼ばれているだけである。
 市井の人々は、搾取されているどころか、みずから、資本主義をささえているのである。
 そこに、資本主義にたいする共産主義者の、重大な認識上の誤りがある。
 革新のもう一つの翼、国民主権は、もともと、GHQが、民主主義を拡大解釈したもので、これも、嘘っぱちである。絶対王権に対抗するために用意したデモクラシーを人民主権(マルクス主義)に近づけたところで、実体をともなうわけはない。
 国民主権の国民は、総体で、人民独裁というときの人民と同じである。
 こういうトリックを使って、スターリンや毛沢東は、独裁をおこなったのである。
 革新のことばは、ことほどさように、破綻している。
 結局、イデオロギーなど、ことば遊びのようなものなのである。
 たとえば、自由主義といっても、他人にも自由があるので、個人の自由が他人の不利益になったり、社会に有害な場合は、制限される。
 それを「自由を侵害された」というのは、思いちがいで、もともと、自由主義などというものは、なかったのである。
 民主主義(制)は、理想的な体制といっても、結局、多数決は、多数派の独裁となるのであって、話し合ったところで、個と全体、利益相反者の利害は、永遠に一致しない。
 革新(理といってよい)の思想が、このように破綻をきたしたのは、過去の遺産を引き継いでいないからである。
 保守は、理では割り切れないものを、歴史や文化、習慣などの知恵(情といってよい)でのみこんでしまう。その懐の深さが、君主制(天皇体制)や資本主義(商道)という、ある種の矛盾を抱えた体制をささえつづけてきた。
 次回は、日本の保守思想を、右翼・左翼の視点からのべることにしよう。
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2007年03月19日

「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」(その2)

●反日主義の元凶は原爆慰霊碑の「過ちはくり返しません」 
 安倍首相は、参院予算委員会で、米下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難決議案について「決議があっても謝罪するつもりはない」「米下院の公聴会で証言した元慰安婦の証言に裏付けはない」とのべ、質問者の民主党の小川敏夫参院幹事長が「きちんと謝罪しなければ、日本が戦争にたいする反省をしていないと受け取られる」とつっかかると「あなたは日本を貶めようとしている」「決議案が正しいと思っているのか」ときびしく切り返した。
 小川は「きちんと謝罪しないと――」というが、河野談話(従軍慰安婦の官憲介入)を筆頭に、宮沢談話(近隣諸国条項)、村山・細川談話(侵略戦争容認)、あるいは、日韓併合について談話を発表した大臣の罷免にいたるまで、日本政府が謝罪や遺憾の意を表したことによって、放っておけば風化したであろう問題が、大きな外交問題となって、いまなお、尾をひいている。
 戦後、日本が、毅然とした態度をとりつづけていれば、過去の戦争にまつわる外交問題は、何一つ、おこらなかったのではないか。
 日韓併合も、大韓帝国一進会の李容九が百万人の署名をそえて、李完用首相に送った「韓日合邦を要求する声明書」(1909年)が発端で、日本が武力侵攻したわけではない。
 ちなみに、この声明書には「これまでの朝鮮の悲劇は、朝鮮民族がみずからまねいたことであり、朝鮮の皇帝陛下と日本の天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、国を発展させようではないか」と記されている。
