2008年04月16日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(17)

 ●権威と権力を合体させた維新政府の過ちとその呪縛(続)
 革命やクーデター、倒幕(反政府)闘争がめざすのは、すべて、権力の奪取である。
 したがって、そこに大義がなければ、叛乱とみなされる。
 大義というのは国体のことで、国体護持の意思がはたらいていなければ、どんな理由があろうと、政治闘争は、私利や権力欲にとりつかれた亡者の私闘、叛乱にすぎないものとなる。
 そこに、歴史上の覇者が、朝廷に、錦の御旗や詔勅、官位をもとめた根拠がある。
 いくさや政治権力の行使は、私利や権力欲のためではなく、国体のためである――。
 したがって、詔勅や官位を戴きたいと。
 歴代の覇者は、国体の護持を天皇に誓って、いくさをおこない、幕府をひらいたのである。
 国体は、歴史や文化、国の繁栄や民の幸までを包含している。
 天皇は、その国体の象徴である
 だから、権威なのであって、私闘や権力欲と皮一枚で接する権力とは、無縁である。
 一神教のもとにあるのは、権力だけである。ローマ法王庁も、権力を絶対化する役割を担っただけで、権威たりえなかった。歴史や文化、民の幸までをふくむ国体という観念がなければ、権威はどこからもうまれず、権威の裏づけをもたない権力は、暴力装置でみずからを絶対化するしかない。
 したがって、ヨーロッパ(ユーラシア)では、権力闘争がはてしなくつづく。
 現在の戦争なき状態――バランス・オブ・パワーは、一神教世界の平和なのである。
 国体というのは、この世は神の国(高天原)の延長という、神道の世界観である。
 キリスト教やマホメット教では、真実が神の国にある。仏教は来世、儒教は天に真実がある。いずれも、この世を仮の世界とみるニヒリズム(虚無主義)であって、現世に神をみいだす国体という観念は、一神教からは、けっして、でてこない。
 日本人が、古代から、国体意識をもちえたのは、神道の国だったからで、日本の文化や習俗、心のありかたまで、すべて神道的価値観に根ざしている。
 西洋文明と日本文化は、根本がちがうので、すりあわせることができない。
 西洋の学問をした者は「日本人は権利意識が乏しい」という。だが、ヨーロッパでたたかいとらなければならなかった生きる権利は、日本では、和の心や相身互いの精神で手にはいった。
 権利意識など必要がなく、そんなことをいいだせば、かえって、和の心がそこなわれることになる。
 明治維新は革命だった――というのは、その変革が、神道文化へのキリスト教文明の接ぎ木だったからである。
 じじつ、明治維新は、日本史では例がない、ヨーロッパ型の権力闘争だった。
 神道的価値観から一神教的価値観への大転換をもたらしたのが、権威と権力の一体化である。
 孝明天皇は、討幕派に転向した岩倉具視に毒殺されたという説が根強い。
 最近、発見された主治医(伊良子光順)の日記にも「急性薬物中毒」と記されている。
 一介の公卿にすぎなかった岩倉具視が、孝明天皇が崩御された翌年、若き明治天皇を立てて王政復古(大政奉還)を実現させ、一躍、維新政府の中枢にのしあがってゆくことができたのは、天皇(権威)を政府(権力)のトップにつけるという、大革命をやってのけたからである。
 そこで、日本の伝統的な政治システム=権威と権力の二元体制は、終わりを告げた。
 大久保利通や岩倉具視ら、明治政府の首脳がめざしたのは、明らかに、ヨーロッパ型の政体で、このとき、国体も、事実上、崩壊した。
 明治政府は、日本文化の廃棄と西洋文明の導入を宣言して、文明開化を国是とした。
 森有礼文部大臣は、国語を英語に代えるように主張し、葛飾北斎ら日本の美術品はタダ同然で海外に売り払われた。武士は野蛮で、鹿鳴館文化というヨーロッパの猿真似が上流ということになり、このとき、皇室の正装や正餐も、洋式となった。
 当時、日本で、近代化が可能だったのは、文明開化の号令があったからではなく、日本の国体が磐石で、とりわけ、江戸時代の知的水準が、西洋文明を理解して、再生産できるほどに高度だったせいである。
 遣唐使の廃止によって、国風文化が栄えたように、日本には、他国の文化や文明を吸収して、さらに発展させる潜在能力をもっている。
 科学の利器である文明は、文化革命をおこさずとも、知的水準が高ければ、うけいれることができる。
 知的水準が高い文化の受け皿も、また、国体である。明治政府が、政体や文化、文明をヨーロッパ化する方法をとっていなければ、近代日本で、江戸の文化と西洋の文明が調和した第二の国風文化がうまれていただろう。
 ところが、明治政府は、それに気づかず、鹿鳴館文化や武士の廃絶というヨーロッパの模倣に走ったばかりではなく、このとき、皇室の王室化という、国体の変更をおこなった。
 そして、使節団を率いて、欧米を視察した岩倉具視や大久保利通は、文化や国体の担い手だった武士の廃絶に反対した西郷隆盛を西南の役で討ち、日本文化の否定、日本のヨーロッパ化を国是に、世界へのりだしてゆく。
 明治維新後、富国強兵をスローガンした国造りは、一応の成功を収め、日本は、世界の烈強と肩を並べるまでになった。だが、これは、西欧化が成功したのではなく、前述したとおり、江戸の文化レベルや髷を切って軍人や官僚となった武士の精神性が高かったからである。
 日清・日露戦争に勝利できたのも、たたかったのが、戊辰戦争を体験した幕末の武士だったからで、当時は、まだ、江戸時代の遺風が十分に残っていた。
 その後、第一次大戦における勝利やシベリア派兵などをとおして、日本は、国際社会で大国に列されるまでになった。
 だが、当時の日本は、維新政府の犯した大きな間違いに、まだ気づいていない。
 権威としての「現人神」と統治者としての「大元帥」の合体というヨーロッパの王制的権力が、どんなに危険性をひめているかついて、何も――。
 大正デモクラシーをへて、昭和にはいると、国体を変更したツケが、徐々に、まわってくる。
 権力が暴走するのである。朝廷のもとで自粛していた歴代幕府とはちがい、畏れるべき天皇をわがものにした政府、とりわけ、軍部は、自己制御の能力を失って、怪物的権力を増殖させてゆく。
 そして、日本は、戦争のための戦争という、西洋型の戦争へふみこんでゆく。
 大東亜戦争は、ヨーロッパ型の帝国主義にのったもので、日本は、蒋介石の中華民国やアメリカとたたかう必要など、みじんもなかった。
 政府(権力)が、天皇(権威)から政治をあずかるという二元的な政治システムが機能していたら、冷静な判断がはたらいて、戦線は、満州国の建設と南方の資源を握っているヨーロッパ列強との対決にとどまり、支那やアメリカとの開戦には、ブレーキがかかったはずである。
 支那戦線の拡大や真珠湾攻撃には、常識で考えて、何一つ、合理的根拠がなかった。
 だが、天皇が、大元帥として、権力の側におかれていたため、政府と軍部が天皇をとりあうという事態が生じ、結局、天皇をとりこんだ軍部がファッショ体制を敷いて、日本は不合理きわまりない、対支・対米戦争へつきすすんでゆく。
 幕末の争乱期、討幕派の志士らは、天皇を"玉(ぎょく)"とよび、「玉をとったほうが勝ち」と公言してはばからなかった。
 先の大戦でも、同じ論理のもとで、軍部が天皇をとりこんだ。
 天皇に主権(政治権力)があると定めた統帥権をタテに、天皇を大元帥に戴いた軍部が政党や議会をおさえ、その一方で、現人神として奉った天皇の威を借りて、国家総動員法を敷き、陸・海軍の兵士を不合理なたたかいに駆りたて、無計画に戦線を拡大させるのである。
 天皇が、権力にとりこまれたため、政治を監視する権威が不在となって、国家が危殆に瀕した。
 それが、前回、冒頭でのべた、天皇の戦犯問題と国体(皇室)の危機の真相である。
 一五〇年前、明治政府が犯した過ちは、払拭されたのであろうか。
 否である。それどころか、日本は、その禍根をいまもなおひきずっている。
 それが、保守精神の欠如である。
 じぶんの頭で、国益や国是、国の誇りについて、自主的にモノを考えられない政治家や官僚が、アメリカや中国という"玉"をとりあい、いわば、大国の虎の威を借りて、親米や反米、親中などの旗をふりまわしている。
 かつて、天皇の権威を借りて、国内で権力を奪い合った陸軍統制派・海軍英米派とすこしもかわらない。
 保守は、国体の基盤に立つ、ということである。
 政治家は、国益と国是のためにはたらき、国民やマスコミは、愛国心や公徳心を大事にする。それが、しぜんなすがたで、何ものからも支配されていないことが、保守精神なのである。
 保守精神は、民族や国家の歴史、文化の総体たる国体に拠って立つ。
 じぶんのうまれた国土、同胞、歴史、文化に心をおくことによって、はじめて、独立心や誇り、自信がうまれる。国体は、そういう情緒をとおしてあらわれるもので、国体を捨てて、じぶんの国に罵詈を浴びせ、アメリカに平伏し、中国に媚びるのは、日本を西洋より劣った国と見て、自国の歴史や伝統、文化の破棄を主張した岩倉欧米使節団のようなもので、始末に負えない。
 国家は、権力という現実主義に、国体は、保守という情にささえられている。
 自国の国体を愛することが第一で、そうすると、変革することより、変革しないことのほうに、現在より過去のほうに、より高い価値があることが、わかってくる。
 それが、保守主義である。
 国体の西欧化に反対して、西南戦争をたたかった西郷隆盛は、保守主義をつらぬいて殉死した。
 現在の保守主義の欠如は、万世一系の天皇を政治的に利用している憲法をもち、天皇を権威として立てられない政治的風土と、西欧化(アメリカ化・グローバリゼーション)のなかにあって、国体意識を血肉化できない社会的風潮によって生じた、とわたしは、思っている。
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2008年04月15日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(16)

