2015年11月18日

 国家と国体I 月刊ベルダ9月号(2015年8月発売)より転載

 ●断絶している九条と国家安全保障
 安保法制反対の声が「九条をまもれ」という声と重なって聞こえてくる。
 安保法制に戦争法案≠ニいうレッテルを貼って、これを交戦権放棄≠謳った憲法九条とからめ、安保法制を廃案に追い込もうというのであろう。
 だが、九条は、心肺停止状態で、何の役にも立っていない。
 死んでいる九条をもちだして、日本の安全保障という現実問題に対処することはできない。
 これまで、九条と日本の安全保障が並び立っているかのように語られてきた。
 これは、ご都合主義で、世界で五本指に入る軍備を持つ自衛隊と集団的自衛権にもとづく日米安保条約が、交戦権を禁止する憲法九条と整合するはずはない。
 事実、日本の安全保障は、憲法九条を否定した上に成り立っており、戦後の安保政策で、憲法違反でなかったものは、一つもない。
 だが、憲法改正は、困難だった。
 そこで、政府は、憲法九条の解釈に幅をもたせ、「自衛隊は国民のあいだに定着している」「防衛は交戦権の放棄にふくまれない」などと言い繕ってきた。
 解釈改憲が可能だったのは、日米安保条約が片務的だったからで、専守防衛と個別的自衛権だけなら、ごまかすこともできた。
 だが、中国の軍拡と覇権主義にともなう尖閣諸島と南シナ海のシーレーン危機が浮上してくるに至って、解釈改憲も限界にたっした。
「もっている(日米安保)が行使できない(九条)」とされてきた集団的自衛権をうちだして、日米安保の片務性を解消しなければ、中国に対抗できなくなったのである。
 安保法制は、そのためのもので、集団的自衛権を共有しなければ、守備範囲がひろがった日米安保は、形骸化してしまいかねない。

 ●九条は懲罰的ハンディキャップ
 1952年のサンフランシスコ講和条約締結にあたって、安全保障問題が浮上してきた。
 GHQが日本から引き揚げても、在日米軍は残るが、アメリカには、日本防衛の義務を負わず、独立後も、交戦権を放棄した九条が日本を縛りつづけるからである。
 サンフランシスコ講和条約とGHQの占領停止によって、日本は、独立どころか、却って、国土防衛が手薄になってしまうのである。
 問題は、九条2項で、交戦権の放棄は国家主権の否定を意味する。
 独立後、交戦権を禁じる憲法9条が残ったのは、96条に、三分の二条項があったためで、日本は、憲法に仕込まれた敗戦国条項(交戦権の放棄)≠ノ縛られたままだった。
 鳩山一郎が改憲に情熱を傾け、岸信介が安保の日本防衛条約化に執着したのは、九条があるかぎり、日本は、米・ソいずれかに属国になるか、中国の支配をうけるか、韓国からも脅かされる弱小国にとどまるしかなかったからだった。
 交戦権の放棄は、戦勝国が、占領中の敗戦国に負わせたハンディキャップで、戦争行為にあたる。
 戦争の第一段階は、戦場のおける勝敗、第二段階が敵国の占領、第三段階が武装解除である。
 国家主権(交戦権)を奪うのが、戦争の最終目的だったからには、終戦とともに、武装解除は、解除されなければならない。
 サンフランシスコ講和条約に赴いた吉田茂は、このとき、別室に連行され、有無をいわさず、日米安保条約に署名させられた。
 この時点で、日本の安全保障は、GHQ支配体制から、憲法をとびこえて、安保条約体制へ軸足が移った。
 占領中におしつけられた憲法の武装解除¥項は、日米安保条約によって、安全保障戦略の外へ捨てられたのである。
 米ソ冷戦と中国共産党革命、朝鮮戦争勃発という世界情勢のなかで、アメリカが、日米安保条約締結と自衛隊容認へ方針を変更したのは当然だったろう。

 ●集団的自衛権がささえる安全保障
 護憲派は、世界5位の陸海空軍を解体し、日米安保条約を破棄して、世界に誇れる平和国家たるべしと威勢はよいが、中国軍が尖閣を軍事占拠し、北朝鮮からミサイルが飛んでき、韓国が第二の李承晩ラインを敷いたらどうするのか。
 軍隊をもちません、交戦権を放棄しますといったところで、軍事攻撃をうけたら、国民の生命と財産をまもるため、応戦しなければならない。
自衛隊や交戦権が憲法違反なら、国民が殺されるのを黙ってみていろという話になる。
 1952年の李承晩ラインによって、拿捕された日本の漁船は328隻、抑留された船員は3929人、死傷者は44人に上ったが、軍隊・沿岸警備隊・警察をもたなかった日本は、国民の命や財産をまもることができなかった。
 韓国が奪った竹島を返さないのは、九条が武力による国際紛争の解決を禁じているからで、日本は、法制上、丸腰のままである。

 ●日米安保条約の根幹は集団的自衛権
 日米安保は、集団的自衛権にもとづく双務条約で、自衛隊の代わりに米軍がたたかってくれるわけではない。
 中国軍が尖閣を占拠した場合、まっさきに防衛にあたるのは、自衛隊で、米軍が海兵隊を送り込むのは、日本政府の要請に応じてのことである。
 その場合、日米両軍にはたらく同盟倫理が集団的自衛権である。
 そこが、国連軍の指揮権を握る在韓米軍とちがうところで、日米安保条約は、集団的自衛権があって、はじめて、機能する仕組みになっているのである。
 朝日新聞が、憲法学者209人を対象におこなった安保法制のアンケート調査(122人が回答)では、同法案を「合憲」としたのはわずか2人だった。
 自衛隊については、大半が「違憲」の判断で、9条改正の賛否では、ほぼ全員が「必要ない」と答えている。
 日本の憲法学者は、死んでいる憲法九条で、国をまもれると思っているのである。
 日米安保体制に安住しながら、集団的自衛権を拒むのは、日本が他国から攻撃をうけた場合、アメリカさんよ、代わりにたたかってくれ、だが、一緒にたたかうのはごめんだという、なんとも、虫のよい話なのである。
 
 ●安全保障とモラルを破壊した憲法九条
 戦後70年にわたって、日本の安全保障を担ってきたのは、国連憲章(51条)と日米安保条約(前文)が謳っている「個別的・集団的自衛権」で、陸海空軍の保持と交戦権を否定した9条は、安全保障上の機能をなんらはたしてこなかった。
 安保法制反対派は、その九条をまもれという。
 寝言でなかったら、九条バカ≠ニいうほかない。
 九条は、国家の安全保障を脅かしただけではなく、祖国をまもるというモラルの原点を破壊して、日本人の総平和ボケ≠促したところに大きな罪科がある。
 九条バカの構造は、二段構えで、まず憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」で、頭がお花畑になって、九条2項の「陸海空軍を保持せずと交戦権の放棄」によって、ほぼ、痴呆状態になる。
 これが、敗戦革命の仕組みで、占領憲法をそのまま実践してゆくと、おのずと革命が成就して、伝統国家は、崩壊する。
 GHQ憲法は、もともと、アメリカ独立戦争の啓蒙主義とソ連のコミンテルン思想が詰まった革命綱領だったからである。
 これにとびついたのが、左翼で、国家防衛を禁じる九条が、革命勢力の手にわたって、レーニンのいう敗戦革命の武器に使われることになった。
 もちいられた論法が、「戦争に巻き込まれる」という大衆扇動のプロパガンダだった。
 警察予備隊創設(50年)から、講和条約締結(51年)、保安隊の自衛隊昇格(54年)、日米安保条約改定(60年)、湾岸戦争支援(90年)、PKO協力法(92年)、周辺事態法(99年)、イラク戦争支援(2003年)、そして、今回の安保法制反対にも、エンドレステープのように「戦争に巻き込まれる」とくり返されたが、日本は、戦争に巻き込まれることはなく、60年安保も、半世紀がたった現在、安全保障のレベルと日本の国際地位を向上させたとして、岸信介首相が高く評価されている。
 沖縄の本土復帰も新安保体制あってこその成果で、安保改正ができなかったら、日本全土が、アメリカのための基地のままだったろう。

 ●占領政策の緊急避難だった九条
 それにしても、憲法九条は、不自然にして、不可解な条文である。
 国家基本法に、陸海空軍を保有せず、交戦権を放棄するなどと書き込む必要がどこにあっただろう。
 国土防衛や国軍保有は自然権で、交戦権は国家主権である。
 いずれも、法に先行するので、立法化する必要はなく、どこの国の憲法でもふれられていない。
 ところが、戦後憲法では、これが否定形で、明記されている。
 何のためか。
 天皇をまもるためである。
 マッカーサーは、天皇を裁けば、日本国民が蜂起して、反米闘争が半永久的につづき、天皇を免責すれば、日本統治がうまくゆくことを知っていた。
 なんとしても、天皇を残さねばならない。
 それには、連合国強硬派を納得させうる強力な交換条件が必要だった。
 マッカーサーは、天皇を免責する交換条件として、憲法に、日本が再び連合国側の敵になりえない戦争の放棄条項≠もりこみ、天皇の廃位と処罰をもとめる英豪、ワシントンの一部勢力を沈黙させた。
 憲法九条は、天皇をまもる担保だったのである。
 交戦権の放棄は、国家主権を放棄で、敗戦国といえども、到底、うけいれられるものではなかった。
 天皇の免責とひきかえに、憲法に9条を盛り込むよう迫ったマッカーサーと幣原首相の会談は、3時間にもおよんだ。
 幣原は、天皇をまもるために、結局、九条をのんだ。
 それが、憲法九条の呪われた運命で、戦後日本は国家主権の放棄≠ニいうハンディキャップを背負って、迷走することになる。

 ●安保法制反対派の正体は親中派
 同盟国のアメリカ、英独仏伊らEU諸国、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国、太平洋諸国がこぞって支持しているなか、安保法制に反対しているのは中国と韓国のほか、日本の野党、憲法学者、マスコミ、市民運動家だけである。
 中国の覇権主義とアジア軍事支配の邪魔をするなというのであろう。
 中国は、1990年代以降、国防費を毎年10%もふやしつづけている。
 そんな軍拡主義の国から、戦争法案などという難癖はつけられたくないものだが、中国の軍事的挑発は、防空識別圏設定(2013年)から尖閣諸島の領有権宣言、基地化目的の南シナ海の埋め立てとどまるところを知らない。
 沖縄・尖閣諸島周辺の領海侵犯にくわえ、領空侵犯もふえつづけ、2014年度の航空自衛隊機の緊急発進(スクランブル)回数は過去最多の464回(1日1・2回)になった。
 中国は、東シナ海に面した温州市に、1万トン級の巡視船6隻が停泊可能な1200メートル岸壁やヘリポート基地、大型レーダーを備えた大規模な軍事基地を建設する計画を立てているが、実現すれば、これまでの尖閣諸島防衛策が通用しなくなる。
 米軍との共同戦線を強化する安保法制は、日本の島嶼・海洋防衛に不可欠だったのである。

 ●安保法制によって成功した中国封じ込め
 中国にとって、安倍首相は、いまや、敵将として、もっとも手強い相手となりつつある。
 世界のリーダーに先駆けて、中国封じ込めに成功したからである。
 アメリカは、中国の習近平国家主席がもちかけた新型大国関係という事実上の「太平洋の縄張り分割提案」に乗りかけていた。ヨーロッパも、中国が宣伝してきた日本ファシズム論≠ノのせられて、親中・嫌日ムードが広がりつつあった。
 だが、米上下両院合同会議場における安倍演説への反応を見て分かるように、アメリカは、親中路線から親日路線へ大きく舵をきりかえ、ヨーロッパでも、安倍首相の欧州歴訪によって、信頼関係が強化され、安保法制については、英仏を中心にG8が積極的支持を打ち出した。
 東南アジアや太平洋諸国も同様で、日本を孤立させようという習近平国家主席の目論見が大きく外れたどころか、欧米やアセアンは、中国の防空識別圏の設定や南シナ海領有化などを公然と批判しはじめた。
 米ソ冷戦におけるアメリカの勝利に、日米安保がはたした役割は小さくなかった。
 そして今回は、安倍の安保法制が、世界を巻き込む形で、中国の軍事的暴走に待ったをかけたのである。
 現在、人類が到達した平和の方程式(国家間の秩序モデル)は、バランス・オブ・パワーと相互確証破壊、民主化の三つである。
 フィリピンがアメリカをクラーク(空軍)基地とスービック(海軍)基地から追い出した結果、中国が出張ってきて、南シナ海が危機的状況になった。
 迷惑をこうむったのが、ベトナムなどの周辺国で、フィリピンの平和主義が、アセアン諸国をまきこんで、南シナ海戦争の火種をつくったのである。
 憲法九条を信奉し、70年前の侵略戦争をぺこぺこと謝ってばかりいると、日本は、平和主義国家どころか、戦争を呼び込む火種になりかねないのである。