 日韓併合は、韓国国会の決議なので、日本は、その原則論をおしとおしておくのが国際慣例である。「事実上の侵略だった」「朝鮮に他の選択肢がゆるされていなかった」などと余計なことをいい、謝罪するから、巨額の資金と人材を投入した朝鮮国家建設の努力が、欧米が東南アジアでやった、過酷な植民地略奪と同列にあつかわれてしまうのである。
 かつて、米英蘭などの侵略国家と死闘をくりひろげ、アジアを植民地から解放した日本人が、なぜ、現在のような、背骨のないナメクジ民族になってしまったのか。
 わたしは、その元凶が、広島の原爆慰霊碑に刻まれている「過ちはくり返しません」ということばにあると思っている。
 日本の反日運動は、根本が、コスモポリタニズム(世界市民主義)である。
 その原点に、同胞を虐殺されていながら、謝罪する原爆記念碑の無国籍性がある。
 東京裁判で日本を弁護したインドのパル判事は「過ちはくり返しません」という慰霊碑のことばを見て「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまうとは――。東京裁判の影響は、原子爆弾の被害より大きい」と嘆息した。
 パル判事は、戦争が主権国家の交戦権の行使である以上、戦勝国が「平和にたいする罪」「人道にたいする罪」という事後法で、敗戦国を裁くのは違法と主張した。これが、英国法曹界の重鎮ハンキー卿の「戦犯裁判の錯誤」という著書で紹介されて以降、東京裁判は違法という考え方が、世界の常識になった。
 そのパルは、なぜ、日本人が「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった」「日本は平和にたいする罪、人道にたいする罪を犯していない」と主張しないのかと、亡くなるまで、いいつづけた。
 戦後の日本は、何でもかんでも、ぺこぺこ謝り、そして、その結果、欧米とユーラシアの、謝ったからには補償をおこなえという論理にじりよられて、ヒーヒーいってきた。
 その負け犬根性の原点が、非戦闘員の市民を大量に殺戮した原爆投下――その慰霊碑に刻まれた「過ちはくり返しません」という不気味な文章にあることに、日本人は、気づいていない。
 パル判事は、広島を訪れた際、「ここに祀られているのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのはアメリカである。過ちを詫びるのは、日本人ではなく、アメリカだ」(一九五二年一一月三日)と批判した。
 これにたいして、碑文起草者の広島大学教授雑賀忠義は「広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちをくり返さないと霊前に誓うのは、全人類の感情であり、良心の叫びである」という抗議文を提出する。
 日本政府も、世界連邦=世界市民という大局に立ち、「原子爆弾使用の罪は、人類全体の罪なので、アメリカにたいする抗議をおこなわない」とした。
 これに、「民族ではなく、階級で団結せよ」という世界共産主義(インターナショナリズム)を標榜する左翼がとびついた。
 スターリンに媚び、アメリカの庇護の下で育った日本の左翼が、反日主義者に衣替えして生き残ることができたのは、じつに、この論拠にのって、なのである。
 ノーベル賞の大江健三郎は「日本が悪いから、原爆を落とされた。原爆は日本人にあたえられた反省の材料。だが、わたしは日本人ではない。ノーベル賞をうけ、文化勲章を断ったのは、世界市民だからである」とうそぶいた。
 これが、反日主義をかかげる日本人の一つの類型で、この思想が、東大教授の羹尚中・高橋哲哉・小森陽一の三バカ大将に代表される日本の学界から、マスコミ、教育界、共産党や社民党、民主党ばかりか、自民党にまで、根深く浸透している。
 国から、散々、甘い汁を吸いながら、国を足蹴にするコスモポリタニズムが、インテリを中心に、戦後日本に蔓延して、どうして、日本が成熟した国になれるだろう。
●慰安婦「非難決議」には原爆投下「非難決議」で対抗せよ 
