2017年02月10日

 月刊ベルダ7月号(2016年6月発売)より転載

 国民常識としての天皇論

●文化大革命だった公職追放指令
 日本が伝統国家であることを誇りに思っている日本人は、少数派だろう。
それどころか、国民の大半が、天皇や国体、祭祀などの国家的伝統に無関心なのが現状ではあるまいか。
 戦後、GHQが国史や国教、言語、法体系を破壊しようとしたのは、戦勝国の常套的なふるまいで、これには世界史上、多くの前例がある。
 国字のローマ字化は、識字率が欧米をはるかにこえていたので実行されることがなく、神道指令も、ブルーノ・ビッター神父(駐日ローマ法王代表バチカン公使代理)の反対によって、靖国神社が焼却を免れ、指令自体も昭和27年の講和条約によって失効した。
 しかし、国史と諸法の変更(新憲法施行など)は「ポツダム宣言」違反だったにもかかわらず、何の抵抗もうけず実行に移され、講和条約締結後も、日本を縛りつづけている。
 その背後ではたらいたのが公職追放指令(昭和22年)というGHQの悪智恵だった。
 20万人以上が対象になった同指令は、大学や学会、教育分野、マスコミから保守層を一掃して、左派勢力や共産党の党員・シンパに入れ替える文化革命の役割をはたした。
 GHQの亡国作戦をひきついだのが、東大・朝日・岩波を拠点に日本の左傾化をおしすすめた進歩的文化人や革新官僚、インテリ左翼だった。
 やり方は巧妙で、宗教法人法には神道指令の効力を温存させ、GHQ憲法には平和憲法、9条には平和主義の理論付けをおこなって、占領基本法の恒久化をはかった。

 ●悪の根源とされた国史=皇国史観
 熾烈をきわめたのが国史の否定で、エリート左翼らが皇国史観の排除に血道を上げたのは「歴史を失った民族は滅びる(トインビー)」の指摘が核心をついていたからで、かれらには、国史の抹殺が、レーニンの敗戦革命とGHQの亡国戦略に並ぶ重大テーゼだったのである。
戦後、皇国史観を悪の根源としてきた歳月が70年をこえ、高齢者までが皇国史観と聞いただけで眉をひそめる風潮になった。
 皇国史観のもとで戦争計画が練られたというのが理由だが、これは、共産党のプロパガンダで、延長線上に、天皇のもとで戦争がおこなわれたという論理が用意されている。
 天皇や皇国史観が戦争に利用されたというのなら、批判されるべきは、軍部と天皇を憲法上の元首・大元帥に戴いた明治憲法であって、天皇や皇国史観ではなかったはずである。
 だが、どこからも、国史=皇国史観を悪の根源としてきた左翼のデマゴギーを打ち破る正論がでてこず、国史の正統性をうったえる論客も出現しなかった。
 戦後、産経新聞でさえ社説で「戦前の皇国史観への回帰を目指すのは論外」とのべるほど「皇国史観=悪」の刷り込みがいきわたった結果、歴史を喪失した国は滅びるというトインビー的危機が、戦後から現在まで延々とひきずられてきた。

 ●民主主義神話と「国民の常識」
 絶対悪の皇国史観の対極におかれたのが唯物史観と民主主義だった。
 民主主義は、闘争史観の産物で、左派が人民民主主義(共産主義)へ、右派が議会民主義(共和主義)へと枝分かれしたが、根っこは同じである。
 その中間にあったのが、ナチスの国家社会主義ドイツ労働者党で、ヒトラーが独裁者になったのは、普通選挙法と民主主義的な手続きによるものだった。
 戦後の日本人は、民主主義を絶対真理として、崇めてやまない。
 マスコミや言論界、教育界らが民主主義を人類至上の真実として吹聴してきたからで、共産党が見抜いたように、国民は無知で愚かだったのである。
 左翼が民主主義をもちあげてきたのは、いつでも、人民独裁へ変更できるからで、日本共産党が暴力 革命から議会内革命に路線を変更した理由もそこにある。
 妨害になるのは、多数決でどうにでもなる議会などの政体ではなく、多数決が通用しない国体という歴史的な文化構造である。
 戦後、革命攻勢を防いできたのは、支配階級でもインテリ層でもなく、敗戦の痛手に苦しみながら、終戦直後のアンケートで、90パーセント以上が天皇を支持した一般国民だった。
 国体を支えているのは、政治やイデオロギーではなく、「国民の常識」だったところに天皇問題の本質があるだろう。
 文化防衛の要は「国民の常識」にあり、左翼・反日の標的がその破壊にあったのは言うを俟たない。

「天皇の日本史(上下巻)」「天皇問題」などいくつか天皇に関する著作があることから、講演や勉強会などで、天皇について、多くの質問をいただく。
本ブログでも、多くの方々から、ご意見や質問が寄せられている。
 そのなかから、「国民の常識」にふさわしい応答をえらんで列記してみよう。
 誌面に限りがあるので、要点だけになるが、ご容赦をねがいたい。

1、国民主権と天皇主権
 明治憲法に主権の文字はなく、天皇主権は、戦後、国民主権に合わせてつくりだされた造語である。
主権(ソブリンティ)は、ヨーロッパの絶対王権(君主権)のことである。
 君主を倒したのち、君主権が国民の手に移ったという解釈から国民主権という観念がうまれたが、国民は国家を運営できないので、これが国家に委託されて国家主権となった。
 国民主権は、国家主権を正統化する便法にすぎず、実体があるわけではない。
 もともと、日本には、主権という概念はなく、最高権力である幕府も朝廷から施政権をあずかっただけである。
 君民一体において、天皇主権があったというなら、事実上、国民主権のことであって、戦後、主権が天皇から国民に移ったという事実はなく、わが国にはそのような後付けの理屈が成り立つ風土がない。
 終戦直後のアンケートで、90パーセントもの日本人が天皇を支持し、国民の大半が、戦犯釈放の署名をおこなったのは、日本が、君民一体・臣民一体の国だったからで、日本人のだれも、主権などという外来語には無関心だったのである。

2、万世一系と天皇家
 万世一系は、神武天皇以来の男系血統で、これを木の幹にたとえると、天皇家は枝の一つで、戦後、臣籍降下された11家系もそれぞれ枝である。
 歴史上、皇統が絶えることがなかったのは、一本の枝で男系が絶えると元の幹に戻って、新たな枝から男系相続をもとめたからである。
 26代継体天皇は、25代武烈天皇に男子がなかったため、別の枝(応神天皇系5世)から天皇に就いたが、このとき、仲哀天皇系(5世倭彦王)という選択肢もあった。
 南北朝の両統迭立は、89代後深草天皇(持明院統)と90代亀山天皇(大覚寺統)の父親が88代後嵯峨天皇なので、どちらが皇位についても男系継承(万世一系)は途切れない。
 女系継承の場合、女帝の皇子が皇位に就くと、天皇の血統が、別の幹に移るので、万世一系が途切れる。
 皇室の永続性には、旧皇族の皇籍復帰の道しか残されていないが、自民党までも皇室=天皇家に拘泥して、女系天皇をいいだす始末である。
天皇家と皇室、万世一系のちがいをわきまえなければ、久遠なる国体の護持は不可能なのである。

3、皇国史観と教科書日本史
 国史を皇国史観として排除してきたところにわが国の歴史観の異様さがある。
 皇国史観とは、『日本書紀』『古事記』から北畠親房の『神皇正統記』、頼山陽の『日本外史』、徳川光圀の『大日本史』、神話にいたる国史のすべてをふくむ。
 皇国史観排除の音頭をとったのが東大(歴史学研究会)と京大(日本史研究会)のマルクス学者らで、そこから自虐史観という世界の非常識≠ェ一世を風靡して、謝罪談話や土下座外交へつながっていった。
 左翼陣営が国史を目の敵にしてきたのは、民主主義戦争革命を完遂しようというマルクス主義者にとって、伝統=国史が最大の攻略目標だったからである。
 戦後、国史否定論が過激になったのには、2つの理由がある。
 一つは共産主義革命で、もう一つは大東亜戦争の敗戦である。
 大東亜戦争は、事実上、伝統(皇国思想)と革命(民主主義)の戦争だった。
 民主主義は、革命と戦争のスローガンで、フランス革命やロシア革命、アメリカ独立戦争、中国革命、米ソが手をむすんだ第二次世界大戦まで、謳われたのは、革命と同様、伝統的体制の打倒だった。
 世界を戦争に駆り立て、暴力革命をおこし、延べ数億人もの犠牲者をだしたのは、原爆で大東亜共栄圏思想を打ち砕いた民主主義という革命思想だったのである。
 日本は戦争に負けたが、伝統的体制を維持して、現在に至っている。
 皇国史観否定と民主主義賛美は、革命と戦争の燃えカスなのである。

4、象徴天皇と天皇元首
 マッカーサーが象徴ということばをもちいたのは、イギリス国王を英連邦の象徴と規定したウェストミンスター憲章(1931年)に倣ったものと思われる。
 イギリス国王は、名誉革命によって政治的実権を失い、首相の指名権などの儀礼的・形式的な権限をもつにすぎない非政治的な存在になった。
 それが「君臨すれども統治せず」の立憲君主制で、国王が国家の象徴となる近代王制のモデルとなった。
 日本で、中世以降、天皇が政治的権力をもたなかったのは、それまで、一体だった権威(祭祀王)と権力(大王)が分化したためで、権力が一元化されていたヨーロッパの王制とは根本的な原理が異なる。
 自民党の改憲案に「天皇元首」が謳われている。
 歴史をふり返って、天皇が政治権力をもったのは、天武天皇が最後で、のちは摂政や院政、建武の新政などの揺り戻しがあったものの、権威(天皇)と権力(幕府)の二元構造によって、千年の秩序がたもたれてきた。
 天皇元首は、明治政府が権力の絶対化をはかった工作で、戊辰戦争から日清・日露戦争、大東亜戦争の遂行には、天皇の権威を権力へとりこむ必要があった。
それが、1945年の国体の危機につながった。
 マッカーサーの判断で日本は亡国を免れて、天皇は象徴となられたが、天皇はもともと非政治的な存在で、ヨーロッパは国家、日本は国体というちがいはあるものの、古来、象徴であった。
 国体の象徴として、国民の敬愛、世界の尊敬を一身にうけている天皇を憲法という権力構造の枠内におさめようという愚論が、与党の改憲案に盛られていることに驚愕するのである。

5、宮中祭祀と伝統国家
 当初、GHQやアメリカ国務省は、占領政策を施行するにあたって、天皇廃位の方針で臨んだ。
 それを防いだのが昭和天皇のマッカーサー訪問と、日本国民の90%が天皇を支持したアンケート結果で、これを契機に、GHQは、天皇を日本統治に利用する方向へ舵を切った。
 GHQの民主化計画は、革命憲法をおしつけ、天皇を廃止することに主眼があった。
 それが、旧皇室典範の破棄(憲法への繰り込み)と皇室の自然消滅を図った11宮家の臣籍降下で、宮中祭祀が国事行為から外されたのは、GHQの意図を読んだ法官僚らの迎合で、宮中祭祀が私的な宗教行事にされてしまった。
 神話や言語、習俗や文化を共有する共同体の象徴が祭祀で、古来より、日本人は、祭祀をとおしてクニという観念を育み、まもってきた。
 天皇が国家と国民の安寧と繁栄を祈る宮中祭祀は、神社で豊作や無事息災を祈る民の祈願とつうじあって、国体という祭祀共同体の背骨となって、現在、日本を伝統国家あらしめている。
 憲法7条10号(国事行為/儀式を行ふこと)に宮中祭祀を謳って、日本が祭祀国家であることを内外に宣する必要があるだろう。

6、信教の自由と政教分離
 憲法の「信教の自由」「政教分離」は、GHQが国教である神道を標的にしたもので、個人の自由の範疇にある宗教条項に「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(憲法第20条3項)「(宗教活動にたいする)公の財産の支出や利用の制限」(第89条)とあるのは、人権条項を超えた国政権への干渉にほかならない。
 皇室の財産を取り上げ、重税をかけ、国庫や政治的な補助を断とうとしたのは、旧皇室典範の破棄や11宮家の臣籍降下と同様、皇室の自然消滅を目的とした計略で、憲法改正案には、当然、第20条3項と第89条の撤回、宮家の皇籍復帰が盛り込まれていなければならない。
 アメリカでも信教の自由や政教分離原則が憲法で保障されているが、これは、内輪もめが絶えないキリスト教会派の法的平等を約束したもので、キリスト教は見えない国教≠ニして国民的良心や道徳の土台になっている。
 キリスト教の見えない国教≠ヘ、信教の自由を保障していた明治憲法下で、神道が仏教やキリスト教などと異なる国民道徳や民族文化とされてきたことと同じ構造である。
 現在、信教の自由は、仏教やキリスト教信者、反日主義者による見えない国教=神道と国体≠ヨの攻撃に利用されているだけある。
 アメリカで、国民性の拠り所となっているゴッドや聖書を憲法違反としたら暴動がおきるだろう。



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 月刊ベルダ6月号(2016年5月発売)より転載

 日本文明としての神道と天皇

 ●精神分裂症″痩ニとなった日本
 日本が伝統国家であるという歴史的自覚は、現在、ないにひとしい。
 民族的自尊心も誇りもない薄っぺらな日本人がふえたのはそのせいだろう。
 元凶は、歴史教育と憲法である。
 戦後、左翼に占領された歴史学会と教育界・日教組は、皇国史観を目に敵にして、日本史を唯物史観に書き換えた。
 唯物史観は、権力史でもあって、絶対王権(専制政治)が人民に打倒されて近代国家が誕生するという架空の物語である。
 唯物史観の土台となったのが啓蒙主義で、マルクスは、国家は人工的につくりあげられるというルソーの社会契約説を借りて、共産主義革命という政治的オカルトを編み出した。
 三つの社会契約説のうち、イギリス革命はホッブス、フランス革命はルソー、アメリカ革命がロックに依拠し、共産主義革命はマルクス主義に立っている。
 イギリスが保守主義へ反転したのは「万人の戦争」を唱えたホッブスが国家を必要悪とみとめたからだが、ルソーやロック、マルクスは、伝統国家を否定して人民政府を主張した。
 これが共和主義で、米仏を筆頭に、世界の先進国のなかで、共和制をとっていない国家は、唯一、日本だけである。
 日本では、革命はおきなかったが、共和制国家連合とたたかった世界戦争に負けた。
 そして、共和制の憲法をおしつけられた。
 戦後の日本は、伝統国家でありながら、憲法だけが共和制という一種の精神分裂症″痩ニとなったのである。

 ●象徴の力≠ニしての祭祀
 西洋の思想は、正しいものは一つしかないという一元論である。
 一元論が一神教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)にもとづいているのはいうまでもない。
 共和制国家の本質も一元論で、君主に代わって人民が絶対権力をもつのが民主主義である。
 君主が人民に代わっても、構造は同じ一元論で、これを法典化したのが憲法である。
 伝統国家に踏みとどまったイギリスが憲法をもたない理由は、慣例法を民主主義に優先させたからで、チャーチルは、民主主義は独裁政治よりマシなだけの俗物とうそぶいたものである。
 一元論の西洋では、善悪や正不正、適否などの基準のもとで、一方を切り捨てる。
 これは、闘争と淘汰の論理で、ユーラシア大陸では、すさまじい闘争の果てに多くの王国や民族、文化がすがたを消した。
 ダーウインの適者生存説も一元論だが、価値や文化の多様性をささえているのは、競争原理ではなく、共存原理の棲み分け理論(今西錦司)≠ナ、多元論である。
 ヨーロッパも、キリスト教以前は、多元論的な世界だった。
 ギリシャ神話は、日本の神話と瓜二つで、模倣説もあるほどである。
 日本は、神話を土台にした祭祀国家で、ギリシャで祭祀にあたるのが演劇である。
 ギリシャの演劇にも、日本の神話と同様、悲劇と喜劇があって、女神が身を隠して世界が暗闇につつまれるシーンは、天照大神の天岩戸隠れと女神デメテルの隠遁が共通している。
 日本の神話には、天岩戸の前でアメノウズメが滑稽なダンスを踊って大騒ぎをするように、祭祀につうじる演劇性もみとめられる。
 多元論や多神教では、異質なものが、祭祀や演劇によって、一つにまとめられる。
 それが象徴の力≠ナ、祭祀が、永遠の国体という抽象概念をさししめしている。
 三島由紀夫が天皇と祭祀を重ね見たのは、万世一系という歴史的抽象概念を象徴するのが祭祀だからで、天皇の権威は、高天原との契にあって、世俗とは隔絶している。