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 国家と国体H 月刊ベルダ8月号(2015年7月発売)より転載

 ●国体と合致しない天皇元首論
 自民党の改憲案では、第一条に、天皇元首が謳われている。
 天皇のなんたるかを心得ない浅慮で、かつての鳩山由紀夫(民主党)改憲案でも、国民主権と並んで、天皇元首が明記された。
「天皇は元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴」とする自民党の改憲案も、鳩山案と大差なく、「象徴的権威」と「政治的権力」の分離を理論化できずにきた云々という鳩山の弁は、自民党案にもあてはまるだろう。
 要するに、ほとんど無根拠に、鳩山の弁を借りるなら、「天皇は日本の元首か否か」という戦後の不毛な憲法議論に終止符を打つために、天皇が憲法上の元首に据えられたのである。
 もう一つの理由は、英国やオランダなどヨーロッパの国王が、国際儀礼上の元首だからで、日本もヨーロッパ並みにという意識がはたらいたのであろう。
 ヨーロッパ王政よりはるかに長い伝統と歴史的意義をもつ天皇をヨーロッパ並みにという発想はいただけないが、くわえて、天皇元首論には、国体と国家の峻別という重大な視点が欠けている。
 ヨーロッパ王政は、権力の系譜で、源氏や平氏、足利や徳川家にあたる。
 乱の勝者が、絶対者である王を名乗ったのである。
 宗教的権威も存在したが、王権神授説や海外侵略を鼓舞したローマ法王庁のように、権力を補佐し、強化する存在でしかなかった。
 弱肉強食の権力しか存在せず、それに一神論がからんで、西洋は、日本人が想像もできないような一元論的な世界だったのである。
 中国には、覇王と王道があって、将軍が覇王、天皇が王道にあたるという説があるが、誤りである。
 覇王も王道も、権力の側にあって、武であろうと徳であろうと、独裁であろうと民主主義であろうと、政体の概念にすぎない。
 大陸から律令制がもちこまれた平安朝や奈良朝では、天皇を頂点とする中央集権体制となったため、多くの天皇は、権力者としてふるまった。
 しかし、元々、大和朝廷以来、日本は、祭祀国家で、天皇の信任をえた摂政や関白、征夷大将軍の官位を授かった幕府が統治をうけもち、天皇は、祭祀を主宰した。

 古代社会において、祭祀は、ただの儀礼にとどまらない。
 見えざる神々に支配されるこの世を治める政(マツリゴト)は、祈り(権威)であって、税や軍事、財務や人事を扱う統治(権力)は、その下位におかれた。
 鳩山のいう象徴的権威は、文化的権威の誤認で、日本は、文化と権力、国体と政体を分離させ、かつ融合させる二元論をもって、数千年にわたって、国家を営んできた。
 天皇は、文化的象徴で、天皇が征夷大将軍や総理大臣を任命するのは、国家が文化的な基盤に立っているからで、そもそも、国家は、権力と文化の二本足で立っている。
 国家が権力機構なら、国体は文化構造で、両者は、土と水の関係にある。
 命あるものが栄えるのは、土と水があるからで、草木が生えない砂漠やすべてをおし流す濁流は、森も耕地も、共同体も成立しない死の世界である。
 万物は、すべて、地と水に依存するが、さらに大事なのが太陽である。
 日本人は、古来より、万物を超越する太陽(天照大御神)を信仰してきた。
 命あるものは、太陽の下で、平等に生の恵みをうけ、共存共栄する。
 日本人の信仰心は、天照大御神の下で、八百万の神々があそぶおおらかな宗教観が育んだもので、ハンチントン教授が、西洋文明(キリスト教)、中華文明(儒教)から日本文明を切り離したのは、日本人の宗教観(神道)が、世界に類のない自然と神話が一体化した壮大な民族文化だったからである。
 天照大御神(高天原)信仰にもとづく天皇の祭祀は、この世が高天原のように平安で、ゆたかな国でありますようにという祈念で、この祈りが権力にゆだねられて、権力に統治の正統性がそなわる。
そこから、神聖なる権威と世俗の権力が分化した。
 権威と権力の二元体制は、日本古来の宗教観と切っても切り離せない関係にあったのである。
 4百年間の平安朝と二百七十年間の江戸幕府をふくめて、日本が二千年以上にわたって、天皇を中心とするこの体制がまもってきたのは、祭祀主が為政者を任命する権威と権力の二元化が維持されてきたからで、大王(オオキミ)と大連・大臣(オオムラジ・オオオミ)、天皇と摂政の相補的関係は、武家社会になって、朝廷(天皇)と幕府(征夷大将軍)の二元関係に引き継がれて、江戸時代までつづいた。

 ●西洋の真似だった王政復古
 大政奉還の上表文に、「保元・平治の乱で政権が武家に移ってから徳川家の祖である徳川家康に至り、更に天皇の寵愛を受け、二百年余りも子孫が政権を受け継ぎ」云々とある。
 徳川慶喜の大政奉還に権威と権力の分離≠ニいう観念がはたらいていたことがわかる。
 大政奉還は、歴史上、かつてなかった大胆な政治改革で、幕末の啓蒙学者、西周らによる幕府の公儀政体論は、公府(幕府)が行政権と司法権、各藩大名が立法権を分担する議院制を採っており、これが、のちの五箇条の御誓文にも反映される。
 王政復古と根本的に異なるのは、天皇が象徴(権威)として、権力から切り離されていることで、これが、天皇が天神地祇を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べた五箇条の御誓文の典礼から現在の天皇の国事行為にまでひきつがれている。
 公儀政体論は、三権分立と権威と権力の分離≠ニいう高度な政治概念にもとづいたもので、維新が成功していれば、日本は、ヨーロッパ化と帝国主義をとった薩長政権とはちがった形の近代化を実現させていたろう。
 ところが、この大政奉還は、薩長のクーデターによって、王政復古へときりかえられる。
 倒幕派の王政は、古代史上、もっとも有能だったといわれる飛鳥時代の天武天皇や「建武の新政」の後醍醐天皇の皇親政治をさすものではない。
 薩長のいう王政は、神権神授説にもとづく西洋型王政で、権威が不在、もしくは権威と権力が一体化しているヨーロッパ王政を日本にもちこもうというのである。
 二元論から成り立っていた日本の伝統的政治を権力一本の絶対君主制へきりかえようというのが、薩長の王政復古で、戊辰戦争は、江戸幕府がおしてすすめていた政治改革を根こそぎひっくり返す国体改造計画でもあったのである。

 慶応3年(1867年)10月14日、岩倉具視の謀略によって、薩長へ討幕の密勅(偽勅)が下される。
 徳川慶喜が大政を奉還したのは、その同じ日のことで、大政奉還には、薩長や一部公家の倒幕のうごきを封じる目的もあった。
 慶喜に機先を制されて、倒幕の偽勅工作が失敗に終わると、岩倉や西郷らの倒幕派は、打つ手を失った。
 朝廷は、すでに徳川へ政権を委任し、公儀政体の準備が整い、徳川諸藩連合政権ができれば、薩長の出番がなくなるどころか、謀反をくわだてた両藩は、討伐の対象になりかねなかった。
 偽勅工作や謀叛計画は、天下の大罪で、岩倉も西郷らも、ただですむはずはない。
 討幕の密勅が、明治天皇のあずかり知らぬものだったことは、同日、大政奉還と公儀政体の諸侯召集が、朝廷から勅許をえていることからも明らかである。
 15歳の明治天皇に政権担当能力はなく、薩長を除いて、徳川3百藩は江戸幕府と足並みを揃えている。
 朝廷が慶喜に統治を委任し、将軍職も従来どおりとなったのは、当然のなりゆきで、戊辰戦争がおきていなかったら、明治維新は、封建(幕藩)体制から議会君主制(公儀政体)への移行という形をとっていたはずである。
 倒幕派の王政復古は宙に浮いた。
 薩長に残された手段は、幕府を挑発して、いくさにもちこむことだけだった。
 西郷は、赤報隊というテロ組織をつくって、江戸市中で、放火や殺人、暴行の狼藉をはたらかせ、幕府を挑発した。
 江戸幕府が薩摩討伐の兵を挙げれば、これを迎え撃って、いくさにする。
 いくさになれば、朝廷をとりこんだほうに勝ちがころがりこむ。
 幕府も諸藩も、天皇に銃口をむけることができないからである。
 岩倉には秘策があった。
 倒幕軍の本陣に嘉彰親王を迎え入れ、錦の御旗を立て、官軍を名乗ることだった。
 岩倉は、反幕派の下級公家をとりこみ、朝廷内の親幕派の摂政・関白などの役職を廃止して、王政復古の朝廷内クーデターを着々と実行に移す。 

 ●戊辰戦争は薩長のクーデター
 世にいわれるように、小御所会議の決定によって、徳川幕府が辞官納地をうけいれ、王政復古が実現したわけではない。
 その逆で、小御所会議の翌年、慶応4年の元日、徳川慶喜は、諸藩に討薩の出兵を命じ、翌日には、幕府諸藩連合軍1万5千の兵が京都伏見に本陣を構えている。
 大政奉還後も、徳川幕府は、権力の座にあって、叛乱軍征伐の号令をかけていれば、親藩・譜代大名の藩兵だけで、十分に薩長を圧倒できたろう。
 それをしなかったのは、幕府(権力)が朝廷(権威)を重んじ、自制したからで、江戸270年の安泰は、ひとえに、権力の自己抑制からうまれたといってよい。
 その均衡を破ったのが、権力と権威の癒着で、発端となったのが、日米通商条約に、老中・堀田正睦が孝明天皇の勅許をもとめたことで、外国嫌いの孝明天皇から中山忠能・岩倉具視ら中・下級公家までが猛反対して、結局、新たに大老に就任した井伊直弼が、孝明天皇の勅許がないまま独断で条約締結にふみきリ、桜田門外の変がおこる。
 ここから、中・下級公家をまきこんだ攘夷運動がおき、長州や水戸、各藩の過激派がこれに勤皇思想をむすびつけ、やがて、尊皇攘夷が、倒幕や王政復古のスローガンになってゆく。
開国を朝廷に諮らず、幕府が単独で処理していれば、明治維新は、ちがったかたちになっていたはずで、かつて幕府は、朝廷の許可なく、鎖国令をだしたが、何の問題もおきていない。