 わたしは、原爆記念碑のこの文言を取り払うとともに、アメリカが、日本の非難決議をおこなうのであれば、アメリカの原爆投下の咎を断罪する決議運動をすすめようと思っている。
 もともと、アメリカが、日本の非難決議をおこなう背景には、原爆投下の罪意識があるからだ。
 原爆投下をきめたトルーマンは「日本人とインディアンにたいしては、同じ人間の血が流れていると思われないので、良心の呵責が生じない」とのべている。実際、戦後、何百回もたずねられた「原爆投下」について、トルーマンは、難しい決断だったかと聞かれるたび「とんでもない、こんな調子で決めた」と指をパチンと鳴らした(毎日新聞【余録】)という。
 ところが、それから六十数年がたち、日本人が得体の知れない異民族だった時代が過去のものとなり、アメリカ人が原爆や空襲で焼殺した日本人が、大リーグで活躍しているイチローやマツイと同じ親しい隣人だということがわかってくると、かれらは、原爆の罪意識を払拭するために、日本は原爆を投下されても文句がいえないようなことをやったのだ、という新たな理由付けの必要をかんじはじめた。
 それが、今回の慰安婦をめぐる対日非難決議の背景である。
 これには、前科がある。南京大虐殺である。東京裁判で、広島・長崎の原爆投下が問題になってくると、とつぜん、南京大虐殺をデッチ上げ、日本兵が、広島・長崎の原爆投下で亡くなった同数の三〇万人を虐殺したといいだした。
 ヒトラーがアウシュビッツなら、トルーマンは、原爆である。前者が、史上最悪の業悪で、後者が正当な戦争行為となったのは、たんに、アメリカが戦争に勝ったからである。
 原爆投下がいかに非人道的だったか、徐々に、事実関係が明らかになってきている。
 陸軍長官スティムソンと国務次官グルーは、日本が降伏勧告をうけいれることができるよう、大統領トルーマンに、天皇の地位保全を約束すべきだと主張した。原爆投下のタイミングは、そのあとにすべきと説いたのである。海軍長官フォレスタル、陸軍参謀総長マーシャル、海軍軍令部総長キングも、警告なしに日本の都市に原爆を投下することには、絶対反対だった。
 ところが、トルーマンと国務長官バーンズは、日本に降伏を勧告するスティムソンの草案から天皇の地位保全を認める条項と、共同提案国としてのソ連の国名を削ってしまう。日本に、降伏まで時間をかけさせ、ソ連への期待をもちつづけさせようとしたのである。
 原爆の無警告投下を実行するには、日本が、早い段階で降伏条件をのむと不都合だったからである。
 さらに、トルーマンは、原爆を日本の都市に投下することによって、ソ連を脅すことができると考え、無警告で原爆を投下する決意を固める。
 アメリカは、生きた人間を使った核実験と軍事デモストレーションのために、三十万人の日本人を一瞬にして焼き殺したのである。
 日本人が、アメリカのこの非人間性について、怒りをもち、謝罪をもとめるのは当然であろう。
 そうしなかったから、日本人の魂も誇りも地に堕ちたままで、アメリカからあたえられた憲法も改正できなかったのである。
 日本の反日主義は、NHKの反戦ドキュメントから筑紫哲也のニュース番組、朝日新聞、市民運動、教育界の自虐史観、東京裁判史観に毒された官界や保守系政治家にいたるまで、国益や、日本人としての誇りを否定して、他国に媚びるという点で、共通している。
 そして、国家や民族の喪失感を補うため、かれらは、世界市民を口走る。
 日本人が心を一つにして、アメリカに、原爆投下の謝罪をもとめてゆけば、反日主義などというひねくれた思想は、消えてゆくのである。
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2007年03月12日

「反日の構造/コスモポリタニズム(世界市民主義)という妖怪」(その1)

●保守政治家が、なぜ、反日主義者に転落したのか?