 ●権威の不在が招いた暗黒の中世
 一元論や一神教は、世俗の論理で、決着をつけるのは、暴力である。
 暴力革命や易姓革命では、王族の血統を断つために根切り(皆殺し)≠ェおこなわれ、フランス革命やロシア革命では数万人の貴族が虐殺された。
 一元論において、敗者や反体制者は、生きることがゆるされない。
 それが暗黒の中世の正体で、絶対王政の暴虐とキリスト教会による異端裁判など、目を覆いたくなる残虐行為が荒れ狂った。
 日本では、後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗と南北朝の対立、足利尊氏の室町幕府が滅亡するまで、応仁の乱や下克上の戦国時代を挟んだ約240年が、暗黒の中世にあたる。
キリスト教によって、古代ローマの多元的な文化や秩序が破壊されていったように、この時期、日本では、儒教など外来文化の影響によって、多神教的な秩序が失われ、天皇中心の神話的秩序が崩壊しつつあった。
 前触れとなったのが後鳥羽上皇による承久の乱である。
後鳥羽上皇は、乱をおこすにあたって、諸国の御家人、守護、地頭らに幕府(北条義時)追討の院宣を発している。
 院宣は、天皇の宣旨に相当する公文書で、歴史上、朝廷が施政権を委託した権力実体に宣戦布告したケースは、承久の乱だけである。
朝廷側は、「朝敵となった以上、義時に参じる勢力は千人もいないだろう」と士気が大いに上がったという。
ところが、後鳥羽の軍勢は、わずか一か月で、義時の軍勢に打ち負かされる。
 承久の乱の戦後処理はきびしいもので、後鳥羽ら3上皇は流罪、仲恭天皇が退位させられたばかりか、膨大な荘園を没収され、朝廷は、京都守護に代わる幕府機関である六波羅探題の管理下に置かれるのである。
 このとき、皇位継承権など朝廷の専権事項の多くが幕府へ移った。
 これがのちに「建武の新政」や「南北朝の対立」へつながってゆく。
 皇位継承権を握られた朝廷が、権威という神話的機能を失い、幕府と政権を争う世俗的権力へと下降してくるのである。

 ●権威と権力のあいだで揺れうごいた朝廷
 日本の中世は、王朝から武家へと政治体制がきりかわった長すぎた転換期といえる。
権威(祭祀王)と権力(大王)を併せもった天武天皇の律令体制は、太政大臣を世襲する藤原一族の摂関政治によって大きな変化をとげた。
 太政大臣は、朝廷における最高官職で、藤原氏は、その地位を利用して天皇と外戚関係をむすび、300年にわたって摂政・関白をつとめ、政治の実権を握るのである。
 摂関政治は、関白藤原道通の三女が入内した後冷泉天皇が子をもうけることなく崩御し、のちに藤原家と外戚関係のない後三条天皇が即位したため、以後、衰退してゆく。
 代わって登場したのが院政で、白河(72代)・(鳥羽(74代)、後白河(77代)・後鳥羽(82代)らの太上天皇による政治が100年近くもつづく。
 天皇と上皇の対立に平氏と源氏が動員された保元の乱と、ともに勝者となった平清盛が源義朝を討った平治の乱によって武家の時代が到来する。
 武家政権を樹立した平清盛は、摂関政治の藤原一族にならって、外戚政治をとるが、源義仲がその平氏を攻めて京都に入り、九州へ逃げた平氏が壇ノ浦で滅びると、朝廷は、武家政権に権力の正統性を授ける権威へと変容していく。
 朝廷(=権威)と幕府(=権力)による権力構造の二元化ができあがったのが鎌倉時代である。
朝廷から征夷大将軍≠フ官位を授かった鎌倉幕府は、全国に守護・地頭を置き、施政権を行使する一方、皇位継承権や祭祀権・人事権(叙任権)、公家や寺社の裁判権、寺社造営のための徴税権など朝廷の専権事項には干渉しなかった。
 この二元論を破綻させたのが、後鳥羽上皇による承久の乱だったのである。

 ●儒教思想に染まっていた建武の新政
 承久の乱の前年、新古今集の歌人で、朝廷、貴族、幕府ともつながりが深い天台座主、慈円の「愚管抄」に引用された百王説≠ェ朝廷に大きな動揺をあたえる。
 中国の僧、宝誌の「野馬台詩」によると、日本の皇統は百代で断絶するというのである。
百王説は、天命という上天信仰にもとづく儒教的な一元論で、易姓革命が成立しない万世一系の神話的秩序と真っ向から対立する。
 後醍醐天皇の建武の新政が失敗に終わったのは、武家政治の封建的君主制と律令制の王土王民思想が相容れなかったからだけではない。
 建武の新政は、権威と権力の一体化という儒教的な一元論に陥っていたのである。
 楠木正成は、後醍醐天皇に、尊氏との和睦を進言したが、聞き入れられず、湊川の決戦で「七生報国」のことばを残して散った。
 正成は、武家政治の時代が到来していたこと、平安時代の王朝政治をもとめた後醍醐天皇の政治が時代錯誤であることを知っていた。
 武家社会は、禄(土地)の安堵と身分の保証をしてくれる幕府や将軍にたいする御恩の代償として、命を惜しまない奉公という封建思想の上に成り立っている。
 正成の報国は、領土(政体)ではなく、国体で、奉公の思想は、天皇を敬う勤皇精神にゆきつく。
 正成は、後醍醐天皇に国体と君主を重ね見て、忠君愛国に殉じたのである。
 後醍醐天皇は儒教へ傾き、勤皇精神の拠り処を放棄して、足利尊氏を朝敵としてしまったのである。

 ●皇位簒奪を謀った義満の野望
 朝敵ということばは、歴史上、便宜的にもちいられてきた。
朝敵と呼ばれたのは、足利尊氏と信長・家康連合軍に滅ぼされた武田勝頼、禁門の変で京都御所に発砲した長州藩、そして、薩長とたたかった(鳥羽・伏見の戦)15代将軍徳川慶喜である。
 戊辰戦争では、会津藩に遺恨をもつ長州藩が同藩に朝敵の汚名を着せ、冷酷非道の攻撃をくわえてもいる。
 朝敵は、本来、朝廷(天皇)に反逆する一勢力という意味にとどまらない。
 国体への反逆が朝敵で、天皇の権威は、万世一系という歴史のなかに宿っている。
 その意味で、最大の朝敵は、皇位簒奪を謀った道鏡と足利義満ということになる。
 皇位の男系相続に別の血統が割って入れば、天照大神にはじまる皇祖皇宗の神話が消滅し、新天皇の祖先が、天皇歴代の祖である神武天皇ではなく、どこのだれともわからぬ入り婿≠フ祖先になってしまう。
 女帝の孝謙天皇の寵愛をえて、太政大臣から法王、さらに、天皇の譲位を望んだ道鏡の野望は、死刑を覚悟で「道鏡除くべし」の神意を言上した和気清麻呂によって阻止されたが、足利義満の皇位簒奪を防いだのは、急死という突発的な事件だった。
 武家の最高位である征夷大将軍と公家の最高位である太政大臣の位階にくわえて、准三后という皇族待遇を与えられた義満は、明王朝への朝貢をとおして東アジア世界における公式な『日本国王』としての地位を手に入れ、勘合貿易(日明貿易)の莫大な利益を独占する大富豪でもあった。
 義満は、国家の祭祀・儀礼の場を朝廷から北山第に移管して祭祀権や叙任権(人事権)、高位聖職者(座主・門跡)の任命権を奪い、天皇の『綸旨』や上皇の『院宣』と同等の効力をもつ『御判御教書』を乱発して、武家と公家の両方を支配した。
義満の功績とされるのが、大内義弘を仲介させた『南北朝合一(持明院統と大覚寺統の両統迭立)』である。
 義満は、50年にわたって膠着状態にあった南北朝の対立を両統迭立の復活という形で解決したが、約束(明徳の和約)をまもる気などなかった。
 南朝の後亀山天皇は、義満の謀略にかかって、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位したのである。
 相国寺七重大塔の供養で、関白以下の公卿・公家・高僧から土下座で迎えられる地位にまで登りつめた義満が手にしていないのは皇位だけだった。
 正室・日野康子を後小松天皇の准母に仕立て、名目上の准上皇となった義満は、四男の足利義嗣を天皇にするべく、宮中において親王として元服の儀式をとりおこない、あとは、後小松天皇から義嗣への禅譲を待つだけというところで、突如、落命するのである。

 ●戦国時代の幕を引いた織田信長
 室町時代の朝廷は、経済的にも逼迫し、後土御門天皇(103代/室町幕府将軍11代足利義澄)が崩御された際は、葬儀の費用がなく、遺体が40日も御所におかれたままだったという。
 足利時代が戦国時代と重なるのは、朝廷の権威ではなく、権謀術数によって政権を維持しようとしたからである。
 足利長期政権の土台をつくったのも義満だった。
 義満の内政手腕は、狡知に長けたもので、同族対立や反乱の煽動、領地争い(分郡守護制度)を誘導して、斯波・細川・畠山の御三家(三管領)や山名ら有力守護大名の潰し合いを工作し、これが義満から三代下った足利義教に時代に京の都を焼け野原にする応仁の乱へ発展する。
 この乱では、全国の守護大名が細川勝元の東軍と山名宗全の西軍に分かれてたたかい、そのまま、戦国時代へなだれこんでゆく。
 戦国時代の幕を引いたのが織田信長だった。
 1568年、信長は、正親町天皇の保護という大義名分のもとで京都を制圧した。
 信長は、逼迫していた朝廷の財政を立て直し、祭祀の復活を援けた。
 そして、正親町天皇に勅命をもとめ、朝倉義景・浅井長政との戦い、足利義昭との戦い、石山本願寺との戦いの講和させている。
 信長は、高倉天皇(80代)の外戚となって勢力を誇った平清盛ではなく、天皇を立て、天皇の権威をもって乱を鎮めた源頼朝の方法をとったのである。
 占領期の日本統治に昭和天皇を利用したマッカーサーのやり方も同様である。
 信長が天皇の地位を狙っていたという説がある。
 ありえない話である。
 信長の政治基盤は、たびたび、正親町天皇に講和の仲介をもとめたように、けっして磐石なものではなく、天皇の権威なくして、権力に正統性がそなわらないことも知っていた。
 信長の薫陶をうけた秀吉や家康もまた、徹底した尊王政策をとって、権力の基礎を固めた。
 朝廷と幕府による権威と権力の二元化は、暗黒の中世という長いトンネルを抜け、信長の手によって、ようやく歴史的復元がなされたのである。



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 月刊ベルダ5月号(2016年4月発売)より転載

 日本は祭祀によって統一された国家

 ●一元論の西洋と多元論の日本
 日本の歴史は、世界のなかで際立った特徴をもっている。
 一つは、二千年以上も昔につくられた国のかたちが、国体として、現在も維持されていることである。
 独自の文化・宗教・習俗が数千年にわたってまもられてきたのは、他国から侵略をうけなかったからで、これも、世界に例がない。
 もう一つは、国家が祭祀をとおして形成されたことである。
 しかも、その歴史が、宮中祭祀という形で、現在もなお、連綿とひきつがれている。
 世界史的にみても、日本は不思議なる国で、『文明の衝突』のハンティントン教授が、日本文明を世界八大文明圏の一つに数えたのは、他のどの文明圏にもみられない独自性をもっていたからである。
 西洋の歴史原理は、日本とはまったく異なる。
 日本が祭祀で国家を統一したのにたいして、西洋は、権力がすべてで、宗教さえ権力の後ろ盾でしかなかった。
 文化や習俗、国の成り立ちの相違は、民族の宗教観念のちがいにゆきつく。
西洋の思想は、一神教=キリスト教にもとづく一元論である。
 一元論において、正義は一つしかない。
 十字軍から海外侵略、植民地政策にいたる西洋の侵略思想は、異民族の征服と奴隷化、異文化の掠奪で、唯一神=一元論のもとでは、異教徒や神の恩恵をうけていない未開人は動物以下となって、終局的には、ジェノサイド(民族殲滅)やテロリズムにまでゆきつく。
 イスラムと白人社会のテロと空爆の応酬は、西洋の一元論からうまれた宗教戦争だったのである。
一神教を科学や合理主義におきかえたのが近代で、自由や平等、民主主義や共産主義は、いずれも、王権を市民に移しかえた革命イデオロギーである。
 米・英・仏・ロ・中の五大強国は、王権神授説をひっくり返した革命国家である。
 近代国家は、革命によって、歴史的遺産=国体を失い、政体のみの人工国家となったのである。
 日本に革命や国家分裂などの大規模な内乱がなく、数千年にわたって同一体制が維持されてきたのは、多神教の恩恵といってよい。
 八百万の神々の一元論的な世界では、共存の原理がはたらき、多様性と変化に富む文化が栄えるのである。

 ●共存した縄文人と弥生人
 日本文明は、狩猟・採集民族の縄文人と稲作民族の弥生人の共存によってもたらされたものであろう。 
 これまで、大陸からやってきた弥生人が土着の縄文人を滅ぼして、鉄と稲作の文化を形成したといわれてきた。
 だが、弥生遺跡から縄文式土器が出土することから、この説は否定される。
 しかも、日本人のY遺伝子に大陸にはない縄文人のDNAが残っていることから、縄文人と弥生人は、混血という形で同化していったとわかる。
 縄文人の神は、太陽や大自然で、空間軸に精霊をみいだすアニミズムである。
 弥生人は、祖霊や地祇など時間軸に神霊をみいだすシャーマニズムである。
 縄文人と弥生人は、すべてを神とする八百万信仰のもとで共存共栄してきたのである。
 邪馬台国の卑弥呼から大和朝廷の基礎を固めた第10代崇神天皇、日本国の土台をつくった第40代天武天皇が、祭祀によって、国家統一をすすめることができたのも、根底にあったのは、八百万の神々への信仰である。
 のちに神道として形式を整えてゆく八百万の神々は、異文化から異民族、天つ国や国つ神、地祇や祖霊、神仏習合ののちには、大日如来までをつつみこむ雄大な宗教観だったのである。
 キリスト教では、聖職者が神のことばをつたえ、仏教では、修行した僧が人々を導く。
 ところが、神道には、教祖や聖典、御神体が存在せず、天国も浄土もない。
 祈願や救済がなく、神の代理人たる大司教や修行をつんだ大僧正もいない。
 一神教(啓示宗教)で、人々が救済をもとめるのは、人類はみな罪人で、この世が苦悩と汚濁の穢土だからある。
 人々は、神の愛や仏の慈悲に救済されるが、それも、死んだ後のことである。
 しかも、信仰が不十分なら、死後、地獄で永遠に苦しまなければならない。
 キリスト教が、中世、王にまさる権力を握ったのは、原罪を創作して、人民の精神を搾取したからで、王権神授説によって、唯一神は、絶対王権の後ろ盾にもなった。
 神道では、この世は、穢土ではなく、人々は命(ミコト)の末裔である。
 日本の国土は、イザナギとイザナミという二柱の神によってつくられたからである。
 神がつくった国が、苦悩と汚濁の地であるわけはなく、神々の子孫が原罪を負っているはずがない。
 日本人のおおらかな精神風土は、神道によってつちかわれたのである。