 孝明天皇がとつぜん崩御されて、異変がおきる。
 後ろ盾を失った徳川幕府が、焦燥して、江戸でテロ行為をくり返す赤報隊の退治にのりだす。
 西郷の計略にひっかかったのである。
 それが、鳥羽・伏見の戦を端緒とする戊辰戦争である。
 このとき、薩長は、王政復古とともに征討大将軍の地位に就いた嘉彰親王を薩長軍本営に迎え入れる。
 この瞬間、新政府軍は、官軍となった。
 錦の御旗が薩長軍に立って、政府軍が総崩れになると、諸藩も、薩長になびきはじめる。
 勢いづいた薩長は、江戸へ逃れた徳川慶喜追討令を出す。
 その後、薩長による大殺戮戦が開始されて、軍事クーデターは、江戸開城をもって、成功する。
「玉(ギョク=天皇)を取る」という薩長の戦略が、もののみごとに奏功したのである。
 日米修好通商条約締結に端を発する混乱の収拾と開国という難問は、大政奉還によって、幕府の手で、すでに決着がついていた。
 戊辰戦争がおきるのは、そののちのことで、天皇は、維新とは何のかかわりもない権力闘争(薩長の独裁クーデター)に利用されたにすぎなかった。
 そして、明治20年、王権のつよいプロイセン(ドイツ)憲法をとりいれた大日本帝国憲法が発布され、日本は、西欧型国家へと変貌する。
 明治維新は、天皇を利用した軍事クーデターで、勝った薩長連合政権の帝国主義が、大日本憲法の発布から日米開戦、敗戦までひきつがれた。
 明治新政府が発足したわずか75年後、日本は、第二次世界大戦に負け、焦土と化した国土を連合軍に軍事占領され、国体が危機に瀕した。
 帝国主義・植民地時代の19世紀後半にあって、薩長政権がはたした役割は小さくないが、薩長の王政復古が、国体を破壊し、国家の存亡の危機を招いたのも事実である。
 自民党改憲案の天皇元首論は、国体を破壊した薩長政権の悪夢の再現というしかないのである。
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 国家と国体G 月刊ベルダ7月号(2015年6月発売)より転載

 ●国をまもらない憲法は国法∴癆ス 
 安保法制の国会成立が、8月上旬以降にずれ込むという。
 衆院の憲法審査会で、自民党推薦をふくむ憲法学者3人全員が、法案を憲法違反としたため、野党が攻勢に転じて、会期内の成立が困難になったのだ。
 現憲法には、主権と安全保障にかかる条項がない。
したがって、国家を護る法案が憲法違反になるのは当然で、国家の指針を左右する大事な局面で、不用意に学者バカを動員するのは、危機管理の欠如というしかない。
 紙に書かれた憲法以前に、国をまもるという無言の国法(国家原理)が、蒙古襲来の昔から、厳然と存在してきた。
 1959年の砂川判決(最高裁判決)は、自国の存立を絶対とする無言の国法に沿ったもので、個別も集団も、国をまもろうとしない現行憲法における解釈論にすぎない。
 日本の安全保障は、戦後70年間にわたって、空想と現実、ウソとマコトのあいだを右往左往してきた。
 憲法で軍備の放棄を謳いながら、アメリカに次ぐ戦闘能力を有する自衛隊が国土を防衛しているのが、それで、平和や安全、国家防衛が、ゴマカシの上に成り立っているのである。
 これまで、日本が、タテマエとホンネを使い分けてきたのは、現実と空想のちがいをわきまえてきたからである。
 その間隙を突こうというのが、左翼や反日勢力の戦術で、護憲派は「憲法9条をまもれ」と拳をふりあげるが、口が裂けても、日本をまもれとはいわない。
 9条をまもれば、国家防衛や独立維持が不可能になる。
 中国の属国にでもなれば、たしかに、主権も軍備も必要がなくなって、対米属国条項9条(武装解除)が、こんどは、対中関係にふりかえられる。
 武装解除を平和主義とするのが、世間知らずの大学教授風情で、長谷部恭男、小林節、笹田栄司らが「集団的自衛権の行使は憲法違反」とのべるのは、空想と現実の見境がついていないからである。
 空想を並べて、国家や国民を護ることができたらだれも苦労しない。
 
●憲法の外側にある安全保障
 日本の安全保障に、憲法は、何の機能もはたしていない。
 それどころか、武装解除条項(9条)が、安全保障上の最大の障壁となっている。
 ばかな憲法をおしつけたアメリカが、主権(交戦権)を否定する9条を捨てさせようと努力したが、国防をアメリカに委ねて、経済発展に専念したかった日本政府は、聞く耳をもたなかった。
 平和主義は、主権放棄と経済至上主義の代名詞で、吉田茂は、当時、社会党に、アメリカがもとめる憲法改正と再軍備に反対するようにもとめている。
 護憲主義者は、憲法をまもれというが、その憲法に、国家を護る条項がないことには一言もふれない。
 そして、「平和を愛する諸国民の公平と信義」などと嘘八百を並び立て、九条で、「陸海空軍その他の戦力を保持しない」と欺く。
 だれも気にしないのは、憲法などとうの昔に廃棄されているからで、60年安保以後は、日米安保という軍事同盟が、憲法に代わる国法として、日本という国家と国民をまもってきた。
 憲法が形骸化されている以上、安保条約と安保法制化が安全保障上の最大の要で、野党や憲法学者が「安全保障法制は戦争法案」と、これに反対するのは、政府攻撃やメシのタネにしてきた憲法が、いよいよ、お払い箱になるからである。
 GHQが敗戦国の足鎖≠ニした憲法に代わって、安保法制が国家主権を宣言する。
憲法改正が、技術的に困難な以上、それが、国家原理に沿った唯一の選択肢だろう。
 国家主権というのは、交戦権のことで、世界広しといえども、交戦権を放棄しているのは、人口800人のバチカン王国くらいのもので、それにも、バチカンを侵略すれば全キリスト教国家が敵に回るという無言の安全保障機能がはたらいている。
 日本で、安保法制が「希代の悪法」「戦争の準備」という話になるのは、戦争を放棄すれば世界が平和になるという少女マンガのような話が、国政レベルで語られているからで、新聞各社は、安保法制に反対する村山富市や河野洋平の会見をトップで扱っている。
 自民党元重鎮の野中広務や古賀誠らが、安全保障法制をすすめる安倍首相に「死んでも死に切れぬ」(野中)「恐ろしい国になった」(古賀)と悲鳴を上げている。
 野中は「人殺しをする自衛隊に入る者がいなくなる」というが、武器をもつ者は公人で、人殺しは私事である。
 どうやら、公儀と私儀の区別がつかないようで、国家という概念が空中分解している。
 安保法制化を批判するメディアも「自衛隊は人殺し≠フためのものではない」「自衛隊の軍隊化反対」という論陣を張る。沖縄タイムスや北海道新聞は、「殺し、殺される自衛隊に失望して辞めた」という元隊員のインタビューを載せ、赤旗は、「自衛隊入隊者に遺書≠強要」と報じた。
「命が惜しい」と公言するような自衛官は、さっさと辞めてもらいたいもので、自衛官が「命がけで責務の完遂に努め、国民の負託に応える」と宣誓するのは、遺書ではなく公人≠ニしての覚悟である。
「自衛隊の軍隊化」は望ましいことで、自衛隊は、国費で大型車両免許や各種資格をあたえ、民間企業への転出者を養成する職業訓練所ではないのだ。
 
●安全保障は「強者の論理」
 左翼や反日勢力、護憲派や反核・反原発派ら平和主義者と呼ばれる人々が、集団的自衛権や安全保障法制化に反対するのは、拠って立つところが「弱者の理屈」だったからである。
 一方、主権と国益は、「強者の論理」である。
 こよなく平和を愛するが、敵が攻めてきたら、命がけでたたかうというのが強者の論理で、安保法制化は、敵国が攻めてきたらたたかうというあたりまえの話である。
 その万全の準備に、敵が不用意な攻撃を控えれば、平和がまもられる。
 それが、真の平和主義で、攻めてきても、たたかわないのは、平和主義ではなく、飢えた狼の前をうろつく太った豚である。
 戦後日本は、戦争反対一辺倒で、国を護るという気概、国をまもってくれる兵を敬うという精神文化を捨て去った。
 モラルの崩壊がおきたのは、日本が、サムライの国から弱虫の国へ転落してしまったからである。
 憲法前文を暗誦するような教育からでてくるのは、肝っ玉が縮み上がった人間ばかりで、それが、憲法9条をまもろうという日本の平和主義の根っこである。
 護憲派の民主党が政権をとるや、たちまち、尖閣諸島危機や従軍慰安婦問題が浮上してきた。媚中・親韓派の民主党には、国家や国民をまもる「強者の論理」がそなわっていなかったからである。
 国家を背負い、国民をまもるには「強者の論理」が必要で、政治家が国会で「自衛隊員の命をまもれ」と叫ぶのは醜態で、だいいち、自衛隊員に、失礼だろう。
 軍備は、せいぜい世界5位程度だが、士気と戦闘技術にかけては、アメリカが世界一と太鼓判を押し、イラクのサマーワに派遣された自衛隊の規律や礼儀、忍耐力や統率力、理念の高さに世界が驚愕した。
 自衛員がサムライだったからで、サムライは公人≠ナある。
「弱者の理屈」の落ち着くところが私人≠ナ、じぶんさえよければ、義理も人情もへったくれもない、オレのイノチ、ワタシの生活をまもれと叫ぶばかりで、野中は、兵隊も命は惜しいだろうと、下司の勘ぐりでモノをいっている。
 平和主義から民主主義、人権・平等思想にいたるまで、核になっているのは、私人で、「村山談話」も「河野談話」も、あんなものは、私文書か私信で、戦後日本は、公の精神がもののみごとに枯れ果てている。
 
●平和主義と精神の崩壊
 戦後の日本で、平和主義ほど、喧伝されてきたことばはないだろう。
 欧米では意気地なし≠笏レ怯者の隠語でしかない平和主義が、日本では、戦争を好まない崇高な精神として、もちあげられてきたのである。
 破壊主義者や侵略者以外、戦争を好む者が、どこにいるだろう。
 戦争を避けるため、守りを固く構えるのが「強者の論理」で、武器を捨てると平和になるなどというたわ言は、日本以外、中学生だって口にしない。
 戦後日本をまもってきたのは、憲法九条ではなく、九条を補填する形で機能してきた日米安保条約で、軍事同盟が、平和と安全をまもってきたのは、政治が、戦争の一歩手前に控える極めつけの現実だからである。
 政治とは、現実で、日本の政治が、空想的だったのは、政治の上位に置いた憲法が空想の産物だったからである。
 だからこそ、安保条約が、国法の代役をはたしてきたのであって、国際法上の条約である日米安保は、軍隊の保持や交戦権にもとづいて、個別的・集団的自衛権を肯定している。
 一方、憲法は、GHQの憲法作成スタッフなかに女性や若者、共産主義者がいたせいか、全編乙女の祈り£イで、憲法前文を読んで、気恥ずかしくならない大人はいない。
 大のオトナが、武器を捨てると平和になると、中学生のようなことを言って、恥じないのは、宗教的妄信に陥っているからで、このカルト教の本尊が、国家は不要、じぶんの生命や財産以外の価値はいっさいみとめないというエゴイズムである。
 野中広務らの反軍主義、マスコミ左翼らの世界市民主義、反体制の反国家主義、憲法9条を守れという平和主義は、同じ穴のムジナで、大事なのは、国家よりもカネ、イノチと叫んでいる。
 かれらが、集団的自衛権に反対するのは、トラブルに巻き込まれたくないというエゴイズムと「権力は悪」というひがみ根性からだが、警官が国民を暴漢から守るのも集団的自衛権の行使で、国家の平和や安全を護るのは、憲法が保証する天賦の権利≠ナはなく、実力である。
 