 ●権威と権力を合体させた維新政府の過ちとその呪縛
 1945年の敗戦によって、日本は、神武紀元以来、連綿とつづいてきた国体(皇室)の存続が危殆に瀕するという、未曾有の国難に直面した。
 天皇の戦犯問題である。
 天皇が、東京裁判で裁かれ、あるいは、イタリアのサボイア王家と同様、皇室の解体がおこなわれていたら、国体が崩壊して、日本は、分裂国家か、大国の属国になっていたと思われる。
 日本がポツダム宣言の受諾を渋ったのも、国体の護持という確証がえられなかったからで、それが、広島・長崎への原爆投下という惨禍につながった。
 そういう事態に立ち至ったのは、明治政府が、権威と権力を一体化させ、天皇を戦争の当事者にしてしまったからである。
 ロシア、英国、オーストラリアなどの戦勝国が、天皇の戦争責任をもとめたのも、天皇が、かつての、ヨーロッパの王室と同様、権力者と思ったからだった。
 天皇の権威に象徴される国体、その国体の認承によって、権力に正統性があたえられる政体――これが、わが国の二元的な政治システムで、権威たる天皇は、権力である元首や大元帥と、一線が画された存在でなければならなかった。
 ところが、明治政府は、権威である天皇を<元首・大元帥・現人神>として権力の側にとりこんで政治的に利用した。
 そのつけが、一〇〇年後にまわってきたのである。
 戦後、劇的なかたちであらわれた天皇体制の危機は、明治維新の段階で、すでに、仕込まれていたわけだが、先の戦争の失敗から現在の社会的欠陥まで、原因をさぐると、すべて、そこへゆきつく。
 今回は、2回にわたって、そのテーマについてのべる。
 さて。我が国にとって幸運だったのは、GHQ最高指令官・マッカーサーが占領政策に天皇を利用すべく、アメリカ議会や他の戦勝諸国の反対を押し切って、戦犯から除外したことである。
 マッカーサーの判断によって、天皇の戦犯問題と皇室解体の危機は、かろうじて、回避されたが、国体の護持が、薄氷をふむような危うさに瀕したことは、日本史上、最大の汚点といってよい。
 もともと、日本の天皇制度は、権威と権力を分離することによって、権力の増長を防ぐ歴史の知恵で、だからこそ、日本の国体は、二千年以上にわたって、まもられてきたのである。
 薩長閥による明治政府が、この伝統的な体制をこわしたのは、かれらの近代化が、欧化主義だったからで、下級武士にもおよばない低い身分だったかれらに、日本の伝統を重んじる気風は、そなわっていなかった。
 明治維新は、きわめて、複雑な構造をしている。
 慶応三年(1867年)、十五代将軍徳川慶喜は、政権を朝廷に奉還し、その翌年、官軍が江戸に迫ったところで、勝海舟・西郷隆盛の会談をとおして、江戸城の無血開城までおこなっている。
 ここまで平和裏にすすむのは異例としても、これは、日本史にいくたびかあらわれた政権交代劇の一つといってよい。
 ところが、官軍は、徳川家と親藩の徹底殲滅をはかって、内戦をひきおこす。
 戊辰戦争である。
 徳川慶喜は、すでに、恭順の意をしめしており、親藩にも反抗の意図はなかった。あとは、公武合体にしろ公儀政体にしろ、新しい政府をつくるために、英傑が力をあわせればよかったわけだが、薩長がそうしなかったのは、公武合体論の孝明天皇が急死して、「薩長政府」樹立の機運がうまれたからである。
 このとき、薩摩や長州は、権力の正統性を顕す錦の御旗をもとめた。
 戊辰戦争は、錦の御旗をわがものにしようとする薩長の権力欲によってひきこされたといってよい。
 幕末の乱世にあっても、徳川幕府は、天皇から征夷大将軍の官位を戴き、三百年の長きにわたって日本を統治してきた。為政者としての正統性もあり、薩長軍と対抗する戦闘能力も十二分にもっていた。
 一方、薩摩や長州が王制復古や天皇親政をうったえても、錦の御旗がなければ、倒幕に大義名分が立たない。当時、薩長軍が、天皇の勅書と錦の御旗を必要としたのは、かれらがめざした倒幕が権力闘争で、事実上のクーデターだったからである。
 錦の御旗がなければ、倒幕運動は、ただの叛乱である。事実、薩長の倒幕運動には、関が原で徳川に敗れた両藩の意趣返しという動機が隠れていた可能性がある。
 錦の御旗や天皇の詔勅によって、権力に正統性が付与されるというやりかたは、日本の伝統的な政治システムで、足利尊氏が、後醍醐天皇親政に対抗すべく、北朝一代目となる光巌天皇を立てて、室町幕府をひらいたのも、同じ原理である。
 明治維新において、薩長(東征)軍が幕府軍を圧倒できたのは、かれらが、錦の御旗を手にしたからだった。一方、朝敵となった幕府軍は、賊軍の汚名を着せられて、ことごとく、敗れ去った。
 錦の御旗のもとで、権力を手にした政治権力は、こんどは、権威である天皇の意思にかなう政体を組織して、国家・国民のために、行政組織を合理的に運営しなければならない。
 それが、権威と権力、国体と政体の二元論的関係である。
 ところが、明治政府は、討幕に利用した天皇を――徳川三〇〇藩候の解体や廃藩置県、廃刀令などの政治改革に利用する。
 民の平安や国の繁栄を神々に祈る最高神官として、権力構造と一線が画されていた天皇を現人神として神格化する一方、明治政府は、天皇を元首・大元帥という権力者に仕立て上げたのである。
 権威である天皇が、権力へとりこまれると、権威が空白となって、騒乱がまきおこるのは、これまでの歴史がしめすとおりである。
 後醍醐天皇の建武の新政を、わたしは、評価しない。
 清廉な鎌倉幕府・北条執権を倒して何がおきたであろうか。
 南北朝から、内紛がたえなかった足利幕府、足利義満・義正の悪政、応仁の乱から戦国時代をへて、徳川幕府が安定政権を打ち立てるまで、日本は、270年にわたって、暗黒の中世をさまよわねばならなかった。
 権威と権力が別々に機能していれば、なかったはずの暗黒の270年だが、明治維新でも、建武の新政と同じことがおきた。
 明治政府が天皇をとりこんだことによって、権威が空白となり、あっというまに、軍国主義ができあがってしまったのである。権力を監視する天皇が不在で、現人神が、権力に就けば、その権力が怪物化するのは、必然である。
 マッカーサーは、占領統治に天皇を利用した。だが、それは、かならずしも、権威と権力の二元論から外れたものではなかった。天皇は、マッカーサーに「わたしはどうなってもよいが、国民を飢えから救ってもらいたい」といわれ、マッカーサーは、曲がりなりにも、その意にそおうとした。
 権威である天皇の祈念が、マッカーサーという権力につうじたのである。
 天皇の戦争責任が不問になったのは、本来、天皇は、民の幸を「神に祈る神」(本居宣長)であって、もともと、権力から、切り離された存在だったからである。
 新憲法では象徴(権威)となったが、新憲法で規定された天皇の象徴性は、国民の統合であって、国体と明記されていない。
 わたしが、憲法を改正して、天皇の条項、および、皇室典範を憲法から外すべきと思うのは、国体が、法や政体の下位におかれると、文化や歴史、国民の幸が、政治権力の下にきてしまい、危険きわまりないからである。
 古来にはじまり、武家政治の中世から江戸末期まで、天皇の権威は、国体の象徴としてであって、国体の根拠は、政治力や軍事力ではなく、歴史や文化、なによりも、民の幸せと国家の繁栄におかれている。
 国体には、国家の安泰と民の幸という神々の祈りが、すでに、封じ込まれているのである。
 お天道様のもとで、人々が、八百万の神々とともに、生産や繁殖に励むことをめざしているのが、神道のもとにある日本の国体で、そのため、天皇は、皇居内で年間三十回にもおよぶ祭}、多くの国事行為をおこなっている。
 権力が、国体をまもるということは、国家・国民をまもることで、その規範から外れることがないよう、権力を監視するのが、権威=天皇である。
 天皇が国体の象徴、というのは、そういう意味合いからである。
 次回は、権力構造という視点から、もういちど、明治維新を見直してみよう。

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2008年04月10日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(15)