 ●神道が土台だった古代日本の誕生
 国産み神話は、神産み神話へとひきつがれた。
 伊勢神道では、内宮祭神の天照大神(イザナギとイザナミの子)と外宮祭神の豊受大神(最初にあらわれた天之御中主神や国常立尊の別名)とのあいだで幽契(かくれたるちぎり)がむすばれて、国の形がきまったとされる。
 幽契の内容は、この世を高天原のような理想郷にするというもので、現在を神代の延長としてとらえたのが中今≠ニいう神道特有の思想である。
 神道に天国や浄土がないのは、ひとの幸は、死後ではなく、中今にあるからで、救済思想がないのは、この世が、幽契によってすでに救済がおこなわれた中今だからである。
 神道においては、地上は、神の愛や仏の慈悲にすがらなければならないような穢土でも苦悩の地でもなかったのである。
 高天原は、あくまで、神話だが、その神話をまもってきた先祖たちの真心は実史である。
 そこで、神話と実史が溶け合って、日本民族の精神性が成立した。
 日本人ほど宗教体験がふるまいにあらわれている民族は他に例がない。
 日本人の礼儀や義理、親切や善意、清潔は、神道祭祀の影響で、キリスト者の愛や仏教徒の悟り(成仏)と同様、根源にあるのは宗教感覚である。
 天皇を最高神官とする祭祀国家日本は、神道につちかわれた国民的道徳にささえられていたのである。
 縄文時代の精霊信仰・太陽信仰が、弥生時代になって穀霊信仰や祖霊信仰をくわえ、のちに高天原神話や八百万信仰へ発展してゆき、やがて、天武天皇の代になって、伊勢神宮の昇格や大嘗祭など宮中祭祀がさだめられた。
『日本書紀』と『古事記』の編纂を命じ、天皇の称号や日本の国号をさだめた40代天武天皇は、祈年祭や大嘗祭などの国家的祭祀や神祇制度の整備をすすめ、神道や神社、神話などの土着信仰や伝統習俗にもとづいて国づくりをおこなった。
 一方、大宝律令の前身である飛鳥浄御原令を制定(完成は没後)して、畿内に兵馬を装備、国司が地方豪族の軍事権を掌握して、勢力を畿内から全国へと拡大して、国家形成の基礎を固めた。
 土着の神道と大陸の律令制を融合させて、中央集権を完成させたのである。
 神道の中心となるのが祭祀である。
 祭祀は、信仰告白や神の賛美、感謝や嘆願などをおこなう一神教の祈りとは別物である。
カミとヒトをとりむすぶ作法が祭祀で、浄めや祓い(浄明正直)が一神教の祈りにあたる。
 神意は、すでに満ちているので、心身を清らかにして、神霊を迎え、饗応し、慰め、加護を願うのである。

 ●地方行政の拠点となった神社
 宮中祭祀は、天皇が、国家と国民の安寧と繁栄を祈念して、宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)でおこなう儀式で、現在も、天皇が御告文を奏上する大祭(神嘗祭・新嘗祭など)と掌典長が祭典をおこない天皇が拝礼する小祭(四方拝・歳旦祭など)あわせて年間30に近い祭儀が催されている。
 諸国の神社が整備され、正月や節句、祭りが行事となったのも天武天皇の時代からで、神社のお祭りは、産土神や氏神をお迎えして、称え、寿ぐ式典で、お祝いである。
 神社の神職者は、祭祀王たる天皇に仕える神官で、ここで、都の宮中と地方の神社がつながった。
 古代律令制の二官八省制は、祭祀をおこなう神祇官と八省を束ねる太政官の二頭政治だが、全国の神社を管轄する神祇官は、太政官をしのぐ諸官の最上位であった。
 祭(祀)りを政(マツリゴト)というのは、当時は、豊作を祈る(祈年穀奉幣)ことが国家の大事業で、施政は、マツリゴトの一部だったからである。
 天皇を頂点とする古代律令体制は、天神(天つ神)を祀る官庁組織と地祇(国つ神)を祀る地方行政による二元的な中央集権制で、神社は、地方行政の拠点だったのである。
 天武・持統朝の時代、日本が、全国統一という新時代へふみこんでいったのは、神社が大きな役割をはたしていたのである。

 ●歴史観こそが文化防衛の砦
 日本は、この150年のあいだに、二度、西洋化の嵐に見舞われた。
 明治維新のヨーロッパ化と戦後のアメリカ化である。
 その結果、日本独自の文化や習俗、価値観がゆらぎ、西洋の尺度で物事の価値をはかる風潮がはびこって、歴史観や国家観、文明構造までが歪められた。
 三島由紀夫が、文化防衛論を叫んだのは、その危機感からだった。
 政治や防衛、法治の根底にあるのが歴史や文化、宗教で、これをまもるには、改革とは比較にならないほどの困難とそれに打ち勝つ情熱や知的エネルギーがもとめられる。
 破壊をともなう改革は、一夜にして実現するが、文化防衛は、数千年の蓄積を背負うたたかいだからである。
 ところが、日本では、明治維新における薩長の下級武士、戦後の左翼・インテリが西洋かぶれに陥って、あっけなく文化防衛の壁が崩れ落ちた。
 とりわけ、敗戦・占領という外圧をともなった戦後のアメリカ化は、日本の屋台骨を根底からゆさぶった。
アメリカは、伝統的価値をもたない革命国家で、国家の最古文書が1776年の独立宣言という新興国家でもある。
 戦後のアメリカ化には、西洋主義への屈服と革命思想の移入、新興国家の浅智恵という三重の縛りがかかっていたのである。
 どの国にも神話があり、文化の源泉をたどれば、神話にゆきつく。
 アメリカの神話は、自由や平等、幸福の追求を天賦の人権としたジョン・ロックの自然法思想である。
 その神話がそっくり移入されたのが、GHQ憲法で、日本の文化防衛は、憲法において正面突破されたのである。
 日本国憲法の悲劇は、170年前にうまれた革命国家アメリカには、伝統国家の憲法をつくる資質も資格もなかったことにあったろう。

 ●国体破壊に走った左翼・インテリ層
 そのアメリカも、国体を否定した誤りに気づいて、神道指令や公職追放などの左翼的な対日政策の一部をすぐに解除している。
 ところが憲法は、事実上、GHQの強制であったにもかかわらず、形式上、日本の国会(衆議院・貴族院・衆議院・枢密院)で審議、可決後、公布されているので、解除することは不可能だった。
 戦後、GHQの失策に便乗した左翼・インテリは、官界や司法、マスコミや教育界、論壇や学会を支配して、国家主権や自衛権、皇室の永続性が放棄された憲法を武器に体制・国体攻撃を開始した。
 憲法をまもれという声は、GHQが計画した日本劣化$略を忠実に履行しろという自己破壊の声でもあって、教育界・歴史学会・日教組ら護憲派は、ついに、中・韓に土下座で詫びる自虐史観までつくりあげた。
 日本の史学研究者や歴史学会は、日本が大和朝廷成立以降、江戸末期に至るまで精緻に祭祀国家の形態を維持してきた歴史をつたえない。
 祭祀に焦点をあてなければ、日本史も、日本という国の真のすがたも、日本人の心もわからなくなる。
 西洋は、王権を倒して、近代国家を打ち立てたが、日本は、天皇をまもって、近代国家を打ち立てた。
 日本に西洋の王権神授説がなかったのは、権力の正統性が天皇から授かったからで、専制君主が存在しなかったのは、権威と権力が二元化されていたからである。
 日本史が、西洋史ふうな権力史となって、歴史をとおしてあらわれるはずの文化史・民族史が干上がってしまったのは、皇国史観を嫌悪する歴史家が、日本史の中核にある神道祭祀を除外して、日本という国家の起源や成り立ちを唯物史観に書きかえたからである。
 GHQによる皇国史観排除と歴史家の公職追放によって、戦後、唯物史観と歴史実証主義一色となった反日・歴史学会が、皇国史観を叩きつぶすためだけの存在になっているのである。
 日本国憲法のどこにも、国体や歴史、日本文明にかかる記述がない。
 GHQに旧敵国の体制破壊という目的があったのは疑いえないが、革命国家アメリカには、国体にたいする認識も歴史を解する智恵もなかった。
 日本の保守主義がまもるべきは、近代国家をつくりあげた天皇中心の歴史であって、憲法の改正には、まっさきに、皇室の尊重と国体護持の文言を掲げなければならない。
 市民革命以前の歴史を断ち切った欧米の保守主義(カンサバティブ)から学ぼうというのでは、日本の保守主義は、お先真っ暗なのである。

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 月刊ベルダ4月号(2016年3月発売)より転載

 改憲案に必要なのは伝統国家の智恵

 ●国家と祭祀
 日本は、世界最古の王朝と祭祀共同体を源流とする国体を有する伝統国家である。
 天皇の権威は、権力や社会的地位のように、後天的に個人にそなわるものではなく、伝統の継承で、天皇とは、歴史や国体の象徴にほかならない。
 祭祀共同体の主宰者たる天皇の権威を象徴するのが祭祀である。
 ところが、現憲法には、国事行為から宮中祭祀が除かれている。
 国事行為を定めた憲法7条は、1〜9項まで、具体的に内容が記されているが、10号(儀式を行ふこと)については、典礼内容の記載がない。
 10項に宮中祭祀を明記すべきである。
 宮中祭祀は、天皇が大御宝とする国民の安寧を祈念する儀式で、これを国事行為とすることによって、国体と政体のきりわかれが明瞭になる。
 日本の権力構造は、権力者が天皇の親任をえて、統治者としての正統性をあずかる二元構造になっている。
 天皇が権力者に統治権を委ねるのは、民の国父、クニの氏神だからで、国体の象徴である天皇は、権力とは、二元論的に分離しているのである。
 戦前までの法体系では、法律・勅令などから構成される「国務法」と皇室令・宮内省令などから構成される「宮務法」によって、国体と政体が豁然と分かたれていた。
 憲法学者が、宮中祭祀を「天皇が私的に執り行う儀式」として国事行為から切り離したのは、国体行為の祭祀が政体にとりこまれたせいだが、解釈はいくらでもかえられる。
 天皇の国事行為は、象徴行為であって、マッカーサーが引用した象徴ということばには、もともと、公的権威という意味合いがふくまれている。
 GHQ憲法の象徴天皇は、英国国王がイギリス連邦結束の象徴(シンボル)となったウェストミンスター憲章(1931年)を根拠にしたものだろう。
 王権が儀礼化されて、象徴になったわけだが、儀礼や象徴は、政治において無力でも、文化において決定的な意味をもつ。
 宮中祭祀を国事行為としてしてこそ、憲法に日本の国のかたちがあらわれるのである。

 ●交戦権を否定していない九条
 現在の法解釈では、憲法9条の制約によって、日本は、国家を防衛することができない。
 アメリカが、日本を武装解除した誤りに気づいたのは、中国革命や朝鮮戦争後のことで、以後、米政府首脳は、日本に憲法の改正を望んだが、経済復興を優先させた吉田茂首相は、9条改正に消極的だった。
 日本の安全保障や戦力保持は、「サンフランシスコ平和条約第5条(C)」と日米安全保障条約、国連憲章51条の「個別的及び集団的自衛権」にもとづくもので、憲法によって、国をまもれなくなった日本は、安全保障を国際条約にもとめざるをえなかった。
 朝鮮戦争が勃発した一九五○年、マッカーサーは「九条は自衛のための戦力(軍隊)を禁止するものではない」として、吉田茂首相に警察予備隊の設置を指示した。
 もともと、9条は、軍事行動を全面的に禁じる性格のものではなかった。
 昭和21年、憲法改正小委員会において、委員長の芦田均が第九条二項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を挿入する修正をおこなったからである。
 前項の目的とは、「国際紛争を解決する手段」としての国権発動で、具体的には軍事的侵攻(侵略戦争)をさす。
 芦田修正によって、「国際紛争を解決する手段」から国家防衛が除外された。
九条は、軍隊の保持や国土防衛を禁じてはいなかったのである。
 国家自衛の戦争すらも放棄する、自国防衛のためですら陸海空軍を保持しない、攻撃をうけても交戦権を行使しないというのは、左翼陣営の解釈改憲で、9条の解釈は、マッカーサーの解釈が正しかったのである。
 アメリカ憲法が、主権や国家(共同体)防衛について、条文を記していないのは、防衛や国家主権は、憲法の上位にある不文法だからである。
 国家防衛が憲法の上位にあるのは、交戦権が法の範囲をこえていることからも明らかで、イギリスは、不文法のコモンロー(慣例法)だけで国家を防衛している。
 英米並みに、国土防衛を憲法の上位にある国家原理とみとめておけば、芦田修正をあげるまでもなく、憲法九条にもとづく自衛権に何の制約もなかったのである。
 憲法解釈を左翼憲法学者にまかせっきりにすると、安保法制の衆院憲法調査会のような醜態がくり返されるのである。

 ●国民主権は革命思想
 政治や外交において、主権ほど重要な概念はない。
 主権は、超越的な権利で、世界史は、国家主権をめぐってくりひろげられてきた戦争や革命、国家興亡の記録といってよい。
 一方、主権は、定説のない不確かな概念でもあって、そのあいまいさが政争や紛争の火種となってきた。
 ヨーロッパで主権という概念が生じたのは、絶対王権(王権神授説)の根拠や宗教権力にたいする国家権力の優越性を示すためのもので、元々、便宜的なものだった。
 超越的な絶対権力を立てなければ、王権が安定せず、宗教戦争や領土紛争に決着がつけられなかったからで、国家主権を国家のあいだで承認しあったのがウェストファリア条約(1648年)だった。
 ところが、日本国憲法では、国家主権をとびこして、唐突に「主権が国民に存する」(前文)、「主権の存する日本国民」(第1条)とでてくる。
 国民が国家にまさる超越的な権力をもっていると、根拠を示すことなく、憲法が宣言しているのである。
 法律家・法学者が、これにとびついたのは、法の専門家以前に左翼だったからだろう。
 国民主権は、ジョン・ロックによると、革命権をあわせもっている。
 日本の左翼は、革命をおこすまでもなく、棚ボタ式に国民主権を手に入れて、以後、GHQ憲法を平和憲法とよび、護憲運動に精を出している。
 護憲運動が左翼のスローガンや反体制運動になるところに現行憲法の危うさがあるのである。
 ところが、憲法原案で国民主権をもちだしたアメリカも、ポツダム宣言で「日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国」、憲法前文で「自国の主権を維持」と主権が国家にあることをみとめている。
 左翼は、憲法をタテに、国民主権を叫ぶが、憲法では、国民主権が比喩的にのべられているのにたいして、条文で定義されている主権は、明らかに国家に属している。
 憲法に、主権に言及した条文が二箇所ある。
 第9条の1 国権の発動たる戦争
 第41条 国会は国権の最高機関
 9条と41条でいう国権は国家主権で、憲法は、国権が交戦権で、国会が国権の範囲にあることを明確に指摘している。
 どこの国でも、タテマエは主権在民だが、国権にのみこまれて跡形もない。
 国民主権をまにうけて騒いでいるのは日本だけなのである。