 ●指針は「主権と国益」
 ホルムズ海峡が機雷で封鎖されて、日本のタンカーが航行できなくなる事態になれば、自衛隊がでかけていって、実力で機雷を爆破処理するのは、あたりまえの話で、集団的自衛権の法的解釈がうんぬんというのは、二の次の問題である。
 安倍首相は、自衛隊がアメリカの戦争に参加(集団安全保障にもとづく戦闘行為)することはありえないとしたが、国際紛争に際して自衛隊派遣の要件を定める恒久法「国際平和支援法案」には、他国内領での対応措置が明記されている。
 その場合、行動基準となるのが「主権と国益」である。
 アメリカの戦争は、アメリカの主権にもとづくものなので、自衛隊がアメリカにつきあって、地球の裏側まで出てゆく必要はすこしもない。
 だが、国益が侵された場合、場所がどこであれ、主権を行使できる。
 日本がホルムズ湾や中国が制海権を狙う南シナ海に軍事的影響力を行使するのは、「主権と国益」にもとづくもので、平和と安全は、軍事力の均衡によってまもられる。
 新聞各社のアンケートでは、安保法制反対派が、過半数をこえている。
 それも、無理からぬことで、戦後、日本は、憲法9条のおかげで平和だったという教育や宣伝、マスコミのプロパガンダがいきわたった現在の日本では丸腰の平和≠ルどうまい話はないからである。
 だが、中国や北朝鮮、韓国の暴走を防いで、日本の主権や国益を護っているのは、日米安保と自衛隊で、憲法九条は、利敵条項でしかない。
げんに、反日主義者は、平和勢力である中国が日本を攻撃するはずはないと主張して、憲法9条の撤廃に反対している。
 憲法9条が、日本を封じ込める仕掛け爆弾≠ノなっているのである。
 安保法制が廃法、あるいは憲法違反の最高裁判決がでたら、中国は、尖閣列島や南シナ海へいっそう軍事的圧力をつよめてくるはずである。
 ドイツで開かれた先進7か国首脳会議(G7サミット)では、「大規模な埋め立てなど現状変更を試みる一方的な行動にも強く反対」するとした首脳宣言を発表した。
 これにたいして、中国は、猛反発したが、一応、ブレーキはかかった。
 フランスのオランド大統領との会談では、安全保障関連法案への連帯が表明された。
 欧州各国が主権国家日本をパートナーとみなしはじめた兆しだが、これを好意的に報じたマスコミは、少なかった。
 60年安保と同様、現実から目を逸らさせる丸腰平和論≠煽ろうというのであろう。
 平和主義を叫んでいれば、経済的成功が手に入り、主権を放棄すれば、戦争のリスクから逃れられるという弱者の理屈、中学生並みの妄想が、まだまだ、払拭されていないのである。

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国家と国体F 月刊ベルダ6月号(2015年5月発売)より転載

 ●日本の国体を危うくする「天皇元首論」
 古代において、天皇は、権威だったのか、それとも、権力者だったのか。
 そして、現代、天皇の地位は、どんな形でひきつがれてきたのか。
 天皇が権威となったのは、鎌倉時代以降というのが、定説のようである。
 だが、わたしは、かならずしも、そう思わない。
 紀元前の古代国家成立から聖徳太子が憲法十七条を制定する飛鳥時代にいたるまでの600年にわたって、天皇は、権力者というよりも、むしろ、祭祀国家の祭祀主(権威)として象徴的な立場にあったからである。
 それをあらわすのが、かつて「大和時代」と呼ばれた3世紀から6世紀末までのあいだにつくられた前方後円墳である。
 九州から東北の広大な範囲にわたって、豪族たちが、天皇と同じ形式の大型墳墓をつくったのは、天皇を祭祀主≠ニする同一の宗教観をもっていたことのあかしで、この一事をもって日本が祭祀国家だったことがうかがえる。
 祭祀国家だった日本が、律令国家へ変貌してゆくのが、前方後円墳がつくられなくなった7世紀からである。
 律令国家は、天皇の権力を集中させる「中央集権国家」でもあって、天皇をとりかこむ有力者や官僚が実権をにぎる仕組みである。
 それが、摂関政治の入口で、力をもちすぎた有力者や官僚にたいする反撃が皇親政治や院政で、これは、天皇ととりまきとの内部抗争であった。
 権力の内部抗争に決着をつけたのが、武士が台頭するきっかけとなった「保元の乱」と「平治の乱」だった。
 両乱の後、平清盛の平氏の時代をへて、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて、600年の長きにわたった摂関・院政の律令体制は終わりを告げる。
 以後、朝廷(権威)と幕府(権力)による二元体制≠ェ戦国・江戸時代をへて、明治維新まで600年もつづく。
 日本は、600年の周期で、天皇が権威だった「祭祀国家」と権力者だった「律令国家」を交替してきたことになる。
 明治維新で、天皇は、権力の頂点に立つ元首≠ヨとまつりあげられて、日清日露、第一次・第二次世界大戦をへて、終戦後、再び、象徴の座へ立ち戻った。
 GHQが天皇を象徴としたのは、権威と権力を分離して、国家を安定させるためであったろうが、それは、豪族が、祭祀主だった大王(オオキミ)権威のもとに結束した古代国家の政治システムと同一であって、幕府が朝廷を敬った江戸280年の幕藩体制≠ニもつうじるものがある。
 GHQが、日本の古代国家を真似たのではなく、天皇を中心とした安定した国家の形をもとめると、おのずと、そうなるのである。
 自民党の憲法改正案では、憲法の下で、天皇が元首に立てられている。
 これは、日本の国体と歴史を見ないヨーロッパの真似事で、世界が天皇を日本の元首とみなしているのは、数千年の歴史をもつ国体=天皇の権威が、西洋の元首を超えるものだったからである。
 天皇が、改廃可能な憲法上の元首に据えられると、却って、天皇への尊敬心が削がれるのみならず、国威が低下し、国体もゆらいで、民族的な文化や価値観が根っこを失う。
 天皇が、紀元前の古代国家時代から権威(=象徴)だったというのが、わたしの考えで、だからこそ、日本は、祭祀国家というゆるやかな中央集権体制をつくることができたのである。
 祭祀にもとづく国体にたいして、急激な中央集権をめざした天皇中心の律令制は、権力抗争と内乱をまねき、歴史上、しばしば、国家存亡の危機を招いてきた。
 蘇我馬子の崇峻天皇弑逆(592年)から敗戦と天皇の戦争責任(1945年)問題にいたるまで、いくたびか、国体に危機が生じたのは、天皇が権力に接近し、権力が天皇との権威をとりこむことによって、神話や民族性、歴史に根ざした永遠の国体(祭祀)が、一過性の法や権力に蹂躙されたからだった。

 ●大和朝廷は「祭祀国家」だった
 かつて、大和朝廷の誕生は、神武天皇が橿原宮で即位した紀元前660年とされてきた。
 ところが、現在は、3世紀末に変更されて、大和朝廷はヤマト政権へ、大和時代が古墳時代と呼び方もかわった。
 神武天皇も、伝説上の人物で、実在しなかったとするのが、歴史学の常識という。
 だが、歴史上の人物は、すべて伝説上の人物で、非実在論を挙げると、中臣鎌足から聖徳太子、天武天皇まで多々あって、収拾がつかなくなる。
 伝説と民族史料、史跡をそのままうけとるのが、過去へ遡って検証できない歴史にたいする態度というものだろう。
 大和朝廷の誕生が3世紀末とされた根拠は、それ以前に、邪馬台国があったとする「九州王朝説」や「邪馬台国東遷説」である。
 邪馬台国や卑弥呼については、大和朝廷との関係をふくめて何もわかっていない。
 古事記や日本書紀に、卑弥呼や邪馬台国の名称がなかったからである。
 それも当然で、日本の正史である『記紀』に中華思想にもとづく「ヤマトクニ」「ヒノミコ(日御子)」を蔑字≠ナ表した文字があるはずはない。
 大和や倭、邪馬台は、読み方がともに「ヤマト」で、下に国がつくと、「ヤマトクニ」になる。
 したがって、邪馬台国(「ヤマトクニ」)は畿内で、卑弥呼と記された「ヒノミコ(日御子)」が大和朝廷の要人だったと考えるのが、自然だろう。
 年輪年代法によって、古墳時代の始まりが百年以上早まったため、古墳時代の初期と卑弥呼の死亡時期が重なり、邪馬台国と大和朝廷の連続性が明らかになった。
 卑弥呼が百襲姫だったことは、百襲姫を(日)の巫女として立てた崇神天皇が、卑弥呼の男弟とも、卑弥呼の後継者台与の摂政ともつたえられてきたこととも符合する。
『魏志倭人伝』に邪馬台国と記された大和朝廷は、大和(奈良)の葛城氏、物部氏、蘇我氏、巨勢氏、平群氏から河内の多治比氏、滋賀の息長氏、京都の中臣氏、岡山の吉備氏、島根の出雲氏、福岡の安曇氏らの連合政権で、漢書地理志に「分れて百余国」とある状況そのままである。
 大和朝廷を結束させたのが、神話にもとづく神的な秩序で、それを象徴するのが、前方後円墳だった。
前方後円墳がつくりはじめられたのは、古墳時代(3世紀〜6世紀)の初期で、巨大な前方後円墳は、クフ王のピラミッドや始皇帝陵と並ぶ「世界三大陵墓」の一つに数えられている。
ピラミッドに並ぶ前方後円墳を建設する文明を育むのに必要だった歴史時間は、千年単位だったと思われる。
5千年前の三内丸山遺跡(縄文集落跡)から、当時、高度なムラ社会が完成していたことがわかっている。
神武天皇が即位した紀元前550年は、それから、4500年ものちのことで、当時、当時、日本に、大王(オオキミ)を中心とする祭祀国家が成立していて、何の不思議もない。
 前方後円墳の円は天(高天原)で、方(四角)は地上(中つ国)であろう。
 首長たちが、高天原と中つ国(葦原中国)組み合わせた前方後円墳を共通の墳墓としたのは高天原神話≠共有していたからで、かれらの始祖は、命(ミコト)である。
 日本の神話は、高天原と葦原中国の二元論で、富や権力を奪い合う乱世と神々があそぶ高天原が溶け合って、それが現在にまでつながっている。
 権力は、武力や軍事力などの強制力でもあって、盗賊の親分も、権力者になれる。
 だが、権力者というだけでは、世を治め、民から租税を取り立てる為政者になることはできない。
 民や地主、有力者らが承服しないからで、為政者には、民が承服するに足る、為政者としての正統性(レジティマシー)が必要だった。
 権力に正統性をあたえるのが、天皇の権威で、荒くれの権力者は、高天原につながる天皇の親任をえなければ、クニを治めることができなかった。
 高天原崇拝は、祖霊崇拝でもあって、祖先を敬うことは、高天原に祈りを捧げる天皇への崇拝ともつながる。
 高天原信仰によって、権力者としての大王(オオキミ)が権威としての天皇へ変化してゆき、天皇の権威の下で、大和朝廷連合がかたちづくられていった。
 そのキーパーソンが、大和朝廷の重臣で、神武天皇よりも前に大和に入った饒速日命を祖神とする物部氏である。
 その物部氏が、拝仏派の蘇我氏や聖徳太子に倒されて、祭祀国家は、幕を下す。
以後、日本は、権力者となった天皇を中心に中央集権を築く律令国家のみちを歩みはじめる。
律令国家は、権力の政治で、朝廷の重臣(大連・大臣)らが天皇の権力を利用して、実権を握る官僚国家でもあった。
 29代欽明天皇の代になって、朝廷の実権は、大連の物部(尾輿)と大臣の蘇我(稲目)の二大勢力に握られる。
 仏教導入をめぐる蘇我(崇仏派)と物部(排仏派)の対立は、蘇我馬子と物部守屋の代に引き継がれ、厩戸皇子(聖徳太子)の支援をうけた馬子が守屋を倒して、崇仏派が勝利する。
 聖徳太子は、仏教のほか、大陸の文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定め、天皇を中心とした中央集権国家体制を確立させる。
 そして、隋の煬帝に「日出処の天子、書を没する処の天子に致す」とする国書を送って、両国が対等であることを宣する。

