2017年02月10日

 月刊ベルダ11月号(2016年10月発売)より転載

 保守と右翼
 
 ●保守を右翼と呼ぶ誤り
 保守と右翼が混同されている。
 好例が安倍政権は右翼≠ニいうレッテルである。
 もともと、右翼や左翼ということばは、フランス革命当時、王党派が議会の右側、革命派(ジロンド派)が左側に座ったことに由来している。
 したがって、保守の安倍首相が右翼なのはあたりまえなのだが、日本では、右翼ということばが、左翼陣営やリベラル派のあいだで、悪の代名詞としてもちいられている。
 ファシズムや好戦主義者の代名詞になっているのである。
 西洋の右翼は、日本の保守もしくは与党で、政治勢力である。
 一方、日本でいう右翼は、国体の防人で、文化の概念である。
 ヨーロッパに日本でいう右翼(=天皇主義)が存在しないのは、国体が失われているからで、国連安保常任理事国(米・英・仏・ロ・中)はみな革命国家である。
 伝統(権威)と武力(権力)が一体化していた古代国家(王国)が消滅したのは、権威と権力が一元化されていたからである。
 革命とは権力による権威の否定にほかならない。
 日本に国体が残っているのは、権威と権力が両立していたからで、先進国のなかで、唯一、日本は、革命を経験していない伝統国家なのである。
 かつてクニは、神話や素朴な宗教心、習俗などの文化概念によってみずからを統一した祭祀共同体で、邪馬台国(大和朝廷)の女王卑弥呼は、軍事力ではなく祈祷でクニを治めた巫女だった。
 現在の日本は、大和朝廷と歴史的連続性を有しており、天皇は、大和朝廷を建てた神武天皇の男系子孫(万世一系)である。
 日本が伝統国家として、世界から尊敬をうけているのは、国体という歴史の財産が残っているのみならず、現体制をささえているからで、その象徴が天皇である。
 自民党にもとめられているのは、革命国家の保守主義(カンサバティブ)ではなく、伝統国家の国体思想で、日本の保守党には、国体の防人としての使命も課せられている。

 ●右翼の本質は防衛にあり
 右翼の本質は、防人で、歴史や文化、風土、習俗などの伝統の守護者としてふるまう。
 勇を奮ってまもらなければならないのは、伝統は無防備だからで、千年の蓄積も、タリバンに破壊されたバーミヤン大仏のように、一発の大砲で粉々になる。
 防衛は、攻撃よりもはるかに戦略的意味が重い。
 攻撃は、失敗しても撤退するだけだが、まもりに失敗すればすべてを失う。
 神風に破れた蒙古軍は船団を失っただけだが、日本軍が負けていたら国家を失っていたろう。
 神風特攻隊が散華したのは、本土防衛軍だったからで、防衛は、攻撃よりも壮絶なたたかいになる。
 右翼がまもるべきは、物質的な価値や権力ではなく、精神性や無形の文化である国体である。
 それが三島由紀夫のいった文化防衛で、三島は、命を捨てて国体や日本精神という無形の文化をまもろうとした。
 文化という内面を侵蝕されるとつぎは文明という外面の崩壊がはじまる。
 アメリカ民主主義とGHQ憲法が、かつての誇り高き道徳国家をアメリカに追従する二流国にしてしまったのは、権力がはたらいたからではなく、国体という内面を侵蝕されたからだった。
 国体は空気のようなもので、だれも意識することがない。
 その無意識が国体の真のすがたで、国民は無言でこれをささえている。
 日の丸を振って愛国心を訴え、政治スローガンを叫ぶのが国体護持ではない。
 無自覚なほどにクニに同化して、はじめて、国体はまもられる。
 特攻隊員の遺書をみてわかるように、かれらは、祖国愛と高い教養、強靭な精神力をもっていた。
 それが右翼=防人の本質で、国家をまもるには、まもるべき国家に惚れきる純粋性や熱情、歴史や文化につうじる聡明さがもとめられる。
 
 ●左翼には保守、反日には右翼が対抗
 かつて、右翼が反共と同義だったのは、共産主義革命から国体をまもるためだった。
 共産主義は、国体という歴史の連続性と文化の蓄積を根こそぎ否定する権力構造で、いわば国家自体が、共産主義が管理する監獄となる。
 中国でおきた共産主義革命が、戦後、日本でおきなかったのは、容共政策をとったGHQが反共へ転じたためで、朝鮮戦争がおきなかったら、日本も共産化されていた可能性が多分にあった。
 国体が失われる危機となるのが、敗戦と国家分裂、そして革命である。
 戦後、日本にその三つの危機がいちどきに襲ってきた。
 敗戦と連合国による分割統治、そして左翼の大躍進によって、日本は、革命前夜の情況になった。
 連合国による四島分割統治と天皇の戦犯指名を免れて、一応、危機を脱したものの、深い傷跡が残った。
 日本の支配階級が、右翼からそっくり左翼に入れ代わったからである。
 戦前の一般的な日本人は、現在の感覚でいえばすべてウヨクで、民族主義者であることが国民の徳の一つに数えられていた。
 ところが、戦後、霞ヶ関をはじめ教育界や大学、法学や歴史学などの学会、大新聞などのエリート階級が、戦前戦中、アカや非国民と呼ばれて社会の中枢から外れている人々に占領された。
 戦後日本では、敗戦直後の革命の危機は脱したものの、公職追放とGHQの容共政策によって、左翼革命の準備が着々とすすんでいたのである。
 それを阻止したのは、天皇と皇室を敬愛する一般国民だった。
 左翼は国体とともにある国民の前で身動きがとれなかったのである。
 だが、現在、日本という国家を危機に陥れているのは、日本共産党が議会で一定の議席を占める共産主義ではない。
 危険なのは左翼よりも反日で、政権を狙う左翼にたいして、反日は、国体の破壊を目的とする。
 国体が崩壊すれば、国家主権(交戦権)をもたない日本は、革命をおこさずとも、国家としての機能と体裁を失って、アメリカか中国の属国にならざるをえない。
 反日主義は、国家の主権を他国にゆだねようという売国思想なのである。
 左翼には政権を争う保守が対抗する。
 だが、伝統破壊を目的とする反日は、メディアや教育などをつうじて、じわじわと国民生活に浸透する。
 反日攻撃の防波堤となるのが、国体の防人たるウヨク=民族派である。
 現在、ウヨクと呼ばれているのは、戦前の日本人の精神を継承している人々で、ふだん市井に埋没しているが、国体がおびやかされたときは立ち上がる。
 右翼の本質は防人というのはその意味合いなのである。

 ●国体を破壊したのは戦後左翼
 戦後、国体意識が失われたのは、GHQの情報工作のせいだけではない。
 GHQは、三大紙による「天皇制存廃世論調査」で天皇支持が9割をこえた事実をふまえて「天皇制があるからといって民主主義的ではないとはいえない」と正式にコメントしている。
 国体破壊の意図がなかったというより、GHQには、国体にたいする認識がほとんどなかったのである。
 国体意識を破壊したのは、日本共産党や日教組、労組などの革命勢力とこれに同調したマスコミや学会、言論界、GHQによって再編された官界だった。
 GHQの公職追放令によって20万人以上の要人が公職から追われ、日本の中枢機構が左翼に占領された。
 GHQによって息を吹き込まれ、GHQの日本弱体化戦略をひきついだ左翼と反日勢力のスローガンとなったのが、平和憲法だった。
 憲法は改正が可能で、神道指令や言論統制のような占領政策は、講和が成立すれば解除される。
 だが、日本の中枢機構を左翼一色にした公職追放令は、解除不能なので、百年の禍根となって、いまも日本を呪いつづけている。
 GHQが種をまいた戦後左翼・反日が目の敵にしたのが皇国史観で、天皇から君が代、日の丸に至るまでが、反皇国史観の名目で攻撃目標となった。
 祝日(旗日)に玄関に日の丸を掲げる風習がなくなったのは、GHQが日本から引き揚げたあとのことで、日教組や労組、大新聞が、日の丸=軍国主義という教育や宣伝をおこなったためだった。
 日教組と歴史学会、教科書出版社、文部省は、国史が皇国史観を連想させるという理由から、軍国主義の元凶とされた皇国史観や神話も排除して、国史ならぬ天皇不在の日本史がつくりあげた。
 国体という日本精神は、いまなお、左翼革命運動のターゲットとなっているのである。
 
 ●消えた極左、残った極右
 サンフランシスコ講和条約がむすばれてGHQが撤退した4年後、日本では憲法改正をめぐって大きな政治変動が生じた。
 左右両派に分裂していた日本社会党が統一されて、憲法改正の阻止に必要な3分の1議席を獲得すると、憲法改正を目指す保守勢力も、自由党と日本民主党が合同して自由民主党を結成、議席の3分の2弱を確保する。
 これが「55年体制」で、このとき日本共産党も大きな変貌をとげた。
 それまでの武装闘争路線を捨て、議会内革命路線をとるのである。
 日本共産党にとって、国体が抜き去られている憲法は革命運動の障壁にならないどころか、国民主権は、むしろ追い風だった。
 革命は、暴力であれ選挙であれ、国民(人民)主権の名目の下で独裁政権を樹立することだからである。
 妨害になるのは歴史と文化の実体たる国体だけだった。
 だからこそ革命は殺戮と破壊によって過去を消滅しようとする。
 だが、戦後日本では、左翼の手で国体がほぼ完全に否定されていた。
 日本共産党にとって、GHQによって改造された戦後は、革命前夜だったのである。
危機感を抱いた保守陣営のなかでまっ先に行動をおこしたのが、検事総長や法務大臣、防衛庁長官などを歴任し、政界引退後、自由民主党の院外団「自由民主党同志会」を率いた木村篤太郎だった。
 木村は、法務総裁だった当時、国粋会など全国の任侠団体を結集した「反共抜刀隊」計画を立てている。
 右翼の大同団結は吉田茂の反対で実現しなかったが、これが任侠右翼として60年安保闘争以後までも引き継がれる。
 これが、極右と呼ばれるグループで、いまは多くが民族派を名乗っている。
 極左は、あさま山荘事件で連合赤軍(赤軍派・京浜安保共闘)が壊滅したのち内ゲバをくり返すだけの殺人集団へ転落していった。
 極左が全滅したのは、かれらがもとめたのが政治権力だったからである。
 武装蜂起による世界同時革命が荒唐無稽だったというより、共産主義自体が崩壊して革命という政治目的が消失したからである。
 一方、権力と政治から切り離されている極右には、依然として、国体の護持という目的が残されている。
 60年安保の前年に結成された全愛会議(全日本愛国者団体会議)に参加した民族主義団体は、1964年の第6回大会には440にもふえた。
 全愛会議の綱領は「国体護持」「反共協同戦線」で、60年安保闘争には、自民党の要請をうけて、多くの任侠団体が動員された。
 だが、安保闘争が終わると、政治結社を名乗って革命勢力と対抗した任侠団体は、警察の大弾圧をうけて、政治の世界からすがたを消す。
 右翼は、国体の防人であって、権力の従者ではなかったからである。
 といっても、右翼は権力に利用されたわけではない。
 右翼の本懐は国体の護持にあって、ときには権力とむすび、ときには権力の敵となる。
 左右を問わず、国体をおびやかす勢力にとって、右翼は恐怖の対象となる。
 極左は消えても、国体をおびやかす勢力があるかぎり、極右は存在理由を失わないのである。
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 月刊ベルダ10月号(2016年9月発売)より転載

 伝統主義と民主主義の
折り合いのつけかた


 ●伝統国家の自覚がない日本人
 安倍首相は「生前退位」問題を皇室典範の附則変更で処理するという。
当初、検討された特別措置法では、憲法第二条(国会議決と皇室典範による規定)違反になる可能性があるため、附則変更で対応しようというのである。
 有識者会議の設置についても来年に先送りして、拙速を避ける意向だ。
 これにたいして「陛下のお気持ちを汲んでいない」「陛下に同情的な8割の世論を無視している」という批判もある。
 有識者会議の設置と皇室典範の改正を急ぎ、法改正と国会議決で、一刻も早く生前退位を実現させるべしというのである。
 自民党の二階幹事長も有識者会議の設置にからめて「女性天皇の検討も一緒にやればよい」(BS朝日)とのべ、記者団に「女性尊重の時代に天皇陛下だけが例外というのは時代遅れだ」と女性天皇論を展開した。
 安倍首相とは皇室観において大きなちがいがある。
 二階幹事長やマスコミ世論が近代主義なら、安倍首相は、伝統主義に立っているのである。

 ●権力や法を超越している伝統
 近代主義は、法や権力に拠って立ち、伝統主義は、歴史的な慣例や文化構造に根ざしている。
 世襲や万世一系、宮中祭祀は、法や権力を超えている。 
 だからこそ、不動の権威なのであって、法や権力、多数決の民主主義に左右されては、権威たりえない。
 いくさや選挙の勝者は権力者になれるが、歴史上、いかなる権力者も天皇になることができず、今後もありえないのは、天皇が権威であって、権力者ではなかったからである。
 それが、天皇を戴く伝統国家の真のすがたである。
 安倍首相の慎重な対応は、天皇の地位と皇位継承にたいする法と権力の関与を最小限におさえるためで、事実、旧皇室典範は、皇室の家法として、憲法と同格の別の法体系だった。
 有識者会議では、生前退位を前提とせず、摂政による国事行為の代行なども検討されるという。
 摂政は、昭和天皇の前例があり、国事行為の代行も、憲法や皇室典範に規定があるので、生前退位より自然である。
 憲法によって定められた国事行為は、半ば、法制化された儀式で、皇太子による代行でもさしつかえない。
 一方、憲法に明記されていない宮中祭祀は、伝統であって、天皇あるいは皇太子が摂政宮となっておこなわなければならない。
 天皇の権威の根拠となるのは、憲法に規定された国事行為ではなく、伝統としての宮中祭祀である。
 皇位継承も宮中祭祀と同様、法や権力の埒外にあって、法的手続きや政治判断のおよぶところではない。
 伝統の範疇にあるものには手をつけないのが伝統国家の徳性で、日本の皇室が世界から尊敬されているのは、法や権力のおよばない伝統的存在である天皇が、事実上の元首となられているからである。

 ●皇室の自然消滅をはかったGHQ
 日本が伝統国家であることを自覚している日本人は多くないだろう。
 戦後、革命国家の民主主義がゆきわたって、国体という民族の伝統的精神が失われたためである。
 国体は、民族の神話や宗教、習俗や言語、生活形態などをのみこんだ歴史の産物で、文化構造である。
 伝統国家は、永遠の国体の上に一過性の政体が乗った二重構造になっている。
 政体は、政治や法、制度などの権力構造であって、時代によって変化する。
 日本が、数千年にわたって、同一国家を維持することができたのは、政体が代わっても、土台となる国体が不変だったからである。
 その土台が大きくゆらいだのが先の敗戦だった。
 敗戦とGHQによる日本占領によって、国体の存続がGHQの手にゆだねられた。
 明治政府によって種がまかれた国体の危機が現実のものになったのである。
 薩長の明治政府が国体の象徴である天皇を元首に据えたのは、権威と権力を一体化させ、列強に対抗できる帝国主義国家をつくるためだった。
 国体の危機は、このとき仕込まれたといっていい。
 国体の象徴である天皇を政体のトップにすえたため、権威と権力の二元論が崩れて、政変や戦争という政体上の危機が、文化構造である国体におよぶ構造になったのである。
 天皇が権力にとりこまれると権威と権力の二重構造が毀れる。
 日米開戦を回避できなかったばかりか、敗戦によって、二千六百年におよぶ国体が消滅の危機に瀕したのは、天皇が明治政府および陸海軍にとりこまれたからで、敗戦による国体の危機は、日本がみずから招いたものだったのである。