 ●天皇元首論は国体破壊
 国民主権は、憲法において、天皇主権との対比でもちいられている。
 だが、天皇主権は、天皇を政治利用するための工作で、明治憲法下で、天皇が主権を行使したことは一度もない。
 天皇を元首に仕立て、天皇を権力へとりこむことによって、明治政府は、国体を破壊して、日本を帝国主義国家へ改造したのである。
 自民党改憲試案の天皇元首論は、明治憲法への先祖返りで、国民主権・基本的人権・平和主義は、GHQ憲法の踏襲である。
 どちら遺伝子をうけついでも、伝統国家の体裁を保てないのは、改憲試案国体が見えてこないことからよくわかる。
 問題なのは、天皇主権ではなく、天皇を権力にとりこんだ明治政府の手口のほうだろうが、これまで、その経緯を批判的にのべた論説にふれたことがない。
 主権の理論的根拠は、王権が王権神授説、国権がジャン・ボダンの『国家論』で、日本には、もともと、主権に該当する概念はなかった。
 政治的な最高権力者なら幕府の長で、征夷大将軍という官職にあたる。
 征夷大将軍を任命するのが天皇で、天皇は、西洋でいう元首のさらに上位におかれている。
 天皇主権は、専制君主の模倣で、明治政府の王政復古は、大王(オオキミ)の復古ではなく、鹿鳴館同様、ヨーロッパ化だったのである。
 国家主権から国民主権がでてきたのは、革命によって、主権が移動するというルソー流の国民主権論からである。
 日本の憲法学者は、現憲法の国民主権を革命(八月革命)の産物としているが、国民主権を国家原理とした国家は、市民革命がおこなわれたヨーロッパにおいても存在しない。
 革命は、人民が主権を奪い取ることだが、実際は、反乱軍が人民代表を名乗っただけで、人民が蜂起した革命は、世界史上、いちどもおきたことがない。
 ヨーロッパは、君主制の下で国民主権を立てたのであって、革命後、初の憲法(1791年)を制定したフランスでさえ、謳われたのは、国民主権ではなく、立憲君主制だった。
 立憲主義を憲法原理としたアメリカでは、制限されない権力にあたる主権は憲法違反で、アメリカ憲法に国民主権の字句すらない。
 天皇主権も国民主権も、日本共産党の天皇制と同様、左翼の捏造で、日本の憲法論には、いままお、左翼のバイアスがかかったままなのである。

 ●排すべし憲法万能主義
 日本国憲法に、伝統国家の要素が払拭されているのは、革命国家アメリカが戦勝国の立場から敗戦国に一方的おしつけたものだからである。
 革命国家は、伝統国家の知的財産である歴史的な文化的遺産に乏しい。
 したがって、正義や自由などのスローガンを立てなければならない。
 アメリカ憲法では、正義や自由、共同体の防衛などをめぐる法解釈が憲法をこえた不文法の範疇にある。
 もともと、成文法だけで、国家や国民の全領域を規制することなどできない相談なのである。
 イギリスが成文憲法をもたないのは、常識や慣習、判例などの過去の智恵がコモンロー(不文法)として機能しているからである。
 日本も、イギリス以上に長い国史をもっているので、コモンローで十分間に合うはずだが、いまも不毛な憲法訴訟がひきもきらない。
 一方、国際条約が補填している9条をまもれという声も衰えをしらない。
 日本が、世界で常識となっている上位法をみとめてこなかったのは、内閣法制局が憲法解釈権を独占して、本来、解釈と運用を担うべき内閣・政府が、その任務から逃げてきたどころか、「行政府における法の番人」といわれる内閣法制局の見解に一方的な服従してきたからだった。
 内閣法制局の憲法解釈は、条文主義に立っている。
 条文主義は、字面の解釈に拘泥して、背景や諸条件、法が本来めざすべき目的や意図を排除することで、官僚主義の欠陥の一つである。
 集団的自衛権や安保法制を憲法6条違反としか読めない一種の法律バカでもあって、日本の法曹界には、国家主権や公的権威を憲法の上位法と見る聡明さは存在しない。
 聖徳太子の「憲法十七條」も明治天皇の「五箇条の御誓文」も為政者の心構えや新制度の運用を簡潔に記しただけで、法で国家をがんじがらめにする性格はもっていなかった。
 歴史をもたない革命国家や新興国家が、殊更、憲法を重視するのは、人工の法以外に国の形をきめる規範をもたないからである。
 GHQが、日本に革命憲法をあたえたのは、大日本帝国が滅亡して、焦土と化した国土と飢えた人民だけが残った新興国家だったからだった。
その受け皿となったのが、宮沢俊義の「八月革命説」だった。
 昭和20年のポツダム宣言受諾によって、主権が天皇から国民に移り、事実上の革命がおきたとする説で、レーニンの「敗戦革命」から借り物である。
 これにとびついたのが、公職追放令によって、左翼の独壇場となった学界・言論界・法曹界だった。
 宮沢は、憲法学の大重鎮にのしあがり、法曹人ばかりか、学者や文化人までが「八月革命説」の信奉者となって、憲法擁護の旗を振りはじめた。
 憲法問題は、伝統国家の智恵と革命国家のイデオロギーの衝突で、戦後70年たっても改憲できないのは、日本が、いまなお、思想的に敗戦国状態にあるからである。
 憲法改正は焦眉の急である。
 だが、9条や国民主権など左翼憲法学者によって、憲法条文が歪曲されていることにも注意をむけておくべきだろう。

posted by 山本峯章 at 02:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

 月刊ベルダ3月号(2016年2月発売)より転載

 祭祀国家と象徴天皇
 
 ●伝統国家に新興国家の憲法
 国家の三要素として、領域(領土、領海、領空)と人民(国民、住民)、権力(国家主権)があげられる。
 この三つにくわえ、外交権能が、国際法上、主権国家にもとめられる条件とされる。
 もっとも、これは、西洋もしくは革命国家の国家観念で、伝統国家の日本にはあてはまらない。
 歴史や言語や宗教など、民族の遺産というべき国体という文化概念が欠けているからである。
 過去が断ち切られている革命国家では、領域や人民を支配する統治システム、権力機能をはたす政体が、そのまま、国家となる。
 それが、ステーツで、独立宣言以前の歴史をもたないアメリカは、政治的な機能だけで成り立っている連邦政府(ユナイテッドステート)である。
 一方、ネーションは、歴史の遺産を現在にひきつぐ民族共同体で、日本は、政治機能のほかに国体という文化概念を併せもつ伝統国家である。
 伝統国家は、国体という過去と政体という現在が十字に交差して、できあがっている。
 ところが、戦後、日本は、GHQによって、国体という時間軸を抜かれ、伝統国家から、政体という空間軸しかない新興国家へ転落した。
 憲法から日本の独自の国家像が見えてこないのは、国体が欠落しているからで、日本国憲法をつくったGHQの頭にあったのは、民主主義という政体概念だけだった。
 過去をもたないアメリカ人がつくった憲法が、伝統国家である日本の国柄に合致するわけはなく、憲 法概念を逸脱した九条にいたっては、敗戦国にたいする報復措置という代物でしかなかった。
 GHQの対日戦略は、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムと歴史の否定で、廃位を免れた天皇は、国体という歴史から分離されて、日本国と国民統合の象徴となった。
 もっとも、天皇を政体=権力へ置いたのは、戦後のGHQではなく、薩長の明治政府で、国体=権威の危機は、明治の近代化において、すでにくすぶっていたといえる。
 かつて、明治憲法下において、天皇機関説と天皇主権説が対立した。
 両説とも、天皇を政体のトップにおいた明治憲法の誤りをひきずっているのはいうまでもない。
 国体が見えなかったのは、山田孝雄(『国体の本義』)が指摘したように、国体が無意識化されていたからだったろう。
 戦後、天皇は、主権者から象徴となったが、依然として、政体に根拠がおかれている。
 国体の象徴である天皇を政体(憲法)で規定する誤りがくり返されたのである。

 ●祭祀王にしてオオキミだった天皇
 天皇は、元首ではなく、もともと、象徴的存在だったという認識から、象徴天皇を見直す議論もある。
 象徴性は、目に見えない抽象的な価値を目に見える具体的な物象に置き換えることで、剣が権力の象徴なら、ペンは言論を象徴する。
 かつて、権力者だった天皇は、のちに権威となったが、権力の象徴となった事実はない。
 摂関政治や院政、武家政治が権力の委譲であったのなら、天皇が権力の象徴だったことになる。
 それなら、天皇から権力を奪えば、ユーラシア大陸のように、容易に革命や政変が成立する。
 そうならなかったのは、天皇が、権力から離れても、地位がゆるがなかった日本特有の原理があったからである。
 それが祭祀国家である。
 かつて、天皇は、オオキミ(大王)と祭祀王の両方の顔をもっていた。
 大和朝廷が統一される過程で、大きないくさがなかったことやピラミッドに匹敵する巨大墳墓が数多く残っていることからも、祭祀が、国家統一の大きな力としてはたらいていたことは疑いえない。
 日本が、有史以前から祭祀国家だったのは、日本人特有の自然観や宗教観にもとづいている。
 島国日本は、変化に富んだ地形や3大海流に洗われる海岸線があり、自然の幸に恵まれている。四季があり、稲作のほか農耕がさかんで、動物を殺さずに食糧を確保できる農業国だった。
 反面、4つのプレートの上にのった地震国で、列島が台風の通り道になっている。
 自然とともにあった日本人は、八百万の神々に和魂(にぎたま)と荒魂(あらたま)の2つの側面を見て、寿(ことほ)いて祭り、畏(かしこ)みて祀るという独自の信仰をまもってきた。
 その独自の宗教観の頂点にあるのが、祭祀王としての天皇、権力者としての大王で、魏志倭人伝に「鬼道によって人々を惑わす」と記されている卑弥呼の政(まつりごと)も祭祀をさしている。

 ●権威と権力に二元化された支配構造
 大和(古墳)時代の第16代仁徳天皇が、三年間の免税をおこなって「民のかまどは賑いにけり」と謳ったのは、祭祀王の顔で、一方、朝鮮半島の百済や新羅、高句麗の軍とたたかい、東晋に使者を送り、宋の皇帝から称号をうけたのは、大王(倭五王のうちの讃)としての顔である。
 天皇の位は、聖と俗、国体と政体、権威と権力の両方にまたがっていたのである。
 祭祀国家の源流をたどれば、神武天皇と同一人物といわれる第10代崇神天皇にたどりつく。
 崇神天皇は、縄文弥生時代から原始信仰(自然崇拝)の象徴だった三輪山の山麓に初期の大和朝廷(三輪王朝)を建て、大物主神がのりうつったとされる百襲姫にマツリゴトをおこなわせている。
 山麓一帯には、崇神天皇(行灯山古墳)や第12代景行天皇(渋谷向山古墳)の陵のほか、卑弥呼の墓といわれる箸墓古墳がある。
 崇神天皇の治世が邪馬台国の時代の後半と重なるところから、魏志倭人伝に蔑称で記されている卑弥呼が百襲姫だった可能性はきわめて高い。
 祭祀王だった崇神天皇は、一方で、大和朝廷を全国規模の政権に育て上げた政治の天才でもあった。
 日本史には、政治的に高い能力をもつ天皇が、数多く登場するが、祭祀王である天皇が、つねに、為政者として有能であることは困難で、そののち、天皇の政治力は、摂関政治や院政、武士の台頭によって、徐々に形骸化されてゆく。
 第45代聖武天皇は、「三世一身の法」「墾田永年私財法」を発して、天皇がすべての土地と人民を支配する天皇政治の原則を放棄している。
 藤原不比等や長屋王ら公卿にゆだねられた政治は、やがて、源平藤橘4氏が中心となった貴族政治から武家政治へとすすんでゆく。
 その一方、天皇の権威は、ゆらぐことはなかった。
 天皇の祭祀と為政者の権力が二元化されたからである。
 古代社会では、祭祀は、現代人の想像がおよばない大きな力をもっていた。
 古代国家において、権力者が、祭祀王である天皇の許しをえて、施政をうけもつシステムは、自然発生的にできあがったはずである。
 そして、その仕組みは、江戸時代までつづいた。
 平安時代の390年、江戸時代の265年、鎌倉時代の148年と長期政権がつづいたのは、政体が国体の下位にあったからで、戦国時代の100年間と南北朝時代の57年間は、朝廷の権威低下によって、権力が空中分解をおこしたからだった。
 
 ●革命勢力に脅かされる国体
 権威があって、権力がそれにつらなるのではない。
 権力が安定をもとめて、権威をもとめるのである。
 そのメカニズムを熟知していたのが、上洛途中で病死した武田信玄とのちに政権をとった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だった。
 そして、その原理を忘れたのが、院政をはじめた白河天皇、承久の乱をおこした後鳥羽上皇、建武の新政の後醍醐天皇、天皇を国家元首に戴いた明治政府だった。
 ユーラシア大陸型の専制国家は、武力で統一された。
ヨーロッパの王室は、ローマ時代以来の権力と富の系譜で、源平藤橘、徳川家のようなもので、しかも、天皇にあたる上位の権威が存在しない。
近現代は、市民革命によって、伝統国家が革命国家に転身した時代で、主要8か国(G8)のなかで、国体を有しているのは、日本だけである。
 ロシアやフランス、独立戦争で母国イギリスとの歴史的連続性を断ち切ったアメリカのほか、王政復古したイギリスも、チャールズ1世を処刑した清教徒革命とジェームズ2世を追放した名誉革命という 2つの市民革命によって、伝統国家の資格を失っている。
 ドイツは、11月革命(1918年)でカイザー(皇帝)を廃し、イタリアでは、第二次世界大戦後、国民投票によって共和制を採択、国王(ウンベルト2世)を国外へ追放して、それぞれ、革命国家となった。
 オランダやノルウェー、スウェーデン、ベルギー、デンマーク、スペインらの王国も、君主制から共和制に移行して、中国では、共産主義革命がおきた。
 日本は、革命国家群に囲まれているだけではなく、戦後、国家基本法までが革命憲法に書き直されるという試練に耐えて、伝統国家をまもりつづけている。
 野党や労組から、大マスコミや教育(日教組・大学)、論壇までが、反体制を志向しているのが戦後の風潮である。
 反体制が標榜しているは、共産主義や社会主義ではない。
 民主主義と国民主権が至上の価値となって、他のいっさいを排除しようとしている。

 ●個と全体の矛盾を解消した天皇の象徴性
 デモクラシーも主権在民も、文化概念ではない。
 絶対君主制や専制政治に対抗するための政治概念で、多数決や普通選挙法、議会制度をさしているにすぎない。
 ところが、日本では、民主主義と国民主権が文化の領域まで侵犯している。
 文化の領域というのは、国体である。
 国家は、政体が多少、左傾化しても、転覆することはない。政治は、国家と国民の利益をもとめるというレールが敷かれているからで、脱線したら、選挙で、政権を交代させればいいだけの話である。
国家が危機に瀕するのは、国体が脅かされるときである。
 革命は、国体を破壊することで、文化には防衛力がそなわっていない。
 国家をまもるということは、文化をまもることで、内外の圧倒的な革命勢力の圧力のなかで、日本が伝統国家たりえているのは、天皇と国民の紐帯が、それだけ、固いからである。
 日本で、市民革命がおきなかったのは、国家が、国体(天皇)と政体(幕府・政府)の二重構造になっていたからで、天皇から施政権を授かる幕府は、民の敵となる構造になっていない。
 幕府に施政権をあたえる天皇が、同時に、氏子である民とともにある祭祀王だったからである。
 幕府が奉じた大御心が、民を慈しむ皇祖皇宗の心であれば、民を粗末に扱うことは、天皇への反逆となるのである。
 江戸幕府が明治政府に移行したのは、政体交代であって、政体が国体の下におかれる仕組みに変更はなかった。
 天皇元首論が危険なのは、天皇を政体にとりこむことによって、国体と政体の二重構造が崩壊するからで、明治憲法で、国家元首を謳った誤りが、天皇の戦争責任と戦犯処罰という1945年の危機を招いたことを忘れるべきではない。
 世界史をふり返って、国家と人民の関係が円満だった時代は、ほとんどみあたらない。
 国と民は、全体と個の利害が矛盾するように、もともと、対立するようにできているのである。
 絶対王権や専制政治では、国家が人民をおさえこみ、革命によって、権力が人民の手に移っても、結局、同じことがくり返される。
 人民政府は、絶対化・独裁化するので、恐怖政治によって、人民抑圧という悪政が、さらに悲惨なものになるのである。
 近代国家は、専制と独裁、革命の苦い経験からうまれたもので、議会制度や民主主義、普通選挙法が採用されたのは、国家と人民の対立や摩擦を緩和するためだった。
 だが、国家と人民の対立、全体と個の矛盾は、いまだ解消されていない。
 国家と国民の対立が、議会制や政党政治、民主主義や多数決にもちこされただけである。
 個と全体の矛盾を解消できるのは、国家が国民を治め、国民が国体の下で心を一つにし、国体(天皇)が政体(政府)に施政権の正統性をあたえる三位一体構造のみである。
 天皇は、この三位一体構造の象徴でもあったのである。
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 月刊ベルダ2月号(2016年1月発売)より転載