 ●律令体制から封建主義への回帰
 天皇をしのぐ蘇我氏の権勢も、36代孝徳天皇の代であっけなく幕を下す。
 中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が、蘇我入鹿を天皇の目前で暗殺して、蘇我氏の本宗家までを滅ぼすのである。
 そののちの壬申の乱は、38代天智天皇に即位して、3年後に病死する中大兄皇子の後継者争いで、弟の大海人皇子が実子の大友皇子を倒して40代天武天皇となる。
 天武天皇の政治が、皇族を要職につけ、みずからも、専制君主として君臨する皇親政治だった。
 天皇を頂点に、摂関家や公卿が、ピラミッド状に配置される一元的な権力構造では、天皇と摂関家、公卿らのあいだで勢力争いが生じるのは当然で、複雑にこみいった権力構造に武士がくわわって、律令体制は、ついに、空中分解をおこす。
「保元の乱」「平治の乱」は、武士が政権の座に躍り出た最初の乱で、奈良・平安の律令体制は、ここで終焉を迎える。
 律令体制のなかで武士が台頭してきたのは、内部抗争に介入して、大きな役割をはたしたからだった。
朝廷内部で、天皇と上皇、関白と左大臣が敵味方に分かれてたたかった「保元の乱」では、平氏と源氏も、骨肉の争いをくりひろげた。
 勝ったのは、後白河と忠通側で、敗れた崇徳上皇は、讚岐へ流罪となった。
 ともに勝者となった平氏の平清盛と源氏源義朝がたたかった「平治の乱」では、平氏がいったん政権を握るが、驕る平家は久しからずで、その26年後、源氏の逆襲によって平氏もあっけなく滅びる。
 頼朝の鎌倉幕府は、『御家人の本領(土地の所有権)』を安堵し、『ご恩と奉公の原理』に支えられた封建主義政権で、大化の改新から550年余つづいた天皇中心の律令体制とはまったく異なる原理に立っている。
 これは、強大な軍事力を背景にした幕府(武士政権)が、朝廷から征夷大将軍の官職を戴く二元論体制で、頼朝は、尊王を国家イデオロギーとした。
 平清盛にあたえられた太政大臣が総理大臣なら、律令制度の役職にはいっていない征夷大将軍は、治安隊長ほどの位でしかなかったが、頼朝にとって、むしろ、好都合だった。
 朝廷と距離をおくことができたからだった。
武力で天下をとる武将、天皇をとりこんで権勢をふるう上皇や公家は、ただの権力者であって、高天原の理想という正統性に立った国家の指導者たりえない。
 権力者は、天孫である天皇という権威の後ろ盾をえて、はじめて、統治者となれる。
 朝廷から距離をおいて、天皇の権威の下で政権を担ってこそ「高天原の理想を現世にもたらす善の政治」をおこなえる――それが、頼朝の武家政治だった。
 頼朝は、天皇を厚く敬う一方、官位をえるなど朝廷に近づく者は、実弟の義経であってもゆるさなかった。
 権威を畏れ、権力を律する頼朝の尊王思想は、家康にひきつがれる。
 江戸三百年の安泰は、幕府が奉じた天皇の権威と権力の自制によってもたらされたといってよい。
 日本人のモラルや礼儀、価値観も、威を重んじ、力を律する「権威と権力」の二元論に拠って立つところが小さくない。
 それが、大和朝廷以来の日本の国体であることを忘れるべきではないだろう。
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 国家と国体E 月刊ベルダ5月号(2015年4月発売)より転載

 ●なぜ、アメリカは「村山談話」「河野談話」の踏襲を望むのか
 戦後日本にとって、アメリカは、つねに、政治や外交の中心軸だった。
「親米保守」「対米従属」、「反米(親ソ・親中)左翼」などの言い方は、そのあたりの事情を物語るもので、1952年のサンフランシスコ講和条約発効、1955年の保守合同以降、親米の自民党と反米の野党が、対米関係を軸に安全保障や外交、貿易、金融などの政策を争ってきた。
 戦後日本の節目も、憲法制定から講和条約、60年安保、貿易摩擦、ロッキード事件、プラザ合意、バブル経済とその崩壊、日米構造協議、年次改革要望書、沖縄基地問題、TPPと、多くがアメリカがらみで、根底に核の傘≠ニいう対米依存がある。
核の傘≠ヘ、戦後の世界体制の一つの象徴で、「親米保守」と「対米従属」のアリバイになっている。
 といっても、「親米保守」と「従米依存」は別物で、この二者の隔たりが、これまで、日本の政治に、ブレと歪みをつくりだしてきた。
「敗戦と占領」から「冷戦構造と核の傘」へとひきつがれた戦後の日米関係は、当初から、現在のような対米従属型ではなかった。
 経済復興を軍備や憲法改正に優先させた吉田ドクトリンは、アメリカ国務長官ダレスをいたく失望させ、60年安保は、日本列島の基地化条約だった旧安保条約(51年)の双務的な安全保障条約への転換で、岸信介と重光葵がアメリカにのりこんで、要求をのませたものだった。
 だが、親米独立は、吉田茂や岸信介、鳩山一郎らまでで、その後、日米関係は、がらりと従米依存に変質する。
 とりわけ、日中・日ソ国交や資源外交で、対米従属からの脱却をはかった田中角栄が、アメリカ発の「ロッキード事件」で失脚して以来、アメリカとの関係が、対米従属一辺倒になった観がある。
 対米従属が、政権安定の切り札になったからで、従米派の小沢一郎が、アメリカがもとめる内需拡大に応えて430兆円(10年間)の財政出動をおこない、その実績をバックに権勢を振るったのが好例だろう。
 アメリカが、日本に高圧的なのは、敗戦国であることにくわえ、いいなりになってきたからで、一方、体制の異なる中国に遠慮するのは、戦勝国同士である以上に、独立国家として対等な関係にあるからである。
「年次改革要望書」をつきつけたクリントン大統領が、日本に立ち寄ることなく9日間にわたって中国に滞在(1998年)して、親米派を嘆かせたが、それが、戦前、蒋介石とむすんで、対日敵対政策(経済封鎖)をとったルーズベルト大統領以来のアメリカの伝統的な対日スタンスである。

 ●「日本封じ込め」がアメリカの国是
 もともと、日本とアメリカは、地政学的に微妙な関係にある。
 アメリカが、大戦前、日本に警戒心をもったのは、海岸線の長さが世界6位の海洋国家だったからで、北太平洋諸島を領有していた戦前、太平洋の制海能力は、モンロー主義(孤立主義)に立つアメリカをしのいでいた。
 かつて、大陸を制した国が帝国を築いたが、大航海時代以降は、イギリスやスペインやポルトガル、オランダなど、海洋を制した国が強国となった。
 大英帝国との戦争に勝ったアメリカが世界最強の国家になったのも、広大な国土の東西に大西洋と太平洋を擁する大海洋国家だったからである。
 世界一の強国アメリカにたいして、日本は、ハワイ併合を妨害したほか、第一次世界大戦後、アメリカが、喉から手がでるほど欲しかった北太平洋諸島(マーシャル諸島・ミクロネシア・北マリアナ諸島・パラオ)を占有(委任統治)し、アメリカが進出を目論む満州や朝鮮半島、中国大陸、南・東南アジアにもつよい影響力をもっていた。
 アメリカにとって、日本は、国益を害う地政学的な仮想敵国だったのである。
 アメリカが、日本封じ込めのパートナーにしたのが、日本と同盟関係にあったイギリスで、米英は「ワシントン会議(1921年)」で、3つの対日政策を決定した。
 @日英同盟を廃止して、日本を米英関係の下位に置く
 A海軍軍備比率で、米英は、日本の優位に立つ
 B日本の太平洋・アジア進出にブレーキをかけて、米英の権益をまもる
「ワシントン会議」の延長線上にあったのが、日米戦争の原因となった経済封鎖(ABCD包囲網)と大戦後の世界秩序を定めた「大西洋憲章」だった。
 大戦後の世界支配の構想が語られたルーズベルトとチャーチルの首脳会談(大西洋憲章)において、日本とドイツにたいして、国軍配備や核装備をゆるさないという日独封じ込め≠フ合意がなされたのは、アメリカにとって、日本帝国は、太平洋覇権とアジア進出の妨害者であり、英国連邦や欧州友好国にとって、ナチス・ドイツは、破壊者だったからである。
 大西洋憲章の決着が「ヤルタ・ポツダム宣言」だった。
「ヤルタ会談」で、ルーズベルトとスターリンは、千島・樺太の領有を条件に対日参戦の秘密協定をむすび、トルーマンがスターリンから対日戦参加の確約を得た「ポツダム宣言」では、日本の受諾を遅らせるため国体護持≠フ文言を外し、同宣言の発表以前に、原爆投下を命じている。
 アメリカが原爆を投下して日本を占領したのは、日本列島を極東米軍の基地にするためで、米ソ冷戦の勝利は、日本列島が旧ソ連の太平洋への出口を塞ぐ浮沈母艦≠フ役割をはたしたからだった。
敵国日本は、属国化することによって、アメリカの大きな利益に転じる。
 それが、対米従属の背景で、たしかに、超大国アメリカを敵に回す(反米)ことは国益に合致しないが、かといって、属国状態(従米)では、主権国家たりえない。
 残る選択肢は、親米独立だが、その前提となるのが、安倍首相が意欲的な自主憲法の制定だろう。

 ●日米安保で復権された国家主権
 今夏、予定されている安倍首相の「戦後70年談話」に、国の内外から関心が集まっているのは、焦点が、村山・河野の両談話の扱いにあるからで、アメリカまでが、両談話の踏襲を望んでいる。
 米・中・韓の足並みが揃ったのは、両談話が、戦後の世界体制の核心を衝いているからである。
 戦後の世界体制は、国連の名称が、戦勝国を意味する連合国(United Nations)とあるように、枢軸国だった日独が敵国扱い(53条敵国条項)に指定される一方で、拒否権をふり回す戦勝5か国(国連常任理事国)の独壇場になっている。
 村山談話と河野談話は、戦後体制にたいする敗戦国宣言≠ナ、戦勝国は、原爆を投下しても戦争犯罪を問われることがないが、敗戦国は、侵略や集団連行、大虐殺の濡れ衣を着せられても、抗弁しないどころか、すすんでこれをみとめようというのである。
 それが、対米従属や媚中の正体で、根っこにあるのは、戦勝国へのコンプレックスである。
 アメリカが、両談話に否定的な安倍首相をさかんに牽制する理由は、そこにある。
 敗戦国日本は、戦勝国と肩を並べようなどとせずに、東京裁判にしたがって、戦争にたいする罪意識を永遠にひきずっているべきというのである。
 中国の李克強首相が、全国人民代表大会で、「第二次大戦の勝利の成果と戦後の国際秩序をまもり抜き、歴史の逆行をゆるさない」とのべたのは、アメリカの代弁でもあって、これに便乗してふんぞり返っているのが参戦もしていなかった韓国である。
 対米追従や媚中親韓派が、戦後体制への屈服なら、親米独立は、アメリカと同盟関係をむすびながら、独立国家としての主権をまもることで、その端緒となったのが、60年の安保改正だった。
 旧日米安保条約は、無期限条約で、在日米軍は、日本のどこにでも基地をつくることができ、しかも、日本を防衛する義務が明文化されていなかった。
 一方、岸信介首相とアイゼンハワー大統領が署名した60年の安保条約は、集団的自衛権を前提とした双務的な体裁を採用しており、日米双方が日本および極東の平和と安定に協力すると規定されている。
 占領憲法が交戦権をもたないのは、国家主権を有さないからである。
 これを解消したのが、国連憲章の自衛権(個別的・集団的)がもりこまれた60年安保で、日米安保によって、憲法第9条が形骸化され、自衛隊は、集団的自衛権をもつ実質的な国軍となった。
 内閣法制局が「保有するが行使できない」と詭弁を弄して、集団的自衛権に抵抗してきたのは、空文化された憲法をタテにとったためで、60年安保で左翼が決起したのも、安保条約が、非武装中立という憲法9条をひっくり返すものだったからである。
 60年安保で、日本は、ようやく、安全保障という国家の主柱を打ちたて、アメリカと対等の主権国家となったのだが、当時、その歴史的事実をつたえた新聞は一紙もなかった。

 ●望まれる国益主義に立った「戦後70年談話」
 安倍首相は、祖父である岸の路線を歩んでいる。
 野党や反日勢力は、集団的自衛権の行使を閣議決定した安倍首相をアメリカの番犬′トばわりするが、アメリカにとって好ましい政治家は、村山富市や河野洋平ら売国政治家で、安倍首相は、鳩山一郎や重光葵、岸信介ら、憲法改正や国家独立をもとめた旧民主党系政治家と同様、むしろ、危険視されている。
 今夏、予定されている戦後70年の安倍談話に、村山・河野談話が踏襲されていなければ、中国・韓国は騒ぐだろうが、中・韓とは国交関係がないにひとしいので、慌てることはない。
 問題は、アメリカだが、談話に「原爆投下や都市大空襲の悲劇をのりこえ――」という文言をいれておけば、アメリカは、沈黙する。
 アメリカが困るのは正義の国≠ニいう仮面が剥がれることで、南京大虐殺のデッチ上げは、原爆投下や都市大空襲を正当化するためのデマゴギーだった。