 ●天皇は国家ではなく国体の象徴
 戦勝国が皇室廃絶をもとめるなか、GHQは、皇室の財産没収、11宮家の臣籍降下、旧皇室典範の改廃など皇室の自然消滅を視野に入れた政策を着々とすすめた。
 最大の難問が天皇の処遇だった。
 天皇が国家元首なら、敗戦国の戦争指導者として、戦勝国から裁かれなければならない。
 天皇もそのおつもりで、みずからマッカーサー元帥を訪問されて、全責任をとるお覚悟をのべられた。
 天皇が権力であったら、国民の支持や敬愛どころか、国民的な糾弾を浴びていたろう。先の大戦では、数百万人の同胞が、戦場や空襲、原爆で命を失っているのである。
 だが、天皇が権力者=国家元首ではなく、国体という文化構造の象徴だったのなら話は別である。
 天皇の全国行幸には、一億日本人が日の丸の小旗を振って、熱狂的にお迎えした。
 マッカーサーは、天皇が権力者ではなく、西欧には存在しない国体の象徴であるという確信をもった。
 きめてになったのが、大新聞(朝日・読売・毎日)や調査機関による「天皇制存廃世論調査」だった。
 結果は驚くべきもので、どの調査も廃止が1パーセント前後、不明をふくめても10パーセント前後で、国民の9割が天皇を支持していたのである。
 総司令部(GHQ)のスポークスマンは、驚愕してこのとき「天皇制があるからといって民主主義的ではないということはできない」とコメントしている。
 マッカーサーの決断は、天皇を軍部や政権(政府)から切り離して、国民と一体化した象徴(日本国と日本国民統合の象徴/憲法一条)とすることだった。
 マッカーサーは、はからずも、明治政府が権力者に仕立てた天皇の位をほぼ原型にもどして、国体護持を憲法に明文化したのである。
 だが、このとき、マッカーサーは、大きな誤りを犯した。
 天皇の地位を伝統ではなく、法制上のものとしたのである。
 マッカーサーは、天皇と国体をまもったと同時に、天皇を憲法にくみいれることによって、明治政府と同様、国体と伝統国家の真のすがたをゆがめたのである。

 ●多数決の原理にすぎない民主主義 
 アメリカ人にとって、日本の皇室は、羨望の対象だという。
 新興国家のアメリカにとって、民主主義は、空気のようなものだが、歴史や伝統は、もとめても永遠にえられない文化的な価値なのである。
 民主主義は、文化でも文明すらでもない。
 ただの多数決で、チャーチルがいったように、絶対専制や独裁、暗黒政治に苦しんだ人民がたどりついた窮余の策で、絶対専制や独裁よりマシという代物にすぎない。
 しかも、民主主義は、衆愚化という致命的な欠陥を抱えている。
 多数派が最大権力となる民主主義では、大衆とマスコミ、迎合政治家の三者が世論を支配して、政治をかぎりなく劣化させるのである。
 大衆の欲望とマスコミの商業主義、権力欲は、目先の利益追求という点で一致する。
 このとき、伝統や徳性、習慣、民族の叡智という歴史的価値が捨てられる。
 歴史を断ち切った革命国家では、権力の実効性や正統性が、民主主義一本に絞られる。
 自由主義も共産主義も、革命国家であるかぎり唯物主義で、げんにアメリカは、スターリンのソ連と手をむすんで日本とたたかった。
 戦後、イデオロギーが、自由主義と共産主義の対立という図式で語られてきた。
 しかし、実際は、伝統と革新の対立であって、軍事的に対立しながら微妙なところで米中が折り合っているのは、ともに革命国家だからである。

 ●伝統国家と革命国家の衝突
 大東亜・太平洋戦争は、伝統国家と革命国家の衝突で、日本は、国家防衛と国体護持、大東亜共栄圏建設のため、アメリカは、国益と民主主義の理想のためにたたかった。
 日本が戦争に負け、このとき、国体に危機が生じたのは、連合国の戦争目的の一つにファシズムの打倒があったからで、アメリカの目には、天皇が独裁者と映っていた。
 先の大戦は、民主主義とファシズムの戦争でもあったのである。
 GHQによる占領直後から、日本の伝統的精神や文化構造にたいする破壊が開始された。
 共産党はGHQを救世軍と呼び、マスコミや官僚、親米派政治家はGHQの下僕となり、国民は、WGI(ウオー・ギルト・インフォメーション)と3S(スポーツ・スクリーン・セックス)作戦の虜になって、アメリカ民主主義にとりこまれていった。
 GHQは、民主主義の最高法規化(憲法)から左翼活動の促進(労働組合・日教組結成)、国民道徳の排除(教育勅語の廃棄)、伝統文化の抹殺(古典の焚書)、言語改造(漢字のローマ字化)や宗教改革(神道指令やキリスト教教化活動)など日本を西洋的な革命国家に改造する計画を着々とすすめた。
 GHQの政策が、突如、転換されるのは、米ソ冷戦と中国革命、朝鮮戦争によって、日本を反共の防波堤にしなければならない必要が生じたからだった。
 しかし、ときすでに遅しで、新憲法が発布され、公職追放令によって、日本の中枢が左翼に独占されたあとだった。
 以後、日本は、伝統国家と革命国家の中間をゆれうごくクラゲのような国になるのである。
 戦後の日本人は、伝統国家であることを否定するGHQ憲法と日教組の学校教育、左翼マスコミにどっぷり浸ってきた。
 そして、戦後生まれの日本人が8割以上を占め、日本が伝統国家であることの自覚と誇りをもつ日本人が急速に減少すると、首相や大臣までが自虐史観をふりまわす風潮となり、皇国史観を口にするだけで右翼やネットウヨと罵声を浴びせかけられる時勢となった。
 民主主義を絶対化する世論をリードしてきたのがマスコミである。
 朝毎系の大メディアが、左翼・反日のテキストとなってきたのは、戦後民主主義を絶対善≠ニしたからで、教条的民主主義の前では、戦前の日本も靖国神社も絶対悪≠ニなる。
 そして、人民や民主主義、共和国を冠した国を祖国のようにもちあげ、中・韓の日本叩きをけしかけ、加担してきた。

 ●伝統国家にふさわしい憲法改正
 独立国なら、国家反逆罪に問われるべき大メディアが、日本で一、二を争う発行部数や視聴率をえているのは、日本人の多くが民主主義を神聖視しているからである。
 それでも、日本がひっくり返らないのは、天皇がおられるからである。
 大メディアが反天皇を打ち出さないのは、天皇にたいする国民の支持が圧倒的だからで、共産党さえ、容認のポーズをとっている。
 一方、国民のあいだでは、天皇と民主主義が違和感なく共立している。
 理由は、民主主義は、思想でも普遍的な価値でもなく、多数決という方法論と普通選挙法をさしているにすぎないからである。
 野党や左翼は「民主主義をまもれ」と叫ぶが、多数決に反対する者などどこにもいない。
 伝統的価値は、多数決などと比べようもないもので、まして、どちらをとるかなどいう設問は、ばからしくて、国民はだれも耳を貸さない。
 日本が伝統国家であることは、否定できない歴史そのもので、それを「いまは男女平等の時代」などと否定してかかるのは、アメリカ民主主義への迎合や進歩主義の請け売りにほかならない。
 心ある国民は、道具として民主主義を利用しながら、伝統主義の誇りをいまだ失わずにいる。
 国民の期待に応える改憲案は、この事実をふまえ、国体護持という大所高所に立った大胆な考え方がもとめられる。
 憲法改正案は、まっ先に、旧皇族をふくめた皇族の家法として、皇室典範を独立させることである。 
 二つ目は、臣籍降下した11宮家の男系男子に皇位継承権を設けること。
 11宮家にたいする皇位継承権は、憲法や内閣の拘束をうけない皇室典範できめればよいことで、伝統国家には、法や多数決、政治がおよばない領域があってよいのである。
 皇室の自然消滅をはかったGHQの当時の対日政策を撤廃しておかねければ、当時のGHQの目論見どおり、日本は、将来、皇室消滅という事態を迎えなければならなくなるのである。
 
 
 
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 月刊ベルダ9月号(2016年8月発売)より転載

 天皇の「生前退位」が広げた波紋

 ●もっとも望ましい皇太子の摂政宮就任
 安倍首相は、天皇陛下がビデオメッセージで生前退位のご意向をしめされた問題について、ご年齢とご公務の負担など陛下の心労を重くうけとめるとしながらも、生前退位の法制化などの具体的な政府の方針は示さなかった。
 菅官房長官も「公務の円滑な遂行が困難になることを懸念されたお気持ちをのべられたもので、国政に影響を及ぼす発言ではない」として、天皇が政治に影響力をもたない憲法上の限界をしめすにとどまった。
 今上天皇が生前に皇太子に皇位を譲る「生前退位」の理由がご高齢なのであれば、憲法(第5条)及び皇室典範(第16条)の規定にしたがって、皇太子が摂政をつとめられるのが順当と思われる。
 事実、陛下が前立腺がん(2003年)や心臓冠動脈のバイパス手術(2012年)でご静養中だった時期、皇太子殿下や秋篠宮殿下が公務を代行されておられる。
 皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が大正天皇のご療養から崩御にいたる5年間(1921年から1926年/大正10年から大正15年)にわたって摂政(摂政宮)をつとめられた歴史的前例も存在する。
 皇太子摂政であれば、皇室会議だけで手続きがすみ、元号を変更する必要もない。
 昭和天皇が摂政となられた5年間、元号は大正のままで、昭和へ改元されたのは、大正天皇の崩御後、昭和天皇が践祚されて第124代天皇となられたのち(大正15年/1926年)のことであった。
 摂政という選択肢がある以上、二百年前の光格天皇(119代)以後、絶えて久しい生前退位の復活には、歴史的必然性が乏しいといわざるをえない。

 ●皇室典範を憲法の下において生じた国体の危機
 生前退位を可能にするには皇室典範の改正で十分という意見がある。
 憲法に組み込まれた皇室典範は、法律の一つにすぎず、国会の承認があれば改正は可能というのである。
 だが、これには、大きな問題がある。
 今上天皇が生前退位されるとすれば、大日本帝国憲法や旧皇室典範をとびこえ、江戸時代後期の光格天皇の前例にまでさかのぼらなければならない。
 現行憲法や現皇室典範は、大日本帝国憲法や旧皇室典範の改定である。
 江戸時代の前例を適用して生前退位を法制化すると、明治以来の法体系との連続性や整合性が失われて、恣意的な法改正によって、天皇や皇室のあり方を変えることが無制限に可能になってしまう。
 天皇陛下のご意思にもとづいて「生前退位」の法改正がおこなわれるとすれば、憲法第四条の1(天皇は国政に関する権能を有しない)に抵触するのみならず、天皇がお望みになれば、法の名の下で、皇位の女系相続といった伝統に反した皇室制度の変更までが可能になって、歴史や国体との整合性が失われかねない。
 最大の問題点は「生前退位」を法制化によって定めると、国体の象徴である天皇が国体の下部構造である政体によって規定されるという矛盾が生じてしまうことである。
 天皇が権力を超越した存在だったことは、しばしばおこなわれた生前譲位に幕府が関与しなかったことからも明らかである。
 万が一、「生前退位」が実現すれば、新天皇は、権力が定めた史上初の天皇ということになって、権威(国体)と権力(政体)の二元性が根本からゆらぐだろう。
 象徴天皇を憲法の規定とする菅発言からもうかがえるように、憲法改正案に天皇元首を謳った自民党には、天皇が憲法ではなく、国体にもとづく存在という認識が乏しい。
 天皇が政治的影響力を有さないのは、権威と権力の二元化というわが国の伝統にもとづくもので、かならずしも、憲法の規定に根拠にしたものではない。
 天皇の象徴性も、市民革命によって権力者としての地位を失ったヨーロッパ王制の象徴ではなく、権威と権力の二元化にもとづく非政治化であって、古来より、天皇は、権力者ではなく、象徴的存在だった。
 天皇の地位を憲法で規定すれば、天皇を国家元首とした明治憲法の二の舞となり、天皇の政治利用という道をひらくことになる。
 改憲案に天皇元首を謳った自民党に猛省と再考を促したい。

 ●天皇は万世一系によって世襲される歴史上の地位
 日本人が忘れかけている国体について、三つの常識を提示しておきたい。
 1、天皇は、歴史=国体が継承してきた地位で、天皇家が相続する身分ではない。
 2、天皇の地位を継承するのは万世一系(神武天皇の嫡流)である。
 3、皇位継承問題は権力や法の干渉をうけない。
 天皇は、歴史がひきついできた地位で、永遠なのは、その歴史性である。
 天皇の位が先に継承されて、万世一系の系統を引き継ぐどなたが天皇の位を世襲されるのかは、万世一系の原則に従う、それが伝統国家としてのわが国の歴史である。
 天皇の嫡嗣が皇位を継がれるのは、その一形態であって、天皇家に男系男子が絶えた場合、他系統に皇統をもとめなければならない。
 したがって、永遠なる国体を維持するには、その地位につく万世一系の男系男子の幅を大きくとっておく必要がある。
 現皇室は、世襲親王家の一つで、118代天皇後桃園天皇とは家系的つながりの薄い閑院宮の119代光格天皇を祖としている。
 閑院宮は、皇統の断絶を懸念した新井白石と東山天皇(113代)が創設した世襲親王家の一つで、114代中御門天皇の系列で男系男子が絶えても、皇統が保たれたのは、新井白石の智恵のたまものであった。
 一方、現在、GHQが皇室の自然消滅を図った11宮家の臣籍降下にたいして、これを復元させようといううごきはなきにひとしい。
 皇位の世襲を謳った皇室典範が、改廃可能な法体系(憲法)にとりこまれているところに、GHQがつくった戦後体制の矛盾がある。
 旧皇室典範は、皇室の家法として、憲法とは別の、しかも同格の法典として用意されていた。
 これは、権力と権威が二元化されていたわが国特有の体制をあらわしたもので、飛鳥浄御原令や大宝律令などの古代法にも天皇の地位について記述がない。
 天皇や国王が世襲なのは、血統による正統性がもっとも安定した伝統の継承形式だからで、それ以外の方法では、権力が介入して、政争や乱をまねかずにいない。
 永遠の国体が変動する権力構造や一過性の政体の下位におかれると、国家の屋台骨が不安定になる。
 日本が紀元前の大和朝廷以来、同一体制を維持してきた理由は、権威と権力が不可侵の関係にあったからで、それが、日本を世界一の伝統国家にしたのである。