 独自の文明観をもって
 自主外交をとりもどせ

 
 ●相容れない日本と西洋の文明観
西洋と日本のギャップは、解消するのがむずかしい。
歴史や宗教、文明のタイプや国民性などの隔たりが大きすぎるのである。
欧米やユーラシア大陸の国々が異質といえば暴論になるだろう。
 普遍性をもっているのは、西洋やユーラシア大陸のほうだからだ。
 特殊なのは、むしろ、日本で、西洋とは、文化や価値観が根本的に異なる。
 日本は、世界最古の王朝国家でありながら、経済や技術、科学や文化などのほか軍事力や宇宙工学でも、世界のトップクラスにある。
 かつて、日本は、ロシアや中国をはじめ英・米などの大国と戦って、負けたのが、原爆を落とされた先の大戦だけという強大国でもあった。
 全世界を敵にまわした第二次大戦の敗戦にも、日本は、打ちのめされることがなかった。
 空襲による都市と産業インフラの壊滅と原爆投下、連合軍 (GHQ)による7年間余の占領と戦後賠償という敗戦の痛手をうけながら、日本経済は、10年後には戦前の水準に復興、その後、20年間にわたって、10%以上の経済成長を達成して、1968年には国民総生産(GNP)が、当時の西ドイツを抜いて世界第2位となった
 多くの王朝国家が、近代以前にすがたを消した世界史のなかで、日本だけが現在まで繁栄してきたのは、日本が祭祀国家で、古来より、権威(朝廷)と権力(幕府)が分離されていたからである。
 律令制の導入から武家政権の誕生、戦乱と封建体制の確立、そして明治の近代化、前大戦にいたるまで、政体が国体の下位にあったため、権力が移っても、たとえ、戦争に負けても、国家の体制がゆるがなかったのである。
 天皇の下で、士農工商の各階層がゆたかな文化をもち、江戸は、当時、ロンドンをしのぐ世界最大の都市だった。
 識字率が世界一で、絵画や文学、芸能や食文化などの庶民文化が栄え、一方、世界に類のない道徳国家でもあった。
 圧政と争乱、飢えと貧困、身分差別や奴隷制度などの旧弊に打ち沈んでいた中近世の暗黒世界にあって、江戸幕府は、2世紀以上にわたって、侵略をうけることも内乱で国をみだすこともなく、平和と繁栄を保ってきた。
 日本以外の国々や地域では、軍事的な侵略と文化的な同化によって同質性が築きあげられていった。
だが、鎖国していた武士の国には、列強も、指一本ふれることができず、独自の文明がまもられてきたのである。
 西洋文明やイスラム文明、中華文明など、世界を8つの文明圏に分けたハンティントン教授が日本を単一の文明圏とみなしたのは、日本が、他のどこにも属さない独自の歴史と文化、民族性をもつ伝統国家だったからである。

 ●日本文明と西洋文明の衝突
 日本と西洋、ユーラシア大陸では、価値観や文化が異なる。
 土地が農耕に適さないヨーロッパは、放牧・肉食文化圏である。
 土地・農民・作物の三位一体構造がない肉食文化圏で、国家の基礎となったのが、土地の強奪や掠奪経済だった。
 神が与え下さった恵みを取り返す(キリスト教)という好戦性や適者生存という競争原理(ダーウィニズム)がヨーロッパの中心思想で、十字軍の遠征や大航海、植民地侵略もその延長線上にあった。
 したがって、東インド会社などによるアジアの植民地化に、かれらはなんら罪悪感をかんじていない。
 白人の非白人・非キリスト者にたいする残虐非道ぶりは、インカやアステカ帝国の滅亡、アフリカの奴隷狩り、アメリカ・インディアン、オーストラリア・アボリジニの抹殺から大東亜戦争における都市空爆と原爆投下による非戦闘員大虐殺まで一貫したものがある。
 その根底にあるのが人種差別で、欧米人にとって、黒人は奴隷で、黄色人種は使用人、原住民は動物だった。
 西洋のリーダーには「インディアンは滅ぼされるべき劣等民族」と演説して大統領になったアンドリュー・ジャクソンのような人物もいたほどで、下卑で無教養なトルーマンは、100万人の米兵の命を救った大統領というキャッチフレーズをみずから考案して、ポツダム宣言発表の前日、原爆投下の命令書にサインした。
 白人は、自らの生存と繁栄のためなら、人間性をかなぐり捨てるのである。
 この性向は、東アジアでも同様で、世界史上もっとも残酷だったといわれるモンゴル帝国に支配された中国、モンゴルの末裔である韓国・北朝鮮も、悪逆非道ぶりでは、西洋人にひけをとらない。
 一方、日本人の祖先は、一万年も昔から、三内丸山遺跡(5千年前)のような集落をつくって、採集や農耕をなりわいとしてきた。
 集団的な農作業や作物の備蓄、交換から経済がめばえ、素朴な宗教や祭りから技術や文化がうみだされ、古代農耕集落群は、こうして、邪馬台国や大和朝廷へ発展していったのである。
 血で血を洗う闘争と虐殺の歴史を生きてきた民族には、和を重んじ、恵みの神々に祈りを捧げてきた民族を容易に理解できない。
 同様に、日本は、アジアを侵略して、暴虐のかぎりをつくす英米仏蘭の力の論理を容認できない。
 伝統国家の日本と革命国家の西洋やユーラシア大陸の国々では、価値観や歴史観、道徳観を共有することができないのである。

 ●白人支配への反逆だった日本の船出
 日本は、白人による世界支配が完成した19世紀半ばに、国際社会にのりだしていった。
 これが、近代日本の船出で、日本の新しい歴史がはじまったのである。
 最初の大事件が、日清・日露戦争で、次が大東亜戦争である。
 20世紀が帝国主義と戦争、革命の世紀だったのにくわえ、日本をとりまく地政学的な状況も切迫していた。
 ロシアをふくむヨーロッパ列強が、インドや中国、朝鮮半島を侵蝕する一方、アメリカは、ハワイを併合、フィリピンを侵略して、太平洋の西端まで支配権を広げてきた。
 日本は、ユーラシア大陸と太平洋の白人勢力に挟み撃ちされる格好になった。
 日本は、防衛戦を朝鮮半島から満州にまで拡張して、ロシアの南下を防ぎ、アメリカのハワイ侵略には、東郷平八郎率いる軍艦「浪速」「金剛」がホノルル沖に停泊して、王族や住民を虐殺、リリウオカラニ女王を軟禁して革命政権を立てたクーデター部隊(アメリカ兵)を威嚇した。
 日本がアメリカの仮想敵国になったのは、地政学・軍略的な事情にくわえて、日本の海軍が、西太平洋のアメリカの覇権をゆるさず、日本の陸軍が、アメリカの狙う中国利権の妨害者となったからだった。
 白人が有色人種を支配した19〜20世紀に、アジアの有色人国家・日本が軍国主義の道をつきすすんで、列強の帝国主義と対決したのは、近代化に成功したからだけではない。
 もともと、日本が、誇り高き武士の国だったからである。
 それまで、白人にひれ伏す一方だった黄色人種である日本の躍進は、白人世界にとって、目障りな存在から、やがて、有害な存在に変化する。
 というのも、日本が、民族・人種差別と搾取一辺倒の植民地政策に反対する立場をとったからである。
 日本が、人種・民族差別と植民地の撤廃を国策としたのは、西洋の啓蒙主義的な考えからではなかった。
 人種・民族の平等と白人国家による有色人種国家の支配・搾取という世界構造の打破とアジア解放は、アジアの一員である日本の誇りと実利がかかった国家の基本戦略だったのである。

 ●燃え上がった日本への憎悪
 1919年、日本は、パリ講和会議で「人種的差別撤廃提案」をおこなって過半数を超える国の賛成を得ている。
 このとき、議長のウィルソン米大統領が、全会一致による採択法を採用してこれ否決したのは、属国支配や植民地政策をとっている英米ら列強に不都合だったからだった。
 日米が対立関係に入ったのは、ポーツマス条約によって日本が獲得した鉄道管理権の共同経営(桂・ハリマン協定/1905年)を日本側が拒否したからで、これを中国権益の足場にしようと考えていたアメリカは激怒する。
 もっとも、これは、1908年、日本の満州・朝鮮支配とアメリカのフィリピン・ハワイ支配を相互に承認(高平・ルート協定)しあって、一応の決着をみている。
 そののち、アメリカを悩ませる問題が新たに浮上してくる。
 第一次世界大戦(1914年)は、日本をふくむ連合国側が勝利して、日本が山東半島の旧ドイツ権益を継承したほか、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得るのである。
 支那と太平洋に新たな拠点をえた日本は、アメリカにとって、さらなる脅威となった。
 そこで、アメリカは、イギリスを抱き込んで、日本弱体化の戦略を練る。
 アメリカは、主要国9か国をワシントン会議(1922年)に招集して、日本をターゲットに、各国に戦艦の縮減をもとめるのである。
 主力戦艦の保有比率を5(英):5(米):3(日)としたものだが、これには、ハワイ(米)とシンガポール(英)が除外されているので、事実上、日本だけを対象にした軍縮計画だった。
 ワシントン会議で、アメリカは、日本にたいして、「日英同盟」と支那における「日本の特殊権益(石井・ランシング協定)」の破棄(門戸開放)という大きな成果をえる。
 その後、アメリカは、日支関係に干渉してくると、石油と鉄くずの対日禁輸という経済封鎖(ABCD)をおこない、併せて、日米交渉の途中で突然、米国務長官コーデル・ハルが「ハル・ノート」(日米協定基礎概要案)をつきつけてきた。
 その主たる内容は「仏印・中国からの全面撤退」「汪兆銘の国民政府(中華民国臨時政府)の全否認」「三国同盟からの離脱」という宗主国であるかのような命令で、日本が、とうてい、うけいけることができるものではなかった。
 東郷外相は手記にこう書き残している。
「ハル公文はアメリカ当局の予想によれば、交渉が決裂して戦争になるとして万事を準備したのち、日本側の受諾せざることを予期したものであって、日本に全面降伏か戦争かを選択せしめんとしたものである」
 海軍による真珠湾攻撃は、ハルノートの挑発にのったもので、もともと、対米戦争計画は、植民地解放と大東亜共栄思想を謳った基本国策要綱(1940年)や帝国国策遂行要領(1941年)に盛られていなかった。
 ルーズベルトとチャーチルの対日敵視政策が、大西洋憲章(1941年)によって明らかになると、日本は、大東亜会議を開催して、「大東亜共同宣言」で対抗する。
 カイロ会談のあと、チャーチルとトルーマンは、日本への原爆使用と将来的な核管理、戦後の工業化阻止、武装解除の維持などの対日政策をとりきめて、白人優位世界をゆるがしてきた日本への措置がここで決定する。
 それがハイドパーク協定で、これが、そののち、ヤルタ・ポツダム宣言へひきつがれる。
 日本壊滅を望んだのは、英米だけではなかった。アジア全域の共産化に野望を燃やすロシアも、南京政府(汪兆銘)を倒すため、英米のヒモつきとなった重慶政府の蒋介石も、コミンテルン支部の毛沢東も、日本打倒に血眼になるのである。

 ●存在しないYB体制の正当性
 トルーマン、チャーチル、スターリンの3首脳がベルリン郊外のポツダムに会して、昭和20年7月26日、日本に降伏を勧告する「ポツダム宣言」を発表した。
同宣言は、降伏の脅し文句と降伏条件を示した勧告書で、領土条項は全13項のうちの8項のみである。
「ポツダム宣言」の第8条に「カイロ宣言の条項は履行する」とある。
 だが、カイロ宣言には日付や三首脳の署名がなく、チャーチルは、イギリス国会(1955年)で同宣言書の存在すら否定している。
 ルーズベルトが蒋介石を呼んだのは米英中3巨頭≠ニおだて上げ、日本との講和へ傾いていた蒋に釘をさすためで、1914年の第一次世界大戦以降に日本が獲得した満州と台湾、澎湖島の中国への返還は、ルーズベルトと蒋の私的な口約束にすぎない。
 そもそも、カイロ会談は、2日後(1944年11月28日)に開催された初の3巨頭(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)会談(テヘラン会談)に合わせてルーズベルトが小細工したもので、チャーチルが「ダマされた」と地団駄をふんだように、世紀の大芝居だったのである。
「樺太南部およびこれに隣接する島々」「全千島列島」と名指しで日本領のソ連への返還が謳われたのはヤルタ協定においてであった。
 だが、ソ連領のクリミア半島ヤルタでルーズベルト、チャーチル、スターリンが集っておこなわれた秘密協定は、米英ソの軍事協定であって、法的な拘束力をもつ国際条約ではなかった。
 アイゼンハワー大統領は、ソ連の参戦と日本領土の譲渡を約したルーズベルトとスターリンの密約は、個人的な約束事だったとして、無効宣言をだしている。
 ヤルタ・ポツダム体制は、ルーズベルトの迷妄であって、なんら法的効果を有していない。
 国家防衛には、三島由紀夫が『文化防衛論』で唱えたように「尚武の精神」がもとめられる。
 それには、GHQ憲法を廃棄して新憲法を建て、軍備を充実させ、日本独自の文明観を堂々とおしとおしていけばよいのである。
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2017年02月09日