 ●天皇と神道――ヨーロッパ王制とキリスト教
 ヨーロッパの王室は、中世における権力闘争の覇者で、征服王の家系である。
 歴史的にも浅く、三〜四百年ほど前といえば、ちょうど、日本の戦乱期にあたる。
 しばしば、日本の天皇と比較されるが、絶対権力者であるヨーロッパの王は、天皇ではなく、むしろ、平氏の平清盛や源氏の源頼朝、足利尊氏、あるいは、天下統一をはたした織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、戦乱期の覇者に近い。
 天皇は、覇者でも、権力者でもない。
 覇者に、征夷大将軍などの称号をあたえ、一方で、幕府を監視する権威である。
 天皇のこの権威は、神話にもとづいている。
 神話は、一つの寓話ではあるが、その根源に、神道という民族の宗教原理があり、国体や国柄、伝統や文化は、その神道の価値観に根ざしている。
 天皇は、権力に正統性を付与し、幕府を総監するだけではなく、国家の繁栄や民の幸、収穫を祈念する神道の最高神官でもある。
 これが、日本特有の権威(天皇)と権力(幕府)の二元体制である。
 ヨーロッパに天皇にあたる地位がなかった理由は、キリスト教の布教によって、民族の神話が失われたからで、ヨーロッパ各国の古来の伝統や文化も、民族の神話とともに、消えさった。
 民族固有の神話を失ったヨーロッパ各国において、新たな神話となったのが、「神が創造した最初の人間、アダムと妻のイヴが神の戒めに背いたため、エデンの園から追放された(原罪=キリスト教の中心教義)」とするキリスト教の物語で、権力構造においても、キリスト教をうけいれたヨーロッパの王国は、いずれも「神より与えられた統治権は神聖にして不司侵である」という帝王神権説をとって、絶対権力をつくりあげた。
 権威の後ろ盾がなかったため、ヨーロッパ王政は、絶対主義という強権を立てなければならなかったのである。
 歴史や民族、文化が異なるドイツ、フランス、イタリアなどのヨーロッパ諸国が、EU統合という大事業をなしえたのは、キリスト教という同一宗教、キリスト教を中心とした独自の文化と価値観でむすばれていたからで、ヨーロッパに、ユダヤ教や回教など、別の絶対神が根を張っていたら、統合は、不可能だったかもしれない。
 万世一系の天皇を戴くわが国の皇室は、古事記や日本書紀に描かれている神話を起源にして、現在まで、連綿とつづいている。
 政体が、源平から鎌倉、室町、戦国時代をへて、織豊、徳川、明治と変遷してきたにもかかわらず、後醍醐天皇による一時期の王政復古を別として、国体がゆるがなかったのは、天皇の権威と幕府の権力のあいだに、一線画されていたからで、権力と権威の二元構造が、古代から今日までひきつがれてきたのも、権力者がかわっても、国体は変化しない柔構造が、すぐれた政治形態だったからであろう。
 この二世紀のあいだに、ヨーロッパ王制の多くが、消滅した。
 ブルボン王朝はフランス革命で、ロマノフ王家はロシア共産革命によって滅び、第一次大戦に敗れたドイツでは、ホーへンツ、オレルン王家が消えた。オーストリアでは、ハプスブルグ家が王制から去り、第二次大戦後、イタリアのサボイア王家が、国外に追放された。
 国家は、国体という文化構造のうえに、政体という権力構造をのせている。
 ヨーロッパで多くの王家が消えていったのは、拠って立つところが、歴史や文化などに裏打ちされた国体ではなく、権力闘争がくり広げられる政体だったからである。
 権力闘争の産物である政体は、時代によって、変遷する。
 ところが、国体という歴史的な文化構造は、かわることがない。
 そこから、国家の母体は、権力の実体たる政体ではなく、国体だったと、わかる。
 国体から、権威が派生する。
 権力は、その権威によって、正統性をあたえられる。
 したがって、権威の裏づけがない権力は、絶対主義でもとらないかぎり、安定した支配体制をつくりあげることはできない。
 立花隆が、雑誌に「戦後日本の国体は憲法九条」などと書いているが、護憲論者の強弁という以前に、政体にぞくする政治や法律が、国体を規制しうるという考え方が、そもそも、まちがっている。
 同様に、憲法で天皇のありかたを定めるのも、憲法で皇室典範を規定するのも、誤っている。
 権威は、権力の都合や法解釈によって左右されてはならないからである。
 だいいち、一過性の権力機構にすぎない政体に、そんな権限はゆるされていない。
 国体は、文化の体系であって、文化の根源をさぐれば、どこの国でも、神話にゆきつく。
 神話によると、天皇は、高天原から降臨した神々の子孫で、いまなお、国の繁栄や民の幸を祈っておられる。
 神話の母体である神道の精神は、無私である。
 私心をはさまず、高天原の神々が理想としたすがたを再現しようとするのが「惟神(かみながら)の道」で、天皇は、覇権を争う権力者と、正反対の立場に身をおかれている。
 そこに、幕府が、天皇のゆるしをえて、国を支配する原理がある。
 神武天皇の血筋をひいておられる万世一系の天皇が、日本の伝統文化や生活感情、習俗の土台になっている神道の最高神官であらせられる以上、戦闘能力にすぐれているにすぎない武力集団が、その天皇に、為政の勅をもとめるのは、すぐれて、しぜんなふるまいであり、それが、日本の国柄である。
 武力だけで、覇権を争ったヨーロッパの王政とのちがいは、いかばかりか。
 もっとも、わが国においても、七世紀初めまで、天皇は、王的な権力もそなえていた。
 というのも、大和朝廷の成立以前、あるいは、その初期において、政体といえるような権力構造がなかったため、政治が、文字どおり、まつりごと(政=祭祀)だったからである。その過程で、いくさ(征夷)をふくめた強権の発動があったと思われるが、ユーラシア大陸でおこなわれたような凄惨なたたかいはなかった。
 その理由は、神道の起源とも関連するが、森林や肥沃な平野、河川、海岸線がゆたかな日本では、砂漠や痩せた土地の国々とはちがって、生存競争や生死をかけた争いのタネが、それほど多くなかったからである。
 人々は、大自然のなかで、おおらかに生きていた。それが、万葉人と呼ばれる日本人の始祖で、かれらは、自然そのものを神として、その自然法則にのっとって生きる、神道という世界観をきずきあげた。
 砂漠や山岳、放牧しかできない痩せた土地では、魂の救済をもとめる一神教の啓示宗教がうまれる。 
 だが、ゆたかな自然に恵まれた日本では、もっと素朴な、太陽の恵みを称える祭祀が根づいた。
 神道の最高神は、太陽である。
 収穫や自然の恵み、巡ってくる四季、一日や一年という区切りは、すべて、太陽のはたらきによるものだからである。
 もっとも、神道は、インカやエジプトのような太陽神崇拝とは異なる。
 太陽のもとにある森羅万象が、それぞれ、神々(八百万神)で、この世は、神々の活動(産巣日=ムスビ)の場にほかならず、そのすがたは、神代から現在まで、かわらないとする。
 高天原の太陽も、この世で輝いている太陽も同じなので、高天原はこの世とつながっている、というのが、神道における太陽で、それが、天照大神のもとで、さまざまな神々が活躍した神話におきかえられて、いまにつたえられている。
 日本の伝統や文化、習俗や生活感情には、神道的な価値観が反映されている。
 たとえば、西洋の時間は直線的だが、神道の時間は循環する。お正月は、ふたたびめぐってきた新しい年で、過去は、忘れられる。
 禊(みそぎ)や浄め、よみがえり、水に流す、という習俗や考えかたは、神道のもので、それが、文化だけにとどまらず、日本人の価値観や気質にまで投影されている。 
 日本の国体は、風土や歴史、文化、日本人の精神の深くにはいりこんでいる神道の価値観にささえられている。
 その中心におられるのが、万世一系の天皇で、それが、国体のすがたといってよい。
 明治維新後、一神教的な価値観がはいってきて、伝統的な神道文化に珍奇な西洋文化を接ぎ木するかたちで、近代化がおこなわれた。
 かわったのは、明治政府という政体だけではなかった。
 権威と権力の二元構造、国体のあり方も、大きな変更をくわえられた。
 その結果、何がおきたか。そのテーマについては、次回、のべることとする。

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2008年03月23日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(14)

●「神道」は日本民族固有の価値・世界観である
 今回は、神道について、すこし、整理してみたい。
 神道は、保守主義や右翼思想の根っ子の部分にひそんでいるが、これは、欧米の保守思想や国家主義が、キリスト教とつながっているのと、同じ構造である。
 民族的宗教観と国体、国柄が、表裏一体の関係にあるからである。
 広辞苑をひもとくと、神道の項目に「かんながらの道」とある。
 これが、神道の真髄で、神道には、これ以上の説明は、必要がない。
 かんながら(惟神)とは、人為をくわえないさま、神慮のまま、という意味である。
 自然や天体、物や事があるがままにあるのが神慮で、そのありさまが、惟神の道、神道のすがた、というのである。
 一神教の場合、自然や天体をつくったのが絶対神で、人間は、それを神からもらいうけるので、自然も他の生物も、人間の所有物や糧にすぎない物となる。
 キリスト教が、神との契約といわれるのはそのためで、中世ヨーロッパにおいて、侵略や他民族の虐殺がおこなわれたのは、キリスト者にとって、地球上の生産財すべてが、神からあたえられたものだったからである。
 神からもらった生産財には、自然のほか、動物もふくまれる。異教徒や未開人も動物なので、中世や大航海時代、ローマ法王の名のもとで、十字軍遠征、あるいは、インカ帝国などの非キリスト教地域で、虐殺や略奪をくり返して、キリスト者は、なんら、罪や良心の咎めをかんじるところがなかった。
 近世・近代になって、神は、科学にとってかわった。神がつくった自然の合理から科学がうまれたので、科学も、神の恩恵というわけで、こんどは、科学が絶対神になって、ふたたび、侵略がはじまった。
 列強のアジア侵略は、ヨーロッパ文明による文化破壊で、アジアやアフリカ、旧アメリカが、かれらに、徹底的に破壊され、奪われ尽くされた。
 一神教がうみだした科学=合理主義が、理性神にまで高められたのが革命である。
 フランス革命では、実際に、祭壇に、理性神が飾られた。
 そのフランス革命をモデルにしたのが、ソ連の共産主義革命だった。
 そして、二十世紀において、多くの共産主義国家がうまれ、大半が滅び、滅びつつある。
 一神教が、絶対神→科学→合理主義→理性→イデオロギー、というふうにすすんできたので、共産主義というイデオロギーのもとにある中国が、中世の十字軍遠征の論理をひきついで、いまなお、チベットの文化破壊やチベット僧侶の虐殺をおこなっているのである。
 神道における宗教観は、一神教世界のそれと、まったく、ちがう。
 宗教観がちがうと、価値観や自然観、世界観も、当然、ちがってくる。
 明治維新以前、日本は、特有の民族文化をもった文明国家で、当時の日本人の美的感覚や識字率、土木や建築技術、政治システムなど、多くの分野で、世界一だったことが、学術的に証明されている。
 日本の文化の高さをささえていたのが、神道の価値観だった。
 神道の「かみ」は、人間はもとより、鳥獣、木草、海や山、その他諸々、すべての存在をさす。その場合のかみは「迦微」で、八百万の神も、本来、迦微である。「神」という文字が付されるのは、全存在の頂点にある太陽だけで、それも、太陽に精霊が宿っているという意味ではなく、太陽そのものが神で、そこが、ギリシャの太陽神やアニミズム(精霊崇拝)とちがう。
 西洋の学者のなかには、神道は宗教ではなく、哲学というひともいるが、絶対神を拝んで救済をもとめるのが宗教なら、神道は、一神教と同じ宗教の枠にくくることはできない。
 神である太陽のもとで、森羅万象があるがままにあり、生あるものが精一杯生を営む、というのが「惟神の道」だが、この神道と、絶対神から、生産財として、自然や動物などをあたえられたと考える傲慢な一神教(絶対神)では、対極といってよいほど、遠い距離にある。
 ●神道と江戸の国学四大人
 日本の古代信仰が、神道として体系化されたのは、江戸時代で、当時、神道の研究は、国学とよばれた。テキストは、古事記や日本書紀などの古典、および民間伝承で、国学=神道を完成させたのは、荷田春満(かだのあずままろ)・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の四人(四大人)である。
 なかでも、本居宣長は、キリスト教や儒教など、ユーラシア大陸の価値・世界観を「漢意(からごころ)」として排して、神道の中心に、大和心をすえた。
 敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花 
 大和心は、理屈を抜いた情緒や直観で、自然や物事と対面して生じる情けでもある。
 さて。この神道の特異なところは、教義や教典、御神体がないことである。
 しかも、おもんじるのは、祭祀だけで、徳目も、浄明正直(浄く明るく正しく直く)だけという、じつにさっぱりとしたもので、宗教というより、民族固有の世界観といったほうが、たしかに、わかりよい。
 荷田と賀茂、宣長は、順に、師弟の関係にあり、世界観もほぼ同じだが、宣長の後継者を名乗った平田篤胤だけが、やや、異色である。平田篤胤の神道は、天御中主神(アメノミナカヌシ)をキリスト教の創造主に見立て、天皇を現人神とする西洋的な宗教観をうちたてたが、それが、師と仰ぐ宣長がきらった漢意で、平田神道からうまれたのが、天皇を現人神とする国家神道である。
 国家神道では、天皇を現人神としたが、一方で権力は、天皇を大元帥に祭り上げ、政治的に利用した。国家神道は、戦後、GHQによって禁止されたが、神道における天皇は、万世一系の最高神官で、いっとき、武器をもってたたかいはしたが、もともと、高天原から降りてこられた葦原の国(日本)の管理者である。
 権力(幕府・政府)は、したがって、この国が浄明正直であれと願い、祈る天皇の大御心に応えなければならない。そこに、権威と権力が二元化した日本特有の政治構造と、日本で朝敵がもっとも忌まわしい存在となる根拠がある。
 もう一つ。神道が、一神教ともっともちがうところは、あの世がないことである。
 一神教では、あの世という異次元があり、そこに、絶対神がいる。
 人々は、絶対神にひれ伏して、死後、免罪されて天国へ行けるよう祈る。
 神道で、この世のことを「葦原中つ国」というのは、高天原と黄泉国の中間にあるという意味だが、これは、仏教の影響をうけた形跡で、死んでも、この世にとどまって守護神(祖霊)になる神道では、死は、生の抜け殻の死体でしかなく、したがって、忌まわしいだけのものでしかない。
 この世と高天原、黄泉国がつながっている神道には、死後の世界という観念がなく、生死や有形無形を問わず、全存在は、太陽のもとにある。キリスト教が生前(=原罪)の、仏教が死後(=浄土)の宗教なのにたいして、神道が生の宗教といわれるのは、そのためである。
 神道では、絶対神にあたるのが太陽だが、太陽は、あくまでも、この世のものである。
 この世に、太陽という絶対神が輝いているのは、高天原と葦原の国がつながっているからで、この世では、したがって、神代でおきることと同じことがおきる。
 宣長によると、この世界は「奇異なる物(迦微)と事(産巣日=むすび)」の生起消滅の連鎖で、神代で八百万の神々によってなされた事跡が、そのまま、葦原の国でおこっているという。
 太陽の運行も、巡ってくる四季も、草木の生長や動物の繁殖も、世界に存在するさまざまな文物も、人間の性行為さえ、漢意を抜き去ってながめると、奇異(くすしあやし)としかいいえないもので、この世で、奇跡(=奇異)がおきるのは、高天原とつながっているからである。
 刻一刻と、目の前にあらわれる事実や事象が「神の道=惟神」で、それをそのまま「神の御所為(みしわざ)」と見る。神道で、現在を「中今(なかいま)」「神代即今」というのは、いま現在、おきている出来事も、神代でおきたことと同様に、神慮であって、理屈では解けないからである。
 科学で説明しようとしても、なぜ、原子や遺伝子が存在するのか、という最大の謎は、とうてい、科学の手に負えない。
 宣長は、当時、解読不能だった「古事記」を読み解き、そのなかに、生々しく記録されていた神道の真髄を探りあて、その尊きを尊み、 可畏(かしこ)きを畏みているべきであるとした。
 かみには、貴きも賎しきも、強きも弱きも、善きも悪しきもあり、荒魂がいれば、和魂もいる。それらの神々が、太陽系の時空間でくりひろげる奇異とともに、われわれが存在するというのが、太古から有史以前、古事記の万葉世界、現在につらなる神道の世界観で、人間の小さい認識(漢意)で、その理(ことわり)を測り知ることはできない。
 これが、日本人の宗教心で、絶対神の救済をもとめないから、日本人は宗教心が乏しいというのは、西洋人の偏見、無知、思い上がりでしかない。
 戦後、日本人が、自信を失ったのは、戦前まで残っていた神道の価値観が、科学万能主義やマルクス主義、アメリカ化などによって、根絶やしになったためであろうが、一方、初詣や七五三のお参りでは、日本人は、いまなお、こぞって、神社へむかう。
 日本人の心の奥底に、ノスタルジーとしての神道が、根強く残っているからであろう。
 日本人の精神を復活させる鍵は、神道にある、というのが、わたしの持論なのである。
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2008年03月11日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(13)