 ●国家をつくった天武天皇・国体に殉じた楠木正成
 国家観があって、はじめて、国家ができる。
 世界の後進的地域が、一足先に国家をつくった列強の餌食になったのは、国家観がなく、したがって、国家をつくれなかったからで、イギリスやオランダの食い物になったインドやインドネシアは、領主群が勢力を競いあう広大なる未開の地でしかなかった。
 日本が列強をよせつけなかったのは、体裁としても機能としても国家だったからで、その中心にいたのが天皇だった。
 現代人にピンとこないだろうが、古代において、国家は、超越的空想でしかなかった。
 国家は、もともと、戦争からうまれるもので、中国大陸で、秦(始皇帝)や漢王朝が誕生したのは、紀元前770年から500年間もつづいた春秋・戦国時代のあとのことだった。
 戦争は武人による権力・勢力争いだが、その先の国づくりをひきうけるのは政治家である。
 戦場(武)と国家(政)をつなげるのが国家観で、中国は、そのために500年をついやしたのである。
 日本が、紀元前という早い時代に国家概念をもつことができたのは、天皇という超越的な存在があったからで、日本の神話も、国産み、神産み、国譲りの物語である。
 天皇が国家を構想しえたのは、個人をこえた歴史上の存在だったからで、歴史=国体という時間軸に立って、はじめて、国家が見えてくる。
 天武天皇は、皇親政治をとって独裁体制を敷き、大宝律令の前身である飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、『日本書紀』『古事記』の編纂と着々と国家的事業をすすめる一方、天皇の称号と日本の国号を定めた。
 日本という国家および権力機構は、天皇がつくったのである。
 土台にあったのが国体で、国体が政体を擁して、国家となったのである。
「建武の新政」で足利尊氏らと後醍醐天皇を助け、尊氏が叛旗を翻したあとは南朝軍を統率、湊川の戦いで700人の小勢で数万の尊氏の軍勢に挑み、破れた楠木正成は「七生報国」を誓って、弟正季とともに自害した。
 七生報国の国は、空間的・世俗的な国家ではない。
 正成の国家は、歴史という時間軸と神性からなっている国体のことである。
 尊氏は、武家時代の到来を念頭に、正成を家臣に迎えようとしたが、正成は一顧だにしなかった。
 正成が七生報国を誓った国という概念は、権力構造としての国家ではなく、神性をおびた国体だったからである。
 水戸黄門こと徳川光圀は、正成終焉の地・湊川に墓石を建立、そこに自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した。
 封土や俸禄の代償として忠勤奉仕に励む武士の論理は打算で、俗世の利害に左右される。
 光圀公は、権力の走狗となる粗雑な武士に失望して、国体に殉じた楠木正成に武士の理想をもとめたのである。
 幕府や主君のあいだにあるのは契約で、建武の新政が失敗したのは、武士が恩賞に不満をもったからだった。
 利害や個人的栄達に心をうごかされる武士は、身命を捨てて、国体=神州をまもることはできない。
 楠木正成に日本精神を見た光圀の思想は、やがて、幕末の尊皇攘夷へと発展していく。

 ●大御心に反する天皇の声は「聞いてはならない」
 国家や法、制度は、現在的にして唯物的である。
 したがって、万人が敬意をいだく権威はそなわらない。
 権威は、歴史という時間的連続性に宿るものだからである。
 天皇が権威たりうるのは皇祖皇宗と一体化した歴史の体現者だからで、憲法上の象徴天皇として歴史から切り離されると権力構造の一部にすぎなくなってしまう。
 天皇陛下の今回のおことばやお気持ちが、はたして、皇祖皇宗の大御心に添っていたであろうか。
 陛下のお考えやおことばが大御心に反していたなら、葦津珍彦がいったように「聞いてはいけない」ということになる。
 天皇陛下が皇太子時代、家庭教師をつとめたヴァイニング夫人は、クエーカー教の正式会員で、アメリカ民主主義の信奉者であった。
 皇太子徳仁親王も、数年間、オックスフォード大学に留学されている。
 天皇陛下や皇太子殿下の個人的なお考えは、女系天皇容認とつたえられるが、皇位継承について、陛下や皇太子殿下からおことばをいただく必要はない。
 耳を傾けるべきは、日本書紀などの正史にもとづいて先人がくり返してきた不変の原理で、それが大御心である。
 皇祖皇宗は、女系天皇や皇位継承を法にゆだねる現行憲法をおゆるしにならないだろう。
 戦後、占領軍によって臣籍降下させられた11宮家をいまだ皇籍復帰論させられない現状を深く憂いてもおられる。
 それが、民の幸と国の繁栄を願う皇祖皇宗の遺訓たる大御心で、天皇陛下のおことばは、陛下の個人的なお考えを超えた歴史の意志でなければならない。
 日米開戦に反対した葦津珍彦が「天皇が大御心に反することを仰せになったら聞いてはならぬ」といったのは、今上天皇がひきつがれたのは、現世的権力ではなく、歴史的権威だったからである。

 ●大御心を背負って成り立つ権力の正統性
 大御心の添うことによって、一過性の権力に正統性がそなわる。
 それが、権威と権力の二元論で、国体護持は、権力者が負うべき最大の義務である。
 国体をまもるというということは、大御心をまもるということであって、政治家は、国体護持の義務を最大限に負わなければならない。
 ところが、現在、政治家は、天皇は憲法上の存在と言い放って、恥じるところがない。
 権威と権力は、並び立っているのではなく、大御心の下に幕府が開かれたことからわかるように、上下の関係にある。
 いくさの勝者、選挙の多数派にすぎない権力には、権威という正統性がそなわらず、権力が施政権を有する政治権力たりえない。
 戦国時代の群雄割拠は、それが原因で、武田信玄や織田信長が京をめざしたのは、天皇拝謁をもとめてのことだった。
 武田信玄が、上洛途上、病死して、天皇拝謁を実現した織田信長が、天下統一の号令を発して、100年以上にわたった戦国時代の幕が下ろされた。
 皇位を簒奪しようとした人物には、歴史上、弓削道鏡や平将門(桓武天皇の玄孫)、以仁王(後白河法皇の子)、足利義満らがあげられるが、平将門や以仁王は、崇神・応神・継体の新王朝と同様、皇統の男子相続者なので、皇位簒奪にはあたらない。
 万世一系を危うくしたのが、道鏡と義満で、かれらが新天皇や上皇(新天皇=足利義嗣)になっていれば、皇室の起源が神武天皇ではなくなっていた。
 明朝皇帝から「日本国王」として冊封を受けた義満は、皇位を簒奪することによって、日王として自身の地位をあげ、日本を明の属国にしようとした。
 義満急死は、四代将軍となった足利義持と公卿らによる暗殺だった可能性が高く、のちに、義嗣も義持に殺されている。
 皇位簒奪に失敗した道鏡が左遷(下野薬師寺造寺別当)されたのも、和気清麻呂の機転(宇佐八幡宮神託事件)によるもので、天皇の権威は、万世一系の維持という形でまもられてきたのである。

 
 

 
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月刊ベルダ8月号(2016年7月発売)より転載

 グローバリズムの崩壊と
 日本の独立


 ●グローバリズムと国家経済
 冷戦構造崩壊後、世界経済に2つの潮流がうまれた。
 一つは、アメリカを中心とするグローバリズムである。
 そして、もう一つは、中国やロシアなどの国家管理型の一国経済である。
 世界戦略と軌を一にする経済のグローバル化も国家管理型で、経済や金融が、外交や安全保障と同様、国家の管轄下におかれている。
 アメリカは、基軸通貨ドルによる国際金融資本の形成と世界スケールの経済展開で世界一の富裕国家の地位を維持し、中国は、共産党独裁にもとづく国家管理型の資本主義を完成させ、アメリカに次ぐ経済大国になった。
 ロシアも豊かな地下資源の輸出を中心に国家管理型の資本主義を強化させている。
 グローバリズムと一国主義のちがいがあるものの、米中ロが、経済に一応の成功を収めているのは、経済と国家戦略がリンクしているからで、それを端的にいいあらわしたことばが国益である。
 日本経済がかつて順調だったのは商道≠フ伝統で、商が道徳律や公共性の上に打ち立てられていた。
 日本経済には、かつて、公益という背骨がとおっていたのである。
 一方、資本家の利益に最大の価値をおく古典的資本主義は、銃が紙幣や商品に代わったにすぎない侵略主義で、権力とむすびついた植民地政策が、やがて帝国主義へと拡大していき、戦争の火種となった。
 侵略や戦争と表裏の関係にある経済は、国家の管理の下におかれるべきとしたのが、21世紀の新資本主義で、米中ロは、ハイエク(市場重視)とケインズ(公共投資)、フリードマン(マネーサプライ)を適宜に織り交ぜて、国家経済という新しい形態をつくりだした。

 ●グローバリズムの終焉
 グローバリズムもその形態の一つだが、現在、世界で、グローバリズムの終焉を印象づける出来事がつぎつぎおきている。
 一つは「日本も原爆をもったほうがよい」などの過激な発言をくり返すドナルド・トランプが2016年アメリカ大統領選挙(11月8日一般投票/12月中旬選挙人投票)の共和党候補にきまったことである。
 孤立主義のトランプが大統領に当選すれば、日米安保条約からTPPにいたるこれまでの日米関係がすべて見直される可能性がでてくる。
 二つ目が、EU離脱を選択したイギリスの国民投票である。
 小差でも、多数派が国民の総意となる国民投票では、国家主権が素人判断と気まぐれによって液状化現象をおこしてしまいかねない。 
 君主制を打倒、あるいは形骸化させて樹立された民主主義は、ファシズム化とテロリズム、衆愚政治という三つの欠陥をもっている。
 民主主義政権が、これまで大過なくやってこられたのは、議会をあわせもったからで、民主主義は、普通選挙法と議会(間接民主主義)のことといってよいくらいである。
 三つ目が、イラク戦争に参戦したブレア政権を批判するイギリスの独立調査委員会(チルコット委員会)の報告書である。
 この三つは、それぞれ別の出来事のように見えるが、そうではない。
 そこに見えてくるのは、新自由主義と民主主義を核としてきたグローバリズムの失敗と終焉である。
 トランプの孤立主義もイギリスのEU離脱も反グローバリズムで、アメリカの戦争にたいする公然たる批判も、その流れにそっている。
 英米が、一国主義へ舵を切ろうとしているのは、グローバリズムや新自由主義が中間層の貧困化≠ニいう落とし穴にはまりこんだからである。

 ●グローバリズムは掠奪型経済
 アメリカは、国際金融と軍産複合体経済を世界に展開して、国際社会の盟主として君臨してきた。
 グローバリズムは、アメリカが国是とする新自由主義と民主主義の世界化≠ニいうことである。
したがって、経済では、富の偏在と格差化を世界中におしひろげ、政治面では戦争とテロをうみださずにいなかった。
 民主化は、非キリスト教国家や伝統国家とのあいだに深刻な摩擦と混乱をひきおこすからである。
 アメリカが、世界一の軍事力を背景に、民主化と新自由主義の世界戦略をおしすすめてきたのは、自国の利益のためであって、フセインやカダフィを倒したのは、二人の独裁者が異教徒にして反米だったからである。
 それがグローバリズムの正体で、ヒト・モノ・カネの自由化や政治や経済の国家間障壁を撤廃するグローバリゼーションとは別物である。
 グローバリズムは、対外的に、帝国主義・侵略主義・覇権主義という形をとる。
 グローバリゼーションは、サッチャーやレーガン政権がはじめた新自由主義の政策で、民営化や規制緩和、大幅減税のほか金融ビッグバンや外資導入をすすめる一方、社会保障制度や被雇用者の利益をまもる諸制度を後退させた。
 今回、英米でおきているのは、中間者層の叛乱で、グローバリズムと新自由主義に「ノー」がつきつけられているのである。
 アメリカの伝統というべき孤立主義(モンロー主義)は、他国に依存せずともやっていける豊かな地下資源・工業力・農業生産力をもっていたからである。
 だが、西洋の経済は、掠奪型なので、孤立主義をとることができない。
 農業の過剰生産は海外の市場を必要とし、資本は利潤をもとめて国際市場をかけめぐる。
「暗黒の木曜日」(1929年10月24日)にはじまる大恐慌は、掠奪経済の破綻で、原因は、オートメーション化や農業の機械化によって資本家や大農場主が巨利をえる一方、工場や農場から締め出された国民が貧困化して、資本主義経済が立ち行かなくなったからだった。
 代わって立案された社会主義的な計画経済(ニューディール政策)も失敗に終わり、アメリカは、掠奪経済のツケを戦争で解消せざるをえなくなった。
 日米開戦後、アメリカ経済は、欧州から逃れてきたユダヤ資本をテコに軍需産業をフル操業させ、みるみる立ち直り、終戦後、ついに世界覇権を握る。

 ●グローバリズムはテロと戦争の温床
 イギリスの独立調査委員会(チルコット委員会)が、イラク戦争に参戦したブレア政権を批判する報告書を発表して、英国内のみならず、世界的な論議をまきおこしている。
 同報告書は「イラク戦争はひどい結果をもたらした海外介入で、その失敗は現在の世界情勢に深刻な影響をおよぼした」とも指摘している。
 フセインやカダフィらの独裁者を倒した結果、過激派組織「イスラム国(ISIL)」がうまれ、世界中の都市がテロの脅威に晒されるようになったというのである。
 中東のテロリズム(宗教戦争)が封印されてきたのは、フセインやカダフィらの独裁者が力でおさえこんでいたからで、軍事独裁政権が中東的秩序だったことは、イラクやリビアの民主化(ブッシュ大統領開戦演説)が武器と弾薬の民主化、テロ自由化の引き金になったことからも明らかだろう。
 アメリカは、戦後、20回以上、中規模以上の軍事行動をおこし、1000万人以上を殺戮しているが、9割が空爆による民間人の死者である。
 戦略的に成功した軍事行動は、戦後の日本占領(1945年)だけで、朝鮮戦争(1950年)とベトナム戦争(1961年)では敗北を喫し、アジアに対米敵対勢力をつくりあげただけだった。
 アメリカのグローバリズムが失敗したのは、国際交易や通商はグローバル化できても、文化や歴史、民族のグローバル化が不可能なことに気づかなかったか、非アメリカ的な価値は、インディアンやビキニ環礁の珊瑚礁にように、絶滅させても痛痒がないからである。
 アメリカの戦争は、西ヨーロッパのキリスト教諸国がイスラム教諸国に謀略のかぎりをつくした十字軍と本質的にかわるところがない。
 湾岸戦争(1991年)、アフガニスタン戦争(2001年)、イラク戦争(2003年)は、近代兵器の壮大なる実験場で、湾岸戦争では、イラク側の戦死者数15万人にたいして、アメリカ側の戦死者は、0、07パーセントの114人にとどまった。
 グローバリズムに代わって一国主義(孤立主義)が浮上してきたのは、グローバリズムは、結局貧しき帝国主義≠ノすぎなかったからである。
 孤立主義が拠って立つのがナショナリズムと国益主義である。
 中間層の復活をめざす社会保障の充実や被雇用者の保護政策、規制強化は、一国(孤立)主義に依存せざるをえないからである。
 イギリスのEU離脱とアメリカのグローバル経済からの撤退(トランプ・クリントンともTPP不参加を表明)によって、世界経済は、今後、孤立主義の方向にむかうことになる。

 ●対米従属/対日支配もグローバリズム 
 世界の趨勢は、グローバリズムから一国主義への転換である。
 だが、戦後70年、グローバリズムと左翼インターナショナルにどっぷり漬かってきた日本が、一国主義に立った自存自衛の国家運営ができるかといえば、あやしい話である。
 日本が対米従属から抜けられず、主権国家としてふるまえないのは、憲法9条や国家主権の放棄(国民主権)、民主主義などのグローバリズム(世界標準)に縛られているからである。
 そこには、日本独自の価値観や歴史的必然性、民族の智恵が一片も宿っていない。
 日本が他国から攻められても抵抗しないという憲法9条が、戦勝国アメリカからおしつけられたグローバリズムなら、国連憲章や日米安保にもとづく個別的・集団的自衛権もまたグローバリズムで、戦後の日本は、国家防衛という局面において、国益という視点に立った自前の安全保障を構想したことが一度もなかったのである。
 世界がグローバリズムから孤立主義に転換しても、日本は、主権をもった独立国家として他の強国と肩を並べることはできない。
 独立国家としての誇りも気構えもなく、強国にたいする手下根性≠ェ骨がらみになっているからである。

 ●グローバリズムに依存している日本の安全保障
 日本が、アメリカの核の傘≠ノまもられているという説は、妄想のきわみである。
 日本が中国や北朝鮮から核ミサイルを打ち込まれた場合、アメリカが、自国被爆のリスクを冒して、中・韓に報復的核攻撃をおこなう可能性は万に一つもない。
 核による「相互確証破壊」は、当事国同士の共倒れ≠フ論理で、第三国がこれに首をつっこむという仮定はもともとありえないのだ。
 71年のキッシンジャーと周恩来会談では「米国の真の友人は中国」「日本の経済大国化は米国の失策」「日本の核不所持は米中共同の利益」「日米安保条約は日本を封じこめるビンのフタのようなもの」などの発言が外交文書に残っており、72年のニクソンと周恩来会談でも同様の確認をおこない、のちにニクソンは「米国は中国というフランケンシュタインをつくってしまった」と回顧している。
 71年ジョンソン国務次官がニクソン大統領へ宛てた文書で日米関係をこう定義づけている。
「在日米軍は日本本土を防衛するためではなく、韓国・台湾・アセアンの戦略的防衛のため日本に駐留している」
 ところが日本では、国防や国益、国家意識さえアメリカ任せで、東大教授グループらまでが、アメリカ様がつくってくれた憲法9条のおかげで日本は平和などと言い散らしてヘラヘラしている。
「日本の防衛は日本の責任」「日本も核をもつべき」というトランプの発言は、暴論どころか、現在の日本にとって、まっとうな正論だったのである。