 中・韓や日本の左翼マスコミは、ワルシャワのゲットー記念碑でひざまずいたブラント首相を見習えというが、ブラントはナチスの殺人事件(ユダヤ人虐殺)≠謝罪しただけで、戦争犯罪については一切みとめず、国家間賠償もおこなっていない。
 主権国家には、交戦権があり、「正当な管轄権」(東京裁判清瀬一郎弁護士)なき軍事裁判を拒絶する権利があるからである。
 ドイツが、日本より早く再軍備をおこない、終戦の4年後には自主憲法(ボン基本法)を制定したのは、事後法による戦犯裁判の法的正当性をみとめなかったからである。
 一方、日本は、東京裁判を正義の審判として、陸海軍を解体した後、アメリカに促されるまで軍隊をもとうとせず、いまだ、自前の憲法をもっていない。
 そして、歴代首相は、これまで、「日本は戦争犯罪国家」と延々と謝ってきた。
 米・中のみならず、戦勝国が、村山・河野談話の踏襲をもとめるのは、戦勝既得権をまもるためで、これに対応するには、事実関係を明らかにして、デマゴギーを破壊することである。
 イギリスのBBC放送が米韓¥]軍慰安婦問題を世界に報じて以後旧日本軍¥]軍慰安婦問題にたいするアメリカの対日批判がトーンダウンして、シャーマン米国務次官も、従来の性奴隷「Sex Slave」という表現をやめて慰安婦「Comfort Women」に言い換えた。
 もっとも賢明な外交は、国益主義に立つことである。
 国際関係において、国家に忠誠を尽くす国益主義は、絶対善であって、いかなる国もこれを非難しない。
 日米安保条約が機能しているのは、岸信介が、日本を属国扱いしてきたアメリカと日本の左翼大連合≠ニいう逆風に立ち向かった成果で、国家や国民のために、逆風にたちむかうのが、大政治家の風格であろう。
 謀略と悪意、力の支配がまかりとおる国際社会のなかで通用するのは国益主義と国家にたいする忠誠心、かつての日本人の誇り高きサムライの魂だけなのである。

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国家と国体D 月刊ベルダ4月号(2015年3月発売)より転載

 ●明治憲法は維新≠ナはなく西洋革命≠フ産物 
 明治維新は、革命か、それとも、維新かという議論が、昔からくり返されてきた。
 そのどちらでもないだろう。
 明治の政変は、庶民(農工商)が関与していないので、ブルジョア(市民)革命とはいえず、王政復古の中身が、西洋化(近代化)とあっては、維新ということもできない。
 犬猿の仲だった開国派の薩摩藩と攘夷派の長州藩が同盟をむすび、その薩長に、王政復古の名目で「討幕の密勅」が出されるなど、思想的混乱がみられるのは、明治維新が、西南4藩(薩長土肥)とりわけ薩摩長州の下級武士が仕掛けた軍事クーデターだったからで、王政復古は、倒幕のスローガンにすぎなかった。
 クーデターの主役を演じたのは、「錦の御旗」や「討幕の密勅」などの偽勅を工作した岩倉具視で、西郷隆盛や大久保利通、桂小五郎が岩倉の謀略にのったのは、明治維新の本質が、尊皇攘夷や王政復古とは無縁の権力闘争だったからである。
 江戸開城後、藩地にもどっていた会津藩や庄内藩への討伐命令、この命令に反したとして、奥羽越31藩同盟にむけた新政府軍の攻撃は、ヨーロッパ型の覇権戦争で、薩長連合の背後にあったのはこれあらた≠フ維新でも水戸学の尊皇攘夷でもなく、薩英戦争と下関戦争をとおして生じた西洋思想(近代化)および欧米という異文化だった。

 明治維新は、徳川慶喜の大政奉還で、決着がついていた。
 征夷大将軍の地位が、天皇から委任された権力である以上、難局に直面した江戸幕府が一旦、大政を奉還して、その後、公武合体などの新政体で、開国や条約締結などの諸問題にあたろうとするのは、国体の原理にかなっている。
 ところが、「錦の御旗」と「勅命」を得て官軍となった薩長は、大政奉還した徳川家の討伐や京都守護職だった会津藩征伐を主張し、鳥羽・伏見にはじまる戊辰戦争で旧幕府軍・旧佐幕藩を壊滅させる。
薩長の「ギョク(玉/天皇)をとる」という倒幕戦略に、幕府が無力だったのは、政治権力が朝廷(権威)からあずかったもので、幕藩体制自体が天皇の権威の下にあったからである。
 薩長軍が、倒幕クーデターに使用した鉄砲は、「アヘン戦争」を仕掛けたマンセン商会(香港)の日本支店長グラバーから坂本龍馬が買い付けた南北戦争の払い下げ品で、竜馬が仕組んだ薩長連合は、大量の鉄砲を必要とする倒幕クーデター≠フためのものだった。
「禁門の変(蛤御門の変)」で、朝廷に弓を引き(天皇の奪回計画)、会津藩を中心とする幕府軍によって京都を追われた長州藩が、戊辰戦争のしめくくりとなった会津戦争で、婦女子への狼藉や戦死者の埋葬禁止などの残虐行為におよんだのは、復讐のためで、この覇権戦争のどこにも、王政復古の大義や維新の理想がみあたらない。

 明治維新は西洋革命≠ナ、王政復古の王は、ヨーロッパの王政だった。
 そして、大日本帝国憲法では、天皇が元首に立てられた。
 そこに、国体の危機が仕込まれていた。
 天皇を元首に立て、天皇を政治利用することによって、永遠の権威が一過性の権力や法にゆだねられたからである。
 それが、1945年の危機で、天皇が元首でなかったら、天皇の戦争責任という問題が発生することもなく、ポツダム宣言の受諾が遅れることもなかったろう。
 自民党案をはじめ、多くの改憲案が天皇を元首に掲げ、現憲法が明治憲法の改定という体裁をとっているところから明治憲法復元改正論≠ワでが取り沙汰されている。
 これこそ、新たな国体の危機で、人為法にすぎない憲法で、国体の象徴たる天皇を規定すれば、天皇が、法の改廃に左右されることになる。
 天皇を元首に立てた王政復古は、ヨーロッパ王政の真似で、岩倉具視の命をうけて、伊藤博文がプロイセン憲法を明治憲法の雛型としたのは、天皇を政治利用するには、議会や内閣がつよい英国憲法より、君主権がつよいプロイセン憲法のほうが都合よかったからである。
 明治政府が王政復古のモデルとしたヨーロッパの王政は、武力征服と神授権≠フミックスで、武力による覇権が神によって補強される構造になっている。
 さらに、ハプスブルク家やブルボン家のような大富豪とむすびつき、ヨーロッパの王権は、武力と宗教的権威、富の三つをそなえる絶対権力となった。
 イギリス王室がドイツ(ハノーヴァ朝)から新王(ジョージ一世)を迎えたのは、ヨーロッパの王室が名門の家系でつながっているからで、現在も、ノルウェー王室が、イギリスの王位継承権をもっている。
 両王室とも、ゴータ家を祖にもっているからで、ヨーロッパの王室は、ルーツをたどれば、すべて、ローマ帝国という権力にたどりつく。
 ヨーロッパ王室が家系でつながっているのは、王統が権力や法の枠外になければ、政変や戦争のたび、廃絶の危機にさらされるからである。
 ヨーロッパの王が神授説の権力なら、天皇は、神話にもとづく権威で、万世一系は、天皇の権威を権力や法から切り離すためのすぐれた仕組みでもあった。
 明治維新の王政復古は、二重の過ちを犯している。
 一つは、欠史時代を除いて、歴史上、存在しなかった王政を復古させたことである。
 王政の復古には、後鳥羽上皇が討幕の兵をあげ、鎌倉幕府軍に鎮圧された「承久の乱」や後醍醐天皇が天皇親政を掲げて鎌倉幕府を倒した「建武の新政」の例があるが、いずれも失敗に終わったのは、祭祀国家だった日本において、権力と権威が一体化する支配原理が存在しなかったからである。
 古代社会は、神々とともにある霊的世界で、恵みも災いも、人為およばぬ和魂や荒魂の所業だった。
 古代社会が祭祀共同体≠ニなったのは、収穫や日々の幸を神々の恵みとした万葉人にとって、祭祀王である天皇の祈りこそが政(まつりごと)で、いくさや権力争いは、とるにたらない人為的所業だったからである。
 日本には、祭祀共同体の歴史が、現在も、国体というかたちで残っている。
 もう一つの過ちは、権力が権威をとりこむことによって、万世一系が形骸化されたことである。
 わが国で、二千数百年にわたって、皇統がゆるがなかった理由は、天皇が政治権力から離れていたからで、権威たる皇統の男系相続≠ヘ、いかなる権力者も、手をつけることができなかった。
 日本で、皇室にたいする謀反がなかったのは、神格を武力で奪うことができなかったのにくわえ、神武天皇の血筋(男系)ひいていれば、他家系であっても、皇統とされたからである。
 欠史八代(葛城王朝)から崇神天皇(三輪王朝)へ、武烈天皇から、家系が異なる継体天皇(応神天皇5世)へ皇位継承が可能だったのは、男系相続の仕組みが合理的で明瞭だったからである。
 男系相続は、謀反や皇位争いを避け、皇嗣を広くもとめるため智恵で、皇統が、権力の干渉をゆるしていたら、皇統は、これまで、何度も断絶の危機に陥っていたはずである。

 権威(天皇/祭祀王)が、権力(幕府)に施政を命じる二元構造≠ェ国体である。
 革命を経験していない伝統国家の日本は、701年の大宝律令を挙げるまでもなく、大昔から法治国家で臣民一体≠あげるまでもなく、開闢以来、民主主義の国だった。
 そこへ、ヨーロッパ的な王政をもちこんで、皇位と地位を切り離した万世一系の伝統を破壊したのが、明治憲法だった。
 明治憲法の誤りは、権威(天皇)を権力(憲法)の下位においた現行憲法に、ひきつがれている。
 現憲法における皇位の法制化とGHQによる11宮家の皇籍離脱とは、近い将来、かならず、国体の危機を招来させる。
 11宮家の皇籍離脱は、戦勝国による主権侵犯で、女系天皇を容認した小泉内閣の「皇室典範に関する有識者会議報告書」は、歴史を否定する国体の毀損にほかならない。
 皇室規定を憲法から外し、皇室家法のもとで、旧皇族の皇籍復帰をはかってこそ、天皇を憲法にとりこんだ過失と敗戦による失地を取りもどすことができる。
 改憲には、国体の自覚と、国体解体が企図されたGHQ憲法、天皇の政治利用を目的とした明治憲法からの訣別が必要なのである。


