革命やクーデター、倒幕(反政府)闘争がめざすのは、すべて、権力の奪取である。
したがって、そこに大義がなければ、叛乱とみなされる。
大義というのは国体のことで、国体護持の意思がはたらいていなければ、どんな理由があろうと、政治闘争は、私利や権力欲にとりつかれた亡者の私闘、叛乱にすぎないものとなる。
そこに、歴史上の覇者が、朝廷に、錦の御旗や詔勅、官位をもとめた根拠がある。
いくさや政治権力の行使は、私利や権力欲のためではなく、国体のためである――。
したがって、詔勅や官位を戴きたいと。
歴代の覇者は、国体の護持を天皇に誓って、いくさをおこない、幕府をひらいたのである。
国体は、歴史や文化、国の繁栄や民の幸までを包含している。
天皇は、その国体の象徴である
だから、権威なのであって、私闘や権力欲と皮一枚で接する権力とは、無縁である。
一神教のもとにあるのは、権力だけである。ローマ法王庁も、権力を絶対化する役割を担っただけで、権威たりえなかった。歴史や文化、民の幸までをふくむ国体という観念がなければ、権威はどこからもうまれず、権威の裏づけをもたない権力は、暴力装置でみずからを絶対化するしかない。
したがって、ヨーロッパ(ユーラシア)では、権力闘争がはてしなくつづく。
現在の戦争なき状態――バランス・オブ・パワーは、一神教世界の平和なのである。
国体というのは、この世は神の国(高天原)の延長という、神道の世界観である。
キリスト教やマホメット教では、真実が神の国にある。仏教は来世、儒教は天に真実がある。いずれも、この世を仮の世界とみるニヒリズム(虚無主義)であって、現世に神をみいだす国体という観念は、一神教からは、けっして、でてこない。
日本人が、古代から、国体意識をもちえたのは、神道の国だったからで、日本の文化や習俗、心のありかたまで、すべて神道的価値観に根ざしている。
西洋文明と日本文化は、根本がちがうので、すりあわせることができない。
西洋の学問をした者は「日本人は権利意識が乏しい」という。だが、ヨーロッパでたたかいとらなければならなかった生きる権利は、日本では、和の心や相身互いの精神で手にはいった。
権利意識など必要がなく、そんなことをいいだせば、かえって、和の心がそこなわれることになる。
明治維新は革命だった――というのは、その変革が、神道文化へのキリスト教文明の接ぎ木だったからである。
じじつ、明治維新は、日本史では例がない、ヨーロッパ型の権力闘争だった。
神道的価値観から一神教的価値観への大転換をもたらしたのが、権威と権力の一体化である。
孝明天皇は、討幕派に転向した岩倉具視に毒殺されたという説が根強い。
最近、発見された主治医(伊良子光順)の日記にも「急性薬物中毒」と記されている。
一介の公卿にすぎなかった岩倉具視が、孝明天皇が崩御された翌年、若き明治天皇を立てて王政復古(大政奉還)を実現させ、一躍、維新政府の中枢にのしあがってゆくことができたのは、天皇(権威)を政府(権力)のトップにつけるという、大革命をやってのけたからである。
そこで、日本の伝統的な政治システム=権威と権力の二元体制は、終わりを告げた。
大久保利通や岩倉具視ら、明治政府の首脳がめざしたのは、明らかに、ヨーロッパ型の政体で、このとき、国体も、事実上、崩壊した。
明治政府は、日本文化の廃棄と西洋文明の導入を宣言して、文明開化を国是とした。
森有礼文部大臣は、国語を英語に代えるように主張し、葛飾北斎ら日本の美術品はタダ同然で海外に売り払われた。武士は野蛮で、鹿鳴館文化というヨーロッパの猿真似が上流ということになり、このとき、皇室の正装や正餐も、洋式となった。
当時、日本で、近代化が可能だったのは、文明開化の号令があったからではなく、日本の国体が磐石で、とりわけ、江戸時代の知的水準が、西洋文明を理解して、再生産できるほどに高度だったせいである。
遣唐使の廃止によって、国風文化が栄えたように、日本には、他国の文化や文明を吸収して、さらに発展させる潜在能力をもっている。
科学の利器である文明は、文化革命をおこさずとも、知的水準が高ければ、うけいれることができる。
知的水準が高い文化の受け皿も、また、国体である。明治政府が、政体や文化、文明をヨーロッパ化する方法をとっていなければ、近代日本で、江戸の文化と西洋の文明が調和した第二の国風文化がうまれていただろう。
ところが、明治政府は、それに気づかず、鹿鳴館文化や武士の廃絶というヨーロッパの模倣に走ったばかりではなく、このとき、皇室の王室化という、国体の変更をおこなった。
そして、使節団を率いて、欧米を視察した岩倉具視や大久保利通は、文化や国体の担い手だった武士の廃絶に反対した西郷隆盛を西南の役で討ち、日本文化の否定、日本のヨーロッパ化を国是に、世界へのりだしてゆく。