 ●日本の独立を妨げている占領基本法
 戦後70年、日本がアメリカにおとなしく追従してきたのは、敗戦とGHQによる占領、かつての米ソ冷戦構造、日米安保の片務性、核の傘、偵察衛星やレーダー網など軍事情報の依存と原因はかならずしも単純ではないが、最大の原因は憲法である。
 戦後処理だった占領基本法の下では、独自の外交も防衛も成立しない。
 なにしろ、国家主権が否定(国民主権・9条)されているので、独立国家として、政治力のふるいようがないのである。
 独自のプランを立て、みずからの責任で、国家の権利や国益をもとめるという独立国家としてのあたりまえの政治機能が失われたのはそのせいである。
 かつて、日本は、媚中・親韓・反日の旧民主党に政権をあたえ、国家を危機にさらした。
 現在も、日本共産党をふくめた野党4党連合がめざすのは、国家転覆で、「防衛費は人を殺す予算(共産・藤野政策委員長/NHK番組)」などと公言する政党が政権をとって、防衛大臣にでもなったら、自爆テロである。
 戦後70年、アメリカやソ連、中国の顔色ばかり見てきた日本の政治は、国軍保持・交戦権を禁じる憲法の下で、独立国家としての機能も能力も放棄したままである。
 現憲法がおしつけ憲法であるとやら、ヤルタ・ポツダム体制打破とやらというのは笑止千万である。
 自主憲法をもとうとしなかったのも、YP体制のなかで惰眠をむさぼってきたのも、朝日新聞や左翼に煽られた日本人であって、だれのせいでもないからである。
 国家防衛の最大の敵は、70年前の戦争を謝罪して悦に入り、国益などといおうものなら、右翼や国家主義者と罵詈雑言を浴びせかけるのが左翼国際派で、全方位・資源外交で対米独立路線をめざした田中角栄をアメリカや全マスコミといっしょに叩き潰したのもかれらだった。
 グローバリズムや孤立主義などという前に、日本は、一人前の国家にならなければならないのである。

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 月刊ベルダ7月号(2016年6月発売)より転載

 国民常識としての天皇論

●文化大革命だった公職追放指令
 日本が伝統国家であることを誇りに思っている日本人は、少数派だろう。
それどころか、国民の大半が、天皇や国体、祭祀などの国家的伝統に無関心なのが現状ではあるまいか。
 戦後、GHQが国史や国教、言語、法体系を破壊しようとしたのは、戦勝国の常套的なふるまいで、これには世界史上、多くの前例がある。
 国字のローマ字化は、識字率が欧米をはるかにこえていたので実行されることがなく、神道指令も、ブルーノ・ビッター神父(駐日ローマ法王代表バチカン公使代理)の反対によって、靖国神社が焼却を免れ、指令自体も昭和27年の講和条約によって失効した。
 しかし、国史と諸法の変更(新憲法施行など)は「ポツダム宣言」違反だったにもかかわらず、何の抵抗もうけず実行に移され、講和条約締結後も、日本を縛りつづけている。
 その背後ではたらいたのが公職追放指令(昭和22年)というGHQの悪智恵だった。
 20万人以上が対象になった同指令は、大学や学会、教育分野、マスコミから保守層を一掃して、左派勢力や共産党の党員・シンパに入れ替える文化革命の役割をはたした。
 GHQの亡国作戦をひきついだのが、東大・朝日・岩波を拠点に日本の左傾化をおしすすめた進歩的文化人や革新官僚、インテリ左翼だった。
 やり方は巧妙で、宗教法人法には神道指令の効力を温存させ、GHQ憲法には平和憲法、9条には平和主義の理論付けをおこなって、占領基本法の恒久化をはかった。

 ●悪の根源とされた国史=皇国史観
 熾烈をきわめたのが国史の否定で、エリート左翼らが皇国史観の排除に血道を上げたのは「歴史を失った民族は滅びる(トインビー)」の指摘が核心をついていたからで、かれらには、国史の抹殺が、レーニンの敗戦革命とGHQの亡国戦略に並ぶ重大テーゼだったのである。
戦後、皇国史観を悪の根源としてきた歳月が70年をこえ、高齢者までが皇国史観と聞いただけで眉をひそめる風潮になった。
 皇国史観のもとで戦争計画が練られたというのが理由だが、これは、共産党のプロパガンダで、延長線上に、天皇のもとで戦争がおこなわれたという論理が用意されている。
 天皇や皇国史観が戦争に利用されたというのなら、批判されるべきは、軍部と天皇を憲法上の元首・大元帥に戴いた明治憲法であって、天皇や皇国史観ではなかったはずである。
 だが、どこからも、国史=皇国史観を悪の根源としてきた左翼のデマゴギーを打ち破る正論がでてこず、国史の正統性をうったえる論客も出現しなかった。
 戦後、産経新聞でさえ社説で「戦前の皇国史観への回帰を目指すのは論外」とのべるほど「皇国史観=悪」の刷り込みがいきわたった結果、歴史を喪失した国は滅びるというトインビー的危機が、戦後から現在まで延々とひきずられてきた。

 ●民主主義神話と「国民の常識」
 絶対悪の皇国史観の対極におかれたのが唯物史観と民主主義だった。
 民主主義は、闘争史観の産物で、左派が人民民主主義(共産主義)へ、右派が議会民主義(共和主義)へと枝分かれしたが、根っこは同じである。
 その中間にあったのが、ナチスの国家社会主義ドイツ労働者党で、ヒトラーが独裁者になったのは、普通選挙法と民主主義的な手続きによるものだった。
 戦後の日本人は、民主主義を絶対真理として、崇めてやまない。
 マスコミや言論界、教育界らが民主主義を人類至上の真実として吹聴してきたからで、共産党が見抜いたように、国民は無知で愚かだったのである。
 左翼が民主主義をもちあげてきたのは、いつでも、人民独裁へ変更できるからで、日本共産党が暴力 革命から議会内革命に路線を変更した理由もそこにある。
 妨害になるのは、多数決でどうにでもなる議会などの政体ではなく、多数決が通用しない国体という歴史的な文化構造である。
 戦後、革命攻勢を防いできたのは、支配階級でもインテリ層でもなく、敗戦の痛手に苦しみながら、終戦直後のアンケートで、90パーセント以上が天皇を支持した一般国民だった。
 国体を支えているのは、政治やイデオロギーではなく、「国民の常識」だったところに天皇問題の本質があるだろう。
 文化防衛の要は「国民の常識」にあり、左翼・反日の標的がその破壊にあったのは言うを俟たない。

「天皇の日本史(上下巻)」「天皇問題」などいくつか天皇に関する著作があることから、講演や勉強会などで、天皇について、多くの質問をいただく。
本ブログでも、多くの方々から、ご意見や質問が寄せられている。
 そのなかから、「国民の常識」にふさわしい応答をえらんで列記してみよう。
 誌面に限りがあるので、要点だけになるが、ご容赦をねがいたい。

1、国民主権と天皇主権
 明治憲法に主権の文字はなく、天皇主権は、戦後、国民主権に合わせてつくりだされた造語である。
主権(ソブリンティ)は、ヨーロッパの絶対王権(君主権)のことである。
 君主を倒したのち、君主権が国民の手に移ったという解釈から国民主権という観念がうまれたが、国民は国家を運営できないので、これが国家に委託されて国家主権となった。
 国民主権は、国家主権を正統化する便法にすぎず、実体があるわけではない。
 もともと、日本には、主権という概念はなく、最高権力である幕府も朝廷から施政権をあずかっただけである。
 君民一体において、天皇主権があったというなら、事実上、国民主権のことであって、戦後、主権が天皇から国民に移ったという事実はなく、わが国にはそのような後付けの理屈が成り立つ風土がない。
 終戦直後のアンケートで、90パーセントもの日本人が天皇を支持し、国民の大半が、戦犯釈放の署名をおこなったのは、日本が、君民一体・臣民一体の国だったからで、日本人のだれも、主権などという外来語には無関心だったのである。

2、万世一系と天皇家
 万世一系は、神武天皇以来の男系血統で、これを木の幹にたとえると、天皇家は枝の一つで、戦後、臣籍降下された11家系もそれぞれ枝である。
 歴史上、皇統が絶えることがなかったのは、一本の枝で男系が絶えると元の幹に戻って、新たな枝から男系相続をもとめたからである。
 26代継体天皇は、25代武烈天皇に男子がなかったため、別の枝(応神天皇系5世)から天皇に就いたが、このとき、仲哀天皇系(5世倭彦王)という選択肢もあった。
 南北朝の両統迭立は、89代後深草天皇(持明院統)と90代亀山天皇(大覚寺統)の父親が88代後嵯峨天皇なので、どちらが皇位についても男系継承(万世一系)は途切れない。
 女系継承の場合、女帝の皇子が皇位に就くと、天皇の血統が、別の幹に移るので、万世一系が途切れる。
 皇室の永続性には、旧皇族の皇籍復帰の道しか残されていないが、自民党までも皇室=天皇家に拘泥して、女系天皇をいいだす始末である。
天皇家と皇室、万世一系のちがいをわきまえなければ、久遠なる国体の護持は不可能なのである。

3、皇国史観と教科書日本史
 国史を皇国史観として排除してきたところにわが国の歴史観の異様さがある。
 皇国史観とは、『日本書紀』『古事記』から北畠親房の『神皇正統記』、頼山陽の『日本外史』、徳川光圀の『大日本史』、神話にいたる国史のすべてをふくむ。
 皇国史観排除の音頭をとったのが東大(歴史学研究会)と京大(日本史研究会)のマルクス学者らで、そこから自虐史観という世界の非常識≠ェ一世を風靡して、謝罪談話や土下座外交へつながっていった。
 左翼陣営が国史を目の敵にしてきたのは、民主主義戦争革命を完遂しようというマルクス主義者にとって、伝統=国史が最大の攻略目標だったからである。
 戦後、国史否定論が過激になったのには、2つの理由がある。
 一つは共産主義革命で、もう一つは大東亜戦争の敗戦である。
 大東亜戦争は、事実上、伝統(皇国思想)と革命(民主主義)の戦争だった。
 民主主義は、革命と戦争のスローガンで、フランス革命やロシア革命、アメリカ独立戦争、中国革命、米ソが手をむすんだ第二次世界大戦まで、謳われたのは、革命と同様、伝統的体制の打倒だった。
 世界を戦争に駆り立て、暴力革命をおこし、延べ数億人もの犠牲者をだしたのは、原爆で大東亜共栄圏思想を打ち砕いた民主主義という革命思想だったのである。
 日本は戦争に負けたが、伝統的体制を維持して、現在に至っている。
 皇国史観否定と民主主義賛美は、革命と戦争の燃えカスなのである。

4、象徴天皇と天皇元首
 マッカーサーが象徴ということばをもちいたのは、イギリス国王を英連邦の象徴と規定したウェストミンスター憲章(1931年)に倣ったものと思われる。
 イギリス国王は、名誉革命によって政治的実権を失い、首相の指名権などの儀礼的・形式的な権限をもつにすぎない非政治的な存在になった。
 それが「君臨すれども統治せず」の立憲君主制で、国王が国家の象徴となる近代王制のモデルとなった。
 日本で、中世以降、天皇が政治的権力をもたなかったのは、それまで、一体だった権威(祭祀王)と権力(大王)が分化したためで、権力が一元化されていたヨーロッパの王制とは根本的な原理が異なる。
 自民党の改憲案に「天皇元首」が謳われている。
 歴史をふり返って、天皇が政治権力をもったのは、天武天皇が最後で、のちは摂政や院政、建武の新政などの揺り戻しがあったものの、権威(天皇)と権力(幕府)の二元構造によって、千年の秩序がたもたれてきた。
 天皇元首は、明治政府が権力の絶対化をはかった工作で、戊辰戦争から日清・日露戦争、大東亜戦争の遂行には、天皇の権威を権力へとりこむ必要があった。
それが、1945年の国体の危機につながった。
 マッカーサーの判断で日本は亡国を免れて、天皇は象徴となられたが、天皇はもともと非政治的な存在で、ヨーロッパは国家、日本は国体というちがいはあるものの、古来、象徴であった。
 国体の象徴として、国民の敬愛、世界の尊敬を一身にうけている天皇を憲法という権力構造の枠内におさめようという愚論が、与党の改憲案に盛られていることに驚愕するのである。

5、宮中祭祀と伝統国家
 当初、GHQやアメリカ国務省は、占領政策を施行するにあたって、天皇廃位の方針で臨んだ。
 それを防いだのが昭和天皇のマッカーサー訪問と、日本国民の90%が天皇を支持したアンケート結果で、これを契機に、GHQは、天皇を日本統治に利用する方向へ舵を切った。
 GHQの民主化計画は、革命憲法をおしつけ、天皇を廃止することに主眼があった。
 それが、旧皇室典範の破棄(憲法への繰り込み)と皇室の自然消滅を図った11宮家の臣籍降下で、宮中祭祀が国事行為から外されたのは、GHQの意図を読んだ法官僚らの迎合で、宮中祭祀が私的な宗教行事にされてしまった。
 神話や言語、習俗や文化を共有する共同体の象徴が祭祀で、古来より、日本人は、祭祀をとおしてクニという観念を育み、まもってきた。
 天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈る宮中祭祀は、神社で豊作や無事息災を祈る民の祈願とつうじあって、国体という祭祀共同体の背骨となって、現在、日本を伝統国家あらしめている。
 憲法7条10号(国事行為/儀式を行ふこと)に宮中祭祀を謳って、日本が祭祀国家であることを内外に宣する必要があるだろう。

6、信教の自由と政教分離
 憲法の「信教の自由」「政教分離」は、GHQが国教である神道を標的にしたもので、個人の自由の範疇にある宗教条項に「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法第20条3項)「(宗教活動にたいする)公の財産の支出や利用の制限」(第89条)とあるのは、人権条項を超えた国政権への干渉にほかならない。
 皇室の財産を取り上げ、重税をかけ、国庫や政治的な補助を断とうとしたのは、旧皇室典範の破棄や11宮家の臣籍降下と同様、皇室の自然消滅を目的とした計略で、憲法改正案には、当然、第20条3項と第89条の撤回、宮家の皇籍復帰が盛り込まれていなければならない。
 アメリカでも信教の自由や政教分離原則が憲法で保障されているが、これは、内輪もめが絶えないキリスト教会派の法的平等を約束したもので、キリスト教は見えない国教≠ニして国民的良心や道徳の土台になっている。
 キリスト教の見えない国教≠ヘ、信教の自由を保障していた明治憲法下で、神道が仏教やキリスト教などと異なる国民道徳や民族文化とされてきたことと同じ構造である。
 現在、信教の自由は、仏教やキリスト教信者、反日主義者による見えない国教=神道と国体≠ヨの攻撃に利用されているだけある。
 アメリカで、国民性の拠り所となっているゴッドや聖書を憲法違反としたら暴動がおきるだろう。