 ●憲法九条を戦後日本の国体と強弁する立花隆
 雑誌「現代」に、立花隆が「憲法九条は戦後日本の国体」という論文を書いている。
 国体は、歴史や伝統、文化、宗教感情、習俗などに根ざしており、政治や法は、国体の上にのっている政体にすぎない。
 立花の暴論には、驚くしかないが、憲法九条を戦後日本の国体と強弁するのは、事実上の国体否定で、かれら護憲主義者の主張は、最後には、国境を取り払い、世界連邦をつくって、全人類が手をつなごう、という誇大妄想へゆきつく。
 過激派の「世界同時革命」のようなものだが、いったん、こういうイデオロギーにとりつかれると、国家の礎である国体が、世界連邦建設の障壁になるというわけで、保守陣営をふくめた護憲派の政治家、論壇人、マスコミ文化人らが、競って、反日主義をいいつのるようになる。
 反日主義は、左翼ではなく、国体という観念が抜けおちたコスモポリタニズム(世界市民=無国籍主義)で、そんな連中が、憲法九条をたてまつるのは、国体を否定したいからにほかならない。
 憲法九条、および、憲法に謳われている国民主権は「国家は――国家の維持・強化を最高原理として行動する」という国家理性(国是)や国家主権と対立する。
 それも当然で、日本の国体や国是を否定する目的でつくられているGHQ憲法から、コスモポリタニズムに立った絶対平和主義や国体・国益の否定がでてくるのは、必然のなりゆきである。
 さらにそこから、反日主義がとびだしてくるのも、占領憲法に封印されていたシナリオで、要するにかれらは、GHQ憲法という敗戦革命の申し子なのである。
 政治や法を国体に優先させると、国家は、文化的に不毛な人工国家へ転落してゆく。共産主義国家がよい例で、国体の代わりにイデオロギーをもちこんだ結果、国家が機能マヒと経済破綻をおこして、前世紀の末、大半が地球上からすがたを消した。
 国体を否定した国家が、衰弱するのは、文化や歴史、宗教感情が国体ともども、消えてしまったからである。
 戦後の日本が、いまだ、独立国家の体をなしていないのも、政治や法に比べて、国体の比重が軽いからで、そこに、国家としての致命的欠陥がある。
 国体というまもるべき実体がないので、国益がふみにじられ、防衛観念が薄まり、媚中外交や対米従属、自虐史観から、反日主義などというとんでもないものまでがとびだしてくる。

 ●太陽と神道、天皇と国体
 今回は、国体論をのべるにあたって、神道をからめて、考えてみたい。
 原始の時代から、人々の心をとらえてきた宗教感情は、やがて、独自の価値観や世界観をかたちづくり、それが、文化や習俗、民族性などに投影されて、国体ができあがった。
 政体ができる前に、素朴な宗教的共同体があったのである。
 歴史や伝統、文化、習俗に根ざしている国体は、もとをたどると、宗教感情へゆきつくはずで、日本の場合、それが神道で、万世一系の天皇は、「神に祈る神」として、いまもなお、神道の最高神官という立場にある。
 国家は、この伝統的な国体の上に、封建体制や民主主義、立憲政体などの合理的な権力をのせた二重構造になっている。
 時代や状況とともに変化する権力構造と、万古不易の国体が、擦り合わさっているのが国家で、この二重構造をふまえなければ、国家の全体像は、なかなか、見えてこない。
 宗教感情といっても、国によってちがい、国体には、その差異が、反映される。
 その差異によって、国々の価値観や世界観、ものの考え方も、異なってくる。
 真・善・美になぞらえていえば、西洋の一神教がもとめてきたのはで、東洋の仏教や儒教は、をおもんじる。日本の神道は、美で、日本人は、キリスト教の真理や儒教的な善悪よりも、をたいせつにする。
 日本人の美意識は、伝統的な価値観、古くからの習俗と同様、神道からきている。
 真理をもとめる一神教な世界が、合理主義一辺倒で、弱肉強食となるのは、善がかえりみられないからで、儒教的な善悪の世界観が、不自由で窮屈になるのは、美がないからである。
 美は、内部に、真や善をのみこみながら、それ自体、感性的な価値をもっている。
 事物が美しいのは、邪や悪がとりのぞかれているからで、しかも、真や善以上の価値がある。真が頭脳から、善が精神からうみだされるものであれば、美は、もっと高度な審美的感性からでてくる。その意味で、神道は、一神教や観念宗教をこえた、芸術の域にまで高められた、日本固有の宗教であり、文化であり、美意識ということができる。
 日本の国体は、このような、古来の宗教感覚や美意識を土台にしている。
 したがって、この神道がいかなるものか、どんなかたちをしているか、それをふり返らなければ、日本の国体を語ることができず、われわれは、日本人としての自分自身のすがたを知ることもできない。
 現在、日本が、あらゆる分野で停滞しているのは、借り物の外来文化にたよりきって、神道という感性や国体を見失っているせいではないか。
 かつて、日本が、大陸からの文物を国風化する懐の深さ、柔軟さをもつことができたのは、受け皿となる国体が磐石だったのにくわえ、神道が、太陽を最高の存在とみる大らかない自然観をもっていたからである。
 太陽のもとでは、すべて平等で、しかも、太陽をこえるものは、存在しない。
 仏教もキリスト教も、太陽の恵みのもとにある森羅万象の一つなので、神仏習合というかたちで、共存できる。
 神道は、すべてをのみこむ太陽を崇めるが、霊魂とみているわけではない。
 自然の存在、現象そのものが、神の道で、そのなかで、太陽を最高の神と見立てている。最高神が、照らしだしているので、この世は、下界ではなく、中つ国なのである。
 神道のもっとも大きな特徴は、仏教やキリスト教とちがい、あの世とこの世の境界線がないことである。
 キリスト教などの一神教、あるいは、この世が天の差配のもとにあるとする儒教、死の哲学である仏教では、現世のほかに、天国や来世、彼岸があるが、神道という日本独自の宗教観においては、高天原は、現世とつながったままになっている。
 高天原でも、この世(芦原中つ国)でも、最高神は、同じ太陽で、太陽の化身である天照大神の神話が、血筋によって、現在まで、連綿とつづいている。
 そこに、神道と天皇が中心となった日本の国体のレジティマシー(正統性)がある。
 この世が、高天原の再来なのであれば、真・善・美は、すでに実現されているというのが、神道的世界観で、それが失われているのなら、浄めと復活でよみがえらせることができる。
 そこに、神道の保守思想があるのだが、そのテーマについては、いつかまた、ふれる。
 森喜朗元首相の「日本は神の国」、安倍晋三前首相の「美しい国・日本」は、神道的な価値観にもとづいたものだったわけだが、いかんせん、現在の日本では、神道的な素養が払底しているので、意思がうまくつたわらず、左翼マスコミから、散々、叩かれる破目になった。
 神道は、宗教というより、日本人が数千年にわたって共有してきた文化=世界観であり、天皇は、実史と融合している神話時代の唯一の実在者=国体の象徴で、政治体制がどうかわろうと、その地位やかたちは、ゆるがない。
 神道と国体は、このように、天皇が仲立ちとなった歴史の連続性、および、文化の永続性の関係である。
 このすがたをみず、憲法九条が戦後日本の国体などというのは、知的退廃も、はなはだしい。
 