 マスコミや言論人ばかりではなく、保守政治家のあいだにも、反日的傾向がひろがっていることに、多くの心ある日本人が、首をひねっている。
 同じ日本人が、じぶんの国の悪口をいい、日本を敵視する神経が、わからないのである。
 一九九一年、旧ソ連・東欧が崩壊したとき、共産主義・社会主義の幻想が破れて、全体主義から解き放たれた世界は、自由主義へむかうと、だれもが、思った。
 事実、世界から、自由主義と共産主義が対立する構図が消えていった。
 左翼政党が、革命路線を捨てて、現実路線をとりはじめたからである。
 ところが、日本だけは、ちがった。
 たしかに、旧社会党・共産党は、衰退したが、それといれかわるように<反日主義>というイデオロギーが登場してきて、かつての55年体制以上に、イデオロギー的な対立がとげとげしくなってきたのだ。
 共産主義から開放された世界が、キリスト教文化とイスラム文化の、いわゆる「文明の衝突」をおこしはじめた同じ時期に、日本では、反日主義が、自由主義や保守主義とぶつかりあうかたちで、文明の衝突をおこしはじめたのである。
 なぜ、共産主義という反体制運動が滅びたのに、自由主義をおびやかす反日主義がこれほどまでに蔓延してきたのであろうか。
 一九〇〇年代から、共産主義に代わって、国家や愛国心などいらないという、コスモポリタニズムが、台頭してきたからである。
 コスモポリタニズムというのは、「国境をなくして、世界の人々が手をつなげば、平和がやってくる」という少女趣味の思想で、タレントのアグネス・チャンが教祖の絶対平和主義と、アインシュタインやラッセル卿、湯川秀樹らが唱えた世界連邦主義が、くっついたようなものである。
 この夢想的な理想主義によって、戦争をおこす国家や国益という考え方やナショナリズムが悪になる一方で、国家と対立する個人のエゴや人権、平等だけが、善ということになった。
 共産主義にたいしては、反共主義という理論武装が可能で、事実、冷戦下においては、共産主義の不毛性・非人間性が、自由主義者によって、きびしく、批判されてきた。
 ところが、コスモポリタニズムにたいしては、理論武装ができない。呆れて、二の句が告げずにいるうち、どんどんと広がって、ついには、政治や行政の場で、共産主義に代わるイデオロギーとして、この十年来、大きな勢力をもつようになった。
 その一つが、小沢一郎の「国連軍構想」である。
 各国の軍隊が、国連軍のもとに終結して、平和をおびやかす悪い国をやっつけようという発想の根底に、世界連邦のイメージがあるのはいうまでもない。こういう、ユートピア的な考え方が危険なのは、非現実的なだけではなく、反動として、反国家主義がでてくるからである。
 最近の小沢が、かつての保守主義者から、社会民主主義者へ変貌したのは、コスモポリタニズムに毒されているからにほかならない。
 ちなみに、共産主義・社会主義が、コスモポリタニズムに変貌してできたのが、民主党で、だからこそ、旧社会党が寄せ集まり、いま、社民党が接近しているのである。
 自民党に反日主義者がふえ、日に日に、民主党化しているのも、同じ理由である。
 そもそも、自民党と組んでいる公明党=創価学会の池田大作の平和主義こそが、世界同時平和=コスモポリタニズムであって、コスモポリタンの大親分、池田大作の私物である公明党に、愛国心や国益という考えは、ない。
 その公明党と一心同体の自民党が、自主憲法制定という党是を捨てたのは、朱に交わって、赤くなったからである。
 朝日新聞がよく使う「偏狭なナショナリズムを捨てよ」というのも、民族ではなく、階級で団結せよという、レーニンの世界同時革命の焼き直しで、朝日が反日の牙城になっているのは、その背骨が、コスモポリタニズムからできているからである。
 自民党のコスモポリタンの代表が「日本国民ではなく、地球市民たれ」という加藤紘一である。
 加藤に、国家や国益の発想が欠けているのは、左翼くずれのコスモポリタンだからである。
 名誉や誇り、善悪の判断は、国家や歴史にたいする意識からうまれる。
 したがって、コスモポリタンには、恥という感覚がない。善悪の価値判断も、一般人とちがっているので、平気で売国的なことができ、しかも、それを悪とは思わない。