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 月刊ベルダ6月号(2016年5月発売)より転載

 日本文明としての神道と天皇

 ●精神分裂症″痩ニとなった日本
 日本が伝統国家であるという歴史的自覚は、現在、ないにひとしい。
 民族的自尊心も誇りもない薄っぺらな日本人がふえたのはそのせいだろう。
 元凶は、歴史教育と憲法である。
 戦後、左翼に占領された歴史学会と教育界・日教組は、皇国史観を目に敵にして、日本史を唯物史観に書き換えた。
 唯物史観は、権力史でもあって、絶対王権(専制政治)が人民に打倒されて近代国家が誕生するという架空の物語である。
 唯物史観の土台となったのが啓蒙主義で、マルクスは、国家は人工的につくりあげられるというルソーの社会契約説を借りて、共産主義革命という政治的オカルトを編み出した。
 三つの社会契約説のうち、イギリス革命はホッブス、フランス革命はルソー、アメリカ革命がロックに依拠し、共産主義革命はマルクス主義に立っている。
 イギリスが保守主義へ反転したのは「万人の戦争」を唱えたホッブスが国家を必要悪とみとめたからだが、ルソーやロック、マルクスは、伝統国家を否定して人民政府を主張した。
 これが共和主義で、米仏を筆頭に、世界の先進国のなかで、共和制をとっていない国家は、唯一、日本だけである。
 日本では、革命はおきなかったが、共和制国家連合とたたかった世界戦争に負けた。
 そして、共和制の憲法をおしつけられた。
 戦後の日本は、伝統国家でありながら、憲法だけが共和制という一種の精神分裂症″痩ニとなったのである。

 ●象徴の力≠ニしての祭祀
 西洋の思想は、正しいものは一つしかないという一元論である。
 一元論が一神教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)にもとづいているのはいうまでもない。
 共和制国家の本質も一元論で、君主に代わって人民が絶対権力をもつのが民主主義である。
 君主が人民に代わっても、構造は同じ一元論で、これを法典化したのが憲法である。
 伝統国家に踏みとどまったイギリスが憲法をもたない理由は、慣例法を民主主義に優先させたからで、チャーチルは、民主主義は独裁政治よりマシなだけの俗物とうそぶいたものである。
 一元論の西洋では、善悪や正不正、適否などの基準のもとで、一方を切り捨てる。
 これは、闘争と淘汰の論理で、ユーラシア大陸では、すさまじい闘争の果てに多くの王国や民族、文化がすがたを消した。
 ダーウインの適者生存説も一元論だが、価値や文化の多様性をささえているのは、競争原理ではなく、共存原理の棲み分け理論(今西錦司)≠ナ、多元論である。
 ヨーロッパも、キリスト教以前は、多元論的な世界だった。
 ギリシャ神話は、日本の神話と瓜二つで、模倣説もあるほどである。
 日本は、神話を土台にした祭祀国家で、ギリシャで祭祀にあたるのが演劇である。
 ギリシャの演劇にも、日本の神話と同様、悲劇と喜劇があって、女神が身を隠して世界が暗闇につつまれるシーンは、天照大神の天岩戸隠れと女神デメテルの隠遁が共通している。
 日本の神話には、天岩戸の前でアメノウズメが滑稽なダンスを踊って大騒ぎをするように、祭祀につうじる演劇性もみとめられる。
 多元論や多神教では、異質なものが、祭祀や演劇によって、一つにまとめられる。
 それが象徴の力≠ナ、祭祀が、永遠の国体という抽象概念をさししめしている。
 三島由紀夫が天皇と祭祀を重ね見たのは、万世一系という歴史的抽象概念を象徴するのが祭祀だからで、天皇の権威は、高天原との契にあって、世俗とは隔絶している。

 ●権威の不在が招いた暗黒の中世
 一元論や一神教は、世俗の論理で、決着をつけるのは、暴力である。
 暴力革命や易姓革命では、王族の血統を断つために根切り(皆殺し)≠ェおこなわれ、フランス革命やロシア革命では数万人の貴族が虐殺された。
 一元論において、敗者や反体制者は、生きることがゆるされない。
 それが暗黒の中世の正体で、絶対王政の暴虐とキリスト教会による異端裁判など、目を覆いたくなる残虐行為が荒れ狂った。
 日本では、後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗と南北朝の対立、足利尊氏の室町幕府が滅亡するまで、応仁の乱や下克上の戦国時代を挟んだ約240年が、暗黒の中世にあたる。
キリスト教によって、古代ローマの多元的な文化や秩序が破壊されていったように、この時期、日本では、儒教など外来文化の影響によって、多神教的な秩序が失われ、天皇中心の神話的秩序が崩壊しつつあった。
 前触れとなったのが後鳥羽上皇による承久の乱である。
後鳥羽上皇は、乱をおこすにあたって、諸国の御家人、守護、地頭らに幕府(北条義時)追討の院宣を発している。
 院宣は、天皇の宣旨に相当する公文書で、歴史上、朝廷が施政権を委託した権力実体に宣戦布告したケースは、承久の乱だけである。
朝廷側は、「朝敵となった以上、義時に参じる勢力は千人もいないだろう」と士気が大いに上がったという。
ところが、後鳥羽の軍勢は、わずか一か月で、義時の軍勢に打ち負かされる。
 承久の乱の戦後処理はきびしいもので、後鳥羽ら3上皇は流罪、仲恭天皇が退位させられたばかりか、膨大な荘園を没収され、朝廷は、京都守護に代わる幕府機関である六波羅探題の管理下に置かれるのである。
 このとき、皇位継承権など朝廷の専権事項の多くが幕府へ移った。
 これがのちに「建武の新政」や「南北朝の対立」へつながってゆく。
 皇位継承権を握られた朝廷が、権威という神話的機能を失い、幕府と政権を争う世俗的権力へと下降してくるのである。

 ●権威と権力のあいだで揺れうごいた朝廷
 日本の中世は、王朝から武家へと政治体制がきりかわった長すぎた転換期といえる。
権威(祭祀王)と権力(大王)を併せもった天武天皇の律令体制は、太政大臣を世襲する藤原一族の摂関政治によって大きな変化をとげた。
 太政大臣は、朝廷における最高官職で、藤原氏は、その地位を利用して天皇と外戚関係をむすび、300年にわたって摂政・関白をつとめ、政治の実権を握るのである。
 摂関政治は、関白藤原道通の三女が入内した後冷泉天皇が子をもうけることなく崩御し、のちに藤原家と外戚関係のない後三条天皇が即位したため、以後、衰退してゆく。
 代わって登場したのが院政で、白河(72代)・(鳥羽(74代)、後白河(77代)・後鳥羽(82代)らの太上天皇による政治が100年近くもつづく。
 天皇と上皇の対立に平氏と源氏が動員された保元の乱と、ともに勝者となった平清盛が源義朝を討った平治の乱によって武家の時代が到来する。
 武家政権を樹立した平清盛は、摂関政治の藤原一族にならって、外戚政治をとるが、源義仲がその平氏を攻めて京都に入り、九州へ逃げた平氏が壇ノ浦で滅びると、朝廷は、武家政権に権力の正統性を授ける権威へと変容していく。
 朝廷(=権威)と幕府(=権力)による権力構造の二元化ができあがったのが鎌倉時代である。
朝廷から征夷大将軍≠フ官位を授かった鎌倉幕府は、全国に守護・地頭を置き、施政権を行使する一方、皇位継承権や祭祀権・人事権(叙任権)、公家や寺社の裁判権、寺社造営のための徴税権など朝廷の専権事項には干渉しなかった。
 この二元論を破綻させたのが、後鳥羽上皇による承久の乱だったのである。

 ●儒教思想に染まっていた建武の新政
 承久の乱の前年、新古今集の歌人で、朝廷、貴族、幕府ともつながりが深い天台座主、慈円の「愚管抄」に引用された百王説≠ェ朝廷に大きな動揺をあたえる。
 中国の僧、宝誌の「野馬台詩」によると、日本の皇統は百代で断絶するというのである。
百王説は、天命という上天信仰にもとづく儒教的な一元論で、易姓革命が成立しない万世一系の神話的秩序と真っ向から対立する。
 後醍醐天皇の建武の新政が失敗に終わったのは、武家政治の封建的君主制と律令制の王土王民思想が相容れなかったからだけではない。
 建武の新政は、権威と権力の一体化という儒教的な一元論に陥っていたのである。
 楠木正成は、後醍醐天皇に、尊氏との和睦を進言したが、聞き入れられず、湊川の決戦で「七生報国」のことばを残して散った。
 正成は、武家政治の時代が到来していたこと、平安時代の王朝政治をもとめた後醍醐天皇の政治が時代錯誤であることを知っていた。
 武家社会は、禄(土地)の安堵と身分の保証をしてくれる幕府や将軍にたいする御恩の代償として、命を惜しまない奉公という封建思想の上に成り立っている。
 正成の報国は、領土(政体)ではなく、国体で、奉公の思想は、天皇を敬う勤皇精神にゆきつく。
 正成は、後醍醐天皇に国体と君主を重ね見て、忠君愛国に殉じたのである。
 後醍醐天皇は儒教へ傾き、勤皇精神の拠り処を放棄して、足利尊氏を朝敵としてしまったのである。

 ●皇位簒奪を謀った義満の野望
 朝敵ということばは、歴史上、便宜的にもちいられてきた。
朝敵と呼ばれたのは、足利尊氏と信長・家康連合軍に滅ぼされた武田勝頼、禁門の変で京都御所に発砲した長州藩、そして、薩長とたたかった(鳥羽・伏見の戦)15代将軍徳川慶喜である。
 戊辰戦争では、会津藩に遺恨をもつ長州藩が同藩に朝敵の汚名を着せ、冷酷非道の攻撃をくわえてもいる。
 朝敵は、本来、朝廷(天皇)に反逆する一勢力という意味にとどまらない。
 国体への反逆が朝敵で、天皇の権威は、万世一系という歴史のなかに宿っている。
 その意味で、最大の朝敵は、皇位簒奪を謀った道鏡と足利義満ということになる。
 皇位の男系相続に別の血統が割って入れば、天照大神にはじまる皇祖皇宗の神話が消滅し、新天皇の祖先が、天皇歴代の祖である神武天皇ではなく、どこのだれともわからぬ入り婿≠フ祖先になってしまう。
 女帝の孝謙天皇の寵愛をえて、太政大臣から法王、さらに、天皇の譲位を望んだ道鏡の野望は、死刑を覚悟で「道鏡除くべし」の神意を言上した和気清麻呂によって阻止されたが、足利義満の皇位簒奪を防いだのは、急死という突発的な事件だった。
 武家の最高位である征夷大将軍と公家の最高位である太政大臣の位階にくわえて、准三后という皇族待遇を与えられた義満は、明王朝への朝貢をとおして東アジア世界における公式な『日本国王』としての地位を手に入れ、勘合貿易(日明貿易)の莫大な利益を独占する大富豪でもあった。
 義満は、国家の祭祀・儀礼の場を朝廷から北山第に移管して祭祀権や叙任権(人事権)、高位聖職者(座主・門跡)の任命権を奪い、天皇の『綸旨』や上皇の『院宣』と同等の効力をもつ『御判御教書』を乱発して、武家と公家の両方を支配した。
義満の功績とされるのが、大内義弘を仲介させた『南北朝合一(持明院統と大覚寺統の両統迭立)』である。
 義満は、50年にわたって膠着状態にあった南北朝の対立を両統迭立の復活という形で解決したが、約束(明徳の和約)をまもる気などなかった。
 南朝の後亀山天皇は、義満の謀略にかかって、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位したのである。
 相国寺七重大塔の供養で、関白以下の公卿・公家・高僧から土下座で迎えられる地位にまで登りつめた義満が手にしていないのは皇位だけだった。
 正室・日野康子を後小松天皇の准母に仕立て、名目上の准上皇となった義満は、四男の足利義嗣を天皇にするべく、宮中において親王として元服の儀式をとりおこない、あとは、後小松天皇から義嗣への禅譲を待つだけというところで、突如、落命するのである。

 ●戦国時代の幕を引いた織田信長
 室町時代の朝廷は、経済的にも逼迫し、後土御門天皇(103代/室町幕府将軍11代足利義澄)が崩御された際は、葬儀の費用がなく、遺体が40日も御所におかれたままだったという。
 足利時代が戦国時代と重なるのは、朝廷の権威ではなく、権謀術数によって政権を維持しようとしたからである。
 足利長期政権の土台をつくったのも義満だった。
 義満の内政手腕は、狡知に長けたもので、同族対立や反乱の煽動、領地争い(分郡守護制度)を誘導して、斯波・細川・畠山の御三家(三管領)や山名ら有力守護大名の潰し合いを工作し、これが義満から三代下った足利義教に時代に京の都を焼け野原にする応仁の乱へ発展する。
 この乱では、全国の守護大名が細川勝元の東軍と山名宗全の西軍に分かれてたたかい、そのまま、戦国時代へなだれこんでゆく。
 戦国時代の幕を引いたのが織田信長だった。
 1568年、信長は、正親町天皇の保護という大義名分のもとで京都を制圧した。
 信長は、逼迫していた朝廷の財政を立て直し、祭祀の復活を援けた。
 そして、正親町天皇に勅命をもとめ、朝倉義景・浅井長政との戦い、足利義昭との戦い、石山本願寺との戦いの講和させている。
 信長は、高倉天皇(80代)の外戚となって勢力を誇った平清盛ではなく、天皇を立て、天皇の権威をもって乱を鎮めた源頼朝の方法をとったのである。
 占領期の日本統治に昭和天皇を利用したマッカーサーのやり方も同様である。
 信長が天皇の地位を狙っていたという説がある。
 ありえない話である。
 信長の政治基盤は、たびたび、正親町天皇に講和の仲介をもとめたように、けっして磐石なものではなく、天皇の権威なくして、権力に正統性がそなわらないことも知っていた。
 信長の薫陶をうけた秀吉や家康もまた、徹底した尊王政策をとって、権力の基礎を固めた。
 朝廷と幕府による権威と権力の二元化は、暗黒の中世という長いトンネルを抜け、信長の手によって、ようやく歴史的復元がなされたのである。



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 月刊ベルダ5月号(2016年4月発売)より転載

 日本は祭祀によって統一された国家

 ●一元論の西洋と多元論の日本
 日本の歴史は、世界のなかで際立った特徴をもっている。
 一つは、二千年以上も昔につくられた国のかたちが、国体として、現在も維持されていることである。
 独自の文化・宗教・習俗が数千年にわたってまもられてきたのは、他国から侵略をうけなかったからで、これも、世界に例がない。
 もう一つは、国家が祭祀をとおして形成されたことである。
 しかも、その歴史が、宮中祭祀という形で、現在もなお、連綿とひきつがれている。
 世界史的にみても、日本は不思議なる国で、『文明の衝突』のハンティントン教授が、日本文明を世界八大文明圏の一つに数えたのは、他のどの文明圏にもみられない独自性をもっていたからである。
 西洋の歴史原理は、日本とはまったく異なる。
 日本が祭祀で国家を統一したのにたいして、西洋は、権力がすべてで、宗教さえ権力の後ろ盾でしかなかった。
 文化や習俗、国の成り立ちの相違は、民族の宗教観念のちがいにゆきつく。
西洋の思想は、一神教=キリスト教にもとづく一元論である。
 一元論において、正義は一つしかない。
 十字軍から海外侵略、植民地政策にいたる西洋の侵略思想は、異民族の征服と奴隷化、異文化の掠奪で、唯一神=一元論のもとでは、異教徒や神の恩恵をうけていない未開人は動物以下となって、終局的には、ジェノサイド(民族殲滅)やテロリズムにまでゆきつく。
 イスラムと白人社会のテロと空爆の応酬は、西洋の一元論からうまれた宗教戦争だったのである。
一神教を科学や合理主義におきかえたのが近代で、自由や平等、民主主義や共産主義は、いずれも、王権を市民に移しかえた革命イデオロギーである。
 米・英・仏・ロ・中の五大強国は、王権神授説をひっくり返した革命国家である。
 近代国家は、革命によって、歴史的遺産=国体を失い、政体のみの人工国家となったのである。
 日本に革命や国家分裂などの大規模な内乱がなく、数千年にわたって同一体制が維持されてきたのは、多神教の恩恵といってよい。
 八百万の神々の一元論的な世界では、共存の原理がはたらき、多様性と変化に富む文化が栄えるのである。