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2008年02月18日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(12)

 ●「国体」と「政体」
 日本の保守政治家のあいだに、保守主義をつよめてゆこうといううごきがでてきたことを、わたしは、まことによろこばしく思う。
 平沼赳夫、中川昭一、島村宜伸らが主催する勉強会がそれだが、なぜ、かれらが、保守主義をかかげたのか、他の保守議員とどこがちがうのか、今回は、そのあたりを入り口にして、国体と政体のちがいついて、のべたい。
 保守系有志の勉強会「健全な保守」の平沼、中川、島村らと、河野洋平、加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階正博、福田康夫ら自民党左派、あるいは、小沢一郎、菅直人、岡田克也ら民主党主流のちがいは、一言でいえば、国体意識があるか、ないか、である。
「健全な保守」がもち、自民左派・民主主流に欠落しているのは、歴史や文化、民族性に根ざした国体という、国家・政体・国柄の土台となるイメージである。
 別項で、権威と権力の二元論について、のべた。権威が朝廷・天皇で、権力にあたるのが幕府・政府だが、これは、そのまま、国体と政体の関係におきかえることができる。

 ●権威=朝廷・天皇=国体(歴史・文化・民族性など)
 ●権力=幕府・政府=政体(民主主義・資本主義)


 国体と対応する政体は、政治形態ということで、これは、経済形態とワンセットになっている。
 民主主義と資本主義が、日本の政体で、自民党も民主党も、この枠内で、国益・民益を追求している。
 政体論においては、枠組みがきまっているので、両党に大きなちがいはでてこない。
 むろん、枠内での対立点は、多くある。政治は「個と全体」の利益調整なので、自由競争と福祉政策、大きな政府と小さな政府、国益と民益など、二者択一的な争点をめぐって、政治家は、選挙運動や国会・政党活動などをとおして、丁丁発止とやりあう。
 かつての自民党は、旧自由党系が、宏池会の池田勇人から宮沢喜一、谷垣貞一にいたるまで、経済一辺倒で、一方の旧民主党系は、改憲主義者の鳩山一郎から安保条約の岸信介、前首相の安倍晋三まで、政治向き、というちがいがあり、両派は、経済と国家の安全という振り子のなかで、政権を争ってきた。
 それが、かつて、政局問題となり、民主党が躍進してきた現在、政権交代へと発展する可能性もあるが、それが、民主主義と自由経済の枠内におさまるかぎり、政権交代も改革も、政体にかかる変更にとどまり、国体は、ゆるがない。
 つまり、政体は、国体に抵触しない限度内で、国益・民益を追いもとめる政治ゲームであり、たとえば、アメリカの共和党と民主党、イギリスの保守党と労働党がいくら激しく競り合っても、国体は、ゆるがない。
 争点を政体論にとどめおくという暗黙のルールが、まもられているからである。
 ところが、日本では、その境界線が、はっきりしない。
 政体と国体の仕分けが、プロの政治家でも、よくできていないのだ。
 元凶は憲法である。憲法は、政体の基本法で、そのなかで、民主主義を謳うのは、どこの国でも同じだが、日本の場合、国体の規定が憲法のなかにくみこまれてしまっている。
 政体は、国体のうえにのっている。ところが、現憲法によると、政体が、逆に、国体を規制している。これは、属国憲法の特徴で、GHQは、国体を衰弱死させるような憲法を残していったのである。
 わたしが、持論だった二大政党制に、最近、懐疑的になったのも、そのことと無縁ではない。現在の憲法では、政権交代が、国体変更の方向をむかいかねず、とても危なくて、政権交代など、軽々しく、口にできなくなった。
 植民地憲法は、戦前のインド憲法がそうだったように、国体が、宗主国がつくる憲法=政体の下におかれる。政体以前の歴史や文化、民族性などが、政治に隷属するものとなるのである。
 日本国憲法も、植民地憲法なので、天皇の地位を憲法でさだめ、国家ではなく、国民に主権をあたえている。
 ということは、選挙、あるいは、国会議決で国体を変更できるというわけで、独立国家の条件である国体と政体の二元論的分離が、皮肉なことに、国家の基本法である憲法によって、否定されているのである。
 国体が、政治に干渉されると、国の土台がゆらぐ。
 したがって、各国は、国家反逆罪を設けて、政治や民主主義の暴走を防いでいる。
 ところが、日本の憲法には、国家反逆罪も国家転覆罪も、スパイ防止法も、国家防衛のための危機管理項目もない。それどころか、国民主権なので、政治によって、国体の変更が可能で、そんな憲法が、事実上、変更不可能になっている。
 戦勝国アメリカが、日本に、こんな憲法をあたえたのは、日本を占領体制のままにしておきたかったからで、それには、国体を不安定にさせておくのが、いちばんよい。日本の憲法で、徹頭徹尾、国体が形骸化されているのは、GHQの謀略なのである。
 左翼が憲法をまもろうとしているのも、国体の規定がなく、代わりに、国民主権が謳われているからだ。これでは、暴力革命をおこして、憲法を停止させなくとも、現憲法下で、国会に赤旗を立てることができる。
 国体と国家主権がない憲法は、共産党宣言のようなもので、事実、官費で靖国神社にわずかな玉串料を払っても、この国では、憲法違反になる。憲法から、国体条項が外されているどころか、国体が、敵視されているのである。
 その憲法によって、国体が危うくされたのが、皇室典範の改定問題だった。有識者会議の吉川弘之が「歴史観や国家観にもとづいてつくったのではない」とのべたように、改悪皇室典範をつくったメンバーの大半は、反伝統主義の進歩主義者で、こういう連中が、二千年の歴史をひっくり返そうとしたのは、皇室典範という国体の大典が、憲法の片隅にくみいれられていたからである。
 憲法という政体の基本法によって、かえって、国体が危うくされているのが、この国の危機の構造である。そして、植民地憲法の不備をついて、売国政治家が、さかんに、国体へ手をのばしてくる。
 自民・民主の売国政治家が、日本に敵対政策をかかげる中国に媚び、日本を貶める理由は、日本の憲法が、植民地憲法だからである。そこから、対米にしろ対中にしろ、大国によりかかる事大主義でてくる。自虐史観や東京裁判史観などという負け犬根性がはびこるのも、憲法で、国家主権が否定されているからである。
 河野洋平、加藤紘一、山崎拓、古賀誠、二階正博、福田康夫、小沢一郎、菅直人、岡田克也ら、保守系反日政治家が、こぞって、中国に媚びるのは、現在の植民地憲法のもとでは、構造的に、強国の保護下でしか国家の安全がたもてないからで、たまたま、かれらは、対米従属より、華夷秩序(柵封体制)のほうをえらんだのである。
 国家が独立した国家たりえるのは、国体がなければならない。愛国心や誇り、国民性などを培うのは、国体で、政体などは、植民地や属国にだってある。
 独立や国家主権は、政策ではなく、国体思想である。そこで、中国は、靖国神社や教科書、歴史認識などの国体を標的にし、これをうけて、日本の売国政治家も、戦争犯罪をふれてまわり、南京虐殺記念館まででかけて行って花輪を飾り、自国の歴史に泥をかける。
 国体の要である歴史が、中国の気にいられたい与党政治家によって、危機にさらされているのである。
 国体は、政治の埒外にあるので、もともと、無防備である。戦後、左翼にあらねばひとにあらずの風潮のなかで、革命志向の野党やマスコミ、進歩的文化人が、国体を標的にした。それに気づき、反撃を開始したのが、三島由紀夫の「文化防衛論」だった。
 三島は、文化防衛とは、天皇をまもることで、畢竟、それは、国体をまもることだと喝破した。
 しかし、三島以後、国体防衛論は、保守陣営・論壇のなかでも勢力を失い、保守といえば、もっぱら、政体における保守=カンサバティブをさすようになった。
 だが、政治は、流動するので、そんなものに国体をあずけるわけにいかない。
 小泉元首相が、皇室典範改訂をすすめ、福田現首相が、中国の意向をうけて、靖国神社にかわる、無宗教の戦没者慰霊施設をつくろうというのは、国体意識が乏しいからである。
 ここで、政治家の国体意識の乏しさをあげつらっても仕方がないが、いっておかなければならないのは、日本人の心の故郷というべき神道、万世一系の天皇、歴史、伝統、習俗、価値観、歴史観、民族性という国体を構成する分野に、現在という一瞬の国益・民益をはかるにすぎない政治は、けっして、手をつけてはならないということである。
 政体は、目の前の問題を相手にするが、国体は、現在と過去、未来、つまり、歴史の連続性とともにある。
 福田が、中国にほめてもらいたい一心で、靖国神社をコケにすれば、福田の政治的判断によって、神道を礎にしている日本の国体は、根底からゆらぐ。そんな資格は、福田にあたえられていない。福田にかぎらず、従軍慰安婦の河野談話も、古賀誠の南京虐殺記念館館の表敬訪問や献花も、国体への冒涜以前に、選挙に当選したにすぎない代議士には、ゆるされていない越権である。
 政治家は、政治や経済に懸命たちむかうべきだが、国体にたいしては、沈黙しなければならない。
 国体は、まもるべきもので、まもるべきものがあるから、政治がうまれるのである。
 それが、国体と政体の関係ということができよう。
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2008年02月01日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(11)