 そこに、国家や歴史を否定するコスモポリタニズムの害毒性がある。
 戦後、わが国では、学会やマスコミがコスモポリタニズムに寝食され、反日主義の温床となってきたが、最近では、保守政界にまで、この思想がひろがり、保守思想があやしくなってきた。
 加藤の盟友、山崎拓の場合は、コスモポリタニズムが、そのまま、反日主義にすりかわっている。
 山崎は、安倍晋三首相が従軍慰安婦問題について、「軍が人さらいのように強制連行した事実はない」とのべたことにたいして、「弁解がましいことは一切いわない方がいい」と批判したうえで、「(日本に謝罪をもとめる決議案採択にむけた)米下院のうごきはけっして愉快ではないが、従軍慰安婦なるもの(の存在)は事実だ。それが強制によるか、間接的な強制かの議論は、弁解にすぎない。そういう議論をするより、われわれは(旧日本軍の関与を指摘した平成5年の)河野洋平官房長官の勇気ある談話を評価するべきだ」とわけのわからないことをいっている。
 慰安婦の議論は、軍の介入があったか否か、なのであるから、山崎の発言は、筋違いである。
 コスモポリタニズムが、左翼空想主義ともいわれるのは、論理がめちゃくちゃでも、きれいごとを並び立ててあるので、わかったような気になるからである。
 だが、現実性がない。山崎発言に、日本の国の名誉、国益、愛国の情がみられないのも、現実的視点がすっとんでいるからである。
 日朝国交正常化にかんする作業部会についても、加藤紘一、山崎拓、古賀誠の元幹事長の三人は、「国際協調を旨とし、拉致の問題とは分けて核廃棄を実現しなければいけない」と、核と拉致を分離して議論すべきという、北朝鮮の代弁をおこなって、涼しい顔をしている。
 東大全学連出身の加藤は、確信犯だが、山崎も古賀も、もともと、保守陣営の政治家である。
 といっても、若いころ、保守思想にふれたことも、政治運動に身を投じた経験もなく、したがって、理論武装ができていない。いまごろになって、世界主義などという中学生レベルの幼稚な考えにまきこまれるのは、そのせいであろう。
 若い時代、利権や金儲けのために保守陣営に身をおいた者のうちには、思想的な鍛錬ができていないため、後年になって、とつぜん、共産主義は正しい、武器を捨てると平和になる、などといいだす者がいる。
 保守陣営の宗旨替えは、中曽根康弘もそうだが、何かの拍子で思想に目覚めると、保守思想ではなく、中学生や若い女がとびつきそうな平和主義やコスモポリタニズムへ、走るのである。
 コスモポリタニズムという思想は、戦後、理想主義の一つとして、GHQがもちこんできたものである。そのシンボルが平和憲法で、軍国主義的な傾向を禁止した一連のGHQ指令や日教組などの組合結成の促進も、その流れにある。
 これにのったのが、旧社会党の「非武装中立論」で、防衛軽視・経済重視の「吉田ドクトリン」も、それと、無縁ではない。
 その後、中国革命や朝鮮戦争に直面したアメリカが、マッカーシー(米国上院政府機能審査小委員会委員長)の赤狩りを契機に、反共国家に転じた。その結果、コスモポリタニズムにそまっていたGHQも批判の対象となり、対日政策も軌道修正された。
 マッカーサーが、一九四七年、「二・一ゼネスト」に中止命令をだしたのは、GHQの左傾化修正を先取りしたものだったが、それがなかったら、日本は、GHQの指導の下で共産主義国家になっていたかもしれない。
 反日主義というのは、国際共産主義への幻想が、ねじれて奇形化した、ゾンビのようなものである。 そのゾンビ=コスモポリタニズムが、国際派という衣を着て、日本中のあらゆる分野にはいりこんみ、日本という国の屋台骨をゆるがしている。
 それが、日本という国にあらゆる病変をもたらしている病原なのだが、だれも、それに気がついていない。
 次回は、日本の中央官庁が、なぜ、反日的なのかについて、コスモポリタニズムの文脈から、論じてみたい。


「反日の構造/コスモポリタニズムという妖怪」
 今後の掲載予定(順不同/変更あり)
●保守政治家が、なぜ、反日主義者に転落したのか
●霞ヶ関が国益に無関心なのはコスモポリタンだから?