 ●共存した縄文人と弥生人
 日本文明は、狩猟・採集民族の縄文人と稲作民族の弥生人の共存によってもたらされたものであろう。 
 これまで、大陸からやってきた弥生人が土着の縄文人を滅ぼして、鉄と稲作の文化を形成したといわれてきた。
 だが、弥生遺跡から縄文式土器が出土することから、この説は否定される。
 しかも、日本人のY遺伝子に大陸にはない縄文人のDNAが残っていることから、縄文人と弥生人は、混血という形で同化していったとわかる。
 縄文人の神は、太陽や大自然で、空間軸に精霊をみいだすアニミズムである。
 弥生人は、祖霊や地祇など時間軸に神霊をみいだすシャーマニズムである。
 縄文人と弥生人は、すべてを神とする八百万信仰のもとで共存共栄してきたのである。
 邪馬台国の卑弥呼から大和朝廷の基礎を固めた第10代崇神天皇、日本国の土台をつくった第40代天武天皇が、祭祀によって、国家統一をすすめることができたのも、根底にあったのは、八百万の神々への信仰である。
 のちに神道として形式を整えてゆく八百万の神々は、異文化から異民族、天つ国や国つ神、地祇や祖霊、神仏習合ののちには、大日如来までをつつみこむ雄大な宗教観だったのである。
 キリスト教では、聖職者が神のことばをつたえ、仏教では、修行した僧が人々を導く。
 ところが、神道には、教祖や聖典、御神体が存在せず、天国も浄土もない。
 祈願や救済がなく、神の代理人たる大司教や修行をつんだ大僧正もいない。
 一神教(啓示宗教)で、人々が救済をもとめるのは、人類はみな罪人で、この世が苦悩と汚濁の穢土だからある。
 人々は、神の愛や仏の慈悲に救済されるが、それも、死んだ後のことである。
 しかも、信仰が不十分なら、死後、地獄で永遠に苦しまなければならない。
 キリスト教が、中世、王にまさる権力を握ったのは、原罪を創作して、人民の精神を搾取したからで、王権神授説によって、唯一神は、絶対王権の後ろ盾にもなった。
 神道では、この世は、穢土ではなく、人々は命(ミコト)の末裔である。
 日本の国土は、イザナギとイザナミという二柱の神によってつくられたからである。
 神がつくった国が、苦悩と汚濁の地であるわけはなく、神々の子孫が原罪を負っているはずがない。
 日本人のおおらかな精神風土は、神道によってつちかわれたのである。

 ●神道が土台だった古代日本の誕生
 国産み神話は、神産み神話へとひきつがれた。
 伊勢神道では、内宮祭神の天照大神(イザナギとイザナミの子)と外宮祭神の豊受大神(最初にあらわれた天之御中主神や国常立尊の別名)とのあいだで幽契(かくれたるちぎり)がむすばれて、国の形がきまったとされる。
 幽契の内容は、この世を高天原のような理想郷にするというもので、現在を神代の延長としてとらえたのが中今≠ニいう神道特有の思想である。
 神道に天国や浄土がないのは、ひとの幸は、死後ではなく、中今にあるからで、救済思想がないのは、この世が、幽契によってすでに救済がおこなわれた中今だからである。
 神道においては、地上は、神の愛や仏の慈悲にすがらなければならないような穢土でも苦悩の地でもなかったのである。
 高天原は、あくまで、神話だが、その神話をまもってきた先祖たちの真心は実史である。
 そこで、神話と実史が溶け合って、日本民族の精神性が成立した。
 日本人ほど宗教体験がふるまいにあらわれている民族は他に例がない。
 日本人の礼儀や義理、親切や善意、清潔は、神道祭祀の影響で、キリスト者の愛や仏教徒の悟り(成仏)と同様、根源にあるのは宗教感覚である。
 天皇を最高神官とする祭祀国家日本は、神道につちかわれた国民的道徳にささえられていたのである。
 縄文時代の精霊信仰・太陽信仰が、弥生時代になって穀霊信仰や祖霊信仰をくわえ、のちに高天原神話や八百万信仰へ発展してゆき、やがて、天武天皇の代になって、伊勢神宮の昇格や大嘗祭など宮中祭祀がさだめられた。
『日本書紀』と『古事記』の編纂を命じ、天皇の称号や日本の国号をさだめた40代天武天皇は、祈年祭や大嘗祭などの国家的祭祀や神祇制度の整備をすすめ、神道や神社、神話などの土着信仰や伝統習俗にもとづいて国づくりをおこなった。
 一方、大宝律令の前身である飛鳥浄御原令を制定(完成は没後)して、畿内に兵馬を装備、国司が地方豪族の軍事権を掌握して、勢力を畿内から全国へと拡大して、国家形成の基礎を固めた。
 土着の神道と大陸の律令制を融合させて、中央集権を完成させたのである。
 神道の中心となるのが祭祀である。
 祭祀は、信仰告白や神の賛美、感謝や嘆願などをおこなう一神教の祈りとは別物である。
カミとヒトをとりむすぶ作法が祭祀で、浄めや祓い(浄明正直)が一神教の祈りにあたる。
 神意は、すでに満ちているので、心身を清らかにして、神霊を迎え、饗応し、慰め、加護を願うのである。

 ●地方行政の拠点となった神社
 宮中祭祀は、天皇が、国家と国民の安寧と繁栄を祈念して、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)でおこなう儀式で、現在も、天皇が御告文を奏上する大祭(神嘗祭・新嘗祭など)と掌典長が祭典をおこない天皇が拝礼する小祭(四方拝・歳旦祭など)あわせて年間30に近い祭儀が催されている。
 諸国の神社が整備され、正月や節句、祭りが行事となったのも天武天皇の時代からで、神社のお祭りは、産土神や氏神をお迎えして、称え、寿ぐ式典で、お祝いである。
 神社の神職者は、祭祀王たる天皇に仕える神官で、ここで、都の宮中と地方の神社がつながった。
 古代律令制の二官八省制は、祭祀をおこなう神祇官と八省を束ねる太政官の二頭政治だが、全国の神社を管轄する神祇官は、太政官をしのぐ諸官の最上位であった。
 祭(祀)りを政(マツリゴト)というのは、当時は、豊作を祈る(祈年穀奉幣)ことが国家の大事業で、施政は、マツリゴトの一部だったからである。
 天皇を頂点とする古代律令体制は、天神(天つ神)を祀る官庁組織と地祇(国つ神)を祀る地方行政による二元的な中央集権制で、神社は、地方行政の拠点だったのである。
 天武・持統朝の時代、日本が、全国統一という新時代へふみこんでいったのは、神社が大きな役割をはたしていたのである。

 ●歴史観こそが文化防衛の砦
 日本は、この150年のあいだに、二度、西洋化の嵐に見舞われた。
 明治維新のヨーロッパ化と戦後のアメリカ化である。
 その結果、日本独自の文化や習俗、価値観がゆらぎ、西洋の尺度で物事の価値をはかる風潮がはびこって、歴史観や国家観、文明構造までが歪められた。
 三島由紀夫が、文化防衛論を叫んだのは、その危機感からだった。
 政治や防衛、法治の根底にあるのが歴史や文化、宗教で、これをまもるには、改革とは比較にならないほどの困難とそれに打ち勝つ情熱や知的エネルギーがもとめられる。
 破壊をともなう改革は、一夜にして実現するが、文化防衛は、数千年の蓄積を背負うたたかいだからである。
 ところが、日本では、明治維新における薩長の下級武士、戦後の左翼・インテリが西洋かぶれに陥って、あっけなく文化防衛の壁が崩れ落ちた。
 とりわけ、敗戦・占領という外圧をともなった戦後のアメリカ化は、日本の屋台骨を根底からゆさぶった。
アメリカは、伝統的価値をもたない革命国家で、国家の最古文書が1776年の独立宣言という新興国家でもある。
 戦後のアメリカ化には、西洋主義への屈服と革命思想の移入、新興国家の浅智恵という三重の縛りがかかっていたのである。
 どの国にも神話があり、文化の源泉をたどれば、神話にゆきつく。
 アメリカの神話は、自由や平等、幸福の追求を天賦の人権としたジョン・ロックの自然法思想である。
 その神話がそっくり移入されたのが、GHQ憲法で、日本の文化防衛は、憲法において正面突破されたのである。
 日本国憲法の悲劇は、170年前にうまれた革命国家アメリカには、伝統国家の憲法をつくる資質も資格もなかったことにあったろう。

 ●国体破壊に走った左翼・インテリ層
 そのアメリカも、国体を否定した誤りに気づいて、神道指令や公職追放などの左翼的な対日政策の一部をすぐに解除している。
 ところが憲法は、事実上、GHQの強制であったにもかかわらず、形式上、日本の国会(衆議院・貴族院・衆議院・枢密院)で審議、可決後、公布されているので、解除することは不可能だった。
 戦後、GHQの失策に便乗した左翼・インテリは、官界や司法、マスコミや教育界、論壇や学会を支配して、国家主権や自衛権、皇室の永続性が放棄された憲法を武器に体制・国体攻撃を開始した。
 憲法をまもれという声は、GHQが計画した日本劣化$略を忠実に履行しろという自己破壊の声でもあって、教育界・歴史学会・日教組ら護憲派は、ついに、中・韓に土下座で詫びる自虐史観までつくりあげた。
 日本の史学研究者や歴史学会は、日本が大和朝廷成立以降、江戸末期に至るまで精緻に祭祀国家の形態を維持してきた歴史をつたえない。
 祭祀に焦点をあてなければ、日本史も、日本という国の真のすがたも、日本人の心もわからなくなる。
 西洋は、王権を倒して、近代国家を打ち立てたが、日本は、天皇をまもって、近代国家を打ち立てた。
 日本に西洋の王権神授説がなかったのは、権力の正統性が天皇から授かったからで、専制君主が存在しなかったのは、権威と権力が二元化されていたからである。
 日本史が、西洋史ふうな権力史となって、歴史をとおしてあらわれるはずの文化史・民族史が干上がってしまったのは、皇国史観を嫌悪する歴史家が、日本史の中核にある神道祭祀を除外して、日本という国家の起源や成り立ちを唯物史観に書きかえたからである。
 GHQによる皇国史観排除と歴史家の公職追放によって、戦後、唯物史観と歴史実証主義一色となった反日・歴史学会が、皇国史観を叩きつぶすためだけの存在になっているのである。
 日本国憲法のどこにも、国体や歴史、日本文明にかかる記述がない。
 GHQに旧敵国の体制破壊という目的があったのは疑いえないが、革命国家アメリカには、国体にたいする認識も歴史を解する智恵もなかった。
 日本の保守主義がまもるべきは、近代国家をつくりあげた天皇中心の歴史であって、憲法の改正には、まっさきに、皇室の尊重と国体護持の文言を掲げなければならない。
 市民革命以前の歴史を断ち切った欧米の保守主義(カンサバティブ)から学ぼうというのでは、日本の保守主義は、お先真っ暗なのである。

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 月刊ベルダ4月号(2016年3月発売)より転載

 改憲案に必要なのは伝統国家の智恵

 ●国家と祭祀
 日本は、世界最古の王朝と祭祀共同体を源流とする国体を有する伝統国家である。
 天皇の権威は、権力や社会的地位のように、後天的に個人にそなわるものではなく、伝統の継承で、天皇とは、歴史や国体の象徴にほかならない。
 祭祀共同体の主宰者たる天皇の権威を象徴するのが祭祀である。
 ところが、現憲法には、国事行為から宮中祭祀が除かれている。
 国事行為を定めた憲法7条は、1〜9項まで、具体的に内容が記されているが、10号(儀式を行ふこと)については、典礼内容の記載がない。
 10項に宮中祭祀を明記すべきである。
 宮中祭祀は、天皇が大御宝とする国民の安寧を祈念する儀式で、これを国事行為とすることによって、国体と政体のきりわかれが明瞭になる。
 日本の権力構造は、権力者が天皇の親任をえて、統治者としての正統性をあずかる二元構造になっている。
 天皇が権力者に統治権を委ねるのは、民の国父、クニの氏神だからで、国体の象徴である天皇は、権力とは、二元論的に分離しているのである。
 戦前までの法体系では、法律・勅令などから構成される「国務法」と皇室令・宮内省令などから構成される「宮務法」によって、国体と政体が豁然と分かたれていた。
 憲法学者が、宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」として国事行為から切り離したのは、国体行為の祭祀が政体にとりこまれたせいだが、解釈はいくらでもかえられる。
 天皇の国事行為は、象徴行為であって、マッカーサーが引用した象徴ということばには、もともと、公的権威という意味合いがふくまれている。
 GHQ憲法の象徴天皇は、英国国王がイギリス連邦結束の象徴(シンボル)となったウェストミンスター憲章(1931年)を根拠にしたものだろう。
 王権が儀礼化されて、象徴になったわけだが、儀礼や象徴は、政治において無力でも、文化において決定的な意味をもつ。
 宮中祭祀を国事行為としてしてこそ、憲法に日本の国のかたちがあらわれるのである。

 ●交戦権を否定していない九条
 現在の法解釈では、憲法9条の制約によって、日本は、国家を防衛することができない。
 アメリカが、日本を武装解除した誤りに気づいたのは、中国革命や朝鮮戦争後のことで、以後、米政府首脳は、日本に憲法の改正を望んだが、経済復興を優先させた吉田茂首相は、9条改正に消極的だった。
 日本の安全保障や戦力保持は、「サンフランシスコ平和条約第5条(C)」と日米安全保障条約、国連憲章51条の「個別的及び集団的自衛権」にもとづくもので、憲法によって、国をまもれなくなった日本は、安全保障を国際条約にもとめざるをえなかった。
 朝鮮戦争が勃発した一九五○年、マッカーサーは「九条は自衛のための戦力(軍隊)を禁止するものではない」として、吉田茂首相に警察予備隊の設置を指示した。
 もともと、9条は、軍事行動を全面的に禁じる性格のものではなかった。
 昭和21年、憲法改正小委員会において、委員長の芦田均が第九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入する修正をおこなったからである。
 前項の目的とは、「国際紛争を解決する手段」としての国権発動で、具体的には軍事的侵攻(侵略戦争)をさす。
 芦田修正によって、「国際紛争を解決する手段」から国家防衛が除外された。
九条は、軍隊の保持や国土防衛を禁じてはいなかったのである。
 国家自衛の戦争すらも放棄する、自国防衛のためですら陸海空軍を保持しない、攻撃をうけても交戦権を行使しないというのは、左翼陣営の解釈改憲で、9条の解釈は、マッカーサーの解釈が正しかったのである。
 アメリカ憲法が、主権や国家(共同体)防衛について、条文を記していないのは、防衛や国家主権は、憲法の上位にある不文法だからである。
 国家防衛が憲法の上位にあるのは、交戦権が法の範囲をこえていることからも明らかで、イギリスは、不文法のコモンロー(慣例法)だけで国家を防衛している。
 英米並みに、国土防衛を憲法の上位にある国家原理とみとめておけば、芦田修正をあげるまでもなく、憲法九条にもとづく自衛権に何の制約もなかったのである。
 憲法解釈を左翼憲法学者にまかせっきりにすると、安保法制の衆院憲法調査会のような醜態がくり返されるのである。