月刊ベルダ1月号(2015年12月発売)より転載

 伝統国家日本に
 憲法はいらない

 ●憲法に消された国家観・国体観

 憲法から国家が見えてこない。
 歴史や伝統、文化をつつみこんだ国体も消えている。
 あるのは国民主権だけだが、23項も並べられている国民の権利は、天から授かった(社会契約説)とされているので、国民の権利を担保する統治機構としての政体も宙にういている。
 国体や国家、政体の影が薄い戦後日本のなかで、唯一の権威となったのが憲法で、第99条では、総理大臣から天皇にまで、尊重と擁護の義務を負わせている。
 GHQが投げ与えた紙切れの下に、国家や政府、国体までが組み伏せられているのである。
 それでも、日本が、戦後、国家として存続しえたのは、紙に書かれた憲法に代わって、国体や国家、政府の原理的な力が機能してきたからだった。
 憲法が武装を禁じても、国家は、共同体の自衛権にもとづいて、武装する。
 戦後、日本が、憲法九条をはじめ、憲法のクビキをのりこえて、主権国家としてふるまってきたのは、万古不変の国体を有する伝統国家だったからである。
 国家は、はじめから、国家だったわけではない。
 その前にクニ≠ニいう共同体があり、そこに、権力構造(=統治機構)が樹立されて、国家が誕生した。
 クニは、神話時代からの歴史や文化の系列で、国体にあたる。
 統治機構は、権力による支配体系で、これが、政体である。
 タテ(時間)軸の国体と横軸(空間)の政体が十字に交わって、日本という国家がつくりあげられているのである。
 憲法は、そのなかで、政体に付属している。
 政体は、国民と国家の利害や外交関係を調整する機能で、国民が治安や国防の心配をせずとも、政府が万全を尽くし、政府が干渉せずとも、国民は経済的に自立し、法をまもり、納税義務をはたす。
 憲法は、権力や権利の行使におけるルールブックで、その法の力が、国体や国家へ効果がおよぶものではない。
 ところが、日本では、憲法が政体を超え、法治主義の名のもとで、国体や国家をのみこむまでに怪物化している。
 そこから、国家観や国体観の崩壊が生じた。
 国体や国家、政体が、それぞれのありようで組み合わさっていた国のかたちが、憲法という絶対法の下に一元化されて、旧ソ連のスターリン法のように、法がファッショ化しているのである。
 現在、国体と政体、クニと国家の区別がほとんどなくなって、保守政治家までが「日本は民主主義の国」などとのべる。
 政体は、戦後民主主義であっても、国家をささえているのは、「公の精神」や国にたいする誇り、国益主義などの国家観である。
 現在の政治家の頭にあるのは、民主主義と主権在民だけで、その先にある国家や国体が見えていないのである。

 ●革命国家では憲法が国体
 憲法が、戦後、日本の最高規範となったのは、憲法をおしつけたアメリカが伝統的共同体をもたない革命国家で、イギリスから独立して日が浅い新生国家だったからである。
 革命国家では、政体が、そのまま、国家となる。
 憲法が、自ずと国法となるのである。
 明治憲法では、憲法や議会に拘束されなかった皇室典範が、戦後憲法の一部となったのは、国体が存在しないアメリカ流である。
 アメリカの元首は、政府の長たる大統領である。
 一方、日本の元首は、政権から離れている天皇である。
 それが、伝統国家の証で、政体のほかに、国体という文化構造をもっている。
 元首は、国際儀礼上の地位で、天皇は、アメリカ大統領や中国国家主席より上位におかれる。
権威の根拠は、世襲と伝統的共同体(クニ・国体)で、天皇は、祭祀国家に祭祀主である。
天皇の権威を象徴するのが世襲(万世一系)と祭祀(宮中)で、権威が、政体の正統性をささえている。
革命国家では、伝統的権威の代用として、国家基本法が立てられる。
イデオロギーや法を国家の上位におくのが、革命国家で、スターリン憲法や毛沢東語録によって、数千万、数億の人々の命が奪われた。
国家の繁栄と民の幸を祈る祭祀は、絶対善である。
一方、権力や法、イデオロギーは、絶対悪である。
絶対悪と絶対悪の権力抗争が、戦争や革命で、アメリカが革命国家でなかったら、予告なしの原爆投下や都市空襲はなかったろう。

 ●憲法に破壊された国体
 革命国家の綱領にして、政体の基本法にすぎないものを、伝統国家である日本の最高法規とした場合、何がおきるか。
 国体が崩壊して、おそるべき政治的退廃が生じる。
 日本では、国体と政体が上下に組み合わさって、国家が形成されてきた。
 その国体が失われると、政体は、不安定になる。
 政治が不安定になると、法や権力に依存せざるをえない。
 その結果、過剰な法治主義に陥って、政治がさらに無能化する。
 国家防衛は、政体や法の枠を超える。
 防衛は、政策ではなく、共同体の本能行動だからである。
 皇室問題も、政治や法のカテゴリーにくくることができない。
 国体は、政体の上位にあるからである。
 防衛や国体問題など、政体をこえるものを憲法にゆだねると、問題の本質が歪められて、国家の機能が麻痺する。  
 現在、日本では、憲法が謳い上げる民主主義が絶対価値となって、民主ファッショが横行している。
 安保法制反対の提言を発表した5人の元首相(細川護煕・羽田孜・村山富市・鳩山由紀夫・菅直人)が、「民主主義の国の首相としての資格がない」(菅)と安倍首相を批判したのも、そのケースで、日教組教育で育った戦後の政治家には、民主主義が人類の崇高な理想と映っているのである。
 憲法前文によると、国政は、国民の信託によるもので、権威の根拠や権力の行使が、国民の側に委ねられ、国政の福利を享受するのも、国民である。
 しかも、国民は、本来、国家しかもちえない絶対権力(君主権=ソブリンティ)までもっている。
 これでは、革命をおこす必要もないので、左翼は、人民政府の実現をもとめて、護憲運動をくりひろげるのである。
 憲法が、役に立っているのは、反<国体・国家・政府>運動にかんしてだけで、「民族自決権(国連人権理事会)」を叫ぶ沖縄の翁長雄志知事は、辺野古の基地拡張が憲法(92条/地方自治の基本原則)違反だとして、政府を訴えている。
 左翼・反日派にとって、滅びたマルクス主義、ルソー主義に代わって、憲法が最後の命の綱≠ナ、反政府プラカードや赤旗を立てて、「憲法を守ろう」と叫んでいる。

 ●国体なきところに国家なし
 鳩山由紀夫が訪韓して、抗日の象徴である西大門刑務所歴史館(併合時代に政治犯を収監)で、靴を脱ぎ、土下座して、カメラの放列に身をさらした。
 頭の片隅にでも、国家という観念があれば、土下座など、一国の首相だった者の誇りがゆるさないところだが、左翼や反日派には、背負うべき、誇るべき国家がどこにもない。
 愛国心がないのではなく、頭のなかに国体や国家がないので、祖国を愛するというマインドがどこからもわいてこないのである。
 国体の喪失については、明治維新にまで遡らなければならない。
 明治政府は、天皇を権力にとりこみ、国民を国家に帰属させ、高天原の神話を国家神道というイデオロギーにもちあげた。
 権威=祭祀主を権力者=国家元首に仕立てた明治維新によって、国体と政体の境界線が取り払われて、日本は、西洋の革命国家のコピーとなった。
 戦後は、法を唯一の規範とするアメリカに倣って、国家を捨てた。
 アメリカは、ユナイテッド・ステート(政体連合)で、ネーション(国家)ではない。
 革命国家では、議会や大統領が、君主に代わって、国家主権をにぎる。
 国体をもたないアメリカは、政府(大統領・議会)が国家なのである。
 領域(領土・領海・領空)と国民、国家主権を国家の三要素≠ニするのは、政体=国家とする西洋の考え方である。
 主権が君主権(ソブリンティ)なら、民は領民で、主権がおよぶ領域までが領土である。
 ヨーロッパでは、領土が国家に発展したので、領主と領民の対立関係がそのまま残されて、主権が交代する革命の火種となった。
 事実、フランスやロシア、アメリカなどの先進国は、革命国家で、イギリスも、国王(チャールズ一世)が死刑になって、一時期、共和制が導入されたので、厳密には、伝統国家ということはできない。
 日本の国体は、西洋における領土国家の上に権威がのった形で、民も領土も天皇から預かったものである。
 それが国家で、イギリス(ユナイテッド・キングダム)は、イングランドとスコットランド、ウェールズ、北アイルランドのネーション連合である。
 ネーションは、共同体で、国民性や民族性、文化、習俗を共有する。 
 アメリカのステーツは、法や権力にもとづく機能体組織である。
 日本で、自衛隊を憲法違反だとする論理は、自衛隊を政体の一部とみるからだが、国土防衛は、政体ではなく、国家からの要請で、憲法の法の力は、国家におよばない。
 日本の軍隊は、防人の昔から前大戦の特攻隊、自衛隊にいたるまで、共同体(国体)をまもる皇軍で、政府ではなく、国家や国体に属している。

 ●君民一体と民主主義
 日本には、「君臣一体」「臣民一体」や「君民共治」という思想がある。
 君民共治は、基本的人権や民主主義(一般的意思)を唱えたルソーが、人類至高とした体制で、「君民共治は、望むべくもないので、やむなく、民主主義をえらぶ」とのべたことは、広く知られている。
世界一、文化的な国民国家だった江戸をみるまでもなく、日本で民が栄えてきたのは、君民一体という高度な思想が根づいていたからで、民は、幕府ではなく、赤子として、天皇に属していた。
 日本は、神道にもとづく祭祀国家で、天皇は祭祀主で、民は氏子だった。
 民が天皇を崇めたのは、民が心の支えとした神話や鎮守の森(神社)信仰の代理神で、クニの起源である高天原に、日夜、民の平安を祈っておられるからである。
 天皇は、権力ではなく、日本という国家の核≠ナあって、神話につらなる日本というクニは、天皇という歴史文化の総体を核として、成り立っている。
 天皇は、天津神で、日本は、幕府という権力機構の上に、クニという神的な構造をおき、天皇という天津神(権威)が、幕府という国津神(権力)に統治の正統性をあたえる二重構造をとってきた。
 鎌倉幕府が、蒙古襲来(元寇)に、死力を尽くしてたたかったのは、国家をまもるためで、幕府(政府)は、天皇にたいして、国家をまもる義務を負っている。
 それが政体で、日本国は、開闢以来、律令制が導入された飛鳥・奈良時代の一時期を除いて、国体(権威)と政体(権力)が分離した二元体制がとられてきた。
 天皇が権力者だったのは、隋・唐に倣って、律令制の導入が本格化した天智天皇(668年)から、天武・持統朝によって大宝律令(701年)が制定されたのちの百年ほどで、官僚制は、構造上、絶対的な権力者を必要とするのである。
 律令体制も、平安朝には崩壊して、朝廷と公卿、武士(豪族)の二元体制が復活する。
 桓武天皇(781年)によって、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される一方、「源平藤橘」(四姓)などの廷臣勢力が台頭してくると、天皇は、再び、官位を授ける権威(祭祀主)となって、権力から遠ざかる。
 それが、クニの中心に天皇がおられるということで、その体制が、連綿と現在までつづいている。
 日本の政治機構は、世界に類がないほど高度で、精妙にできている。
 日本のクニ、国体、政体、国家に比べると、戦争と革命の産物である民主主義国家は、粗雑というほかない。
 わが国の政治をふり返ることなく、アメリカ民主主義やマルクス主義にとびつき、「平和憲法を世界に輸出すべし」というのが、日本の護憲派である。
 輸出すべきは、インチキ憲法ではなく、世界最古の祭祀国家をささえてきた国体と政体、権威と権力の伝統的な二元論なのである。
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2017年02月08日

月刊ベルダ12月号(2015年11月発売)より転載

憲法九条がもたらした
戦後70年の平和ボケ

 ●憲法九条の平和は白旗≠フ平和
 護憲主義者や左翼は、憲法九条が、戦後70年の平和をまもってきたと主張する。
 大ウソである。
 日本は、憲法九条によって、戦争もできないような腰抜け国家≠ノなってしまっただけの話で、戦争がなかった戦後70年、日本は、平和の美名の下で、のうのうと主権を危機にさらしてきた。
 主権侵犯が、北方領土や竹島、尖閣危機、北朝鮮拉致事件にとどまっているのは、極東米軍が防波堤になっていたからで、日米安保条約がなかったら、日本は、ロ・中・韓・朝の軍事的脅威に、キリキリ舞いさせられていたろう。
 1952年の李承晩ラインによって、拿捕された日本漁船は328隻、抑留された船員は3929人、銃撃などによる日本側の死傷者は44人に上った。
 竹島は、李承晩ラインの領土侵略だが、軍隊どころか沿岸警備隊すらもっていなかった日本は、韓国警備艇や54年に配備された竹島の韓国常駐守備隊に手も足もでなかった。
 北方領土についても、日本は、旧ソ連に力でねじ伏せられたままである。
 ソ連軍が、千島を攻撃・占領したのは、日本がポツダム宣言を受諾して停戦が成立した1945年8月15日以降(8月28日〜9月5日)で、日ソ中立条約(期限1946年4月)が失効する半年以上も前だった。
 ソ連は、停戦違反と条約違反という二つの国際法を破って、千島列島と北海道の一部である歯舞・色丹を奪ったのである。
 ところが、日本政府の北方領土返還は、歯舞・色丹と千島列島20島のうちの国後と択捉(合わせて北方4島)だけで、ロシアが残りの18島の領有していることに一言も異議を唱えてこなかった。
 ロシアは、1945年のヤルタ会談を根拠にするが、スターリンとルーズベルトの密約は、日ソの領土問題には何のかかわりもなく、米国務省(アイゼンハワー大統領)も、ヤルタ協定は、ルーズベルトの個人的文書で、米国政府の公式文書ではないと宣言している。
 にもかかわらず、日本政府が、千島18島の返還を放棄したのは、敗北主義で、戦後70年の平和は、争わねば奪われる一方となる白旗≠フ平和だったのである。

 ●みずから断ち切った自主独立路線
 ヤルタ協定によって解決済みとされていた北方領土問題の突破口をひらいたのが、田中角栄だった。
 1973年、モスクワ入りした角栄は、ブレジネフ書記長、コスイギン首相、グロムイコ外相を相手に、正論を立てておしまくり、四本指を立て、歯舞、色丹、国後、択捉の四島返還が未解決と迫って、ブレジネフから「ダー(イエス)」と言質をひきだした。
 毛沢東や周恩来、ケ小平の心をつかみ、日中国交正常化させた角栄は、日米安保、日ソと日中の国交正常化によって外交上の憂いを断ち、あとは、経済で世界をリードしてゆくだけと胸を張ったものである。
 角栄がめざしたのは、日本の自主独立で、全方位・資源外交が、アメリカの逆鱗に触れたのは、日本を戦争に負けた属国とみなしていたからだった。
 外電で「ロッキード事件」がとびこんできたとき、検察・司法から朝日新聞・文藝春秋らマスコミ、野党勢力、自民党の反角栄派まで一斉にとびついたのは、角栄潰しの背後にアメリカがいたからだった。
 これも、憲法九条の弊害で、自力で国家を護れないのなら、アメリカにすがりつくほかなかったのである。
 榎本敏夫元秘書は、亡くなる数年前、わたしにこんな話をしている。
「丸紅から5億円の政治献金を受けたと話しましたが、それが、調書に記されていなかった。検察がやったのは、正当な政治献金をロッキード社からの賄賂にすりかえることでした」
 ロッキード社の極秘資料が米上院外交委員会の多国籍企業活動調査小委員会に誤配されて、発覚したとされるロッキード事件は、キッシンジャーが「やりすぎ」と批判したとおり、対日謀略で、ロッキード社では、だれ一人、贈賄を咎められていない。
 日本は、みずからの手で、自主独立路線を葬ったのである。