明治維新後、富国強兵をスローガンした国造りは、一応の成功を収め、日本は、世界の烈強と肩を並べるまでになった。だが、これは、西欧化が成功したのではなく、前述したとおり、江戸の文化レベルや髷を切って軍人や官僚となった武士の精神性が高かったからである。
日清・日露戦争に勝利できたのも、たたかったのが、戊辰戦争を体験した幕末の武士だったからで、当時は、まだ、江戸時代の遺風が十分に残っていた。
その後、第一次大戦における勝利やシベリア派兵などをとおして、日本は、国際社会で大国に列されるまでになった。
だが、当時の日本は、維新政府の犯した大きな間違いに、まだ気づいていない。
権威としての「現人神」と統治者としての「大元帥」の合体というヨーロッパの王制的権力が、どんなに危険性をひめているかついて、何も――。
大正デモクラシーをへて、昭和にはいると、国体を変更したツケが、徐々に、まわってくる。
権力が暴走するのである。朝廷のもとで自粛していた歴代幕府とはちがい、畏れるべき天皇をわがものにした政府、とりわけ、軍部は、自己制御の能力を失って、怪物的権力を増殖させてゆく。
そして、日本は、戦争のための戦争という、西洋型の戦争へふみこんでゆく。
大東亜戦争は、ヨーロッパ型の帝国主義にのったもので、日本は、蒋介石の中華民国やアメリカとたたかう必要など、みじんもなかった。
政府(権力)が、天皇(権威)から政治をあずかるという二元的な政治システムが機能していたら、冷静な判断がはたらいて、戦線は、満州国の建設と南方の資源を握っているヨーロッパ列強との対決にとどまり、支那やアメリカとの開戦には、ブレーキがかかったはずである。
支那戦線の拡大や真珠湾攻撃には、常識で考えて、何一つ、合理的根拠がなかった。
だが、天皇が、大元帥として、権力の側におかれていたため、政府と軍部が天皇をとりあうという事態が生じ、結局、天皇をとりこんだ軍部がファッショ体制を敷いて、日本は不合理きわまりない、対支・対米戦争へつきすすんでゆく。
幕末の争乱期、討幕派の志士らは、天皇を"玉(ぎょく)"とよび、「玉をとったほうが勝ち」と公言してはばからなかった。
先の大戦でも、同じ論理のもとで、軍部が天皇をとりこんだ。
天皇に主権(政治権力)があると定めた統帥権をタテに、天皇を大元帥に戴いた軍部が政党や議会をおさえ、その一方で、現人神として奉った天皇の威を借りて、国家総動員法を敷き、陸・海軍の兵士を不合理なたたかいに駆りたて、無計画に戦線を拡大させるのである。
天皇が、権力にとりこまれたため、政治を監視する権威が不在となって、国家が危殆に瀕した。
それが、前回、冒頭でのべた、天皇の戦犯問題と国体(皇室)の危機の真相である。
一五〇年前、明治政府が犯した過ちは、払拭されたのであろうか。
否である。それどころか、日本は、その禍根をいまもなおひきずっている。
それが、保守精神の欠如である。
じぶんの頭で、国益や国是、国の誇りについて、自主的にモノを考えられない政治家や官僚が、アメリカや中国という"玉"をとりあい、いわば、大国の虎の威を借りて、親米や反米、親中などの旗をふりまわしている。
かつて、天皇の権威を借りて、国内で権力を奪い合った陸軍統制派・海軍英米派とすこしもかわらない。
保守は、国体の基盤に立つ、ということである。
政治家は、国益と国是のためにはたらき、国民やマスコミは、愛国心や公徳心を大事にする。それが、しぜんなすがたで、何ものからも支配されていないことが、保守精神なのである。
保守精神は、民族や国家の歴史、文化の総体たる国体に拠って立つ。
じぶんのうまれた国土、同胞、歴史、文化に心をおくことによって、はじめて、独立心や誇り、自信がうまれる。国体は、そういう情緒をとおしてあらわれるもので、国体を捨てて、じぶんの国に罵詈を浴びせ、アメリカに平伏し、中国に媚びるのは、日本を西洋より劣った国と見て、自国の歴史や伝統、文化の破棄を主張した岩倉欧米使節団のようなもので、始末に負えない。
国家は、権力という現実主義に、国体は、保守という情にささえられている。
自国の国体を愛することが第一で、そうすると、変革することより、変革しないことのほうに、現在より過去のほうに、より高い価値があることが、わかってくる。
それが、保守主義である。
国体の西欧化に反対して、西南戦争をたたかった西郷隆盛は、保守主義をつらぬいて殉死した。
現在の保守主義の欠如は、万世一系の天皇を政治的に利用している憲法をもち、天皇を権威として立てられない政治的風土と、西欧化(アメリカ化・グローバリゼーション)のなかにあって、国体意識を血肉化できない社会的風潮によって生じた、とわたしは、思っている。