 ●国民主権は革命思想
 政治や外交において、主権ほど重要な概念はない。
 主権は、超越的な権利で、世界史は、国家主権をめぐってくりひろげられてきた戦争や革命、国家興亡の記録といってよい。
 一方、主権は、定説のない不確かな概念でもあって、そのあいまいさが政争や紛争の火種となってきた。
 ヨーロッパで主権という概念が生じたのは、絶対王権(王権神授説)の根拠や宗教権力にたいする国家権力の優越性を示すためのもので、元々、便宜的なものだった。
 超越的な絶対権力を立てなければ、王権が安定せず、宗教戦争や領土紛争に決着がつけられなかったからで、国家主権を国家のあいだで承認しあったのがウェストファリア条約(1648年)だった。
 ところが、日本国憲法では、国家主権をとびこして、唐突に「主権が国民に存する」(前文)、「主権の存する日本国民」(第1条)とでてくる。
 国民が国家にまさる超越的な権力をもっていると、根拠を示すことなく、憲法が宣言しているのである。
 法律家・法学者が、これにとびついたのは、法の専門家以前に左翼だったからだろう。
 国民主権は、ジョン・ロックによると、革命権をあわせもっている。
 日本の左翼は、革命をおこすまでもなく、棚ボタ式に国民主権を手に入れて、以後、GHQ憲法を平和憲法とよび、護憲運動に精を出している。
 護憲運動が左翼のスローガンや反体制運動になるところに現行憲法の危うさがあるのである。
 ところが、憲法原案で国民主権をもちだしたアメリカも、ポツダム宣言で「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国」、憲法前文で「自国の主権を維持」と主権が国家にあることをみとめている。
 左翼は、憲法をタテに、国民主権を叫ぶが、憲法では、国民主権が比喩的にのべられているのにたいして、条文で定義されている主権は、明らかに国家に属している。
 憲法に、主権に言及した条文が二箇所ある。
 第9条の1 国権の発動たる戦争
 第41条 国会は国権の最高機関
 9条と41条でいう国権は国家主権で、憲法は、国権が交戦権で、国会が国権の範囲にあることを明確に指摘している。
 どこの国でも、タテマエは主権在民だが、国権にのみこまれて跡形もない。
 国民主権をまにうけて騒いでいるのは日本だけなのである。

 ●天皇元首論は国体破壊
 国民主権は、憲法において、天皇主権との対比でもちいられている。
 だが、天皇主権は、天皇を政治利用するための工作で、明治憲法下で、天皇が主権を行使したことは一度もない。
 天皇を元首に仕立て、天皇を権力へとりこむことによって、明治政府は、国体を破壊して、日本を帝国主義国家へ改造したのである。
 自民党改憲試案の天皇元首論は、明治憲法への先祖返りで、国民主権・基本的人権・平和主義は、GHQ憲法の踏襲である。
 どちら遺伝子をうけついでも、伝統国家の体裁を保てないのは、改憲試案国体が見えてこないことからよくわかる。
 問題なのは、天皇主権ではなく、天皇を権力にとりこんだ明治政府の手口のほうだろうが、これまで、その経緯を批判的にのべた論説にふれたことがない。
 主権の理論的根拠は、王権が王権神授説、国権がジャン・ボダンの『国家論』で、日本には、もともと、主権に該当する概念はなかった。
 政治的な最高権力者なら幕府の長で、征夷大将軍という官職にあたる。
 征夷大将軍を任命するのが天皇で、天皇は、西洋でいう元首のさらに上位におかれている。
 天皇主権は、専制君主の模倣で、明治政府の王政復古は、大王(オオキミ)の復古ではなく、鹿鳴館同様、ヨーロッパ化だったのである。
 国家主権から国民主権がでてきたのは、革命によって、主権が移動するというルソー流の国民主権論からである。
 日本の憲法学者は、現憲法の国民主権を革命(八月革命)の産物としているが、国民主権を国家原理とした国家は、市民革命がおこなわれたヨーロッパにおいても存在しない。
 革命は、人民が主権を奪い取ることだが、実際は、反乱軍が人民代表を名乗っただけで、人民が蜂起した革命は、世界史上、いちどもおきたことがない。
 ヨーロッパは、君主制の下で国民主権を立てたのであって、革命後、初の憲法(1791年)を制定したフランスでさえ、謳われたのは、国民主権ではなく、立憲君主制だった。
 立憲主義を憲法原理としたアメリカでは、制限されない権力にあたる主権は憲法違反で、アメリカ憲法に国民主権の字句すらない。
 天皇主権も国民主権も、日本共産党の天皇制と同様、左翼の捏造で、日本の憲法論には、いままお、左翼のバイアスがかかったままなのである。

 ●排すべし憲法万能主義
 日本国憲法に、伝統国家の要素が払拭されているのは、革命国家アメリカが戦勝国の立場から敗戦国に一方的おしつけたものだからである。
 革命国家は、伝統国家の知的財産である歴史的な文化的遺産に乏しい。
 したがって、正義や自由などのスローガンを立てなければならない。
 アメリカ憲法では、正義や自由、共同体の防衛などをめぐる法解釈が憲法をこえた不文法の範疇にある。
 もともと、成文法だけで、国家や国民の全領域を規制することなどできない相談なのである。
 イギリスが成文憲法をもたないのは、常識や慣習、判例などの過去の智恵がコモンロー(不文法)として機能しているからである。
 日本も、イギリス以上に長い国史をもっているので、コモンローで十分間に合うはずだが、いまも不毛な憲法訴訟がひきもきらない。
 一方、国際条約が補填している9条をまもれという声も衰えをしらない。
 日本が、世界で常識となっている上位法をみとめてこなかったのは、内閣法制局が憲法解釈権を独占して、本来、解釈と運用を担うべき内閣・政府が、その任務から逃げてきたどころか、「行政府における法の番人」といわれる内閣法制局の見解に一方的な服従してきたからだった。
 内閣法制局の憲法解釈は、条文主義に立っている。
 条文主義は、字面の解釈に拘泥して、背景や諸条件、法が本来めざすべき目的や意図を排除することで、官僚主義の欠陥の一つである。
 集団的自衛権や安保法制を憲法6条違反としか読めない一種の法律バカでもあって、日本の法曹界には、国家主権や公的権威を憲法の上位法と見る聡明さは存在しない。
 聖徳太子の「憲法十七條」も明治天皇の「五箇条の御誓文」も為政者の心構えや新制度の運用を簡潔に記しただけで、法で国家をがんじがらめにする性格はもっていなかった。
 歴史をもたない革命国家や新興国家が、殊更、憲法を重視するのは、人工の法以外に国の形をきめる規範をもたないからである。
 GHQが、日本に革命憲法をあたえたのは、大日本帝国が滅亡して、焦土と化した国土と飢えた人民だけが残った新興国家だったからだった。
その受け皿となったのが、宮沢俊義の「八月革命説」だった。
 昭和20年のポツダム宣言受諾によって、主権が天皇から国民に移り、事実上の革命がおきたとする説で、レーニンの「敗戦革命」から借り物である。
 これにとびついたのが、公職追放令によって、左翼の独壇場となった学界・言論界・法曹界だった。
 宮沢は、憲法学の大重鎮にのしあがり、法曹人ばかりか、学者や文化人までが「八月革命説」の信奉者となって、憲法擁護の旗を振りはじめた。
 憲法問題は、伝統国家の智恵と革命国家のイデオロギーの衝突で、戦後70年たっても改憲できないのは、日本が、いまなお、思想的に敗戦国状態にあるからである。
 憲法改正は焦眉の急である。
 だが、9条や国民主権など左翼憲法学者によって、憲法条文が歪曲されていることにも注意をむけておくべきだろう。

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 月刊ベルダ3月号(2016年2月発売)より転載

 祭祀国家と象徴天皇
 
 ●伝統国家に新興国家の憲法
 国家の三要素として、領域(領土、領海、領空)と人民(国民、住民)、権力(国家主権)があげられる。
 この三つにくわえ、外交権能が、国際法上、主権国家にもとめられる条件とされる。
 もっとも、これは、西洋もしくは革命国家の国家観念で、伝統国家の日本にはあてはまらない。
 歴史や言語や宗教など、民族の遺産というべき国体という文化概念が欠けているからである。
 過去が断ち切られている革命国家では、領域や人民を支配する統治システム、権力機能をはたす政体が、そのまま、国家となる。
 それが、ステーツで、独立宣言以前の歴史をもたないアメリカは、政治的な機能だけで成り立っている連邦政府(ユナイテッドステート)である。
 一方、ネーションは、歴史の遺産を現在にひきつぐ民族共同体で、日本は、政治機能のほかに国体という文化概念を併せもつ伝統国家である。
 伝統国家は、国体という過去と政体という現在が十字に交差して、できあがっている。
 ところが、戦後、日本は、GHQによって、国体という時間軸を抜かれ、伝統国家から、政体という空間軸しかない新興国家へ転落した。
 憲法から日本の独自の国家像が見えてこないのは、国体が欠落しているからで、日本国憲法をつくったGHQの頭にあったのは、民主主義という政体概念だけだった。
 過去をもたないアメリカ人がつくった憲法が、伝統国家である日本の国柄に合致するわけはなく、憲 法概念を逸脱した九条にいたっては、敗戦国にたいする報復措置という代物でしかなかった。
 GHQの対日戦略は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムと歴史の否定で、廃位を免れた天皇は、国体という歴史から分離されて、日本国と国民統合の象徴となった。
 もっとも、天皇を政体=権力へ置いたのは、戦後のGHQではなく、薩長の明治政府で、国体=権威の危機は、明治の近代化において、すでにくすぶっていたといえる。
 かつて、明治憲法下において、天皇機関説と天皇主権説が対立した。
 両説とも、天皇を政体のトップにおいた明治憲法の誤りをひきずっているのはいうまでもない。
 国体が見えなかったのは、山田孝雄(『国体の本義』)が指摘したように、国体が無意識化されていたからだったろう。
 戦後、天皇は、主権者から象徴となったが、依然として、政体に根拠がおかれている。
 国体の象徴である天皇を政体(憲法)で規定する誤りがくり返されたのである。

 ●祭祀王にしてオオキミだった天皇
 天皇は、元首ではなく、もともと、象徴的存在だったという認識から、象徴天皇を見直す議論もある。
 象徴性は、目に見えない抽象的な価値を目に見える具体的な物象に置き換えることで、剣が権力の象徴なら、ペンは言論を象徴する。
 かつて、権力者だった天皇は、のちに権威となったが、権力の象徴となった事実はない。
 摂関政治や院政、武家政治が権力の委譲であったのなら、天皇が権力の象徴だったことになる。
 それなら、天皇から権力を奪えば、ユーラシア大陸のように、容易に革命や政変が成立する。
 そうならなかったのは、天皇が、権力から離れても、地位がゆるがなかった日本特有の原理があったからである。
 それが祭祀国家である。
 かつて、天皇は、オオキミ(大王)と祭祀王の両方の顔をもっていた。
 大和朝廷が統一される過程で、大きないくさがなかったことやピラミッドに匹敵する巨大墳墓が数多く残っていることからも、祭祀が、国家統一の大きな力としてはたらいていたことは疑いえない。
 日本が、有史以前から祭祀国家だったのは、日本人特有の自然観や宗教観にもとづいている。
 島国日本は、変化に富んだ地形や3大海流に洗われる海岸線があり、自然の幸に恵まれている。四季があり、稲作のほか農耕がさかんで、動物を殺さずに食糧を確保できる農業国だった。
 反面、4つのプレートの上にのった地震国で、列島が台風の通り道になっている。
 自然とともにあった日本人は、八百万の神々に和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)の2つの側面を見て、寿(ことほ)いて祭り、畏(かしこ)みて祀るという独自の信仰をまもってきた。
 その独自の宗教観の頂点にあるのが、祭祀王としての天皇、権力者としての大王で、魏志倭人伝に「鬼道によって人々を惑わす」と記されている卑弥呼の政(まつりごと)も祭祀をさしている。

 ●権威と権力に二元化された支配構造
 大和(古墳)時代の第16代仁徳天皇が、三年間の免税をおこなって「民のかまどは賑いにけり」と謳ったのは、祭祀王の顔で、一方、朝鮮半島の百済や新羅、高句麗の軍とたたかい、東晋に使者を送り、宋の皇帝から称号をうけたのは、大王(倭五王のうちの讃)としての顔である。
 天皇の位は、聖と俗、国体と政体、権威と権力の両方にまたがっていたのである。
 祭祀国家の源流をたどれば、神武天皇と同一人物といわれる第10代崇神天皇にたどりつく。
 崇神天皇は、縄文弥生時代から原始信仰(自然崇拝)の象徴だった三輪山の山麓に初期の大和朝廷(三輪王朝)を建て、大物主神がのりうつったとされる百襲姫にマツリゴトをおこなわせている。
 山麓一帯には、崇神天皇(行灯山古墳)や第12代景行天皇(渋谷向山古墳)の陵のほか、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳がある。
 崇神天皇の治世が邪馬台国の時代の後半と重なるところから、魏志倭人伝に蔑称で記されている卑弥呼が百襲姫だった可能性はきわめて高い。
 祭祀王だった崇神天皇は、一方で、大和朝廷を全国規模の政権に育て上げた政治の天才でもあった。
 日本史には、政治的に高い能力をもつ天皇が、数多く登場するが、祭祀王である天皇が、つねに、為政者として有能であることは困難で、そののち、天皇の政治力は、摂関政治や院政、武士の台頭によって、徐々に形骸化されてゆく。
 第45代聖武天皇は、「三世一身の法」「墾田永年私財法」を発して、天皇がすべての土地と人民を支配する天皇政治の原則を放棄している。
 藤原不比等や長屋王ら公卿にゆだねられた政治は、やがて、源平藤橘4氏が中心となった貴族政治から武家政治へとすすんでゆく。
 その一方、天皇の権威は、ゆらぐことはなかった。
 天皇の祭祀と為政者の権力が二元化されたからである。
 古代社会では、祭祀は、現代人の想像がおよばない大きな力をもっていた。
 古代国家において、権力者が、祭祀王である天皇の許しをえて、施政をうけもつシステムは、自然発生的にできあがったはずである。
 そして、その仕組みは、江戸時代までつづいた。
 平安時代の390年、江戸時代の265年、鎌倉時代の148年と長期政権がつづいたのは、政体が国体の下位にあったからで、戦国時代の100年間と南北朝時代の57年間は、朝廷の権威低下によって、権力が空中分解をおこしたからだった。
 
 ●革命勢力に脅かされる国体
 権威があって、権力がそれにつらなるのではない。
 権力が安定をもとめて、権威をもとめるのである。
 そのメカニズムを熟知していたのが、上洛途中で病死した武田信玄とのちに政権をとった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だった。
 そして、その原理を忘れたのが、院政をはじめた白河天皇、承久の乱をおこした後鳥羽上皇、建武の新政の後醍醐天皇、天皇を国家元首に戴いた明治政府だった。
 ユーラシア大陸型の専制国家は、武力で統一された。
ヨーロッパの王室は、ローマ時代以来の権力と富の系譜で、源平藤橘、徳川家のようなもので、しかも、天皇にあたる上位の権威が存在しない。
近現代は、市民革命によって、伝統国家が革命国家に転身した時代で、主要8か国(G8)のなかで、国体を有しているのは、日本だけである。
 ロシアやフランス、独立戦争で母国イギリスとの歴史的連続性を断ち切ったアメリカのほか、王政復古したイギリスも、チャールズ1世を処刑した清教徒革命とジェームズ2世を追放した名誉革命という 2つの市民革命によって、伝統国家の資格を失っている。
 ドイツは、11月革命(1918年)でカイザー(皇帝)を廃し、イタリアでは、第二次世界大戦後、国民投票によって共和制を採択、国王(ウンベルト2世)を国外へ追放して、それぞれ、革命国家となった。
 オランダやノルウェー、スウェーデン、ベルギー、デンマーク、スペインらの王国も、君主制から共和制に移行して、中国では、共産主義革命がおきた。
 日本は、革命国家群に囲まれているだけではなく、戦後、国家基本法までが革命憲法に書き直されるという試練に耐えて、伝統国家をまもりつづけている。
 野党や労組から、大マスコミや教育(日教組・大学)、論壇までが、反体制を志向しているのが戦後の風潮である。
 反体制が標榜しているは、共産主義や社会主義ではない。
 民主主義と国民主権が至上の価値となって、他のいっさいを排除しようとしている。