●国体と天皇、神道とうたごころ 
 日本の場合、天皇を抜きに、国体を語ることはできない。
 立憲君主国や制限(象徴)君主国というのは、西洋風な政体論であって、国体は、それとは別の次元にある。
 独自の歴史や文化、国土、民族に根ざしているのは、いうまでもないが、国体にとってもっとも重要なのは、宗教感情である。
 民族が共有する神によって、国のかたちが、できあがるからである。
 日本の国体をささえている宗教は、神道(しんとう)である。
 日本の国教は仏教、というひともいるが、大乗仏教は、聖徳太子が国政にもちいたように、信仰の対象であって、国体をかたちづくる宗教感情とは、別物である。
 神道は、日本の習俗や文化、日本人の心に影響をあたえてきた一つの世界観で、仏教やキリスト教、イスラム教のような、信仰の対象となる教団宗教ではない。
 ところが、戦後、神道を軍国主義のバイブルとみたGHQが「信教の自由」の名のもとに<神道指令>をだして、一種の禁教にしてしまったため、神道が、教団宗教であるかのようにうけとられ、また、そのようにあつかわれるようになった。
 GHQは、すぐ、誤りに気がつき、昭和24年に解除した。だが、左翼イデオロギーに染まっていた教育界、学会、論壇、マスコミは、GHQの失策につけこんで、戦後の日本から、神道を抹殺する文化革命をひそかにおしすすめた。
 その結果、日本人は、民族の背骨となる世界観を失い、精神的な根なし草になって、多くが、唯物論や反日主義、コスモポリタニズムへと押し流されていった。
 戦後、GHQが、本物の日本人を要職から追放すると、代わって、左翼や精神的無国籍者が日本の指導的立場に立った。かれらにとって、神道は、前体制の遺物にすぎず、GHQ革命の邪魔物でしかなかった。GHQ革命は、一種の文化革命でもあったので、民族の固有・伝統文化が、かれらの標的になったのである。
 だが、神道は、生きのびた。それだけ、日本人の心に、神道が深く根を下ろしていたということであろう。
 天皇を抜きに国体を語ることができない、というのは、神道の世界観によって打ち立てられている日本の国体の中心に、神道の最高神官である天皇がおられるからで、キリスト教的価値観や西洋合理主義、唯物史観で、この構造を説明することは、できない。
 本居宣長は、漢意(からごころ=現代では西洋合理主義)で、神道の世界観を読みとることはできないとした。読みとれば、不合理だ、非論理的だということになり、神話の世界は崩壊してゆく。
 あとに残るのは、神の道を失った唯物論(=餓鬼道)の世界である。
 西洋合理主義では、すべて、科学で説明がつくとするが、元素や遺伝子を解明できたといっても、元素や遺伝子が、なぜ、存在するのか、わからない。太陽の生成構造を科学で説明したところで、唯物論で、存在の第一原因が解明されるわけではない。
 外務省は、中国の圧力におされて「日中歴史共同研究」を立ち上げ、すでに、二回、北京で会議をおこなったが、「日中間の歴史認識の食い違いを埋める」(外務省)などということは不可能で、そんなタテマエは、中国への屈服の言い訳にすぎない。
 すべての歴史を「人民を抑圧してきた権力史」とみる唯物論者に、神道的な歴史観などわかるはずはないので、議論したところで、意味がない。事実、中国側は、日本史を唯物史観で読みかえ、日本側がそれに反論するというパターンがくり返されたようだが、反論は、相手の論理にまきこまれている証拠で、反論すればするほど、相手の術中にハマってゆく。
 一方、日本側は、反唯物史観論をもちださないので、結局、議論は、天皇・神道にたいする批判と弁明に終始することになる。これでは、日本が被告席に座らされている裁判のようなもので、このようなばかな会議へ、北京まででかけていくほうがどうかしている。
 唯物史観は、人民の抵抗史だが、神道の歴史観は、神代とこの世がかさなりあったすがた(=中今)をしており、戦後、権力史に書きかえられるまで、日本史は、神話や文化が土台になったおおらかなものだった。
 皇国史観というのは、天皇ではなく、神道の歴史観で、どこの国の歴史も、その国特有の宗教観が反映されている。
 日本の神道には、絶対神がいない。自然や天然物、造形物、生物すべてが神そのものであって、最高神が太陽、その化身が天照大神である。太陽を頂点とした自然の営みが惟神(かんながら)というもので、そのかたちは、神代もこの世も、かわるところがない。
 かつて、森喜朗元首相が「日本は神の国」といって、ひんしゅくを買ったが、神道の神は、神ではなく、迦微である。そのなかに、人間をはじめ、鳥獣、草木、山河、海や空など、奇異(くすあやしき)なものが、すべて、ふくまれる。
 本居宣長によると、奇異(それぞれにふしぎ)なものは、すべて迦微で、この世にあるものは、すべて奇異なので、世界には、迦微ならぬものはなし、ということになる。
 迦微に、神という字を当てたのは、迦微のなかでも、ひときわ、可畏(かしこ)きものだからで、頂点に立つのが、太陽(天照大神)である。
 万物は、太陽のもとで生成され、成育する。太陽も生命も、この世に実在する。神は空想だが、神道の迦微は、天照大神(太陽)や産巣日神(生成・生育)として、森羅万象をしたがえている。
 実体と空想が、こうして、調和をとりあうのが、惟神(かんながら)の世界で、本居宣長は、これを「神の道」といった。
 神道は、アニミズムを源流にもつといっても、あながち、まちがいではないが、神道の場合、モノに御霊が宿るのではなく、モノやコト、それ自体が迦微(神)で、神々のはたらきが、この世の仕組み(惟神=神の道)である。
 本居宣長のことばを借りると「貴きも賤しきも、強きも弱きも、善きも悪しきもの」もあり、可畏こきもののなかには、実りをもたらす和魂(にぎみたま)のほかに、台風や飢饉、地震や雷のように、災いをもたらす荒魂(あらみたま)がおり、神々の世界はいろとりどり(八百万の神々)ということになる。
 神々のはたらきを祈念する天皇は、神代から血筋がつながっているので「神に祈る神」となり、この世における神道的価値観の中心となる。
 それが、天皇を抜きに、国体を語ることができないという根拠である。
 神の道というのは、この世もまた、神代の延長だからである。
 この世でおこるくすあやしいさまが、このあはれで、そのことに気づき、驚き、感動する心を、宣長は、大和心と呼んだ。
「もののあはれ」を「物の哀れ」というのは、まちがいで、あはれは、「噫、ハレ」あるいは、安波礼で、この「あはれ」をそのままことばにしたのが、和歌なので、神道とうたごころは、そこでつながる。
本居宣長が「敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花」と詠んだその大和心が日本人の心で、それが、神の道を生きる心根である。
 保守思想には「神の道」という考え方があり、キリスト教社会でも、アメリカ中西部のファンダメンタリストからイギリスの保守主義まで、神の道が用意されている。
 むろん、この神は、教団宗教の神体ではなく、「神の祝福あれ」というときの神で、善という観念が、個人の生き方であれ、政治であれ、すべて、善神に集約されている。
 神というものを立てなければ、成立しないのが、善なのである。
 イデオロギーにもとづいて、人為的・強制的に社会を改造することをせず、その国の歴史的集積のなかで、自然に形づくられてきた知恵や文化、伝統、習俗をまもろうとするのが、神の道を立てる保守主義であって、宣長も、「天下を治めるには、古(いにしえ)のやり方をもちいて、善神の御心にかなうようにあるべし」といっている。
 神道において、この世は、天照大神や産巣日神とともにある「今即神代(中今)」なので、つねに、善神の御心にかなうように生きなければならないが、その御証人となる立場が、天皇である。
 権威と権力の二元論も、そこからきている。善神の化身である天皇のゆるしをえて、はじめて、幕府が権力を掌握できるということは、権力が、善神の監視のもとにあるということで、善神という基準がなくなれば、現在の国会のように、政治が千々に乱れて、国は、滅ぶ。
 保守思想の根本は、歴史が、すでに、神の道という理想を実現させているので、誤りや悪をとりのぞくほか、何も変えてはならないとするところにある。
 右翼論でいえば、天皇が善神の化身なので、身体を張って、天皇をまもることが第一義で、うたごころ(大和心)を忘れて、政治を語るのは、国体を忘れている証拠、ということになる。
 右翼が、拠って立つところは、政体ではなく、国体=天皇=権威でなければならない。
 多数決で、国が売られる可能性を否定できないのが、民主主義というものだが、国体をまもるという立場に立てば、身体を張って政治的決着を阻止することが、善神の御心にかなう。
 つまり、民主主義と対決を迫られるのが保守で、そこが、衆愚に流れる自由主義とちがうところである。
 政治を「マツリゴト」というのは、善神の御心を奉るという意味で、その善神がおられるのは、多数決がおこなわれる国会ではなく、神代からつながっている日本という国の、国体にほかならない。
 国体までを政治の下におこうというのが、憲法の皇室典範だが、このテーマについては別の機会にのべよう。

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2008年01月28日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(10)