●コスモポリタニズムの下では売国奴がヒーローになる
●コスモポリタン国家に「スパイ罪」はいらない?
●ヒトラーとスターリンが憎んだコスモポリタニズム
●なぜ「反コスモポリタニズム」運動が怖れられるのか
●ジェンダーフリー=男女平等とコスモポリタニズム
●改革主義=伝統破壊がめざすコスモポリタンの人工国家
●コスモポリタン型経営者のモラルが崩壊してゆく理由
●「反日テレビ報道」に貫かれているコスモポリタニズム
●文科省「ゆとり教育」の背骨はコスモポリタニズム
●コスモポリタニズムでは「人格」より「人権」が大事
●天皇制度と真っ向から対立するコスモポリタニズム
●エゴイズムだけでなりたつコスモポリタニズム社会
●思想戦に負けて読まれる朝日新聞のコスモポリタニズム
●日本国憲法とフィリピン憲法に共通する無国籍性
●フィリピンの封建的土地制度と日本の霞ヶ関の類似点
●日本国憲法に「国家主権」と「国民の義務」がない理由
●基本的人権が天から降ってくる日本国憲法のまかふしぎ
●憲法で「交戦権」が否定されて消えた日本の国家主権
●「自虐史観」をつくりあげた日本のコスモポリタンたち
●<コスモポリタン政府>だった細川と村山の連立政権
●国際ユダヤ主義=グローバリズムとコスモポリタニズム
●政官財界で暗躍する「国際派」と呼ばれるコスモポリタン
●日本の大学にマルクス主義者・反日主義者が多い理由
●コスモポリタンの化けの皮を被って延命をはかる日本の左翼
●コスモポリタンが「日の丸」「君が代」を目の敵にする理由
●日本政府が、南京大虐殺のデマを否定しないのは、なぜか
●コスモポリタンの代表が「近隣諸国条項」の宮沢喜一
●国を売って恥じない河野洋平のコスモポリタニズム
●原爆慰霊碑「過ちはくり返しません」はコスモポリタン宣言
●GHQがつくりあげた戦後日本のコスモポリタニズム社会
●無宗教の戦没者慰霊碑というコスモポリタニズムの発想
●愛国者をウヨクと侮辱するコスモポリタニズムの風潮
●「反日」を武器に名声を手にしたマスコミのコスモポリタン
●コスモポリタニズムとのたたかいだった六〇年安保闘争
●中国に寄り添う財界人=左翼商人はコスモポリタン
●市民グループが被ったコスモポリタニズムという隠れ蓑
●コスモポリタニズムがゆくつく先は旧ソ連型の官僚国家
●霞ヶ関の「官僚社会主義」が究極のコスモポリタニズム
●コスモポリタニズムがめざす外国人参政権と移民自由法
●国家主権をみとめない日本国憲法はコスモポリタニズム
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2006年08月30日

「わが戦後史」目次抜粋

「わが戦後史」目次抜粋
 三宅島と関東平野
 中央大学レスリング部
 学生服を着たイベント屋
 砂川・60年安保と民族主義運動
 60年安保と「北海道奮戦記」
 「日本及日本人」の編集部へ
 気骨があった昔の財界人
 民族主義者との邂逅と決別
 海外の同志と若き日の外遊記
 大野伴木と中川一郎の出会い
 東京六区から衆院立候補も次点
 後援会長・今東光の一言
 自民党入党と政界の裏表
 北方領土問題を追って根室へ 
 フィリピンで「山下財宝」探検隊長
 グラマン事件と「消えたボストンバッグ」
 アフタヌーン・ショー出演の時代
 竹下「金屏風事件」の真相に迫る
 垣間見たブラックジャーナリズム
 フィリピン革命でエンリレと会見
 若王子事件の犯人グループを追う
 グリンゴ・ホナサン大佐と意気投合
 竹下「皇民党事件」の深層構造
「M資金」の謎を追ってシンガポールへ
 なぜ、わたしがフィクサーなのか?
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