 ●中・韓から侮られる拝米保守
 ロッキード事件以後、竹下のプラザ合意、宮澤のバブル潰し、橋本の金融自由化、日米構造協議にもとづく小沢の430兆円赤字国債、さらに、年次改革要望書など、日本の対米従属外交が延々とつづき、日本は、坂道を転がるように劣化していった。
 このかん、中国や韓国の対日姿勢も激変した。
 日本を近代化の模範としてきた中国、日本を頼もしい兄貴分としてきた韓国が、日本をアメリカの属国≠ニして、侮りはじめたのである。
 追い討ちをかけたのが日本の土下座・謝罪外交で、訪韓した宮澤は80回もお詫びのことばをのべたという。
 靖国参拝や歴史認識などの問題は、先に日本側が謝罪して、あとから中国や韓国が抗議を申し入れるというさかさまの構造で、慰安婦問題では、河野洋平官房長官がウソをついて、韓国に反日運動の材料をあたえるという信じがたいふるまいにおよんだ。
「中韓の感情を害してはならない(近隣諸国条項)」とする宮澤談話から大東亜戦争を侵略戦争と定義した「村山談話」に至るまで、日本は、みずから自国を貶め、自己否定する愚行をかさねてきた。
 それが、親米ならぬ拝米保守で、主権や国益を投げ出して、アメリカに隷属することが、保守政治の背骨となった。
 これにたいして、民主党などの革新勢力は、媚中・親韓の一辺倒で、日本の政治は、アメリカに隷属するか、中国に媚びるか、そのどちらかという有様になっている。
 中国が軍事基地化をすすめる南シナ海の人工島周辺12カイリ内に、米軍のイージス駆逐艦が進入すると、日本のテレビ(バラエティショー)では、人気タレントや文化人らが「オトーとオカンがケンカになりそうや。どっちついたらトクなんや」などのトークがくりひろげられた。
 南シナ海は、日本のタンカーの通り道で、封鎖されたら、日本は、大ピンチに陥る。
 1970年代の石油危機を機に、日本は、石化燃料への依存度を100から50%に抑えるため原子力発電の建設をすすめ、68%になったところで福島原発事故がおこり、現在は、再び、98%にもどっている。
 化石燃料の輸入増は、年4兆円にたっして、消費税2%分が消える計算になるが、日本人は、平和主義的な響きにのせられて、原発反対を叫んでいる。
 憲法九条がもたらしたのは、平和ではなく、平和ボケだったのである。

 ●官僚と学者が利得化した憲法九条
 憲法九条を利得化したのは、日本の支配層、とりわけ官僚であろう。
 国家主権(交戦権)をもたない半人前国家では、既得権をもつ役人が、甘い汁を吸えるのである。
 保身主義・組織温存主義が身上の高級官僚は、天皇からGHQにのりかえて戦後日本の骨組みをつくりあげた。
 東郷外務大臣から電報送信の日時を知らされていたにもかかわらず、大使館を留守にして、「対米宣戦布告」の通達を遅らせた日本大使館の職員が、戦後、全員、外務省で異様な出世をしている。
 野村吉三郎大使は、吉田茂の顧問として、海上自衛隊の創設にかかわったのち、参議院議員から日本ビクター社長へ天下り、寺崎英也・井口貞夫・奥村勝蔵書記官の三人は、順番に外務省外務次官になったほか、当時の職員も、駐米大使や国連大使などへ栄進している。
 外務省は、戦後、アメリカの出先機関と化していたのである。
 南京大虐殺や従軍慰安婦などのデマゴギーに、外務省は、いっさい反論していない。
 外務省は、ユネスコの記憶遺産に「南京大虐殺文書」が登録決定されたことを遺憾とする報道官談話を発表したが、その土台をつくったのは、ほかならぬ外務省で、これまで、外務省が異議を唱えなかったことによって、大ウソが歴史的真実になってしまったのである。
 憲法九条をまもってきたのが、左翼とマスコミ、憲法学会である。
 憲法学者は、新憲法によって、軍国主義が解体して、主権が天皇から国民に移ったとして八月革命説≠主張する。
 新憲法によって、日本は、平和国家にうまれかわったというのである。

 ●憲法違反だった憲法九条
 護憲派が論拠にしているのが「無条件降伏」論である。
 日本は、ポツダム宣言を受諾して、無条件降伏したので、占領中の法改正を禁じた「ハーグ陸戦法規」にはあたらないというのである。
 ポツダム宣言は、日本政府にたいして、陸海軍の武装解除と解体をもとめたもので、13項に「日本政府にたいして、日本軍隊の無条件降伏の宣言を要求する」とある。
 国内の徹底抗戦派や中国・満州など海外の日本軍が自ら武装解除したのは、日本政府(天皇)の命令によるもので、無条件降伏したからではなかったのである。
 占領という日米の戦争状態は、昭和27年のサンフランシスコ講和条約発効)までつづく。
 無条件降伏したので、憲法原案(英文)の押し付けはハーグ陸戦条約違反にあたらないというなら、ポツダム宣言は何だったのか。
 アメリカの押し付けではなかったというなら、当時、GHQが駐留していた日本に自主的に憲法を定めるに主権があったのか。
 憲法改正の議論の前に「ハーグ陸戦条約」違反を立証して、廃憲を決議するのが先決で、新憲法は、前例に倣って、国会法でとりきめればよい。
 日本国憲法の冒頭に昭和21年11月3日付けの勅語が付帯している。
 そこに「帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とある。
 現憲法は、帝国憲法の改正というのである。
 したがって、天皇が直接、政務を執れないときは、憲法を改正してはならないという帝国憲法第七十五条に拘束される。
 占領下における天皇は、直接、政務を執れる状態にはなかった。
 帝国憲法を改正した現憲法は、憲法違反だったのである。
 これを根拠にすれば、国会で、改憲もしく廃憲を議決(多数決)しても、なんら問題はない。
 護憲派が憲法違反というなら、現憲法も、改憲を制限した帝国憲法第七十五条違反だったではないかと反論すればよいのである。

 ●安全保障を国連改革にもとめた安倍首相
 国連総会(軍縮・国際安全保障)は、すべての国が核兵器の全面廃絶のため共同行動を取るとした日本主導の決議を、加盟国の約8割にあたる156か国の賛成で採択した(22年連続)。
しかし、同決議に米・英・仏が棄権したほか、中国、ロシア、北朝鮮など核兵器保有国が初めて反対を表明した。
 米・英・仏・ロの棄権や反対は「核兵器の非人道性」が謳われているためであろうが、中国は「日本は広島や長崎の被害を強調する一方、南京大虐殺などの戦争犯罪をみとめていない」「侵略戦争の必然的結果」と敵対意識むきだしだった。
 五大戦勝国(米・ロ・英・仏・中)が拒否権をふりまわす現在の国連には、アジアの安全保障を担保する機能も意思もそなわっていない。
 なにしろ、国連安保理の常任理事国たる中国が、核と世界第3位(1位アメリカ、2位ロシア、4位日本/クレディ・スイス調査)の軍事力をちらつかせて、アジアの独立と安全保障を脅かしているのである。
 日本は、核を所有せず、表向き、長距離ミサイルももっていない。
 通常兵器なら中国とやりあえても、核ミサイルをつきつけられると、勝負にならない。
 安倍首相の国連改革構想は、国連を大改造して、戦勝国同盟から、核の安全保障システムへ格上げしようというものである。
 現在、国連加盟国は、193か国にふえたが、安保理の仕組みは、加盟国が51か国だった発足当時から何もかわっていない。
 日本がもとめているのは、常任理事国入りと拒否権の撤廃である。
 日本・ドイツ・インド・ブラジルの4か国が常任理事国入りし、現在の5常任理事国がもっている拒否権を9か国の多数決にきりかえれば、国連の機能は戦勝国による独裁的支配体制から平和同盟にきりかわる可能性がでてくる。
 日本の常任理事国入りは、193国連加盟国のうち、160か国以上が支持しているので、「3分の2(129か国)条項」はクリアできるが、常任理事国の中国が拒否権を行使すれば、暗礁に乗り上げる。
 だが、台湾を国連から追放して、北京政府を常任理事国とした「アルバニア決議(1971年)」と同様、安保理の権限外の総会決議にもちこめば、中国は拒否権を行使できず、日本がもとめる国連改革は、現実のものとなる。
 憲法九条にしがみつく一国平和主義や対米依存から抜け出すために、国連を戦勝国連合から核の共同防衛≠フ場へ昇華させようというのは、賢明な努力であろう。
 国連が、独立国家の連合体となるとき、日本は、憲法九条の呪いから解かれるのである。
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2015年11月18日

 国家と国体 K 月刊ベルダ11月号(2015年10月発売)より転載

 ●地政学上の要衝に位置する日本
 地政学的な特性を抜きに、日本の防衛を考えることはできない。
 平和論者のなかには、非武装中立論(九条遵守)を唱える者がいるが、非武装中立のコスタリカや武装中立のスイスと日本では、地政学的な条件が異なる。
 日本は、4つの領海(太平洋・日本海・東シナ海、オホーツク海)を隔ててアメリカとロシア、中国、韓国、北朝鮮と隣接している。
 しかも、通商や軍事面において、5つの国と密接な利害関係をもつ。
 ロシア(ウラジオストック)や中国、朝鮮半島にとって、日本は、太平洋へでてゆく妨害者で、太平洋を独占したいアメリカにとっても、邪魔者である。
 侮りがたい大国で、原爆を投下された太平洋戦争以外、戦争に負けたことがない。
 伝統国家でもあって、革命国家であるこれら5つの国とは、文化や価値観が異なる。
 地政学的要衝に位置する日本は、元々、周辺国から敵視、あるいは疎まれる運命を背負っていたのである。
 江戸時代は鎖国でしのぎ、明治に入って帝国主義を立て、日清・日露、第一次大戦に勝ち、国際的地歩を固めたが、前大戦では、敗北した。
 そして、憲法九条によって、丸腰にさせられたが、日米安保条約と再軍備をもって、再び、独立国家の体裁を整えた。
 国際情勢に、大きな歴史的変化はあったものの、利害対立国群に包囲された日本の地政学的条件は、大戦前から変わっていない。
 憲法九条によって、平和がまもられてきたというのは、とんだ妄想で、日米安保と自衛隊が、旧日本軍に代わって、戦争のない状態(=平和)をつくりだしてきたのである。
 第二次大戦が終結してから70年がたち、戦勝国が世界を支配する戦後体制は、米ソ冷戦構造崩壊後、急速にほころびはじめ、イラク戦争以後、アメリカが世界の警察官≠ニしての役割をはたせなくなるに至って、ほぼ瓦解した。
 くわえて、中国の台頭によって、アメリカの一極支配は、いよいよ、怪しくなっている。

 ●アジアに迫り来る危機の構造
 現在、アジアの軍事バランスは、二つの局面で、微妙に変化しつつある。
 一つは、中・韓接近で、半島有事によって、韓国が、中国と北朝鮮連合にのみこまれる可能性がでてきた。
 もう一つは、米軍のアジアからの撤退で、韓国からの完全撤兵と沖縄海兵隊のグアム島移動によって、近い将来、アジアにおけるアメリカ軍の影が薄くなる。
 第七艦隊も、指令系統が横須賀や沖縄からワシントンに移って、海上自衛隊と米海軍の一体感が希薄になるだろう。
 西太平洋から日本海、南シナ海、インド洋、ペルシャ湾にいたる第七艦隊の守備海域が、アメリカの戦力地域から外れる一方、中国海軍が勢力範囲を拡大してくると、シーライン危機が現実のものとなってくる。
 日本とアジアの安全をまもっているのは、日本とアメリカ(在日米軍/在韓米軍・第七艦隊)、台湾、韓国、オーストラリア、これにたいする中国・北朝鮮、第三戦力のインド、アセアン諸国らの軍事バランスである。
 このバランスが決定的に崩れたとき、紛争の危機が現実のものとなってくるだろう。
 米海軍がフィリピンのスービック基地を放棄したあと、中国が南シナ海を領海化したのが好例で、軍事力の後退は、かならず、紛争の危機をまねく。
 戦後、朝鮮半島やベトナム、アフリカ、中東が戦火に包まれたのは、日本とドイツの敗戦によって、旧植民地という軍事的空白地帯≠ェ生じたからだった。
 憲法九条によって日本が非武装地帯≠ノなっていたら、ベトナム戦争以前に日本列島が、米ソ代理戦争の戦場になっていたかもしれない。
 そうならなかったのは、在日米軍や自衛隊という軍事力が存在していたからだった。
 日本の防衛予算(5兆円)は、世界8位で、兵員、戦車、航空機、攻撃ヘリ、空母、潜水艦の6要素から算出した総合戦力ランキング(クレディ・スイス)では、アメリカ、ロシア、中国に次ぐ4位で、インド、フランス、韓国、イタリア、英国、トルコをしのいでいる。
 交戦能力の高さに至っては、日本がアメリカに次ぐ2位で、ロシアや中国をこえるというのが、世界の有力軍事専門誌の分析である。
 憲法九条など、宇宙の彼方へふっとんでいるわけだが、それが、シーラインの安全をまもっている平和の真のすがたである。

 ●実戦シミュレーションによって保たれている平和
 これからの戦争は、IT技術と精密機器のたたかいで、鉄砲かついで戦場にむかう戦争は、とっくに終わっている。
 現代の戦争は、総力戦でも局地戦でも、シミュレーションで片が付く。
これはおそろしい話で、開戦前に戦争の決着がついて、負けたほうは、たたかわずに、敗戦国となってしまうのである。
 台湾海峡危機から朝鮮有事、尖閣列島、南シナ海やシーライン防衛にいたるまで、紛争が回避されているのは、攻撃と防衛の実戦シミュレーション≠ェ拮抗しているからである。
 米ソ冷戦が、キューバ危機をふくめて、ホット・ウオーにいたらなかったのは、想定される攻撃効果と攻撃をうけた場合の被害が拮抗して(相互確証破壊)いたためで、アメリカが冷戦に勝ったのは、シミュレーションゲームに勝ったのである。
 核攻撃を抑止する相互確証破壊≠フメカニズムもシミュレーションである。
 日本は、核をもっていないが、日米同盟という核の傘≠フ下にある。
 たとえ、核報復がおこなわれなくとも、核を使用した国は地球的村八分≠フ扱いをうけて、首都が被爆したと同様、国家滅亡へむかわねばならない。
 現代は、戦争も平和も、シミュレーションによって保たれている。    
 したがって、いかなる戦争も、通常兵器に限定される。
 通常兵器による戦争も、実行に移されることはない。
 前述したように、現代の戦争は、シミュレーションによって、たたかう前に勝敗が決してしまうからである。
 中国海軍が、海上自衛隊より実力が上なら、尖閣列島は、人民解放軍が宣言したとおり、直ちに、中国海軍によって占拠されていたはずである。
 そうならなかったのは、海自の防衛力が、中国海軍の攻撃力を上回っていたからである。
 それが安全保障で、平和は、軍事バランスによって、維持されるのである。
 自衛隊の行動範囲は、国内と領海内、シーラインの輸送船護衛に限定されるので、大量の兵力や戦車を必要としない。
 日本が準備すべきなのは、日米連合となる全面戦争ではなく、大量の兵力や戦車、空母、爆撃機を必要としない防衛戦で、防衛戦は、攻撃戦よりも優位に立てる。
 遠征戦となる攻撃軍の能力は、数分の一に縮減されるからである。
 外洋を航行してくる大型空母は、迎撃潜水艦の格好の標的で、イージス艦ですら、出撃すれば、大和や武蔵のように、魚雷攻撃にさらされる。
 日本海軍の伝統戦法は、日本海海戦以来、漸減邀撃(ざんげんようげき)である。
 敵艦隊の遠征途中で、潜水艦や航空機で痛めつけ、近海の決戦場で、巨砲を見舞うというもので、戦艦大和や武蔵はそのためのものだった。
 日本が、専守防衛の漸減邀撃に徹すれば、防衛は、自衛隊の現勢力で十分に可能で、あとは、戦闘力の先鋭化をはかるだけである。