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2015年03月04日

 国家と国体C 月刊ベルダ3月号(2015年2月発売)より転載

 ●憲法の上位にあるべき皇室典範
 現行憲法の最大の欠陥は、国体観念が欠落しているところにある。
 国家主権の不在から、防衛義務の放棄(9条)にいたるまで、国家の安全と安定、秩序を保障すべき国家基本法が、危機と流動、混乱の要因となっている原因は、そこにある。
 それが、現行憲法の危うさで、伝統という肝心なものが抜け落ちている。
 伝統は、国体ということである。
 日本という伝統国家は、一過性の権力構造にすぎない政体と、歴史や文化の連続性である国体の二元論から成り立っている。
 国体観念を欠いた現行憲法は、この二元論的構造が、根本から崩れ堕ちている。
 三島由紀夫は、これを「西洋の神をもって日本の神が裁かれた」と表現した。
 キリスト教にもとづく西洋の自然法をもって、日本古来の自然法が断罪されているというのである。
 現行憲法は、いわば、異教徒の経典で、そこから生じるのは、危機と不安定、動揺だけであろう。
 われわれが、安心して生きてゆけるのは、お天道様や神、親子の関係、秩序など、絶対的なものに拠って立っているからで、人間の心も、ゆるがせにできない信仰と信念、確信があるから安定する。
 一方、観念やことば、議論は、相対的な価値でしかなく、打算やその場しのぎの考え、ことばほど、あてにならないものはない。
 絶対的なものなくして、物事は、安定しない。
 その絶対的なものが、具象ではなく、象徴に宿っていることは、法や制度、権力が移ろいやすく、歴史や文化、宗教が永遠であることからもわかる。
 佐藤優氏は、著書「日本国家の真髄」で、賀茂真淵、本居宣長に連なる最後の国学者といわれる山田孝雄博士のこんなことばを紹介している。
「これ(国体)は恰も健康体を持ってゐ人間に在つては、その身体ついて何事も忘れてゐるが如きものである」(帝国の精神/文部省教学局/昭和13年)
 同氏が、同書で「国体は発見されるもの」とのべたのは、至言で、目に見えないものがかたちとなってあらわれるのが象徴である。
 伊勢神宮に参詣した西行法師が詠んだ「なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」が、象徴の機能で、戦争に負けて、なお、日本国民が、天皇の行幸を熱狂的に迎えた心理も、これにつうじるだろう。
それが、絶対ということで、神惟(かむながら)の国体が、言挙げしないのは、絶対的なものは、語ることができないからである。
 そこに象徴≠フ本義がある。
 象徴は、絶対的でありながら、目に見えず、意識されざるもののしるしで、日本人と日本という国家を成り立たせている国体の象徴が天皇なら、国家民族の永遠性を祈る象徴行為が祭祀にあたる。
 三島由紀夫の死後、盾の会憲法研究会が完成させた「維新法案序」の第一章に定義されている天皇の要諦は2点である。
一、天皇は国体である
二、天皇は神勅を奉じて祭祀を司る
 三島が、国家や憲法ではなく、国体(天皇)と祭祀(祈り)を絶対とみたのは、それが、日本国の起源、歴史の出発点だったからである。
 国体と祭祀が、先進国のなかで唯一、革命がおこなわれていない、世界最古の伝統国家日本の国のかたちである。
 祭祀は祈りで、天皇は、国の肇(はじまり)から「神に祈る神」であった。
 漢時代に完成した『漢書』地理志には「楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す」という記載がある。紀元前1世紀に、百余りの小国に分立していた倭国が邪馬台国、さらに大和朝廷へ統一されていった過程で、大きないくさがあったという記述(古事記・日本書記)がないことから、百余国の統一は、宗教的統合で、祭祀が重要な役割をはたしたと思われる。
 天皇の祈りによって、百余国が統一された史実は、この世(葦原の中つ国)支配者だった「国つ神」が、高天原の「天つ神」に支配権を譲った「国譲り神話」と符合している。
 事実、日巫女は、天照大御神に仕える巫女で、『魏志倭人伝』には、「鬼道によって人心を掌握」とある。(卑や倭、邪や鬼は中華思想にもとづく蔑字)
 日巫女の後継者で宗女の壹與、壹與の摂政とも、女帝(女系ではない)日巫女の男系の後継者だったともいわれる崇神天皇(大和朝廷の礎を築いた天皇/神武天皇と同一人物という説もある)も、「神に祈る神」で、大和朝廷は、祈り(祭祀)によって、統一されたのである。

 実際に機能しているのは、国体という象徴の力≠ナあって、軍備放棄(9条)や平和を愛する諸国民とした憲法前文は、飾り物にすぎない。
 憲法が絶対なら、自衛隊は違憲なので、解散して、日本は丸腰にならなければならない。
 ところが、現実では、日本は、世界第五位の軍事力をもって、国家を防衛している。
 日本の軍備は、憲法という教条のさだめるところではなく、国体という身体が、生来的もっている防衛本能≠ノ拠って立っているのである。
「9条があるから日本は平和なのだ」とする護憲勢力は、国家を国家たらしめている国体に無自覚で、国体が有する防衛本能の放棄(9条)を日米安保条約と世界5位の軍事力が補填している事実をみていない。
 日本の現在の文化的・経済的繁栄や防衛、秩序は、国体の要請によって達成されたもので、国家という茎や葉、花や実は、国体を根っこにしている。
 その国体の象徴が天皇で、日本史において、数々の権力者のうち、だれ一人、天皇にとって代わろうとしなかったのは、日本の権力は、天皇の権威を権力の正統性(レジテマシー)としてきたからである。
 天皇の権威は、国の永遠性を祈念する祭祀に象徴される。
 ところが、現行憲法では、国事行為としての祭祀が、天皇の個人的行事にされて、国と切り離されている。
 それが、11宮家の臣籍降下などの国体解体≠意図したGHQの憲法戦略だった。

 憲法99条に「天皇・摂政・公務員の憲法尊重擁護義務」がある。
 天皇が公布する憲法において、天皇が、政治家や公務員と同格の個人とされているのである。
 天皇が人権や戸籍、人格を有さず、皇位が世襲なのは、権力者ではなく、権威だからである。
 天皇が象徴なのは、祭祀をおこなう皇位が皇統だからで、日本国民の総意にもとづく世俗的君主であるなら、歴史や神聖というレジティマシーをもたない大統領で十分である。
 日本の憲法は、17条憲法から大宝律令、武家諸法度、五箇条のご誓文にいたるまで、政治家や官僚のありかたをしめすのが伝統である。
 ところが、現行憲法では、天皇の勅である国家基本法で、天皇のありかたを規制し、象徴たる権威を私人とし、国家の根源たる祭祀が、国事行為から外されている。
 憲法は、世俗的制度で、制度は、いつでも、改廃できる。
 その憲法に皇室典範をとりこみ、お世継ぎの方法まで規制することは、それ自体、国体の危機にほかならない。
 天皇陛下と習近平中国国家副主席(当時)の会見を強要した民主党小沢一郎元幹事長の「天皇は政府の決定にしたがう」という発言や小泉純一郎元首相の皇室典範改定は、歴史にもとづく国体と、政治や権力の産物にすぎない憲法を逆転させたもので、権力と権威の逆転は、日本という国家を危機に陥れる。
 皇室典範は、あくまで、憲法の上位におかれなければならない。
 権威が権力の上にあるのは、過去が現在の礎であるように、永遠の真理なのである。
 国をまもることは、天皇をまもることというのは、以上の意味合いからである。
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2015年02月02日

 国家と国体B 月刊ベルダ2月号(2015年1月発売)より転載

 ●なぜ、韓国は、天皇を日王と呼ぶのか
 昨年(平成26年)の12月4日、東亜日報は、朝刊で、「ソウルの真ん中で日王誕生日式典行事」と、当日、予定されていた日本大使館主催の「天皇誕生日を祝うレセプション」を批判的に報じ、同記事から会場のホテルや開始時間を知った反日団体のグループが抗議におしかける騒ぎになった。
 反日報道や反日教育、反日政策などは、いまさら問題にする気にならないが日王≠ニいう呼称については、見逃しにできない。
王≠ニいう呼称は、柵封体制(華夷秩序)において中国皇帝≠フ下の位をさすもので、この中華思想が、常識や理性を超えた韓国人の日本蔑視や反日の根拠となっているからである。
 華夷秩序において、日本より上位にあるとする韓国は、中国の皇帝と同格である天皇という呼称はゆるすわけにいかない。
 日本蔑視は、日本を「夷狄禽獣の類い」と見る中華思想から、そして、反日は、中華から遠く隔たった東夷に支配されたコンプレックス=「恨の精神」からでてきたもので、韓国人は、いまなお、小中華思想という古代の因習にとらわれたままである。
 20年ほど前、韓国国会議員の招きで訪韓し、新聞記者と会見をおこなった際、天皇問題の応答の最中、「天皇は文化で、文化の異なる韓国の批判は的外れ」と発言したわたしにむかって鉛筆が飛んできた。鉛筆を投げつけたのは、東亜日報の記者だった。
 同席していた国会議員は、会見後、「殴ったほうは忘れても、殴られたほうは忘れない」と意外なことばをもらしたものだが、両国の認識ギャップの深さをこのときほど痛感したことはなかった。

 中国の反日も、中華思想にもとづいたものかといえば、そうではない。
 現政権(中国共産党)の正統性は、抗日戦争勝利で、中国政府が、全人代の常務委員会会議で、「抗日戦争勝利記念日」(9月3日)と「烈士記念日」(9月30日)、「南京大虐殺殉難者国家追悼日」(12月13日)を国家法定記念日に格上げしたのは、日本は、夷狄や禽獣にひとしい存在ではなく、強大な侵略国家だったからである。
 単独では、日本軍とたたかったことのない中国共産党は、アメリカの対日戦勝と、そのアメリカが、原爆投下という戦争犯罪を帳消しにするべくデッチ上げた「南京大虐殺」という虚構を戴いて、権力の正統性としているのである。

 韓国は、なぜ、本家の中国が表向きにしていない中華思想をふりまわすのか。
 中国にたいして、近代まで、事大朝貢体制をとってきたからである。
 日本では、607年、聖徳太子が西のローマ帝国に並ぶ東の隋帝国の皇帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」という国書を送り、翌年、小野妹子を派遣して、国書に「東の天皇、敬みて西の皇帝に申す」と記した。
 日本は、7世紀の初めには、柵封体制から離脱していたのである。
 韓国が、この歴史的事実を見ようとしないのは、天皇が中国皇帝と同格になると、日本が、中国に事大する韓国の上位となるからである。
 そこで、あえて、天皇にたいして、中国皇帝の臣下という意味の日王という呼称をもちいるのである。
 ベトナムも、君主を退いた上皇(君主の父親)が、君主を名乗って朝貢するという苦肉の策をとって、国内の政治や文化が、柵封体制に組み込まれるのを避けている。
 ところが、朝鮮は、すすんで、柵封体制にとびこみ、中華の一部(小中華)」になる道をえらんだ。
 中華世界のナンバー2になれば、東の日本から、東南アジアの国々、中央アジア西域のチベットやウイグル、満州や北の遊牧民族など四方の周辺国(東夷・北狄・西戎・南蛮)の上位に立てるからである。

 韓国(朝鮮)の小中華政策は、政治的には、大中華への事大主義で、文化的には、中華文化への同化=慕華思想である。
 中華は、儒教にもとづく漢民族の文化的優越思想で、地理的・政治的・文化的に世界の中心(華)であるという究極の自己中心主義である。
 中国という国名は、四方の周辺国を服従させた「中つ国」の意で、漢民族が住んでいる地域だけをいうなら、支那(china)である。
 中国では、10年間におよんだ文化大革命で、儒教的価値観が木っ端微塵に吹き飛んだが、李王朝体制が、日本占領期を経て、李承晩独裁へひきつがれた朝鮮では、儒教的価値観とともに、中華という自己中心主義がそのまま残った。
 韓国の小中華思想は、ジコチュー≠ナ、韓国人が世界中から嫌われているのは、プライドが高く、自己愛がつよい一方、他人を軽んじ、非難し、傷つける性癖からで、視野が狭く、わがままで、常識がないという幼児性をひきずってもいる。
 
 韓国の小中華思想が、頑迷なものになったのは、本家の中国が、漢族以外の民族に支配された征服王朝でもあって、朝鮮も、金や元、清など漢民族以外の王朝に事大を強いられた歴史的経験からである。
 大中華が、異民族に征服されたからには、小中華である朝鮮が、中華思想の本家であるという尊大な自覚が生じ、世界のわらいものになっている「韓国起源説」では、儒教の宗家である孔子が朝鮮人にされてさえいる。
 李朝期の両班は、自身を「礼節を弁え、漢詩漢文を巧みに操り、儒教の経典に精通した中華文明の正統な継承者」と自認して、世宗が制定しようとしたとしたハングル文字を中国に背くものとして封印、中国に倣って科挙体制を取り入れ、両班を華、民を夷とするきびしい身分制度をつくって、古代社会の仕組みを近代にまでひきずってきた。
 朝鮮は、中国の千年属国といわれるが、属国を望んだのは、朝鮮のほうで、中国に事大し、虎の威を借りて、周辺国(四夷)の上に立とうとしたのである。
 それが、朝鮮の唯一の国是で、日本を見下す小中華思想を捨てると、国家の根本原理が失われてしまうことになる。
 中国の反日は、国策だが、韓国の反日は、国是で、日本に牙をむいていなければ、国がまとまらないのである。