 ●個と全体の矛盾を解消した天皇の象徴性
 デモクラシーも主権在民も、文化概念ではない。
 絶対君主制や専制政治に対抗するための政治概念で、多数決や普通選挙法、議会制度をさしているにすぎない。
 ところが、日本では、民主主義と国民主権が文化の領域まで侵犯している。
 文化の領域というのは、国体である。
 国家は、政体が多少、左傾化しても、転覆することはない。政治は、国家と国民の利益をもとめるというレールが敷かれているからで、脱線したら、選挙で、政権を交代させればいいだけの話である。
国家が危機に瀕するのは、国体が脅かされるときである。
 革命は、国体を破壊することで、文化には防衛力がそなわっていない。
 国家をまもるということは、文化をまもることで、内外の圧倒的な革命勢力の圧力のなかで、日本が伝統国家たりえているのは、天皇と国民の紐帯が、それだけ、固いからである。
 日本で、市民革命がおきなかったのは、国家が、国体(天皇)と政体(幕府・政府)の二重構造になっていたからで、天皇から施政権を授かる幕府は、民の敵となる構造になっていない。
 幕府に施政権をあたえる天皇が、同時に、氏子である民とともにある祭祀王だったからである。
 幕府が奉じた大御心が、民を慈しむ皇祖皇宗の心であれば、民を粗末に扱うことは、天皇への反逆となるのである。
 江戸幕府が明治政府に移行したのは、政体交代であって、政体が国体の下におかれる仕組みに変更はなかった。
 天皇元首論が危険なのは、天皇を政体にとりこむことによって、国体と政体の二重構造が崩壊するからで、明治憲法で、国家元首を謳った誤りが、天皇の戦争責任と戦犯処罰という1945年の危機を招いたことを忘れるべきではない。
 世界史をふり返って、国家と人民の関係が円満だった時代は、ほとんどみあたらない。
 国と民は、全体と個の利害が矛盾するように、もともと、対立するようにできているのである。
 絶対王権や専制政治では、国家が人民をおさえこみ、革命によって、権力が人民の手に移っても、結局、同じことがくり返される。
 人民政府は、絶対化・独裁化するので、恐怖政治によって、人民抑圧という悪政が、さらに悲惨なものになるのである。
 近代国家は、専制と独裁、革命の苦い経験からうまれたもので、議会制度や民主主義、普通選挙法が採用されたのは、国家と人民の対立や摩擦を緩和するためだった。
 だが、国家と人民の対立、全体と個の矛盾は、いまだ解消されていない。
 国家と国民の対立が、議会制や政党政治、民主主義や多数決にもちこされただけである。
 個と全体の矛盾を解消できるのは、国家が国民を治め、国民が国体の下で心を一つにし、国体(天皇)が政体(政府)に施政権の正統性をあたえる三位一体構造のみである。
 天皇は、この三位一体構造の象徴でもあったのである。
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 月刊ベルダ2月号(2016年1月発売)より転載

 独自の文明観をもって
 自主外交をとりもどせ

 
 ●相容れない日本と西洋の文明観
西洋と日本のギャップは、解消するのがむずかしい。
歴史や宗教、文明のタイプや国民性などの隔たりが大きすぎるのである。
欧米やユーラシア大陸の国々が異質といえば暴論になるだろう。
 普遍性をもっているのは、西洋やユーラシア大陸のほうだからだ。
 特殊なのは、むしろ、日本で、西洋とは、文化や価値観が根本的に異なる。
 日本は、世界最古の王朝国家でありながら、経済や技術、科学や文化などのほか軍事力や宇宙工学でも、世界のトップクラスにある。
 かつて、日本は、ロシアや中国をはじめ英・米などの大国と戦って、負けたのが、原爆を落とされた先の大戦だけという強大国でもあった。
 全世界を敵にまわした第二次大戦の敗戦にも、日本は、打ちのめされることがなかった。
 空襲による都市と産業インフラの壊滅と原爆投下、連合軍 (GHQ)による7年間余の占領と戦後賠償という敗戦の痛手をうけながら、日本経済は、10年後には戦前の水準に復興、その後、20年間にわたって、10%以上の経済成長を達成して、1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜いて世界第2位となった
 多くの王朝国家が、近代以前にすがたを消した世界史のなかで、日本だけが現在まで繁栄してきたのは、日本が祭祀国家で、古来より、権威(朝廷)と権力(幕府)が分離されていたからである。
 律令制の導入から武家政権の誕生、戦乱と封建体制の確立、そして明治の近代化、前大戦にいたるまで、政体が国体の下位にあったため、権力が移っても、たとえ、戦争に負けても、国家の体制がゆるがなかったのである。
 天皇の下で、士農工商の各階層がゆたかな文化をもち、江戸は、当時、ロンドンをしのぐ世界最大の都市だった。
 識字率が世界一で、絵画や文学、芸能や食文化などの庶民文化が栄え、一方、世界に類のない道徳国家でもあった。
 圧政と争乱、飢えと貧困、身分差別や奴隷制度などの旧弊に打ち沈んでいた中近世の暗黒世界にあって、江戸幕府は、2世紀以上にわたって、侵略をうけることも内乱で国をみだすこともなく、平和と繁栄を保ってきた。
 日本以外の国々や地域では、軍事的な侵略と文化的な同化によって同質性が築きあげられていった。
だが、鎖国していた武士の国には、列強も、指一本ふれることができず、独自の文明がまもられてきたのである。
 西洋文明やイスラム文明、中華文明など、世界を8つの文明圏に分けたハンティントン教授が日本を単一の文明圏とみなしたのは、日本が、他のどこにも属さない独自の歴史と文化、民族性をもつ伝統国家だったからである。

 ●日本文明と西洋文明の衝突
 日本と西洋、ユーラシア大陸では、価値観や文化が異なる。
 土地が農耕に適さないヨーロッパは、放牧・肉食文化圏である。
 土地・農民・作物の三位一体構造がない肉食文化圏で、国家の基礎となったのが、土地の強奪や掠奪経済だった。
 神が与え下さった恵みを取り返す(キリスト教)という好戦性や適者生存という競争原理(ダーウィニズム)がヨーロッパの中心思想で、十字軍の遠征や大航海、植民地侵略もその延長線上にあった。
 したがって、東インド会社などによるアジアの植民地化に、かれらはなんら罪悪感をかんじていない。
 白人の非白人・非キリスト者にたいする残虐非道ぶりは、インカやアステカ帝国の滅亡、アフリカの奴隷狩り、アメリカ・インディアン、オーストラリア・アボリジニの抹殺から大東亜戦争における都市空爆と原爆投下による非戦闘員大虐殺まで一貫したものがある。
 その根底にあるのが人種差別で、欧米人にとって、黒人は奴隷で、黄色人種は使用人、原住民は動物だった。
 西洋のリーダーには「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族」と演説して大統領になったアンドリュー・ジャクソンのような人物もいたほどで、下卑で無教養なトルーマンは、100万人の米兵の命を救った大統領というキャッチフレーズをみずから考案して、ポツダム宣言発表の前日、原爆投下の命令書にサインした。
 白人は、自らの生存と繁栄のためなら、人間性をかなぐり捨てるのである。
 この性向は、東アジアでも同様で、世界史上もっとも残酷だったといわれるモンゴル帝国に支配された中国、モンゴルの末裔である韓国・北朝鮮も、悪逆非道ぶりでは、西洋人にひけをとらない。
 一方、日本人の祖先は、一万年も昔から、三内丸山遺跡(5千年前)のような集落をつくって、採集や農耕をなりわいとしてきた。
 集団的な農作業や作物の備蓄、交換から経済がめばえ、素朴な宗教や祭りから技術や文化がうみだされ、古代農耕集落群は、こうして、邪馬台国や大和朝廷へ発展していったのである。
 血で血を洗う闘争と虐殺の歴史を生きてきた民族には、和を重んじ、恵みの神々に祈りを捧げてきた民族を容易に理解できない。
 同様に、日本は、アジアを侵略して、暴虐のかぎりをつくす英米仏蘭の力の論理を容認できない。
 伝統国家の日本と革命国家の西洋やユーラシア大陸の国々では、価値観や歴史観、道徳観を共有することができないのである。

 ●白人支配への反逆だった日本の船出
 日本は、白人による世界支配が完成した19世紀半ばに、国際社会にのりだしていった。
 これが、近代日本の船出で、日本の新しい歴史がはじまったのである。
 最初の大事件が、日清・日露戦争で、次が大東亜戦争である。
 20世紀が帝国主義と戦争、革命の世紀だったのにくわえ、日本をとりまく地政学的な状況も切迫していた。
 ロシアをふくむヨーロッパ列強が、インドや中国、朝鮮半島を侵蝕する一方、アメリカは、ハワイを併合、フィリピンを侵略して、太平洋の西端まで支配権を広げてきた。
 日本は、ユーラシア大陸と太平洋の白人勢力に挟み撃ちされる格好になった。
 日本は、防衛戦を朝鮮半島から満州にまで拡張して、ロシアの南下を防ぎ、アメリカのハワイ侵略には、東郷平八郎率いる軍艦「浪速」「金剛」がホノルル沖に停泊して、王族や住民を虐殺、リリウオカラニ女王を軟禁して革命政権を立てたクーデター部隊(アメリカ兵)を威嚇した。
 日本がアメリカの仮想敵国になったのは、地政学・軍略的な事情にくわえて、日本の海軍が、西太平洋のアメリカの覇権をゆるさず、日本の陸軍が、アメリカの狙う中国利権の妨害者となったからだった。
 白人が有色人種を支配した19〜20世紀に、アジアの有色人国家・日本が軍国主義の道をつきすすんで、列強の帝国主義と対決したのは、近代化に成功したからだけではない。
 もともと、日本が、誇り高き武士の国だったからである。
 それまで、白人にひれ伏す一方だった黄色人種である日本の躍進は、白人世界にとって、目障りな存在から、やがて、有害な存在に変化する。
 というのも、日本が、民族・人種差別と搾取一辺倒の植民地政策に反対する立場をとったからである。
 日本が、人種・民族差別と植民地の撤廃を国策としたのは、西洋の啓蒙主義的な考えからではなかった。
 人種・民族の平等と白人国家による有色人種国家の支配・搾取という世界構造の打破とアジア解放は、アジアの一員である日本の誇りと実利がかかった国家の基本戦略だったのである。

 ●燃え上がった日本への憎悪
 1919年、日本は、パリ講和会議で「人種的差別撤廃提案」をおこなって過半数を超える国の賛成を得ている。
 このとき、議長のウィルソン米大統領が、全会一致による採択法を採用してこれ否決したのは、属国支配や植民地政策をとっている英米ら列強に不都合だったからだった。
 日米が対立関係に入ったのは、ポーツマス条約によって日本が獲得した鉄道管理権の共同経営(桂・ハリマン協定/1905年)を日本側が拒否したからで、これを中国権益の足場にしようと考えていたアメリカは激怒する。
 もっとも、これは、1908年、日本の満州・朝鮮支配とアメリカのフィリピン・ハワイ支配を相互に承認(高平・ルート協定)しあって、一応の決着をみている。
 そののち、アメリカを悩ませる問題が新たに浮上してくる。
 第一次世界大戦(1914年)は、日本をふくむ連合国側が勝利して、日本が山東半島の旧ドイツ権益を継承したほか、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得るのである。
 支那と太平洋に新たな拠点をえた日本は、アメリカにとって、さらなる脅威となった。
 そこで、アメリカは、イギリスを抱き込んで、日本弱体化の戦略を練る。
 アメリカは、主要国9か国をワシントン会議(1922年)に招集して、日本をターゲットに、各国に戦艦の縮減をもとめるのである。
 主力戦艦の保有比率を5(英):5(米):3(日)としたものだが、これには、ハワイ(米)とシンガポール(英)が除外されているので、事実上、日本だけを対象にした軍縮計画だった。
 ワシントン会議で、アメリカは、日本にたいして、「日英同盟」と支那における「日本の特殊権益(石井・ランシング協定)」の破棄(門戸開放)という大きな成果をえる。
 その後、アメリカは、日支関係に干渉してくると、石油と鉄くずの対日禁輸という経済封鎖(ABCD)をおこない、併せて、日米交渉の途中で突然、米国務長官コーデル・ハルが「ハル・ノート」(日米協定基礎概要案)をつきつけてきた。
 その主たる内容は「仏印・中国からの全面撤退」「汪兆銘の国民政府(中華民国臨時政府)の全否認」「三国同盟からの離脱」という宗主国であるかのような命令で、日本が、とうてい、うけいけることができるものではなかった。
 東郷外相は手記にこう書き残している。
「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんとしたものである」
 海軍による真珠湾攻撃は、ハルノートの挑発にのったもので、もともと、対米戦争計画は、植民地解放と大東亜共栄思想を謳った基本国策要綱(1940年)や帝国国策遂行要領(1941年)に盛られていなかった。
 ルーズベルトとチャーチルの対日敵視政策が、大西洋憲章(1941年)によって明らかになると、日本は、大東亜会議を開催して、「大東亜共同宣言」で対抗する。
 カイロ会談のあと、チャーチルとトルーマンは、日本への原爆使用と将来的な核管理、戦後の工業化阻止、武装解除の維持などの対日政策をとりきめて、白人優位世界をゆるがしてきた日本への措置がここで決定する。
 それがハイドパーク協定で、これが、そののち、ヤルタ・ポツダム宣言へひきつがれる。
 日本壊滅を望んだのは、英米だけではなかった。アジア全域の共産化に野望を燃やすロシアも、南京政府(汪兆銘)を倒すため、英米のヒモつきとなった重慶政府の蒋介石も、コミンテルン支部の毛沢東も、日本打倒に血眼になるのである。

 ●存在しないYB体制の正当性
 トルーマン、チャーチル、スターリンの3首脳がベルリン郊外のポツダムに会して、昭和20年7月26日、日本に降伏を勧告する「ポツダム宣言」を発表した。
同宣言は、降伏の脅し文句と降伏条件を示した勧告書で、領土条項は全13項のうちの8項のみである。
「ポツダム宣言」の第8条に「カイロ宣言の条項は履行する」とある。
 だが、カイロ宣言には日付や三首脳の署名がなく、チャーチルは、イギリス国会(1955年)で同宣言書の存在すら否定している。
 ルーズベルトが蒋介石を呼んだのは米英中3巨頭≠ニおだて上げ、日本との講和へ傾いていた蒋に釘をさすためで、1914年の第一次世界大戦以降に日本が獲得した満州と台湾、澎湖島の中国への返還は、ルーズベルトと蒋の私的な口約束にすぎない。
 そもそも、カイロ会談は、2日後(1944年11月28日)に開催された初の3巨頭(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)会談(テヘラン会談)に合わせてルーズベルトが小細工したもので、チャーチルが「ダマされた」と地団駄をふんだように、世紀の大芝居だったのである。
「樺太南部およびこれに隣接する島々」「全千島列島」と名指しで日本領のソ連への返還が謳われたのはヤルタ協定においてであった。
 だが、ソ連領のクリミア半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンが集っておこなわれた秘密協定は、米英ソの軍事協定であって、法的な拘束力をもつ国際条約ではなかった。
 アイゼンハワー大統領は、ソ連の参戦と日本領土の譲渡を約したルーズベルトとスターリンの密約は、個人的な約束事だったとして、無効宣言をだしている。
 ヤルタ・ポツダム体制は、ルーズベルトの迷妄であって、なんら法的効果を有していない。
 国家防衛には、三島由紀夫が『文化防衛論』で唱えたように「尚武の精神」がもとめられる。
 それには、GHQ憲法を廃棄して新憲法を建て、軍備を充実させ、日本独自の文明観を堂々とおしとおしていけばよいのである。
posted by 山本峯章 at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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