 ●日本は単独で国家をまもらなければならない
 現在、日本の軍事力は、質の高さにおいて、アメリカと肩を並べる。
 日本の防衛能力は、数や量ではなく、技術の高さに依存している。
 その象徴が、第6世代戦闘機の国産試作機ATD-X(心神)である。
 使用されているXF5-1エンジン(IHI製作)は、推重比率が世界トップレベルで、同機のアフターバーナー燃焼時のスピードは世界一である。
 ステルス性も世界トップレベルで、エンジン排気ノズルを可動型にした独自な技術によって、ゼロ戦並みの旋回性能ももっている。
 レーダーなどの高度な電子化や全方位を射程におさめる火器管制装置、高性能自動追尾機関砲によるミサイル迎撃能力などを考慮に入れると、同機が完成した場合、世界一の戦闘機という折り紙がつくはずである。
 陸上自衛隊の「10(ヒトマル)式戦車」も、第4世代主力戦車として世界最強との呼び声が高い。
 海上自衛隊の装備も、世界最強レベルで、潜水艦20隻体制になれば、中国艦隊は、日本近海どころか、東シナ海にもでてこられない。
 中国潜水艦の天敵が、日本が90機保有する「P3C哨戒機」で、冷戦時代にソ連の潜水艦隊を封じ込めた対潜能力は、いまなお、健在である。
 P3C哨戒機は、高性能の搭載電子機器とターボファンエンジン4発搭載の国産「P1哨戒機」にきりかえられつつあるが、そうなれば、中国の潜水艦はほぼ完全に無力化されるだろう。
 陸上自衛隊の偵察ヘリコプターOH1(「ニンジャ」)は、世界最強の攻撃ヘリコプター「アパッチ」に匹敵する戦闘能力をもつほか、宙返りやロール機動などの驚異的アクロバット飛行が可能で、戦闘ヘリコプターとして世界最高の水準にある。
 空母は、ひゅうが型2隻といずも型2隻の4隻体制だが、戦闘機の発着艦が可能な空母2隻とヘリ空母2隻あれば、本土防衛は可能である。
 日本は、新型ミサイル(SM‐3ブロック2A)の発射試験にも成功している。
 射程や射高が旧型(ブロック1A)の二倍の能力をもつブロック2Aが配備されれば、ロフテッド(高高度)軌道で発射された中距離弾道ミサイルを弾道頂点で迎撃できるようになり、弾道ミサイル迎撃能力が飛躍的に向上する。
 日米が実用化に協力しているレールガン (電磁波砲) も実用に目処がついた。
 レールガンは、リニアによる大量の電流パルスで弾丸を音速の10倍のスピードで発射するもので、日本の「リニア新幹線」とアメリカの「スター・ウォーズ計画」の技術がむすびついた今世紀最大の火器といわれる。
 日米がレールガンの実用化に成功すれば、中国大陸沿岸のミサイル基地網を瞬時に壊滅することができる。
 これらの先端技術は、実戦に利用されなくても、シミュレーンだけで、戦争抑止力としてはたらく。
 次々とノーベル賞学者をうみだす科学立国日本は、マスコミ売国奴のたわ言をよそに、着々と科学的防衛システムをすすめてゆくのである。

 ●平和主義アナーキズムと憲法九条
 日本の安全を脅かすのは、ホット・ウオーではなく、むしろ、平和主義アナーキズムによる情宣戦である。
 平和主義アナーキズムは、無抵抗主義のガンジーやトルストイ(『戦争と平和』)、ソロー(『森の生活』)らの運動をつうじて欧米に広がったもので、個人主義、人道主義、反戦主義、反国家主義のイデオロギーである。
 資本主義にも懐疑的だったところから、ニューディール政策(資本の社会主義化)のルーズベルト大統領は、共産主義ではなく、平和主義アナーキズムの信奉者だったと思われる。
G HQがつくった憲法が、トルストイ的なのは、かれらがニューディーラーだったからで「武器を捨てると平和になる」は、『戦争と平和』からの借り物である。
 作家や大学教授、弁護士らをふくむ反日勢力が「武器を捨てると平和になる」と叫ぶのは、頭が幼稚園児並みだからではなく、トルストイやガンジーの信奉者だからで、原発反対は、日本の長期的エネルギー政策を見据えてのことではなく原始に戻れ≠フソーローやルソーの影響をうけているからである。
 国家や国防は悪で、「武器を捨てると平和になる」という平和主義アナーキズムは、売国思想にほかならない。
 日本が戦争に負けると世界に平和がやってくると夢想したゾルゲ事件の尾崎秀美のようなもので、尾崎が記者をつとめた朝日新聞は、いまなお、平和主義アナーキズムを唱えているのである。
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 国家と国体 11 月刊ベルダ10月号(2015年9月発売)より転載

 ●文化の「国体」と国家理性の「政体」
 国体は何かと問われて、明快に答えられる人は、少ない。
 一流の学者でも、「国家の基礎的な政治原則」「天皇を中心とした政治体制」というのがせいぜいで、国体が、政体から切り離された文化概念ということに思い至っていない。
 国体と政体は、コインの表裏で、一体ではあるが、交わらない。
 政体が、王政や独裁、民主制などの形態をもつ権力構造で、国体は、伝統や歴史的遺産、民族の精神や習俗、文明の蓄積などを包みこんだ文化構造だからである。
 日本では、古代より、権力(政権)が数千年にわたって交代をかさねてきたが、そのかん、土台となる国体がゆらぐことはなかった。
 一過性の権力が、歴史や文化の永遠性の上に構築されてきたのである。
 日本が、世界に類のない伝統国家たりえているのは、古代から継続する国体を有するからで、他の国々は、すべて、国体を破壊もしくは否定した革命国家である。
 君主制の国があるといっても、ヨーロッパの王制は、権力の系譜で、ローマ帝国を源流としている。
 西洋では、権力構造の政体が、文化共同体の国体を破壊して、樹立された。
 国体を失った革命国家が、代わりにもとめたのが、国家理性だった。
 国家理性は、国益のためなら何をやってもゆるされるという原理で、これには、歴史的因縁がある。
 ヨーロッパに国家理性という考え方がうまれたのは、絶対王政が確立された暗黒の中世(14〜16世紀)≠ナ、日本の戦国時代にあたる。
 当時、ヨーロッパ(とくにイタリア半島周辺)では、群雄割拠する小国家群が熾烈な争乱をくりひろげていた。
 日本のいくさとちがうのは、民をまきこんだことで、戦争に負けると、領土も財も奪われ、民も奴隷として売られた。
 ヨーロッパで城塞都市が発達したのは、市民が、都市という砦に集結して、兵といっしょにたたかったからである。
 戦争に負けると、すべてを失うのが、中世ヨーロッパの戦争で、国家がなくなれば、個人の富も名誉も、自由も平等もあったものではなかった。
 国家の勝ち残りを絶対善≠ニする国家理性がうまれたのは、その歴史体験からだった。
 欧米で、国家理性が、国益と同義とされたのは、国益が正義だったからで、理性(リーズン)には、正当な根拠や正しい理由という意味がある。 

 ●国家理性という西洋の怪物
 国家理性は、国家主権とペアになっている。
 国家主権の象徴が、交戦権なら、国家理性の象徴は、<国益に善悪なし>という国家エゴで、国益に合致すれば、海賊行為や武力侵略、軍事威嚇がゆるされる。
 欧米が、奴隷狩りや植民地政策、原爆投下や都市空襲、非戦闘員の大量虐殺を謝罪しないのは、国家がいかなる悪をおこなっても非にあたらないとする国家理性の原理に立っているからである。
 一方、日本は、やってもいない南京大虐殺や朝鮮政府の請願にもとづく日韓併合、どこにでもあった戦場慰安婦問題、アジアを解放した大東亜戦争をぺこぺこと謝罪して回っている。
 国家理性の観念も認識も、もちあわせていないのである。
 国家理性にあたるのが、日本の場合、国体だが、それは、後段でふれよう。
 ヨーロッパでは、中世以降、戦争の勝利者が王政を立て、国家理性が、絶対主義へ移行してゆく。
 国家存続の原則だった国家理性が、絶対王政の規範となったのである。
 マキャベリの「君主論」やジャン・ボダンの「主権論」、ホッブスの「リヴァイアサン=国家怪物論」は、国家理性の思想を汲むもので、西洋では、国家のために悪をおこなうことが、為政者の崇高な義務にまで高められた。
 悪を為して、国家と民をまもるのが、指導者の資質や条件となったのである。

 ●国家理性と国体の対決
 ヨーロッパで絶対王政が崩れたのが、17世紀の名誉革命、18世紀のフランス革命以降で、国家理性が帝国主義や人民政府に移行する一方、法の支配を機軸とする近代国家がうまれた。
 そして、市民(ブルジョワ)革命後、国家理性が、こんどは国家発展の原動力となった。
 産業革命後のヨーロッパや新大陸アメリカの発展をささえたのは、すべてに国益を優先させる帝国主義という新しい国家理性だった。
 その延長線上にあったのが、日本の近代化だった。
 当時、インドから東南アジアがヨーロッパ帝国主義の支配下におかれ、中国は生体解剖≠ニ揶揄されるほどだった。
 国家理性どころか、国家という概念すらなかったアジアが、幾多の主権戦争をくぐりぬけてきたヨーロッパの強国に歯が立つはずはなかった。
 例外が日本だった。
 四方を海に囲まれた日本では、わが国土は天下≠ナ、国家理性どころか、国家という観念も未成熟だった。
 その日本が、欧米から侵略されるどころか、幕末からわずか数十年後、強国の仲間入りをはたしたのは、薩英戦争(英)や下関戦争(英・仏・蘭・米)をたたかった薩長が、国体(天皇)を立てたからである。
 ヨーロッパの国家理性にあたるのが、日本の国体だった。
 薩長が欧米列強とやりあって、近代化に成功したのは、日本には、国体という絶対的な価値があったからである。
 幕末の動乱と明治維新は、日本の国体と西洋の国家理性の対決だった。
 このとき、日本は、驚くべき国家戦略を成功させる。
 天皇をヨーロッパの君主に仕立てた薩長が、日本を西洋型の国家に改造して、帝国主義のみちを驀進するのである。
国体に、国家理性と同等のポテンシャルがそなわっていたのは、主君や藩のために命を捨てる武士道に、国家理性とつうじるものがあったからだろう。
 日本が、近代化に成功したのち、明治憲法制定時(明治22年)において、天皇を元首(大元帥)から国体の象徴という原型に復していれば、軍国主義から第二次大戦の敗戦にともなう国体の危機は避けられていたはずである。
 国体は、西洋の国家理性と同等であったとしても、同一ではないからである。

 ●善≠フ国体と悪≠フ国家理性
 国家理性と国体は、ともに、絶対的だが、内容は、正反対である。
 権力である国家理性は悪≠セが、文化である国体は善≠ネのである。
 日本では、善である国体が、悪である政体を従えた。
 絶対的なのは国体で、幕府という政体は、天皇のゆるしをえて、マツリゴトをおこなう国体の一部にすぎなかったのである。
 国体と政体は、二元論的に機能する。
 民や国土、歴史や文化などから成る国体と、権力をもって国を治める政体が異なった機能をもち、別の原理でうごくのである。
 それが権威と権力≠フ二元論である。
 国体の象徴が天皇で、政体をつくりあげるのが幕府(政府)である。
 いくさに勝った武将が、天皇から征夷大将軍の官位をうけて幕府をひらく形態は、選挙に勝った議員のトップが、天皇から内閣総理大臣を親任される現在の政治システムにまでひきつがれている。
 権力は、権威の親任という正統性(レジテマシー)を必要とするからで、一方、権威の源泉は、民の敬愛である。
 民を治める政府が、天皇から正統性を授かり、天皇が民の敬愛にささえられる三位一体が、日本の国のかたち≠ナ、統治者が絶対権力をふるった西洋とは、国家の成り立ちが異なる。
 国民から選ばれた政治家が、多数決ですべてを決定できるとするのは、直接民主主義で、国民エゴだけで、国家を運営することはできない。
 国民の代表である政治家が、国民の召使いではなく、歴史に責任をもつ国家のリーダーになるには「天皇の親任」という別の作用がはたらかなくてはならない。
 天皇の親任は、国の未来を思い、民を慈しむ皇祖皇宗の大御心の委託で、選挙に勝った政治家は、天皇の親任をえて、はじめて、大御心を実現させる国家の指導者になれる。
 政治は、西洋では悪だが、日本では、善なのである。

 ●国体と憲政を両立させた「御告文」
 天皇は、古来より、国の発展と民の幸を高天原に祈念する祭祀王であった。
 天皇の祭祀(宮中祭祀)は、日本が、世界で唯一、国体を有する国家であることの証で、立憲君主制という近代国家は、日本においては、天皇の万世一系と宮中祭祀という近代合理主義をこえた歴史の真実にささえられている。
 それが伝統国家で、唯物論や合理主義がつくりあげた新政体が、全体主義や独裁政治に陥って崩壊してきたのは、歴史が示すとおりである。
 明治憲法には、前文にあたる「御告文」や「憲法發布敕語」「帝國憲法上諭」において、皇祖皇宗の御心から説きおこされた国体論が条文と並んで、記されている。
 明治憲法は、近代的な立憲君主制と議会・民主主義国家を宣言しながら、同時に、国体を諄々と説いていたのである。
 現行憲法における3大原則「国民主権」「平和主義」「基本的人権」は、国体がもとめるところでもあって、明治憲法では、天皇主権は、国民主権と同義だった。
 明治憲法は、天皇主権といわれるが、条文のどこにも、そんな文言はない。
天皇に主権がおかれていたとすれば、国民主権の言い換えで、大日本帝国憲法発布勅語には、このように記述されている。
「朕は、国家の繁栄と臣民の幸福とを、我が喜びと光栄の思いとし、朕が祖先から受け継いだ大権によって、現在と将来の臣民にたいして、この永遠に滅びることのない大法典を宣布する」
 帝國憲法上諭にはこうある。
「朕は臣民の権利と財産の安全を重んじ、これを保護して、この憲法と法律の範囲内で、完全にこれを守り尊重していく」
 そして、天皇は、国民の幸福(康福)を増進し、国民の立派な徳と生まれながらの才能(懿コ良能)を発達させることを願い、国家の進運を補佐(國家ノ進運ヲ扶持セム)することを望まれる。
 帝國憲法上諭には、「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ萬世一系ノ帝位ヲ踐ミ」とある。
 天皇という存在は、地位ではなく、祖宗遺烈の歴史的相続、万世一系の世襲で、天皇が親愛する国民は、「祖宗ノ惠撫慈養シタマヒシ所ノ臣民(祖宗が恵み、愛し、慈しみ、養ったところの臣民)」であるとされる。
 天皇は、国民の慈父であって、主権者でも、国民を支配する絶対権力者でもなかったのである。

 ●外には国家理性、内には国体思想
 戦後、国体と政体の区別がつかなくなったのは、国体概念が一掃されたからである。
 その象徴が、憲法前文で、キリスト教的な理想論とルソーやロックの人権思想、共産党宣言の人民主義が並び立てられている。
 フランス革命の「人権宣言」やアメリカの「独立宣言」は、ルソーやロックの人権思想が採られている。
 日本国憲法の前文は、これに、国家を敵とするマルクス史観をくわえ、さらに、九条で、国家主権を否定する交戦権の放棄まで謳っている。
 GHQは、伝統国家の日本に、革命国家のイデオロギーをもちこんで、日本人の魂たる国体を破壊しようとしたのである。
 その日本が、変わることなく日本たりえているのは、敗戦や占領憲法をはね返す国体の力≠ェ残っていたからである。
 いかなるインチキナ憲法をもちながら、日本は、依然として、悠久の国体を有する伝統国家なのである。
 日本は、内には、善としての国体を立て、外には、悪としての国家理性を立てる二枚腰の構えがもとめられる。
 日本は、これまで、外にむけて、国家理性を放棄し、内においては、国体を軽視してきた。
 国家理性が衝突する場面で、政治家が謝罪をくり返し、平和主義者は「武器を捨てると平和になる」と叫び、国体の象徴である宮中祭祀を天皇の私的行事として、国事行為から除外するという誤りを犯してきた。
 日本という国家は、政体の上位にある国体にささえられている。
 皇室典範や宮中祭祀の粗末な扱いが、日本の将来に、大きな禍根を残すことになるのである。
posted by 山本峯章 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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