 日本も、儒教の国だが、朝鮮のような教条主義に陥らなかったのは、平民レベルで多様化・一般化されたからである。
 儒教の忠孝≠ヘ、韓国では、もっぱら孝で、これが、身内意識や排他性、目上の者に絶対服従する国民性となったが、日本では、武士の忠や礼になったほか、神道や仏教とミックスされ、正直や親切、思いやりなどの民一般の善や道徳観念、美意識へ広がっていった。
 権力(幕府)が必要悪なら、善の象徴が権威(朝廷)で、民のために祈る神である天皇は、中国的な律令体制が崩壊して、武士が勃興した9世紀末には、すでに、権力から遠ざかっていた。
 日本の特殊性は、武力と利権を握った武士が清廉だったことである。
 忠を立てるべき天皇が権力から離れた善だったからで、ここから、支配者が民から掠奪するアジア的体制とは異なる権威と権力の二元性≠ノ立った日本独自の国家(国体)ができあがった。
 ヨーロッパの王政も、華夷秩序における王も、権力で、日本では、幕府や大将軍がこれにあたる。
 日本が世界最古の伝統(王朝)国家たりえているのは、権威(国体)と権力(政体)が並び立ってきたからである。
 国体は、権力ではなく、文化の系譜で、日本という国は、権力が権威から認証をうけなければ、権力たりえない二元構造になっている。
 事大主義や小中華思想という一元構造のなかで、自己中心主義をひきずってきた韓国人は、永遠に、天皇を理解することができないのである。

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2015年01月13日

 3月11日「東日本大震災の日」が法令化

 ●「春風の会」の活動が実る
 4年前の3月11日、東日本を襲い、2万人の犠牲者をだした大地震・大津波の記憶は、いまだ、生々しい。
 わたしが幹事をつとめさせていただいている「春風の会(代表/村上正邦元参院議員)」では、東日本大震災の翌年、平成24年から、毎年、同日を「祈りの日」として、明治記念館などで、一般参加の式典を催してきた。
 式典名を祈りの日としたのは、犠牲者を悼み、理性や文明を超えた大自然を畏怖する心からで、村上正邦代表は、第一回式典で、次のような挨拶をのべられた。
「遭難された方々の冥福をお祈りし、日々、ことあるごとに、天地の神々に祈りを捧げてきた日本人の原点、物質文明のなかで失われつつある祈りの心に立ち返って、あわせて、日本再生の祈りを捧げます」
 犠牲や被害の大きさ、重さを思えば、無常や人間の非力さを痛感せずにいられない。
 一方、春風の会は、3月11日を法令日(国民と国家が防災について考える日)に制定する運動をすすめ、新橋駅や上野駅などで署名運動(二万六千人)をおこなってきたほか、上杉光弘前衆院議員、被災地岩手県選出の鈴木俊一元環境大臣、志帥会会長の二階俊博自民党総務会長、大島理森元自民党副総裁)ら国会議員との折衝をかさねてきた。
 その願いがかなって、3月11日が「東日本大震災の日」に指定される運びとなった。

 鈴木俊一元環境相、小野寺五典前防衛相、大島理森前自民党副総裁ら東北地方出身の議員を中心とする14人の自民党国会議員が、3月11日を「東日本大震災の日」と定める法案を作成して、今月召集される通常国会に議員立法として提出することを決定、二階俊博総務会長が取りまとめたという。
 東日本大震災の教訓を後世に引き継ぎ、復興の加速や災害対策の強化につなげるのが狙いとつたえられる。
 法案の骨子をまとめたのは、鈴木元環境相、大島前副総裁、根本匠前復興相らで、東日本大震災を地震、津波、原発事故による複合的な「未曽有の国難」と位置付け、次の3点を柱としている。
 @政府や地方自治体の行事
 A家庭や学校の防災教育
 B災害の教訓や知識の伝承
 C防災の調査・研究の強化

 安倍晋三首相や古屋圭司防災相も前向きで、早ければ、今年3月11日までに、「津波防災の日」(11月五日/安政南海地震)「防災の日」(9月1日/関東大震災)、「防災とボランティアの日」(1月17日/阪神大震災)につづいて「東日本大震災の日」が法令化されることになる。
 危機管理の国民精神と祈る心が根づくことに期待したい。

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2015年01月06日

 国家と国体A 月刊ベルダ1月号(2014年12月発売)より転載

 天皇は、古来より、象徴だった 
 第47回衆議院選挙は、自民党がほぼ現状を維持、公明党と合わせて、衆議院の3分の2(317議席)を超える326議席を確保した。
 これで、長期政権の布石が敷かれたわけだが、そうなると、昨年6月に施行された「国民投票法案」にからめて、96条改正問題が浮上してくるだろう。
 自民党は、すでに、改憲原案を作成しているが、国民主権が踏襲されている一方、第一条で、天皇元首を謳っている。
 天皇を元首としたのは、エリザベス女王をはじめヨーロッパの国王が元首になっているからであろうが、だからといって、憲法で、規定すればよいという話にはならない。
 話は逆で、憲法に明記することによって、天皇が、憲法上の存在にすぎないものになって、国体の象徴という本質が見失われてしまいかねない。
 憲法などというものは、一過性のもので、改正することも、廃棄することもできる。
 権力(政権)にいたっては、一夜で、ひっくり返る。
 世俗の法や権力に、歴史の真実をゆだねて、平気なのは、国体という観念を欠いているからで、国家が権力構造でもある一方、歴史を貫く文化構造でもあることを忘れている。
 権力という視点だけからみると、権力をもたない天皇に、元首の資格がないような印象になる。
 そこで、憲法で、天皇元首を規定しようとしたのであろうが、短慮というほかない。
 政治的権力をもたないからといって、元首の資格がないということにはならないからである。
 天皇やエリザベス女王、ヨーロッパの国王は、権力を有さないが、権力者であるアメリカ大統領と同様、元首として遇され、訪問国では、21発の礼砲で迎えられる(日本の首相は19発)。
 元首の本質は、象徴性で、ヨーロッパの国王やアメリカ大統領が元首となるのは、国家を代表する象徴的な存在だからである。
 ヨーロッパの王室は権力の系譜だが、日本の皇室は、権威という文化の系統で、それがともに国家の象徴となるのは、それぞれ、国の成り立ちが異なるからである。
 天皇は、古来より、権力に拠って立つ元首ではなく、権威にもとづく象徴だった。
 そもそも、天皇は、象徴的存在であって、天皇の象徴するところは、陛下個人ではなく、天皇を戴く日本国である。
 欧米を真似て、天皇を元首に立てる必要がないのは、日本は、国家の象徴が、古来より、天皇だったからで、元首という別の象徴を立てなければならない理由は、どこにもない。
 岩倉具視の使節団が、欧米諸国と条約改正などの外交交渉ができなかったのは、天皇の勅旨をもっていかなかったからで、国際関係においては、政権をとったからといって、元首とみとめられるわけではない。
 天皇を措いて、政権にすぎないものが、国家の象徴を名乗ることはできない。
 元首という権力の匂いのする冠を用意するまでもなく、古来より、天皇は、象徴であると同時に、元首的存在だったのである。
 世界がみとめている最高権威を、ちっぽけな憲法の枠におしこめるのは、自己否定というほかない。

 辞書(現代国語例解辞典/小学館)によると――元首は、国際法上、外部にたいして、一国を代表する資格をもつ君主や大統領などをさす。
 ここでは、異質な2つのことが、同時にいわれている。
 一つは、元首が、国家という法人の代表であること。
 もう一つは、君主や大統領などの政治的権力者であること。
 この二つが、矛盾なく、あてはまるのは、ヨーロッパ王政である。
 同辞書によると、君主は、世襲により、国家や領地を統治する最高位の人であって、統治とは、主権者が、国土や人民を治めることである。
 ヨーロッパ王政のこの概念をわが国にあてはめることはできない理由は、天皇は、直接、国土や人民を治めていないからである。
 歴史上、天皇が主権をもち、国家の実権を握ったのは、天武天皇(40代)までで、後醍醐天皇の「建武の新政」を例外に、天皇は、権力ではなく、千数百年にわたって、権威=国体の象徴だった。
 藤原一族の摂関政治やのちの院政は、天皇が政治的実権をもっていなかった証左で、天皇が権力者だったら、政変のたび、易姓革命がおこなわれて、とても、世界最古、最長の王朝というわけいかなかったろう。
 天皇を主権者にしたのは、明治維新の王政復古で、大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。
「統治ス」は、伊藤博文の作で、井上毅の草案では、「治ス所ナリ」だったという。
「治ス(シラス)」は、「古事記」に出てくる古語で、「(天皇が)お知りになる(ところのもの)」というほどの意味合いである。
 天皇を元首と定めた明治憲法でも、天皇親政は、おこなわれていない。
 議会の承認(立法)や国務大臣の副署(勅令)が必要で、天皇が、枢密院に諮問せず、みずから、命令を下したことは、一度もなかったからである。
 権力をもたない天皇が、一国を代表する資格をもつのは、日本では、権威である天皇と権力である幕府が分離した二元構造になっているからである。
 前者が国体、後者が政体で、政治という現在性が、国体という過去性の上にうちたてられるのは、わかりやすい話で、天皇の権威が、権力のきまぐれや政治の都合によって、伝統や文化、古来の価値観が排除されるのを防ぐ防波堤になっている。
 日本で、権威(国体)と権力(政体)の二元化がおこなわれたのは、天皇が権力を放棄したからである。
 その結果、貴族や武家が権力を握ることになったが、かれらは、天皇の存在なくして、権力を維持することができなかった。
 桓武天皇(50代)が国軍を廃止して、農民のなかから武士が勃興したのは、土地をまもるためで、守護(地方官)に代わって、豪族(国人)が台頭する。
 武家社会の土台は、戦国時代につくられた。地方官だった守護大名やその家来、土着していた豪族が、戦国大名として名乗りを上げ、軍事力をもって、封建主義的な自治権を確立したのである。
 摂関4姓「源平藤橘」ら貴族も、多くが都落ちして、ちがったかたちで、武家社会をつくってゆく。
 朝廷にも、摂関政治の名残である貴族(公家)が、江戸末期まで、勢力を保つ。
 権威である天皇や朝廷と権力である大名や幕府が共存したのは、権力が、権威に統治の正統性(レジテマシー)をもとめたからである。
 武田信玄が、入京して、天皇から征夷大将軍の官位をえていれば、戦国時代は、早々に幕を下ろし、信長や秀吉、家康の出番はなかったろう。
 権威は、権力とちがって、法で定めることができない。
 智恵者だった家康は、公家諸法度をつくって、朝廷が、他大名に官位をあたえる自由を奪った。
 徳川幕府が長持ちしたからよかったものの、政変がおきていれば、公家諸法度を逆手にとって、天皇の権威や地位が危うくなっていたかもしれない。
 それは、現在もいえることで、天皇が憲法に規定され、皇室典範が憲法に組み込まれているため、天皇の政治的独立や万世一系(皇位の男系相続)が、権力によって、おびやかされたのは、つい、過日のことである。
 権威にたいする権力の侵犯が現実のものとなったのが、明治維新だった。
 明治憲法が、天皇を元首に定めたのは、政治利用で、大政奉還は、公家諸法度による大政委任の裏返しで、権威が、権力にとりこまれたのである。
 国体に立ち返らなければ、保守は、政体の一部、政争の具となるほかないのである。

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