●国家は、権力ではなく、情緒の産物である
 国家と聞くと、たいていの日本人は、国家権力、あるは、法治国家というハード面だけを思いうかべるのではないか。
 マスコミが、国家を、そういう印象につくりあげてしまったのである。
 左翼にいわせると、国家は、人民を抑圧する制度・権力機構で、資本家は、労働者から搾取する悪党である。
 マスコミには、左翼が多いので、国家の、そういうハード面だけが強調される。
 その結果、国民の前へ、国家=権力、人民の敵という図式が描きだされる。
 だが、権力は、あくまでも、国家の一面で、国家の本質は、むしろ、歴史や文化、伝統や習俗、国土や民族など包括したソフト面にある。
 愛国心、国を誇りに思う心情は、そこからでてくる。
 マスコミが「反日」を煽り、日教組が「自虐史観」を叫び、野党が「反国家」を謳ったところで、愛国心、国を誇りに思う心情は、国家のソフト面に根ざしているので、国民の大多数は、騙されないというわけである。
 そのことが明らかになったのが、読売新聞がおこなった「年間連続調査『日本人』」である。
 93%の日本人が「日本国民に誇り」をもち、73%が「国の役に立ちたい」と考えていることがわかったという。この結果に、左翼マスコミや日教組、反日市民運動家、共産党や社民党、自民・民主の左派は「じぶんたちは、いままで、何をやってきたのか」と、がっくり、肩を落としたのではないか。
 それにしても、マスコミと世論とのこの乖離は、いったい、何であろう。
 朝日新聞や毎日新聞、NHK、テレ朝、TBSなど、左翼がもぐりこんでいるメディアは、国家を悪とする報道姿勢をつらぬき、最大野党の民主党も、生活主義を標榜して、反国家の姿勢を鮮明にした。
 国家のハード面だけをとらえ、一部は反日主義に、大半は、自虐史観に立って、アジアに謝罪しない日本はわるい国、と言い続けてきたのが、この国のマスコミのすがたである。
 ところが、日本人の93パーセントは、日本人であることに誇りをもっている。
 左翼は、日本人であることの誇りと、国家はつながらないという。
 だが、国家を度外視した、個人主義の日本人など、どこにいるだろう。
 日本に誇りをもつのは、国家との属性をふまえているからで、それが、73%の日本人が「国の役に立ちたい」と応えた読売のアンケート結果に、あらわれている。
 先祖がつくりあげた国家は、父でもあり、母でもある。
 父は、家族をまもるために、銃をもち、規律を立てる。それが国家のハード面で、母のようなやさしさ、なつかしさ、安心が、国家のソフト面といえよう。
 左翼・反日主義者は、そういう家庭を破壊して、人々をすべて、イデオロギーの奴隷にしようというわけで、朝日新聞は、もっぱら、そのPR部門を担当してきた。
 先週の週刊新潮(平成20年1月31日)で、高山正之がコラム変見自在でこう書いている。「この(朝日)新聞はかつて『北朝鮮は天国』と書いて9万人を地獄に送って殺した。共産主義の幻想から書いたものと思っていたが、どうもそうじゃない。記事に騙されて人が殺されにゆくのが愉しくてしょうがないのかもしれない」
 朝日新聞に入社するのは、偏差値が高い極左で、思想的には、革マルに近い。体制内にもぐりこんで、内部から革命をおこすという戦略で、その路線対決で、中核派と内ゲバをくり返して、これまで、双方あわせて百人に近い同盟員が鉄パイプで虐殺されてきた。
 NHK・民放の労組も、極左で、かれらと報道部は、しっかり手をにぎっている。
 新聞・出版・電波の担当者も、極左ではないが、半数以上がインテリ左翼で、かれらの眼鏡にかなった者たちだけが、マスコミに登場してくる。左翼は、イデオロギー右翼ともつうじるところがあるので、保守系媒体も、でてくるのは、理論保守ばかりということになる。
 さて。読売のアンケートのほうだが、「日本国民に誇りをもつ」「国の役に立ちたい」と考えるのは、保守思想である。だが、かれらは、理論保守ではない。高尚な理論やことばは知らないが、情という、人間の感性のいちばん奥深いところで、日本という国をとらえている心情保守である。
 そこに、マスコミを中心とした左翼・反日・反国家主義、あるいは、右翼イデオロギーやインテリ保守との決定的なミゾがある。
 左翼・反日・反国家主義と、右翼イデオロギー・インテリ保守の共通点は、国家だけを相手にしていることである。ともに「国家改造論」で、左は、マルクス主義による完全な国家統制、右は、保守理論による社会主義的な国家体制の立て直しで、情という、人間にとって、もっとも大事なものが忘れられている。
 わたしが、学生時代から二十代にかけて、師事した三浦義一は、「戦後の政財界を裏で仕切った黒幕」(謀略の昭和裏面史/ 別冊宝島)とよばれているが、素顔は詩人で、北原白秋の弟子だった。三浦の保守思想は、うたごころ(和歌の心)にあり、本居宣長の「ものあはれ」につうじる心をもっていた。
 わたしが衆議院に立候補した(次点で落選)した三十数年前、後見人となってもらった今東光から「政治は文化だ」と教えられた。文化というのは心で、今和尚自身は、万葉集のますらお(益荒男)ぶりを最期までつらぬいた。
 昔話をもちだしたのは、読売新聞のアンケート結果と、マスコミ世論とのはなはだしい落差の正体が、文化=うたごころの有無ではないかと思いあたったからである。
 理論右翼には、左翼からの転向者がすくなくない。左翼イデオロギーをひっくり返すと右翼理論になるのは、北一輝の国家改造論が、マルクスの共産党宣言と相つうじるものがあるのと同じで、両方とも、情(=文化)というものがない。
 情を忘れて、理論をふりかざして、どっちが正しいか、とやっているのが、現在の思想界である。
 そして、保守系は、日本人には歴史観や国家観がない、左翼は、日本には個人主義がないと批判している。
 ところが、日本人の93パーセントは、日本人であることに誇りをもっている。
 しかも、「日本の国や国民について、誇りに思うこと」の具体的内容では、「歴史、伝統、文化」が72%で、「国土や自然」43%、「社会の安定・治安」「国民性」(各28%)があとにつづく。
 前回の調査と比べると、「歴史、伝統、文化」が19ポイント増えた一方、「教育・科学技術水準」が22ポイント減の19%、「経済的繁栄」が17ポイント減の19%に落ちこんだという。
 誇れるのは経済だけで、日本人は、じぶんの国に誇りをもっていない、戦争でアジアを侵略して、ろくに謝罪をしないような国の指導者を、日本人は、情けなく思っている、という朝日新聞の主張は、これで、音を立てて崩れ去った。
 日本人が、国を誇りに思うのは、国や民族への情がはたらいているからである。
 一方、左翼には、一片の情もなく、インテリ保守も、あやしいものである。
 ともに国家改造主義で、心や文化、情というものをすっかり忘れている。
 否、もともとないから、理論に走るのである。
 国家改造というのは、政治家や役人が、国民の税金で、じぶんたちに都合のよいように体制をつくりかえようというくわだてで、左右いずれにしても、役人中心の巨大な国家になる。
 今回の読売アンケートの「小さな政府」と「大きな政府」の選択肢では、38%が「小さな政府」をえらび、33%の「大きな政府」を上回った。
 国民が国家に望んでいるのは、強大な官僚機構をもち、役人が幅をきかせるような国になることではなく、誇りをもって外交・防衛をおこない、国内については、余計な公務員を減らして、少数精鋭でいけということである。
 今回のアンケートは、マスコミ左翼やインテリ保守より、情という文化において、大衆のほうが成熟していたことをしめしたように思える。
 次回は、うたごころ(大和心)にからめて、天皇と国体について、のべる。
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2008年01月22日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(9)

 ●楠木正成の忠義と足利尊氏の打算
 日本人の忠の精神や滅私奉公は、神話からひきついだ民族の遺伝子のようなもので、他の民族も、同様に、神話をとおして、文化的・精神的な特性をひきついでいる。
 アメリカがフロンティア・スピリッツを国家のパワーとしてきたように、日本では、忠の精神が、経済の発展や組織力をささえてきた。聖徳太子の「和の精神」が横のつながりなら、忠はタテの結束で、団結力が、日本のつよさなのである。
 といっても、忠の精神が、日本史に武士が出現した当初からあったわけではない。
 源平合戦の源義経、鎌倉幕府をひらいた源頼朝、蒙古軍を破った北条時宗、貞永式目の北条泰時、南北朝で活躍した楠木正成、神皇正統記の北畠親房と、徐々に、忠が、武士の魂になってゆく一方、武士のあいだでは、依然として、一所懸命という打算が根強く、それが、のちに、暗黒の中世をつくりだしてゆく。
 日本史に、暗黒の中世が出現したのは、朝廷(権威)の地位が下がったため、求心力を失った権力集団が暴走したためで、南北朝の動乱から応仁の乱、戦国時代をへて、徳川幕府が誕生するまで、数百年にわたって動乱がつづく。
 忠という秩序感覚がはたらかなくなれば、権力は、武装集団にすぎないものになり、武士の世界は、下克上がふきあれる乱世となるのである。
 秩序が乱れはじめた鎌倉末期、武士の世界に打算をもちこんだのが、足利尊氏である。
 尊氏は、武士の打算の代表的な人物で、当時の武士も、所領地の主か、用心棒のようなもので、後世でいう忠の精神がうまれるのは、信長が朝廷の権威を盛り返してからである。
 連や臣ら、天皇のとりまきが権力をにぎる律令体制において、神話的秩序が大きな意味をもった、と前回、のべた。
 そしてそれが、武家政権になって、忠へ転化したと論じたが、それには、乱世という準備期間が必要だったのである。
 打算の足利尊氏と忠義の楠木正成がたたかった南北朝の争いにふれる前に、武家政権が成立した経緯をみてみよう。
 武士が台頭してきたのは、天皇と摂関家(藤原)を中心とした律令体制が崩壊したからである。朝廷や摂関家、源氏、平氏、土地持ちとなって力をつけた豪族が、それぞれ内部分裂してたたかった「保元の乱」を契機に武士が台頭してくると、つづく「平治の乱」で平清盛が源義朝を討って、太政大臣の地位につく。
 武家政権が成立するのは、それから、源平合戦をへて、平氏を滅ぼした源頼朝が、鎌倉幕府をひらいてのちのことである。
 その源氏の血統が三代で絶え、頼朝の妻・北条政子の系統が執権の座につき、「承久の乱」で、後鳥羽上皇の院政を廃した北条泰時の時代になって、ようやく、武家政権らしくなってくる。
 泰時はなかなかの傑物で、貞永式目をつくって潔白な政治をめざし、公武双方から高い評価をうけた。貞永式目は、聖徳太子の十七条の憲法を三倍した五十一条からできているが、その精神もうけつぎ、これが、のちの日本における法体系の土台となった。
 さて。日本の政治が安定していたのは、権力が権威にとってかわらなかったからとのべてきたが、逆に、天皇が権力をめざしたケースは、二度あった。
 一つは、後鳥羽上皇の承久の乱で、もう一つが、後醍醐天皇の建武の新政である。
 承久の乱は、かえって、武士政権をつよめる結果となり、朝廷は、弱体化して、内紛を生じる。承久の乱で、後鳥羽上皇が配流になった二十年後、持明院統と大覚寺統が対立して、両統迭立となる。
 朝廷が権力をもとめた結果、権威としての存在価値があやしくなってきたのである。
 後醍醐天皇が、もとめたのも、王政復古という政治権力だった。
 倒幕計画が発覚(正中の変・元弘の変)して、配流された大覚寺統の後醍醐天皇が隠岐から脱出、蜂起をよびかけると、護良親王や楠木正成、新田義貞らが呼応して鎌倉幕府を倒す。
 こうして、いったんは、王政復古が成功するが、鎌倉幕府から寝返って功をあげた足利尊氏が、ふたたび、叛旗をひるがえして、後醍醐天皇を吉野へ追い、そこから、半世紀をこえる南北朝の時代がはじまる。
 鎌倉幕府と後醍醐天皇を裏切った足利尊氏が、拠って立ったのが、武士の打算だった。
 幕府(将軍)が領主(御家人)に所領や安堵をあたえ、軍事上、経済上の奉公をもとめるのが、武家政権である。幕府と御家人は、打算でむすびつき、武士は、領主を命がけでまもる恩賞として、土地(所領)をえる。
 そこから、一所懸命ということばがでてきたわけだが、鎌倉末期に、その関係がゆるんできた。十分な知行をあたえることができない鎌倉幕府に、領主が、背をむけはじめたのである。
 二度にわたる元寇などで、貧窮化した鎌倉幕府には、幕臣に十分な知行をあたえる力がなく、王政復古の後醍醐政権にいたっては、律令体制への逆戻りで、あたえられる所領も知行も、鎌倉時代から大幅に後退した。
 当時の幕府と武士の関係は、打算であり、鎌倉幕府の幕臣だった足利尊氏が後醍醐天皇に寝返り、さらに、南朝に反旗をひるがえしたのも、打算からだった。
 鎌倉幕府を崩壊させたのと同じ経済的打算から、尊氏は、後醍醐天皇の理想を葬ったのである。
 足利尊氏は、幕府にたいする武士の不満、あるいは、打算を巧みにすくいあげて、叛乱軍を編成した。新田義貞に敗れて九州へ逃れたのち、50万もの大軍を率いて、ふたたび京都をめざすことができたのは、後伏見上皇に宣院を願いでた尊氏の政治力の高さもさることながら、それだけ、当時の武士が、功利的だったということであろう。
 このとき、打算に見向きもせず、忠を立てたのが楠木正成だった。正成は、勇猛にして智謀にたけたいくさの天才で、赤坂城・千早城などで奇策をもちいて奮戦、幕府軍を苦しめた。だが、度重なる進言が後醍醐天皇に聞き入れられず、情勢は不利になり、九州からのぼってきた尊氏の大軍を正面から討たねばならなくなる。
 湊川の決戦である。正成は、出陣のとき「今はこれまでなり」とのべている。天皇への忠をつらぬき、50万対700という劣勢のなかでたたかい、弟の正季と「七生報国」を誓って、刺し違えるが、これは、打算でうごく当時の武士のイメージを一変させる新しい武士像である。
 正成は、古代の神話的秩序を、忠という近世の観念にかえて、朝廷に仕える武家政権の土台をつくりあげて、みごとに、散っていった。
 そこに、太平記が、多くの日本人に読みつがれてきた理由がある。
 近代になって、正成をよみがえらせたのは、水戸藩主・水戸光圀である。
 楠木正成の死に様は、水戸光圀の「大日本史」に著され、幕府や主君より、天皇に忠義をつくすのが、真の武士だという考えがひろまっていった。吉田松陰や幕末の尊王志士のあいだで、楠木正成が武士の鑑となり、一方の足利尊氏は、戦後、再評価されたものの、不忠の烙印をおされた。
 アメリカに密航をくわだて、下田で捕まった吉田松陰は、護送先の泉岳寺で「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」と詠んだ。
 意味も場面もちがうが、忠や義、情もまた、松陰のいう、やむにやまれぬもので、どこかで高い理想につながっている。
 やむにやまれぬもの、それもまた、保守思想の大きな柱であろうと、思うのである。
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2008年01月21日

保守主義とは何か――混迷する戦後思想を再点検する(8)

 ●神話が源流だった“忠”の精神
 日本史をふり返ると、蘇我馬子、藤原不比等、平清盛、北条泰時、足利尊氏、織田信長、徳川家康など、図抜けた権力者が幾人もでたが、ふしぎなことに、天皇にとってかわった者は、一人もいない。
 未遂者は、二人、いる。弓削道鏡と、金閣寺を建てた足利義満である。
 宮中で権勢をふるった道鏡は、権力者ではなかったので、問題外だとしても、じぶんの息子を天皇の養子にだした足利義満の場合は、上皇となって、院政を敷く可能性が十分にあった。
 政略で太上天皇の称号をいれかけた義満は、正装に、天皇にしかゆるされていない紋をつけ、金閣寺を建てた北山に、朝廷にしかない紫辰殿と同じ名の建物を建てるなど、天皇気取りで、天皇の養子にした息子の義嗣に、後小松天皇の後継ぎをうかがわせる増長ぶりだった。
 だが、義嗣元服の数日後、肺炎にかかって急死して、義満の野望は、ついえた。天罰が下ったのであろう。
 義満は、現在の政治家にたとえると、媚中派・河野洋平のような奇怪な権力者で、明と屈辱的な外交をひらき、その明から「日本国王」の称号をあたえられると、支那服を身につけ、暦まで明歴にあらためるという、極端な明びいきだった。
 日本国王の称号は、華夷秩序(柵封体制)における明皇帝の下位で、かつて、聖徳太子が、これを拒んで「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書き送ったのは有名な話である。
 義満は、これと、まったく逆のことをやった。日中外交に、外務省チャイナスクールや朝日新聞、媚中派の政治家や財界人が介入して、へりくだった関係にしてしまったようなもので、義満が存命して、上皇になっていたら、日本は、柵封体制にとりこまれて、その後の歴史が、まるっきりちがったものになっていたろう。
 だが、これは、あくまでも例外で、有史以来、この義満以外、だれも、天皇になろうとしなかった。
 そこに、日本の権力構造のユニークさがある。
 その理由の一つが、神話の存在である。日本の神話は、天皇の祖であるニニギノミコトが降臨して、国造りをする物語だが、大和時代の豪族から奈良・平安の公家、戦国時代の武将にいたるまで、祖をたどると、すべて、ニニギノミコトにつきしたがってきた従者の神々につきあたる。
 その神々の末裔が、天皇にとってかわれば、祖神を裏切ることになる。
 祖神を敬う日本人の宗教感覚から、とうてい、考えられることではない。
 大化の改新で功があった藤原鎌足とその子、不比等にはじまる藤原一族は、奈良・平安時代に、藤原三百年とよばれる栄華を築きあげ、武家政権になっても、朝廷人事の中枢を占めてきた。
 だが、一族のうちで、天皇になったものは、一人もいない。
 藤原氏の祖先は、神代の時代、天照大神が天岩屋戸に隠れたときに、岩戸の前で祝詞をあげた神で、藤原家系の由緒は、天皇をおまもりすることによってのみ、正統性がまもられたからである。
 神話時代から天皇をまもってきた重臣は、連(むらじ)や臣(おみ)とよばれた。
 日本の権力構造は、藤原氏をふくめ、天皇をまもる神々の子孫、連や臣にささえられてきた。
 したがって、天皇に叛旗をひるがえすと、神話時代から天皇に仕えてきた神々の末裔、他の連や臣が立ち上がって、叛徒を討つ。
 それが、日本で、権力者が朝敵になるのをおそれる理由である。
 たとえ神話でも、歴史上の出来事は、一つの規範となって、後世に残される。
 この神話的秩序をまもるのが保守で、それが、伝統国家の特質である。
 一方、この神話的秩序を破壊しつくすのが革命で、共産主義の名のもとで、前世紀だけで、数億人の人々が犠牲になった。それが、革命の愚かさで、歴史を断ち切ると、人間も国家も、文化と心を失い、野蛮と冷血性にとりつかれるのである。
 ソ連や東欧、中国や北朝鮮、カンボジアの悲惨な歴史が、それを如実に物語っている。
 同じ新興国家でも、アメリカでそういうことがおこらなかったのは、大陸からキリスト教という神話的秩序がもちこまれたからである。
 保守が、宗教とかかわるのは、過去から神話をひきつぐからである。アメリカの新保守主義も、アメリカン・プロテスタンティズムやファンダメンタリズム(原理主義)と深いつながりをもっている。
 宗教をふくめ、道徳や習俗、情などの精神文化が、民族共有のものとなるのは、神話が介在しているからで、日本の場合、そのなかに、忠がある。
 朝廷と公家、天皇の子孫である平氏源氏までは、神話的世界でつながる。
 だが、出自が百姓の武士は、公家や源平にくらべて、天皇とのむすびつきは、それほどつよくなかった。
 ところが、武家政権になっても、朝廷と幕府、幕府と御家人の関係は、崩れていない。
 神話的むすびつきが、忠という武士の倫理にきりかわって、生きつづけたからである。
 忠は、日本人特有の心情で、武士の倫理のみならず、上下の人間関係から愛国心にまでおよぶが、外国には、これに該当することばがない。
 忠の精神は、儒教から移入されたといわれる。だが、日本の忠は、神話から借りてきた日本独自の精神文化で、けっして、大陸のものではない。
 儒教は、孔子がつくった学問で、教えの中心に、仁・義・礼、徳治や忠孝がある。
 朱子学は、儒教より先鋭的で、王道政治(尊王賤覇)が、幕末には「水戸学」となって幕末の志士たちに大きな影響をあたえ、やがて、討幕運動のイデオロギーになっていった。
 だが、儒教(学)も朱子学も、仏教と同様、日本で独自の発展をとげてきたので、中国や韓国のものと、同一視することはできない。
 韓国の儒教は、忠孝の忠が捨てられて、孝が強化された。反対に、日本では、孝よりも忠である。韓国では、親への遠慮が美徳になるが、日本では、忠義が善行である。それが国民性や国柄のちがいで、いかんともしがたい。
 尊王賤覇も、易姓革命をくり返し、何度も北方民族に征服されてきた中国と、古来より覇道(征夷将軍)が王道(万世一系)の下位におかれてきた日本を同列に語ることはできない。
 事実、中国では、観念の上のものでしかなかった尊王賤覇が、日本では、天皇と摂関、朝廷と幕府という権威と権力の二元体制として、千年以上もつづいてきた。
 儒教が日本にはいってきて、忠や尊王が生じたのではなく、儒学によって、神話的秩序が理論化されたとみるべきだろう。
 科挙の国だった中国や朝鮮では、儒学が受験科目で、知識の対象だった。
 地位と富をえるための知識にすぎなかったその儒学が、日本で、よみがえった。
 租神を敬う神話的秩序があったため、儒教が空論ではなく、天皇や君主をまもる武士のモラルにまで高まったのである。
 天皇を中心とした律令制度や幕藩体制が、何百年も何千年もつづいたのは、律令体制の神話的秩序が、武家政権になって、忠という、倫理に成熟したからで、そこに、日本史をつらぬいている保守の思想がある。
 保守は、ただたんに、過去を復元することではない。変容をみとめるのも保守で、それがなかったら、歴史の知恵は、すべて、過去の遺物として捨て去られて、後世につたわらない。
 律令体制の神話的秩序は、封建体制(武家政権)の忠へ、すんなりときりかわったわけではない。
 それどころか、建武の新政ののちに消えた忠がふたたび登場して、織田信長によって、権威と権力の二元体制が再建されるまで、日本は、数百年におよぶ暗黒の中世へ迷いこむのである。
 次回は、日本が暗黒の中世に迷いこんだ歴史をふりかえってみたい。

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